捜神三国志・燭龍本紀

第十八話・軍師将軍の叛乱 


しらじらと夜の明け初めたころ。
屋敷にいる家人を、だれひとりとして表に出してはならぬ、と命令がくだってから、ほぼ半日。
兵士たちは寝ずの番で、董和の屋敷を見張っていた。
とはいえ、董和の屋敷には一人息子と、じいやの二人しか残っていない。
それにしては物々しい兵士の配備に、近隣の住人も、かえって董和の逮捕に陰謀めいたものを感じている。

董幼宰が蝋燭の買い占めのかどで逮捕されてから半日。
そうして市井には、『自白して罪を認めたため』、董和が今朝にも処刑される、という知らせが走っていた。
それに付随して、どうもその逮捕自体も、左将軍府督軍従事の采配によるものではなく、尚書令からじかに下った沙汰らしい、という話も駆け巡っていた。
董和の屋敷を取り囲む兵士たちにしても、街行く人々の物言わぬ敵意を感じないわけではない。
これまでにも、なにがしかの罪に問われて、こうして家人は蟄居、本人は刑場へ、という状況がなかったわけではない(家人はそのあと、すぐに連座で刑場へ連れて行かれるのであるが)。
しかし今回に限っては、人々の向けてくる感情の鋭さがちがう。
あきらかに怒りであり、殺意なのである。
だから兵士たちは、屋敷を見張りつつも、どちらかというと、家人を逃さないようにするためではなく、ちょうどいい標的のようにして民に姿をさらしている自分たちが、民に冒涜を働かされないように、民を見張っている、という具合であった。

そこへ、えっちらおっちらと農夫の二人組みが、黒い大きな壷を、竹に提げて担いできた。
「これ、おまえたち、なにをしにやって来た」
「へい、ワシらは毎朝、お屋敷の残飯を頂戴している者でごぜぇやす」
「残飯?」
「董幼宰さまのお屋敷では、豚も鶏も飼っておられませんので、ワシらがそれを育てて肉をお譲りする代わりに、エサになる残飯を頂いているんでさ」
と、農夫は、壷の蓋を開けて見せた。
兵士は、その壷を覗き込む。
たしかに、中には野菜の切れ端などがびっしり入っていた。
「わかった。中に入ってよろしい。ただし、すぐに戻って来い」
「へい。ありがとうごぜえやす」
農夫たちは兵士にぺこりとお辞儀をすると、裏口から、董家の屋敷へ入っていった。

一方、董和の息子、休昭と、董家を切り盛りしているじいやは、眠れない夜を過ごしていた。
休昭は仕事、じいやはおつかいにそれぞれ出かけているあいだ、董和は逮捕されたのである。
帰ってみると、家は兵士に取り囲まれており、兵卒長があらわれて、かくかくしかじかと、董和の罪状を読み上げたのだ。
なにかの間違いにちがいない、と休昭もじいやも信じていたが、逮捕したのが、正規の役人ではなく、尚書令らしい、という話を聞き、絶望的な気持ちになっていた。
尚書令の法正が、かつての政敵をことごとく粛清しているのは、もはや日常茶飯事であったし、それを止めることができる者がいない、というのは常識になりつつあった。
董和と法正は馴染みではなかったが、敵、という者でもなかったはずである。
だが、董和が免官になったのも、法正の差し金である、という噂が出るほど、法正は董和をよく思っていないらしい。
その理由が、どうも劉備が入蜀を果たす前後に、法正がその手引きをしたことについて、董和が法正を罵ったことに因るらしい。

蜀の民から見れば、どんな殿様だろうと殿様は殿様であり、法正は『おらが殿様』をよそ者に売って、高い地位を手に入れた男なのである。
董和も、筋を通して、最後まで劉璋に従ったので、当然のことながら、法正とぎりぎりまで戦っていたわけである。
結果的に、法正の働きにより、劉備が巴蜀のあたらしい主となったわけであるが、法正にしてみれば、董和は最後まで楯突いた政敵なのだ。煙たがって当然であろう。

自室でまんじりともせず、休昭は、父の身の上を案じていた。
法正がこれほどまでに、おのれの父を敵視していることに気づかなかった、というのは間抜けであったと、自分を責めていた。
法正は最初、粛清をするにしても、そうされても仕方がない、というような人物ばかりを選んで血祭りにあげていた。
だから、成都の民も納得していたわけであるが、日が経つにつれ、徐々にその範囲が広がっていき、いまでは、だれもが納得しない人物までもが首を刎ねられている状態だ。
法正の暴走を止められるものが誰もいないのである。
つまり法正に睨まれてしまえば、成都で生きていくことはできない、ということなのだ。

「若さま、若さま」
じいやが、小走りに廊下を駆けてくる。
まさか、と腰をあげて、じいやを向かえると、どういうわけか、じいやのうしろに、竹にぶらさげた大きな壷をかついだ農夫がふたり、ついてきているのである。
「あなた方は?」
と、休昭がたずねると、農夫は周囲を見回してすばやく休昭の部屋に入り、そして、壷の蓋をあけた。とたん、残飯の悪臭がただよってくる。
ごとり。
床に壷が下ろされるのとほぼ同時に、壷がぐらぐらと勝手に動き始めた。
「何が入っているのだね?」
うろたえて休昭が尋ねるのとほぼ同時に、壷から、全身に野菜屑をつけた費褘があらわれた。
「ふう、あまりの臭さに窒息するかと思った」
「文偉! どうしてこんな」
おどろく休昭に、費褘は、生来の明るい笑顔をかえす。
「休昭、よかった。とりあえず元気そうだな。お前のことだから、泣きっぱなしかと思ったが」
自分の皮肉に自分で笑いつつ、費褘は、体に付いた野菜屑を払った。
「たいした警備ぶりではないか。ネズミ一匹漏らさぬ、という体制だ。こうでもしなければ、中には入れまいと思ったのさ。
なかなか目の付け所が良かっただろう。臭いのが問題だが」
「おまえ、なぜ」
「なぜもなにも、助けにきたのだ。当たり前のことを聞くな」
とたん、目をうるませた休昭に、費褘は、待て、と手で制止する。
「俺に感謝する前に謝らせてくれ。幼宰さまの逮捕は、我らに責任があるのだ」
「どういうことだ?」

