捜神三国志・燭龍本紀

第十六話 龍の系譜


助ける、の言葉をきいても、董和はそれに飛びつかなかった。
闇におぼろげに浮かび上がる、晴れやかな男の顔を、じっと見据える。やはり、その心中は読めない。
 「タダではあるまい」
董和が言うと、孔明は、にやりと笑った。
 「わかってらっしゃる。ならば、話が早い」
 「わたしに、貴殿の味方になれ、とでもいうのか?」
 「それは望んでおりません」
意外なことばに、ますますその思惑をはかりかね、董和が沈黙すると、孔明は、顔に浮かべた笑みを崩さぬまま、きっぱりと言ってのけた。
 「この成都にわたくしがいるかぎり、だれもわたくしに敵対することなどできない。この地で生きるかぎり、やがてあなたもわたしの側につかねばならなくなる。それが判っておりますので、いま強要するつもりは毛頭ございません」
 その言葉に、董和は唖然とした。
なんという傲岸不遜、そして自信家だろう。いまのがハッタリではない証拠に、孔明の眼差しはすこしも揺らぐことなく、まっすぐに董和を見ていた。昼間、目があったときも粟肌が立ったが、夜の闇のなかで見れば、いっそう、その澄明さが際立つ。孔明は、自分の確信が、けして自分を裏切らない、ということを信じていた。それがもしかしたら崩れるかも知れない、などとは露ほどにも疑っていない。
 「敵対するかもしれぬぞ」
 「無理です。主公からあたえられた地位だけで人を見ているのなら、改めていただきましょう。主公のお考えはわたくしの考えであり、わたくしの望みは主公の望みでもある。わたしが法正の下に甘んじているのは、単に益州人士の不満をあおらずに、法正というあの男の性質を最大限利用するためだけに過ぎません」
 「いつかは、取って代わると?」
 「無論。わたくしはまだ若い。可能性は法正より十分ある。わたしが法正に劣っている点があるとすれば、法正ほどの行政経験を持っていない、というその一点のみ。いまは未来のために、力を蓄えているのです」
 「そうして法正を追放する、というのか…だが、なぜそれをわたしに喋る?」
 「わたしのいまの話を尚書令に密告する、というのですか? 信じると思いますか、軍師将軍が、深夜に単身、牢屋をおとずれて、法尚書令への害意をあきらかにした、などと。まして、あなたは免官になった身であり、しかもわたしとはいままで面識すらなかった人物。子供でも信用しないでしょう」
 と、孔明は、後れ毛をかきあげる。その指には、灯火にかがやく黄色の輝石の指輪がはまっている。
 それをじっと見つめながら、董和はたずねた。
 「それで、貴殿の条件は?」
 「昼間とおなじですよ。お屋敷を売っていただきたい」
 董和の困惑は深まった。この男、わざわざ家を売ってもらうために、この深夜に人目を忍んで、牢を訪れた、とでもいうのか。
なにか目的があるはずである。九門古城の噂を市井にひろめているなぞの一派の象徴である指輪を、この男も嵌めているのであるから、古城に関するなにかしらの思惑があるはずなのだ。だが、それはなんだ? 
