捜神三国志・燭龍本紀

第十七話 宝の正体


 世界の空気が一変した。
巫術師の話ではないが、もしだれかがおのれに対し呪いをかけたとして、それが空気でわかるとしたら、こんなふうではあるまいか。
 纏いつくどろどろとした敵意。空耳とまちがえるほどにさやかに聞こえてくる、絶えることのない誹謗の声。剣や槍や、あるいは炎で払うことができるものではないだけに、始末がわるい。
 馬超はだれに対してでもなく、舌打ちした。
家人が、法正や、その取り巻き連中から送ってきたと言う贈り物が届いていると告げた。
 「突っ返せ」
と、馬超は指示をした。その家人に罪はないが、ぶちのめしたい気分になり、馬超は辛うじておのれを抑えて、外へ出た。
門にはすでに気の聞いた馬丁が、でかける馬超のために馬を用意してくれていた。故郷の草原とはちがい、めったに晴れることのない成都の夜空は、ぼんやりと雲の向こうに月を君臨させるばかりで、満天の星をのぞむことはできない。
夜風が心地よかったが、それもわずかな間のことで、やがて、目に見えない重苦しい空気に圧倒される。
 ぞっとした。万の軍勢を相手にしてもなお、怖じるということを知らなかった男が、戦慄したのである。
憎悪だけによって殺される、ということが、もしかしたらあるのかもしれない。
皮肉なことに、馬超は、たった一人の怨嗟でも、天下を動かしうる、ということを証明した人間である。馬超の怨嗟は、曹操に向けられていた。怨嗟の声は、常人には聞こえない。たったひとり、怨嗟の対象にだけ、聞こえてくる声なき声だ。これを追い散らすことはむずかしい。
成都の民の、自分を見る目がちがう。
いままでは、馬超が道を行けば、ほら、あれが錦馬超だ、といって、怯えたように道を空けるのがかれらであった。しかしその目には、恐怖だけではなく、どこか羨望にも似たものが宿っていたのである。それは、巨大な敵にたった一人で挑んだ男に対する、神話の英雄をそこに見るような眼差しであった。憎まれてはいなかった。
ところが、いまはどうであろう。
人々の目には、いまは、あきらかに軽蔑がある。

異国においても颯爽とした馬超の姿に、どこか夢を託していた成都の民は、裏切られてしまったのだ。
前の殿様は、たしかにろくでもなかった。そこで、今の殿様になったので、すこしはよくなるかと思っていたら、今度は法正が、昔お世話に「ならなかった」人間を狩り出して、夜な夜な盗賊まがいに屋敷を襲撃し、ちいさな罪で陥れては処刑をし、朝になるとその遺体を無残に晒して得意になっている。荊州からやってきたあたらしいお殿様の部下たちというのは、遠慮しているのだかおとなしいのだかお上品なのだか、法正を止める気配がない。
前の殿様と、その取り巻きや豪族たちに好き勝手されていて、腹を据えかねていた成都の民は、最初は、法正の粛清に、拍手喝さいであった。これはなにも成都の人間が酷薄なのだというわけではなく、それほどに劉璋という男に人望がなかったのである。
ところが、日を重ねるにつれ、人々はしらけてきた。結局、かれらが殺されていなくなったところで、事態はなにも変わらなかったからである。得をしているのは法正だけで、遺体の始末は民がする。殺された者の中に、知った顔があれば同情の涙もこぼす。知らない顔でも、そのなかに、いとけない子供の姿があれば、憤りもする。
法正という人は、血も涙もない、ひどいやつだ、という認識が、民の中に確立される。とはいえ、それを大声で訴えることができる人間はいない。
だから民は、偶像を求める。巨大な力に、一人でも抗える英雄を。
そこにぴったりはまっていたのが、馬超であった。
羌族の血を引いている、という事実が、さらにその神秘性を高めていた。容姿もきらびやかで、本人も派手好み。偶像を託すにはぴったりの人間であった。この重苦しい空気を、馬超ならばなぎ払ってくれるのではないか…かつてはその位置を劉備が占めていたこともあったのだが、劉備は偉くなりすぎた。ほかの、名前だけは知っている荊州の人間に対しては、成都の民は、いまひとつ警戒心を解け切れていない。だから、馬超なのである。
ところが、この馬超が、よりにもよって、法正なんかとつるんだ。
さらに加えて、「おれっちの味方」であった董幼宰を捕縛した。
しかも、見ていれば、馬超の屋敷に、法正たちからの貢物が運び込まれている。
なんだ、あの蛮族の英雄さまは、結局、金がほしいのか。地位が、名誉がほしいのか。おれたちの味方じゃなかったのか。
そういうわけで、民は、偶像という光輝に満ちた位置から、馬超を憎しみの対象に転換させた。

馬超は、いつもそうであった。
なにもこれは、本人が悪いというのではない。馬超は、その風韻と名望の高さ、人物の大きさからすれば、劉備の配下に収まって足りる男ではない。
しかし、世に対する訴えの言葉がすくなかった。諸葛孔明のような、弁舌の冴えた人間が側近にいれば、あるいはその運命はちがっていたかもしれない。
本人は、多くを語ることをよしとしない性格のくせに、なぜだか周囲をあおるような言動を得意とする矛盾を抱えていたし、基本的にお人よしなため、過去をあっさり忘れて、目の前の困窮する者に手を貸してしまう。よくいえば、男気があるための行動なのであるが、その純粋さが誤解をされ、いつのまにか祀り上げられていたと思えば、あっさりと引きずりおろされ、追われる立場になっている。
 馬超がふたたび天下を狙うためには、必要なのは、九門古城に眠るという『得れば必ず天下を取れる宝』ではなく、馬超を補佐する有能な軍師である。
そのことに気付き、かつて劉備がそうであったように、馬超も賢人を招き入れることができたなら、運命は大きく変わるはずである。
 
