捜神三国志・燭龍本紀
第十五話 人気のある囚人
復讐。
そのひと言が脳裏を駆けた。
董和は、この過剰なまでに気高い野生の駿馬の、その誇りの高さをかいかぶっていたことに気付いた。
常人と一緒に考えてよい男ではなかった。地上では手出しができない、などとタカをくくっていたのは誤りであった。馬超にとっては、平西将軍、という肩書きすら、自身を縛るものではない。馬超はおそらく成都でもっとも自由な男だろう。守るべきものをすべて失っているので、怖いものがない。つまり、かれを縛るものはなにもない、ということだ。ほかの武将や文官と、おなじ価値観をもって生きている人間なのではない。目指すところも、重きを成すところも、まったくちがっている。この男は、まぎれもない異邦人なのだ。異質でありつづけることが、馬超が馬超である証しなのである。
「ずいぶんつましい暮らしをしておるのだな」
馬超はそう言って笑いながら、董和の屋敷を見回す。その笑いも言葉も軽やかではあるが、目はつめたく鋭い。
地下の闇で、蝋燭の明かりに浮かび上がる馬超の姿も、輪郭があやふやな分だけ恐ろしげであったが、太陽の下にいる馬超は、輪郭が鮮明な分、精悍で力強く、とても敵いそうにない。伯岐は、勝ちはしなかったけれど、よくこの男相手に、引けを取らずに渡り合ったものである。ただし、昨夜の馬超は油断しきっていた。もしも、ふたたび張嶷と槍をかわすことがあれば、こんどは全力でやってくるだろう。
「わが仮住まいよりも小さくてみすぼらしい。それに女っ気がないな。わびしいことだ」
「大きなお世話だ」
「しかし、こんな生活をしていて、しかも免官になったとなれば、お上に背くことも考えるであろう。同情するぞ。だが、容赦はせぬ」
馬超はそう言うと、ぱちんと指を鳴らした。すると、背後に控えていた兵卒たちが、わらわらとあらわれて、董和を取り巻く。
「庶民の必需品、蝋燭を買い占め、その値を吊り上げたカドで逮捕する」
「莫迦な! わたしが蝋燭を買い占めた、などと、言いがかりもはなはだしい! 第一、どこに蝋燭がある。一家三人で暮らすに十分な分の蝋燭しかないぞ。探してみろ!」
董和が抗議するのを、馬超は、その精悍な男らしい美貌に、冷笑を浮かべて言う。
「この屋敷にはなにもないことはわかっておる。おまえは頭がよい。仲間の胡偉度に命じて、買い占めた蝋燭をべつな場所に隠した。そうして、値段を吊り上げた蝋燭を小出しにして儲けるつもりであったのだろう。田舎者はやることがせこい」
「嘘だ! だれがそのような」
「観念せい。法尚書令が胡偉度を捕らえ、取り調べたところ、すべて喋ったぞ」
「胡偉度が…!」
董和は愕然とするしかない。そうして、胡偉度を捕らえ、取り調べたのが、馬超ではなく、法正、ということに、また愕然とする。
馬超は益州方と結んだのだ。益州人士の頂点をきわめた法正には、怖いものなどなにもない。諸葛孔明も、劉備も、法正の暴虐を止める手立てがない有りさまだ。実質上の成都の支配者。その法正と、あろうことか…
董和の脳裏に、忌々しい、青白い顔をした策士の顔が浮かんだ。張大人。孔明が賄賂で動かぬ、と見てとって、すぐさま舵をきりかえて、法正におもねったのだ。
成り行き上、董和は九門古城に潜ることになったのだが、張大人としては、董和にはなんの期待もしていない。むしろ、かつての仇敵が足元をうろうろしているので、目障りなくらいなのだ。いつでも機会があったら切り捨てる。そう思っていたにちがいない。そうして、その機会は思いのほか、早くやってきた。
「縄を打て」
馬超の合図と共に、兵士たちが董和を押さえつけ、縄をかけていく。董和はそれを黙って受けた。だが、真っすぐと、目の前で冷笑を浮かべ続ける馬超を見据えていた。馬超は、それを平然と受け止めていた。董和は、それでも、その人性を底の底まで見通さん、という気概でその目を見据えつづけた。徐々に、馬超の顔から笑みが消えていった。
後ろ手に縛られ、身動きができなくなっても、董和は馬超を見据えていた。そうして、言った。
「堕ちたな、馬孟起」
