捜神三国志・燭龍本紀
第二十一話 よそものがいっぱい
夢を見ていた。
妻が允をあやしている。いちばん陽のあたる部屋に、董和が休みの日に自分でつくったゆりかごに赤ん坊の允を入れて、まるで日差しがつかめるようなしぐさで、けんめいに宙をつかもうとする、そのやわらかくちいさな手を楽しそうに見ている。
董和は、その背中越しに、ゆりかごの中を見た。
子供ができる前は、おそろしさがあった。自分が父親になれるかどうかの自信がなかったのである。臨月をむかえていく妻のおおきな腹を見るたびに、自分の人生がもはや完全に一人だけのものではなくなったことを思い知らされた。
そうして、恐ろしさと不安とではじめて生れ落ちた息子を見たとき、董和は、雪が解けるようにして、自分のなかにあった不安が自然と消えていったのを感じた。産婆から渡された息子は元気いっぱいに、泣き声をあげていた。生まれたばかりなので皺くちゃで、赤くて、へその緒がついたままなのも気味が悪い。
しかし、か弱きもの、庇護すべきものであった。
腕にすっぽりおさまってしまう小さなものであったが、力強さを秘めていた。その人生の先を思ったとき、董和は、おのれの人生をはじめて誇らしく思えた。いままで積み重ねてきたものを、この子に示すことができる。なにひとつ、恥じるものがない道を歩いてきた。
ときには、流されてしまおうかと迷ったこともあったが、いまはそうしなかった自分を誉めてやりたい気分であった。
この子の歩く先にどんなものが待っているだろう。それを想像するだけでわくわくしたし、刹那などない、すべては脈々と続いているのだと、自分もまた、連続する足跡のひとつなのだということをおぼえ、さらに感慨を深くした。
第一子であったから、その感激は深かった。董和は息子を可愛がった。子のないときよりも、子が生まれたあとのほうが、すべてに張りが出た。辛いことがあっても、それを乗り越えれば、息子のためになるのだと、そう言い聞かせてきた。
元来、自分のためよりも、だれかのために努力するほうが、力を引き出せる性質であった。
息子の誕生は、董和をして、巴蜀にこの人あり、と言わしめる人物に成長させるきっかけともなった。
ゆりかごの中で、允が笑っている。
なんと幸せそうに笑っているのだろう。その無垢なまなざしと、笑顔を見るだけで、董和はすべての疲れやしがらみを忘れることができた。
「この子は、あなたが大好きなのですわ」
と、妻が言った。ゆったりとした喋り方をする。
「朗君、お守りくださいましね。この子は、だれより貴方様を必要としているのですから」
「もちろんだとも」
もとより、そのつもりだ。深くうなうずくと、妻が振り返った。
「きっとでございますよ」
返事の代わりに董和は、妻の手を取った。水仕事で痛めつけられて、とてもたおやかとは言いがたかったけれど、働き者の持つ、よい手であった。
遠くで、だれかの叫び声が聞こえた気がした。
「幼宰さま!」
目を覚ますと、おのれを覗き込んでいる晴嬰の顔があった。
亡き妻は、いつも鷹揚にほほ笑んでいるおとなしい女であったが、芯はつよかった。晴嬰は勝気ではっとするほど美しい笑顔をみせる目立つ娘であるが、ガラの悪いふりをすることはあっても、本当は内気である。
そういえば、晴嬰が笑っているところを最近見ていないな、とぼんやり思いつつ、董和はいつのまにか自分の屋敷に戻ってきたことを知った。
目に陽光がまぶしい。かつてゆりかごを置いていた部屋は、妻が死に、允が成長したあと、自分の部屋として使っている。だからあんな夢を見たのか。
「よかった、古城から出るなり気絶してしまわれて、まったく目を覚まされないのですもの」
と、安堵のためか、なみだ目になりながら、晴嬰が董和の額に手を当てる。晴嬰の手も、亡き妻とおなじで働き者の手をしていた。
