捜神三国志・燭龍本紀
第二十四話 金目の野望
「この匂いは、なんなのだい?」
思わず鼻をつまむ祝融に、玄女は笑った。
「あまり吸い込まないほうがいい。神経をやられてしまうからね」
地下の薄暗がりにただよう、甘ったるい花の香りが、徐々に濃くなっていく。
張嶷のための薬草を採りに行く玄女を手伝って、祝融も、ともに玄女に付いてきたのである。
張嶷が匿われている部屋は隠し部屋になっていて、洞窟を模したその部屋を一歩出ると、すさまじい瓦礫の山が目の前に広がっている。
いままで見たこともない、無茶苦茶な空間であった。
壁という壁、柱という柱は、ほぼすべて打ち壊されている。瓦礫は山のように無造作に詰まれ、その間に、柱を飾っていたであろう、かつての地下の主たちの、等身大の彫像が倒れている。遠目から見ると、まるで人が倒れているかのように見える、厄介なものだ。
祝融が惹かれることには、そのよくできた彫像の顔つきが、どことなく自分たちの一族に似ていたことである。玄女が、古城を作った人々の子孫は、黒イの中に溶け込んでいった、と言ったが、やはり彼らの血は、自分の中にも流れているのかもしれない。
完全な破壊を受けたその空間は、柱がないので崩壊しそうなものであるが、うまくできていることに、倒れた柱が、まるで互いが互いを支えあうようにして、斜めになったり、途中まで砕けたりしながら、一本の柱の役目を果たしているのだ。そのため、あやういところで古城は、崩壊を免れているのである。
とはいえ、ふたたびこの空間の柱が破壊されてしまったら、古城全体の存続もあやしいものであった。
「帝の軍はここで古城に立て籠もった人間と衝突したのかい?」
「そうだ。ここは激しい戦場となった。ご覧」
玄女を指し示す方向を見ると、甲冑とおぼしきものが、人型のまま、壁にめり込んでいた。有り得ないことである。いったいどんな力が作用し、こうまでなったのか。
「帝はありとあらゆる兵器を投入した。古城の人間は必死になって対抗した。種の存続がかかっていたからね。攻める者、守る者、両方とも、太陽のないこの空間で、どんどん心を蝕まれていった。どちらかが、どちらかを完璧なまでに殲滅しなければ、済まないほどになっていたのだ」
「ひどいね。帝ってやつには、慈悲の心がなかったのかい?」
祝融が腹を立てて言うと、玄女は、何重にも巻かれた布の奥から、声をたてて笑った。
「どうして帝を責めるのだい?」
「たとえどんな敵だろうと、こんなところに追いつめられたら、あとは死ぬばっかりじゃないか。帝ってやつが、ちょっと慈悲を見せて、降伏しろ、と言っていたら、こんなひどい有り様には、ならなかったんじゃないのかい」
「おまえのような女が、あのとき、ここにいれば、事態はちがったかもしれないね、黒イの姫。しかし、おまえたちも、漢族と似たような殺し合いをしているじゃないか」
祝融は、ぐっと言葉に詰まりながらも、気の強いところをみせて言い返した。
「だけど、漢族はひどい」
「ひどいのは知っている。だが、おまえたちは、漢族ほどに穢れてないと言えるのかい?」
「あたしたちの土地を奪い、いまもなお家畜のようにあたしたちを攫い、そして殺すのは連中じゃないか!」
「そうして血を流し合って憎しみあった末が、この古城だよ。説教臭いことは言わない。だが、おまえは黒イをまとめる立場として、この場所を胸によく刻みつけておくがいい。いつか、おまえが肝心なときに、悲惨な歴史が生んだ、この光景を思いだせるようにね。
さて、あんまり声を荒げてはならない。奴に気づかれてしまうからね。この真下に奴はいるのだ。いつもは下で大人しくしているけれど、どんな拍子で上にやってくるかわからない」
「奴? だれのこと?」
その問いには、玄女は答えなかった。答えの代わりにこういった。
「知らないほうがいいよ。そのほうが、悪夢を見ないで済むからね」
わけがわからなかったが、祝融としても、この不安定な空間でだれかと口論するつもりはなかったから、黙っていた。
やがて二人は、大きな壁に突き当たった。
隙間なく、ぴしっと美麗に組まれた壁を突き破るように、見たこともない、露草を大きくしたような葉が生えている。これが薬草らしい。
「素手で触ってはいけないよ。肌が爛れてしまうからね」
玄女は言うと、手袋をはめて、器用に葉を摘み、籠にしまっていく。
「この草にはいわれがあってね、帝に迫害され、北方に逃げた、真の王家の人間さえここにもどってくれば、戦況がよくなるのではないか、と考えた古城の人間は、この草に託して、地上へ使者を放った。神のごときあなた方がいれば、わたしたちは生き残ることができる、と。しかし、使者は戻ることはなかった」
「薄情なものだね。王家の人間とやらは、どうなったのだい?」
「さあ。聞いた話によれば、一度は絶えてしまったそうだけれど、ふたたび血族同士で契りをむすび、家を復興させたらしい。
とはいえ、いまは、自分たちが王家の人間だということすら、忘れてしまっているらしいがね。そのほうがいい。覚えていたところで、なんの足しにもなりはしないのだから」
「そういうものかね」
言いながら、もはや朽ちてしまったのだろう、肉体は消え、死の気配だけが、いまなお濃く残る空間を、祝融は見回した。
彼らの無念が、闇をなお濃くしているように思えた。
※ ※
