捜神三国志・燭龍本紀
第二十話 不死者の門
劉備が派手に兵士や観衆を引っ掻き回しているので、その注目は、ほとんどそちらに向かっている。法正からして、顔を真っ赤にして、あの不埒な賊を捕まえよ、と叫んでいる。
劉備は、見事な手綱さばきで白馬を乗り回すと、法正をさらに激昂させるべく、中腰になって、自らの尻をぺんぺんと叩き、法正を嘲弄した。
「捕らえよ、かならず捕らえよ!」
法正は兵卒に下知する。
そして、到着しつつある馬超・彭恙の部隊にも、同じように叫ぶのであった。
「軍師将軍が叛乱した! これを必ず捕らえ、広場にその首を晒せ!」
「冗談だろう」
と、董和の乗る馬の手綱を引きつつ、ぼそりとつぶやいたのは、軍師将軍その人である。
董和と孔明、そして長星橋商店街の面々、胡偉度、最後に趙雲、という一行は、追っ手を気にしつつ、桑畑の中を急いでいた。
もう十分に注目を引いたであろうと判断したのか、劉備が奇声をあげつつ、走り出すと、荊州兵もそれにならう。
彼らを追って、馬超・彭恙らもそこに続く…ことを期待した一行であるが、白頭巾をしたままの趙雲が舌打ちをし、先頭を行く孔明に叫んだ。
「急げ、連中が追ってきた!」
振り返ると、彭恙と分かれた馬超の部隊が、孔明たちの姿に気づき、こちらへ向かってくる。
趙雲のことばに柳眉をしかめ、孔明が馬上の董和に言った。
「なんと涼州兵をかわさねばならぬとはな。幼宰殿、馬の足をすこし速めますぞ。よろしいか」
董和は、背中に受けた鞭打ちの傷の痛みに耐えながら、肯いた。
馬が足を進めるたびに、その振動で傷が痛むのであるが、いまは泣き言を言っている場合ではない。
「わたしはかまわぬ。軍師将軍、胡偉度は」
孔明が背負っている胡偉度は、無事であることを教えるために、うめいて意識があることを知らせる。
「門はあと少しだ。耐えてくれ」
と、孔明は背中の胡偉度に言った。
そして不安そうに、憂い顔を、後方の、劉備たちが去ったほうを振り返る。殿(しんがり)をつとめている趙雲が、孔明を叱るように言う。
「止まるな、軍師! 主公ならば大丈夫だ。あのお方の運の強さは俺がいちばんよく知っている。きっと宮城へ無事に戻られる。いまは主公の心配より、自身と、幼宰殿と偉度の身を一番に考えよ!」
「わかっている」
強ばった声で孔明は答えるが、しかし傍目にも、孔明が動揺しているのがわかる。顔色が蒼白になっているのが、背中の偉度の重みによるためだけではあるまい。
董和は、孔明に聞きたいことがあった。
劉備にも聞きたいことがたくさんある。
最初から、荊州側の人間は、九門古城の存在を知っていたのか。
孔明の話が本当であれば、九門古城は、孔明の家系の遠い先祖につらなる人々が作ったものである。
そうであれば、孔明の言う、『得れば天下を取れる宝』は、不老不死を生む薬であると信じたいところであるが、法正は、『得れば天下を取れる宝』は図讖である、それをもう手に入れた、と言い切った。
そしてなにより馬超と彭恙のことを、いつ知ったのか。知っていながら、ずっと放置していたのはなぜなのか。
孔明は、黄色い輝石の指輪を、昨夜は投げ捨てていたけれども、では、指輪を嵌めている一派は何者なのか…
『すべてを知るまでは、死ねぬ。耐えろ』
董和は傷の痛みに耐えかねて、暴れだしたくなるおのれを戒めた。
腕の背に覆いかぶさるようにしてしがみ付いている形となっているが、落ちないように、長星橋商店街の親父さんたちが抑えており、手は、晴嬰がしっかりと握って、たまに励ましの言葉をかけたり、董和の額ににじむ汗を拭いたりしてくれている。
「晴嬰」
董和が声をかけると、晴嬰は、必死な顔をしてこちらをのぞきこんでくる。
かつて、兄の嫌疑を晴らすために、山村からひとりでやってきた少女が、これほど立派な女人に成長し、いま、傷ついたおのれを介抱してくれているのが、董和にはなぜだか可笑しかった。おのれを心配そうに覗き込む晴嬰に、熱を持ち、むくんだ顔に笑みを浮かべると、晴嬰もつられて笑った。
「なんですか、旦那。なにが面白いのです?」
「いや、お前には、世話になりっぱなしだな、と思ったのだ」
「返せないほどのご恩を戴いておりますもの。あたりまえのことじゃありませんか」
「あたりまえのことを、あたりまえにできる人間はすくない。立派な女になったな、晴嬰。わたしはお前を誇らしく思うよ」
「へんな幼宰さま。こんなときに、そんなことをおっしゃるなんて」
と、照れ笑いをしつつも、晴嬰の双眸にはうっすらと涙がにじんでいた。
眼を閉じると、晴嬰の握ってくれる手だけが、たしかな感触を持っているように思えた。董和は、張大人から晴嬰を守るためにも、もう決して油断はしないと心に決めた。
桑畑をくぐりぬけると、そこは墓地になっていた。
打ち捨てられて久しいのか、あまりこまめに祀られていない様子で、中央の、お椀をかぶせた形の墓の周囲には、雑草が生い茂り、その間を、苔むした墓石がいまにも倒れそうな様子で並んでいる。
そして、不遜にも、中央の墳墓の上には、背丈のちいさな男が、のんびりと座り込んで、ぼんやりと空を眺めていた。
孔明がやってくると、猿のように身を起こし、目の前に飛び降りて、平伏する。
「お待ち申し上げておりました、軍師将軍。言われてからずうっと見張っておりますが、子犬一匹近づきやしません」
「よろしい。これから馬平西将軍の部隊が、われらを追ってやってくる。そなたは、われらが門をくぐったあとは、いそぎ門を閉じ、街へ戻れ」
「ちょいと仕掛けをしてやらなくてよいのですかい。ご命令さえ頂けりゃあ、錦馬超をからかかってやるのだが」
と、男は猫背を揺らして、その様を想像したのか、楽しそうに笑った。
