捜神三国志・燭龍本紀

第二十ニ話 父の家・母の家


雫の落ちる音が大きくひびき、張嶷は目を覚ます。
目の前にあるのは、いまにも落ちてきそうな石柱のたれている天井と、さまざまな麻布をはぎつけた天幕いちまい隔てた向こうにぼんやりと浮かぶ燭火。
鍾乳洞を利用した、部屋とも呼べない穴倉である。奥まるほどに狭くなるその部屋の最奥に、張嶷のよこたわる寝台があるのだが、それもまた、寝台というよりは鳥の巣のようなありさまであった。
没薬のにおいがたえず立ち込める。嫌いではないが、この風の流れのよくない空間では、いささか胸によくない。
身じろぎをしてはじめて、張嶷は自分が眠りながら泣いていた事に気づいていた。夢を見た記憶はないのだが、もしかしたら、そうなのかもしれない。

「大丈夫、ここにはほかにだれもいやしないから」
と、悪夢におびえる子供をなだめるような、優しい声がして、首を向けると、黒イの姫・祝融であった。この姫は、玄女とともに張嶷を助けるため、ふたたび九門古城に潜って、それからずっと付き添っているのである。
「宝探しはよいのか」
と、張嶷が尋ねると、祝融は曖昧に笑う。
「そうだね、よくはないけれど、すこし休んでいるのだよ。成都にたどり着くまでだって、長い旅だったからね」

帳の向こうにちいさな椅子があり、長身の祝融はそこにちんまりと腰をかけている。大女なのであるが、そうしていると、年相応の幼さが見える。はじめて会ったときはお互い九門古城にもぐったばかりであったから、険しい顔をしていたのであるが、いまは穏やかだ。とはいえ、祝融の内側に秘められた激しさは、そうしていても消えることはない。ただ、おとなしいというだけだ。
野蛮と気品が同居する、ふしぎな女だ。

「不思議なものだね、ここに来るまでは、一族のため、漢族と戦うためと、それだけを考えていたのに、ここにいると、そういったものが小さく感じられてくる。あの婆さんの言ったことは正しいのじゃないかと、そう思えるのだよ。婆さまはここが『女の家』だと言ったけれど、そうかもしれないね。あたしが母のお腹にいた頃の穏やかな気持ちが戻ってくるのかもしれない」

「女の家、か」

張嶷は、地下にあるというのに、不思議とあたたかい部屋を見回した。
祝融のいうとおり、胎動こそ聞こえないけれど、この穏やかさには、なぜかなつかしさをかきたてられる。
軽く息を吐き、張嶷は言った。
「俺はおまえが間違ってはいないと思う。戦いのすべてがいけないというわけではない。たしかに血が流されるのはいとわしいことであるが、死を賭してでも守らねばならぬものが世の中にはあるのだ」
「理解あるね。あんたみたいな男が世の中にもっとたくさんいれば、意味のない争いは、少なくなるかもしれない」
「俺みたいな男は、俺ひとりで十分だ」
答えつつ、張嶷は浅く目を閉じた。
没薬のにおいが鼻腔をくすぐる。
彭恙によって負った傷は、玄女の処方した薬のおかげで、ほとんど痛まない。
しかし、眠い。体がどうかしてしまったのではないかと不安になるほど、気だるく、起き上がるのさえ億劫だ。
玄女はそんな張嶷の様子をよく見越していて、
「気が済むまで寝ているといい。ムリに起き上がったところで、ロクに頭も働くまい」
と言った。
どうやら処方した薬は、九門古城の内部にしか生息しないという植物によって作られているらしい。体の自由がきかない張嶷は、いまだにその植物がどんなものなのか、目にする機会がない。
祝融はふしぎと、その植物については口を閉ざす。あまり見てくれのよくない草なのか。それとも、処方する過程において、なにかおぞましい要素があるのか。
祝融が、猛々しさをおさめて大人しくしているのと同様に、張嶷の内部も、凪いだ海のように静かであった。これは薬のためだけではあるまい。『女の家』、つまりは子宮ということか。

「ここは古城の第四階層なのか」
「たぶんね。婆さまは、もっと下のほうまで潜って、薬草を取りに行っているようだけれど、あたしを連れて行っちゃくれないのさ。婆さまの話じゃ、あたしたちが通ってきたあの間道を抜けないかぎり、この部屋にはだれもたどり着けない仕掛けになっているそうだよ。だから安心するがいい」
「あの婆さん、何者だ?」
「さてね。古城の主、というふうだけれど。宝の正体を知っているようだし。だけど、あんたもそれを知っていたね。なんでだい?」
知りたがりの姫だな、と張嶷は内心舌打ちをした。頭のよい女というのは苦手だ。
「俺の部族には古くから、選ばれた巫女しか読むことのできない文字というものがあった。巫女は、この世のどこかにあるという、世界のすべてを記された書物・図讖を読むことのできる、唯一のゆるされた存在だ」
「それが宝というわけだね。なるほど、世界のすべてをあらかじめ知ることができたなら、常に先手を取れる。向かうところ敵なしじゃないか」
「本当にそう思うか? 俺は常々、ふしぎに思っていたのだが、『得ればかならず天下を取れる宝』。これをこの城に隠した人間は、なぜそれを隠さねばならなかったのだろう。それを手放さなければ、そいつはずっと天下を握っていられたはずなのに」
「事情があったのじゃないかい?」
「どんな事情だ? 考えられるのは、それを使いこなせなくなったからではないのか。俺は、宝というものを漠然にしか考えたことが無かった。宝はどうでもよかったからな。しかし、突き詰めて考えれば考えるほど、この城は、世の中にあってはならないもののような気がしてならん」
「あんた、宝を目指していたのじゃないの?」