ゾトアオは、徐々に濃くなる甘い香りに、次第に脳髄がしびれていくような、危険な感覚をおぼえていた。巨大な円形の広間からつづく廊下は、これまた天井が、首を精一杯上げないと見えない、というほどの高さ。見事な彫像のほどこされた石柱が、等間隔にならび、沈黙のうちにゾトアオの訪問を歓迎しているようだ。
だが、進めば進むほど、甘い香りでむせ返るほどになり、まともに息ができなくなってきた。
腹も減ってきているのもあり、口だけで呼吸するのは、なかなか苦しいものがある。
このなんとも形容しがたい、甘ったるい香りを吸い込み続けると、意識が奪われてしまう危険すら感じていた。
いったい、なんなのか。
ゾトアオは、廊下の端に、きらきらと輝くものを見つけ、そこでようやく、自分が夢の中にでもいるかのように、朦朧と足を進めていたことに気づいた。
もしも香りに誘われていなかったら、ここまで奥深くに無防備にやってこなかっただろう。
きらきらと輝くそれに感謝しつつ、近づいていき、ゾトアオはさらに、感謝することになる。
人であった。人が倒れている。
しかもありがたいことに、生きているのだ。
見たところ、鎧装束一式のきちんと整った漢族の兵士のようだ。
「おい、どうした」
ゾトアオが助けあげると、倒れていた男は、うめき声と共に目を覚ました。額を強く打ったのか、血を流している。
「みず、を」
男の傍らには、水袋が落ちていた。ゾトアオは、もとめられるまま、男に水を与えた。
男は乳児のように、勢いよく水を含むと、しばらく呼吸を荒くしていたが、次第に落ち着いてきた。
「かたじけない。ところで貴公の名は?」
傷を負った兵士は、ゾトアオに、それでも尊大に尋ねてきた。これだから、漢族は、と苦りつつ、ゾトアオは答えた。
「俺の名はゾ…、いや、孟獲。おまえは何者だ?」
「わたしは、軍師将軍の命令で地下を探索している者だ。ほかに仲間がいたはずだ。ほかの連中は、どこへ?」
おそらく、兵卒長なのだろうその男は、孟獲に縋るように手を伸ばし、仲間の消息をたずねてくる。仲間を想う気持ちに、漢も黒イもない。孟獲は周囲をぐるりと見回し、ほかには人がだれもいないことを告げた。
「そうか。みな、奴に喰われてしまったのか」
「食われた、だと? 虎でもいるのか?」
「虎、ではない。あれは、化け物だ。巨大な…ああ、わからぬ」
男は傷が痛むのか、それとも錯乱しているのか、つよく体を震わせた。
医者の息子であったゾトアオには、この兵卒長を、早急に環境のよいところに移して、ちゃんとした手当てをしなければ、死んでしまうだろうことがわかった。こいつを担いで上に戻れるだろうか、と算段していると、兵卒長は、急に勢い込んで、ゾトアオにまくし立てるようにして説明する。
「我々は、軍師将軍の示された入り口より地下に潜った。第一階層を探索する隊と、さらに地下を目指す隊に分かれたのだ。
われらには地図があった。最初は順調であったのだ。第二階層、第三階層と…もしかしたら、このまま最奥と呼ばれる第九階層にまで行けるのではなどと、軽口を叩くほどで」
と、そのときの様子を思い出したのか、男は苦い笑みをこぼした。
「第四階層は、破壊がひどく、地図がまったく役に立たなかった。盗賊どもが荒らした、などという生易しいものではない。こんな地下で、むかし大戦が起こったのだとしか思えないほどであった。壁という壁、柱という柱が打ち倒され、まったく別の空間になっておった。
そこからだ、狂い出したのは。我らはそれでも地下につづく階段を見つけた。第五階層目…盗賊どもも、まだたどり着いていない空間だ。我らが興奮したのもわかるだろう? だが、そこに、奴がいた。巨大な、蜘蛛が」
「蜘蛛?」
鸚鵡返しにしたゾトアオだが、不意に、目の前の男の顔が恐怖に強ばった。
「奴だ!」
振り返るより早く、ゾトアオは声に反応した。するどい鉤爪が、ぎりぎりに振り下ろされる。
「助けてくれ!」
兵士が救いをもとめて手を伸ばしてくる。助けようと、身を起こしたゾトアオであるが、それよりも早く、二本目の鉤爪が、兵士の体がまるで粘土であるかのように、あっさりと体の芯を突き破った。
ゾトアオは舌打ちし、その姿を見た。
異様に甘い香りを漂わせたそれは…蜘蛛、なのか? 巨大に発達した足を持つ奇妙な生き物であった。背中には強烈な芳香をはなつ花があり、それが体に食い込むようにして根を張っている。
「反則だろう、こんなのは!」
だれに言うとはなしに言って、ゾトアオは剣を抜き放った。それに応じるように、巨大蜘蛛はチキチキと鳴き声をたてた。
おぞましいことに、いくつもある足の何本かには、犠牲になったとおぼしき兵士たちの体の一部が、いまだに突き刺さったままになっていた。こんな怪物に襲われたら、たしかに訓練された兵士とて敵いやしなかっただろう。
それはゾトアオとて同じことだ。
ゾトアオは地面を蹴り、蜘蛛の足を抜けるようにして、回廊を逆にたどりはじめた。
逃げるしかない。
蜘蛛は、ちきちきと鳴き声をたてて、ゾトアオをゆっくりと追いかけてくる。
振り向くと、ふつうに走ってくるのではなく、蛙のように、ぴょん、ぴょんと跳躍しながら、徐々に距離を詰めてくる。
舌打ちをして、それでも懸命に足を動かしつづけると、ようやく、最初にたどり着いた巨大な円形の広場にたどりついた。
ゾトアオは、そのまま広場を突っ切って、あの狭い長くて腹の立つ階段を、戻るつもりであった。あの狭さならば、蜘蛛は入ってこられまい、と思ったのだ。