 長星橋の歓楽街というのは、ほかの街とちがって、さまざまな蛮族たちが往来していて、馬超にはなつかしいとさえ思える気風があった。
ここにくると、不思議と落ち着く。なので、馬超は成都にやってきてから、ちょくちょく長星橋に顔を出していた。
 いつもの馴染みの店に入ったが、店主の明るい声はなかった。
 それまで、にぎやかにざわめいていた店内が、ぴたりと静まる。そうして、一気に店の中が凍りついたようになる。客という客の目線が、いっせいに馬超に向けられる。視線がもし形を取れるものならば、それは鋭い刃のようであっただろう。
 普段の馬超ならば、ここで雰囲気をいくらか和らげることのできる軽口を叩くところであるが、それすらできない。
向けられた憎悪の質はあまりに重いものであった。ねっとりと、そしてじわじわと心を蝕んでいく類いの、一種の呪いであった。
 ふと、見ると、彭恙が、酒家の片隅で呑んでいる。
九門古城で火傷を負ったのが昨晩のことだ。人づてに聞いたのだが、それでもほとんど眠らずに、一日中、逃がした連中が地上に戻っていないかと探し回っていたという。執念深いのもそうであるが、なにより、すさまじい体力に馬超は感嘆する。
 彭恙は、短髪を頭巾で隠し、地味にちびちびやっていた。
この男の酒はいつも、暗い。酒場女が酌をしようとするが、無言で、うるさそうに追い払う。暗く淀んだ目を宙に据えて、ちびちびと杯を口にはこぶ。無精ひげを伸ばしっぱなしにしたような口ひげを、もぐもぐと動かしているが、つまみを食べているのではなく、しきりになにかぶつぶつ言っているのであった。その風体は派手であるが、ところどころ汚れており、血がついているものすらある。巨体なうえに、手足が蜘蛛のように長く、くわえて、風貌がそんなふうであるから、その醸し出す雰囲気は異常という以外に表現の仕様がないものであった。
 「しけた顔だな。探していた連中は見つかったのか」
確実に所在のわかっている董和以外は、おそらくムリだろう、と馬超は踏んでいたのだが、彭恙は意外にもこう答えた。
 「ああ」
 「なんと、よく見つけたな」
馬超は、彭恙と差し向かいになる席についたのだが、彭恙は、目線を宙にすえたままである。
 「で、どうした」
 「逃げられた」
いまいましそうに彭恙はつぶやいた。
 そうして、自分で酌をするのであるが、すでに空になっていた。酒瓶を持つ手首にくっきりとある黒い痣がいたいたしい。この手首の痣は、彭恙が、いわれのない罪で陥れられ、劉璋によって労役囚におとされていたことをしめす、手枷の痕であった。これとおなじものが、首にも残っている。だから、彭恙は、痣を隠すための宝飾品を身につけているのだが、その手入れもぞんざいで、しかも身につけているものに統一性がないために、よけいに異常に見えるのに一役買っていた。
 「軍師将軍の犬に邪魔をされたのだ」
軍師将軍、というのは諸葛孔明だ。派手で華やかな男であったから、馬超はすぐにその顔を思い出せる。
しかし、犬、というのは誰のことのなのか?
 彭恙は、ぶちぶちと、ここにはいないその『犬』に、罵りの言葉を浴びせている。
馬超は、この友にとても同情していた。
諸葛孔明を筆頭とする荊州人士にはことごとく嫌われている男であるが、ちゃんとよいところもある。
彭恙は、もともと、こんな暗い男ではなかった。法正曰く、本来は、いまどき珍しいほど純粋な男なのである。が、粗暴なのと、特異な容貌がきらわれて、理不尽な仕打ちをうけつづけてきた。純粋であるがゆえに、人を疑うことを知らず、つい酒の席で劉璋の悪口を言ったのを、密告されてしまい、労役囚となったのだ。裏切られた彭恙の心の傷は深く、牢内でなにがあったのか、脱走してきたときには、すっかり人が変わってしまっていた。
 馬超は、この男に共感をおぼえた。
どことなく、自分に似たものを、彭恙に感じ取っていたのである。従弟の馬岱は別格として、馬超にとって、この山深い異邦の地において、心を許せるのは、彭恙だけであった。
 「しかし永年、水を差すようで悪いのだがな、ほんとうに、九門古城に『得れば天下を取れる宝』はあるのか?」
うん? と彭恙が、はじめて淀んだ目を馬超に向ける。
 「老師の言葉を疑うつもりか?」
 「尚書令どのは、そんなものは聞いたこともないし、もし成都の地下に巨大な地下古城があったとしても、その中に宝があれば、だれかが既に掘り出しているだろうとおっしゃるのだ。たしかに、『得れば必ず天下を取れる宝』なのだ。われらでなくても欲しくなる。そう思わぬか」
 「ふん…では、みな空っぽの洞窟で右往左往しているとでも言うのか。宝はあるのだ。おまえも、昨日のあの仕掛けを見たであろうが。いまさら怖気づいたというのであれば、降りてもかまわぬぞ、孟起。おれ一人で潜るだけのことだ」
 馬超はむっとして言った。
 「怖気づいてなどおらぬわ。不安になっただけだ。そもそも、その宝からして、現実離れしているではないか。『得れば必ず天下を取れる宝』というのが、『いかなる敵も倒す剣』と、『いかなる攻撃も防ぐ鎧』、など…」 
 「この世は武によってこそ動く。最強の力を手にしたものが、天下を手にするのだ。それはおまえも判っているはず。どんな敵も倒すことができたなら、どんな攻撃もものともとしない鎧があれば、それは無敵ということだ。たとえ天下万民を敵に回そうと、怖いものなどなくなるぞ」
 「たしかにそうかもしれぬがな…」
いまひとつ釈然としないまま、馬超は、答えた。
怖じているのではない。成都の民を敵に回して、はじめて馬超は冷静になったのであった。それまで、彭恙から持ちかけられた、『得れば必ず天下を取れる宝』への夢で、有頂天になっていた。宝は必ずおのれの手につかめる、ということを前提に、下克上で劉備を配下に置き、ふたたび中原へ打って出ることばかりを考えていた。しかし、成都の民から向けられたて敵意が、冷水の代わりを果たしてくれた。そもそも、宝のありかからして、不明なのだ。本当に、宝は九門古城にあるものなのか?
彭恙とのあいだに流れた気まずい空気を払うべく、馬超は、店の親父を呼んで、晩酌をともにしようとしたのであるが、親父は、剣呑な目を向けて、
 「一献につき…」
と、かつての十倍はする値段をふっかけてきた。酒家の安酒の値段ではない。
 とはいえ、ここで怒鳴りださないところが馬超である。悠然と笑みを浮かべて、親父に尋ねる。
 「おいおい、許都の酒家とてそこまで吹っかけまい」
親父は暗い声で、馬超と彭恙を睨みつけながら、うなるように言った。
 「そうさ、ここは許都なんかじゃねぇ。政情不安定な成都の場末よ。物の値段はコロコロ変わりやがるのさ。払えないっていうんなら、さっさと帰ってくんな」
馬超は、高い鼻梁が特徴の、彫りの深い顔を皮肉げにゆがめ、答えた。
 「それは申し訳なかったな。あいにく、金には困っておらぬ身分ゆえ、民草の物価がわからなくなっておったわ。親父、ふたり分の酒と、つまみだ。おまえさんの頭で想像できるだけの高値を思い切りふっかけてくれてよいぞ」
 馬超が呵呵大笑すると、周囲にいた人間は、なんとも食えぬ奴よといった顔をしたが、それでも馬超を睨みつけるのはやめた。
 「孟起、持ち合わせがそんなにあるとは、たいしたものだな。法尚書令の金か」
彭恙の声に、小声で馬超はこたえる。
 「莫迦な。持ち合わせなど、とんとない。ケチの尚書令め、貢物といってもほとんど絹ばかりで、掠奪品の横流しばかり贈ってよこしたのだ。永年、おまえのほうはどうだ?」
 「あるわけなかろう」
 馬超は、ちらりと彭恙の身に着けている宝飾品に目を向けたが、みなまで言うのはやめておいた。
ちょうど、長星橋の往来を、見知った顔が通っていくのが見えたからである。
 趙子龍であった。



