捜神三国志・燭龍本紀
第二十三話 董幼宰、左将軍府に行ってみる
孔明のつれてきた料理女の、どこか淡白な味の料理に舌鼓を打って、孔明がてずから煎じたという薬をもらって飲み、そうして寝床についた董和であったが、朝方、まだ陽も明けきらないうちに、目が覚めた。
それというのも、隣の物置部屋となっていた、せまくて冷える部屋のほうから、獣が絞め殺されるような声がしたからである。
すわ、敵の襲撃か、とあわてた董和であるが、背中に受けた傷が痛んで、すぐには起き上がれない。
苦労して、なんとか息を整えながら起き上がり、床に置いていた剣を持って、物置部屋に行くのであるが、闇の自室で悪戦苦闘しているうちに、寝ぼけた頭が冴えてきて、そうだ、物置部屋は物置部屋ではなくなって、諸葛孔明が寝起きしているのだった、ということを思い出した。
そのほうが、さらに状況がわるいはずであるが、不気味な悲鳴のような声はそれきりぴたりと止んで、なんの物音もしない。
もし敵が来たら大声で叫べ、と趙雲は言って、庭に突然あらわれた小屋に去っていったが、あまりに静かでなんの気配もないので、董和は叫ぶことをためらった。
だれかほかに、あの声を聞いてはいないかと、廊下を走ってくる足音を期待して耳をすますのであるが、残念なことにだれの足音もしなかった。
心臓の鼓動が早くなり、いやな汗がじわりと沸いてきたが、董和は剣を手に、そおっと元・物置部屋に近づいた。
その部屋と董和の寝室は、薄い飾り気のない扉で隔たれているだけである。
慎重に扉に手をかけると、意外なことに孔明は錠をささなかったらしく、扉はわずかなきしみとともに、少しだけ横に移動した。
そうして、隙間から覗くと、闇に慣れた目に、孔明が寝台の上に座っているのが見えた。
寝台の周囲には、孔明が自分の屋敷から持ってきた調度品が、それこそ物置のように無造作に積まれたままになっている。そこに大きな寝台を入れたものだから、足の踏み場もないような状態だ。
ほっとしたことに、無事である。ほかに人の姿があるわけではない。
しかし、いまや蜀の要である軍師将軍・諸葛孔明ともあろう人物を、危険な古城の入り口の真上で起居させるのは、本人の申し出とはいえ、やはり問題があるだろうな、と思い、目も冴えてしまったので、その点を話し合おうかと声をかけようとした董和であるが、孔明の様子がおかしいことに気づいた。
寒いのだろうか。肩がはげしく震えている。静かだと思ったのもまちがいで、間隔をおいて、嗚咽のような声がもれ聞こえてくる。
董和は息を呑んだ。
寝台の上で、孔明は声を殺して激しく泣いていた。
嗚咽を漏らすまいと、袖をぎゅっと口に含み、双眸からとめどなく涙をあふれさせている。
孔明は、緞帳の薄い帳を開いて、そうしてけんめいに声を殺して、悪夢におびえる子供のように泣きじゃくっている。
そこには、日中見せる、傲慢なまでの自信にあふれた姿はどこにもなかった。ひどく孤独で頼りなさげな、意外なほどに幼く見える青年軍師の姿であった。
いったい、なにをそれほどに嘆いているというのか。
董和は、部屋に入って孔明に事情を聞くことも考えたが、孔明の誇り高い性格を思い出し、思いとどまった。
董和は、人が嘆いている姿を見ると、ついつい引き込まれて、一緒に涙を流してしまう性質である。孔明の意外な姿に、事情はわからないけれども、無性に悲しくなって、扉を閉めかねていると、孔明は徐々に落ち着いてきて、鼻をかむと、大きくため息をつき、それから寝台から降りた。
こちらに来るか、と身構えた董和であったが、そうではなく、反対側の扉から廊下へと出て行った。
まだ日の出まで時間がある。
更衣ならば問題はないが、妙に気になったので、董和はそおっと自室から廊下に顔を出した。すると、孔明が廊下で屈んで、肩に羽織った上衣を脱いでいるのが見えた。
なんだろうと観察していると、まだ拷問で受けた傷も満足に癒えていないはずの胡偉度が、廊下で剣を抱えて寝入っているのが見えた。孔明は、自分の上衣を脱いで、胡偉度にかけてやっていた。
そのために部屋を出たのかと思った董和であるが、そうではなく、孔明はさらに先に進んで、やがて庭に出た。
そうして井戸端にいくと、水を汲んで顔を洗いはじめた。
水ならば汲み置いて枕辺にあったはずであるが、どうやら部屋に戻ってふたたび眠るつもりはなさそうだ。
ざぶざぶと水音を聞きながら、さりげなく声をかけてみようと思い立った董和は、一歩、足を踏み出したところで肩を掴まれた。と、同時に耳元で声がする。