いいや、と張嶷はちいさく答えた。ほんとうの理由については、だれにも話したくなかった。
勘のよい董和は、なにがしか秘密があるようだと気づいたようであるが。
あの男になら、いつか話せるのではと思ったときもあった。ふしぎと慕わしさを感じさせる男であった。地上はどうなっているだろう。
ここが第四階層だとするならば、伝承によると、図讖は、水に沈められた寺院のなかに隠されているという。早く傷を治すのだ。治して、かならず。
張嶷はおのれの拳をつよく握った。
こうときめたら動かない、頑迷なまでの意志の強さが、その双眸に宿っていた。


                             ※         ※
「また迷ったかもしれん」

声に出してつぶやいて、ゾトアオは自身の境遇に絶望した。
ゾトアオは、たしかに階段を上がったはずである。
しかし、上がったと思った階段は、いかなる魔法か、じつは下りの階段であったのだ。
つまり、こういうことである。階段を上ったゾトアオは、踊り場の途中に、またも金属の人形があるのに気づいて、気味悪さをおぼえて、これを遠ざけて、さらに階段を上った。
うまくすれば、地上に出られるかもしれぬ、と思ったのである。
ところが、上がり階段はそのまま下の階段に続いていた。
不安に思ったが、さらに行くと、また上につづく階段があったので、安堵して、また上った。すると、またもや下につづく階段に行き当たり、さらにそれを下ると、上りの階段がある…

実際のところ、階段は徐々に下へ、下へと続いていたのだ。上につづく階段というのは、侵入者を混乱させるためのもので、上の階層に戻れないように、その段数は少なく設計されていたのである。
ゆるやかに下へ蛇行する道を、長時間かけて渡っていたようなものだ。
最初の踊り場にあった人形。あれこそが、本当の階段を示す仕掛けだったのではないか。
いまから考えても、もう遅かった。ゾトアオはかなり下まで下りて来ており、すでに元に戻る気は失せていた。
不思議なことに、下に行けば行くほど、どこからか風が流れてくる。それは、強い花の香りもともに連れてくる。もしかしたら、地上にたどり着く道が、ほかにあるのではないか。
もはや、おのれの嗅覚を信じて進むしかなかった。祝融のことを思えば焦れたが、焦ってよいことはなにひとつないことは、賢い医者の息子・ゾトアオは経験で知っていた。

そうして、ひたすら階段を下りていくと、不意に、ぱっと眼前が開けた。
いや、むりやり開けたようにしたのであろう。
いったいいつのことかはしらないが、本来ならば階段は、突き当たると行き止まりになっていた。それを、壁を破壊して、むりやり空間を通した痕がある。苔むした瓦礫の向こうに、巨大な円形の広場があった。
ゾトアオは、その神秘的な光景に言葉を失った。
ゾトアオの背丈の数倍もあろうかという巨大な円形の広場は、美しい青色で四方が塗装されており、星を模した絵が天井に書き込まれていた。どこからか、光が入ってくる。まさか、こんな地下に光が差し込むはずがない。
そうしてみていると、ちょうど天井にはめ込まれた巨大な月が、煌々と光を放って、空間を照らしているのだ。魔法の玉石だ。そうとしか思えない。
万年杉にも匹敵する太さと大きさをもつ柱には、おもわずのけぞるほどに、精巧な等身大の人間の像が彫りこまれている。ゾトアオには、悪い魔法使いによって、石に変えられてしまった人間がそこにいるようにさえ思えた。
地面には、大地をあらわす草の絵が描かれており、広場の真ん中には、天井に手を差し伸べる若者の絵が描かれていた。
こんなものは見たことがない。
漢族だって、ほかのどんな部族だって、こんなものは作らないだろう。
そこには素直な天空への憧れがあった。けして手の届かない空へと手を伸ばす、恍惚とした若者のその表情に、ゾトアオは共感すらおぼえた。
同時に戦慄する。
こんなすごいものを作れる連中が、滅んだ。
ゾトアオが、感動のあまり、身震いするほどの美しさをたたえたその空間も、容赦の無い破壊のあとが見てとれる。おそらく、柱には手の届くところにも彫像があっただろうに、それは徹底的に削り取られていた。
ただ奇異なのは、破壊すら、途中で投げ出された痕跡が見えることだ。
地上にちらばる無残な彫像の欠片。おそらく、天井にまでその破壊は及ぼうとしたにちがいない。梯子をかけ、鑿と木槌で無粋に破壊をおこなう連中の姿が、痕跡から想像できる。
だが、それが途中で投げだされた。
彫像は、ハンパに壊されるだけで終わり、無粋な破壊をこうむってもなお、その広場の全体を漂う、格調高い美しさは損なわれていなかった。
すぐ足元に転がっていた、男とも女ともつかない人物の、曖昧な微笑を浮かべた首だけの彫像をひろいあげ、ゾトアオは思った。
きれいな顔だ。だが、ここには、あってはならないものの気配が充満している。
すでに失われた叡智の収斂。
いかなる戦いが展開し、そうしていかなる結果を生んだのか、これほどの現物があるというのに、伝説は固く口を閉ざして、その様子を語らない。
なぜ語らないのだろう。
人は、おのれの起源をつねに気にする生き物だ。ここにはたくさんの人間が、かつてはいたのだ。天下に自慢できるこれほどの建造物を、なぜだれにも伝えず、秘めたままにしたのだろうか。
沈黙せざるを得ない、おそろしい秘密が隠されている、とでもいうのか。
そうして考えにふけっていたゾトアオは、ずっと頼りにしていた例の花の香りを、風の中につよく嗅ぎ取った。
地下に花園があるのか?
ゾトアオは、匂いにさそわれるようにして、花の香りのほうへ進んでいった。