「大丈夫、ねつは下がったようです」
と、言ったあと、晴嬰らしからぬことに、ぼそりとつぶやく。
「信じられないけれど、あの人の薬、ちゃんと利いたみたい」
「あのひと? だれのことだね」
乾いた口でそう尋ねると、晴嬰が答えるよりさきに、そのひと本人が口を挟んできた。
「おや、気づかれたようでなにより」
この、落ち着いているようで、どこか人を喰ったような、張りのある声は。
起き上がろうとする董和を、晴嬰と、そうして寝台の反対側にいた孔明が止める。孔明の手は、晴嬰の手よりも繊細そうで白くてきれいであった。
「まだ休んでらっしゃい。あれから二日も経っていないのですから」
「わたしはまるまる一日、寝込んでいたのか」
「左様。あなたに処方した薬は、副作用として強烈な睡魔におそわれます。そのほうが、回復がはやい。気が済むまで寝てらっしゃい」
と孔明は言うのであるが、その口調はあまり柔らかなものではない。
もともと、男にしては端麗すぎる面差しのために、すこしでも内面に棘があると、とたんに表情がきつく見えてしまう。
ひとたび、諸葛孔明という人物の内面の癖を読んでしまうと、あれほど表情からは掴みきれなかった心の動きが、手に取るようにわかってくる。そういう不思議なおもしろさをもつ青年だ。
「なにか気にかかることでもお持ちか」
と、董和が答えると、孔明は驚いたように眉をあげた。
「人の心配をしている場合ではないでしょうに。姑娘、幼宰殿に水を」
わかっております、と憮然とした表情で、晴嬰は水を董和に含ませた。どうやら、勝気で心配性な晴嬰と、冷厳とした見た目をうらぎって世話好きな軍師とのあいだに、眠る董和をめぐって、何やらいざこざがあったらしい。
董和は、じっくりと水を口に含めながら、自分が冤罪で屋敷から引き出されたこと、鞭打ちの刑を受けたこと、首を刎ねられるために刑場に引き立てられたことを順番に思い出していた。そうして、法正と孔明のあからさまな対立。
「貴殿、ここにおられるということは、反逆の罪はまぬがれたようですな」
「もとより、反逆の事実などないのですから、当然でしょう」
「ではなぜ左将軍府におられない」
「しばらくお休みをいただいておりますので」
「休み?」
怪訝な思いに捕らわれる董和の後ろに、見慣れぬ家人が、荷物をかかえてウロウロしているのが見えた。そうして、孔明にむかって畏まる。
「将軍、お話中に失礼いたします。この壷は、どちらに置けばよろしいでしょうか?」
うん? と孔明は気だるげに振り返ると、
「適当に、見目良いふうに置けばよい」
とだけ言って、董和に顔を戻す。董和は、ぽかんとしてそのやり取りを聞いていた。
「お伺いしたいのだが、なにゆえ、わが屋敷に壷が持ち込まれているのですかな?」
尋ねているあいだにも、孔明の背後を、えっさほいさと人夫たちが、重そうな寝台をかかえて横切っていくのが見えた。どうも董和の部屋のとなりにある物置部屋に運び入れているようである。
そうして入れ違いに、やはり見たことのない女たちが、屋敷をてきぱきと掃除している。
「軍師将軍、貴殿の処方された薬には、幻覚作用もあるのか」
「ありません。もしわたしの背後の者たちのことをふしぎに思っておられるならば、ずばり言いましょう。今日から、わたしはこの屋敷に住みます」
「なんですと!」
「いまはお止めください、傷にさわります!」
と、晴嬰が孔明に抗議をするが、孔明はとんと構わずつづける。
「もちろん、主は幼宰殿、あなたです。本来ならば、買い付けた隣の家に越せばよい話なのですが、補修が間に合わないので、しばらく間借りいたしますぞ」
「待たれよ。貴殿の屋敷に住めない理由をお聞かせ願いたい」