第一の門を張大人が管理しているように、この男も、人々を騙し招き入れている、第四の門というべきものを管理している、とでもいうのか。
「なぜ、わたしの屋敷にこだわるのだ。ご子息のためだけではあるまい」
「いいえ、喬のためです。あれのために、どうしてもあの屋敷を買い取りたい」
「なぜだ。長星橋は人の流れが大きい町だ。治安もわるい。落ち着いて子育てができる環境ではないぞ」
「子育て…ではありませんよ」
と、孔明は、また髪をかきあげる。どうやら、まとめきれなかった自分の髪の束をいじるのは、癖のようであった。そうして髪をかきあげるたびに、きらきらと黄色い輝石が輝く。その美しさに目を奪われていると、孔明がそれに気がついて、ああ、とだけ言うと、いきなり無造作に指輪を外した。
「忘れていたな。死んだ男の指輪なんぞ、そういつまでも嵌めているものではない」
「それは、貴殿のものではないのか」
答えの代わりに、孔明は指輪を外すと、そのまま、ゴミでも投げ捨てるように、あっさりと指輪を床に放り投げた。
からころと、静寂につつまれた牢に、ちいさな指輪の転がる音だけがひびく。
孔明の行動の意図がわからず、ただただ唖然とする董和に、孔明は、それまで浮かべていた不遜な笑みをひっこめて、真摯なまなざしをむけてきた。
「あなたがわたしをどう思われているかは知らないが、わたしは人間が好きなのですよ。荊州も益州も関係ない。豪族も奴婢も関係ない。漢族も蛮族も関係ない。人と呼ばれるすべてものが好きなのです。だから、人を人とも思わぬ残酷な扱いのできる人間は理解ができないし、許しがたいとすら思う。法正が私情の赴くままに行動しているために、政情が不安定になっているのも判っているし、わけのわからぬ輩が、九門古城の噂を民にひろめ、地下へと騙し入れていることも知っています」
「貴殿、九門古城にもぐったことがあるのか?」
「潜りたいと思っていますが、激務なのにくわえて、口うるさいのが一人いて、どうしても駄目だというのでね。ただ、存在は知っていますよ。九門古城の伝説は、この成都にだけひっそりと眠っていたわけではない」
「どういうことだ?」
「順を追って説明いたしましょう。ただ、いささか長くはなりますが…」

※           ※
 天下はもともと割れたものであった。
天下統一、という概念は、始皇帝がはじめた『あたらしい発明』にすぎない。
始皇帝よりはるか以前、春秋戦国時代よりもさらにむかしのことである。
中華は南と北の大河にはぐくまれ、さまざまな民族が、さまざまな文化を築き、王国を戴いて、勃興をくりかえしていた。
そのなかのひとつ、長江に守られるようにして、ひとつの豊かな王国があった。
その王国はどの国よりも勝って豊であり、ひとびとのことばに飢えと争い、というものがなかった。
風光明媚な美しい王国をおさめるのは神の声を聞くことの出来る、たったひとりの男。
ひとびとは男を崇め敬い、平和な日々を享受した。
しかし、平和は長くはつづかない。ある日、男を妬む、凶悪な心を抱く男が、仲間たちをそそのかし、反乱をおこした。
争いを好まぬ男は、なんとか謀反を起こした人々を説得しようとするのだが、しかしひとたび人の血を吸った剣を持つ者たちは、もはや後には戻れない。
長く平和にめぐまれて、戦い方を知らない民の抵抗は弱弱しく、やがて戦火は拡大し、ついには男も自ら立ち上がらざるをえなくなった。
男は風と雨を味方につけ、必死になって戦った。
一時は、男のほうが有利になるかと思われた。
しかし、謀反人たちは、太陽の化身を手に入れて、大地を焦がして炎の海に叩き込み、大地にいるすべての人々を業火に包んだ。
多くの軍勢をうしなった男とその仲間たちは、とうとう捕らえられ、四肢をばらばらにされて、遺体は各地に遺棄された。
乱は終わるかに見えた。だが、太陽の化身は気むずかしく、その後も大地を燃やし続け、多くの民の命がうしなわれた。