「静かに」
人を沈黙させることに慣れている男の挙搓だ。
片手は肩に、もう片手は董和が不用意に声を発さないよう、口ではなく咽喉元をつかむような仕草をする。
董和がおそるおそる振り返ると、そこに孔明に視線を向けた趙雲の姿があった。
「声をかけてはならん。いつものことだ」
趙雲のことばに董和はぎょっとして顔を仰ぎ見た。と、同時に背中の傷がぴりりと痛む。痛みにしかめた顔を見た趙雲は、孔明のほうを注意しながら、足音を殺して、こちらへ、と董和を手招きする。
そろそろ夜の帳も上がろうとする時刻であるが、孔明の警護のためか、物音こそしないが、そこかしこに起きている人の気配を感じる。
自分の屋敷であるのに、ずいぶん様子がちがってしまったものだな、と嘆息しつつ、董和は、長星橋商店街の大工たちがほとんど一日で作り上げた趙雲のための掘っ立て小屋へと入った。
木の香の残る小屋には、趙雲の寝台があるばかりで、雑然とした印象のある元・物置部屋とは対照的であった。
大工たちが余った木材で作ったらしいちいさな座椅子がぽつりとあったので、董和はそれにすわり、趙雲は寝台に腰かけた。
「いつものこと、というのは?」
「思い悩むことがあるときや、仕事で詰まったことがあるときなど、あのように決まってうなされるのだ。おそらく、父親代わりであった叔父という人物の夢だろう」
と、趙雲は、簡潔に、孔明の生い立ちのことを語りだした。
父母と幼くして死別し、家督をめぐって長兄とあらそい、姉たちとともに戦火をのがれて荊州へむかったこと、父親代わりであった叔父を樊城で暗殺されたこと等々。
暗い影などいっさい感じさせないほどに、明るさをたたえている孔明だけに、悪夢を見て泣きじゃくる姿と、生い立ちに関する話は董和の印象に強烈にのこった。
「軍師将軍は、よほどその叔父君を慕っておられたのでしょうな」
「目の前で襲撃されたのに、救うことができなかったと自分を責めて泣いているのと、慕わしさのために泣いているのとで半々であろう。暗殺者は長剣を使用したそうだ。だから護身用に剣を持たせても、短剣ならばともかく長剣はいやがって、すぐに突っ返してくる。それに、不意に人に触れられることを極端に怖がるから、これからご注意なさるとよい」
意外な弱点であった。趙雲の説明を聞けば、それも仕方のないことかと同情できる。
「それと、ないとはおもうが、このことは口外無用に」
「もちろん。しかし将軍、軍師将軍の悩み、とは、やはり法科の編纂のことなのですか」
「おそらくな」
歯切れのわるい言葉に、董和は首をひねる。
趙雲だけではなく、このところ胡偉度も晴嬰も孔明さえも、なんだか言葉を濁しがちなのはなぜなのだろう。
「明朝にも、左将軍府へ上がろうかと思っております」
董和が言うと、趙雲は驚いて目を開いた。
「怪我はもう、よろしいのか」
「軍師将軍の薬は、だいぶ効きますな。ただ座っているだけならば問題はありませぬ。屋敷にもどって軍師将軍と毎日顔をあわせるようになってから、何日か経ちますが、お会いするたびに顔色が悪くなっているようだ。それに法科は、巴蜀に住まう人間すべてにかかわる大事なもの。これをつまらぬ派閥あらそいでゆがめられたものにしてはなりませぬ」
「うむ、実は主公から内密にお召しがあったのだが、そのことを憂いておられた。主公がきつく言ったのにもかかわらず、いまだ両者に歩み寄る気配がない、と」
「そうすぐには無理でしょう。軍師将軍からすれば、法尚書令は自分の部下を捕らえて拷問にかけた男なのですから。それを数日で忘れて、仲良く手を組め、とはむずかしい話です」
「許文休が左将軍長史に命じられた、という話はご存知か」
董和が知っている、とうなずくと、趙雲はすこし考えるような仕草をしてから、寝台の上に座りなおすと董和にむかって深々と頭をさげた。
「如何なされました、将軍」
「俺は許文休という男がどういう人物かわからぬゆえ、政務に関しては貴殿に頭を下げるしかほかにない。俺が頭を下げる、などということは奇異なことかもしれぬが、軍師のこと、どうぞよろしくお頼み申す」
董和はおどろきを通り越して、もはや感動した。
趙雲は目的のためならば、不本意でもたやすく頭をさげる、というような男ではない。人に頭を下げることは、勇気のいったことだろう。それが、縁戚でも義兄弟の契りをむすんだわけでもない人物のためなのだから、恐れ入る。