「わが留守に、賊が入ったのですよ。家人はほとんど死に絶えてしまい、とても住めたものではありませぬ」
「賊が…もしや、尚書令の私兵が?」
「別口ですよ。そういうわけで、しばらくお願いいたします」
「お願いされる筋合いがなかろう。出て行ってくれ。このような手狭な屋敷、貴殿らまで住み込んだら、狭くて狭くて息もできなくなる!」
「だめです」
きっぱりと孔明は断言してのけた。そのキッパリさ加減があまりに明快なため、董和は二の句がつげない。
「荷物はもう運び入れてしまいました。それに、九門古城のこともある。いまだ傷の癒えぬあなたとじいやが二人でいるよりも、わたしたちが一緒にいたほうが心強いでしょう」
「古城の話が、なぜ出てくるのだ?」
董和が問うと、孔明は意外だったらしく、澄んだ双眸を見開いてみせた。
「刑場から逃げるために、古城を通ったのはおぼえてらっしゃいますな? 刑場のそばの墓場からつながる入り口の出口は、この屋敷にあるのですよ」
董和は、しばらく孔明の言葉が飲み込めず、返事をすることができなかった。
「本当におぼえてらっしゃらないのですか。古城の入り口のひとつは、貴殿の屋敷のひとつ、この部屋のとなりの物置部屋の下です」
「なんだと?」
「さきほど貴殿の家令に聞きましたが、あの部屋は日陰というのもあるけれど、異常に冷えるという話でしたな。それもそのはず、あの部屋には古城の入り口があったので、地下から流れてくる風が入り込むので寒かったのですよ」
そこまで言われて、董和はようやく気がついた。
「そうか、貴殿はそれを知っていたのだな。だから、わが屋敷を売れ、と言っていたのか」
「そのとおり。奇妙な縁ではありませんか。あなたはやはり、古城に入るべくして入った御仁なのかもしれませぬな」
「わが屋敷に入って、そうして古城の入り口を見張る、というのか」
「左様。貴殿も覚えておられるか。あの不死人たちを。彼らがなにゆえあのような無残な姿に成り果てたのかはわかりませぬが、我らの敵であることはまちがいない。あの入り口を通って、いまにも襲ってくるかもしれませぬ。そうした場合、怪我を負っている貴殿と、貴殿の老いた家令とで太刀打ちできますかな」
「それはたしかにそうであるが」
「そういうわけで、古城については安心なさい。わたくしが自ら見張ってさしあげるのですから」
ありがとう、と素直に言える状況ではない。自分の唯一のやすらぎの場所である屋敷に、さして親しくない若者が一緒に住むのだ。
とはいえ、この若いくせに屈折しまくっている偏屈な青年は、いまをときめく左将軍府府事であり、荊州人士を代表する軍師将軍。息子のためにはなる。
と、そこまで思いいたり、允はどうしたであろうと、董和は思った。
「晴嬰、休昭はどこに行ったのだ」
それは、と晴嬰が答えるのを遮るようにして、孔明が言う。
「費伯仁のところへ身を寄せておりますよ。ここ数日、あまりにいろんなことがありましたので、貴殿が落ち着かれるまではと、伯仁どのが自ら引き取ってくださったのです」
「左様か。あの御仁ならば信頼できる」
費伯仁の心遣いに感謝し、ほっとした董和であるが、なぜだか晴嬰は目をきつくして孔明をにらみつけている。孔明はどこ吹く風の様子であるが。
孔明や晴嬰にすすめられるまま、董和はそのままふたたび眠り、そうして夕方、目を覚ました。
孔明が処方したという薬の効き目はすばらしく、まるで焼き鏝をえんえんと押し当てられているような痛みを背中におぼえていたのであるが、夕方になると、物を押し付けなければ痛まないくらいにまで落ち着いていた。
孔明とその部下たちがせっせと引越しに励んでいたせいか、屋敷がどうも埃っぽい。外へ出たいと思い、董和は晴嬰の力を借りて、起き上がった。