「実は、法尚書令のあまりの行き過ぎた振る舞いに、これではいかんと、伯父上のところに人が集まったのだ。
主に、わが費家と楊家なのであるが。で、両家で話し合った結果、このままでは費家も楊家も法正に潰されてしまうかもしれない、そうなってしまう前に手を打とう、という話になったのだ。
とはいえ、費家の人間だとまずい。なぜならば、先の益州牧の劉璋さまの母は、われらが族母。
劉左将軍によい印象を与えず、かえって孤立する可能性がある。かといって、楊家の人間では、求心力がない。
そこで、もっとも求心力があり、みなの信望の厚い、幼宰さまがうってつけではないか、という結論になったのだ。
ところが、この話し合いの席の中に、裏切り者がいたらしい。
なぜか話が尚書令に漏れてしまったようなのだ。
なにか手を打たねば、幼宰さまの身が危うい、と気を揉んでいたところへ、蝋燭の買い占めの容疑で逮捕されたと聞いたのだよ」
「まさか、近頃父上の帰りが遅かったのは、密議に参加していたためだったのか?」
「うん? 幼宰さまは、われらの話し合いには参加されておられぬ。われらの首領になっていただこうという話も、われらが勝手に決めたことだったのだ。
幼宰さまは、なにもご存じない。それなのに、こんなことになってしまった。すまぬ。
せめて、わが一族を代表し、わたしがお前を必ず助ける。だから許してくれ」
「? 許す?」
「…知らぬのか。幼宰さまは、朝が明けるのと同時に、処刑されることが決まった」
「なんだと!」
となりでは、じいやがうめき声をあげて、休昭の寝台の柱に縋っている。
「馬鹿な。この屋敷をくまなく捜索するといい。いったいどこに買い占めた蝋燭がある、というのだ」
「逮捕の口実など、なんでもよかったのだ。こうなれば、われらも腹をくくって、尚書令と対決するしかない。
せめて休昭、お前だけでも生きながらえて、お父上の仇を取ってくれ」
「仇だと? まだ父上はご存命なのだろう? ああ、こんなところでボンヤリしているのではなかった。いますぐお助けせねば!」
「気持ちはわかる。だが、もう遅い。まずはおのれが生き延びることを考えてくれ」
「他人事と思って簡単に言うな! 助けられるか助けられないかは、やってみなければわからぬではないか!」
「やる前から結果は見えている。わからぬのか! 無駄死にはするな。
いま刑場に行ったところで、おまえも捕らえられて、ともに刑場の露と消えるだけだぞ!」
「かといって、おめおめと生き延びることができようか!」
「落ち着け! 冷静になって考えるのだ。お父上の冤罪を晴らすためにはどうしたらよいか、それを考えよ」
と、費褘は、興奮する休昭の肩を掴む。
「聞け、休昭。わが従兄の費賓伯は李興業将軍の部下だ。
李将軍は、荊州時代に軍師将軍とよしみがあり、いまは荊州側についておられる。李将軍を通じ、荊州方に力を貸してもらうのだ。敵の敵は味方だ。
聞けば、軍師将軍は、若いのになかなか情に厚い男だという話だ。われらの事情を説明すれば、もしかしたら力を貸してくれるかもしれぬ」
「駄目であったら?」
「それこそ、やってみなければわからぬ。軍師将軍は、法正に手を出しかねているが、それは益州人士を把握しかねているからでもあるのだ。
益州の人間のすべてが、法正のもとに団結しているのではないことを知れば、きっと動いてくれる」
「そうであろうか…」
話を聞きながら、とめどなくあふれてきた涙をぬぐいつつ、休昭は言う。
それを見て、費褘は大きく肯いた。
「そうだ。だからお前は生き延びるのだ。董家を潰してはならぬ。
さあ、この壷に、じいやと一緒に入れ。この男たちは伯父に恩義を受けたことのある連中だ。信用してよい」
「お前はどうする?」
「俺はここに残る。残って、おまえのフリをする。しばらくは、ばれないであろう」
「それこそ狂気の沙汰だぞ、文偉。もしばれたら、おまえとてタダではすまぬ」
「そうであろうな。だが、われらが原因で幼宰さまが命を落とすのだ。わが一族も、代償を払わねばなるまい」
「そうして、わたしは父上と、親友をいっぺんに失う、というのか? 冗談ではないぞ!」

問答していると、なにやら表が騒がしい。費褘と休昭は、はっとして耳を澄ませた。
「いかん。ゆっくりしすぎたな。どうやらお前も刑場に連れて行く命令が下ったのだろう」
「どうする? いまさら壷に隠れて逃げるわけにもいかぬ」
ひと暴れするか、それとも当初の計画どおりに、休昭とじいやだけを壷に隠して逃がすか、どちらにすべきか費褘が迷っていると、突然に、かたり、と木枠の外れる音がした。
何事かと、物音のした方向を費褘が見ると、おどろいたことに、天井の板の一部がはずれ、黒装束の男が、こちらを見下ろしていたのである。
思わず、費褘は休昭とじいやをおのれの背後に隠し、叫んだ。
「貴様、何者か!」
「騒がれるな。お味方でございます」
「味方?」
黒装束の男は、物音ひとつさせずに、するりとわずかな隙間から降りてきた。
仲間が複数いるらしく、開いた天井からは、ほかの黒装束の顔が覗いている。
「幼宰さまのご子息、董休昭どの、そして家令どのとお見受けしましたが?」
「左様、休昭はわたしだ。こちらは費文偉。費伯仁どのの甥御である」
「ご無事でよろしゅうございました。わが主は、貴方さま方に累が及ぶことを心配なさっておいででしたから」
「わが主、とな? まさか李興業将軍のことか?」
「それは、直接、わが主にお会いくださいませ。われらと共に行ってくださいますか?」
答えに迷っている暇はなかった。門が開き、そこからどやどやと大勢の人が向かってくるのがわかる。
「わかった。貴殿らと共に行こう」
と、休昭が答えると同時に、その場にいた全員の視界が暗くなった。

いつのまにか降りてきた黒装束の男たちは、休昭・文偉・じいや、そして農夫のふたりに、それぞれすっぽりと袋を被せて、そのまま担ぎ上げたからである。
大の男をそれぞれ担いでいるにも関わらず、手早く、軽々と天井へ引き上げていき、そのすべてが終わった直後、兵士たちが休昭の部屋にやってきたが、もちろん、そこには、野菜屑のちらばった壷があるばかりであった。

朝が明けた。
手の届かない高さにある窓から、すがすがしい白光が下りてきた。
血と汗と体臭と、汚物の匂いの充満する牢にあって、朝陽のありがたさを董和は噛みしめていた。
格子のはめられたちいさな窓から、神々しいまでに錦のたなびくような雲が朝陽に輝いているのが見える。
ああ、こんな朝に、私は死ぬのだな、と董和は思った。
おのれの処刑を知らされたのは、つい先ほどのことである。
刑吏がやってきて、貴方は朝日が完全にのぼったら、刑場にて首を刎ねられるのだ、と告げた。
それを告げた刑吏のほうが泣きそうな顔をしていた。
お力になれず、と最後まで言えず、袖で顔を隠してしまったので、董和は、自分のために泣いているところをだれかに見られたら、お前まで罪に問われるから、といってたしなめ、去らせた。
ふしぎと驚きはなかった。