「頭を上げてくだされ。わたくしは、貴殿に頭を下げていただくほどの人間ではありませぬぞ」
しかし趙雲は、沈痛な面持ちで頭を振った。
「幼宰どの、ことは急を要する。諸葛孔明はいま、岐路に立たされているのだ。このまま蜀の地の一群雄の軍師として埋もれてしまうか、天下に名乗りをあげる英雄のひとりとなるか」
趙雲の最後のことばに、董和はひやりとした。受け取り方によっては、孔明が劉備から独立して旗揚げするかのように受け取られかねない言い回しである。
しかし孔明が三十路に入ったばかりなのに対し、劉備はすでに五十を過ぎている。そして劉備の嫡子はまだまだ十歳になるかならないかの子供ひとりきり。万が一、劉備になにごとかあれば、そのあとを継ぐのは、劉備の義兄弟のふたりのうちどちらか、あるいは孔明だろう。
董和は、劉備が孔明を『息子のよう』だといって可愛がっているのを知っているが、立場を考えれば、たやすく口にしてよいことではない。ましてこれだけ法正との対立が深刻になっているのだから。
「将軍、いまのお言葉こそ、ほかのだれにも漏らしてはなりませぬぞ。軍師のことならば、官位をお受けするかどうかはともかく、微力ながらお手伝いいたしますゆえ」
すると趙雲は、どこか悲しそうな笑みをうかべて言った。
「ありがたい。それと直言、感謝いたす。迂闊であった」
一枚岩のように見える劉備と趙雲、そして孔明の間にも、それぞれにさまざまに思惑があるのだ。
いや、そもそも一枚岩のようだ、というだけで、人と人の絆は悲しいほどに脆いのも現実。
彼らがほかと一線を画しているのは、それぞれ野放図に過ごして現状に甘えているのではなく、日々努力をかさねて絆を保っているからだ。彼らはそのことをよく自覚していて、努力を惜しまない。
それほどに、互いを思いやっている証拠であり、一勢力の中心にありながらも、彼らの性質が純真さを守っている、ということでもある。
ふと同時に、法正のことを思う。
法正もいくらか問題はあるが、鋭敏な男だ。成都太守という立場でありながら、いまだに素行がおさまらないでいるのは、劉備と孔明の間に入ることができずに、自分の立ち位置をつかみかねているからではないのか。
思うに、法正の周囲には、孔明のように、趙雲や胡偉度のような、献身的な忠誠をささげてくれる人物はいない。さらにくわえて、許靖や董和のような人材を、法正の周囲に配した、という劉備の話も聞かない。
法正は、おのれの立場と孔明とを比べずにはいられないだろう。くらべて、深い孤独を感じているのではないだろうか。突き放してしまえば、法正が孤独なのは己の行いの結果、ということでもあるのだが…
※ ※
朝になり、董和はじいやに官服を出してもらって、ひさしぶりに袖をとおした。
ただ衣裳が変わった、というだけで、気持ちがきりりと引き締まるのを感じる。
冠の紐を結んでいると、じいやがうれし泣きをしているのがわかった。
免官になって悔しかったのは董和本人がいちばんだが、長年、文句のひとつも言わずに仕えてくれたじいやも、おなじくらいに悔しかったのだろう。
さて、左将軍府に寄った帰りに、息子の様子を見に宮城へ寄るか、と考えた董和であるが、そのことを話すと、向かい合って朝餉を口にしている孔明に、あっさりと言われた。
「休昭どのなら、費伯仁の甥御と一緒に、視察に行っておりますよ」
「なんと、あれもしばらくしないうちに一人前の仕事をこなすようになったのですな」
すると、孔明は、青白い頬をすこしだけ赤らめて付け加えた。
「視察の、お供です。ええ、二人ともよくやっておりますので」
「左様か。休昭は甘やかして育ててしまったせいか、どうもひとりで何かをする、ということが苦手な性質でしてな。いつごろ帰ってきましょうや?」
それは、と口にしつつ、孔明はゴマのあえものをもぐもぐと咀嚼しながら、なにやら考えているようだ。
またも董和は違和感をおぼえる。息子のことをだれかに聞くたびに、妙な壁に突き当たって跳ね返されてしまうような、なんともいえない手ごたえのなさである。
「軍師…いや、孔明殿」
「なんでしょう」
「休昭は、なにか粗相をしたのではございませぬか?」
「粗相?」
怪訝そうに孔明は柳眉をしかめてみせる。
その間も食事をすすめているのであるが、作法どおりに楚々として食べているものの、味わって楽しんでいる、というふうではない。料理はどれもすばらしくうまく、さまざまな品が贅沢なほどに並んでいるのであるが、孔明にとっては、食事はただの作業、身体を動かすために必要な行為でしかないようだ。