趙雲は、暗澹たる思いで往来を歩いていた。
近年、これほどまでに気持ちが落ち込んだことがない。
すこしでも気持ちを押し上げるために、酒を呑もうと考えて、長星橋へやってきたのであるが、そのあまりに平凡な賑わいをみせる往来を目の当たりにしたとたん、かえって虚しくなってしまった。いまは家路を、てくてくと急いでいる途中である。
 夜が更けてもなお、長星橋の明かりは落ちることがない。
東西の行商人も豪族も奴婢も、ここでは関係なく、酒と女と賭博におぼれにやってくる。
いままで過ごしていた荊州のどの町にも、歓楽街はつきものであったが、長星橋の色彩の豊かさというのは、ほかに類を見ない。
 洗練されてはいない。しかし、見るものすべてが珍しい。往来の人々の顔ぶれもそうであるし、行商人たちの売っている品物もそうであるし、店の構えも異国を意識したものが多々あり、やはり目新しい。
 とはいえ、そんな珍しい光景も、趙雲を慰めはしなかった。客引きを無愛想にかわしつつ、趙雲は、おのれの身体を包み込むような格好で腕を組み、歩いていた。
 そうして、ときおり、空をつかむ自身の手のひらを、ぎゅっと握ってみる。 
手の冷たさの感触が、いまだ掌に残っている。
 ありえない冷たさであった。血が通っていない人間の皮膚と、おなじ感触がした。
戦場で、倒れた部下の生死を確かめるために、肌に触れることがある。すでに命の灯火を消した者と、おなじ肌の感触を、あの子供は持っていた。
強烈な違和感と、趙雲は戦っていた。
最初に、孔明より、喬についての話を打ち明けられたとき、この軍師、とうとう激務に耐えかねて、夢幻の世界ににげてしまったか、と愕然としたものである。
趙雲は、はじめは笑い飛ばし、つぎに、戯言はよせ、と怒り、しまいには黙った。納得したのではない。どう見ても孔明は正気であったからだ。真顔できつい冗談を言えることのできる男だが、冗談にしては性質が悪すぎる。
まさか、といぶかしみつつ、件の孔明の養子と引き合わされて、趙雲は理屈ではなく、感覚的に理解した。
孔明の言葉による付け足しは不要であった。ありとあらゆる感覚が、目の前にいる子供に対し、違和感を訴えてきたのだ。
喬は、どこかがほかの子供たちとちがっていた。
見た目はふつうの子供と変わらない。ふつうに歩き、休み、食べ、眠る。
だが、ふとした瞬間に、完全に表情が、潮が引いたように身体の中から消える。そうなったときの喬は、まるで人間の形をした抜け殻のように見えた。
それでもまだ、どこかで否定をしていたのだろう。そんなことがあるはずがない、そんな酷い運命に巻き込まれた子供が存在するはずがない、と。
だが、喬の肌に触れたことにより、趙雲の「まさか」はすべて否定された。
理不尽な話である。
世間では、諸葛一族ほど、東呉と蜀とでそれぞれに栄えている一族はないと思っているだろう。
若くして地位と名声の両方をほしいままにし、生来の美貌と人望の高さによって、いまや天下一の注目をあつめている男が、ただひとつ、家族にだけは恵まれない。父母を早くに亡くし、実の兄とは、家督をめぐる争いで反目しつづけ、頼みにしていた叔父も殺害されてしまい…
そこまで考えて、趙雲はようやく合点がいった。
孔明は、かつて叔父が自分を守ってくれたように、自分も甥を守ろうとしているのだ。
孔明は、喬のために、不老不死を可能にした薬を探すため、『九門古城』へ潜ろうとしている。
だが、それを許すわけには行かない。
九門古城とかいう、成都の地下にある巨大古城。
もし、孔明が一介の書生であったなら、趙雲は古城に潜ることを止めなかった。むしろ推奨しただろう。
だが、孔明は劉備の軍師であり、龐統亡きいま、荊州人士を代表しており、反目しあう益州人士との調整に、欠かすことのできない人間なのだ。孔明が、正体のわからぬ古城などで遭難したら、いまの荊州人士のなかで、孔明ほどの求心力を持つ人間はいない。たちまち力の均整がくずれ、益州は混乱する。孔明がいてこその三国鼎立の構想なのだ。孔明が倒れれば、それは劉備が倒れることも意味する。
趙雲は、孔明という人物の性格を、おそらく誰よりよく知っている。
あの男の優しさというのは、ときにひどく厳しい顔を見せる。
仙人崩れだかが、喬にかけた術を解くために、薬が必要なのだと言っていた。
術を解いたら、喬はどうなる。一度死んだものが、不自然にこの世に留まっている状態が、現在なのであれば、そこからの解放は、完全な死を意味するのではないか。
孔明が古城に潜らず、薬を得る、よい方法はないものか…

「おおい、趙将軍!」
と、あまり耳慣れぬ声がして、見ると、酒家から、濃ゆい顔の男が身を乗り出すようにして、手を振っていた。
あれはたしか、平西将軍の、馬起、字を孟超…であったか? 西涼の雄として名を馳せた男である。名を馳せていた…はずであるが、趙雲の関心は低かった。仕事で顔を合わすことがなかったのに加えて、劉備が宴席を設けて馬超を招いても、馬超が顔を出すことはめったになかった。馬超は孔明とも親交を持っていなかったので(主騎という立場上、趙雲にとって、孔明の知り合いは、自分の知り合いである)、自然と、趙雲の頭の中では、存在は記憶にあるが、名前がよく思い出せない人間に区分けされていたのである。
しかし向こうはこちらを知っているらしい。
孔明と行動を共にすることが多いため、趙雲は人の記憶に残りやすい男であった。とくに入蜀してからは、自分が相手をわからないのに、相手には旧知のように振舞われることが増えた。
「奇遇だな、貴殿とこのような場で会うとは!」
と、人懐っこく馬起(だったと思う…馬越か?)は趙雲に声をかける。趙雲は、孔明のこともあったので、早く家に帰りたいと思っていたが、捨て置くことも無礼であろうと思い直し、酒家の馬起(仮)のほうへと向かった。
彫りの深い顔立ちの真ん中にある、高い鼻梁が特徴的な、気品のある顔立ちをした男である。無駄な肉はついておらず、均整のとれたうつくしい身体をしており、肩幅ががっしりしているのに、腰は細い。服装も派手で、テンの毛皮の豪奢な襟飾りのついた服を纏っている。万里の彼方にいても見分けが付きそうな男だな、と趙雲は思ったが、それでも名前がよく思い出せない。姓は合っているはずなのだが…。
「こうして公務以外で顔をあわせるのは初めてではないか? 貴殿とは、一度、じっくり話をしてみたいと思っていたのだ」
と、馬起(仮)は、趙雲の肩に腕を回し、酒家に引き込みつつ言う。なれなれしくそらぞらしいのであるが、そのにぎやかな雰囲気に引き込まれ、ついつい言いなりになってしまう。
が、それも酒家に足を踏み入れる前の話。
趙雲は、酒家の中にいるもうひとりを見て、ぴたりと足を止めた。
彭恙が、いまにも掴みかかってきそうな、暗く陰のこもった目つきで趙雲を睨みつけていた。
彭恙と斬り合ってから、まだ半日も経っていない。
神政門のあたりに逃げた殺人犯を追って、あたりを警備していた趙雲であるが、不意に響いた呼子の声に、駆けつけてみると、彭恙とその部下たちが、民を掠奪していた(というふうに趙雲には見えた)。問答無用で戦いになったのであるが、部下に、入蜀に功績のある彭恙を斬ってしまえば、法正らが黙っておらず、あとあと面倒なことになる、と趙雲を説得されたのと、相手が火傷を追っていることに趙雲が気付いたのとで、結局、決着のつかぬまま、お互い引いたのであった。
「平西将軍、貴殿はこのような男とつるんでおるのか」
趙雲は、きつく馬起(仮)をにらみつけた。入蜀に功績があったことを嵩に、劉備すら見下して、放言をしてはばからぬばかりか、無辜の民から掠奪をし、孔明すら青書生呼ばわりをした男である。しかも自分を「犬」と言った。
「平西将軍はやめてくれ、孟起でよい。貴殿は永年と機知であったか」
呑気に言う「馬起」あらため「馬超」の腕を振りほどき、趙雲は無言のまま酒家をあとにしようとする。馬超は、ふしぎそうに、言う。
「どうした、どうした、お互いにしけた顔をして。酒を呑めばすこしは気が紛れるぞ」
すると彭恙がぼそりとつぶやいた。
「犬なぞ、おのれの主人の残飯をあさっておればよいのだ」
酒家を出かけていた趙雲の足が、ぴたりと止まった。
「なんだと?」
「すこしばかり斬り合っただけで、尾っぽを巻いて逃げ出した負け犬が」
趙雲は彭恙のほうに向き直った。そうして、無言のまま、卓についている彭恙の襟元を鷲摑みにし、ぐいっと引っ張りあげる。
「その犬に、慈悲をかけられて生きながらえた脱走囚が、ほざくな」
「その脱走囚の力がなければ、巴蜀の一寸の土すら取れなかった男の犬が、ほざくな」
趙雲は、それを聞くや、掴み挙げた彭恙の身体を、思い切り卓にたたきつけた。酒家に親父と客の悲鳴がとどろく。木の卓は真っ二つに割れ、彭恙の身体は、卓にあった酒とつまみの残滓にまみれて、床に倒れた。
「きさまが残飯をあさるがよかろう」
そういい捨てると、趙雲は酒家をあとにしようとする。しかし、その肩を、今度は馬超が止めた。
「はなせ」
趙雲が言うと、馬超は、さきほどまで満面の笑みを浮かべていた顔を引き締め、言う。
「そうはいかぬ。友をこのように侮辱され、黙っていては男ではない」
「…友は選ばれよ、平西将軍。この男はいま、主公を侮辱した。酒の席のことゆえ、他言はせぬ。しかし次はないと伝えてくれ」
「次がないのは当然だ。おれが貴殿を倒すのだから」
「なんだと?」
「表に出ろ、彭恙の仇を討つ」
趙雲は、きつく眉をしかめた。莫迦な男だと思った。彭恙が趙雲にかこつけて、劉備のことまでも侮辱したのは事実なのだ。これで目端の利く人間が同席していたら、これをネタに密告されて、ふたたび追われる立場になることもある。密告などというのは趙雲の好むところではなかったので、せっかく沈黙を約束していやったのに、馬超は先のことをまるで考えていない。友のためなら、社会的な立場が危うくなってもいい、というのか…
こういう莫迦は嫌いではないが、庇う相手がよくない。
張飛は、馬超は呂布のようにつよい、と評していたが、ほんとうにそうなのか、試してやるか、と趙雲は馬超の挑発のまま、表に出た。すでに往来には、喧嘩と聞いて、酔客やら野次馬やらがあつまって人だかりができている。どいつもこいつも、と思いながら周囲を見回し、趙雲は、往来の一角に、信じられないものを見た。
禁じられた私闘に応じるおのれを戒める幻か、と思ったが、そうではない。
「おい、どこを見ているのだ」
と、馬超が声をかけてきたが、もはやそれは二の次であった。
趙雲は、闘志まんまんの馬超を無視して、くるりと背を向けると、往来をかきわけ、走り出した。背後で馬超が、
「臆病者め、逃げる気か!」
と怒鳴っているのが聞こえたが、かまっている暇はなかった。