円形の広場にたどりついたとき、不意に、りん、りんと、場違いなほど美しい鈴の音が鳴った。
柱の影から、それは聞こえてくる。なんだろうと、背後に迫る蜘蛛を気にしつつ、息を殺していると、ひょこっと、漢族のちいさな男の子があらわれた。美しい鈴の音は、その少年の持っている、古い銀色の鈴から放たれている。
背後が急に静かになり、ゾトアオが振り返ると、蜘蛛はぴたりと足を止めて、鈴の音に聞きほれるようにしてじっとしている。
ゾトアオは、全身の力が抜けるほど安堵した。
「助かったぞ。このまま食われてしまうかと思うた」
だが、ゾトアオのことばに、少年は答えない。素朴でありながら、まったくの無表情のままの顔に、ゾトアオは薄気味悪さをおぼえつつ、愛想笑いを向けて見た。
「すごい鈴だな。原理はさっぱりわからぬが。ところで、坊主はなんでこんなところにいるのだ?」
少年は、ゾトアオの言葉に、はじめて感情をあらわにした。
ぎゅっと眉根をよせ、嫌悪の表情を見せたのである。
とても十歳かそこらの少年ができるような、生半可な表情ではない。思わず退くと、少年は力を得たようにして、一歩、前に進み出た。
「だまれ、蛮族! 我は貴様に斯様な口をきかれるような、落ちぶれた者ではないぞ!」
言葉のはげしさにもそうだが、なによりゾトアオがうろたえたのは、その少年の口からこぼれた声が、まさに大人のそれであったことだ。どう見ても子供であるのに、声だけが立派な大人の男の声なのである。
こいつは、味方じゃない。
古城に長くいたおかげで、勘が研ぎ澄まされている。
さらに一歩、後退したゾトアオに、少年はにやりと、不気味な笑みを見せた。
「おまえも奴に食われてしまえ」
もし、ゾトアオが、少年を敵と見なさないで、うろたえるばかりであったなら、鉤爪をかわすのが間に合わなかったことだろう。
ゾトアオを狙った鉤爪は、ぎりぎりのところで振り下ろされた。壮麗な装飾を施された床に、無情に鉤爪の跡がつけられる。
階段へ。
ゾトアオは飛び込むようにして、階段の入り口へ飛び込もうとした。
蜘蛛は、ちきちきと鳴きながら、あわてる様子もなく、柱のひとつを、薙ぎ払うようにして折った。
とたん、柱が崩れると、その支えていた天井や石、彫像などがいっせいにゾトアオめがけて降ってきた。
ゾトアオは、足がすくんで、動くことができなかった。
まず、石のかけらが頭にぶつかった。
視界がぐるりと回転し、体のあちこちに衝撃が走る。
そして、どこか遠くから、「あーあ」と、無邪気で冷酷なぼやき声が聞こえた。
※ ※
露草は、むしりとるごとに、茎から大量の粘液が出た。
それはまるで、壁が血を流しているようにも見えて、気味のいいものではない。
玄女は、この粘液こそが効くのだといい、もくもくと露草をむしっていく。祝融は傍らで、玄女のむしった草を受け取って、丁寧に籠のなかにしまっていく。
ふと、その手が止まった。
「おや、なにか動きがあったようだよ」
玄女のつぶやきに、祝融は眉をひそめて、静けさに満ちた空間を振り返る。
動くものなど、二人のほかに、なにもない。
いや…
祝融は、朽ちた空間の向こうに、篝火が灯されているのを見て、仰天した。だれかが入ってきているのだ。
それこそ第一階層は、古城の財宝伝説に惹かれてやってきた盗賊たちでひしめきあっている、という具合であったが、この第四階層では、人と会うことが絶対にない、という思い込みで行動していた。
しかし古城の入り口が九つもあり、毎日、大勢の盗賊たちが潜ってきているのであれば、そのうちの一部が、第四階層にたどりついても、なんら不思議はない。
玄女は、慣れた風に瓦礫に身を隠し、祝融もそれに倣った。
篝火は、だんだん近づいてくる。ゆったりした足音が近づいてくるたびに、なぜかひどく胸が苦しくなった。
そんな祝融の胸のうちを察してか、玄女はかたわらで、小さく言った。
「なにを見ても、声を上げてはならない。我慢をおし。いいね」
どういう意味なのか、わからなかったが、祝融は大きく肯いた。
そして、いらいらするほどにゆっくりと近づいてくる篝火が、祝融たちの隠れる瓦礫の山に近づいてきたとき、玄女の言葉を、最悪の形で理解した。
篝火を持っているのは、人間ではなかった。
いや、以前は人間であったのだろう。肌はぶきみに変色し、腹は腐って膨れ上がり、体のあちこちが腐食したのか、あるいは戦いの傷跡か、肉がえぐれている部分すらある。それが、篝火をかかげながら、のたり、のたりと歩いているのだ。
その後ろを、対照的に身奇麗な道士ふうの男が、気取ったふうにあるいていく。
背の高い、青白い肌をもつ、目鼻立ちの通った、二十代後半くらいの男であった。伏目がちに歩いているが、それが、急に祝融たちの瓦礫のそばまでくると、かっと目を開いた。
祝融は、自分が自然と、剣の柄をにぎりしめていたことに気づいた。
男がもしこちらに向かってくるようならば、戦うつもりであった。
しかし、男はぐるりと周囲を見回し、軽くまゆをひそめる。
「ふむ…食ってはならぬぞ。巣へつれていけ。素材になるからな」
誰に言っているのかわからないが、男はそうつぶやいた。男の前を行く化け物が、声に振り向いたが、男はそいつには声をかけていない。
化け物が、不思議そうに首をかしげると、男はようやくそいつに語りかけた。
「また客だよ。しかし、ここは構造が複雑になりすぎた。すべての入り口の守りを固めるのはむずかしい。おまえたちは、互いを見るとすぐに殺し合いをはじめてしまうので、守りにはならないし…」