「実は休昭は仕事で失敗をして、費伯仁の家で蟄居をしているとか…それをわたしに知らせないのは、わたしの怪我を考えてのこと、ということはございませぬか」
「幼宰どのは、想像力が豊かですな」
皮肉ではなく、孔明はほんとうにそう思ったらしい。貝の佃煮をつつきつつ、孔明は答える。
「休昭殿がなにかひどい失敗をした、ということはありませんよ。そこはご安心なさい」
「『そこは』? となると、なにかほかに問題が?」
「いえいえ、そういうわけでは。これ、茶を持ってまいれ」
と、最後のことばは家人に向けて言われた言葉だ。
董和が質問を消化しかねていると、ほどなく香ばしい馥郁たる匂いをただよわせて、茶が二人分運ばれてきたので、なんとなく会話が途切れてしまった。
「それにしても、よい生活をなさっておいでですな」
粗食を旨とする董和にとって、今朝の孔明とともにした食卓は、特別な日でないかぎり口にしない食材ばかりであった。そして食事の締めが、高級品のなかでもさらに高そうな茶。それに孔明の身にまとっている服の煌びやかなこと。
際立ってまばゆい男であるが、衣裳がさらによく似合って、思わず惹きつけられるような華やかな雰囲気を漂わせている。
ひとつ屋根のしたで寝起きして気づいたのだが、孔明は更衣のごとに、まったく衣裳を替えてあらわれる。そのたびに髪型さえ変えることもあり、董和を感心させた。しかもそれが手早く行われているようなのだ。
董和は、これほど身だしなみに細心の注意をはらう男をはじめて見た。
今朝の孔明も完璧なまでに美しく、挙搓が洗練されていることもあって、対峙しているだけで、もはやありがたみさえ感じるほどだ。その明朗で自信にあふれた表情からは、今朝方の弱弱しい姿を想像させない。
「贅沢を好んでいるわけではありません。わたしは体があまり丈夫なほうではないので、食には金をかけて健康を保たせているのです」
「その衣裳は?」
「子龍とおなじことを聞く」
「は?」
「むかし、まだ主公が劉表の元で居候をしていた頃、子龍から、その毎日とっかえひっかえの衣裳はなんだ、と問われたことがありまして。おなじ答えになりますが、これはわたしにとっての鎧です。
みすぼらしい風体の男の発することばより、立派な風体の男から発することばのほうが、世人は耳をかたむけやすい。世人が、発言の内容ではなく、見た目に惑わされやすいのは、悲しいかな、現実ですからね。
それを嘆いて頑なになり、わざわざ貧相な格好をするのが流行っているところもあるようですが、それで貴重な時間をついやし、遠回りする余裕は、わたしにははございませぬ。そういうわけでわたしは衣裳に凝るのです」
「なるほど。ところで趙将軍は、いずれに?」
「子龍ならば先に出ました。なにか用事がある、とか。子龍になにか?」
「いえ、特には」
孔明の様子におかしなところがない、ということを教えておきたかったのであるが、趙雲は董和以上に孔明のひととなりを把握しているのだろう。大丈夫だろうと想定して先に屋敷を出たのだ。
そうして董和は孔明とともに屋敷を出て、左将軍府へ初出仕と相成った。
」
左将軍府に董和が復官するようだ、と聞いた法正は、報告にやってきた男に、実に平然と言った。
「さようか」
さようでございます、と男はこくりと肯く。
男は、法正の下について日が浅かったが、この神経質で激情家な上役が、政敵の孔明の周囲に人が増えることを、よろこばないことを知っていた。だからおずおずと報告したのであるが、法正の反応は、拍子抜けするほどに淡白であった。
「なにも手を打たれなくてよろしいのでございますか?」
「埒もない。すでに手は打った」
おさすが、ともわず感嘆のためいきをもらた男に、周囲にいた文官たちが、怪訝そうに、筆を止めて顔を上げる。そのうちのひとりが法正と目があって、法正は咳払いをして、部下たちを仕事に戻した。
「どうやら董幼宰は左将軍中郎将の官位に復帰するようだ」
「ずいぶん厚遇ですな」
「董幼宰は隠棲するにはまだ若いし、名望も高い。そこそこ有能であるから、軍師将軍の相談役程度はつとまるであろう」
「いかな手をお打ちになられましたので」
すると、法正は、おもしろくてたまらない、というふうに、にやりと笑って見せた。
「許文休を主公に推挙した。左将軍府はみな人材が若いゆえ、重鎮もひつようではなかろうか、とな」
「許文休でございますか」
「許文休だ」