孔明の采配がよいのか、それともつき従う家人のなかに稀な感性の持ち主がいるのか、狭い屋敷に孔明分の調度や家具を運び入れたにもかかわらず、屋敷は以前よりもすっきりと片付いているように見えた。
孔明の連れてきた家人はどれも立派に躾けられており、この者とは共に住めないと思わせるような人物はひとりもいない。
「幼宰様はお人が良すぎます。このまま乗っ取られたらどうなさるおつもりですか?」
晴嬰が頬を膨らませるのを、幼宰はわらってたしなめた。
「そうしたらそのときだ。まずはお前の家に行こうかな」
晴嬰は、顔を真っ赤にして絶句している。
かつては晴嬰の想いが重たく感じられ、腫れ物をあつかうような態度を取らざるを得なかったこともあったが、ふしぎなことに九門古城に潜ってからは、自分があまりに細かいことにこだわりすぎていたと思うようになっていた。
西の空に傾きつつある太陽を眺めることができるという、それだけで満足に思える日が、以前にいったいどれだけあっただろう。
かつては成都中の不正を追いかけて、奢侈にふけって日々をむなしくついやす人々を軽蔑したこともあったが、彼らを追って、ほかを見回す余裕のなかった自分も、同じ穴のむじなであったかもしれぬ、とさえ思う。
そんなことを考えて廊下を歩いていると、目の前を、浅葱色の衣をまとった小柄な男が立ちふさがった。その立ち姿は小柄ながらも洗練されており、隙がない。
その顔を見て、董和はおどろいた。
すっかり、臆病な書生の仮面を脱ぎ捨てた胡偉度であった。
以前に栄耀飯店にて出会ったときとは、完全に別人である。よくよく見ると非常に整った顔をしているのだが、その唇には不敵な笑みさえ浮かんでいる。
「偉度、もう怪我はよいのか!」
「おかげさまで、鍛え方がちがうのでね。あんたも元気そうでよかった。軍師の薬は効くでしょう」
喋り方までちがう。董和は戸惑ったが、しかし嫌な気分にはならなかった。これで、胡偉度が以前の臆病な書生のままであらわれたほうが、董和は傷ついたであろう。
「しかしおまえのほうがはるかに深手であったというのに。顔の腫れもひけたようだ。よかったな」
「走り回るのはまだできないけれど、ほかは以前のとおりですよ。あんたが目を覚ましたときいて、挨拶に行こうと思っていたのでちょうどよかった」
「挨拶?」
「そう。わたしもこの屋敷に一緒に住むので、その挨拶に」
もう董和は驚かない。庭のほうで、とんてんかんと釘を打つ音が聞こえているのは、もしかしたら家人の仮住まいのための掘っ立て小屋でも作っているのではないか…
「おまえもか。しかし、部屋がないぞ」
「屋根さえあれば十分です。軍師から聞きましたけれど、古城の入り口を軍師が見張るから安心せよと言ったのですって? 大見得を切ったはいいけれど、あの人のことだから、本当にただ見ているだけになりましょう。敵が来ても、なんの役にも立ちません」
「ひどい言われようだな。しかし刑場では、軍師はちゃんと戦っておられた」
「あれは業物がよいから、とりあえず格好がついた、というだけの話ですよ。軍師が奮った剣は、趙将軍が長阪において、曹操軍から奪った宝剣で、軍師に護身用にと持たせたものなのですよ。
ところが軍師ときたら、刑場で実際に抜いてみたらあまりに切れすぎるのにびっくりして、先日趙将軍に突っ返してしまったのです。そういうわけで、ますます戦力外です、あのひとは」
内容は辛辣であるが、どこか身内に向けた愛情にも似たものが感じられる。
孔明が刑場に乗り込んできたのは偉度を助けるためであることも考えると、主簿とその主、という関係以上に深いものが二人の間にあるのだろう。
「では、おまえならば、先日の不死人がやってきても、太刀打ちできるというのか?」
「もちろん」
と、胡偉度は自信たっぷりに、にやりと笑ってみせる。