牢の前に積まれている箱のうえに、真夜中、軍師将軍があらわれて取引をもちかけてきたのであるが、それすらも、おのれの期待が生み出した夢であったのでは、と思う。
いまは、そこに軍師将軍がいたという痕跡はなにもなく、会見のときに無造作に床に投げられた黄色い輝石の指輪さえ、そこにはもう落ちていない。
孔明の語った話は、世にも不思議な話であった。
低くもなく、高くもない、深みのある声が語った、九門古城の成り立ちについての物語が、いまだに耳朶に残っている。
その物語が、あまりに耳になじみがなく、そして現実離れしたもののために、董和自身に目前に迫っている死が、現実のものとしてとらえきれないのかもしれない。
軍師将軍には、屋敷は売れない、ときっぱり断った。
たしか、それは残念、というようなことをつぶやき、孔明は去っていったはずである。
壁にもたれて錦に染まる空をながめていた董和は、起き上がった。
すると、鞭打ちで受けた傷が、ほとんど熱を持っていないことに気づく。そして思い出した。
去り際、孔明は、これはわが家に伝わる薬です、毒ではないからお飲みなさい、と言って、丸薬をくれたのだった。
孔明がおのれに毒を盛る理由もなかろう、というわけで、董和はそれを口にした。
なるほどたしかに、ちゃんとした薬であったようである。

行動も思考もまるで読めない男であるが、それでも、薄汚い策謀を張り巡らせる人間ではなかろうと、董和は判断した。
いままで出会っただれよりも、澄明な眼差しを持っていた。
人界と遮断された山深くに済む人間ならばともかく、政治の真っ只中にあり、それでも澄明さを失わないでいられる人間は少ない。荊州の人間は、彼を称して『臥竜』と呼ぶそうである。
もしかしたら、この乱世を征し得る、本物の大器なのかもしれない。
だが、目前に死を控えた董和にとって、もはや孔明は遠い世界に去っていった人間であった。

死ぬのか。
あらためて、曙の空を眺めつつ、董和は考えた。
孔明の条件を呑むべきであったかもしれない。
死して名誉を守るよりも、生きて冤罪を晴らす道を取ったほうがよかったかもしれない。
孔明の話も、摩訶不思議なものではあったが、あの男なりに、事情があったのだ。
それでも、董和はその手を払いのけた。
最後に董和に決断させたのは、意地であった。
益州人としての意地、いままでの人生で培ってきた誇りが、あまりに生き様のちがう孔明の救いを拒ませた。
董和は、地位や名誉をかえりみず、人々と共に、地の上を地道に歩いて人生を送ってきた。
孔明は、たしかに世俗の欲とは無縁かもしれないが、しかしあの男は、たった一人で空でも飛んでいるような人生を送っている。人々と手を携えて地平を望むのではなく、高い空から世界を見渡しているのだ。
天と地の差、という言葉があるが、まさに董和と孔明のあいだには、人生や世界についての考えに、それほどの開きがあるのである。
地上にいれば、人々の苦しみや悲しみの声は、間近にわかる。しかし空にいれば、それすらも風の声にまぎれて、断片しか聞こえまい。
救いの手を拒んだのは、愚かだということは判っている。
しかし、おのれが選び、決めた道の果てがここだったのだ。
最後に与えられた運命がこれならば、真正面から受け止めてやろうではないか。
巴蜀にこの人あり、と謳われた男らしい、見事な最後をみせてくれよう。

やがて刑吏たちがやってきて、董和を牢屋から引き出した。
いまだ意識のもどらない胡偉度も同じであった。
獄吏が荒っぽく、胡偉度に水をかけたが、反応はない。まさか、死んでしまったのではないか。
董和は、腕をくくられながらも、ぐったりとしてぴくりとも動かない胡偉度に、何度も呼びかけて見ると、偉度の裂けた唇から、うめき声らしきものが聞こえ、董和は、ほっとした。
わけのわからないままに捕らえられ、わけのわからないまま刑場で命を散らす。
おのれはおのれの意地と誇りにかけて死ぬことができるが、偉度はそうではない。
「その男は、なぜわたしと一緒に処刑されるのだね」
と、董和のために泣いた件(くだん)の刑吏に尋ねると、こんな答が返ってきた。
「私どもにもわかりません、尚書令さまが、そうせよ、とお命じになられましたので」
法正の権力は、いまやこんなところにも及んでいるのである。
尚書令の名がつきさえすれば、小役人たちは、思考をすることもなく、命令に唯々諾々と従う。
なんとも寒々しい話だな、と董和は思ったが、純朴な刑吏に他意がないことは判っていたので、なにも言わなかった。

刑場には、早朝だというのにも関わらず、おおぜいの成都の民が押しかけてきていた。
ひとつひとつを見ることができなかったが、おそらく長星橋商店街の人間も、あのなかにいるにちがいない。
自分が去ったあと、彼らの借金はどうなるのだろう。董和はそんなことを心配しながら、砂利の上を素足で歩いた。
董和が姿を現すと、一斉に怒号が起こった。
蝋燭の買占めをしたという董和への抗議ではない。
董和を嵌めた、法正に対しての怒りの声であった。民が暗愚ではないことを知り、いくらか董和は慰められた。
そして、刑場に、費伯仁や息子の休昭、兄姉たちの姿がないことにほっとした。
法正は、まだ親族や友を捕らえていない様子だ。
どうやら、自分が一番手らしい。できることならば、なんとしても息子と友には生き残って欲しかった。
茣蓙に正座をさせられ、刑吏が罪状を読み上げる。
意識のない偉度は、そのうえ、後ろ手に縛られているので、罪状を読み上げられているあいだでも、なんども体を揺らして、そのまま横倒れになった。
すると、処刑人が偉度の意識を覚まさせるため、水をかける。
そんなことが何度もくりかえされたので、見物に押しかけてきた民は、いまにも柵を壊さんばかりに怒り出し、はげしい怒号をさらに大きく喚き散らす。