 晴嬰は、意気地なくしゅん、としている男たちを睨めまわし、煮えたぎる腹のうちをなんとか収めるのに苦労していた。
どいつもこいつも、意気地なし!
そう啖呵をきってやりたかったが、それは情け知らずというものだろう。
 かれらとて、好きで意気地なしをしているわけではない。独り身で、守るべきものはおのれの身ひとつの晴嬰と、家族もあり、財産もそこそこにある長星橋商店街の男たちとは立場がちがう。さらに、晴嬰がこれほどまでに腹を立てているのは、過去に、獄吏によって、実の兄を私刑によって惨殺された過去を持っているからであり、董和を慕っているからでもあった。
 長星橋商店街の面々は、例の空き家にこっそりあつまって、これからのことを話し合っていた。雰囲気は重く、お互いに目をほとんど合わせないまま、ぼそりぼそり、と口をひらく。自分たちの身も危ないのではないか、というおそろしさもあるし、大恩のあるうわをとんでもない話に引き込んでしまった、という忸怩たる思いもあった。晴嬰にかぎらず、長星橋の人間は、董和によっていろいろ世話になっていた。小役人に賄賂を渡さなかったので、商売の取り止めを言い渡されたのだが、董和によって救われたとか、好色な豪族の子弟に、娘や嫁を目につけられてしまい、泣く泣く差し出すところであったのを、董和によって阻止してもらえたとか…
「いまになって、法正のキツネ男、いったいなにが目的なのだろう」
気を精一杯しずめ、晴嬰はつぶやく。すると、申し訳なさそうに竹細工屋の親父さんが口をひらいた。
 「九門古城の宝のことが、いよいよお上に知れたということではないかい?」
 「だったら、ちゃんと公の場で、こういう遺跡があります、宝があるようです、これを掘り出す予定ですので、兵士以外は潜らないように、ってお達しをすればいいだけの話じゃないか。なんだって、蝋燭の値段が云々と、くだらぬ言いがかりをつけて幼宰さまを捕らえる必要があるっていうのだろう?」
 「おれたちにゃわからん裏事情があるのじゃないかね。法尚書令というのは、気に入らない奴を似たような手で捕らえて殺している様子だし」
 「若様は無事なのでしょうね?」
 「さっき様子を見て来たが、どうやら蟄居を命じられているらしい。門やお屋敷のまわりに、ずらりと兵士がいたよ」
 「まったく忌々しいこと…伯岐さんはどうしただろう?」
 すると、董家に出入りしている八百屋の親父が口を挟んだ。
 「じいやさんに聞いたのだが、伯岐さんは、幼宰さまより早くに出かけて、それきり帰ってこないということだよ」
 「おれは栄耀飯店のほうへ行ってきたのだが」
と、玉子売りの親父が口を挟んだ。
 「栄耀飯店のほうにも、監察と銘を打って、役人が入り込んだらしい。それで、胡偉度さんだけが捕まって、連れて行かれたそうだ」
 「なんてことだろう…でも、どうしていまになって、幼宰さまが?」
 「さっきも話していたのだがね、実は幼宰さまたちは、もうお宝を見つけたのじゃないかね?」
 「まさか! だったら、まっ先にあたしたちに教えてくれるさ。幼宰さまはそういう隠し事のできるお方じゃない。それは、あなたたちもよく知っているじゃないの」
 親父さんたちは、晴嬰に厳しく決め付けられて、そうだよなぁ、といいながらも沈黙する。
晴嬰は、親父さんたちの気持ちがよくわかる。親父さんたちは、ここでこうして話し合いをしている気分ではないのだ。董和が捕らえられたことで、自分たちにも累が及ぶのではないかと、そのことを気にしている。それぞれ家に帰って、法正の私兵に備えたい。そして晴嬰は、そのことを責める気にはなれない。
 「逆に晴嬰さん、あんたのほうに、あれから張大人から話はないのかい?」
 「あるわけないよ。あったとしたら、あいつ、ただではおかないのだから!」
と、晴嬰は牙をむいた狼のような剣幕で言い捨てた。その様子に、親父さんたちはたじろぐ。
 「ほら、あんたがそんなふうに危なっかしいから、おれたちも家に帰れないのだ。いまあんたまでお上に捕まったら、だれが幼宰さまをお助けするのだね」
 「お助けするにしても、手立てがない。いっそ九門古城へ行って、『得れば必ず天下を取れる宝』とやらを見つけてきて、それと幼宰さまを交換してもらおうか」
 「それこそ、雲を掴むような話だ。なにかほかに手立てがあるかもしれない」
 「そうかもしれないけれど…」
 親父さんの言った言葉は、それこそ気休めにすぎなかった。なにかほかに手立てが、そういい続けて、かれらは似たような話をぐるぐると続けていたのである。
 そこへ、仲間の一人が駆け込んできた。兵士たちを相手に、酒を売り歩いている男である。
 「たいへんだ! えらいことになったぜ!」
 「どうしたの?」
晴嬰がたずねると、男は、ぜいぜいと息を切らせつつ、よろよろと空き家に入ってきた。よほどあわてて駆けてきたのだろう。晴嬰がその汗のにじんだ男の背中をさすってやると、男は、自分の背中をなぜる晴嬰の手首を掴んだ。
 「気を鎮めて聞いてくれ、晴嬰さん。幼宰さまが、明朝に処刑されることが決まった」
 「なんだと!」
と、叫んだのは親父さんたちである。晴嬰は、男の言葉が理解できず、ぼう然とした。
 「尚書令のとこの兵隊にこっそり探りを入れてみたのさ。まだ公にしてないが、朝が明けるのを待って、幼宰さまを処刑するらしい」
 「若様は? 若様も捕まっちまったのか?」
 「それが奇妙なもんだ。若様のほうは手を出してねぇんだ。その兵隊が言うには、尚書令としちゃあ、幼宰さまを逮捕したというのも公にしていないが、これで公にしたら、成都中の人間が大騒ぎをはじめる。奪還しようと暴徒化する連中も出てくるかもしれない。だからさっさと先に殺してしまおうという腹積もりらしいぜ」
 「暴徒! 結構じゃないか!」
 晴嬰の決然とした声に、周囲の男たちはぎょっとする。
 「幼宰さまにお世話になったのは、あたしたちだけじゃない。それに、尚書令のやり口に耐えかねている人間だってたくさんいるはずなんだ。あたしたちが立ち上がれば、そういう仲間たちも…いいえ、荊州の人たちだって味方にできるかもしれない!」
 「でもよぉ…」
親父さんたちは、晴嬰をむしろ怯えた目で見る。しかし晴嬰の心は決まっていた。まだ長星橋には人の往来がある。彼らに訴えるのだ。みんな、なかなか落ち着かない近頃の成都に不満を抱いている。法正が、見せしめのためにと、馬超に董和を引き回させたことも裏目に出ている。そうしてみなで法正のところへ押しかけて、朝方までに董和を救うのだ。
 「そいつはうまくねぇ話だなぁ」
と、どこかノンビリした、北の訛りのある中年男の声がする。聞いたことのない声だ。
 「だれだい!」
晴嬰が鋭く誰何すると、戸口のところから、ひょっこりと背の高い男があらわれた。その姿に、一同は唖然とする。
 男は、じつに派手な赤い頭巾をかぶっていたからだ。長星橋は、成都でもいちばんの歓楽街なので、目立つために奇抜な格好をしている人間も多い。しかし、これほどまでに目立つ頭巾をすっぽりと被っている男も珍しい。顔を隠しているのだから、正体を知れたくないのであろうが、頭巾が赤いために、夜目にさえ、いやでもその格好は目につく。