その顔は頼もしいというよりは、不敵に過ぎて恐ろしくすら思えた。しかし、主簿というより主騎だな、と董和は思った。
偉度と別れて庭に出ると、果たして予想はあたっており、屋敷の側の庭の開いた部分を利用して、職人たちがせっせと掘っ立て小屋を作っていた。中には長星橋商店街の面々もいる。董和の姿を見ると、かれらは喜んで寄ってきた。
「心配しましたぜ、董の旦那。このまま目をさまさねぇんじゃないかとやきもきいたしやした」
「もう歩けるようになるなんて、やっぱり看病がよかったのかな、ねぇ、晴嬰さん」
掘っ立て小屋は、孔明がここに仮住まいでやってくる、と決まったときから突貫工事でつくりはじめたものらしく、あとは扉をつければ形になるところまできていた。
「いや、しかし思わぬことになったものだな。この小屋にはだれが住むのだろう」
思わず董和がこぼすと、商店街の面々は、無言のまま董和の背後を指さした。
そうして振り返ると、いつのまにいたのやら。同じく小屋を見あげている帯剣した男の姿があった。
趙子龍である。まさか?
「よくこれだけのわずかな時間でこれだけのものを作り上げられたものだな」
と、趙雲は、職人の親父さんたちを誉めた。それまで親しげであった親父さんたちは、趙雲には畏まる。
「へい、手抜きなんかしておりません。ちゃんと隙間風がはいらないように作ってみましたぜ」
「うむ、信頼しておるぞ。というわけで、しばらく厄介になるがお許し願いたい、幼宰殿」
「許さなくても住まわれるおつもりなのでしょうな」
董和が言うと、趙雲は男らしく高らかに笑った。
孔明などは一回りも年が離れているので、息子のように思えることすらあるが、趙雲とは年がさほど離れていないので、対応もいささか硬質なものとなる。趙雲は董和の緊張に気づいているだろうが、気にしないふうで笑みを浮かべている。
「実を言うと、偉度もいるのであれば、俺までここに越す必要も無いと思ったのだ。しかし、軍師にどうしてもと頼み込まれたのだ」
「ほう。万全に万全を期す、ということでしょうか」
わずかに毒を含む董和の言葉に、趙雲は首を振った。
「自分のためではない。貴殿のためだ。古城の入り口から敵が這い出てきた場合、偉度はたしかに戦うだろう。しかし、あれの頭には軍師のことしかない。あれは将ではなく、純然に主騎以外の何者でもないのだ。おそらく俺以上にな。
軍師と貴殿が同時に危機に晒された場合、迷うまでもなく偉度は軍師を助ける。貴殿は後回しになるだろう。しかしそれでは軍師がおさまらぬ。
かといって、自分が戦える男ではない。それなりに腕におぼえはあるようだが、それも十年以上前の話で、実戦経験は皆無に等しい。しかもせっかく、もたせてやった宝剣も、切れすぎるから怖いというので突っ返してきた。困ったものではないか」
と、ふたたび趙雲は声をたてて笑う。
偉度といい、この趙雲といい、表面上は孔明をこきおろしているわりに、正反対の感情が、言葉の裏に流れているのを読み取れるのはなぜだろうか。
「で、わが屋敷に詰められるのはよいが、いつまでいるおつもりか」
「うむ、それは古城の件が落ち着くまでになるであろう」
いつ落ち着くのか、という問いは愚問であろう。
董和は、八尺もの男がふたりもせまい屋敷をうろうろしているさまを想像し、いまからうんざりした。
「それがしには息子がひとりおりまする。わたしなぞは免官になった身。しかし息子は出仕したばかりで気の張った毎日を過ごしております。
親の愚言としてお聞き願いたいのであるが、そのあたりお気遣いいただけたらと思いますが」
董和が言うと、それまで明朗な笑顔をうかべていた趙雲は、言葉をにごし、あいまいに、うむ、だかああ、だかと答えた。
「やはり、息子のことをあのように頼むのはまちがいであったか」
と、董和は思わず晴嬰にこぼした。