                            ※           ※
法正は、目の前ののっぺりとした男の顔を、人相が変わるまで叩きのめしてやりたい感情に襲われたが、ぐっとこらえた。
劉備のだした、あのいまいましい宿題、『孔明とうまくやって、法科をつくること』をこなさないうちは、敵はなるべく作らないほうがいい。

「図讖は、軍師将軍が董和を助けることも、主公が我らをお叱りになることも、なにも告げなかったぞ」
と、法正がうなるように言っても、張大人は気にしない。泳ぐ小魚の絵のかかれた扇などをそよそよとそよがせつつ、
「左様でしたか、それは災難でございましたな」
などと返してくる。
法正の名前を出せば、いまや成都のだれもがおそれて顔色を伺ってくる、というのに、孔明とこの男だけは、まったくもって言うことをきかないのであった。
栄耀飯店の一室である。
壁面すべてに典雅な絵の描かれた、優美であるが、どこか行き過ぎた感のある一室で、張大人は、成都太守の法正を前に、拝跪こともせずに、長椅子にねそべって、扇をあおいでいるのだ。
対する法正のほうは、張大人より、贈り物でございます、などと言って渡された、子供ほどの大きさのある壷をかかえている。鑑賞しているうちに、話が進んでしまったので、仕方なく抱えて持っているしかなくなってしまった。
傍から見ると、壷のうつくしい模様を、長椅子に寝そべる張大人に見せてやっている健気な従者のようである。
しかし、精一杯の威厳をこめて、法正はたずねた。

「あれは、ほんものの図讖なのであろうな? 貴様、私をぺてんにかけているのではあるまいな?」
「ペテン、などとは恐れ多い。あれは本物でございますよ。礼姫の読み方が浅かったのかもしれませぬ。今度はもっとよく読むように言い含めておきましょう」
「今度は、などと言わずに、いますぐ図讖のもとへ連れて行ってくれ」
「そうはおっしゃいますが、尚書令さま、いま古城は危険な状態なのでございますよ」
「危険? そのようなもの、腕の立つ者を連れて行けば問題あるまい。そう、錦馬超を連れて行こう。まさに一騎当千。おそれるものはなにもないぞ」
法正がそう言うと、張大人は、口元を扇で隠して、なんともイヤミな笑いをこぼす。その仕草が、あの荊州の若造を思い出させて、余計に腹が立つ。
「たとえ馬超とて、人の子でしょう。いま九門古城に徘徊している賊は、生きた人間ではありませぬ」
立ち上がろうとした法正であるが、壷の重さが邪魔をした。
「たばかるなよ、張! 悪鬼が古城をうろついている、とでもいうのか」
「まさにそのとおり。いま、古城には、けして倒すことのできない輩がうろついているのです。成都の地下にある古城は、もしかしたら冥界とつながっているのかもしれませぬな。ご自分の目で確めてみますか。
ただし、命の保障はいたしません。連中が徘徊しているために、わたくしも入り口を閉ざしている状態です。なにせ、奴らに殺された者は、まるで病が移るようにして、不死者になってしまうのですからね」
「莫迦な、そのようなことがあるのか?」
「貴方様を騙すつもりならば、もっと、よくできた嘘はいくらでもつけますぞ。わたくしとて苛立っておるのです。
連中が増えたために、古城に人は通せない。盗賊たちも古城に潜れないというので、わたしに不満をぶつけてくるし、わたくしとて、連中が潜って取ってくる財宝を手に入れることができない。
どうです、おわかりになりましたかな? 古城を荒らしまわる馬超と彭恙を、あなたさまのお力で手なずけることに成功したのは感謝しております。
しかし、せっかく手懐けられた汗馬も、うまく乗りこなせなければ意味がない。逆にお尋ねいたしますが、尚書令どの、馬超どもは、以前に組んでいた連中とは、手を切ったのでしょうな?」
「うむ、そうだと言っていた」
「たしかな話ではないのですか! 貴方様はお人がよすぎる!」
と、大げさなくらいに張大人は扇をふりかざし、呆れてみせる。
「相手は、呂布のごとき変節の名人。単純な羌族の将と舐めてかかると痛い目に遭いますぞ。古城に置いていたわが見張りが、奇妙な話を伝えてきたのですよ。馬超は、どうも不死者の倒し方を知っているらしい、と」
「なんだと?」
「もっと教えてさしあげましょうか。貴方様が眼の敵にしている諸葛孔明。あれもとんだ食わせ物です。どうやら九門古城の地図の原図の一部を持っているようなのです。
貴方様が軍師将軍を罠にかけ、叛意ありと宮城へむかったとき、すべての道をふさいだはずが、諸葛孔明は先回りをしていたでしょう? 
あれは、古城を使ったからなのですよ。いま探らせておりますが、諸葛孔明の周囲には、いつも荊州から連れてきた兵が側にいて、なかなか手を出せないのです。向こうも、貴方様の手の内を知っている、と見てよいでしょう」
あまりの話に、法正はぼう然とする。
「諸葛孔明が…なぜだ。ヤツは、もとは徐州は琅邪の出で、この古城とはまったく無縁のはず」
「古城の成り立ち自体がナゾであることをお忘れめさるな。話をもどしましょう。
馬超ですが、諸葛孔明が古城へ逃げたのを知って、そのとき後を追ったようなのですが、そのときに不死者と遭遇した。
ただし、遭遇したのは諸葛孔明の主騎の趙子龍です。放っておけば、面倒な荊州側の人間をひとり減らすことができたにもかかわらず、馬超はなぜかこれを助けたというのですよ。おかしな話だとはおもいませぬか」
「張、つまり、馬超がわれらを裏切って、荊州方についている、と?」
「それどころか、以前に手を組んでいた連中とも切れていないのではないですか。わたくしが思うに、不死者を発生させているのは、その正体の知れぬ、最初に馬超を古城へ導きいれた者。
そう考えれば、馬超が不死者を倒すことができた理由もわかります」