その言葉に、馬超はきつく眉根をしかめる。
「なんだと?」
「涼州の雄が、あろうことか益州のキツネ如きに操られ、さもおのれの意思で天下を動かしているような錯覚をおぼえているとはな。これを堕落といわずしてなにを堕落といおうか」
「…負け犬の遠吠えにしか聞こえぬが?」
「それすら気付かない、というのであれば、むしろ哀れなり。同情するぞ。おまえはこの地で腐って死ぬだろう」
馬超は、なにも言わず、拳を振り上げると、縛られて動けない董和の横っ面を殴りつけた。董和は反動で、地面に倒れこむ。唇を切ったらしい。口の中に、生暖かい官職がひろがる。それでも董和は目だけは、敢然と馬超を睨み続けていた。馬超の顔は怒りに歪んで、赤黒くなっている。そうして、兵卒たちに叫んだ。
「このじじいを連れて行け!」
兵卒たちは董和を起き上がらせると、屋敷の外へと連れ出した。
屋敷の外には、息を切らせ、滂沱と涙をながすじいやと、じいやがあわてて呼んできた、長星橋の面々があつまっていた。長星橋だけではない。近在の、董和を慕うひとびとが、董和の逮捕の知らせをうけて、なにかのまちがいであろうと、飛んできたのであった。
その中には、晴嬰の姿もあった。晴嬰は、董和があらわれると、すぐさま、兵卒たちの先頭に立っている馬超に食って掛かった。
「いったい、そのお方がなにをしたって言うんだい! ちゃんと調べておくれ、そのお方は、こんなふうに縄に繋がれるようなことはなにひとつしちゃいないよ!」
馬超は女に弱い。晴嬰をなだめるべく口を開こうとしたところへ、ほかの長星橋の面々が、はげしい野次を飛ばし始めた。
「そうだ、ふざけるな、よそ者! おれたちの町を征服するだけじゃ飽きたらねぇっていうのか、コンチキショウ! おまえなんぞ、おとなしく厩番でもしてろい!」
「幼宰さまを離して、とっとと失せろ、尚書令の犬!」
「なにが鬼神だ、この欲ぼけ野郎! 尚書令にいくら貰った!」
野次はどんどん激しさを増し、たがいの言葉にあおられるようにして、長星橋の面々ほか、あつまった人々は、馬超をじりじりと取り囲んでいく。敵の兵士たちに囲まれるのとは、まったくちがった感覚があるのだろう。徒手空拳の民衆に取り囲まれ、容赦なく罵られることなど、これまでの馬超は経験したことがなかったにちがいない。
はじめは、余裕の表情すら浮かべて、かれらの言葉を聞き流していたが、徐々に我慢が気かなくなってきたのだろう。さらに加えて、野次の内容は、どれも的を射たもので、多少の誤解はあれど、成都の民の気持ちを正直に代弁しているものであった。馬超の表情が、見る間に冷たいものに変貌していく。拳がぎゅっと力をこめて握られる。
いかん。董和は腫れてきた頬の痛みを堪えつつ、叫んだ。
「みな、鎮まれい!」
その鋭い一喝に、その場の全員がぴたりと静まった。
「おまえたちの言うとおり、この逮捕はなにかの間違いだ。わたしは、これより馬超殿とともに、誤解を解きに、宮城へ行ってまいる。ただそれだけのことぞ。騒ぐでない」
「でも、幼宰さま」
と、晴嬰が、反駁しようとするのを、董和は止めた。
「大事無い。すぐに戻る」
さきほどまで、罵詈雑言の嵐であった場は、とたん、すすり泣き、悔し泣きに包まれた。
董和を引っ立てる兵卒たちは、罵詈雑言を浴びせかけられるよりむしろ居心地がわるそうにして、歩くようにと董和をうながす。
それは馬超もおなじで、屋敷にあらわれたときの、あの傲岸不遜な態度は消えうせ、そのかわり、思い詰めたような、暗い表情となっていた。
董和は首枷のついた罪人用の牛車に乗せられて、街中に引き立てられた。
罪人がやってくる、というので、いつもどおり成都の子供たちは、董和の馬車に石を投げようとするのであるが、すぐさま大人たちが子供に寄っていき、石を取り上げた。
罪人に浴びせられる野次はひとつもなく、むしろ、にぎやかであった往来は、董和の馬車があらわれると、ぴたりと静まり返り、民衆は、無言のまま、その行方を見守った。罪人を傷つけ、からかうために追いかけてくる者はだれひとりとしてなく、董和の悄然とした姿に、ひとびとは言葉を無くし、ただ沈黙して見送るだけであった。