「余計なことはしなくてよい。それよりお前は仲間を集め、出来うる限り、軍師将軍が叛乱したという噂は、尚書令の陰謀である、と市井に言いふらせ」
その言葉に、商店街の親父さんたちの力を借りて、馬から下りている董和は仰天する。冷静な男だと思っていたが、そう見えるのは表面だけで、かなり激昂しているらしい。
董和は親父さんたちの手を借りて、地面に降り立つと、軍師将軍を止めるべく、その前に進もうとした。董和の気持ちも知らず、猫背の小男と、孔明の会話は進む。
「そちらこそ、よろしいのですかい。ああいうねちっこい性質の男を本気で怒らせると、あとあと面倒ですぜ」
「多少の意趣返しは許されようぞ。それにどちらも噂だ、うわさ」
「成都の人間が、尚書令の話と軍師将軍の話、どちらに耳を傾けるかで、人気がわかりますな。こいつぁ、おもしれぇ」
「面白くなどない。勝つのはわたしだ」
たしかに勝つのは孔明だろう。法正には、愛嬌というものがない。面白おかしい噂のさしはさめる余裕もない。だから衆望がない。
それにくらべて孔明は、この若さと美貌と、荊州で固めた実績でもって、なにやら神秘的な人物として、成都の民の関心をあつめている。
だが、勝ったところでなんだというのか。荊州人士と、益州人士のあいだに、深い軋轢を生むだけである。本当に内乱でもはじめるつもりなのか。
「そのような細工はならぬ!」
董和が口にする前に、最後にやってきた趙雲が、鋭く口をはさむ。
そうして、あっけにとられている長星橋の面々をかきわけて孔明の前に立つと、その肩を揺すった。
「小人の言葉に惑わされるな! 本当に叛乱でも起こすつもりなのか? おまえまでが感情に走れば、この諍い、収拾がつかなくなるぞ!」
孔明は、おどろいたように趙雲をまじまじと見つめる。
「莫迦を言うな。わたしが叛乱などするものか」
「ならば、騒ぎを大きくするような真似をしてはならぬ。この件は、大海に投げられた小石の波紋程度の騒ぎにおさめるのだ。
騒ぎをうまく収めるのは、執政官としての度量の見せ所だぞ。もしも感情に走り、これを大波にしてしまえば、おまえと法正の間は決裂する。どちらかが倒れるまで、殺し合いをするつもりか?」
「まさか」
「ならば、耐えろ。感情的になってはならぬ。偉度を貸せ。おれが背負っていく」
孔明はつよく首を振って、趙雲の差し伸べた手を拒んだ。
「この面子で、敵を迎え撃つことができるのはあなただけだ。あなたの両手は空いていたほうがいい」
「そう思うならば約束してくれ。感情には走らぬと」
孔明は、しばし逡巡したあと、こくりと肯いた。
「すまなかった」
「よろしい。さあ、先ほどの軍師の言葉は無しだ。おまえは馬を連れて、もうゆけ」
趙雲がそう言うと、小男は詰まらなさそうに肩をすくめた。
「なんだ、つまらねぇ。面白くなりそうなのに」
猫背の男がぶちぶち言うのを、趙雲はきつく睨みつけて追っ払った。
桑畑の中にまぎれていくその背中を眼で追いつつ、趙雲が言う。
「いくら人材不足とはいえ、あんな男に九門古城の件を任せるな」
「仕方ないだろう。人が足りないのだ。荊州の関羽に、人数の大半を回してしまった。まさか、こちらへきて、これほど手が足りなくなるとは」
と、孔明は言葉を止めて、自嘲の笑みを浮かべる。
「いや、すべては私の裁量に誤りがあるせいだな。そして主公のような人望がないのもいけない。かといって、法正の下に甘んじていられるかというと、そうもできないのだ」
「また悪い癖が出ているようだな。反省するのもよいが、いまはその時ではない。いまは逃げることに集中するのだ。ほら、連中が来るぞ。早く門をくぐれ」
はじめは雷のような勢いであったから、取っ組み合いにでもなるのではと、ひやりとした董和であったが、孔明のほうがあっさり引き、董和が止めようとしていた成都に噂を流す策も、取りやめになった。
叱られたほうの孔明が、それでは腐っているかというと、そうではない。孔明はむしろ清清しいくらいの顔になって、墓の扉を開き、ほかの面々に、早く中に入るようにとてきぱきと指示を出している。
「もう大丈夫であろう」
と、すぐそばで声がして、おどろいてそのほうを見ると、趙雲であった。
まるで自分のことを謝罪するかのように、気まずそうな顔をして、董和に言う。
「貴殿を追い越す形になってしまって申し訳ない。諸葛孔明という男は、ああ見えて情が深いのだ。人の感情に敏感で、それをすぐにおのれの感情に引き寄せてしまう。胡偉度の様子を見て、逆上したのであろう」
思いもかけず、偉度の名前が出てきたので、董和は尋ねた。
「偉度は軍師の何者なのだ」
「訳があって、命を助けてやった者なのだ。いまは主簿を勤めている。九門古城のことも、孔明から聞き、恩を返したいと、自ら潜ることを志願したのだ。だが、あまりに危険なため、張大人のもとに潜り込ませる役のほうを与えたのだが、その気遣いが、かえって裏目に出たようだな。軍師は、偉度が貴殿とともに古城へ潜ることを反対しておった」
昨夜、孔明が交換条件を持ち出してきたときに、董和はそれを拒否した。
いままでまったく面識の無かった人物であるのに、処刑が決まった朝に、今度は兵卒を率いて救出にあらわれたのを見て、感謝すると同時に、何故なのかと戸惑ったものであるが、それで董和は理解した。
孔明は、董和ではなく胡偉度を助けに来たのだ。
牢を訪れたときに、胡偉度だけを救い出していかなかったのは、そのときはまだ、処刑は決まっていなかったから、偉度だけを救うことで、法正の不信をあおり、そこから自分にたどり着かれることを恐れたのだ。
「なんとまあ」
ややこしきことよ、と董和は心のなかでつぶやく。
そうして晴嬰に手伝ってもらいながら、墓の扉をくぐりつつ、ようやく成都の現状がつかめてきたように思っていた。