法正は、あまりの話に絶句した。不死者、というのも突拍子がなかったが、馬超が二重の裏切りをしているかもしれない、ということは想像していなかったのだ。
それに諸葛亮。得たいの知れないところのある若者だと思っていたが、なぜ古城の原図などを所持しているのか?

「尚書令どの。図讖を頼られるのも結構。しかし、その前に、自らの周囲をもっと固められたほうがよろしいのでは? もしそれでは話がちがう、図讖のために払った金を返せというのならば、いますぐお返ししてもよろしいのですよ。全額無傷で」
「なんだと?」

張大人は、年齢の読み取れぬ青白い顔に、酷薄そうな笑みを浮かべた。凍れる月。そんな言葉が法正の脳裏をかすめる。
掌に、じっとりと汗がにじみ出る。
この法正ともあろうものが、主導権をこの闇社会の男に握られるとは。

「そうして、おまえはあらたな買取主を捜すのであろうな?」
「もちろん」
悪びれずに張大人はいう。
寸鉄帯びていない相手にたいし、法正は護身用の短刀を懐に忍ばせている。
腕におぼえがなかったので、その刃には毒を塗ってある。この距離であれば、張大人を亡き者にし、九門古城の入り口の出入りを自由にすることも可能だ。どちらにしろ、図讖のことを知っている男の口は、いずれ塞ぐつもりであった。
しかし、法正はその気になれなかった。
気圧されたのである。
張大人はけして武芸に秀でているように見えないのだが、なぜだか無言のうちに、人を威圧する術に長けていた。むしろ、なぜ成都の飯店の主人などに納まっているのかがわからない。

「おまえの話はわかった。今日はあきらめよう。しかし、古城が落ち着いたら、すぐに知らせるのだぞ」
「もちろん。まっ先にあなたさまにお伝えいたしましょう」
そう言って、張大人はころころと甲高い声で笑った。
嘘であろうな、と、心を寒くしつつ、法正は思った。




目覚めてからすぐに厩へ行き、鞍をつなぐと、思いつくまま、平原を走り回る。そうしてほどよく汗をかいたあとに屋敷にもどってくる。
それが馬超の朝の日課である。
愛馬にまたがって、風を切っているときだけは、馬超の周囲を靄のように取り囲む、さまざまな思惑を忘れることができた。おのれの首に、見えない枷がはめられているような、息苦しさも。
しかし忘れていられるのも、騎乗している一瞬のうちだけだ。
どこかなま暖かい蜀の風を振り切るようにして、ただひたすら疾走する。
ときおり、四方ぐるりと地平線に囲まれた、雄大でなだらかな大地の情景を、馬超は夢にみるほど恋しく思うことがある。
かつて頭上に果てなく広がっていた空でさえ、蜀の地は山岳にはばまれて狭い。

成都にやってきて思ったのは、自分が商品だ、ということであった。
よい馬は競りにだされて高値で取引されるが、馬超もおなじ扱いである。張魯に買い取られ、つづいて劉備、そうしていまは法正に買い取られた。
もはやすべてが自分の意思とは遠いところで動いているような気がしてならない。檻に閉じ込められた気がした。