むしろ、見世物になっているのは馬超たちのほうであった。
たまに浴びせかけられる冷たい言葉、野次や罵りは、董和にではなく、馬超に向けられている。
それぞれ識別のつく、個人からの言葉であれば、馬超は容赦なく、罵り、誇りを傷つけた者へ向かって行っただろう。だが、いまはそうではない。有象無象の群集、という得体の知れない大きな塊が、こぞって馬超に敵意をあらわしているのだ。無数の刃をつきたてられているのであれば、馬超は戦意を燃やせる。しかし、いま向けられているのは、背中にぴたりと押し付けられるような、氷のように冷たい敵意であった。
「道を急ぐぞ。なぜ、大回りをするのだ」
馬超が兵卒の頭に言うと、その兵卒も、馬超とおなじ居心地のわるさを感じているのだろう。表情をくもらせ、答える。
「法尚書令さまのご命令でございます。なるべく成都中を回ってから、帰ってくるように、と」
「愚かな」
馬超はそれだけ言うと、無言のまま、おのれの馬の足を速めた。兵卒たちは、馬超の行動に、むしろほっとして、おなじく牛車の足を速めた。
董和はというと、流れる風景が速度を増したのを感じながら、人々が、自分にこれほど思いを寄せてくれていることに、胸を熱くした。腐敗しきった世の中を憎み、ときには豪族たちだけではなく、無為に事なかれ主義に走る民衆を恨んだこともあった。逆に、誤解をされて、民衆から恨まれたこともある。しかし、董和はやはり、成都の民にとっては、なくてはならない存在であったのだ。行き過ぎるひとびとの目が、これは何かのまちがいだ、と訴えている。
董和は、これから先のおのれの運命を思うと暗然としたが、しかし、いかな逆境にあろうと、おのれに思いを寄せてくれる民のために、かならず生き抜いてやろうと心に誓った。
長い行程をへて、董和は獄舎にたどりついた。
出迎えにあらわれたのは、ほかならぬ、尚書令・法孝直である。
以前に董和が会ったときよりも、すこし太った様子である。しかし、その太り具合は、贅沢で太ったふうではなく、むしろなにか病を得て、浮腫んでいるようにも見えた。神経質そうな尖ったあごに、見事に整えられた光沢のある泥鰌髯を持っている。
法正は、片側の頬がぷっくりと膨れた董和の顔を満足そうに眺めた。
その、人を人とも思わぬ目に、董和は、はげしい怒りと共に、吐き気すらおぼえた。法正とは、董和はあまり親しくなかったものの、高い能力がありながらも、おなじく劉璋から疎まれていた、という立場が共通していたので、董和は免官になるまでは、法正にすくなからず親近感を抱いていた。
しかし法正はそうは思っていなかったようである。法正という人物、学識もさることながら、人の機微を捕らえるのがうまく、ちょっとの隙をついて、足をすくい、ねじふせる、といった手腕に長けていた。眼力のすばらしさは、不遇であったがゆえに、逆に磨かれたものであろう。
そうして、法正は、董和が躓いたのを見逃さなかった。いままでは、実績だけではなく、高い名声を誇り、民から絶大な信頼を寄せられている董和に対し、法正は、ほかの旧劉璋の家臣にしたように、闇討ち同然に捕らえて、一族もろとも皆殺しにすることができなかったのだ。
法正は、とっくりとなぶるように董和をながめやったあと、白々しく罪状を読みあげた。
そうして、うしろに控えた役人に、引っ立てるように合図する。
その顔ぶれを見て、董和は愕然とした。
取調べをする刑吏ではなかった。あらわれたのは、獄卒である。それも、拷問を得意とする連中であった。
「わたしの取調べはしないのか」
董和が抗議の声をあげると、法正は、キツネにも似た顔に、冷笑を浮かべた。
「する必要もあるまい。胡偉度がすべて吐いたのだ」
「なにかの間違いだ! 胡偉度に会わせてくれ!」
董和が叫ぶと、法正は、ますます酷薄な笑みを濃くして、傍らにいる獄卒と、意味ありげな目線をかわす。とたん、董和の背筋を冷たいものが走った。まさか、すでに胡偉度は、拷問によって息絶えてしまったのではないか?