荊州人士はがっちり固まっている。しかし、人材が不足している。
荊州を守るために人員を割いたので、個々は優秀であるが、荊州人士だけで巴蜀を切り盛りできる状態ではない。仕事量が膨大なためと、衆望がいまだ集まっていないからだ。
一方、地元の益州人士はというと、まとまりは悪い。法正の報復をおそれて、とりあえずその傘下に集まっている、というだけの状態だ。しかし地元の強みで、衆望はあるし、人材も多い。
彼らが一つになればよいのだが、それぞれの筆頭の孔明と法正は、九門古城をめぐる争いがきっかけで、完全に対戦状態に入ってしまった。しかも、両勢力の中間にいなければならない劉備でさえも、渦中の人、という面倒なおまけ付である。
だれかが、この調整をしてやらねばならない。 そうしなければ、再びこの地は戦乱にまみえることになる。
では、だれが、と問うた時、董和は、おのれでも驚くほどにあっさりと、それはわたしの仕事になるだろう、と確信していた。
ともかくいまは、生き延びることが最優先であるが。
墳墓の扉を開くと、中は空っぽで、盗掘者の痕跡か、素焼きの欠片があちこちに散らばっているほかは、寒々とした空間であった。
死後の生活の安寧をねがう、壁画や副葬品の類いはなにもなく、ただひたすらかび臭い。
そして床のちょうど端っこに、蓋の壊れた石棺があり、それをずらすと、石造りの階段になっている。
地上にある墳墓のつたないつくりにくらべ、石棺を動かすとあらわれる、見事な石造りの階段には、その場のだれもが、追われる身をわすれて感嘆した。
その階段の作りは、九門古城の石の積み方とまったく同じで、一部の隙間もない、美しい組み方であった。
壁には蝋燭が灯された跡が残っており、すでに何者かが踏破したことを示している。
中に、まだほとんど形の残っているものがあったので、それを取ると、孔明は親父さんのひとりに胡偉度をまかせ、火をつけた。
九門古城を潜るたび、口について出る「だれがこれを」という言葉を、だれもが口にしている。
長星橋商店街の親父さんおよび晴嬰は、噂ばかりで実物を見たことが無かったので、余計に、まさかこれほどの規模とは想像していなかった様子で、その整然とした様子に圧倒されている。
「なんだろう、怖い」
と、つぶやいたのは晴嬰である。
親父さんたちは、晴嬰の手前、やせ我慢をして、怖い、などとは口が割けても言わない、というふうであるが、薄明かりに浮かび上がる表情は、どれも強ばっている。
世に怖いものなどなさそうな孔明でさえ、ごくりとつばを飲み、ぴたりと高さも大きさも揃えられた、見事な石組みの壁を撫でさする。
行く手に蹲るようにしてある闇に目を向けると、遠くから、風のうなり声が聞こえてきた。
「軍師」
殿を務めている趙雲に声をかけられ、孔明は肯くと、一行の先頭に立った。
そして、懐から古びた紙を取り出す。
動物の皮をなめしたもので、そこには墨で九門古城の道筋が描かれていた。
董和は腫れたまぶたをはげまして、孔明の脇からそれを覗き見た。
だが、地図は期待したものではなかった。
九門古城の全景ではなく、ほんの一部であったのだ。
墨があたらしいので、孔明があとから書き足したらしい栄耀飯店からの入り口と、その周囲、二階層目へ至る階段のほかに、この墳墓からの入り口にあたる階段と、もうひとつの入り口が描かれているだけである。
董和たちが、はじめて古城に潜った日、馬超らに追われて、偶然に見つけた神政門へ通じる門は書かれていない。
「九門古城には、地上に持ち出されたならば、世を破壊させる恐ろしい宝が眠っている、と先祖は言い伝えていたのです」
と、孔明は、董和の疑問を見越したように口をひらく。
「そのため、古城の宝の事に関しては、一子相伝の秘密でありました。
しかしわが先祖の諸葛豊が失脚し、家運が少々傾きかけたときに、一族が四散することで、九門古城の秘密が忘れられてしまうことを恐れた当時の当主が、もともと一枚であった地図を三つに分けたのです。
しかしそれも長いときのうちに消失してしまい、いま手元にあるのは、一階層目の地図の一部だけとなりました」
「世を破壊させる恐ろしい宝、とは穏やかではないな。
貴殿は不老不死を可能にする薬の原料だと言っておられたはずだが?」
「左様」
「薬というからには、おそろしい毒でも含まれているものなのであろうか?」
すると孔明は、蝋燭の明かりに浮かび上がる秀麗な顔を曇らせた。
「そこなのです。阿片や水銀のような毒をもつ薬が古城に隠されているというのならば、たしかに恐ろしいにはちがいないが、世を破壊させる、というのは穏やかな表現ではない。
いくらなんでも大げさだろうとは思っていたのですが…」
「一子相伝、ということだが、父君はなんと?」
「わたしにこのことを教えてくれたのは叔父なのですよ。
父は幼少のころに亡くなり、死に際に父は叔父へ秘密を伝え、叔父はわたしに秘密を伝えた。
だが、父から叔父、そしてわたしへと財産のほとんどが譲られたことに兄が不平を申し立てたので、財産の一部を兄に分けた。
その財産のなかに、三つのうちの一つの地図も含まれていたのです」
「貴殿の兄上のもとに、九門古城の地図が?」
董和の脳裏に、孔明の語った、陰惨でかなしい子供の話が過る。
子供の父、つまり孔明の兄は、おのれの子供を出世の犠牲にしてまで家門を守ろうとする男である。
地図を孫権に献上しないとは限らない。
「地図はいま、兄の手元にはありません」
「なんと?」
「わたしは喬を引き取るときに、交換条件として、兄の手元にある地図も要求しました。しかし兄は、地図はすでに持っていない、と言った。
喬の治療をするときに、仙人くずれの分家筋が、報酬として持って行ったそうでして」