といって、法正は肩をゆらして、くっく、と笑う。
やたらと名前を連呼される許文休…許靖であるが、いったいなにが、笑いを買っているのか、といえば、まさに許靖が許靖であるがゆえ、であった。
法正は、なんとも愚鈍そうな、日に焼けた老年の男の、のったりした姿を思い出し、そしてまた、これから起こるであろう事態を想像し、笑った。さあて、荊州の若造は、あの老人をどう扱うだろうか。
法正は、許一族より、一族の長である許靖を復官させてほしいと、何度か貢物とともに打診を受けていたが、首を縦に振っていなかった。
『あの』許靖を引き受けることは勇気のいることである。
いかな高名な観相の大家の許劭を従弟にもつ人物であろうと、ともに肩をならべて仕事をしたいと思わせる人間ではない。
もうすこし貢物の値段を吊り上げてから、窓際の、いてもいなくてもよさそうな閑職を用意してやろうと考えていたのだが、思わぬところで役に立ってくれた。閑職どころか要職が与えられたのだから、許一族は大喜びで、こちらも恩を売れたというわけだ。とはいえ、軍師将軍にとってはいい迷惑だろうが。
それにしても主公も太っ腹である。
法正からしてみれば、許靖が左将軍府に行くのならば、どんな役職だろうと、かまいやしなかった。許靖がついた『長史』は、尚書令に次ぐ地位といっても過言ではない。
ちなみに、法正の地位である『尚書令』は、政務の文書をすべて一手に発行する役職である。
当初はさほど高い地位をあらわす言葉ではなかったのだが、文書によって行政は動くわけであるから、自然とすべての決裁権がそこに集中する。ゆえに、それに見合った権限を与えられるようになり、『尚書令』は文官の頂点となっていった。
「しばらくは見ものだぞ」
いまから孔明の蒼ざめた顔を想像し、法正はまた笑った。
許靖は老眼がすすんでいる、という噂も聞いた。暗くなれば竹簡の文字を追うことすらできなくなる。まして、『あの行状』は、子供すら知っている。
お荷物の笑い者。
がんばりたまえ、軍師将軍。すべては貴殿の、その細い肩にかかっているのだ。
まあ、がんばれるものならば。
※ ※
左将軍府に一歩、足を踏み入れたとたん、心地よい緊張感が全身をつらぬいた。
地味でさほど大きくはないが、整然とした建物では、若者たちがきびきびと政務に励んでいる。どの顔も倦んでおらず、自分たちが一国を担うのだという気概にあふれているように見えた。
まず、董和は感心した。
よほど環境を整えて仕事に集中させているのだろう。彼らは、董和と孔明を見ると、ぱっと顔を輝かせ、頭を下げる。そうして張りのある声で、おはようございます、と挨拶をかけてくる。その心地よさ。細かいところを見れば問題がないわけではないだろうが、左将軍府の若者のやる気にあふれた雰囲気は、好ましいものであった。
孔明はそうした己の仕事場が自慢なのだろう。晴れやかな顔をして、左将軍府を自分で案内する。そのあいまにも、文官たちが寄ってきて、孔明に決済を頼んできたり、あるいは相談を持ちかけたりする。
そのあいだ、董和は手持ち無沙汰なので、孔明と部下たちの会話に耳をかたむけたり、あるいは周囲の仕事振りを観察する。
若いうちに、こんな職場で働けたならよかっただろうに、と董和は思う。
劉璋の元に最初に仕官したときはひどかった。役所とは名ばかりで、一日をだらだらと過ごす同僚と、賄賂次第でころりと言葉を転じる上役、讒言ばかりして出世の足をひっぱりあう連中に囲まれ、さんざん苦労をした。
董和は洛陽に足を踏み入れたことはないが、腐りきっていたという王宮のありさまを、そのまま悪いところばかりを引っ張ってきたら、こんなふうではなかろうか、という具合。
逆境にこそ燃える董和は、さまざまな障害をつぎつぎと殴り飛ばすようにして乗り越えて、成都の風紀をあらためるべく努力した。
しかし、結局、劉璋のだらしのない、なあなあで済まそうとする気性から端を発する腐敗であったので、そこまでは治しようがなく、董和は左遷され、しばらくたって、劉璋は劉備に追い出された。
当時といまをくらべ、隔絶の感をあじわっていると、ふと、廊下になにやら目立って、奇妙な仕草をしている人物がいる。
廊下の柱の影に頭を隠し、尻だけを出して、なにやらごそごそしているのだ。
孔明がまだ部下たちとの話が終わりそうになかったので、董和はそっと中座して、その男のところへと行った。
近づくと、男はひとりで、ぶつぶつと愚痴っているようである。
「いかがなされた」