「静かに、静かにせよ!」
と、声がして、同時に銅鑼がどおん、と打ち鳴らされた。
とたんに、刑場が、冬の湖のように、しん、となった。
ほかならぬ、法正その人が、刑場の上座にあらわれたのである。
いまや成都の独裁者、民衆の恐怖の的である法正の登場に、さきほどまで力の限り怒号と罵声を叫んでいた民も、ぴたりと口を閉ざした。
民が静かになると、法正は、満足そうに、細い目をさらに細くして、ゆっくりと董和のところにやってきた。
「最後に見る顔が、貴殿の顔とはな」
と、董和は酷薄な笑みを浮かべるキツネ顔を見上げた。
青白く、神経質そうな尖ったあごを持つ法正は、獲物をいたぶるキツネのような顔をして、言った。
「これはなかなか、ごあいさつではないかね。最後に、心残りになってはいかんと思って、面白い話を聞かせてやろうと思ったのだが」
「貴殿の面白い話など、ろくなものではなかろう」
顔をそむける董和に、法正は鼻を鳴らした。
「九門古城の宝のことだよ。御辺には礼を述べねばなるまい。私は『得れば必ず天下を取れる宝』を手に入れたよ」
「なんだと?」
董和の脳裏に浮かんだのは、孔明の語っていた話、『得れば必ず天下を取れる宝』とは、不老不死を可能にする秘薬の原料となる、薬草のことだ、という話であった。
だが、法正の口から出たのは、意外な言葉であった。
「残念だな、御辺がもうすこし利巧であったなら、共にあの宝を拝むこともできただろうに。
世界の成り行きのすべてを記した図讖(としん)。あれさえあれば、わたしに怖いものなどなにもない」
「図讖?」
おどろく董和に、法正は、さらに満足そうに、顔に笑みを刻む。
「おや、宝の正体をやはり知らなかったのだな。これはよい冥土の土産になっただろう。
ついでに教えてやろう。張大人は、もうだいぶ昔に『得れば必ず天下を取れる宝』を見つけていたのだよ。
ただ、それは外には持ち出せない類いのものであったので、他国に高く売りつけるわけにもいかない。
とはいえ、独占して利益を得るだけの儲けしかないのも勿体無い。いったいどうしたらよいか、持て余していたのだ。
最初、奴は金のありそうな荊州側にこれを売りつけようとしたのだが、荊州側の筆頭の諸葛亮は、愚かにも、まともに話を聞かず、張を追っ払った。
そこで張は私に話を持ってきた。私としても、あまりに荒唐無稽なので、最初は相手にしていなかったのだがね。
信じるきっかけになったのは、御辺だ。堅実で知られる御辺が、免官になったとはいえ、仇敵である張大人の店に入っている。
これは面妖なと調べたところ、『九門古城』の話が本当であることがわかったのだ。
早速、私は張と連絡し、宝を得る代わりに、受ける利益のいくばくかは、張に還元することを約束したのだ」
「それが、一昨日の夜のことであったのだな」
「そのとおり。そうそう、張から伝言を預かってきたのだった。
『晴嬰のことは心配しなくてもよい、お前の代わりに、女として、最高の生活をさせてやろう』と」
「貴様!」
立ち上がろうとする董和を、脇にいた処刑人が抑える。その様子に、法正はなにがおもしろいのか、声をたてて笑った。
「しかしうまく行くときには、四方がうまく行くものだな。
御辺を担ぎ上げてわれらから離反しようとしていた費家と楊家の動きも押さえることができた。
あとは、彼らをどう料理するかだ。なにせわたしには『得れば天下を取れる宝』がある。
もう恐ろしいものなどなにもない。御辺は冥府にて、わが活躍を眺めておればよいぞ」
「さあて、ややもせぬうちに、貴殿の首だけが冥府に落ちてくることにならねばよいが」
「負け犬の遠吠えだな。無駄なおしゃべりはこのあたりにするか。刑を執行せよ」
法正がくるりと背を向けると、それが合図となり、青竜刀を手にした処刑人が近づいてきた。
水を打ったように静かで会った民のなかから、ふたたび、はげしい怒号があがる。
しかし法正は涼しい顔で、刑吏の中央の椅子に座ると、さっさとしろ、といわんばかりに処刑人に手で合図を送った。

董和は混乱をつづけていた。
張大人がすでに『得れば必ず天下を取れる宝』を掘り出していたならば、それ以降も盗賊や、自分たちを古城に入れていたのは何故なのか? 
急に張大人が掌を返したようになって、董和を陰謀に巻き込んだのは、法正との取引が成立したからだ、という理由はわかった。しかし、孔明は、『得れば必ず天下を取れる宝』は、古代に滅亡した王国につたわる、不老不死を得るための秘薬の原料となる薬草だと言っていた。
図讖のことなど、ひと言も触れていなかった。
処刑人がそばに立った。
そのとき、ようやく董和の心ははげしく乱れた。
全身に流れる汗が、おのれの体に、まだ脈々と、熱い血潮が流れていることを告げてくる。
死にたくない。こんな何も判らない状態で、すべてを置き去りにしたまま、死にたくない。
怒号が渦のようになって、刑場の空気をかき回し、激しさを増す。
そんななか、董和は、怒号のなかに、紛れつつも、押し寄せる波のように、じょじょに近づいてくる地鳴りを、はっきりと聞いた。

地鳴りが大きくなると同時に、観衆の怒号が、どんどん、歓声にかわっていく。
おどろいて顔をあげると、観衆の背後から、水牛の群がこちらに向かってまっすぐに突っ込んできていたのである。
水牛の群の、その先頭にいるのは、あの神々しいまでに美しい白馬にのった、赤頭巾であった。
水牛の勢いはすさまじく、観衆さえもなぎ倒し、土石流のごとく処刑場へとなだれ込む。
水牛は、その大きな角と黒い巨体でもって竹で編まれた柵をあっさりと壊した。
そうして興奮しきった牛は、刑場に侵入すると、興奮しきった様子で、だれかれ構わず、目についた者をその凶悪な角でもってひっかけて、弾き飛ばしはじめた。

とたん、観衆をも巻き込んで、その場は大混乱となった。
法正は、兵士たちに檄を飛ばすのであるが、混乱がひどく、声がまともに通らない。
董和は、後ろ手を縛られたまま、牛に蹴り飛ばされないよう注意しつつ、脇に倒れている偉度のところへにじり寄った。
動けない偉度が、牛に踏み潰されることを警戒したのだ。
赤頭巾はじつに楽しそうに牛をあおっている。そして牛の群れの後ろからは、ほかならぬ、晴嬰をはじめとする長星橋商店街の面々が、手に手を武器になだれこんできた。
牛が単なる暴走などではなく、なにものかの襲撃なのだということがはっきりわかると、法正の私兵たちの動きは早かった。
たちまち牛を弓でもって仕留め、つぎに、なだれ込んできた商店街の面々に弓を向ける。
と、それは放たれることはなく、まるで降ってきたようにあらわれた、董和の見たことのない白頭巾の男の見事な槍裁きで、ことごとく跳ね飛ばされてしまった。
白頭巾の動きがあまりに華麗なために、牛の暴走に怯えていた観衆から、盛大な歓声と拍手が沸き起こるほどである。
いちばん大喜びしているのは、自身はなにをするでもなく、ただひたすら観衆と牛を煽っている赤頭巾であった。