「地図が三つ。ひとつは貴殿、ひとつは仙人くずれの男、もうひとつは?」
「わかりませぬが、分家のどこかに伝わったのはちがいない。
わたしも追ってはみたのだが、例の大虐殺のおり、徐州から逃げた一族は多く、その行方をすべて辿ることができなかったのです」
「たしか貴殿には、曹操の元にいる従弟もいたはずであるが?」
孔明は董和の質問に、どうしようもない、というふうに肩をすくめてみせた。
「恥を晒すようでありますが、宗家の跡とりとはいえ、わたしに求心力がないので、あちらとはほとんど没交渉なのですよ」
「あきらめず、書面で問い合わせては如何か?」
「やってみましたとも。ですが、どうやらあちらは私のことをよく思っていないらしくて、いまだにナシのつぶてなもので」
ははは、と孔明は乾いた笑いを立ててみせる。
この若さで美貌と才知と名声に恵まれているというのに、家族にはまるで恵まれていない。
上司と地位には恵まれなかったけれど、人々から慕われ、家族にも恵まれている董和には、それだけで孔明が気の毒になってくる。
董和の人生の宝物は、すべて家族に関するものだ。
もしそれが失われてしまったら、正気でいられるかどうかさえあやしい。
「宝の件であるが、法正は、宝が図讖だと、そしてそれを手に入れたとわたしに言った」
孔明は、ふむ、と言って柳眉をしかめる。
「図讖とは…なるほど、未来を知ることができたなら、政変をうまく乗り切ることもできようし、百人力であるな」
「聞いたことはないのだな」
「ありませぬ。しかし董和どの、貴殿、もし図讖を手に入れたとして、それを有効に利用できると思われますか?」
「さて、想像もつかぬが、わたしなぞは、むしろ図讖とやらの言葉に振り回されてしまいそうな気がする。だいたい、言葉というのはいくつもの意味を裏に隠している。その意味を読み違えたら、結果はまったく違うものになってしまうだろう」
「うむ。しかし厄介ですな。尚書令にそのようなものが渡ってしまったとは」
「栄耀飯店の親父め、当の昔に宝を見つけておったのだ。売りつける先を尚書令にするとは」
「尚書令は、掠奪品でだいぶうるおっているようですからな。
子龍、こんなことならば、主公の下賜を断るべきではなかったか」
孔明が言うと、一行の最後にいる趙雲が鼻を鳴らした。
「馬鹿を言え。不正な理由で得たものは、たいがい不正に失われる。お前はそんなものに手を出すな」
孔明は、満足そうに頬をゆるませると、そうだね、とちいさくつぶやいた。
孔明の性格をよく知らないで聞くと、趙雲に厭味を言っているようにも聞こえるのであるが、実際は、わざと反論されるような言葉を出して、趙雲に叱ってもらうようにしているのだ。そのように相手の心を手繰るようにして、いまの関係性を築いてきたのだろう。
おなじく、人付き合いという点においては不器用な董和は、孔明の不器用な友情の示し方に共感すらおぼえる。
だが、この青年は、自分のように一地方の名士で留まる人間ではいけないのだ。
無限の可能性を秘めた器に、不釣合いなほど不器用で内気な性格が備えられている。
これを克服しないかぎり、孔明は一地方の遅れてやってきた英雄の軍師という立場で生涯を終えることとなるだろう。
それが果たしてよいことか、問うまでもない話だ。
ごくごくわずかな人間とだけ心を通わせ、殻に閉じこもるようになってしまっては、人間性の成長も望めない。
「出口までは、距離はどれくらいあるんですかい」
と、胡偉度を担いでいる肉屋の親父が、孔明に尋ねた。
すると孔明が、彼らを安心させるように、笑顔を見せて振り返る。
「そう恐れるな。実は、わが配下を先に潜らせて、出口のそばに待機させているのだ。馬超らが追ってきたとしても、通路のこの狭さだ。子龍ならば、いくらか時間を稼げる」
すると後方の趙雲が反論してきた。
「高い評価はありがたいのだがな、なるべく急いだほうがいい。馬超は愚か者ではない。この入り口をすぐに見つける可能性がある」
事実、馬超は、初めて古城に潜る孔明や、まだ二回目の董和たちにくらべると、経験がある。
だいたい、馬超がどのような方法で古城の存在を知り、どこの入り口から潜っているのかもわからないのだ。
そのことは孔明もわかっているらしく、晴嬰に助けられながら、孔明のすぐ後ろについている董和に尋ねる。
「胡偉度の話では、貴殿らは一度、馬超と接触したそうですな。そのとき、馬超はなにか特別なことを口にしてはいませんでしたか?」
「偉度からはどこまで聞いているのだね」
慎重な董和に、孔明は笑みをこぼすと、答えた。
「すべてですよ」
董和は、ちらりと、肉屋におぶわれている胡偉度を振り返る。
いまは落ち着き、目を閉じて、すやすやと眠っている様子だ。
町のおどおどした青年といった印象はもうなく、孔明の忠実な草、という目で見るせいか、その寝顔は峻厳ささえあるように見える。
「おなじことを私から二度も聞くことはなかろう」
「おなじことであっても、人間の捉え方はそれぞれ違う。
偉度は優秀であるが若い。しかし経験豊富な貴殿ならばどう見たのか、それを知りたいのです」
「馬超が口にしたのは、劉左将軍への叛意だ。自由になりたいと、馬超は言っていた」
「自由か。やはり野生の馬を官の厩に繋ぐのはむずかしい、ということかな。だれかに操られているとか、唆されている、という様子は?」
「そのような風ではなかった。しかしああいう誇り高い男は、たとえだれかのヲ力があったとしても、自分の意思であるように振る舞うものではないのかね」
「彭恙のほうはどうでしたかな?」
「わたしは以前の彭恙という男をよく知らないが、いまの彭恙は、あれは狂っている。まちがいなく狂人の目をしていた。
世の中のすべてを憎んでいるような、いやな目をしているのだ」