逃げ出すために、彭恙からの誘いに乗った。
彭恙が、だれを通して、九門古城なる妖しい地下宮殿のことを知ったのかはわからない。息苦しさを忘れさせてくれるのであれば、どうでもよいことであった。
『得れば天下を取れる宝』を探し出せば、あとは万事がうまく行く。なにせ『天下を取れる宝』なのだから。敵はいなくなるはずだ。
そうして、馬超はすこし期待していた。

それほどの宝であれば、さほど人死にをださずに天下を取れるのではないか、と。

馬超は、おのれの胸に穿たれた、埋めようの無い空洞をいつも持て余している。
それは激しい痛みをもって、常に胸に突き刺さるものであり、二度と癒されることはない類いの、まさに呪われた傷であることは、直感で理解していた。
その傷ゆえに、馬超はもっと以前の、怖いものなど何も無く、平原を疾駆していた頃には戻れないこともわかっている。鬼神にはなれない。
なぜならば、槍を向ける先の敵の背後に、かつて自分がそうだったように、無数の人々の顔があることを知ってしまったからだ。
自分はすべて失った。その悲しさ、苦しみを知っている。だから、相手におなじ重荷を背負わせることにためらいがある。相手がたとえ曹操だとしても、馬超はためらったであろう。
古城で、彭恙が楽しげに盗賊どもを薙ぎ払うのを見て、じつは違和感をおぼえていた。
あの狭い空間で馬超がすることといえば、彭恙のうしろからのんびりついていって、血の海の上を歩くことだけだ。
そうして、たまに向かってくる相手に、最後の止めを刺してやるだけ。戦いと呼べるものですらなかった。
こんなふうでは、戦場にすら立てないのではないか。檻に閉じ込められたまま、死にたくはない。しかし、戦いそのものにためらいがある。
矛盾した悩みに、馬超は苦しんでいた。

馬を止め、周囲を見回す。
小高い丘のうえに立つ馬超の目の前に、曙光が、厚い雲間から大地におりてくる光景がひろがっていた。蜀の土地に来て、唯一感動した光景だ。
故郷では、地平の彼方をながめやって、あの向こうにあるものに、さまざまな想像をはたらかせて楽しんでいた。
いまは、まさに想像していた地平の彼方に立っているわけだが、その先にもまた、彼方の大地がひろがっている。
大地の際(きわ)に行ってみたいと思う。
空想をはたらかせているときは、馬超の心は芯から自由であった。

馬超はふと思い立ち、九門古城の入り口になる、墳墓のところへと足を伸ばした。
桑畑の果てに、埋もれるようにして打ち捨てられた、円形のさびしげな墳墓がある。
だがこの地下には、壮麗かつ巨大な迷宮がひろがっているのだ。
『得ればかならず天下を取れる宝』などと、ずいぶん夢のような話ではないか。
この夢に群がり、多くのものたちが今日も血を流している。この地下には戦場がある。

その入り口を見つめつつ、馬超はさまざまに思いを馳せる。
法正から、孔明叛逆の話はなくなった、と言われたとき、馬超はわけがわからなかった。馬超は、漢族の、策謀とか言う名のやりとりがどうしても理解できない。
ただ、この地下で、不死者とおぼしき男たちと必死に戦う翊軍将軍を見て、すこしうらやましいと感じた。
必死の目をして、戦っていた。この男には、守る相手がいるのだと思った。だから同情して手を貸した。
しかし、命を賭けて守る者が、血族ではなく、いつ裏切るかわからぬ赤の他人である、ということに、馬超は違和感をおぼえる。これも、周囲になじめない原因のひとつだ。
血族こそ、なによりも守らねばならぬ生きた掟であり、なにをおいても優先させるべきものだ。
しかしここの連中と来たら、義のためだかなんだか、赤の他人のために血族を平気で犠牲にして、どころかそれを自慢するような素振りをみせる。馬超の故郷では、そんな人間は、軽蔑と嘲弄の対象になるだけなのに。
だから馬超には、義人というものが胡散臭く見えてしかたがない。
義理堅い、といわれている劉備にしても、関羽にしても、孔明にしても、趙雲にしても、どこか得体がしれない。世人が、なぜかれらを賞賛するのかがわからないのだ。
不可解の最たるもので、あれから、諸葛亮からもなんの沙汰もない。法正はひとりでなにやら動き回っているようだ。明確なものはなにひとつない。
馬超はけして愚鈍ではないのだが、根底にある文化に、差がありすぎるのである。
わけのわからない漢人たちよ。俺を一体、どうしようというのだ。