「すげえ、あの男、一人で全部やっつけちまえますぜ!」
そう嬉しそうに言いながら、駆け寄ってきたのは、肉屋の親父と、晴嬰だった。
「幼宰さま、ご無事で!」
晴嬰が董和を抱き起こし、枷を外そうとする。その手を制し、董和は言った。
「わたしはよい。それより、偉度をなんとかしてやってくれ」
「もちろんそうですが、ひでぇ有り様ですぜ、幼宰さま」
と、肉屋は、董和と偉度の戒めを解きつつ、怒り混じりに言う。
おのれの姿を顧みることがなかったので気づかなかったのだが、董和の姿はぼろぼろであった。
衣はあちこち裂け、ところどころ血がこびりついている。
董和自身の体も、満身創痍だ。千里の彼方から、這ってきたような有り様である。
肉屋の親父は、自分の店の道具でもって、器用に董和と偉度の枷を外した。
偉度の意識はいまだ明確にはならないが、それでも自由になると、かすかにうめき声をあげた。
両腕を解放されてほっとした董和であったが、自分を覗き込む肉屋の親父と、涙ぐむ晴嬰の背後に、いままさに斬りかからんとする処刑人の姿を見た。
董和は、傍らの晴嬰を抱きかかえるようにして身をよじらせると、地面をそのまま転がるように移動した。
鞭打ちをうけた傷が、砂利の感触に悲鳴をあげたが、止まってはいられない。
そうして、白頭巾によって打ち倒された兵士の体から、とっさに剣を奪うと、ふたたび襲ってきた処刑人の刃を受け止めた。
しかし、鞭打ちを受けたばかりの体は、ちょっとした衝撃にも敏感である。たった一撃を受け止めただけなのに、董和の全身に痺れが走った。
思わず剣を落とすと、処刑人が、にやりと残酷な笑みを浮かべた。
「いけない!」
その叫びが聞こえたのと、目の前に晴嬰が立ったのが、ほぼ同時であった。
処刑人が、全体重をこめて、身をひねるようにして、横から切り伏せるべく、刃を奮うのが見えた。
とっさに、董和は前に立った晴嬰を背後から抱きしめるようにして、そのままぎゅっと目をつぶった。
ふたり同時に死を迎えることになるのか、と思いながら。

が、恐れいていた悲鳴も衝撃も、なかなかやってこない。
目を開けると、処刑人は、口から泡を吹いて、膝から崩れ落ちていた。
その背後には、赤頭巾が得意そうに棍棒を持って、あいかわらず目をイタズラ小僧のように笑わせている。
「どうだい、これで立派に恩返しができただろう?」
「かたじけない」
場にふさわしからぬ明るい声に、董和は思わず素直に頭を下げていた。

だが、そんなふうに場が和んだのも一瞬のあいだだけ。
白頭巾が霧を払うようにして、つぎつぎと打ち払っていた法正の私兵であるが、騒ぎをききつけて、別の部隊が応援にやってきてしまったのだ。
彼らは高台より弓を構え、まず先に白頭巾めがけて、矢をかける。白頭巾は、神業とも言える華麗な動きでもってそれらをことごとく交わすのであるが、自身に向けられた矢を払うのにいっぱいいっぱいになってしまい、その隙に、ほかの私兵たちが、長星橋商店街の面々や、騒ぎに乗じて、日ごろのうっぷんを晴らそうと暴れていた観衆に向けて、つぎつぎと弓をはなってきたからたまらない。
とたん、場は悲惨な叫びにあふれた。
暴徒がさらに混乱したのをみきわめた法正が、兵士に合図をすると、今度は剣でもって、徒手空拳の民を切り伏せにかかった。
たちまち、刑場は、逃げ惑う人々であふれかえった。
牛はさらに興奮し、全身に矢をいくつも浴びながら、狂ったように暴れまわり、兵士たちは目についた者から、つぎつぎと捕まえて切り倒していく。
「ヤロウ、なんてことしやがる!」
赤頭巾が怒りにまかせて、頭巾を取るべく、立ち上がったそのとき、空を裂くような、呼子の音が場を断ち切った。

新手である。
矢を射掛けていた兵士たちも、法正も、刑場を逃げ惑っていた観衆も、呼子の声につられるようにして、そちらを見た。
牛たちが雪崩れこんできたあとから、法正の私兵とはちがう装束の兵士たちが現れたのであった。
その冠飾りに白い羽根がついている。荊州兵である。
「みなのもの、鎮まるがよい! この場は軍師将軍諸葛孔明の預かりとする!」
雷鳴にも似た重く響く声が、大混乱であった刑場に轟きわたった。
声はまるで、夏場に吹きすさぶ強風のような威力でもって、その場にいた全員を圧倒し、嘘のような静けさを運んできた。
そうして、荊州兵の中から、立派な馬具に飾られた馬に乗った諸葛孔明そのひとが、ゆっくりと前に進み出た。

とたん、赤頭巾が、董和の傍らで、「ヤバイ、やばすぎる!」といいながら、馬を下りて、兵士たちに矢を駆けられ、地に倒れた水牛の体の陰に隠れた。
董和は、孔明が姿を現しただけで、背筋がぞくりと戦慄したのがわかった。おそらくほかの者もそうなのであろう。
ぎゅっと衣を引かれて、見ると、晴嬰が、孔明から目を離さないまま、怯えたように、董和に身を寄せているのである。
周囲の視線を一身にあつめながら、孔明は刑場のありさまをゆっくりと見回す。
そうして、ふと董和と目線を合わせてきた。
だが、董和には、そのきびしい表情の内側に、どんな思惑が秘められているのか、それを類推することはできなかった。
自分は、たしかにこの男の救いの手を拒んだはずである。それでもなお、助けにきた、などとはにわかには信じがたい。
なぜなのか? 