董和が声をかけると、男はびくりと身をふるわせた。
ほおづき色の明るい衣を身にまとった、浅黒い肌の男であった。
白いものがまだらにまじった頭にのせた冠が落ちないよう、ほどけた紐を両手でつかみつつ、男は決まり悪そうに笑った。
董和は思わず礼を取るのもわすれて言った。
「文休さま、お一人でございますか」
「おお、幼宰どのか。いやはや、不器用者がひとりにされると、こういう不具合がおこるからいけない。そういえば、貴殿は器用であったな。すまぬが、紐をむすんではくれないかね」
嫌という理由もない。董和が頼まれるまま、冠の紐を結んでいると、董和よりすこし背の低い許靖は、顎をあげて、子供が母親に服を着せてもらっているように、大人しくじっとしていた。
紐を結びおわると、許靖は満足そうに紐の先端についたちいさな玉飾りをもてあそび、カカカ、と屈託なく笑った。
「いやはや、これで落ち着いた。なにせ屋敷では万事、だれかが儂のことをしてくれるものでね。しかも相変わらずの方向音痴で伴の者とはぐれてしまってな、ようやく左将軍府にたどりついたものの、若いものばかりだし、冠の紐はほどけてくるしで、どうしようかと困っておったのだよ。いやはや、枯れた者がもうひとり増えて、よかった、よかった」
枯れた者、と表現するには董和は、あまりに若々しかったが、許靖はよほど気後れしていたらしく、ほんとうにうれしそうなので、董和は言葉を呑みこんだ。
許靖の顔が浅黒いのは、畑仕事が好きで、奴婢たちといっしょになって畑を耕しているため、というだけではない。
許靖の来歴は複雑である。
かつて董卓に仕えていたのだが、ひそかに裏切っていたのがばれて江東に逃げたものの、逃亡先には今度は孫策の軍勢がおそってきて、南に逃げたところ、今度は地元の異民族たちに襲撃された。
追われ追われているうちに、道に迷ったかなにかして、蛮地の奥深くに入ってしまい、さらに異邦の水にあわなかったのか、それとも恐ろしい風土病にかかったのか、一族のほとんどが病のために死んでしまった。
そのときの過酷な放浪生活で、さんさんと南の太陽を浴びてしまい、肌が真っ黒になって、そのまま戻らなくなった、らしい。
そもそもなぜ孫策から必死になって逃げようとしたのか、それは一族の秘密らしく、よくわからないのであるが、本人曰く「思い出しただけで気絶する」恐怖の逃亡生活を経た許靖は、逃亡先で、独自の人生哲学を身につけて中華にかえってきた。
いまもひそかに語り草になっているのであるが、蜀郡太守の地位にあった許靖は、劉備が成都を包囲したときに、劉備にくわえて馬超までもがやってきた、と聞いて、すっかり肝をつぶしてしまった。
そしてあろうことか、たったひとり、城壁を乗り越えて投降しようとしたのである。
もはやなりふり構わず、といったふうで、わかりやすいように白い衣をまとって、必死に城壁を越えようとする許靖を、それと気づいた一族の者たちが必死に止めようとする姿は、緊迫した戦場のなかにあって、場違いなほどに滑稽であった。
董和は許靖の人柄は評価していたが、その行動と言動にはいまひとつ、うなずくことができない。
許靖の投降未遂事件がおこってから、だれも口にはしなかったけれど、なんとなく籠城する劉璋軍側に、白けた空気が漂うようになってしまったからである。
結果として、劉璋は降伏し、流される血は最小限に食い止められたものの、もしも許靖があんなふうに騒ぎをおこしていなかったなら、もっと事態は変わっていたのではないか、と思う。
まして、荊州士人による益州支配をこころよく思っていない人間は、もっとあからさまで、許靖の投降未遂は、じつは恐怖による乱心でもなんでもなく、劉備側と密約があったからなのではないか、と本気で言っているらしい。
許靖がそんなふうに振る舞ったので、荊州人士のなかには、益州の人間は、みなへっぴりごしだ、とあからさまにばかにする者もいる。厳密にいえば、許靖は生粋の蜀の人間でもなんでもない。汝南の出身なのだが。
城壁にむかって、必死になって、
「わしは生きたい! 生きたいんじゃー!」
と絶叫した許靖の姿を、いまもって董和は覚えている。
密約があって、わざとそういう極限の姿を晒したとは、董和にはおもえない。
生きたい、と叫んだ許靖の言葉に嘘はなく、本心であっただろうと思うし、劉璋軍に倦怠感がひろがったのは、許靖の振る舞いが、戦場から毒気を抜いた、などという可愛らしいものではなく、もともと劉璋に求心力がなく、そのうえ兵士たちがじつはみんな許靖とおなじ思いでいたからではないか、と董和は考えている。