生き残った、死せる男の味方たちは地下に要塞を築き、すっかり昔の姿をうしなった、炎の荒れ狂う大地から避難した。
謀反人たちはその間に、みずからを王と名乗り、あたらしい国をつくることにした。
そのためには、太陽の化身をなんとかせねばならない。
そこであたらしい王は、『叛徒』たちの立て籠もる地下要塞へ太陽の化身を追放し、かくて大地は炎から解放され、徐々にむかしの姿を取り戻した。
叛徒の要塞は、太陽の化身によって焼かれ、そこに籠城していた人々はすべて死に絶えた。
のち、地下要塞にまだ眠るといわれている、叛徒たちの隠し持っていた宝をもとめ、なんどとなく人が潜行していったが、要塞の熱は下がることがなく、みな、炎熱に焼かれて死んでしまい、一人も戻ってこなかった。
そのうち、だれも近づけない地下要塞の出入り口はすべて塞がれ、同時に、危険な地下要塞の存在は世間から忘れられていった。
もっとも、その存在を知られてしまえば、必然的に民は、殺された男の存在を思い出す。あたらしい王は、それを恐れたので、意図的に、すべての記録から要塞の存在を抹殺したのであるが。

捕らえられて殺される直前に、男はみずからの血族を、安全な、はるか北の大地へ逃した。
そこは男とよしみのある土地で、血族が移住しても、先住の民とあらそいごとが起こる心配がなかったからである。
残された男の血族たちは、からがら、男の示した土地へ向かい、北の大地に根を張った。
血族たちは、葛の葉が繁るようにしてどんどん子孫を増やし、繁栄していった。
もともと、かれらは薬の知識に詳しく、葛を用いた製薬が得意であったから、いつしか葛は、かれらと切っても切れないもの、象徴となっていく。
いつしか人々は、血族を『葛の一族』と呼ぶようになり、血族もまた、それをあたらしい姓名とした。
そのころには、血族があまりに多くなりすぎて、そもそもなぜ、かれらがその土地に根付くことになったのか、その理由すら、忘れる者も出てきていた。
それを憂いた血族の長は、みずからが、栄光と屈辱の記憶を受け継ぐことを宣言し、血族たちのなかでも、自分たちがほかとは違うことを表すために、『諸葛』の姓名を名乗るようになった。
と、ここまでは伝説である。

ある兄弟がいた。
腹違いではあったが、じつに仲のよい兄弟であった。
兄は病弱であったが博識でおだやか、弟は壮健であったが奢ることのない明朗な性格。
ふたりはそれぞれ非常に正義感がつよく、世の中が乱れ、民が苦しめられていることに心を痛めていた。
そうしてすこしでも、民のためになろうと立ち上がり、ささやかながら、汚職官吏を摘発したり、盗賊たちを退治したりしたのであるが、所詮、一地方の、一名士の、ささやかな抵抗にすぎない。天下はどんどん悪い方向へと向かうばかりである。
病身を押して、世の改革に心血をそそいでいた兄は、無理がたたって、やがて倒れ、その後事を弟に託した。
しかし弟は、兄の後を継ぐのを拒んだ。すでに兄には男子が三人もいたからだ。
弟が家督を継ぐことを断ると、兄は、三人の子のうち、真ん中の子をあたらしい跡継ぎに、と指名する。
弟は言いつけを守り、真ん中の子を後継として守り立てることを約束した。
それを聞いた兄は安心し、ほどなく、息を引き取った。

ある兄弟がいた。
腹違いであったためなのか、あまり仲がよいとは言いがたい兄弟であった。
そもそも、何年も顔をあわせたことがない。
兄のほうは聡明で壮健であったが狭量、弟のほうは聡明であるが病弱、しかし勝気な性格。
ふたりはそれぞれに別な場所で暮らしていた。年が離れていたのもあるが、兄のほうが正妻の子ではなく、くわえて傲慢なところがあったので、父親と折りが合わなかったので、成人をすると同時に、すぐに洛陽へ留学をしたためである。
