捜神三国志・燭龍本紀
第十九話 闇の風
董和の屋敷にて、ズタ袋をかけられて、視界を失った費褘と、董允であるが、気づくと、見知らぬ屋敷の中にいた。
広いというほどでもないが、整然として、落ち着いている。
調度品は贅沢なほどでもないが、しっかりしたしつらえで趣味もよい。
庭には亀のような形をした瑠璃色の大きな池があり、そこに東屋があって、白い橋がかけられている。
一見、雑然としているが、木々の配置や木陰の出来る具合を計算した枝の張り具合、花々の植え方、庭に並べられた敷石に至るまで、計算されつくしたものだということがわかる。
家屋よりも庭のほうが広いくらいで、東屋には、屋敷の主人の趣味なのか、腰かけに竹簡と、なぜだか鑿とトンカチ、定規が置かれていた。
先に目が覚めたのは董允のほうであった。
おそらく、ズタ袋には、意識を一時的にうしなわせる薬でも含まれていたのであろう。
目が覚めると、軽い頭痛と吐き気がした。
自分が横たわっているのが、どこかの屋敷の空き部屋らしい、ということがわかり、起き上がって、廊下に出ると、意外なことに、部屋の鍵はあっさり開いた。
廊下には、小奇麗な着物を着た家人らがいるのであるが、董允が話しかけても、まるで返事をしない。
どころか、顔をあわせようともしない。見えていないようですらある。
体の自由は利くので、ここはいったいどこなのか、誰の屋敷なのかを確かめるべく右往左往するのであるが、さほど広くはない屋敷の、家人のだれに聞こうと、返事もなければ、目が合うということもない。徹底した無視である。
最初は不愉快さで苛立っていた董允であるが、だんだん恐ろしくなってきた。
彼らには、ほんとうに自分が見えないのではないか。
本当は、自分は死んで、幽鬼になっており、だからだれにも気づかれないでいるのではないか…
そんなふうに想像を逞しくしつつ、泣きそうになって、すごすごと最初に目が覚めた部屋に戻ると、ようやくノンビリと、大あくびをしながら費褘が起き上がった。
「よう、休昭。なんだ、ここは」
董允は、縋る思いで友のところに飛びつくようにして戻り、尋ねた。
「おい、わたしは死んでおらぬよな? 生きておるよな? 見えるだろう?」
「起き抜けになんだ、わけが判らぬ。怖い目にでも遭ったのか?」
さすがに親友だけあり、費褘は、董允の奇妙な言動にもあわてず、おおまかなところで見当をつけて、なだめる。
その冷静さにほっとしたのか、董允はべそをかきつつ、屋敷の中のことを費褘に説明した。
費褘は、ふむふむと胡坐をかいて聞いていたが、最後に言った。
「主人の言いつけを徹底的に守る家人ばかりが揃っている、ということだ。つまり、この屋敷は、かなりの人物のものと見てまちがいなかろう」
「意地悪い連中というだけではないのか」
「あのな、いかに意地悪い連中が揃っていようと、目の前に困っている人間が、おまえのように泣きそうになりながらウロウロしていたら、だれか一人くらいは、ついつい声をかけてしまうのが人情というものだ。
だれひとりとしてそうしない、ということは、主人がよし、というまで、声をかけてはならぬと、きつく言い含められているからだ。よほど規則にうるさい恐ろしい主人なのだろうよ。
で、家人はいたが、この屋敷の家族らしい者はいたか?」
「いいや…みなミツバチのように働いているが、そうだな、屋敷の主人の家族らしい人とはまだ会っていない」
「ふむ。さほど広くない屋敷に、これだけの広さの空き部屋があり」
と、費褘はおのれのいる部屋の床を、ぺしゃり、と叩いてみせる。
起き上がった費褘の隣には、費褘がつれてきた農夫の男たちと、董家のじいやがまだ眠っていた。
「家人は複数いるが、家族らしき人物の姿はない。つまり、家族がいないのだろう。独り者なのだ」
「なぜわかる」
「家人を取り仕切って号令をかけるのは、ふつうは屋敷の夫人の仕事だ。女の気配はなかったのだろう?