「早朝に墓参りか。感心だな」

と、低めの、どこか揶揄するような声が背後からかかる。
思わず剣に手をかけるが、抜くのはやめた。おそらく相手は抜かないだろうと予想できた。
「貴殿もな」
そう言って振り返ると、そこには白馬を引いた趙子龍の姿があった。
ふざけているのか、というくらいに見目良い男である。自分も男ぶりがよいともてはやされるほうだが、これほどすべてが整った男も珍しかろう。自分よりすこしばかり年上のはずであるが、年若に見える。
成都に入ってから、馬超の勇名に惹かれて、さまざまな階級の、さまざまな職業の人から、誼を通じたいという申し出をうけていたが、馬超は、そのほとんどを断っていた。武人のなかにも寄ってくる者がいたが、いまひとつ、気を置くことができなかった。
馬超はけして過剰に奢ってはいないが、自分に寄ってくる武人たちが、小物に見えた。だから無視をした。
だが趙雲には、ほかの武将にはない、余裕のようなものがあった。
張飛などが、益州にはいるなり、名士たちと交流をはかろうとして、滑稽なまでにあちこち訪問して回っているのを筆頭に、そのほかの武将たちも、己の地位と地盤を固めるために、毎日のように酒宴をひらいたり、地元の名士たちと婚姻をむすんだりしているのにたいし、趙雲は、山のように静かに構えている。
理解をすることはむずかしいけれど、話は通じそうな男だ、という印象がある。かといって自信家の持つ、鼻につく余裕ではない。
「古城へ潜るつもりか」
と、趙雲は単刀直入に尋ねてきた。妙に緊張感がないのは、おなじ主をいただく武人同士、連帯感があるからなのだろうか。とはいえ、属するところはちがうのだが。趙雲は、荊州側の筆頭たる孔明に近すぎる。
「どうしようか迷っていたところだ。そういう貴殿はなにをしに来た」
「墓参りさ」
冗談を言うとは思っていなかった。
趙雲は、穏やかに笑みさえ浮かべて、むずかる白馬の馬面を撫でてやっている。
傍から見たら、気の置ける友同士が、遠乗りのあとに休んでいるように見えただろう。
この男、俺を籠絡せん、としているのか。
馬超は、訝しむ。
しかし趙雲は、馬超よりも、むしろ自分の白馬のほうが気になるようですらある。馬は、落ち着かない様子で、鼻息を荒くしている。
「馬というものは敏感なものだ。古城の気配をどこかで感じ取るのかも知れぬ」
世間話をしにやってきたのではあるまい。いかにも朝駆けをしそうな男ではあるが、この曰くつきの土地でばったり遭遇する、などというのは、できすぎている。
ふと思い立ち、馬超は尋ねてみた。
「聞いてよいか、貴殿は『得ればかならず天下を取れる宝』を欲しいとは思わぬか」
「思わぬ」
趙雲はきっぱりと即答した。
「なぜだ」
「天下を治めることのできる器ではないからだ」
自分の分を知っていると誉めてやるべきなのであろうが、悟りすぎていておもしろくない。忠義の士と名高い男であるが、すこしくらい迷ったほうが、人間味があるというものだ。

「では、貴殿の守っている男が、宝を欲しいと言ったらどうする」
趙雲が怪訝そうに眉をしかめたので、馬超は意地悪くつけくわえた。
「劉左将軍ではないぞ。軍師将軍のほうだ」
しかし、趙雲は、ああ、と軽く流すと、答えた。
「あれは、純粋に天下を取るためには欲しいとは言わないだろうな。もしも『得ればかならず天下の人々の心を得られる宝』ならば、なんとしても取って来いというだろうが」
「そんなものがあるなら、俺が欲しい」
と、こたえて、馬超は思った。むなしい問いかけに、むなしい答えが返ってきた気がする。
「冗談は抜きにして、尋ねたいのであるが、翊軍将軍、貴殿がここに来られた理由は?」
「なんとなく貴殿がここにいるのでは、と思ったからだ。このあいだの礼がまだであったろう」
「それだけか」
おどろく馬超に、今度は趙雲がからかうような笑みをうかべる。
「貴殿の様子を探りにきたのもある。尚書令は元気かね」
「知るか」
本当に知らない。尚書令とは数回顔をあわせただけで、公の場で酒席をともにしたくらいしか、付き合いが無いのが実情だ。こいつ、何が言いたいのだ?
「そうか。うちの軍師は元気だが」
「だからなんだ」
「左将軍府で人事異動がある。左将軍長史に許文休どのが就任し、官位はまだないが、董幼宰どのがしばらく軍師の仮の補佐としてつくことになった」
「それがどうした」

そんなちまちました人事の情報が、自分の何に役に立つ、というのか。
そうして、この男はその話を自分にして、なにを企んでいる? 小癪にも、人を食ったような笑みを浮かべているのはなぜだ?

「馬孟起、おまえはひとりだな」
「ひとり?」
そうだ、と趙雲は大きくうなずいた。
「俺はおまえの事情には疎い。なんのために古城へ潜るのかも知らぬ。俺にわかるのは、おまえがたったひとり、ということだ。地上でも、地下でも」
「おまえの目は節穴か、趙子龍。俺がひとりなのは、いまだけだ」
趙雲は、今度は薄く笑った。
「だれがいようと、何人いようと、おまえは常にひとりだ。だれも信じず、だれからも信じられない。義を知らぬ異邦の将。呂布のごとき反覆常なき者」
「俺を怒らせたいのか、物好きだな」
馬超は眼差しをけわしくして、趙雲を見据えた。出方によっては、剣を交えることも厭わない。
しかし趙雲は、馬超の怒気を真正面から受け止め、口元に浮かべていた笑みをひっこめて言った。
「おまえの目的なんぞ、俺にはどうでもよい。ただし、これだけは言っておきたかったのだ。
主公も軍師も、おまえの不穏な動きを知っていながらも黙って見逃しているのは、おまえを信じているからではない。おまえの抱える涼州の兵士たちが必要だからだ。彼らは、いまや巴蜀の防衛になくてはならない存在だ。その大将たるおまえを、惜しんでいるにすぎぬ。
しかし、いまは徐々に状況がかわりつつある。おまえの従弟のほうが、我らに順応するのが早い。彼がもっと我らに馴染めば、おまえの存在は、むしろ疎ましいだけになるだろう」