 「何者だい! 張大人のところのごろつきかい! それとも、法正の犬かい!」
 「どっちでもないよ。おれのことは、赤頭巾とでも呼んでくれ」
見たままじゃねぇか、と親父のひとりがぼそりとつぶやいた。
 「この空き家にいると、外から色んな人間が入ってくるなぁ」
とは、昨日も空き家にいて、祝融の侵入の経緯をしっている竹細工屋の親父のつぶやきである。
 赤頭巾、と聞いて、晴嬰は、董和の話を思い出した。第三の門からあやまって九門古城に落ちてしまい、迷っているところを董和たちに救われた男である。しかし、忘恩はなはだしく、地上に出たとたん、白馬にまたがり逃げてしまったらしいが…
 「姐さん、あんたがここにいる旦那衆の頭目ってわけだね? 董幼宰さんから聞いているかも知れねぇが、おれは昨夜、幼宰さんたちに助けてもらった男だ」
 「聞いているよ。どうしてここに?」
剣呑な視線をすこしでもやわらげるためか、赤頭巾は長い手をひらひらと、魚のひれのように動かしつつ、言った。
 「恩返しをしに来たのさ。ひでぇことになったじゃねぇか。蝋燭の値段を吊り上げたのが幼宰さんだっていう、証拠もなんにもありゃしねぇのに、明日の朝には死刑だと。しかも一緒に捕まえた胡偉度さんだって、拷問にかけられても、一言も幼宰さんのことを口にしなかったっていうのによ」
 胡偉度の遭難について、一同は顔を見合わせ、悲痛な面持ちになった。気の弱い男だとばかり思っていた胡偉度が、拷問にかけられても屈せず、董和の名を口にしなかったことに、感動すらしていた。が、同時に不信感を赤頭巾に抱いた。詳しすぎる。
 「赤頭巾さんよ、あんたは、なんだってそんなに詳しいんだい?」
と、面々のなかではいちばん若く、腕に覚えもある酒売りが身構えつつ、赤頭巾にたずねた。すると、赤頭巾は肩をすくめる。
 「おれの耳は地獄耳でね。商売柄、宮城に知り合いが何人もいて、いろいろと情報が入ってくるのさ。それにしたって、姐さん、勇敢なのは見上げたものだが、有象無象の衆を煽動して、幼宰さんを救おうなんて考えには賛成できねぇな。荊州の人間も、これに呼応してくれるんじゃないかって言っていたが、そりゃあないぜ。
荊州人士の頭になっている諸葛亮ってのは怖いヤツだからな、あんたらが暴動を起こしたら、まずはなんにもしないで見ているだけだろうよ。で、あんたらがうまく行ったら、今度は成都を煽動した罪であんたらを弾圧する。法正は暴徒に退治されていなくなっているし、暴徒を鎮圧して自分たちの名声も高まり、一石二鳥。
逆に、あんたらがうまくいかなくても、民に暴動を起こさせた、という件で法正を追い詰める。法正は追放され、民の求心力も自分にあつまり、これまた一石二鳥。自分がなにをするでもなく、自然の流れに任せておいて、あとでちょいと手を加えるっ、ってやり方がヤツのやり方なのだ。ああ、こえぇ。どちらにしろ、あんたらは死に損ってことだよ」
 「それじゃあ、あんたにはいい考えがあるっていうのかい?」
 「ないこともないぜ。だから、あんたたちに相談に来たのだ。どうだい、あんたら、勇気をふるって、幼宰さんを奪還するってのは」
 「それについて、話をしていたんじゃないか」
 「だから、気心の知れない人間が数百人あつまったところで、てんで駄目ってことさ。下手すりゃ、幼宰さまを救うために集めた連中が、図に乗って掠奪をはじめる可能性だってあるじゃねぇか。ちゃんとしたお題目を唱えていた連中が、次第に興奮して本物の暴徒となるってさまを、おれは北でいやというほど見てきたぜ。おなじ失敗をあんたらにさせたくねぇんだ。だから、幼宰さんの奪還は、ここにいる面子だけでやる。人数が少ないほうが、かえってまとめやすいし、命令も行き届くってもんだ」
 「どうやって?」
 「馬商人に知り合いがいてね、馬は用意してある。さあて、この中で馬を乗りこなせる奴はいるかい?」
赤頭巾の問いに、一同は顔を見合わせる。乗馬というのは、それなりの技術が必要だ。一同は、驢馬や水牛なら扱ったことがあるが、馬となると別であった。肉屋の親父にいたっては、触ったことはあるが、一部だけ…つまり肉の塊としてだけ、という有り様であった。
 「ああ、やっぱりあんたら商人だからなぁ。困ったな、おれの知り合いをいまから集めるにしても…」
と、赤頭巾は、ぼやきながら頭をかく。
 すると、ドンドンと、だれかが扉を叩く。
 「またか」
竹細工屋の親父さんはそういって、応対しようとするが、それを赤頭巾が止めた。
 「待ちな。もしかしたら法正の草かもしれねぇだろ? おれが応対して、やばそうだったら、逃げろという。この家に、裏口はあるかい? そうかい、そうしたら、おれが叫んだら、すぐに逃げるのだ」
 そうして応対に出ようとする赤頭巾を、玉子売りが呼び止めた。
 「赤頭巾さん、あんた、その頭巾のまんまで出て行ったら、かえってあやしまれるよ。それを取って行ったらどうだい?」
 赤頭巾は、ああそうか、と頭巾に手をかけたが、途中でハッとなって、あわてて、言った。
 「ダメダメ。これを外したら本当に大変なことになるんだからよ。あぶねぇ、あんた、策士だな」
 「そういう腹積もりで言ったんじゃなかったんだが…まあいいや、よろしくたのむぜ」
ほいきた、と赤頭巾は軽快に応じると、そおっと扉を開いた。一同は息をつめて、その様子を見守る。
 「あっ!」
と、赤頭巾は一声叫んだ。一同は、てっきりそのあとに「逃げろ!」のひと言が来ると思い込み、身構えて待ち受けていたのだが、そうではなく、赤頭巾は、わずかに開いた扉の隙間から、身を滑り込ませるようにして、表へと出て行ってしまった。
 晴嬰をはじめとする一同は、ぼう然と、扉を見守った。
扉の向こうでは、なにやら押し問答をしている。その調子は、店にやってきた借金取りを、懸命になだめすかして追い返そうとしている店主のさまに似ていた。
 「あいつ、じつは夜逃げしたっていう、この空き家の前の持ち主ってことないよな?」
と、酒売りがぽつりと言った。逃げろといわれなかったので、法正が市井にもぐりこませている密偵と、やりとりをしているふうではないが…
 そうしてしばらくして、赤頭巾がふたたび、戻ってきた。ふうっ、と疲れたようにため息をつくと、緊張した面持ちの一同に、頭巾の中から満面の笑みを向けた…ようである。覗き窓から見える人懐っこい双眸は、たしかにいたずら小僧のように笑っていた。
 「いやあ、人間万事塞翁が馬ってな、このことだぜ。喜んでおくれ、仲間が増えたぜ。これで百人力だ!」
赤頭巾は、扉の向こうで、なんだかぐずぐずしている男の袖をぐいっとひっぱり、空き家の中に引き入れた。
 無理やり室内に入れられた男は白い頭巾をかぶっていた。照れているのか、心底気まずいのか、一同にちらちらと目線を送るが、どちらかといえばうつむき加減である。赤頭巾は、一同に言った。
 「こいつのことは、白頭巾と呼んでやってくれ!」
「また頭巾かよ!」
と、一人が叫び、残りの人々もそのことばに大いに肯いた。