だいたい、主人が留守で、女人が留守番をしている状態の屋敷の中で、われらのような大の男が五人も、なにも戒めをされずに放っておかれている、ということからして、女がいる可能性は低いが」
「なるほど、そうだな。もし女人がいるようであれば、気づいたはずだ。家人の中には女もいるが、とても夫人や令嬢には見えない」
「なんとなく、この屋敷の主がだれであるか、わかってきた気がするぞ。
独り身で、俺たちを助けてくれた黒装束の男たちを使えるほどの実力を持ち、なおかつ、家人に恐れられている男…おや?」
ことり、と物音がして、見ると、いつの間にか、部屋の扉が開いて、わずかな隙間から、素朴な顔をした子供が、なんの表情も浮かべずに、ただじいっ、と董允と費褘の様子を見つめていた。
十歳くらいの、さほど特徴のない、つぶらな瞳の男の子であった。
ただし身にまとっている物は、市井の子供たちとは明らかに違い、上等な絹である。
「おや、ご家族の方がごあいさつにきてくださったらしい」
と、費褘はちょっぴり皮肉をきかせて言うと、誰の心をも掴んでしまう、満面の笑みを浮かべて、子供においでおいでをした。
子供は、請われるまま、扉をくぐると、費褘たちのところへトコトコやってくる。
費褘は、元来の人懐っこさを存分に発揮し、子供がそばまでやってくると、胡坐をかいた姿勢のまま、親戚の子にするように、ぎゅっと子供をだきしめた。
こうされると、子供というのは、声を立てて笑うか、びっくりして何がしかの声をたてるものであるが、その子供は、どちらもしなかった。つぶらな瞳をぱっちりと開いたまま、表情をまったく変えずに、されるがままになっている。
その様子を、董允は奇妙な感覚をもって眺めていた。
長星橋商店街の人々は、子供にいたるまで人懐っこい。
子供たちは、親の言いつけで、よく董和の屋敷に御用聞きにやってくるのであるが、その子供たちはいつも元気いっぱいで、たまに遊んでやると、はぜた豆のようにあちこちを飛び回る。明るい表情は、ころころと変わって、見ているだけで飽きない。
だが、この子供はそれとは対照的であった。
費褘の必殺技(体を親愛の情をこめてぎゅっと抱きしめ、でもっておまけにありあまる感情を示すために体を揺する。これでたいがいの子供は、次の瞬間、費褘の子分となる)を受けても、無表情で、解放されたあとも、まったく表情を変えず、むしろ費褘のほうが、いつもと調子がちがうので、奇妙な顔をした。
「うむ、世の中は広い。休昭、はじめて技が破られた」
「まあ、おまえの手が万人に通用するとは思っていなかったが、こうも反応がないのも珍しい」
「挨拶をきちんとしなかったのがいけなかったか」
と、費褘は居住まいを正すと、今度は屋敷の主人にするように、跪き、丁寧に拱手した。
「無礼にも御挨拶が遅れましたことを許されよ。我は費伯仁の甥にて、費文偉。此度はお招きいただきかたじけなく存ずる」
「おなじく、先の成都太守董幼宰の息子、董休昭でございます」
と、十歳くらいの子供あいてに、馬鹿馬鹿しいほど丁寧に挨拶をしたのであるが、子どものほうは、ぺこりと軽く頭を下げただけで、やはり無表情のまま、じっとふたりを見つめているだけであった。
「む。これも反応が芳しくないな。だんだん意地になってきたぞ。我らは名乗ったのであるから、貴公の名をお聞かせ願いたい」
「おいおい、子供相手に、そう堅苦しくすることはあるまい」
董允はたしなめたのであるが、子供のほうは、意外なことに、費褘の言葉に反応した。
「諸葛…伯松」
か細い声であったが、子供はたしかにそう名乗った。
「なに、諸葛、とな? すると、ここは軍師将軍のお屋敷か」
感心する費褘に、董允は不安な声をあげる。
「しかし、なにゆえ軍師将軍がわれらをお助けくださるのか、その理由がわからぬ。ほんとうに、軍師将軍なのか?」
「ほかに諸葛、などという珍しい姓名の家はないぞ。まちがいなかろう。しかし軍師将軍に、斯様なお子がいらしたとは、意外だな。奥方さまはお留守なのであろうか」
と訝しがる費褘に、董允は袖をつん、と引っ張って、たしなめる。
「あまり立ち入ったことを言うな、いかな子どもが相手とて無礼であるぞ。
これは噂で聞いた話なのだが、軍師将軍は奥方とはうまく行っておらず、軍師将軍のみが成都に、奥方は荊州にと、別々に住んでいるらしい。そんなふうなので子供も出来ず、江東の兄君から養子をもらわれた。それがこの子なのだ」
なのだが、と董允は、ふと不安になる。
養子を貰ったのも荊州時代のことで、そのときにすでに十歳は超えていたはず。
しかし目の前の子供は、どう見ても十歳かそれ以下の児童であり、年数が合わないのだ。
「どうした」
「いや…しかしご本人はどちらにいらっしゃるのであろう。何ゆえに我らをお助け下さったのか、その理由をお伺いしたい。否、その前にとりあえず礼だな」
「莫迦。礼などあとだ」
と、費褘は腕を組み、憮然として言う。
「軍師将軍が助けたかったのは我らではない。我らはむしろ、ついでだ」