孔明はそれを聞くと、きつく顔をしかめる。
「彭恙は、昨日、つまらぬことに腹をたて、宮城の女官の髪をつかんで引きずり回したあげく、鼻を削ごうとした。
あれは狂人であるとみなが訴えてきたのだが、単に粗暴なのか、それとも狂気にとらわれているのか、判断がむずかしいところでしてな」
「軍師将軍、なぜそこまで彼らに遠慮をなさる?」
「彼ら?」
訝しそうに眉をしかめると孔明の秀麗な面差しはひどくきつく見える。
しかし董和はうろたえることなく、答えた。
「劉左将軍の入蜀に功労のあった人間に、貴殿は不思議なほど遠慮をされている。
法正のこともそうであるし、彭恙のこともそうだ。貴殿が弱腰なので、法正どもは付け上がり、無法行為を平然としてのけるのだ。彼らとなにか密約でもあるのか?」
「密約など、そのようなもの、ございませぬ」
「では、なぜです。貴殿は劉左将軍の軍師。地位は法正に劣りはするが、法正よりも貴殿のほうが、左将軍の寵愛深く、信頼も厚い。
やろうと思えば、いつでも断固とした態度を取れるはずだ」
「貴殿にはわからぬ」
孔明はそういうと、子供のように、ぷいと顔をそむけてしまう。
劉璋さえ呆れさせたねばりをもつ董和は、そこで引っ込まない。
「判らぬか判るかは、貴殿の話を聞いてから、わたしが決める。
何故そのようにお心を隠そうとなさるのか。
貴殿はたしかに類い稀な才能をお持ちのようであるが、内に籠もろう、籠もろうとする悪い気性をお持ちだ。
如何に才智があろうと、いつまでも貴殿が周囲にお心を開かねば、そのうち、周囲は疎外感を感じ、それが不満となって、貴殿から離れていくであろう。
それでもよいというのか?」
孔明は憮然と、
「そのようなことは」
と反論するが、いまひとつ切れがない。
自分でも自覚しているのだが、修正するきっかけがなくて、もてあましていた部分なのであろう。
殿の趙雲は口を挟まず、長星橋商店街の親父さんたちは、もちろんなにも言えないでいる。
気まずい沈黙が一行を支配した。
ふと、董和に肩を貸していた晴嬰が、前方の闇に眼を凝らして、言う。
「誰かいるみたいです」
晴嬰の言葉に、孔明も前方を窺う。
すると、闇の中に、男がふたり、立っていた。
孔明が、男たちを認めるとすぐに愁眉ひらいたので、準備よく配置していたという、草であるらしい。
一行は、出口が近いことを知ってほっとしたが、なにか様子がおかしい。
男たちは、主である孔明の姿を見ても、ひとことも発しない。
じっと、沈黙したまま、身じろぎひとつせずに孔明たちを、ただ見つめているのである。
そうして近づいていくにつれ、その様子がさらにおかしいことが知れた。
その衣は、万の兵のつどう戦場の只中を駆けてきたように、血まみれなのである。
孔明は、足を止めると、彼らから眼を離さず、片腕をあげ、一行に足を止めるよう指示した。
最後尾についていた趙雲が、親父さんたちをかきわけて前方へやってくる。
そうして、手にした槍を持ち直し、低くつぶやいた。
「いかんな」
董和は、孔明と思わず眼を見合す。
趙雲の声には、あきらかに緊張が含まれていた。
趙雲は、前方の、相変わらず言葉も無く、身じろぎもしない男たちをじっとにらみつけたまま、隣にいる孔明に言った。
「軍師、頼みがあるのだが」
「なんだ」
「二つある。ひとつは、俺はいまからこいつらを防ぐから、お前たちはその隙をついて、出口から地上へ出ろ。決して振り返ってはならぬし、加勢をするために戻ってきてもならぬ」
「もうひとつは?」
「俺の屋敷の厩舎にいる馬、あれはすべてお前に譲る。
あとの処遇はすべて任せる。俺の財産はあいつらくらいなものであるから、ほかになにか残ったら、やはりお前の好きにしてよい」
孔明は呆れをにじませて、答える。
「いささか大げさに過ぎぬか」
「大げさなものか。よく見ろ」
趙雲は、さらに全身を、獲物を狙う獣のように緊張させて、やはり沈黙をつづける男たちをきつくにらみつけた。
「こいつら、どちらも瞳孔が開いておる。死んでいるのだ」
趙雲の言葉に、孔明ははっとなり、董和をはじめとする長星橋商店街の一行は、不気味な話にぞっと身を震わせた。
「しかし、立っていますぜ」
と肉屋の親父が反論すると、趙雲は答える。
「そこが異常なところだ。このような気味の悪い相手と戦ったことがない。
お前たち、俺が抑えているあいだ、一目散に逃げろ。俺もすぐに追いつく」
孔明が、地図を懐に入れつつ、晴嬰から董和の腕を取り、担ぎあげると、趙雲に言った。
「いまの言葉を信じるぞ。先刻の遺言は、聞かなかったことにしておく」
「では、さらば」
「言い直せ。では、また、だ」
「では、また」
趙雲は、槍を真横に構えるや、そのまま大きく振り回し、目の前の男たちをふたりまとめて壁に押し付けた。
前方に通過できるだけの空間がひろがる。
「いまだ、早く!」
趙雲の言葉を受けて、董和を背負った孔明と、それを助ける晴嬰、商店街の親父さんたちが一気に走りぬける。
孔明に負ぶわれつつ、董和が振り返ると、それまでじっとしていた男たちは、趙雲の攻撃が合図だったかのように、壁に押し付けられながらも暴れていた。
血で乾いた唇からは、獣じみた唸り声があがっている。
おどろくべきは、その容姿もそうであるが、腕力の強さであった。
趙雲は、上手に槍をつかって、渾身の力で二人を壁に押し付けているのであるが、二人は、趙雲の槍を折らんばかりにそれを跳ね返そうとしている。
どんどん遠ざかっていく趙雲の顔が、徐々に危険なものに変わっていくのが見えた。
「いかん、軍師どの、引き返そう!」
董和が言うと、やはり気になって、振り返り振り返り、前に進んでいた親父さんたちも孔明に言う。