弟のほうは、兄の存在は知ってはいたが、さほど詳しく聞くでもなし、家人も姉弟たちも、話題にしたがらないふうであったので、さして気にすることもなく、したがって、兄弟は、兄弟という枠でくくられているだけの他人のように成長した。
やがて、兄弟の兄が死んだ。
兄は、当然、自分が後継に選ばれる、と思っていたのだが、父親の意向はそうではなかった。
正妻の子、というだけで、見も知らない幼い少年が、自分の代わりに家名を継ぐ、という。
折しも世は戦乱の真っ只中。兄は本来であれば、幼い弟妹をつれて、率先して一族を守らねばならない立場にあったし、年齢的にも十分であったのだが、おのれが後継に選ばれなかった、ということだけが先に立ち、ついには怒りにまかせ、弟妹を置き去りにして、おのれと、父の若い未亡人…つまり義母に当たる女であるが…だけを連れて、自分たちだけ、江東の地へと避難した。
置き去りにされた弟妹たちは、家人たちと、父の意思を継いだ叔父たちに守られて、なんとか南は荊州の地へと避難することになった。
しかし、自分たちがもっとも必要とするときに、兄が義母を奪って逃げた、ということだけは、けして弟の脳裏から去ることはなかった。
兄弟の仲は憎悪の入り混じった冷たいものとなり、以降、弟が家督を立派についで、やがて世間に名前を知られるようになるまで、連絡を取ることすらなかった。

 ある兄弟がいた。
 同腹であるが、非常に仲のわるい兄弟であった。
 ふたりとも、まだ少年である。
しかし、兄のほうは図抜けて聡明な性質で、天性の愛嬌にもめぐまれたが、それゆえに大事にされすぎて傲慢であり、弟のほうは、聡明で忍耐づよいが、おとなしすぎて、ほとんどだれとも打ち解けられない性格。
 ふたりはおなじ環境に暮らし、おなじ乳母に育てられたが、その性質と、その生活は天と地ほどの開きがあった。
兄のほうは、見た目の愛らしさと聡明さを主公から気に入られ、早くから宮城に出入りを許されており、江東の一族の期待を一身に受ける存在であった。
弟のほうは、それとは対照的に、忘れ去られることもしばしば。あまりにおとなしく、自己主張らしきものをしないので、奴婢の子にすら見下される始末。
 煌びやかで将来を約束されている兄に比べると、弟の生活は、幼いながらもすでに物悲しささえ帯びていた。
とはいえ、どちらが幸福か、と問えば、万人がすべて、弟のほう、と答えたであろう。
 兄は期待されていた。主公の気に入る答えをしてあたりまえ、主公の意のままになるのがあたりまえ。失敗することも、否ということもできない。子供であるのに、わがままのひとつも口にすることが許されない。幼いなかで、嫉妬と誹謗と、ときには欲望の混じった人々の視線に、ひとりで立ち向かわねばならない。相当な苦しみである。なぜならば、親は、子供に期待をするあまり、やはりわがままを言うことを許さなかったからである。幼い手は、差し伸べる先がわからずに、ついにはあきらめをおぼえた。
あきらめと同時に、胸の中に蓄えられていくものがある。
 怒りである。
子供には、分析のむずかしい、そうして自分では制御することのむずかしいはげしい怒りが、兄の胸を焦がしていた。
 それはさながら大地を焼き尽くした炎熱のごときの熱さであり、その矛先は、目と鼻の先にいる弱い者、弟へと集中して向けられた。
 最初は、どんな兄弟でもあるように、ちいさな諍い程度のものであった。
だが、それが日々、苛烈なものとなっていく。ただただひたすら耐える弟は、兄から見れば、底のない許容量を持つ、自分のために作られた器であった。
 大人たちが自分にどれだけ期待をしているか、そうして弟を可愛がっていないことを、兄は子供ながらに知り尽くしていたので、兄は容赦なく弟を苛め続けた。
そうして、あるとき、ちいさないたずらを思いつく。
 炎で、弟を脅してやるのだ。
 たしかに嫌がるそぶりはするけれど、この弟、ふしぎと一度も泣いたことがない。兄の癪の種はそこにもあった。