と、男は自分で自分の言葉に苦笑する。
「そういうふうに仕立てたのは俺か。だが、我らが従兄殿の部下の始末はできたから、これはよしとしよう」
おどろいたことに、男のことばに応じるように、化け物が声を発した。
言葉にはなっていないが、なにか答えたようである。その不気味なうめき声が、朽ちた空間に響き渡る。祝融は、吐き気をこらえるのに苦労した。
「わかっているとも。さて、先を急ぐとするか。あの子がひとりで退屈しているといけないからな」
悪意のある笑みをこぼし、男はそう言うと、さらに足を進めた。
巨大に広がる壁の途中に、ぴたりと手を当てる。
そして呪文らしい言葉を唱えると、なにもなかったはずの壁が開き、男と化け者は、そこから中へと入って行った。
「また、面倒な人間が古城に入ってきたものだ」
と、玄女は、彼らが行ってしまうとつぶやいた。
「あいつらを知っているの?」
玄女は、彼らの影がまだそこに残っているかのように目を向けたまま、答える。
「古城の王家の人間が、いまさら戻ってきたらしい。しかも、ろくでもないことを企んでいるようだ」
そう言うと、玄女は立ち上がり、彼らが開いた壁の中まで、飛ぶようにして急いだ。祝融も、わけがわからないまま、それにつづく。
壁が開かれたあとには、地下につづく階段が口をあけていた。甘い香りが、さらに濃くなり、祝融の鼻腔を麻痺させる。
玄女がくぐもった声で言った。
「奴らを追おう。なにをしようとしているのか、見極めねばならぬ」
瓦礫の山に、突然、幻のようにあらわれた扉に向かい、玄女は平然と歩をすすめる。
勇敢な祝融であるが、さすがに玄女のように、振る舞うことはできなかった。
ふと、張嶷が休んでいる洞窟のほうを振り返る。
間道の、さらに脇に隠れるようにしてある洞窟は、玄女が薬草をとるときに、使っている小部屋だという。盗賊たちが下りてきて、あの部屋を見つけたりしないだろうか。
「どうするのだい、黒イの姫。おまえは戻ってもよいのだよ?」
おそらく玄女は思いやりでそう言ったのであろうが、祝融には、挑戦されたように聞こえた。
「行くよ。あんた一人を行かせるわけにはいかない」
「無理をしなくてよいのだがね。ただ、物音を立てないように気をつけておくれ。あいつは、物音に敏感なのだ」
「それって、さっきの男がつれていた、薄気味悪いヤツのことかい?」
「そうじゃない。もっと厄介なものさ」
そういって、玄女は、腰から提げていた籠から、あざやかな黄緑色の葉を取り出した。
「これを噛んで、口に含んでおいで。飲み込んではいけないよ」
祝融は、この奇妙な小躯の老婆をすっかり信用していたので、素直に葉を受け取ると、それを口に含んだ。
とたん、吐き気がこみ上げる。
肩を震わせ、吐き出そうとする祝融を、玄女はするどく叱った。
「それを口に入れておけないのなら、ついてきてはならない。どうする?」
祝融は挑戦されたなら、けして引かない女だ。
炎の女神の末裔の名にかけて、引き下がることなどできようはずもない。
こみ上げる吐き気をぐっとこらえて、祝融は、まなざしを強くして、言った。
「行くよ」
玄女は、こくりとうなずいて、極彩色の鳥の羽のように揺らぎをみせる、ふしぎな扉をくぐっていく。
祝融は、玄女にならって、しっかりした足取りで、いつもの女王然とした歩みで扉をくぐった。しかし、くぐった瞬間に、強烈な不安におそわれ、思わず振り返る。
扉は消えることなく、瓦礫の散乱する階層は、しずかにそこにある。
「大丈夫だよ」
と、玄女はちいさな声で、祝融に言った。
祝融は、周囲に目を配りつつ、薄暗い階段の壁伝いに、ゆっくりと、一段一段を、踏みしめるようにしてすすむ。
なにがある、というわけではないが、首の裏あたりから、じっとりと汗ばんできた。
「ここは、魔法にあふれているね。正直な気持ちを言っていいかい?」
「正直者は好きだね」
「ここは、潜れば潜るほど、恐怖がつよくなってくる。虎の巣穴をのぞいたって、これほど怖くないだろうよ」
「おまえの勘は正しい。ここは、けして下りてきてはいけない場所なのだ。もう、この世ですらない」
玄女の言葉に、祝融はぞくりと身を震わせる。
「気味の悪いことを言わないでおくれ。あの世だとでもいうのかい?」
「そんなものさ。さあ、そろそろおしゃべりは控えるよ。口の中の、その苦草を噛んで、意識を目の前のものに集中させるのだ。
なにを見ても、声をたててはならない。耐えられなくなりそうになったら、草を噛みしめるのだ。いいね?」
「わかったよ」
いつにない玄女の迫力に、祝融はうろたえつつも頷いた。
階段は、さらに下へ下へとつづき、濃厚な甘い香りがいっそうつよくなってくる。口の中の草のまずさも耐え難いが、この甘い香りを嗅ぎつづけなければならないのも耐え難い。
そうして、頬のあたりに避けていた草を舌先で舐めると、ふしぎと、苦さよりも、甘い香りがやわらぐ感覚のほうをつよくおぼえた。
階段は、ところどころ崩れ落ちてはいたが、もともとの作りがしっかりしていたお陰か、階段としての機能を残している。
足元に注意しながら進むと、やがて、行く手が見えてきた。
玄女が入り口で立ち止まり、身をかがめる。
そうして、祝融にも、それに倣うようにと、手ぶりで示してきた。
祝融は、豹のような足取りで、そおっと身を屈め、わずかに明るい出口から、あらたなる階層をのぞいてみた。