「そうですぜ、みんなでかかれば、なんとかなるかもしれねぇ!」
「ならぬ! 子龍は私に加勢をしに戻るなと言った! その言葉を守れ!」
その華奢な体躯に似合わぬ大音声に、董和をはじめ、みなもびっくりして、思わず口をつぐむ。
孔明の声はびりびりと地下回廊をふるわせ、遠くこだまになって響いた。
しかし、となおも足を止めさせようと口を開いた董和は、間近にある青年の、真剣そのものの固い表情を見て、思い止まった。
信頼は、ときに自制を強いる。
孔明は、趙雲の信頼にこたえるために、けして振り返らないつもりなのだ。
おそらくこの顔ぶれのなかで、趙雲ともっとも近しいのは孔明であり、もっともその身を案じているのも孔明だろう。
もしも孔明が戻れ、とひと言、口にしたならば、全員が戻る。判っていながら、孔明は振り返らない。
趙雲に信頼を示せば示すほど、趙雲は無事に帰ってきてくれると、まるでまじないのように、この軍師は信じているようだ。
「あと少しで出口だ」
董和を負ぶって、息が上がっている孔明が、一行を励ますために口を開く。
「誰かいます!」
またも、晴嬰が前方の闇を指して足を止める。
たしかに前方に何者かが立っていて、先ほどの二人のようにじっとしているのだ。
「先回りされていたか」
孔明はつぶやくと、背負っていた董和を晴嬰に託し、腰の剣を抜く。
肉屋の親父さんに負ぶわれていた胡偉度が、目を覚ましていたらしく、親父さんの背から降り、よろよろと孔明の横に並ぶ。
「なりませぬ、軍師将軍。貴方様は戦いの経験に乏しい。ここは偉度におまかせくださいませ」
「たわけたことを申すな。そのように傷ついた身体でどう戦うつもりなのだ」
孔明が言うと、胡偉度は、ぼう然としている親父さんの一人の腰にあった剣を無造作に抜くと、不敵ににやりと笑った。
「私が何者か、忘れたわけではございますまい? たとえ四肢をもがれても、戦う術を私は心得ております。
私がここを抑えているあいだに、貴方様は地上へお戻りくださいませ」
「それを私が承服するとでも?」
「承服せざるを得ないでしょう。貴方様は成都の民を守る義務をお持ちだ。我らの背中にいるこの者たちを、生きて無事に地上へもどすことが貴方様の役目。
しかし偉度は成都の民ではない。穢れたこの身が今日まで生きていたのも、貴方様のご厚情があってこそ。ここでご恩をお返しいたします」
そう言って、胡偉度は、前方の何者かに剣を構えてみせる。
独特の構えであったが、獲物を狙う猛禽のような鋭い気配を感じ、董和はぞくりとした。
それは、いままで見知っていた胡偉度ではなかった。
まして、孔明の主簿などという者にも当たらない。百戦錬磨の戦士の姿だ。
これが本来の胡偉度という青年なのである。
「駄目だ。お前のような愚か者にこの場を任せるわけにはいかぬ」
孔明はきっぱり言って、隣に並んだ胡偉度に言う。
「お前はまだわかっておらぬようだ。わたしの役目は、成都の民を守ることではない。漢の領土に住まうすべての民を守ることだ。つまり、お前を守ることも立派に役目のうちに含まれているのだよ。
そういうわけで、大人しくもとの位置に戻って、華麗なる我が剣の舞を見物しているがいい」
それを聞くと、胡偉度は笑みをこぼした。そうして言う。
「物好きだね」
「そうそう、それでこそ偉度だ。
さあ、そこのゴツイ親父、すまぬが偉度を背負ってくれ」
ゴツイ親父、こと肉屋の親父さんは、偉度と孔明のやりとりに面食らいながらも、おう、と返事をして、足元のおぼつかない偉度を背負った。
とはいえ、孔明が言葉どおり、ひとりで大丈夫なのか、といえば、どうやらそうではないらしい。
というのも、董和の位置からは、孔明の剣を持つ手がはっきりと震えているのが見えたからだ。
なんだか気の毒になり、董和は声をかける。
「軍師、私は偉度より傷が浅い。私がお助けいたそう。貴殿よりも実戦経験もある。剣を貸してくれぬか」
すると、孔明はいたく傷つけられたように振り返る。
「偉度に言ったおなじ言葉を、幼宰殿、貴方にもお返ししましょう。
そこの美人と一緒に、私の活躍をみてらっしゃい」
「ムリをなさるな。私は免官になった身。私が死んだところで、泣くものは」
おらぬ、と言おうとしたとたん、晴嬰にきつく頬をつねられた。
「泣く者はここにおりますよ! あたしたちが、なんのために刑場へ押しかけたと思っていなさるのですか!」
晴嬰の言葉に、親父さんたちも、そうだそうだ、薄情だ、と抗議の声をあげる。
「軍師、あんたが死んだら、私だって生きてない」
肉屋の親父さんの背中で、偉度が言う。
それを聞いた親父さんたちは、
「それじゃあ、残るは俺たちでなんとかするしかねぇってことか」
と顔を見合わせて話し合っている。
孔明はやれやれ、というふうに肩を落とした。
「なんだか気の抜けた話であるな。要は皆で地上に戻れば問題が無いというわけだ。
おい、さっきからそこに突っ立っている者、そういう次第で、おまえには道を開けて欲しいのだが」
不敵にも孔明が声をかけると、立ち尽くしている前方の者は、ゆっくりと孔明のほうを向いた。
一同は、蝋燭の明かりに浮かび上がったその姿を見て、息を呑んだ。
さきほどの二人の男以上の凄惨さであった。
いったい、いかなる凶事がふりかかり、この男をここまで変えてしまったのか。
毛髪は、つよく引っ張られたらしく、頭の皮ごと引っこ抜かれている。
顔には無数の切り傷。鼻は潰されている。
身につけた衣はほとんど破れて、裸に近い格好であるし、片足は折られて引きずっている。
男は、孔明のほうに向かって両腕を差し出す。
驚いたことに、すべての爪ははがれていた。
男は口をぱくぱくと開けて、何事かを孔明に訴えてくる。
「ころ…こ…ころ…こ…し…」
「なんだ?」