そこで、兄は奴婢の子たちに弟を押さえつけさせて、炎でもって弟を脅したのであるが、やはり弟は涙をみせなかった。
 癇癪を起こした兄は、弟の着物の裾に炎をつける。
あるいは、単に事故だったのかもしれない。
 だが、炎は一瞬のうちに、弟を燃やした。
あまりのことに、おどろいた兄はもがき苦しむ弟を見捨てて、逃げ出してしまう。
 炎は、灼熱でもって弟を焼き尽くした。さながら、かれのはるか遠い祖先の運命をそのままなぞるように。

 炎の中で倒れた男と、男を捉えて殺し、王国を簒奪した男は、やはり、この世でたったふたりの兄弟であった。
 


 凧の骨組みをなおしてもらったのであるが、そのしなり具合が気に入らず、喬は、ずっと凧とにらめっこをしていた。
喬は屋敷の庭のあずまやで、蝋燭をともし、夜風を身体にあてて、そうしていた。
あずまやの外には、あまり口をきかない下働きの老人がいて、これがなにをするでもなく、喬が凧に飽きて、もう部屋に帰ろうとするのを、犬のように忠実に、じいっ、と待っている。
遊ぶ友だちがいるわけでもなし(いたとしても、遊び方がわからなかったので、やはり凧とにらめっこをしていたであろうが)喬は、あたらしい父上が、みずから、自分専用のちいさな工房に籠もって、器用に直してくれた凧をながめていた。
 凧を飛ばすと気持ちがよい。大空を泳ぐ凧を見ていると、まるで自分も風に乗って、はるか千里の彼方まで見遣っているような、爽快な気分を想像できるからだ。
もちろん、空を飛んだことはないけれど、風のうなり声、顔に当たる風の感触、風景とともにさまざまに変化する風の色、そんなものまでが想像できてしまう。
想像をしているあいだは、頭の中に、自分をいじめる人間は存在しなかったし、怯える心配もなかったから、おもうさま自由にふるまえた。
たとえ兄たちに苛められているときでも、父に打たれているときでも、その理由がわからなくて泣いて謝っても、許してもらえないことはわかっていたから、喬は自分を楽にするために、想像の世界に自分を閉ざす術を開発した。
そこに逃げ込めば、どんなにひどい目に遭っていても、それは自分ではなく、どこかよその世界のように思える。想像の世界では、自分が主役であり、創造主であったから、敵などいるはずもないのである。われに返れば、冷たい現実が、痛みとともに襲ってくるのであるが、それまでのわずかな間だけでも、楽になれるのであれば、喬は喜んで、想像の世界へ逃げた。
 想像の世界に、逃げっぱなしであったから、というわけではないだろうが、記憶があやふやになりはじめてから、喬の周囲の人間の輪郭は、あやふやさを増している。
さらに、あたらしい父上の家人は、最低限の世話をする以外は、喬が必要としないかぎり、不用意に近づいてくることがなかったから、喬はたいがいひとりぼっちでいる。
ひとりで、おのれの空想の世界に遊びながら、外界を見るとき、喬は、他人を、水の中から事物を見ているような、ぼやけ、淀んだ姿のように見る。近くに来て、さらに自分が知りたいと思えば、だれであるかの識別はつけられる。しかし、そうでない場合は、人は、喬の前では、人の姿すらない、空気とおなじものに過ぎない。
 「おや、これは、気付きませんで」
と、老人が立ち上がった気配がする。あたらしい父上が帰ってきたのかな、と凧から目を離した喬であるが、見ると、それは、遊びにくるたびにおもちゃをくれる、いい小父さんであった。いい小父さんは、あずまやにやってくると、喬にたずねてきた。
 「こんな夜更けに、なにをしているのだ?」
それは、むかしの父上のようなきつい、詰問口調ではなく、やわらかく温かいものであった。喬は、手にしていた凧を見せた。
 「凧が、壊れたのか?」
 こくり、と肯いて、喬は骨組みが折れたところを小父さんに見せた。小父さんは身をかがめ、あたらしい父上が治した骨組みを見ると、ふむ、と感心したように言って、喬に言った。
