捜神三国志・燭龍本紀
第十四話 南充国の勇者、煩悶す。
夜、というのは神秘的なものだ。
世界のすべての事物を闇に閉ざし、星明りと月光が、その輪郭だけを浮かび上がらせる。世界がひどく単純な輪郭だけとなるのだ。
第三の門のあった林をおとずれた張嶷は、夜とはまったくちがう、林の周辺の様相に、おどろいた。
夜には、第三の門の壮大な仕掛けに肝をぬかれ、その周囲が闇に閉ざされていたこともあり、林があり、門を守るように、護符の貼られた奇岩がならび、雑草だらけの野原のなかに、ぽつりと小屋がある、というふうに見えていた。
しかし、門の周囲は、昼間はまったくちがう顔を見せていた。
闇に聳えていた杉の木は、やはり天をつくほどの大きさで、神政門の周囲にある家々との壁の役目を果たしている。野原には、どこにでもある雑草がびっしり生えており、そのなかに、岩同士でひそひそ話をしているような形で、奇岩がある。
そこがまさか、地下にひろがる大迷路の入り口だとは、だれも思うまい。
と、いうのも、門は近所の子供たちの、格好の遊び場になっていたからだった。
あの門の仕掛けを知っている張嶷は、無邪気に戦ごっこをして遊ぶ子供たちから、目が離せない。
子供たちは、劉備と劉璋に分かれて戦っている。見たところ、劉備が「良いもの」で、劉璋が「悪いもの」となっているらしい。子供の世界においても、成都を制圧してから間もない劉備のほうに心が傾けられていることに、張嶷は苦笑した。劉璋という男、ここまで人望がなかったのか。
赤頭巾は、とぼとぼと馬に乗っているうちに、仕掛けの作動した門から落ちて、九門古城に入り込んだのだ。調べてみないとわからないが、門には、門を開くための仕掛けがある。それは偶然にだれかが踏んでしまったら、簡単に開いてしまうような単純なものなのだ。子供たちが、なにかのはずみでそれを踏んでしまわない、とは限らない。注意すべきか、否か。はらはらしていると、近在の民家の女将らしい女が子供たちに寄って行く。
「これ! ここで遊んではならんと何度注意すればわかるのです!」
女の怒鳴り声に、子供たちはきゃあきゃあと歓声をあげながら、岩から降りる。
「この岩は、神さまが置いた、大切なものなのです。そんな土足で、上がってはなりません!」
鼻をたらした子供のひとりが、無邪気に女に尋ねた。
「おばさん、神さまって、どこの神さま?」
女将は、腰に手を当てた不動の姿勢で、気まずさを、笑って誤魔化している子供たちを見下ろしている。
「その名前を口にしてはいけない、古い神さまです」
「名無しの神さんかあ」
と、子供が生意気な口をきくと、女将の拳が子供の頭に落ちた。ごん、という鈍い音が、張嶷のいる場所からも聞こえた。
「無礼な口をきくでない! この神さまは、巴蜀をお守りくださる、大切な神さまなのです! ほかの土地では、大きな戦乱が起こっているのに、この成都が焼けたことがないのは、神さまがお守りくださっているからなのですよ。さあ、神さまに謝りなさい!」
女将に言われ、子供たちは、半信半疑といった顔ながら、岩にむかって、ごめんなさい、と頭を下げた。
「よろしい。さあ、よそへ行って遊びなさい。ここは神聖な場所なのです。玄女さまのお住まいでもあるのですからね」
と、女将は小屋のほうを向いた。子供たちも、合わせて小屋を見る。杉の木の幹の横にたたずむ張嶷も、その声につられるようにして、小屋のほうを見た。
「おっかない婆さんの小屋だ」
と、子供がつぶやくと、女将がふたたび、厳しい眼差しを子供たちに向けた。とたん、子供は姿勢を正し、恐縮する。
「近頃の子供はどういう育ち方をしているのだろう。巫女さまにそんな口を利くなんて」
「だって、あの婆さんの顔、見たことある? 疣蛙みたいな顔だったよ」