じつのところ、許靖の姿をみて、周囲が笑っているなかで、董和は笑うことができなかった。
生きたい、と願うことに不自然さはどこにもなく、むしろそう願うからこそ、戦うのだ。
生きたいから戦いたくない、というのは、戦っても勝ち目がない、と人々が無意識のうちに結論をしていたからに過ぎない。
それを敏感に感じ取った董和は、この戦に先がないことに気づき、暗然としたものである。
「貴殿が一緒でほんとうによかった。一度、貴殿とは一緒に仕事をしてみたいと思っていたのだよ。
そういえば、貴殿にはご子息がおられたな。費伯仁殿の甥御と仲の良い。実はわしにも息子がおる。ただ、ちょっと病弱でね。いやなに、うちの嬶(かかあ)が南蛮で身ごもった子なのであるが、腹の中にいるうちに、わしが嬶(かかあ)にろくなものを食べさせてやれなかったのがいけなかったらしい。
いや、それはさておき、どうだろう、今度、我が屋敷にご子息を招待させていただきたいのだが。貴殿のご子息ならば、安心して紹介できる」
「わが愚息でよろしければ」
「これで決まりだ。わしと貴殿は、息子どもを通じての仲良しとなった。うむ、親父たちも仲良くしようではないか。さあて、われらが軍師将軍に御挨拶をせねばなるまいよ。伏したる龍との美名を冠するお方はどちらにいらっしゃるのかな」
あちらに、といまだ部下との相談が終わらない孔明を指すと、許靖は、なにがおもしろいのか、カカカ、と声をたてて、また笑った。
「冗談のようにきれいな男だな。蘭陵王とタメをはれるのではないかね。いやはや、小覇王の片腕であった美周郎もたいした美丈夫であったが、それとは類いがちがう美しさだな」
従弟ほどではないが、観相の名人として名を馳せる許靖である。
その許靖がここまで誉めるのだ。やはり劉備や趙雲がのめりこむようにして肩入れするのは当然か、と董和が思っていると、しかし許靖は、不意に顔をしかめた。
「だが、いかん。あまりに浮世離れしておる。ああいう男は長生きしない。美周郎も三十六の若さで死んだ」
許靖の声が大きいので、言葉を聞きとがめた文官たちが、きつい視線を送ってくる。董和はあわてて許靖を制した。
「不吉なことを申されますな。みなが驚いておりますぞ」
だが、まったく頓着しないで許靖は言う。
「事実を申したまでだ。人の不評を買うことを恐れていては、真の観相はできぬ。しかし、幼宰どの、ここだけの話、わしはすこしガッカリした」
「なにゆえ?」
「伏したる龍…これはすごい名だぞ。龍とはすなわち皇帝を象徴する生き物。天下すら望める器だと太鼓判をおされた青年なわけだろう、あれは。だが、天下どころか蜀を取る前に、あれは死ぬ。死相がはっきり出ておる。気の毒だが、いまから後継者を決めておいたほうがよかろうな」
「なにを根拠にそのような」
「見ればわかる」
と、許靖は胸を張った。
董和としては、論理的な裏づけのないまま、わかる、といわれても、そうですか、と納得はできない。
ふと、董和の脳裏には、今朝方、子供のように泣いていた孔明の姿が浮かんだ。泣いて死ぬことはないが、なにやら不吉なものを感じさせる。
突然、許靖はくるりと孔明に背を向けて、左将軍府の玄関のほうに歩いていく。
どうしたのかと、董和が声をかけると、許靖は言った。
「かえる」
「帰る? まだ軍師将軍と御挨拶もされていないではありませんか」
「帰って、あの人相をもっとよく調べてみるのだ。軍師将軍には、貴殿からよろしく伝えてはくれぬか。明日はきちんと出仕するゆえ」
とぼけたことを言って、許靖は、董和が止めるのも聞かずに、ほんとうに帰ってしまった。
取り残された董和がぼう然としていると、ようやく話のおわった孔明が近づいてきた。
「如何なされた、幼宰どの。さきほど、ここに許文休どのがいたようですが?」
孔明の顔色は青白いものの、肌の艶はよく、病の気配も感じられない。
死、と聞いて、ふと九門古城が、ぽっかりと闇の口をあけて、こちらに呼びかけているような錯覚をおぼえた。思わず身を震わせた董和に、孔明は心配そうに声をかけてくる。
「傷が痛むのでしたら、今日はもう帰られては?」
そうではない、と董和は答えて、死、云々の話は伏せて、許靖が孔明の顔をしらべるために帰ってしまったことを告げた。
さすがの孔明もこれにはあっけにとられて絶句する。