 「壊れたが、父上が直したのか」
喬はおおいに肯いた。この小父さんは、とても勘がよい。しゃべれない喬のことをちゃんとわかっていて、言わんとすることを、一度きりでぴたりと当ててしまう。
 「こういうところはずいぶんマメだな。だが、この夜更けにひとりで歩きまわっているのは感心せぬな。おまえ、父上がどこへ行ったか、聞いておらぬか」
 喬は、このいい小父さんが好きであったから、なるべくなら答えたかったが、あたらしい父上の行方は、喬も知らなかった。夕餉をたべたあと、あずまやでつくねんとしている喬のところへやってきて、
 「ちょっと出かけてくる。遅くに戻ると思うので、おまえは早く寝ていなさい」
と、言い残して去っていった。あたらしい父上は、むかしの父上とちがって、仕事へ行くときでも、ちょっと出かけるときでも、かならず声をかけてくる。
 喬が残念そうな顔をして首を横に振ったので、いい小父さんは合点がいったらしい。
 「そうか、わかった。難しいことを聞いてすまなかったな。さて、おまえもそろそろ眠らねばならぬ時間だろう。いつまでもここにいると冷えるぞ。さあ、ともに屋敷に入ろう」
と、喬に手を差し伸べた。
 いい小父さんの手はおもしろい。大きな手が、とつぜん凶器にかわって、自分を打つことはない、とわかっているので、喬は、その手をとっくりと眺めることができる。いい小父さんの手は大きくて、あちこちにマメや刀傷がある。この小父さんの仕事は、あたらしい父上やむかしの父上とちがって、敵と戦うことが仕事なのだ。このいい小父さんはあたらしい父上より家人に好かれている。とくに女の人に。
 差し伸べられた手に応える、というよりも、どんな感触がするのか、さわってみたかった。
手は、思ったより温かく、あちこちにある傷やマメがざらざらしていたが、嫌な感じではなかった。
 自分が手に触れた途端、いい小父さんが、ぎょっとして顔を強ばらせたように思えたが、それもほんの一瞬のことであった。
喬が不安に思う前に、小父さんの顔は元通りになっていて、自分の手を引くと、屋敷のほうへとあるきだす。
 短い道すがら、いい小父さんは、むかし故郷で聞いたという、御伽噺をしてくれた。

※ ※
 董和は、まず、孔明が荒唐無稽な作り話でもって、自分を混乱させようとしている可能性について考えた。
つぎに、自分が、支離滅裂な夢物語のなかにいることを疑った。
 だが、それを見透かしたように、孔明は口を開く。
 「天地神明にかけて、いまの話はすべてほんとう…とはいえ、わが家の成り立ちに関する伝説には、わたしも自信がありませんが」
 「そうではない。わたしを担ごうとしているのか? 今日、凧を揚げていたあの少年は、どこにも火傷をしていなかったではないか」
 「そうでしょう。どこにも疵のない、普通の子供に見えたでしょう? ちょっとおとなしい、十歳くらいの子供。そのように見えたのでは?」
 「子供をおのれの詐術の道具に使わんと考えているのならば、許さぬぞ、軍師将軍どの」
董和が決め付けると、孔明は暗い笑みを浮かべた。
 「詐術? うまいことをおっしゃる。わたしも、いま口にしていることが、ウソであれば、どれだけ救われるかと思っておりますよ」
 「ウソではない、と?」
 「あの子の時間は、兄の恪に火をかけられた十歳で止まっている。
そもそも、恪とて、本気で弟を焼き殺してしまおうなどと、残酷なことは考えていなかった。ほんとうに、ちょっとした出来心で、弟をいじめる道具として火をつかった。それが弾みで服に燃え移ってしまった。まさかこんな悲惨な結果になるとは、夢にも思っていなかったのでしょう。
もがき苦しむ弟を見捨て、恪はそ知らぬふりをして屋敷に戻った。だが、おびえた奴婢の子が、恪と喬の父、つまりわたしの兄に訴えて、ようやく、喬は発見された。そのときには、まだ喬には息があった。