孔明は、しばらく董和を見つめていたが、ふい、と首をそらし、刑場の上座でたちあがり、孔明の登場にうろたえる法正をきびしくねめつけた。
「尚書令どの、この騒ぎは、いったい何事でございますかな?」
孔明の口調には、明らかに怒りが込められていた。それも生半可なものではない。
高座にいた法正は、突然の孔明の登場に、うろたえつつも、かろうじて笑みを浮かべて答える。
「罪人の処刑に、闖入者があり、場が混乱したのだ」
「罪人はいずれに? 今朝方、わたくしはすべての書類に目を通しましたが、昨日、逮捕された、董幼宰殿についての物はひとつもなかった。それに、昨日の今日に、もう処刑というのは何ゆえか。理由をお聞かせ願いたい」
法正は、その言葉に、あきらかに不快そうに顔をゆがめた。
「処断についての権限は、成都の太守たる吾にあり。貴殿の口出しは無用!」
「否。劉左将軍より成都の治安を預かりしは私でございます。見るに、民は董幼宰殿の逮捕にひどく動揺し、いまもこうして混乱が生じている様子。生半可な理由では、民も私も納得しませぬぞ」
明瞭な言葉の一つ一つに、火花が散るような怒りが込められている。
孔明は、騎乗したまま、片時も法正から目を逸らさずに、射るようにしつつ、ゆっくりと寄っていく。
もはや、だれもひと言も口をきかない。
孔明の乗る馬が、砂利を蹴る音だけが妙に耳につく。

法正は、孔明の勢いに呑まれていた。
孔明と法正の年齢差は七年ほどであるが、しかし法正は、あきらかに年若いこの軍師将軍に気圧されていた。
あまたいる人々を沈黙させ、なおかつ怖じさせるこの力は、いったいどこから溢れているものなのであろうか。
法正は、上座から、孔明に言う。
「蝋燭の値段が高騰したは、董幼宰と、そこな胡偉度が、不正に買占めをしていると判明したからだ」
「ほう、それなりの証拠があっての話なのでしょうな?」
「当然だ。私は一日かけて、このふたりを取り調べた。そして自白を引き出したのだ」
それを聞いて、孔明が目を細める。
「一日とな? それはもちろん、朝から晩まで、ということなのでございましょうな?」
「そのとおりだ」
とたん、孔明はその秀麗な相貌に嘲笑を浮かべた。
「これは面妖な。わたくしは昨日の昼、董幼宰殿のお屋敷に、息子と共に立ち寄っておるのです。
それから逮捕されたのであるから、取調べなど、ほんの数刻だけしか時間がなかったはず」
法正は、孔明が董和の屋敷を訪れたことを知らなかったのだ。
法正がうろたえて、言葉を捜している隙を逃さず、孔明が畳み掛ける。
「左様な児戯めいた嘘を並べること自体が、この逮捕に不正ありと、御自ら認めたようなもの!
さらに加えて、武器をもたぬ民を斯様に傷つけたるは、成都太守ならびに尚書令たる者の振る舞いか!
見るがいい、貴殿の軽率な振る舞いにより、兵卒たちは、暴徒と無辜の民の区別もつけずに斬りつけた。劉左将軍の信任あつき貴殿が、自らこの成都に修羅を生むとはまことに…」
と、孔明は、朗々とひびきわたる声でもって、言い放つ。
そして、牛の死体と怪我人とが無造作にならぶ、血なまぐさい現場をぐるりと見渡す。
ぽかんとした表情で、仙術にかけられたように、しわぶきひとつたてないでいる民衆、その武器を奮う手を止めて、言葉に聞き入っている兵士たち、そして、刑場の中心にいる董和と、胡偉度。
その横にいる赤頭巾、離れたところにいる白頭巾…

そうして、最後に法正に顔を戻し、言葉を続けようとするのであるが、ふと、怪訝そうに眉をしかめると、ふたたび董和のほうに顔を向けた。
いや、正しくは、董和のとなり、水牛の死体の影に隠れるようにしている赤頭巾に。
そして、何度か目をぱちくりとさせたあと、さらに見回し、今度は、兵士たちを相手に、大立ち回りをしていた白頭巾のほうに顔を向け、さらに呆けたような顔になる。
とたん、それまで怒気の塊のようであった軍師将軍としてのいかめしい姿はなくなり、雪が解けるようにして、三十をすこしばかり過ぎただけの、素のままの若者の顔があらわれた。
孔明は、ぽかんとしたまま、水牛の死体の影に、その巨体をなんとか隠そうとしている赤頭巾に言った。
「…なんで?」

ゆらりと、董和の視界の中で動くものがあった。
さきほど、赤頭巾によって気絶させられた処刑人が起き上がったのだ。
とうぜん、いままで意識がなかったのだから、軍師将軍が自ら乗り出して、場の収拾にあらわれた、などということは知らない。
ぼんやりした頭を何度も振りつつ、ふらふらと処刑人は立ち上がると、ふと、孔明を見つけた。
孔明のほうは、赤頭巾のほうに気をとられていて、処刑人のことに気づかないでいる。
そしてなにを思ったか、雄叫びをあげるや、青竜刀を孔明めがけて振りかざしたのである。
あぶない、と董和が叫ぶ間もなく、刃は光を受けて、馬上の孔明に斬りかかっていく。
ぎん、と鋭い音がして、刃は孔明の目の前で止まった。
ほかならぬ、孔明自身が、腰に帯びていた刀でもって、青竜刀を受け止めたのであった。
おおー、と背後にいる荊州兵からどよめきと、なぜだか拍手が起こる。
孔明は、受けた刃をそのまま力任せに跳ね飛ばそうとする。
しかし、処刑人の力のほうがはるかにつよい。押し返されそうになるのを、一気に力をこめて薙ぎ払う。
おどろいたことに、孔明の手にした剣は、まるで泥でも斬るかのように、処刑人の手にした青竜刀を真っ二つにし、さらにその反動で、処刑人の顔を、斜めに切り刻んでしまった。

とたん、静かであった刑場に、処刑人の悲鳴が響き渡る。

それが合図であった。
ぼう然と、自分の手と、自分の手の握る剣を見ている孔明に、法正が叫ぶ。
「気でも狂ったか、軍師将軍! 仮にもお上に仕える者を無残にも切り捨てるとは!」
その言葉に、孔明は我に返り、反駁する。
「貴殿も見ておられたであろう! 不可抗力だ!」
「咎人はみなそう言う」
「咎? いきなり斬りつけられたら反撃するのは当然であろうが!」
「その男の仕事は、刑場の罪人を処することと、刑場を闖入者より守ること。役目を全うしたに過ぎぬ男に対し、その振る舞いは許せぬ!」
「待たれよ、そもそもわたしがここにやってきたのは…」
「言い訳は無用! みなのもの、軍師将軍が乱心ぞ! かまわぬ、捕らえよ!」
そして、さらになにを思ったのか、法正の私兵のひとりが、処刑人の動きに呼応するように、叫んだのである。
「弓をかけよ! 闖入者を追い払え!」
その声に、ほかの兵士たちは条件反射でそれに従い、矢が再び射掛けられる。
「この馬鹿者めが!」
と、怒号を吐いたのは、白頭巾である。ふたたび槍をかざすと、矢をつがえる私兵たちを次々と薙ぎ払う。
しかし、放たれた矢のいくつかは、孔明に向かっていった。
さいわい、矢は孔明に直接あたるものはなかったが、これに力づけられてしまった処刑人は、顔からどくどく血を流しつつ、さらに獣じみた雄叫びをあげて、孔明に青竜刀を突き立てようとする。
とたん、背後にいた荊州兵が叫んだ。
「全部隊前進! 軍師将軍、御自ら剣を取って戦っておられる! 軍師将軍をお助けせよ! 尚書令に目にもの見せてやれ!」
「は?」
と、これは、思わぬ部下の動きに仰天した孔明からもれた言葉である。
じゃん、じゃん、と派手な銅鑼の音とともに、わあっ、と喊声をあげて、荊州兵たちが雪崩れこんできた。
それを見て、今度は法正が叫ぶ。
「尚書令たる我が身に兵を動かすとは、諸葛亮、叛意あり、と見た! 者ども、かまわぬ、荊州兵を蹴散らせ!」
私兵たちはご丁寧にも、
「軍師将軍が叛乱! 軍師将軍が叛乱!」
と叫びながら、荊州兵を迎え撃つ。
その様子に逃げ惑う民も、
「軍師将軍が叛乱したってよ!」
と、まるで状況のわからないまま、口々に言いながら逃げていくのである。