董和としては、許靖に関して、それ以上のことは何も言えなかったので、ただ黙っているしかなかった。
※ ※
趙雲は、昼間もなお薄暗い、場末の妓楼で酔いつぶれる「蚤」を見つけた。
九門古城の入り口のひとつである、墳墓の屋根のうえでつくねんとしていた、あの小男である。
猥雑なにぎわいをみせる長星橋の一角にならぶ妓楼などは高級なほうで、「蚤」がいりびたる界隈は、昼間から淀んだ空気がたれこめる、なんとも気持ちの落ち込む場所である。
そこに住まう人々の顔つきからして、あきらかに堅気ではない。
そこは、侠客の世界からも落ちこぼれた人間が集まる場所であり、表の世界に顔を出せなくなった者、影から影へと流れるしかないいわくありげな人々が集まる場所である。
彼らの目はすさんでおり、向けてくる視線には殺意にも似た敵意がある。
通りのにぎわいを引き立てる客引きのひとりもいない店の扉は、どれもぴたりと閉ざされて、興味半分の人間が入ってくることを固く拒んでいる。
中には、ふつうとは呼べない娼妓たち…子供と言っていいくらいの少女たちや少年たち、あるいは攫われて働かされている娘など、ふつうの娼妓では満足できない人々の欲望を満たすためだけに集められた者たち…がいるのだ。不気味な静けさをたたえた建物の中は、まさに底なしの闇の世界であり、趙雲でさえ、そこに足を踏み入れることは怖かった。
人が怖いのではない。歪んだ人々の欲望が生み出す闇に、ふとした瞬間にさらわれかねない、この異様な空気が怖かった。
これもまちがいなく天下の一部なのであるが、できることならば、一生涯、係わり合いになりたくない世界である。
机につっぷし、だらしなくよだれをたらしてねむる「蚤」を見た趙雲は、どん、と足を踏み鳴らして、「蚤」を起こした。
店の主人が、剣呑な目線を送ってきたが、趙雲は、戦場で敵将に向けるのとおなじ顔をして、無言のまま、相手を沈黙させた。
起き上がった「蚤」は、思わぬ来訪者におどろいたようである。
「蚤」は気の毒なほどに醜い男だ。
生まれつき顔が歪み、身体も曲がっている。背丈も子供くらいしかない。
その小ささを活かし、草の仕事をしているのであるが、性根もどこかで曲がったらしく、ともかくだらしなく、横暴であった。
胡偉度が董和と古城にもぐっているあいだ、ほかに優秀な人間がいない、という理由で、孔明は「蚤」を使って古城のことを探らせていたが、結局、「蚤」につけてやっていた部下たちは、みな不死人に殺されるか、取り込まれてしまったかして、帰ってこなかった。
いま「蚤」が酔いつぶれているのは、仕事の失敗の憂さ晴らしなどではなく、仕事を失敗したにもかかわらず、孔明が律儀に支払った報酬をもとに、思う存分酒を呑みたかったというだけだ。
「かような場所に足をお運びくださるとは。それとも、遊びのついででございますか」
品のないわらいを見せる「蚤」に苛立ちつつ、趙雲は答えた。
「単刀直入に言う。『あの方』にまだ報告していない情報を、いますぐ俺にすべて話せ」
「蚤」は目をぱちくりさせつつ、すばやく店の主人のほうに視線を動かした。
「あの方にはすべてお話しております」
「たばかるな。おまえは情報を小出しにして、なるべく多くの報酬をあの方からせしめようとしているのだろう。くだらぬ真似はよせ。足元をみると、ひどい目にあうぞ」
すると「蚤」は身体を揺らして、ひっひ、と甲高い声で笑った。
「わたくしを、これ以上ひどい目に遭わせることは不可能でございますぞ」
「そうかな」
と、言って、趙雲は、「蚤」の肩を立ったまま、がっしりと押さえつけるように掴んだ。
「おまえの曲がった身体を、真っすぐにしてやろうか」
ぞくり、と「蚤」が震えたのがわかった。
孔明は趙雲を怖がらないが、それはむしろ孔明が剣を持たぬ身であるからだ。
おなじく剣で身を立てる者からすれば、趙雲はおそろしい男である。
誠実そうな態度も、人当たりのよさも、この男の表面をうっすらと覆う雪のようなもので、それを払えば、冷徹で手段を選ばぬ戦士の顔があらわれる。
なにより恐ろしいのは、この男が、持てる力を自分のために使うのではなく、全力を孔明という人物すべてに捧げていることだ。自分がない。だからとんでもなく思い切ったことをする。
「もう一度だけ言う。すべて話せ」
「あの方にお話いたします」
「だめだ。俺に話すのだ。隠していることをなにもかも、いますぐ残らず話がいい」
『蚤』は、言うとおりにしないと、本当に体がまっすぐにされると予感し、ふたたびぞっと身震いをした。