身内の恥をさらしたくはありませんが、わが兄ながら父親とは思えぬ処置を考えた。弟を焼き殺したなどということがしれたら、恪の栄達の道は閉ざされてしまう。兄が最初に考えたことはそれだったのです。
そこで兄は、正規の医者を呼ぶかわりに、あやしげな分家筋の男を呼んだ。この男は、泰山で修行した仙人だというのが触れ込みの男で、すくなからず医術の心得があった。兄は虫の息の喬をその男に託し、恪と家人たちに、けしてこのことを他言しないようにと言い含めた」
 「それでも人か!」
なにより、子供を愛する董和は、その悲惨な話に、はげしい怒りをおぼえた。董和が顔を赤くして怒っているのを見て、孔明は悲しそうに肯いた。
 「まさに鬼畜の所業です。まったく、深く恥じ入るほかありません。その男は、喬を預かると、もう助からないと踏んで、おのれが手に入れたばかりの秘薬と仙術の実験につかうことを思いついた。
それは、われらの祖先が考案したものの、危険が多いために禁止された術でした。しかも、術を使うためには、どうしても秘薬が必要なのです。その秘薬は、現在では手に入らない、すでに絶滅した植物ばかりを原料に作られた秘薬中の秘薬。だが、男は秘薬を手に入れて、禁じられたおそろしい術を実行にうつした。生体解脱術、というものです」
 「生体解脱?」
 「こんな神話は聞いたことがありませんか。かつて、人間はすべて不老不死であった。人は年老いると、蛇のように脱皮をして、古い肉体を脱ぎ捨てて、再生する。
ところが、脱皮には、死にも等しい、はげしい痛みが伴った。とある老婆が、その苦しみに耐えかねて、天に訴えた。曰く、『このような苦しみを味わうことになるのであれば、いっそ死んでしまったほうがましです』と。天はその声を聞き届け、以後、人は寿命を持つ生き物となった。 
 人は肉体を再生することが本来できる生き物であった、と考えた男は、喬と、かねてより作っていた土人形を用意して、その身体の交換をおこなった。焼け爛れた身体は、どちらにしろもう仕えない。かつて、人は土から作られたと神話は語っている。そう無茶な論理ではない。生きた人の身体から、魂魄のみを解放し、土人形に入れ替える。そのことを可能にしたのが、件の秘薬でありました。そうして、実験は成功した」
 「まさか…」
 「ただ、そのときに、天の与えた『喬』の身体は消滅した。つまり、あの子はそのときに死んだ。以来、あの子は、年を取ることもなければ熱も持たず、かろうじて以前の記憶だけを一部だけとどめている、人と呼ぶにもためらわれる存在になってしまった。
 兄も恪も、生き返った喬を見て、怯えたことでしょう。たしかに甦った。しかし、火をかけられた痕跡などどこにもとどめずに、以前のままの姿なのですから。しかも、以前のままで、年を取ることがない。触れれば死者ように冷たい。あまりに異常です。いつかは口の端にのぼり、そこから恪の所業と、兄の処置のことが世に漏れてしまうかもしれない。そのことを恐れた兄は、ふたたび逃げの手段を講じた。つまり、世継ぎのないわたしに、喬を養子として押し付けることを。
 最初、兄から手紙を受け取ったときは、とうとう気が触れたかと疑ったほどです。だから、あなたが信じられない気持ちもわかる。わたしも、喬を引き取ることに決めたのも、こんな兄のもとで養育される甥がかわいそうだという見当外れな同情からだったのですからね」
 作り話にしても、あまりに残酷で胸のわるくなる話であった。怒りと同情と、気味悪さからくる疑惑のないまぜになった思いで、董和は孔明を見遣った。孔明には、ふざけた様子もなければ、おのれの話に信憑性をもたせようとして、むりに神妙にしている様子もない。ひどく淡々と言葉をつむぐ。