「引っ立てよ。成都の民の信頼を裏切った罪は重い。まずは鞭打ち50杖の刑をあたえる」
たんたんとした法正の言葉に、蹴り飛ばされたような錯覚を、董和はおぼえた。
鞭打ちが二十回を越えるまで、董和は三回も気絶した。
全身を火にくべられたような、じっとしていられないほどの痛みであった。
最後に気絶したときに、何度目かの水をかけられる。水が傷口にしみるので、いても立っても居られないのであるが、しかし熱がすこしは冷える感覚があるため、傷口に痛みが届くまでのわずかな間だけは、心地よいのであった。
背中の肉が裂けてしまったに違いない、と思ったが、あとから様子を確認しにやってきた法正が、なまぬるい、とこぼしていたので、ほかの囚人よりは、手加減をされた様子であった。そのころには、董和の意識は朦朧として、法正の姿をみとめることもできなかった。法正は、痛めつけられた董和の姿を見るために、わざわざ忙しい合間をぬって、刑場にやってきたのだ。この執念深さは、敵に回すと厄介であるが、味方であれば、おおいに恃みになるだろう。これほど徹底して、政敵を駆逐してくれるのであれば、それを使う者には、便利なことこのうえない。劉備が、法正を重用しているのも、単に益州入りに功績があったから、というだけではないはずだ。
劉璋のもとでは冷遇されつづけ、能力がありながら、豪族というだけの無能な輩の下に置かれていた、その境遇に拠る、というだけではあるまい。それを言うならば、董和とて、さほど境遇に変わりはない。
むしろ董和は、劉備がやってくるまでは、法正という男に好感を持っていたのだ。
法正は、劉璋に冷遇されてはいたが、それでも、その才はずば抜けていた。単に仕事ができる、というだけではない。さまざまな人間の意見をじょうずにまとめあげ、ひとつの大きなちからにして、世を動かすことにつけては、法正の右に出るものはいなかった。劉璋や、怠惰な豪族たちにうとまれたのは、その才能が、あまりに目立ちすぎたからである。
機会がなくて、深い会話をすることはなかったけれど、一度、おなじ仕事をしてみたいものだとすら、思った相手であった。
権力が、法正という男を、これほどまでに残虐にさせているのか、それとも、もともとの残虐な性格が、敵がいなくなったのであからさまに表に出てきたのか、それは董和には判断できない。
刑吏に、鞭打ちをつづけるようにとせかす法正の声が遠くで聞こえる。なにしろ、痛みと熱のために、耳もほとんど塞がってしまっている状態なのだ。
董和にとって幸いであったのは、董和の鞭打ちを執行する係りとなった刑吏が、顔馴染みであったことである。刑吏は、法正に、これ以上つづけたら、董幼宰もお年ですから、死んでしまうかもしれません、と言った。それが、特に庇う口調でもなく、あくまで毎日囚人を相手にしている男のことばであったので、法正も納得したらしい。いま死なせるとまずい、と誰に憚ることなく法正は本音をこぼし、董和を牢に入れるように指示した。
一人では歩けなかったので、両脇を獄吏たちに抱えられる形となった。さすがに牢までは法正もついてこない。
牢へむかう道すがら、後ろからついてきた件の刑吏が、聞こえないように董和にささやいた。
「ご辛抱ください、表では、あなたさまが逮捕されたと聞いて、民があつまってきております。これはいかな尚書令さまでも無視できませぬ」
「民…か」
「民だけではございませぬ、幼宰さまを慕う官吏たちもあつまって、此度の逮捕には不透明なところがある、と上奏されたとか。費伯仁さまが先頭に立って、皆様に運動をされている様子です」
董和はそれを聞き、泣き出したくなった。費伯仁とて、劉璋の姻戚。自分が逮捕されたいまとなっては、目立つ行動をすれば、どんなささいな理由で連座となるかわからない。費伯仁はそうと知りながら、董和の救出のために動いているのである。