「では、目的は父上か! 軍師将軍が父上をお助けくださるのだな! ありがたい!」
ぱっと顔を輝かせた董允に、費褘は気まずそうに顔をそらす。
「うむ…そうであるといいのだが、幼宰様をお助けする、ということは、これは尚書令との対決をあきらかにする、ということでもある。軍師将軍は慎重な男だという話だから、そこまでして幼宰様をお助けくださるであろうか。
むしろ、生き残る我らと、わが伯父、そして楊家を守るために、こうしたのではないかという気がする」
「では…父上は?」
「もうすでに陽は高い。無情なようであるが、覚悟を決めておけ、休昭」
そんな、と小さくつぶやいて、董允はうつむいた。そうして、床に、ぽたぽたと涙が落ちる。
費褘は、自身も泣きたくなるのを抑えつつ、親友の肩を励ますように揺らした。
喬はというと、その様子をじっと傍らで眺めていたのであるが、ふとそのちいさな手を伸ばし、費褘がしているように、董允の肩を揺らした。
「生きておられる」
唐突に出たその言葉に、董允と費褘はおどろいて喬を見る。
なによりおどろいたのは、その声が、とても十歳の子供とは思えぬほどに、野太い、しっかりした大人の男の声色であったからだ。
「いま、なんと?」
喬は董允の問いかけに、無表情のまま、淡々と答える。
「董幼宰殿は生きておられる」
董允は、父が生きている、という知らせに喜ぶよりも、むしろ喬の様子に背筋を震わせた。
うつろとも表現できるその顔から、大人の声が飛び出してくる。
「あれほどの度量の持ち主、たやすく刑場で散らすには惜しい。同じく殺してしまうにしても、もっと利用の仕方というものがあるものだ」
「おい、様子がおかしいぞ」
と、董允が涙を拭きつつ、腰を浮かせると、費褘もそれに応じた。
「さっきから、当におかしい。静か過ぎる!」
ふたりが立ち上がった瞬間、ぱん、と派手な音がして、部屋の両の扉が、いっせいに開かれた。
薄暗い部屋に一気に差し込む陽光に、ふたりは思わず目を庇う。
庭に面した廊下に、細長い影が立っているのが見えた。
「何者か!」
「元気のよい餓鬼どもだな。それにしても、手間隙かけて市井のひとりひとりに手を差し伸べんとする、わが族兄の偽善者ぶりには、あいかわらず虫唾がはしる」
その言葉は、喬の口からこぼれるのであるが、ふたりはもう、喬のほうは見ていなかった。
喬の口を借りて、語らせているのは闖入者のほうであった。目が慣れるにつれ、その姿がはっきりと見えてくる。
隠者の頭巾をかぶり、丁寧に撫で付けられた髪と、立派な髯をたくわえた、まだ若い男であった。
若いのであるが、その放つ雰囲気は重々しく、そしてどこか禍々しい。
董允が目を覚ましたときは、風など強くなかったのに、男が現れたとたんに、いっせいに突風が部屋になだれ込んでくる。
その勢いに、腕でおのれの身を庇いつつ、放たれた扉から外の様子を窺った董允は、息を呑んだ。
さきほどまで平和な様子を見せていた庭が、一変している。
植物のほとんどは枯れ果て、一気に冬が訪れたようである。
ぱらぱらと、死滅した木々から落ちる葉のその下には、植物だけではない、家人までもが倒れていた。
中には、董允たちを屋敷から連れ出してくれた黒装束たちの、戦った跡とおぼしき体もある。遠目にも、彼らが絶命しているということがわかる。
逃げねば。
すぐにそう思ったが、出入口は、闖入者が立ちふさがっている扉のみ。
「喬、時間がない。奴らが第八階層にたどり着いた。我らも急がねばならぬ」
男は喬にそう言うと、指先をぱちりと鳴らした。
とたん、喬のからだから一気に力が抜けたように、その体が崩れ落ちていく。揺らめくからだを片手で受け止めると、男は恐ろしく冷たい表情でこんなことを言った。
「三千年の長きにわたり、息を潜めていた我らが、祖先の地にて復活を遂げるのだ。風は巴蜀に集まり、中華全土の炎を吹き散らす。大地は水のように泡立ち、我らの帰還を歓喜と共に迎えるであろう。同じ血をもっとも濃く引きながら、族兄は我らの復活を拒み、阻もうとさえ企てた。もはや、同族とて容赦はせぬ」
そうして、怒りを込めた口調で、腕に子供の体をかかえた男の双眸を覗き、董允は思わず悲鳴をあげた。
その目は、とても人のものではなかった。蛇の目…いや、龍の目だ。
三日月のような瞳孔は、ここにはいない屋敷の主人への憎しみにあふれていた。
董允は、不意に、おのれの足元がおぼつかないことに気がついた。
まるで、見えない手によって、足首を掴まれて、外へと引きずられているようだ。
抵抗するのであるが、体がいうことをきかない。悲鳴が聞こえて、隣りをみると、やはり費褘も同じように、足を宙吊りにされるような形で引っ張られているのであった。
「おまえたちには餌になってもらうぞ」
男はそういうと、見えざる手で引き寄せた董允に手を伸ばしてきた。
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