                       ※ ※

 ゾトアオは非常に不愉快な状況に置かれていた。
ざぶざぶと水をかきわけつつ、暗闇のなかを進んでいく。
 馬超と彭恙に襲われて、その弾みで九門古城の仕掛けにはまり、闇の中に放り出されたのであるが、そうして落ちた先は、水の中であった。
 かなり落ちたはずである。落ちた先が水溜りであったのは、ゾトアオにとっては幸運であった。
ゾトアオの落ちた先は深い井戸のようになっていたが、もがきつつ浮き上がると、第一階層と同様に、そこも丁寧に積まれた石づくりの建造物のなかで、どうやら自分はそのなかでも水道のひとつに落ちたのだとわかった。水は地下水を集めたものらしく、これまた幸いなことに清かったので、臭いの点でも、ゾトアオは嫌な思いをしなくてすんだ。
 「祝融!」
と、ゾトアオは黒イの姫の名前を呼んだが、深い闇に閉ざされた天井からは、なんの返答も聞こえてこない。とりあえず、なんとかして第一階層に戻らねばならない。ゾトアオは巨体に似合わず、優雅に水をかきわけ、石畳沿いにつづく通路にまで泳ぎ着いた。
 石畳の壁には、定間隔に怪物の顔をかたどった排水溝があり、そこから絶え間なく水が水路に流れ込んでいる。
 落ちてからだいぶたつので、ゾトアオの目は闇に慣れていたが、それでも、なんども水に落ちた。
 壁伝いにつづいていると思われた石畳の通路であったが、ところどころ崩落していたのである。それを避けるために目を凝らしたり、あるいは落ちたら落ちたで昇ったり降りたりが面倒くさくなったので、とうとうゾトアオは、水の中を行くことにした。
 栄耀飯店にてあつめた情報によれば、九門古城は何層にも連なっており、深く潜れば潜るほど、その階層自体の広さは狭くなっている、と聞いた。いちばん広く迷いやすいのが第一階層で、次が第二階層…ここは、どのあたりになるのだろうか。
盗賊たちの話によれば、いちばん深く潜った人間は第四階層まで行った、とのことだった。だが、かれらは、水が費えそうになったので戻ってきた、と言っていた。そのことから考えると、水のたっぷりあるこの階層は、第四階層より下、ということか?
ゾトアオは、必死にはやる気持ちを抑えていた。
あのふたりの男に、祝融がひどい目に合わされていないか、そればかりが頭にあった。祝融は、そこいらの男が敵わないほど腕が立つ女だが、それでも女は女である。まして相手は錦馬超、そして彭恙だ。
焦るな。焦って行動して、良い結果を出せたためしがない。
ゾトアオは自分に言い聞かせる。ともかく、いまは上につながる階段を探さねばならないのだ。

しばらく行くと、ゾトアオは、奇妙なものを見つけた。
闇に沈む水路の上に、人が立っているのである。人、といっても子どもほどの背丈しかない。最初、柱かなにかと思ったが、そうではなく、やはり人なのだ。
それは、さわさわと排水溝から流れ落ちる水音の満ちる闇の中に、まんじりともせずに立っていた。
「だれだ?」
ゾトアオは、慎重に声をかけた。彭恙と対峙して闇に吸い込まれたとき、武器を手放していなかった。だから剣を手に、そおっと近づくが、そいつはなにも答えない。
「おい、だれだ、と聞いているのだ」
ゾトアオは、漢語をふたたびゆっくりくりかえした。ゾトアオの漢語はとてもなめらかで流暢である。めったに聞き返されることがない。だが、そいつはやはり答えるどころか、身体を動かしもしないのだ。
 ままよ!
ゾトアオは、そいつめがけて、刃を振り下ろした。
 がつん、とにぶい金属音がした。と、同時に、そいつが、かたり、と奇妙な音をたてて首を向けたのがわかった。
側に寄ってみて、ゾトアオは、はじめてそいつが、青銅の人形だと知った…いや、ほんとうに青銅なのだろうか。水の中にあって、そいつはすこしも錆びていなかった。
 人形の目は大きく、その顔には、やってきた人間を歓迎するような、妙に温かい微笑が刻まれていた。それがゾトアオのほうに向いたのである。よくできたからくり人形であるが、ゾトアオは、いままでこんな仕掛けのある人形を見たことがなかった。不気味な思いで、そいつを覗き込むと、いきなり、人形の口がぱっくり開いた。
 「出発」
 「あん?」
 たしかに人形の口は出発、と告げた。わけがわからず顔をしかめると、とたんに人形の腕がじーじーと音を立てて上がり、手にしていた櫂らしきもので、宙を漕ぎはじめた。
それだけでも充分、ゾトアオにはおどろきであったが、さらに驚いたことに、人形が宙を漕ぐ仕草をはじめた途端、ゾトアオと人形の周囲が振動をはじめたのである。
ぶるんぶるんと水をふるわせる振動音は、ゾトアオが聞いたことのない種類のそれであった。同時に、足元が激しく揺れる。
 そうして、急に水が大きく跳ねた。風が向かってくる。
ゾトアオは、自分がなにか巨大な魚の背中に乗ってしまったのかと勘違いをした。しかしよく見ると、自分が乗っているのは、筏であり、目の前で船頭をしているのは青銅(?)の人形である。この筏の下に、でっかい魚が何匹もいるのか? どちらにしろ、恐ろしいことであった。
 風をすべるようにして、筏は進む。闇を裂くように、水の上をどんどん進む。
あまりのわけのわからなさ、そして恐ろしさに、もう立っていられない、水に飛び込もう、とゾトアオが観念したとき、筏はぴたりと止まった。
 「到着」
と、人形は筏の上にへたりこんだゾトアオに再び告げると、そのまま沈黙した。
 筏の起こした振動の余韻で、水がまだざわざわと騒いでいる。しかし、しばらくすると、あっというまに、水路には、排水溝から落ちる水のさやかな音だけがするだけとなった。
 「なんなのだ、こりゃあ」
ゾトアオは、おのれの正気を確かめる意味もこめて、声に出してつぶやいた。また動き出すのがおそろしかったので、人形に触れる気にはなれなかった。
立ち上がると、石畳の通路のほうに移動する。そうして、周囲を見回し、思わずあっ、と小さく叫んだ。
 火が灯されている。石畳の通路がえんえんと続いているかと思われた空間に、べつの通路へ至る道があり、そこにぽつりと火が灯されていたのだ。
 火がある…つまりは人がいる、ということだ。ゾトアオは、これほど火をありがたく思ったことはない。だれでもいい、人間に会いたかった。
 そうして、火の側に寄ると、しゃらり、と耳に心地よい金属音がした。
 ゾトアオは目を見張った。火の灯された一角は、鉄格子のはめられた牢であった。そうして、その中に、人がいた。
 「どなた?」
  と、牢の中の少女は、怪訝そうに、その澄明な双眸をまっすぐにゾトアオに向けてきた。
 