「あんたたちは子供だからわからないでしょうけれど、巫女さまがあのようなお姿になられたのは、神さまのご託宣を受けるためなのですよ。まったくバチあたりな。さあ、わかったなら、もうここで遊んじゃなりません。よいですね?」
「でもおばさん、いつもおれたちが遊んでいる広場に、おっかない兵士たちがあつまっていて、遊ぶところがないんだよ」
「まあ…荊州の兵士たちのことね。人殺しとやらは、まだ捕まってないのかしら。おそろしい」
ひとりごちる女将に、子供たちは不満そうな顔を向ける。そうして、女将は仕方ない、といったふうにため息をついた。
「それじゃあ、あたしの家においで。ここよりは狭いけれど、やんちゃをしないと約束できるなら、ちょっと遊ぶくらいの広さはあるから」
子供たちは、わあい、と歓声をあげると、女将と一緒に立ち去って行った。
張嶷は、ほっとして、女将と子供たちが立ち去るのを見送った。
そして、小屋のほうを見る。この土地の景色で、なにより夜とちがうのは、巫女がいる、という小屋に立ち並ぶ、人々の姿である。
樵夫の小屋ではなかった。小屋の入り口には、老若男女関係なく、手にそれぞれ野菜だの肉だの、あるいはなんらかの貢物を手にした人々が、列を成しているのだ。
巫女か、と張嶷は、別の想いにとらわれ、心のなかでつぶやく。
女将の話からすれば、この小屋に住む巫女は『玄女』という、容姿の醜悪な女らしい。
神の置いたという伝説の残る奇岩…第三の門。そして巫女。
成都の民からは忘れ去られていた九門古城の痕跡が、門の周囲には、わずかに残っていた、ということか。
第三の門の入り口に、だれかを待つように刺さっていた蒼い宝剣。そしてその名を口にしてはならない神。その神の名を探ることができたら、九門古城が、だれによって、なんのために建造されたのか、その謎がいくらか解けるかもしれない。
それにしても…
張嶷は、絶えることのないない、小屋の前の列にあきれる。
成都だけではなく、巴蜀の人間は迷信深い。なにかと巫女だの占い師だのにご託宣をうかがいに行く。
もっとも、なにやら理解不能な、不可思議な力に恵まれている人間も多いのも事実である。険阻な山々に囲まれ、太陽のろくに顔を見せない土地柄もあるのだろうか。たしかに霧の多い日などは、白い帳の中から、なにが現われてもおかしくないような雰囲気がある。
小屋の中にいるのも、成都にあまたいる、近在の者たちの、ちいさな信仰をあつめている巫女のひとりだろう。
門にまつわる言い伝えが聞けるかもしれない。それに、張嶷自身に、成都の巫女、というのがどんなものなのか、という興味があった。
列の最後尾にならぶと、手前にいた男が、怪訝そうに振り向いた。下級官吏らしい。冠や沓が真新しいのを見ると、劉備に政権がゆずられてから、日の目を見ることのできた男であろう。年の頃は四十半ばくらい。董和とおなじ年頃だ。服装は立派であるが、どこか衣裳負けしていないこともない。
「失礼だが、お手前は、なにもお持ちではないので?」
うん? と張嶷が首をかしげると、男は、それはいかん、と大げさに顔をしかめた。
「なにも持たずに玄女さまのもとにやってくるとは、無礼ですぞ。たしかに玄女さまは、貢物などなにも要らぬとおっしゃってくださっていますが、その言葉をそのまま鵜呑みにするとは、愚の骨頂。いかん。いますぐ、野菜でもなんでもよろしい、貢物を持ってからお並びなさい」
たしかに、列に並ぶ人間のなかで、手ぶらなのは張嶷だけであった。いまから、董和の屋敷にとって返し、なにか借りてこようか? とはいっても、免官となった董和のつましい暮らしを思うと、切り出せない話題である。困った。仕方ないから、張大人から、ちいさな仕事を請け負って、金を作ってこようか?