「ええい、勝手に決めるな! だれが誰に叛乱だというのだ!」
と、孔明は叫ぶのであるが、さきほどまでの威厳はどこへやら。
まだ追いすがる処刑人を、馬上からしたたかに蹴り飛ばして気絶させると、赤頭巾と董和のほうへ馬を進めた。
「予定が狂った! 董幼宰、立てるか?」
晴嬰に助けられながら、董和は立ち上がり、うなずいた。孔明は、よし、と短く答えると、馬から降り、水牛の死体の影から、そおっと顔を覗かせて様子を見ている赤頭巾に言う。
「こちらへ」
赤頭巾は、顔が隠れているものの、あきらかに気まずそうにしつつ、答える。
「嫌だよ。だって、出て行ったらおまえ、怒るだろう」
「当然でございます! これはいったい、いかなることでございましょうや!」
「話すと長くなるのだな、これが。久方ぶりに、ゆっくり話をしたいのはやまやまだけどもよ、おまえ、この状況、早くなんとかしねぇと、かなりまずいんじゃねぇのか」
「まずいですとも。さあ、その悪趣味な赤頭巾を取って、孔明は叛乱などしないと、みなに宣言してくださいませ!」
ぐずぐずする赤頭巾を孔明が叱り飛ばしている背後で、ふたたび処刑人が起き上がり、三度目の襲撃をしかけてきた。
とたん、疾風のごとく白頭巾が飛んできて、その手にした槍でもって、巻き込むようにして処刑人を地面に打ち倒した。
孔明は、それに感動するでもなく、冷たい目をむけて言った。
「おや、どうもありがとう。ところで正体不明の白頭巾殿、貴殿はわたしがよく知っている、ある男にそっくりなような気がするのであるが、わたしの記憶違いであろうか?」
「あとで事情はゆっくり説明する。それより軍師! 兵士を止めよ!」
と、白頭巾は答える。
孔明はさらに言葉を継ごうとしたが、白頭巾は、顔だけ孔明に向け、追いすがる私兵を、たかってくる蠅を叩き落すようにかるがると払いのける、という器用な芸当を披露しつつ、つづけた。
「このままでは収拾がつかぬ。ほんとうに叛乱を起こしたものと決められてしまうぞ」
「やかましい! そちらこそ、その変な頭巾を取って、兵士を鎮めるといい! 兵士の管理はあなたの仕事だぞ!」
「いや、だから、事情があるのだって」
赤頭巾が言うと、孔明は低く呻いた。
「ここにいるすべての人間に事情がございます! もうすこしで堂々と董和殿を助けて、そのうえ尚書令に目に物見せてくれることができたというのに…!」
よいしょ、といいながら、赤頭巾は水牛の体をまたいで、孔明の前にやってきた。
「ずるい、ずるいよ、おまえは!」
「ずるい? このわたしがずるいと、そうおっしゃるのですか?」
「蜀に入ってから、お互い忙しいっていうので、ちゃんと話をする場を設けなかった俺もよくねぇが、いいか、おまえは俺のことをなんでもお見通しだ。なのに、俺はおまえのことが判らねぇ。なんか隠しているだろう。
オツムの出来に関しては、俺はおまえに劣っているが、人を見る目は負けてねぇ。おまえが、単に法正との決着をつけるために、幼宰さんを利用しようとしたのじゃねぇことはわかっているのだぜ」
「そういう貴方様は、ここで何をしておられる? いったい、いつ、いかにして幼宰殿と知己になられたのでございますか?」
「そこは、それ、あれだ、ほら、うん?」
と、赤頭巾は首をかしげて、わかるだろう、と問いかける仕草をするのであるが、孔明は一蹴した。
「あいにくと判りかねます。やはり、貴方様には、落ち着かれるためにも新たにご夫人を…」
「またその話か! 俺は嫌だと言っているのだ。最近のおまえ、本当に冷たいよ!」
意外なことに、孔明はその言葉を聞くと、まるで雪つぶてでもぶつけられたような顔になり、あきらかに悲しそうな顔をしてうつむいてしまった。
董和が感心するほどに傲岸不遜であった男が、まるでちいさな子供のようである。
かえって、赤頭巾のほうがうろたえて、わたわたしつつ、言い訳をつらねる。
「すまん、冷たいというのはきつ過ぎるな。うん、なんというか、すれ違いだな、いや、ほんとうに」
孔明は赤頭巾から顔をそらして、つぶやく。
「よろしいのですよ、冷たかろうとなんだろうと、構いませぬ。
多くの者の犠牲を払い、血のにじむような思いでようやく取ったこの地を守るためならば、孔明は憎まれようとも文句は言いませぬし、如何に貴方様に嫌われようとも、けしてお恨み申し上げませぬ」
「ああ、よかった。怒ってないのだな?」
ほっとした赤頭巾が笑みをこぼすと、孔明はつづけて言う。
「ええ、左様でございますとも。得てして智将というのは疎まれやすいもの。最初からそれくらいの覚悟を決めておりましたから、荊州へ帰りたいとか、そろそろ隠居したいなどとは口が裂けても申しませぬ」
「まだ怒っているじゃねぇか!」