少女は、目にも絢な、真っ白な布地に、黄金の鳳凰の刺繍の施された、みごとな衣裳を纏っていた。
漢族の装束ではない。僚人…甘、とも言うが、彼らのものである。漢族は、『洞蛮』などと呼んでいるが、かれらの建造する木造の橋の、その洗練された美しさは、瞠目にあたいするものだ。
ゾトアオの居住する雲南の東に位置する地域に居住する民族である。
僚人とおぼしき少女が、いったい、なんのためにこんなところに囚われているのだろうか。
少女の髪は滝のようにまっすぐ腰まで流れ落ち、薄闇のなかにあって、みずから光を放つような、白い肌を持っていた。
年頃は十五、六。痩せぎすで、侵しがたい気品を持っている。
その目を見たとき、ゾトアオは、気付いた。
少女の眼球は、濁っていた。見えないのだ。
「どなた? 食事ではないようだけれど」
と、少女もまた、流暢な漢語を口にした。
「おれはゾトアオ。イ族の長だ。あんた、なんでこんなところに閉じ込められているのだね」
「ゾトアオ…名前だけは聞いたことがあるわ。雲南に、若いけれど仁徳の相を持っている長がいる、と。あなたも囚われたのですか?」
「いいや、おれは迷い込んだのだ。あんたは、どうしてここに?」
「わたしは囚われたのです」
「いつからだい?」
「始めから」
「始め?」
少女は、濁った眼球をまっすぐにゾトアオに向けて、答える。
「ええ。生まれてからずっと。だから同情はなさらないで。目は見えないけれど、まったく見えないというほどではないの。形だけなら、だいたい判るのよ」
「ひどい話ではないか。なぜだ。家族が借金でもしたのか?」
憤るゾトアオに、少女は、その年にふさわしからぬ、大人びた笑みを浮かべる。
「イ族の長さま、怒ってくださってありがとう。でも待遇は悪くありませんの。彼らは、わたしが身を清くしていないと、宝に触れることができぬと信じておりますので、わたしに乱暴や辱めを加えることはございませんの。ちゃんと、食事も新鮮なものを与えてくれますし」
「宝?」
少女がさりげなくこぼした言葉に、ゾトアオは慄然とした。
「宝はこの階層にあるのか?」
意気込むゾトアオのなにがおかしかったのか、少女はコロコロと鈴のような声で笑った。
「あなたも、宝を求めて九門古城へいらしたの」
「そうだ。もともと、古城はわれらの祖先が作ったもの。とすれば、古城に眠る宝も、われらのものだ。漢族に奪われるより先に、われらの元に奪い返すのだ」
「いいえ、九門古城は、イ族が作ったものではございません」
少女は、鉄格子越しに、きっぱりとゾトアオに言った。
「古城を作った者たちは、もう漢族や、ほかの部族に同化してしまい、自分たちの名を覚えている者もおりません。徐州のほうに、王家の血族が逃げた、という伝説もあるようですが、本当かどうかも、わかりませんし」
「待て、くわしいようだが、ならば、わが部族に伝わる、九門古城の伝説は間違いなのか?」
「すべてが間違い、というわけではありませんわ。おそらく、ここから逃げ延びることのできた人間のうちの何人かが、あなたの部族に同化したのではないでしょうか。かれらが、あなたのご先祖に語った伝説が、長い年月のあいだに、あなたの部族の祖先が語った伝説として伝えられるようになってしまったのでしょう」
「では、宝の話はどうなる? ここには、『得れば必ず天下を取れる宝』が眠っているのだろう? それは、一瞬にして一軍を消滅させることのできる武器だと聞いたぞ」
「そうかもしれませんわね」
「どういうことだ?」
「あいにく、わたしも武器云々については知りませんの。わたしが知っているのは」
と、少女はそこでぴたりと口を閉ざし、立ち上がった。がしゃり、と少女が動くたびに、手足についている鉄の枷の音が響く。
「いけない、かれらがやってきたのだわ」
怯えたような少女の気配に、ゾトアオも一緒に耳をすませたが、何も聞こえなかった。
しかし、少女を閉じ込めている連中がやってくる、ということだけはわかる。
ゾトアオは、篝火に浮かび上がる、特大の海老錠を見た。
簡単に突破されないように、海老錠は、さらに鎖でぐるぐる巻きにされている。
ゾトアオは、渾身の力をこめて、錠に剣を叩きつけたが、傷がついたのは剣のほうで、錠前はびくともしなかった。少女は、あわてて鉄格子に駆け寄る。
「わたしは大丈夫です、イ族の長さま。彼らはわたしに危害をくわえたりしませんわ。でもあなたが見つかってしまったら、ひどい目に遭わされるかもしれない。どうぞ、このままお隠れになっていてください」
「そういうわけにはいかぬ。俺は、女子供を平気で土台にして、のし上がろうという奴が、いちばん嫌いなのだ」
がしゃがしゃ、と鉄格子を揺らしてみるが、ゾトアオの怪力をもってしても、鉄格子はうんでもなければ、すんでもなかった。
「隠れてください、お願いですから。それに、もしあなたが錠を破ってくださったとしても、わたしは、ここを出ないでしょう」
「なぜだ?」
「ある人と約束したからです。その人が迎えに来るまで、わたしはどこにも行かない、と。鉄格子によってくださいませんか」
ゾトアオは、少女の言葉をいぶかしみつつ、鉄格子に顔を寄せた。
少女は、手首についた枷を鈴のように鳴らしながら、鉄格子から手を差し伸べて、ゾトアオの顔をなぞった。
「あなたの顔を覚えました。これで、わたしとあなたは友だちです」
今度はゾトアオの耳にも、少女の言う『彼ら』の足音がハッキリと聞こえてきた。
舌打ちをしつつも、ゾトアオは少女の言うとおりにするしかない。
身を隠す前にと、ゾトアオは鉄格子のなかの少女に問うた。
「待て、おまえの名前を教えてくれ」
「わたしの名は、礼姫と」
「おぼえたぞ。おれは必ず仲間を連れてここに戻ってくる。それまで生き延びよ」
「ありがとう。さあ、早く隠れて」
礼姫の言葉にうながされ、ゾトアオは、闇に隠れた。
しかし、もとの水路まで戻る気はなかった。礼姫の身の上が心配だったからである。
それに、聡明なゾトアオは、やってくる連中の後をつけたほうが、上に戻る階段を見つけられるだろうと計算したのだ。