地下にいけばいくほど、普通ならば,
暗くなるものであるが、ふしぎと、その階層は明るい。
どういう構造になっているのか、目の前には、千年杉以上の高さをほこる、白亜の円形の広場があった。
さらにいかなる魔法をつかっているのか、その空間は、さきほどまでいた瓦礫の山とは打って変わって、屋外の昼間のように明るかった。
空間の全体が、苦もなく見渡せるほどだ。
見あげると、円形の広場の、やはりきれいな円をえがく天井の中央に、巨大な白い玉のようなものがはめ込まれており、それが満月のように、淡い光をはなって、全体を優しく包んでいるのである。
柱という柱には、装飾が施されており、それは等身大の人の姿、神官や、戦士の姿をかたどっていた。
その壮麗なつくりに、祝融は思わず甘い匂いによる不快感をわすれ、しばらく見とれていた。
破壊しつくされた第四階層を見たあとだけに、この円形の広場を有する第五階層は、死の気配がさほど感じられない。
ところどころ、無残な破壊のあとはあるけれど、それでも昔日の、美麗なままの姿を十分にとどめているからだろうか。
「獲物がかかったか。しかし小物だな」
さきほどの、不死者を従えた、不気味な男の声が、広場にひびいた。
祝融がそおっとのぞくと、崩れ落ちた白亜の岩の周りに、さきほどの、青白い肌の男と、見ているだけで怖気がたつほどの不死者と、場違いなほどに素朴な顔をした、十歳ほどの少年が立っている。
そして…
少年の背後にいるものを見たとき、祝融は息を呑み、悲鳴をあげようとする己の唇を、ぐっとかみ締めて我慢した。
丘ほどの大きさのある、巨大な蜘蛛であった。
その背には、甘い匂いの原因となっている、不気味な色合いの花弁を持つ、大きな花が咲いている。
花も、これだけ大きいとおぞましさしか覚えない。
まして、この匂いだ。
「頑丈なのはよいことだ。おそらく、よい素材となるだろう。掘り出せ」
青白い男はそんなことを言いながら、瓦礫の山をさして、不死者に命令をする。不死者は、咽喉の奥のほうから、不気味なうなり声をあげて、粗雑に瓦礫をかきわけていく。
まるで綿を持ち上げるように、かるがると、樽ほどもある岩をどんどん取り除いていくのだ。
やがて、瓦礫の下に埋もれたものが姿をあらわしたとき、祝融はまたも声をあげそうになった。
あの巨体は、まちがいない。
『ゾトアオ!』
声にならない声で、祝融は黒イの長の名を呼んだ。
もちろん、ゾトアオにはその声は届かない。
ゾトアオが姿を見せると、それまで大人しくしていた蜘蛛が、チキチキと声をたてて、足をうごめかせた。
その足には、漢族の兵士のものとおぼしき、死体がいまだにくっついている。
「おとなしくしろ、こいつはまだ生きている。漢族ではないようだ」
青白い男は、蜘蛛を叱ると、床に伏したままのゾトアオの身体を蹴った。
それを見た瞬間、祝融は、かっと頭に血がのぼり、飛び出そうとしたが、傍らの玄女に、つよい力で掴まれた。
玄女は、全身を覆う布のあいだから、双眸だけを見せて、つよく首を横に振った。
冷静におなり、とその目は告げていた。
「黒イ…かな。この鎧の色と、長剣は。この古城には、さまざまな民族が集まってくる。まるで祖霊に会いに来るかのように」
唄うように、青白い男は言う。
朗々とした、よく通る声だ。
肌の青白さがさらに際立って見えるのは、天井からふりそそぐ、淡い光のせいだろう。
こんなやつが、古城を作った住人の、王家の末裔?
風貌自体にまずいところはなかったけれど、祝融のもとめる『王』の姿と、その男とでは、あまりに隔たりがあった。
痩せすぎている。
従者にろくなものがない…化け者蜘蛛、不死者、子供…
そして威厳がない。
「我らが居城へ連れて行こう。喬、蜘蛛に、こいつを食わないで、巣へ運べ、と命じるのだ」
しかし、喬、と呼ばれた子供は、まったく反応せず、じっとゾトアオを見下ろしている。
その小さな顔には、なんの表情も浮かんでいない。不気味なほどに。
「聞こえぬのか、蜘蛛に命じろ、と言ったのだ」
喬は動かない。
立ったまま、死んでしまったかのようだ。
業をにやした男は、片手を喬の額にかざすと、声を荒げて叫んだ。
「風の王に命ずる! 動け!」
とたん、青白い電光が、まるで小さな蛇のようにぴかっと光ったかと思うと、その衝撃で、少年は、かっと目を開き、それからゆっくり動き出した。
それでも、子供らしい俊敏さは、まったく感じられない。
青白い男は、のろのろと動き出した子供に、侮蔑の眼差しを向ける。
「おまえも所詮、出来損ないだ。こいつらとはちがって、まだ見てくれがいい、というだけの話だ。よいか、すぐに我らの元へくるのだぞ!」
男は、少年に、憎しみのこもった眼差しを向ける。
そうして、忌々しそうにつぶやきながら、広場の奥につづく回廊へ入っていった。
「俺が、あの名前ばかりの従兄より劣っている、というのか! そんなこと、あろうがずがない」
つぶやきながら、青白い肌の男は、不死者を伴って、回廊の奥に消えていき、あとには、のろのろと動く子供と、このうえなくおぞましい姿を見せる巨大な蜘蛛と、気を失ったままのゾトアオが残された。
子供は、なんの表情もみせず、まるで見えない糸に操られているかのようなぎこちない動きで、手にしていた、組みひもの先についた、古びた銀の鈴を、りん、りんと鳴らす。
それは、その広場に似つかわしい、澄んだ美しい響きであり、
蜘蛛と、可愛げのない子供には、まったく似つかわしくない音であった。