孔明が問うと、さらに仰天したことには、男の瞳孔の開いた目から、涙があふれ出たのである。
「殺し…こ…ろ…してくれ」
「殺してくれ?」
「いた…い、イタイ、イタイ、イタイイタイイタイイタイイタイ!」
突如として、男の腹が妊婦のように膨れ上がり、めりめりと、腹が裂けたのだ。
同時に、内臓が飛び出して、男は身体の真ん中から溶けたようになって、二つに分かれて地上に崩れ落ちた。
「あーあ」
そんな落胆の声が、地上にその無残な姿を攫す男の骸から聞こえたような気がして、思わず董和たちは周囲を見回す。しかし、この哀れな男のほかは、古城にはだれもいないのであった。
晴嬰は、悲鳴をぐっとこらえて、目を逸らし、董和に縋るようにしている。
気丈な娘である。
悲鳴を轟かせて、まだ潜伏しているかもしれない敵に位置を知らせることをおそれたのだ。
晴嬰の聡明さを誉めるように、その震える肩を宥めつつ、董和は、原型を留めていないほど解けた内臓の中に、なにかあるのに気づいた。
孔明もそれに気づき、懐から布を取り出すと、悪臭に顔をしかめつつ、拾い上げる。
黄色い輝石の指輪であった。
孔明は、剣を抜いたまま、しばし遺体を見下ろしていたが、沈黙をつづける一同に言った。
「先へ進もう。早く地上へ出ねば、頭がおかしくなる」
それは、いささか判りにくい性格をした諸葛孔明という青年が、めずらしく口にした素直な感想であった。
※ ※
「ならぬ! 子龍は私に加勢をしに戻るなと言った! その言葉を守れ!」
地下回廊にひびいたその声を遠くに聞いて、二人の不死者を抑えつつ、趙雲は笑みをこぼした。
「そうだ、早く遠くまで行け」
ぎりぎりと、二人の男たちは槍を押し返そうとする。
とんでもない力であった。
戦績の長い趙雲であるが、かつて地上で、これほどの腕力を示した者はだれもいない。
ぷちぷちと、男たちの神経の切れる音が聞こえてくるようだ。
死んでいるからこそ、渾身の力を込めることで、腕がかえっていかれてしまうことも気にならないのだろう。
さすがの趙雲も、槍越しに間近にいる、男たちの顔をマトモに見る勇気はなかった。
その瞳孔の開いた双眸を見ただけで、訳のわからぬ力に支配された男への恐怖が先に立ってしまう。
いま、おのれが為すべきことは、諸葛孔明をできるだけ遠くへ逃がすこと。
それまで、この二人を抑えておくこと。
みし、と槍の柄が悲鳴を上げはじめた。
頃合か。
趙雲は、男たちが獣じみた勢いで槍を跳ね返そうとする、その力の頃合を見計らって、さっと素早く槍を男たちから外してやると、前につんのめってくる男たちから身をかわし、身をひねりながら腰から剣を抜き放つと、ちょうど槍から解放され、趙雲に襲い掛かろうと体勢をととのえたばかりの男たちの身体に、剣をなでるようにして切りつけた。
一連の動作は、おそろしく速く、流麗であったが、威力はすさまじく、趙雲は、たしかに、おのれの剣が、相手の肉を割いたのを感じた。
趙雲が手にしているのは、長阪において、曹操軍から奪った宝剣であり、数ある武器のなかで、二番目に軽く、切れ味のよい剣であった(一番に軽くて斬れる剣は、孔明に護身用として渡していた。孔明が処刑人を斬ったときに使った剣がそれである)。
ぼとり、と地上に肉が落ちる音がする。
ここで普通ならば、悲鳴なり、怒号なりがひびくところであるが、そうはならない。
男たちは悲鳴の代わりに、意味不明な奇声をあげて、趙雲に抗議をする。
片方は、片腕を根元から切られ、片方は肺の骨が見えるまで深く切り裂かれている。
それでも傷を庇うでもなく、青白い肌から、わずかに血をにじませただけで、趙雲に向かってくることを止めない。
血はとっくの昔に身体のほとんどから抜けてしまったのだろう。
蝋燭に浮かび上がる姿は、怪物という言葉ですらまだ追いつかず、趙雲を戦慄させた。
痛みを感じない、もう死んでいる者を、どうしたら倒せるのだ?
「前門の虎、後門の狼、といったところかな、翊軍将軍」
聞き覚えのある気障な声がして、ちらりと目をやると、いまいましいことに、馬超であった。
追いついてきたのである。
その背後には、数名の涼州兵を従えている。
しかし、ちらりと見ただけでわかるのだが、涼州兵はみな、九門古城に潜るのは初めてであるらしく、あきらかに怯えていた。
腰が引けている。
密閉された空間への恐怖もあるだろうし、古城に渦巻く独特の粘り気のある空気が恐ろしいのだろう。
趙雲とて、孔明の護衛でない限り、こんなところに潜るのはごめんだった。
「このような場所で貴殿に会うとは奇遇もよいところだ。やはり、貴殿と私の間には、特別な縁(えにし)があるのかもしれぬな。
貴殿はここが九門古城という遺跡であることをご存知なのかな?」
「おしゃべりに付き合っている暇はない。手短に用件だけ言え」
馬超は大げさに肩をすくめて見せた。
「愛想のない男だな。では言うが、貴殿を刑場荒らしの咎で逮捕する」
「それは軍師将軍の権限だぞ」
「軍師将軍は叛乱を起こした。それゆえ、法尚書令より、私に権限が臨時に委譲されたのだ。
しかし見損なったぞ。実に残念だ。
『臥龍』とも呼ばれた男が、叛乱を企てたあげくに、主騎である貴殿をたった一人残して、自分たちだけ逃げるとは。
これが諸国に知れたら、みなガッカリするであろうよ。
その様を想像しただけで涙が出る」
「勝手に泣いていろ。言いたいことがそれだけならば、地上で待っていろ。
こいつらを倒してから、もうすこしお前の言い分を聞いてやる」
「お前、とは!」
馬超は目鼻立ちのくっきりした顔を、大きく歪めた。
いままでの大げさな表情とはちがい、本気でむっとしたようだ。
「たかだかジョーザンシンテイとかいう耳慣れぬ土地の名士の末の癖して、なんという態度であろうか!