「そんなことありません。若様は幼宰様にとっては宝物のようなものなのですから」
「とはいえ、やはりもう十七にもなる休昭が、文偉などとくらべるとしっかりしていないように見えるのは、わたしが甘やかしているからかもしれぬが」
「そんなことありません」
晴嬰はそう答えるものの、顔色がよくないように見える。西日の加減であろうか。
「そうだ、費家のほうに使いを出さねばならぬな。こちらが落ち着き次第、休昭に戻ってくるように言わねば。いつまでもあちらのご厚意に甘えるわけにはいかん。晴嬰、頼まれてくれるか」
晴嬰にしてはめずらしく返答がない。どうしたのだろうと顔を覗き込もうとした董和であるが、不意に、庭の茂みからがさごそと怪しげな音がする。
せまいとはいえ、庶民の家よりはずっと広い。敷地は屋敷よりも庭のほうが広く、手入れはしているものの、木々の配置のおかげで迷うことすらあるのであった。
だれが迷子になったのであろうと首を向けると、深みどりいろの茂みから、ぽっこりと赤いものが飛び出す。
赤頭巾であった。
董和はぎょっとし、拝跪しようと身をかがめるが、赤頭巾は茂みから手を伸ばして、
「いいから、いいから、今日はお忍びだから」
と、董和の動作をとめた。
「今日も、でございましょう」
董和が言うと、赤頭巾、こと劉備は頭巾の覆いを正面だけ開いて、人懐っこく、にっ、と笑う。
「今日は、幼宰さんに頼みがあってきたのだが」
と、劉備はちらりと屋敷のほうを見る。どうやら日も暮れたので掘っ立て小屋の作成は止めたらしく、木槌の音も絶え、厨のあたりからよいにおいとともに、女たちの声が聞こえてくる。
「そろそろ夕餉らしいな。孔明と子龍には俺が来たことはナイショにしてほしいのだが、ほかならぬ、孔明のことだよ」
わけがわからず董和は目をぱちくりさせる。
「軍師将軍が如何なされましたか?」
「ずばり尋ねるが、幼宰さんから見て、あれはどうだね。世間じゃ臥したる龍などと呼ばれているが、本当にその器だろうか」
董和は、劉備がこんな質問をする意図をつかめないでいたが、正直に答えることにした。
「龍の名に恥じぬお方になろうかと。しかしその器は未完。あのお方自身がいかに己の器を変えていくかによるのでは」
劉備は董和の言葉に、深くうなずいた。
「やっぱりあんたは人を見る目がある。悪いが、あんたについてもいろいろと調べさせてもらった。まだ全部じゃないが、おおむねあんたは信頼できそうだ。あんたをこのまま地に置いておくのは勿体無い。
そこでどうだろう、左将軍中郎将の職について、孔明を補佐してやってくれないだろうか」
「なんと」
思いもかけない申し出である。董和がびっくりしていると、劉備は言った。
「こんどの法正と孔明の争いは、いつかはこうなると予想のついていたものだった。それなのにわしも手を打てなかったのだから、二人ばかり責めるわけにはいかねぇ。
ただ、二人とも天下に恥じぬ才能を持っているのだが、力が拮抗しているのがよくないのか、このままお互い足を引っ張り合って、小さい器にまとまってしまう危険がある。
法正は孔明より年長だから、世知に長けているが、情に薄い。まあ、これはわしがしっかり側に置いて監督していれば、さほど目立たぬ欠点になるだろうよ。
問題は孔明のほうだ。あれは世知に疎いが情に厚い。美点なのだが、どうもそのあたりの均衡が、あいつの頭のなかで取れていないようなのだ」
「と、申されますと?」
「うむ、わしもいけないのだが、あいつがなんでもできるのをよいことに、いろいろ任せすぎてしまったのだ。
奇妙なもので、仕事をこなせばこなすほど、世の中を知ることができる、とは一概には言えないものだろう。
孔明としたら、これほどの職務をこなしているのだから、自分は智恵と実務を一致させることができていると思っているのだろうが、これは勘違いだ。