しばらく物陰に隠れて、礼姫の様子をうかがっていると、松明を片手に、漢族の男たちが連れ立ってやってくるのが見えた。
兵士たち数人を筆頭に、仰々しくやってくる一行の中心には、栄耀飯店のにくたらしい張大人と、立派な衣裳を身にまとってはいるが、あまり趣味のよくない痩せぎすの、目の細い男がいた。
あのヤロウ、とゾトアオは、躍り出て張大人をぶん殴ってやりたい衝動に駆られたが、礼姫のことを思い、我慢をした。
彼らは、礼姫の牢の前にやってくると、がしゃがしゃと鎖を解き、海老錠をはずす。
その間、目の細い、キツネのような顔をした男は、胡散臭そうにあたりを見回していた。
「なんとまあ、陰気な場所ではないかね。古人はかくも不気味な古城を作ったものよ」
「とはいえ、あまり世間には知られたくない物を隠すには、もってこいの場所でございますぞ。劉左将軍も、まさか己が支配する土地の真下に、こんな古城が隠れているとは、夢にも思っておりますまい」
「あの方は鷹揚な方であるからな。あの方の側にはべる、軍師将軍の奴めは、目ざといばかりの青書生であるが」
「荊州方には知られないようにしております。昨夜、わたくしの店にも軍師将軍の手入れが入りましたので、先手を打って、うちの使えない下働きひとりと、董幼宰を生け贄にして、蝋燭の買占めの容疑をかぶせて、お上に差し出したばかり」
「うむ。あれはよい手であった。軍師将軍は、われらとおまえが繋がることを恐れておった。その牽制の意味での手入れであったのだろうが、なにも掴めずにすごすごと引き返したそうだな」
「もちろん。ご禁制の品は、古城に隠してございます。宮城に潜ませた草が、軍師将軍の動きを察して、手入れを先んじて報せてくれたので、これを古城へ隠すことができたのです」
「われらがおまえに情報を流したお陰でもあることを忘れるでないぞ」
「もちろんでございますとも。軍師将軍をうまくやりすごし、その後も連中の目を逸らせるために、密告にて董幼宰を逮捕させる…われながら、うまく立ち回れたと自負しております」
「うむ、誉めて遣わそう。そなたの密告ゆえ、わたしはあのタンコブを始末できるのであるからな。われらが地上に戻るころには、ちょうどあの老いぼれの処刑が始まる頃であろう。
しかし、気になることがあるぞ、張。軍師将軍は、たしかにおまえの動きをいぶかしみ、そなたの店に手を入れたのであろうが、あれの犬の、翊軍将軍のほうは、羌族の男の死体が見つかったとかいう理由で、市井をうろついているそうな」
「黄色い輝石の指輪をした連中でございましょう? 連中のことは、わたくしも正体がつかめておりませぬ。軍師将軍が何かを掴んでいるとなると、厄介でございますな。
尚書令さまのお力で、荊州方に探りを入れることは出来ませぬのか」
それを聞いたゾトアオは、闇の中、そおっと顔をもたげて、まじまじとキツネ顔を見た。
あれが、尚書令。劉備の元で、成都を取り仕切っている男。こいつを倒せば、天下も近いのではないか…?
「ふん…荊州の連中は、あれはあれで結束が固い。諸葛亮というのは得体の知れぬ男だぞ。独善家かと思えば、意外に根回しもうまく、人望も厚い。なにもしていないように見えて、安心していると、実はネズミのように激しく動き回っている、という具合だ。だいたい、どうやって連中が九門古城のことを知ったのか、それもわからぬのだ」
「わたくしも、荊州人士につなぎを作ろうと努力をしておりますが、ことごとく跳ね除けられてしまいます。軍師将軍が、なにがしかの指示を与えているのでしょうか?」
「それもあるだろうが、単に、荊州の人間は、生身の人間らしからぬ潔癖な連中ばかりなのだ。諸葛亮に負けてはならぬとばかりに、競い合って清貧を尊んでおる。
もしおまえが、荊州人士につなぎを作りたいのであれば、いままでのやり方は通じぬぞ。連中は絹や馬や茶なぞには、目もくれぬからな。兵士からして、掠奪は好まぬと言い切っているくらいだ。なんでも掠奪をすれば、軍規によって首を刎ねられるとか。
まったく不気味な連中ぞ」
「人とは思えませぬなあ」
「なにを考えているのか、さっぱりわからぬ。
劉左将軍とて、いまはわたしを厚遇し、諸葛亮より重い地位につけているが、これはわたしのほうを信頼しているからではない。諸葛亮よりわたしを上に置かねば、益州人士が黙っておらぬということまで読みこしているからだ。それに」
法正は、ふう、と暗いため息をついた。
「諸葛亮に経験を積ませるために、雑事の集中しやすい役職にわざとつけているのだ、あれは。たとえ地位や禄が上だとしても、劉左将軍の寵は、すべて軍師将軍が占めておる。
われらのようなよそ者が、いまさら入り込む余地がない」
「よそ者は、連中のほうではありませぬか」
法正は、どこか悲しげな笑みを浮かべる。
「心のあり方の話だ。官に仕えぬそなたにはわかるまい。
もし諸葛亮が十分に経験を積んだと左将軍が判断すれば、わたしはいまの地位を追われることになるであろう。
だが、黙って追われてなるものか。諸葛亮より先に、『得れば必ず天下を取れる宝』を手にするのだ。そうすれば、左将軍もわれらを軽んじることはできまい」
すると、張大人は、卑屈な笑みを浮かべて肩を揺する。
「宝ならば、すでに手に入ったも同然でございますぞ。この娘がいるかぎり、われらは『宝』の言葉に従って動けばよいだけの話なのですからな」
それに、と張大人は声を落として、ささやくように言う。
「『宝』さえあれば、もはや左将軍なぞ気にせずに、あなた様が天下を制することができますぞ」
「言うな」
と、法正は張大人をたしなめるも、その顔は、まんざらでもなさそうである。

 海老錠が開かれ、兵士たちによって、礼姫が連れ出される。
その待遇は、たしかに礼姫自身が言っていたように、悪いものではないらしい。
兵士も張大人も、それなりに敬意を持って接している。
目の見えない姫のため、介添えしてやる兵士と、歩きやすいように、先に立って足元の石や壁の欠片を掃除してやる兵士までいる。
「たかが小娘ひとりに、たいそうな待遇ではないか」
と、さすがに法正があきれたように言う。
張大人は、鹿爪らしい顔をして答える。
「この娘の言葉は、女神の言葉にも等しいものですから、兵士たちも、すっかり心服しているのでございますよ。わたくしは、この娘を手に入れるために、一族の男をつかって、娘の母親と結婚までさせたのですよ」
「ふん、自分は指示をだすばかりで、なにひとつ苦労をせぬとは、よい身分だな」
「頭を使うほうが、わたくしには得手でございますれば…」
言いつつ、張大人と法正、そして礼姫の一行は、どこぞへと向かいだした。
そのあとを、ゾトアオも慎重に付けていく。
石畳の、蛇のようなうねりを持つ回廊がつづいていた。
絶えず聞こえてくる水音が、むしろ心細さを煽ってくる。
先方を行く張大人が、法正に言う。
「ここは古城の中でも、まだ誰にもしられていない第四階層でございます。
この階層は三つの道がございまして、あとの二つは互いに交わりあいながら、いつまでも同じところをぐるぐると回るように仕掛けの施された迷路になっております。
わたくしの部下が、その仕掛けにはまりまして、何日もそんな様子なので気狂いになり、自棄になって命を絶とうと水路に飛び込んだところ、水に流されて、この三本目の道を見つけたのです」
それを聞いて、ゾトアオは、自分が運ばれてきた、あの不気味な青銅の人形は、張大人すら知らないのだ、ということを知った。
「だれがこんな凝った古城を作ったのであろうな」
と、一度は誰もが口にする疑問を、やはり法正も口にした。
「さあて…いにしえに滅んだ蛮族ではないかという噂ですが、くわしいところは何も」
礼姫は、古城の成り立ちについて、なにか知っている様子であったが、張大人と法正の会話には、口を閉ざしている。

しばらく行くと、また水路に行き当たった。
ゾトアオが驚いたことには、水路には円い橋がかけられており、橋の向こうに、上層へ向かう階段があったのだ。
いまあれを昇れば、連中に気付かれることもなく、上に戻って、祝融のところへいける。
ゾトアオは逡巡したが、しかし、いまは階段を上ることをあきらめ、張大人のあとをつけることにした。彼らの行く手にもし『宝』があれば…ひと暴れして、それを奪ってやろうと考えたのだ。そうすれば、祝融を二度と危険な目にあわせなくてすむ。
 そうして、階段から離れて、さらについていくと、一行は、とある壁画の前に止まった。
『あれは、俺が落っこちた仕掛けのあった壁画と、そっくりな壁画だな』
事実、壁画には、樹と、それに群がる九匹の龍が描かれていた。
壁画の左右には、筏にぽつんと乗っていた、あの気味の悪いしゃべる青銅の人形がはべっており、一行が近づくと、またも勝手に首を動かして、口を開いた。
「照会をドウゾ」
「しゃべったぞ!」
うろたえる法正に、張大人は愉快そうに笑った。
「大丈夫でございます。こいつらは、危害をくわえません」
そんな男たちをよそに、礼姫は一歩、壁画の前に進み出ると、壁をなぞるようにして探り、そうして、龍の一つに手を触れた。
すると、いかなる仕掛けか、壁画はがたがたと揺れ始め、そうして、だれの手も借りずに、徐々に動き出した。
扉が動ききると、目の前に、ぽっかりと空間があらわれた。張大人は、それがさも、おのが手柄のようにして、意気揚々と法正に言う。
「さあ、尚書令さま、ご覧下さいませ。これが『得れば天下を取れる宝』でございます!」

十八話へつづく…
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