 董和とて、人の子であるから、世の賞賛を受けて栄達の道をのぼることを考えなかったことはないし、子供が英才であったなら、それを足がかりに、家門を栄えさせることができるかもしれぬ、などと、夢物語を描いたこともある。もちろん、ほとんど冗談に近い思い付きであったから、子供をダシにして、真剣に出世を考えたことなどない。どころか、一人息子の休昭が、利発にすぎるあまり、小さくまとまってしまう男になることを恐れたくらいだ。
 世は広い。いろんな親がいる。
それにしても、孔明の兄の酷薄さは、一人息子を溺愛し、世の子供たちにも同じように愛情を注いできた董和にとっては、衝撃ですらあった。
 江東の覇者である孫権は、毀誉褒貶のある人物である。
父や兄をしのぐ大きさを持つ、大器である、と太鼓判を押す者もいるかと思えば、猜疑心がつよすぎて、酒が入ると、その残酷な性格が解放されてしまい、若いうちはまだよいが、あの欠点を矯正されないうちは、よい家臣もついて来なくなるだろうと辛辣に評する者もいる。感情に大きな波のある人物なのだ。
そういう人物に対し、おのれの子供を任せることなどできない。どんなに子供らしからぬ聡明さと利発さを兼ね備えていたとしても、百鬼夜行の大人の世界に、少年をひとり、渦中に投げ落とすような真似はできない。
 そんなことをされてしまったら、子供は大人の世界に押しつぶされてしまうか、辛うじて生き残ったとしても、はげしく歪んでしまうだろう。
 「わたしは、恪を責める気にはなれない。あれは、叔父のもとへ避難するのではなく、兄と共に江東に避難していたら、そうなっていたかもしれないわたし自身でもある。すべての原因は兄のそもそもの性格と、徐州からの避難民であった兄をおびやかす、土着豪族たちとの確執です。とはいえ、喬に対しておこなった、二人の残酷な所業は許すつもりはありません。喬には咎はなにもない」
 「むろんだ。そこで見捨てては、貴殿、兄上とおなじ人でなしに成り下がるぞ」
 熱く語る董和に、孔明もおなじく、つよく頷いた。
「左様。しかし、わたしはあいにく家庭というものに向いていない人間なので、うまくやっていけるかどうか、不安では在りますが」
「不安なぞ、当然ではないか。たとえ賢婦を妻女にもっていたとしても、父というものは、ひとしく子育てについて不安をもったり、悩みをもったりするものなのだ。子供をただ大きくすればよい、というものではない。子供と一緒に、おのれも悩み、成長していく。それが子育てというものではないのかね」
「なるほど、含蓄がありますな」
と、孔明はおおいに感心した様子であるが、ふと我に返り、咳払いをひとつすると、さきほどの淡々とした様子にもとに戻して、つづけた。
「子育てについての悩みは、たしかにありますが、それ以外にも、わたしには世の親とはちがう悩みを持つこととなった。それは兄と同じ悩み、つまり、喬が年を取らない、ということです。いまならば、実際の年齢よりは、ずいぶん幼く見える子供、ということで周囲も関心をはらわない。だが、年数がたてばたつほど、喬の異常さは世人の注目をあつめるでしょう。なんとかせねばなりませぬ」
「あやしげな仙術に対抗するつもりか?」
「そのとおり。道にはずれた分家筋の仙人崩れがかけた仙術など、道具さえそろえば、すぐに解除することができる。わたしは、主家の当主、かの楽土の王の末裔なのですから。だが、道具がなければ話にならない」
「秘薬か?」
「そのとおり。秘薬が必要です。ですが、問題はその入手経路です。件の分家筋が、いったいどこで秘薬を手に入れたのか…それは、その男が、兄の口封じをおそれて逐電してしまったのでわからない。だから、わたしはもうひとつの可能性に賭けるしかなくなった」
「それは、まさか?」
孔明は、勘の良い董和を誉めるように、にっこりと明るく笑って見せた。
 「そう、九門古城です。『得れば天下を取れる宝』というのは、不老不死を生み出す秘薬のことなのですよ」

十七話へつづく…
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