あいつがこのまま勘違いに気づかないでいたら、仕事はできるけれど、じつは表面しか世の中のことを理解していない、思いあがった大バカ野郎に成り下がってしまう。
あいつは自分のことはあとにおいて、人のために尽くす性分なだけに、そうなってしまったときのことを考えると、かわいそうでいけねぇ。
いままでは、孔明を叱る役は、わしなり子龍なりが勤めてきた。だが、もうわしたちのように、人生の大半を馬の上で過ごしてきた武骨者だけじゃ孔明を支えきることができないのだ」
劉備の言わんとすることが理解できてきた董和は、その申し出の責任の重さに、思わず身震いをする。
「わたくしをそこまで高くご評価いただけるのはありがたいことではございますが、しかしわたくしとて、劉璋の元、その政務を中心に行ってきた男というわけではございませぬ」
「しかし、あんたはわしたちが知らないことを知っているし、知らないものを見てきた。あんたならば、孔明に実務のなんたるかを教えることができる。
荊州のほかの人間は、若いし、実務経験が乏しいか、妙に対抗意識をむき出しにして、かえって話をややこしくしかねない。
かといって、ほかの益州の人間は、法正の顔色をうかがってしまってだめなのだ。やはりあんたしかいないのだよ」
魅力的な申し出である。無位無官の味気なさ、力のなさを思い知らされたあとだけに、左将軍中郎将という高位に復官できる、というのは願ってもない話であった。
しかし、孔明という青年の性格を考えると、これはむずかしい話でもある。劉備が懸念する傲岸不遜な面が、早くもふくらみつつある。これを矯正し、さらなる正しい成長を促さなければならぬ、というのだ。つまりは、成長しきっている大人を、さらに育てるという作業ではないか。
自分にそんなむずかしい芸当ができるのか?
「わしはあんたについては、自分の目が正しいと絶対の自信があるのだよ。あんたならば、孔明を助けてやれる。
孔明はいつか、わしなぞを飛び越えて天下に名前をとどろかすようになるだろう。そうしてかならず後世に名前を残す。
そのとき、あんたは後人に、孔明にはこの人がいたからこそ、名前を残すことができたのだと、言わせてみたくはないかね。
このまま衆に埋もれて気ままに過ごすのも悪くなかろうが、しかしあんたの培ってきたその経歴と知識は、まだまだ使っておくれとあんたに言っているような気がしてならないのだがね」
劉備とて、天下に名をとどろかす英雄のひとりだ。この男はまちがいなく、後世にその名を残す。董和は、非凡な器を擁しているこの男から、これほどまでに期待されている孔明という青年をうらやましくさえ思った。
「いつか語られた、息子のように思っている者、というのは軍師将軍のことでございましたか」
「うん? まあな。渋るあいつをムリに軍師に迎えた、っていういきさつがあるので、ちょいと責任を感じているというのもあるのだが」
と、劉備は照れたように言うが、本心は、かつて語ったとおりのものなのだろう。
迷う気持ちはなくなっていた。劉備が孔明と対峙したときに、自分がはじめて允を胸に抱いたときと同じような感慨をおぼえたのではないかと想像したのだ。
息子を思う父親の気持ちはみなおなじである。このまま無為に過ごすよりは、おのれの培ったものを後世に引き渡すことこそ本当ではないか。
董和はじっと劉備の目を見つめた。おなじく真摯な父としての顔がそこにある。
「貴方様のお心、よくわかり申した。ただ、しばらく考える時間をいただきたい」
「おう、かまわねぇよ。ゆっくり考えてくれ。まあ、考えるついでに左将軍府に遊びに行ってやってくれねぇか。考える参考になるだろうよ」
劉備はそう言うと、董和ににっこりと笑って見せた。