その音に反応するように、蜘蛛はチキチキと鳴きながら、ゆっくりと足を動かし、ゾトアオへ近づいていく。
そうして、器用にゾトアオの身体を前の二本の足でもって、床に転がすと、口と思しきところから、しゅう、しゅうと糸を吐き出した。
その脇で、子供はなんの興味もなさそうに、それでもじいっと、白い糸に包まれていくゾトアオを観察している。
単調に、りん、りんと鈴が鳴らされる。蜘蛛は鈴の音にしたがっているのだ。
が、蜘蛛は足を止めると、ゆっくりと、まるで人の怨霊が、そのおぞましい身体に宿っているかのような、人間的な動きをみせた。
蜘蛛が、足を止めて、おのれを操る、古い銀の鈴の持ち主を見たのだ。
子供は、蜘蛛の異変に気づかないでいる。
不意に、蜘蛛は、片方の手を掲げて、脇にいる子供をつよく跳ね飛ばした。
子供は、あっさりと薙ぎ払われ、白亜の柱に打ち付けられた。
おのれを縛るものから解放された蜘蛛は、今度は目の前にいるゾトアオを見下ろす。
今度は糸を吐かない。チキチキと耳障りな音を立て、牙にも似た、複数の歯のようなものをうごめかせ、ゾトアオに喰らいつこうとする。
祝融は、もう黙っていなかった。
「させるか!」
いいざま、長剣を抜き放つと、豹のように瓦礫と瓦礫のあいだを身軽に飛んで、蜘蛛の真正面に立つと、剣を振りかざし、その毒牙から、ゾトアオを護った。
しかし蜘蛛も、何本もある足を器用にうごかして、目の前にあらわれた障害物をなぎ倒そうとする。
その鋭い切っ先を、まず剣で払い、そうして視界の端から飛んできた、もう一本の足が頭上から振り下ろされるのを、身体をやわらかく捻ってかわした。
「ゾトアオ! 起きるのだよ! ゾトアオ!」
うすい糸に包まれて、繭のようになっているゾトアオは、祝融の声にわずかに反応し、ちいさくうめいてみせる。
それを見て、祝融はほっとした。
よかった、生きている。
蜘蛛は、上体を大きくそらして、渾身のちからでもって、祝融を串刺しにすべく、両の足を振り下ろしてきた。祝融はそれを、見事な後方宙返りでかわすと、白亜の瓦礫の影にかくれた。
狙いをはずして怒った蜘蛛は、苛立ちまぎれに目の前にある、白亜の瓦礫を薙ぎ払う。
そうして、さらに猛禽のようにすばやく移動する祝融を捕獲すべく、口から白い糸を大量に吐き出した。
祝融は、白鷺のように飛び上がってそれをかわし、さらに蜘蛛の後方に回った。
目の前に、祝融が両腕を広げたくらいに大きな、極彩色の、気味の悪い花がある。
蜘蛛の背にしがみ付くように根を張っているそれは、耐え難い臭気を吹き出してきた。
吐き気をもよおす、甘い香りがつよくなる。
玄女にもらった苦草を噛みしめていなければ、むせかえって、戦うことができなかっただろう。
奥歯で、つよく苦草を噛み、祝融は、蜘蛛の背後にある巨大な花の、その中心めがけて、剣を付きたてた。
とたん、花弁が跳ね上がって、刀身を包み込む。
柄の部分だけがかろうじて、花弁からはみ出ている状態だ。
武器を取られる!
焦った祝融は剣を引き抜こうとしたが、花弁は、それがまるで一本の腕のようにからみつき、剣を放そうとしない。
ままよ。
祝融は引っ張ることをあきらめ、そのまま、剣をさらに深く奥へと突き刺した。
とたん、花は、身を捩じらせるようにして暴れだし、その衝撃が蜘蛛に伝わったのか、蜘蛛もまた、何本もある足をばたつかせて、苦悶に耐えている。
あとすこし!
祝融は、全身を覆う臭気に必死で耐えながら、さらに剣を奥へと突き進めた。
耳をつんざくような、女の断末魔を思わせるような、おそろしげな悲鳴が広場を反響した。
やがて、蜘蛛は、嘘のように動かなくなった。
勝ったのだ。
安堵した瞬間、こらえていた吐き気がこみあげてきて、祝融はたまらず、嘔吐した。
花の香りは、動きを止めても、まだ漂っている。
「よくやった! 教えなかったのに、よく花に気づいたね!」
と、玄女がやってきて、はげしく咽る祝融の背中をやさしく撫でる。
「この花は、この世にはあってはならない呪われた花なのだ。
土に芽吹くのではなく、生き物の身体に寄生して、花を咲かせる。
そうして、養分を得るために、宿主の身体に異常な知能と力をあたえ、生き物を狩らせ、自分の命を長らえさせる。この花は、そのために長い長い年月、咲きつづけることができるのさ」
「そんなの、花じゃないよ。花は、散るからこそ、美しいといわれるのに」
はげしくむせ返りつつ、祝融は、おのれを苦しめた花を振り返った。
たとえ長い年月を過ごすことができようと、こんな醜い姿をさらして生きるのならば、短命なままで十分だ。
「ゾトアオは? それと、あの坊やはどうしただろう」
「おまえさんの仲間は無事なようだよ。だが、あの坊やは、どうだろうね」
言いながら、玄女は、柱に寄りかかるようにしている喬のほうへと向かった。
祝融は、それを横目で気にしながら、ゾトアオのほうへと向かった。
薄く張られた白い糸をかきわけ、見慣れた仲間の髯面をぺちぺちと叩く。
「ゾトアオ、ゾトアオ、わたしだよ、わかるかい?」
ゾトアオの声からうめき声が漏れる。額を打ったらしく、怪我を負っているが、頑丈なのは伊達ではなく、たいしたものではなさそうだ。
「よかった、おまえがいなくなったら、黒イは、まためちゃくちゃになってしまう」
祝融は、血の気のないゾトアオの頭を膝にのせて、懐に入れていた、きれいな布で、そのよごれた顔をぬぐってやった。