「だまれ!」

馬超の脳裏に、曹操のはりめぐらせた、薄汚い策謀の件がよぎった。
こいつ、こんどは俺と岱を引き離そうというのか。生き残った唯一の血族。けっして裏切ることのない、地上でただひとりの将。
「その喋りすぎる口を閉ざすといい、翊軍将軍! それ以上、戯言を語るつもりならば、容赦はせぬぞ! この俺が何者かを忘れてもらっては困る。曹操をも怖気させた錦馬超だ。おまえの下種な愚弄には乗らぬ!」
しかし趙雲は、馬超の激しい反応に、平然としている。
それどころか、むしろ困ったような顔をしているのは、なんなのだ。
その反応に、馬超の怒りは鈍った。怒らせるとわかっていて吐いた言葉ではないのか。
「うむ、やはり俺は口下手なのだな。愚弄するつもりはないのだが」
「ふざけるな! 貴殿の顔を立てて、今日はこのまま無傷で帰してやろう。しかし、次は無いぞ!」
と、馬超は言ったものの、趙雲が立ち去ろうとしないので、仕方なく自分が馬にまたがり、去る形となった。なんとなく釈然としないまま、趙雲に見送られるような形で、愛馬にまたがると、そのまままっすぐ屋敷に戻って行った。
わけがわからぬ。まったくもって、わけがわからぬ。
だから、漢族はきらいだ。
そう心のなかでつぶやきながら、馬を走らせていた。

                        ※               ※

「莫迦。あんな説得の仕方があるか」

おそらく物陰で、じっとやり取りを聞いていたのだろう。馬超が立ち去った後、渋い顔をして孔明が桑の木の影からあらわれた。
「やはり俺は交渉ごとには向かぬか」
「ずいぶんと気に入ったようだな、子龍。馬超に、わざわざ本当のことを教えて、警告してやるとは」
「勿体無い、と思ったのだ。あれはやはり、天下の傑物だぞ」
だが、孔明は首をかしげるような仕草をして、言う。
「そうかもしれぬ。しかし、馬超は声望が高すぎるのだよ。いつかそれが仇となり、我らの邪魔になるかもしれぬ」
「おまえの言うとおりになるだろうな、このままだと。荊州の人間を、さかんに馬岱に近づかせているのも、おまえの采配か」
趙雲のことばに、孔明は肩をすくめて見せる。
「将を射止めんとすればまずは馬を射よ」
「馬超は切り捨てるのか」
「仕方あるまい。あれを御すことはできぬ。曹操と堂々とわたりあった戦果もさることながら、一族をことごとく滅ぼされたという悲劇が、馬超につよい求心力をあたえているのだよ。
あの激しい人生に、人は自分の思いを託したくなる。
だが、それは蜀では許されぬ。人の心をあつめるのは主公だけでよいのだ」
「そう思うのは、凡百の策士だ」
「わたしも策士だよ、子龍。なんだ、怒っているのか」
その問いには答えなかった。
趙雲は、一呼吸おくと、孔明を頑なにさせないように気をつけながら、言った。
「おまえは、ただの策士になってはならぬ」
「汚い手は使うな、というのか」
孔明は柳眉をきつくしかめてみせる。
近頃は、孔明の目をまっすぐ受け止めることがむずかしい。
視線に気圧されるのではない。つらくて見ていられないのだ。

蜀に入った頃から、さびしいことではあるが、趙雲は、自分だけでは、この眠れる龍を支えることが、できなくなっていることに気づいていた。
だれよりも理解している、という自負はある。自分が衰えた、というわけでもない。
理由は、孔明の器が、蜀という巨大な土地を得てから、おどろくべき成長をしているからである。
それは新野で初めて会ったときに抱いた直感が、正しかったことを示すものであり、主騎という立場以上に、孔明を守ってきた趙雲からすれば、よろこぶべきことであった。
ただ、弊害がある。あらたな地平を手に入れた龍は、いままさに天下に向けて飛び立とうとしているのだが、心の準備のほうが万端ではないのだ。
天才というものにありがちな、あきれるほど単純な罠に、孔明もはまりつつある。

つまり、奢りである。

あまりに若くして名声と地位を手に入れてしまった。途中、己の根底を揺さぶるほどの挫折も味あわず、順調に来すぎてしまった。
周瑜や龐統といった、孔明を凌ぐ、あるいは匹敵する人物との対立もあったけれど、それはすべて、彼らの死というかたちで決着がついてしまった。
この非凡な軍師をして、その感性を研ぎ澄まさねば対峙できぬ人物が、もはや周囲にいない。
あやういことであった。
いままでやってこれたのは、けっして運だけではなく、孔明の人柄に魅了された多くの人々の助力によるものだということを、この青年は失念しつつある。
趙雲は黙っていなかった。
ことあるごとに諌めるのであるが、不動な態度をだれよりも示さねばならない孔明が、ざわついた空気に流され、法正相手に政争に励む有りさまだ。
趙雲は、おのれの言葉が、孔明に届かないように感じ、歯がゆいおもいをする。
いまもそうであった。