「わたくしも、此度の件は、なにかの間違い…いえ、罠にちがいないと思っております。ほかの者もみなそう思っております。しかしお許しください、われらとて、尚書令のご意向に逆らうことができませぬ」
鞭打ちには、鞭によって徐々に肉を刻まれていくおそろしさがある。傷が元で、回数に達しないまま、死んでしまう者すらあるのだ。鞭を二十回も喰らいながら、それでも肉が裂けていないのは、刑吏のことばどおり、役人たちが、表向きは命令どおりにして、しかし実は董和を庇っているからであった。
「われらに出来ることは、これくらいしかございませぬ」
「すまぬ」
搾り出すようにして、董和はそれだけ言った。
痛みのために凶悪になる心と、それでも董和を董和たらしめている矜持を失うまい、とする気高い心とが、浪のように交互にあらわれては消える。
胸を法正への恨みだけにしてしまえば、おのれを見失うばかりではない、いまおのれを取り巻いている、すべてを冷静に見ることができなくなってしまう。
九門古城。すべての原因はそこにあるのだ。
董和に古城を入ることを許していた張大人が、たった一晩で、なぜ急に考えを翻して、法正におもねり、董和を売ったのか。
董和が古城に潜った日、祝融たちが動かした仕掛けのせいで、一時、古城は道を塞がれた。閉じ込められた盗賊たちを、別の門から入ってきた馬超と彭恙が虐殺…これが董和の知る限りの昨夜の古城の様子である。
そうではない、というのか?
九門古城の地図は、盗賊の陳勝と張大人が、その入り口の利権をあらそった際に燃やされている。
だから、盗賊たちをはじめ、古城に潜る人間は、か細い蝋燭の明かりだけを頼りに、闇の中をあてずっぽうに進まなくてはならない。
張大人は、その入り口を専有しているために、かれらの情報を一手に集めることの出来る立場にいる人間だ。もしかしたら、自分だけが知っていて、ほかのだれにも報せていない、重要な情報、というものを握っているのではないか。
祝融たちが仕掛けを動かしたので、道が閉ざされた、というのは本当だろうか。
あくまで、おのおのの言い分をうまくくっつけただけの話に過ぎないではないか。
道が塞がったのは、べつの仕掛けを張大人たちが動かした、からではないのか。
なんのためか…そう、たとえば、『得れば必ず天下を取れる宝』が見つかった、とか。
牢に入れられた董和は、先客がいるのに気がついた。ちょうど背中を董和に見せる形で、床に寝転がっていた。熟睡している犬のように手足を伸ばしている。
どうやら董和とおなじ、鞭打ちに処せられたらしい。
熱と痛みに歯を食いしばり、なんとか気を強く保とうとする董和であったが、こちらに背中を見せるその姿に見覚えがあった。董和は、いままで喰らったなかでも、いちばんはげしい衝撃を全身に受けたように思った。
「偉度!」
おのれの身体の痛みもかまわず、董和は横たわる胡偉度に這うようにして寄っていった。
董和が呼びかけても、胡偉度はぴくりともしない。気絶したその顔を見て、董和は怒りに言葉をうしなった。
鞭打ちだけではない、ひどく殴られたらしく、その顔は数倍にもぱんぱんに腫れあがり、よくよく見なければ、胡偉度その人とはわからないほどであった。
「なぜだ、なぜお前までが…!」
とっさに頭に浮かんだのは、胡偉度がつくっていた地図であった。ニセの地図がばれたのか? 第三の門のありかを吐かなかったので、拷問にかけられたのか。
これほどまでに人を殴って、それを放置できる、その容赦のなさと、裏に潜む傲慢、残虐さに、董和は、鞭で受けたおのれの傷を完全に忘れてしまうほどの怒りをおぼえた。おなじ心を持つ人間の仕業ではない、そう思った。
「水をくれ! 水を!」