しかもちっぽけな『翊軍』将軍のくせに!」
「わかった、わかった、謝罪いたす、平西将軍どの。
そういうわけで大人しく地上へ戻って、俺が戻るのを待っておれ!」
我ながら、いまの言葉はだれかの口調にそっくりだなと、なんとも複雑な感情に襲われていると、馬超はまだ不服な様子で、ぶうぶう言い続ける。
「なんたる態度! 先日の酒家のことは、あれは酒も入っていたことであるし、水に流してやろうと思っておったのに、その慈悲すら貴様には必要なかったようだな! これだから漢族はなっとらん!」
馬超が怒りの動機をどんどん膨らませているのを尻目に、二人の不死者はすっかり体勢を整えて、趙雲に襲い掛かってくる。
二人に武器などなにもない。
その腕をがむしゃらに振り回すのであるが、とんでもない重さを持っており、金棒と組み合っているような衝撃が走る。
手首に鉄甲が巻かれているわけではなし、剣を無造作に受け止めるその肉はすぐに食い込んでいくのであるが、痛みを知らぬ不死者たちは、剣が骨に達し、斬りあぐねているのを幸いと、空いたほうの手を趙雲に向けてくる。
趙雲はとっさに剣を引いて、すれすれのところで、鉄槌のように振り下ろされる拳から身を避けた。
これもまたとんでもない速さ、重さを持っている。
しかし、もともとの肉体の力をはるかに上回っていた様子で、不死者の肩から、だらりと腕が外れていた。
痛みがない、というのは便利なことだ、と趙雲は皮肉まじりに思った。
「人が怒っているというのに、なんだ、その態度は!
なぜこちらに背を向けて、そんなどこの馬の骨ともしれぬ連中と戦っているのだ! どちらかにせよ、どちらかに!」
「五月蝿い!」
趙雲をよく知る者であれば、きっとびっくりしたであろうほど、苛立ちの籠もった怒鳴り声をあげて、趙雲は、剣を捨てると、槍を持ち直し、間合いを計ると、燕のごとく素早く動き、不死者のひとりの首をぱあん、と刎ねた。
いかな不死者であろうと、人間の中枢たる頭部を刎ねられては身動き取れまい、と趙雲は期待したのであるが、振り返り、頭部の失せた首だけの身体を見て、仰天した。
首のあたりが、ぷっくりと焼かれた餅のように膨らんでいるのである。
そうしてそれは、徐々に大きくなっていき、唖然としているうちに、人の頭部の形になった。頭が生えてきたのだ。
そうして、もう一方のほうを見ると、切り落としたはずの腕が、同じく再生している。
「くそっ!」
もう一度、と趙雲は槍を構え、ふたたび頭部を跳ね飛ばした。
抵抗らしい抵抗をしないため、攻撃はたやすいのであるが、問題はそのあとなのである。
今度こそ、と期待をするものの、やはり不死者の頭部は再生していく。
九門古城の地面には、切り落とされた同一人物のふたつの頭部が、無情にも転がっている。
ばたん、と音がして、見ると、馬超の背後にいた涼州兵が、あまりのことに気を失って倒れてしまったのだった。
「なんだ、おまえたち、気の弱い! おい、翊軍将軍! もう一度おなじことをやれ!」
馬超の言葉などを待つまでもなく、趙雲はおなじことをするつもりであった。
ともかく、相手の動きを封じる、という意味でも、頭部を切り落とすのは有効である。
相当の体力を要するが、長期戦につよい趙雲は、それをやってのけた。
三度目に、不死者の首を跳ね落とす。
と、馬超が、兵士たちの手にしていた篝火を取ると、頭部の切り離された体の頸部に、火を押し付けた。
とたん、焼け爛れた傷口を押さえるようにして、不死者が苦しみに暴れだした。
「よし、成功だ! おい、もう一人も頼むぞ!」
「言われなくとも、だ!」
趙雲は、いいざま、風のような動きでもう一人の不死者の首を跳ね飛ばした。
すかさず馬超が、その頚部を火であぶる。
同様に不死者は暴れだし、やがて両方とも、そのまま崩れ落ち、地に倒れた。絶命…いや、退治できたらしい。
趙雲は素直に感心して、馬超に尋ねた。
「助かったぞ、不死者の倒し方など、よく知っていたな」
すると馬超は、形の良い高い鼻梁をつんと逸らして、得意げに言う。
「そうであろう! 私はお前たちなど違って、博識なのだ。
かつて西方の行商人に教えてもらった、神になるために12の難業に立ち向かった英雄の話を真剣に聞いていたお陰だ。
そいつが九つの頭を持つ不死身の蛇と戦ったとき、刎ねても刎ねても生えてくる頭を焼いて退治したのを思い出したのだ。
私の記憶力のよさが勝利を導いたな。ま、私がいるのであるから、勝利は約束されたものであったのだが」
なんだかこいつ、だれかにちょっと似ているな、と思いつつ、踵を返して、早々と孔明の後を追おうとした趙雲であるが、すかさず、肩をがっしりと馬超に掴まれた。
「まだ用か」
「用だ。貴殿を逮捕する」
「断る」
「断ることなどできぬわ! 大人しくお縄を頂戴しろ!」
「おい、それより、おまえの部下たちが大変だ。
倒れたときに打ち所が悪かったのではないか。うなされているようだぞ」
「なに、それはいかん!」
と、馬超が振り返った隙を見計らい、趙雲は、ぱっと身を翻すと、孔明たちの向かった方向へと走り出した。
それに気づいた馬超が、声を荒げて抗議してくる。
「また逃げるか、卑怯者め! 戻って来い! 嫌いだ、お前なんぞ大嫌いだ!」
振り返っても、蝋燭のか細い明かりでは、馬超の様子を探ることはできなかったが、想像はだいたいついた。
趙雲としては非常に珍しいことに、走りながら、声をたてて笑った。
想像しただけで、なんだか面白くてたまらなかったからである。
しかしその笑みも、ぐしゃぐしゃに崩れた死体を発見するまでの間であったが。