ゾトアオは気が付いたらしく、掠れた声で、祝融に声をかけてくる。
「なんだい?」
「いまの、ことば…ほんとうに、そうおもうか?」
「当たりまえじゃないか」
ゾトアオは、蒼い唇に、満足そうな笑みを浮かべた。
「なら、言ってもよいか?」
「なんだい?」
ゾトアオが、薄く目を開き、目の前の、優しげな微笑を浮かべる、美しい黒イの姫を見上げる。
「おれの妻になってくれ」
とたん、祝融は、膝に乗せていたゾトアオの頭を、乱暴に跳ね除けて、立ち上がった。
ごん、とゾトアオが後頭部を床にぶつけた音が響いた。
「どさくさまぎれ、とはこのことだ。ふざけたことを言う元気があるなら、さっさと立ったらどうだい!」
「怪我人に、なんてことをしやがる!」
「医者の息子のくせして、自分の身体の加減もわからないのかい? わたしにばかり闘わせておいて、自分はちょっとかすり傷を負っている程度じゃないか! そんな頼りのない男なんて、願い下げだよ!」
いいざま、祝融は、喬の介抱にむかった、玄女に声をかける。
「どうだい、そっちの坊やは?」
玄女は、柱にもたれた状態の少年の、顔のあちこちに触れて、なにやら困っているようだ。
「よくないのかい? つよく打ったとか?」
「いや、そんな生易しいものじゃないよ。死んでいる」
「ええ?」
祝融は、瓦礫を飛び越えて、少年の前に屈んだ。
ぞっとしたことに、人形を思わせるその顔は、目をぱっちり開いたまま、微動だにしない。
「でも、生きているのだ。身体はこんなに冷え切っているのに、この子は呼吸をしている。眼球も動いている」
「そんな莫迦な状態があるものか。診せてみろ」
ここぞとばかり、ゾトアオが、玄女と祝融を押しのけて、喬の身体に触れる。
しかし、その異常なほど白い肌に触れたとたん、ゾトアオは、蛇の身体に触れたかのように、ぞくっと身を震わせた。
「こいつは、たしかに生きている人間の身体じゃないな。だが」
ゾトアオは、少年のまぶたを開き、眼球を見、それから、鼻と口に手をあてて、呼吸をたしかめた。
「寝ているだけだ」
「どういうことだい?」
祝融の問いに、玄女とゾトアオは顔を見合わせた。
どちらにも、祝融の問いかけに答えることができなかった
「ともかく、ここに置いていくことはできない。さっきの連中が戻ってくるかもしれない。
ゾトアオ、その子を運んでくれないか。張伯岐の容態も気になるし、いったん、第四階層に戻ったほうがよさそうだ」
「運ぶのはかまわぬが、なんだ、その張伯岐とかいうやつは!」
「うるさいね、あたしの恩人だよ! いいから、さっさとおし!」
わあわあと、若い黒イの長と姫がやり合うなかで、玄女は、喬の手にしていた、古い銀の鈴を拾い上げた。
そうして、低くつぶやく。
「こんなものまで、見つけてしまったのか…金目の一族よ、おまえたちの役割は、もうここでは果たせないというのに」
そうして、ちりん、と揺れる鈴の音だけが、静寂の戻った広場にひびいた。
「おや?」
孔明が、不意にきょろきょろと周囲を見回す。
「どうなされた、軍師将軍」
董和が問いかけると、孔明は柳眉をしかめて、ふしぎそうに首をひねった。
「いま、鈴の音が聞こえたような」
「鈴? いや、あいにくとわたしには何も聞こえなかったが」
「左様か…空耳のわりには、ずいぶんはっきり聞こえたのだが」
夕暮れが近づき、そろそろ屋内も暗くなってきたので、仕事を切り上げるころになっていた。
しかしおどろいたことに、孔明と、その周囲に仕える文官たちの仕事を処理する速度はまったく衰えず、むしろ、日が暮れる前に、より多くの仕事をこなそうと、もっと速さが増してきた。
おそらく、荊州時代から、孔明の仕事というのは、そういう異常な熱心さでもって処理されてきたのだろう。
それに慣れている、荊州から付いてきた文官たちは、平然とそれに付いて行っているのだが、あらたに益州から加わった文官たちは、ただぼう然と、手持ち無沙汰にそれをながめているだけである。
『ひどい落差だな』
と、董和は思った。
益州出身の文官たちを責めることはできないだろう、と董和は思う。ちゃんと、朝から晩まで、職務をこなしているのであれば、巴蜀の役人のなかでは上等なほうだ。
孔明たちが異常なのである。
いや、これが天下の時流の早さなのかもしれない。
そう思うと、いかに山岳のなかにあって、巴蜀ばかりが、ぽつりと置いてけぼりを食らっていたのかがわかる。
のんびりしていてよい、などと、平時ならば評することもできようが、三つの勢力がしのぎを削るいまのご時世で、そんなことは言っていられない。
まずは、益州の人間の意識を変えることからはじめなければ、いつまでも益州と荊州の差は埋まらないだろう。
そして、もうひとつ。
孔明は、おそろしく記憶力がいい。
部下たちに細かく指示をくだすのであるが、なにがどこにあるか、人の名前から、物品の所在、数、すべてを正確に把握している。
いちいち書面を見て確認する必要がないので、いっそう、仕事の手際が良い。
しかし孔明は、自分がこれだけできるのは、当たりまえのことだと考えているフシがある。
考えてみれば、劉備の配下には、文人より武官のほうが圧倒的に多い。
だからといって、文官の出番がないわけではなく、むしろ逆で、少ない数で、大量の仕事をこなさなければならないのだから、個々人の能力は鍛えられ、否が応でも高い水準の能力が身に付く。