「取り除くばかりが策ではなかろう、といいたいのだ」
「ふむ、ではどうする。たしかに、馬超を味方につけることができたら心強い。
だがな、並大抵のことで成し遂げられることではないぞ。いや、はっきり言うならば、無理だ」
荊州にいたころの孔明ならば、わたしに無理なんぞない、と言い切って、馬超を心服させるための策を懸命に考えただろうに。
「やってみなければわからぬ」
孔明は怪訝そうに首をかしげる。
「ほんとうに意外だな、そんなに馬超が気に入ったのか」
だれのためだと思っているのだ、と趙雲は苦りつつ、答えた。
「気に入ったとかの問題ではない。おなじ将兵をあずかる武将として、軍師の考えに抵抗があるのだ。
もし馬超が、我らのよき仲間になることがあったなら、考えを変えてくれるか」
「奇妙な言い方をするな。だが、まあ、考えを変えるだろうな」
「あやふやな言い方はよせ。約束してくれぬか」
「なんだ、こだわるな。うむ、約束しよう」
よし、と趙雲は肯いた。俄然、やる気が出てきた。
しかし孔明は、なぜ趙雲がそれほど張り切っているのかがわからない。
「とはいえ、相手は天下に望みを捨てていない難物だ。苦労するぞ」
「軍師、馬超がいまだ天下を望んでいると思うか?」
「主公は、しばらくは馬超も彭恙も捨てておけといったが、わたしは、それはあやうい、と思っている。
主公には申し訳ないのだが、そうやって捨てておいたら、尚書令なんぞと繋がったからな。
黙っているわけにはいかなくなった」
「主公がなぜ、そうおっしゃったのかはわからぬか」
孔明は、怪訝そうに柳眉をしかめて趙雲を見る。趙雲は、すこし残念そうに笑った。
「わからぬか」
「含みのある言い方だな。なんだ?」
「軍師、俺も貴殿の信条に倣って、言えるうちに言っておくが、貴殿がもし失脚するようなことがあれば、俺も陣中を去る。
それくらいの覚悟で、俺は貴殿の主騎をしているのだ。それを忘れるな」
孔明は、唐突な趙雲の宣言に、戸惑いながらもうなずいた。
「わかった。軽率な真似はしない」
「それが確認できてよかった。帰るぞ」

帰る、といわれて孔明はたちまち渋い顔になり、ぐずぐずとその場を離れない。やれやれ、と趙雲は軽く息をつき、言う。

「軽率な真似はしないと言った舌の根もかわかぬうちに、愚かな真似をするつもりではなかろうな?」
「馬超に礼を言うためにここに来た、というのは嘘か」
「俺は馬超の主騎ではなくおまえの主騎だ。おまえが朝方、こっそりと董家を脱け出したのを気づかないと思ったのか。
まったく、狭い屋敷に大の男がひしめき合うのもぞっとせぬ、と思ったが、思わぬ利点があったものだ。
いいか、おまえ一人で古城へ潜ったところで、わずかも先に進まぬうちに、例の不死者どもの仲間入りだ。気持ちはわかるが、いま、おまえに出来ることはない。大人しく屋敷に戻って、草の集めてくる情報を待て」
趙雲がいうと、孔明は黙って、しかし、馬超がさきほどまでそうしていたように、じっと古城の入り口を見つめている。根気よく、趙雲はつづけた。
「冷静になれ。それこそが罠かもしれぬ。喬を攫った相手の動向を見極めてから動くのだ。
よいか、人質に取られたのは喬ばかりではない。幼宰殿のご子息と、費家の甥御も同様なのだ。
三人も攫ったのに、まったく音沙汰がない、というので焦れる気持ちはわかるが、おまえの行動ひとつで、三つの命があやうくなるのかもしれないのだぞ」
「わかっている」
「わかっているのならば、俺とともに董家に帰るのだ。
もしも、敵の正体があきらかになったならば、いつでも命令するがいい。
俺はおまえの言うとおりにうごく。それまでは、駄目だ」

わかっているさ、とつぶやきながら、孔明は身体を隠して繋いでいた馬のほうに向けつつも、目だけは、じっと古城を見ていた。
おそらく趙雲とここで遭遇しなくても、孔明は古城にひとりで潜るような真似はしなかっただろう。
切れ長の瞳の縁が赤い。ろくに眠っていないのだ。

趙雲は、歩みのおそい孔明を促すように、その背を軽く押すと、古城の入り口である墳墓から離れさせた。
問題は山積みだ。しかし、片付かないはずがない。いままでもさまざまな苦難にぶつかって、そのたびに乗り越えてきた。
だからきっと、今度もうまくいく。
念じるように心のうちでつぶやきながら、趙雲は、古城をあとにした。

二十三話へつづく…
インデックスへ戻る 
更新履歴へ戻る