董和が叫ぶと、のっそりと獄吏がやってきて、桶に水を運んできた。もっときれいな水を、と要望したが、獄吏はなにも言わず、桶を置いて、無言のまま去ってしまった。水を要望どおりに運んでもらえるだけ、ほかの囚人とちがうのだから、贅沢を言うな、とその背中は語っていた。
仕方なく、董和は、おのれの着物の、いちばんきれいなままの部分を裂いて、水をひたすと、腫れて熱を帯びている胡偉度の身体を冷ましてやった。
董和は、このまま胡偉度が死んでしまうことを恐れた。
なにもできず、また目の前の人間を失くすのか。その恐怖が、おのれの置かれている立場にたいする嘆き、おのれのうけた屈辱への怒りをはるかに超えた。董和は一心不乱に、胡偉度の身体を冷しつづけた。
一定の律動でもって痛みを刻む傷のせいで、目が覚めた。
董和は、いつしか眠っていた様子である。牢はすっかり闇につつまれ、どこからか、べつの囚人のいびきや歯軋りが聞こえてくる。
胡偉度を見ると、さきほどよりは腫れが引いているように見えた。とはいえ、その身体の熱は高い。
「死ぬな」
と、董和はぽつりとつぶやいた。
つぶやいて、悲しくなった。なぜ、自分がこんな目に遭わなくてはならないのか。
民のため、世の中に待っているだろう人のために、妻すら犠牲にして、恐怖と不安に張り詰めた日々を戦い抜いてきた。しかし、益州の主が代わったとたんに、あっさりと首を切られ、黒社会の闇に取り込まれ、いまは牢の中にいる。
兄や姉たちのことを思うと、いっそう、涙が出た。まさか、自慢の弟が、こんなふうに囚人になるなどと、夢にも思っていなかったにちがいない。かれらの驚きや、悲しむ姿を想像しただけで、董和はどうしようもなく悲しかった。一人息子の休昭のことも、じいやのことも、長星橋の住民も、晴嬰のことも、それぞれに思い出すたびに、涙があふれた。
つぎに、ふつふつと恐怖がこみあげてきた。
おのれの身の上がどうなるか、といった単純な恐怖ではない。残された人々の処遇についてである。
法正は苛烈な男だ。董和を掌中にしたいま、無用な反撃を食わないようにするために、きっと休昭も狙ってくるにちがいない。休昭だけではない。姉や兄たちにも、類が及ぶかもしれない。
董家が潰される。
現世においての不孝というだけではない。祖霊に対しても、これほどの不孝はない。
なぜ、などと過去を振り返ってもはじまらない。自分は董家を代表する人間であり、一族のために、いま、なにをすべきなのか…
ふと、鼻腔を甘美な香りが刺激した。
汚物とカビの臭いしかしない牢には、そぐわない高級な薫物のかおりである。
その香りにつられるようにして頭をめぐらせると、いつのまにか、牢の前に椅子ほどの高さのある木箱が置かれている。そうして、そこには細長い輪郭を持つ人が座っていた。
「こんばんは」
と、その声は、闇をはばかるように、ちいさく、ささやくように発せられた。まるで街中で声をかけられたような、揶揄も、過剰な同情もない声であった。
木箱のとなりには、ちいさな紙燭が置かれている。揺れる明かりに浮かび上がるその姿を見て、董和はおおいに戸惑った。昼間、人の庭に勝手に入り込んだ男が、今度は夜、勝手に牢に押しかけてきた。
あいもかわらず、煌びやかな男である。昼間とはちがう衣裳を纏っているのは、ここが牢だということを意識してのことらしい。董和とは対照的な、その頭の天辺からつま先にいたるまで、傷ひとつないきれいな姿に、董和は苛立ちと怒りを同時に抱いた。
「ひやかしに来たのならば、早々に帰られよ」
「帰るなどと、とんでもない。千載一遇の機会を逃すわけにはまりませぬ」
「なんだと?」
董和が問うと、孔明は、牢にふさわしからぬ親しげな笑みをにっこりと浮かべ、答えた。
「取引に参りました。あなたを、ここから助けてさしあげます」