孔明は、鍛えられた人々のなかにあって、軍師として迎えられたのであり、そうではない文官、というものを、もしかしたら、知らないのではないか。
だから、仕事を流すときに、益州の文官たちは後回しで、荊州の文官たちに優先して指示を出す。
そのほうが早いからだが、そうなれば、なにも仕事を与えられないでいる益州の文官たちは、手持ち無沙汰なうえに、決まりが悪く、不満ばかり膨らませていく。
一日、左将軍府を見ているだけで、あきらかに荊州と益州の差、というのがはっきりわかる。
時間が経てば経つほど、さまざまな問題が、あきらかになっていくだろう。
『これは、どうしたものかな』
益州の文官たちは、けして愚鈍ではない。
ただ単に、孔明たちの仕事の早さに戸惑っているだけだ。
実務が優先されるのはもちろんだが、孔明がそれに対して、ただ付いてこい、というだけで放っておいている状態ならば、やがて彼らは反発するばかりの使えない人間に成り下がってしまうだろう。
いきなり早さに慣れろ、というのは無理なのだ。
『わたしが面倒を見るか』
董和には、孔明の仕事の早さに、付いていける自信はある。
だが、仕事が早ければ、それが一番良い、という単純なものでもない。
流れ作業的にこなしていく仕事のなかには、本来ならば見落としてはならない、ちいさな訴えが潜んでいるかもしれない。
速さばかりを基準にすると、ちいさな兆しをうっかり見逃してしまう。それがのちのち、大きな問題になって噴出する、ということはままある。
簡単な作業、というのが、じつはいちばん慎重にしなければならないのだ。
『実務は軍師にお任せするとして、われらがそれを精査する、というのはどうだろう。精査することにより、益州の文官たちにも、荊州の仕事のやり方がわかるであろうし、互いに交流が生まれることだろう。
徐々に慣らしていって、人材を混ぜるのだ。そうして、全体の水準を引き上げていくしかあるまい』
それを孔明が了承するか、だが…
文官のひとりが、必要な書類がそろわない、と訴えてきた。
孔明は、それを聞くや、
「たしか書庫の右から三番目の棚の、上から二番目の端の、決算書の写しの隣に置いてあったかとおもうが」
と打てばひびく、というふうに答えた。
事実そのとおりの場所にあり、その場にいた文官たちは、驚きをとおりこして、不気味なものを見るように、孔明を見る。
孔明は完全に仕事に集中しており、だれの視線にも顔を上げることはない。
『この人があまりに凄すぎる』
孔明に慣れているはずの文官たちでさえ、孔明に対し、畏縮しているのがわかる。
孔明の能力が高すぎるので、彼らは盲従的な態度をとることしか、できないでいるのだ。
いくら能力が高いとはいえ、人間は人間。誤りもあるはずだ。
だが、孔明に付き従う者たちは、『このひとが、間違うはずがない』という思い込みを前提に動いているように見える。これは危険だ。
『軍師が倒れたら、全体が倒れる。あやうい話だ。
もしわたしが魏や呉の人間ならば、毎日のように軍師に刺客を送るだろうな。
軍師なくして成都は動かぬ。法正も、実務をそこそこにこなすであろうが、これほどの速さで処理することはできないであろう』
いま、目の前にいる青年こそ、おそらく後世に名を残す英雄のひとりになるであろう。
それはまちがいない。
董和は、この一日で確信した。
孔明の能力の高さもそうであるし、なにより、孔明をとりまく人々の、生き生きとした眼差し、そして向けられる信望の厚さ。
これほどの若さで、多くの人々の絶大な信頼を得ているのだから、たいしたものである。
だからこそ、優秀であるがゆえに抱えているあやうさを、だれかが支えなければならないのだ。
ふと、いまは視察に同行している、という一人息子の休昭の顔が浮かぶ。
『もともと免官になって、隠居生活すら覚悟していたのだ。いまさら、孤立を恐れることもない。
それに、わたしがここで踏ん張れば、わたしには何もなくても、休昭の栄達の助けになるかもしれぬ』
財貨はいらない。ただ、董和のもとめるものは、息子が世間並み以上の、幸福な人生をおくってほしいという、その願いだけであった。
ふと、それまで猛然と職務をこなしていた孔明が、手をとめて、また周囲を見回す。
「ほら、聞こえたでしょう。あれは鈴の音ですよ」
だが、やはり董和の耳には、なにも聞こえなかった。
「軍師、今日はもう暗くなってきたのだし、そのあたりで切り上げては如何か」
うむ、と孔明は、書面をみやり、なにやら惜しそうな顔をしたが、董和のことを考えてか、いささか疲れてはいるものの、おだやかな笑みを浮かべて答えた。
「さようでございますな。今日はこのあたりにするといたしましょう」
筆をしまいつつ、孔明は、いたずらっぽく尋ねてくる。
「如何でしたかな、わが左将軍府は」
「いや、たいしたものだ。正直、素直に感嘆いたした」
「そうでしょう。これから、あなたの職場でもある。明日からは、ちゃんと席も用意させましょう。
なにかほかに入用があったら、遠慮なくおっしゃってください。すぐに用意いたします」
人に対する配慮が細かいのは、この男の最大の美点だろう。
孔明が片づけをはじめると、ほかの文官たちも、ほっと息を抜いて、おもしろいくらいに一斉に片づけをはじめた。
まさに左将軍府が、諸葛孔明というたったひとりの青年に、集約されていることの証しでもある。
部屋を退出する孔明のあとにつづきつつ、董和は、なにもかも明日からだな、と気合をいれた。