「あのな」
と、孔明と赤頭巾…その正体が董和には判っていたが、あまりのことに認めたくない気持ちのほうが大きかった…の棘棘しい会話の横で、つぎつぎと尽きることなく襲ってくる兵卒たちを追い散らしていた白頭巾が、孔明に声をかける。
「言い争いはあとにして、対策を先に練ってはくれぬか。いい加減、俺も、他の連中ももたぬ」
「なに?」
見ると、荊州兵たちは戦ってはいるものの、その動きはにぶく、血気盛んな法正の私兵とくらべると、勢いがない。
それもそのはず、兵士にとって、士気は行動の核をなす大事なものである。
それが、兵士をまとめる役の孔明がろくに命令を下さず、そのうえで叛徒と決め付けられてしまえば、士気が萎えるのは当然のことであった。
「いかんな、兵を引こう。このままでは全滅する」
「待たれよ、軍師将軍」
と、董和が孔明に意見する。
「このまま貴殿が兵を引けば、法正はこれを、貴殿が叛意を認めたこととして世間に喧伝しよう。引き上げるにしても、兵舎ではいかん。このまま宮城に向かわれよ」
「宮城に?」
怪訝そうにする孔明に、董和は赤頭巾に向かって跪いた。
「劉左将軍、諸葛孔明殿は、けして己が私利私欲のために動かれたのではございませぬ。
すべてを語ることがいまはできませぬが、それは間違いのないこと。このまま正体を明かされて、軍師将軍とともに宮城へお戻りくださいませ。
劉左将軍と軍師将軍のお二方が轡を並べているのを民が見たならば、叛乱の噂も、なにかの誤解とみなに知れましょう」
赤頭巾は、肩をすくめて大きくぼやいた。
「あーあ、ばれちまったな。せっかく面白かったのに、もうお終いか」
そうして、孔明や董和を押しのけるようにして、前に立つと、赤頭巾を取るべく、頭巾に手をかけた。

と、そのとき、一斉に時の声がして、見ると、法正が応援を頼んでいたのだろう、面倒なことに馬超と彭恙が、それぞれ兵を率いてやってきたのであった。
それを見て、孔明が舌打ちをする。
「これはまた面倒な。 お下がりくださいませ、主公! いま主公が正体を明かされても、かえって自らを槍の餌食に差し出すようなもの」
「でもこのままだと本格的な内戦に突入しちまうぜ」
と、赤頭巾…劉備は、これまでになく真面目な声で孔明に言う。
孔明も、同じく神妙な面持ちで、劉備の言葉に肯いた。
董和は、ふたりのやり取りから、馬超と彭恙の動きを、劉備と孔明が、すでに把握していたことと、そうと知りながらも泳がせていたことにおどろいた。
「わかっております。ただ、こちらの手勢があまりに少ない。わが兵が御身をお守りいたします。主公はこのまま宮城へ至急お戻りくださいませ。
そして、わたくしに叛意がないこと、董幼宰殿の逮捕が間違いであることを民に至急、通達ください。劉巴にご相談を。彼ならば、もっとも早い処置を考えてくれるでしょう」
「あいつが俺の言葉を聞く気分であったらよいがな。そこはお前の運試しというところだ。よし、俺は急ぎ、宮城に戻るとして、お前はどうする」
「貴方様は至急、宮城に戻らねばなりませぬ。しかし怪我人の歩みに合わせていては、行動が遅くなる。
尚書令も息のかかった益州人士をすべて使って、わたくしを徹底的に排除すべく、動き回るでしょう。速さの勝負となります。怪我人は、わたくしが連れて行きます」
「道はどうする? ここから宮城へ向かう道は、すぐに法正の私兵が追っかけてくるぜ?」
「道はございます。わたくししか知らぬ道でございますれば、どうぞご安心くださいませ。幼宰殿らを無事な場所に連れて行くことができたなら、わたくしも宮城に参ります」
「九門古城だな?」
劉備の問いに、孔明はこくりと肯いた。
すると、劉備は赤頭巾の下から、楽しそうに声をあげて笑う。
「まったく、この世でお前の知らないものがあるのかね? わかった、お前の言うとおりにしよう。
おい、子龍。いつものように、お前は孔明に付け。逃げる事に関しちゃ、俺のほうが上手だ。心配はいらねぇよ。それじゃあ、宮城で会おうぜ」
「また、いずれ」
「よおし、もうひと暴れだ!」
と、劉備は叫ぶと、乱戦中の荊州兵たちに叫んだ。

「者ども、引き上げだ! 俺につづけ! 尚書令なんかに構うな! 引き上げるぞ!」

劉備は白馬でわざと法正の前を大きく旋回し、それから兵士たちが劉備の声に気づいて、あとに続いてくるのを見定めると、一斉に刑場から飛び出した。
「主公があちらの気を引いてくれているうちに、我らも行くぞ」
「貴殿は、九門古城の別の門をご存知なのか?」
董和が尋ねると、孔明は早口に答えた。
「昨夜、お話したと思いますが、わが家系に伝わったのは、医薬に関する知識や伝説だけではありませぬ。この地をおさめる州牧に代々古城の地図が伝わっていったように、わが家にも同じようなものが伝わったのです。
とはいえ、何千もの月日を越えたものですから、場所の特定がなかなかできなかった。この近くに、門のひとつがあります。そこからほかの門へ抜けましょう」
孔明は言うと、乗っていた馬に董和を乗せる。
そうして、地に伏す胡偉度のほうへと駆け寄った。
「偉度、わたしがわかるか。遅くなってしまった、許せ」
胡偉度は、意識が回復していたようである。
腫れあがった顔を持ち上げて、わずかに笑みを浮かべると、答えた。
「勿体無きお言葉。このまま打ち捨てられようと、偉度は貴方さまを恨みになど思わぬものを」
「たわけめ、諸葛亮は薄情者ではないということを証明してやる」
「私は、ご命令をまっとうすることができませんでした」
「十分な結果を出した。お前のお陰で、張の動きが読めたのだ。もう喋るな」
「偉度は、貴殿の草であったのか?」
おどろく董和に、孔明は、わずかに微笑を浮かべて答えた。
「張の九門古城の門の管理が、どうなっているのか知りたかったのです。しかし、そこへまさか貴殿が現れるとは思わなかった。偉度は貴殿の真意を探るため、共に古城に潜ったのですよ」
「そうであったか…なにか隠しているようだとは思っていたが」
胡偉度は、孔明に担ぎ上げられると、董和に向かって、申し訳なさそうに笑みを浮かべた。
董和としては、複雑ではあったが、怒りを覚えることはなかった。ともかく、助かったのだ。
「さあ、参りましょう」
孔明の先導によって、董和と胡偉度、晴嬰をはじめとする長星橋商店街の親父さんたちがつづき、殿を白頭巾…趙子龍がつとめる。
炎の如き勢いで、錦馬超と彭恙の率いる部隊がやってくるのを気にしつつ、一行は門へと急いだ。

十九話へつづく…
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