張嶷が困っているのを見かねたのか、男は、手にしていた包みから、おおきな白菜をひとつ取り出すと、張嶷に差し出してきた。
「巫女さまは、おのれに余る物資は、惜しみなく困窮する者に与えよ、とおっしゃった。今回だけだぞ。ありがたく受け取れ」
「すまぬ」
大きな白菜を受け取り、張嶷はふたたび列につづいた。すると、男は振り返って、言う。
「で?」
「で、とは?」
「なぜ玄女さまに会いに来たのだね」
「なぜ、貴殿にそれを教えねばならぬ」
張嶷が不服を鳴らすと、男は、張嶷の抱える白菜を、つんつんと突付いた。仕方ない。
「…聞きたいことがあるのだ。そう、仕事のことでな」
まちがってはいない。張嶷は董和に雇われている、という体裁をとっている。
「左様か。では、儂と一緒じゃな」
「ほう? ここの巫女は当たるのか?」
「あたるのか、とは無礼じゃな。そなた、どこから来た?」
「南充国からだ」
すると男は、またおおげさに目を剥いて見せた。
「ほほう、それはまた、ずいぶん遠方から来たものだな。そんな田舎にまで巫女さまのお名前が広まっているとは、こりゃあ成都の民として誇り高いことじゃ」
男は、まるで自分のことのように、満足そうにうんうん、と頷く。
「玄女さま、というのは、ずいぶん人望のある方のようだな」
「そりゃあそうじゃ。この方のご託宣はすばらしいぞ。失せ物、待ち人、これからの運勢から、方角の良し悪しまで、すべてぴたりと当ててしまわれるのだ。ちなみに儂の出世も当ててくださった。あわてて疎開しなくて正解だったぞ。儂が以前に勤めていた役所というのは、ある一族が牛耳っているところでな、その一族の血縁でないと、出世が出来ないというほどであったのだ。儂は官を辞すかどうか迷っていた。連中に卑屈に腰をかがめて、おべっかを使う生活に飽き飽きしておったのじゃ。すると巫女さまは、やがて成都の天命がひっくりかえるゆえ、それまで辛抱しろとおっしゃった。はて、なんのことじゃと思っていたが、そこへ、いまの主公が攻めてきた。おかげで政権が交代し、儂の出世を邪魔した一族は、法尚書令によって処刑された。いやあ、近来、これほどに胸のすくことはなかったぞ」
と、男は呵呵大笑する。董和などは、法正のやり口が、あまりに狭量で苛烈にすぎる、と腹をたてていたが、こういうふうに、よい目に遭って、喜んでいるものもいるのだな、と張嶷は戸惑いつつも感心した。すべての物事には、裏と表がある、ということか。
男はおしゃべり好きで、長い列に並び続けるのに、飽きてもいたのだろう。
自分のあたらしい職場のこと、そこで働く同輩や上司のこと、生活が上向いたことで喜ぶ家族のことなどをつらつらと語った。その自慢話の合間合間に、張嶷のことを聞かれるので、張嶷は、当たり障りのないところで、てきとうに答を返していた。
すると…
「おや、なんじゃ?」
立て板に水、といったふうに喋り続けていた男であるが、ふとことばを切って、あらぬほうを見遣る。
張嶷もそれにあわせて目線を動かすと、遠方より、黒い装束を身にまとった何者かが、猛然とこちらに駆けてくる。
道の上を、豹のように俊敏に駆けるその黒装束の背後からは、馬が数騎、やはり勢いをつけて駆けてくる。兵士だ。
まるで狩を楽しんでいるかのように、馬上の兵士は奇声をあげている。その有り様も下品で嫌悪感を催すものであったが、おどろいたのは、逃げてくるのが昨夜、空き家を飛び出していった黒イの姫、祝融であることであった。
そうして、どんどん近づいてくる馬上の男を見て、張嶷の血は、一気に沸騰した。
彭恙、字を永年。ほかならぬ、昨夜、九門古城にて斬り合った男である。胡偉度のつくった火炎瓶にて身を焼かれ、勝負のつく前に、馬超の影に隠れた男だ。
「あ、こりゃいかん」
と、男は顔を曇らせた。
「どうした」
張嶷がたずねると、男は張嶷の背中に隠れるようにして、馬上の人物を指して言う。
「ありゃあ、治中従事の彭永年さまじゃ」
「知っているのか?」
「知っているもなにも…あの方は、儂らのあいだでも評判がわるくてのう。前の主公のときに、仲間から讒訴されて、労役囚にされた、といういわくつきの方じゃ。それを、龐統さまにうまく取り入って、労役囚から、治中従事にまで取り立てられたのじゃ。いまや飛ぶ鳥の勢いのお武家さまであるが、どうしたわけかのう、ときおり、おつむの具合が大丈夫なのかとおもうことがある」
「おつむの具合?」
「そうじゃ。主公や軍師将軍や尚書令さまにはよい顔をお見せになるが、目下や同等の者には、ひどく苛烈に当たるのじゃ。それも、相手に咎がある、という理由ではなく、目についた人間を、片端から苛めなければ気が済まない、といったふうでな。この間も、宮城の侍女をつかまえて、なにやら粗相をしたとかで、髪をいきなり捕まえて、こう」
と、男は髪を切り落とす仕草をした。
「女にとって、髪は命じゃ。たいへんな騒ぎとなってな、たまたまそこへ軍師将軍が居合わせたものだから、さあ大変。軍師将軍というのは、お手前はしらぬであろうが、ちょっと他にはいないような伶人なのじゃが、これが顔を真っ赤にしてな、あたりの空気が割けるのではないかというくらいに彭永年さまを怒鳴ってのう。だが、彭永年さまの図太いというか、すごいところは、軍師将軍に怒鳴られたあとも、平気な顔をして、男の癖に、細かいことを言ってくると笑って、まったく反省しておらぬことじゃ。儂らもさすがに、気味が悪くなったぞ。なにせ、いま、この成都で、軍師将軍と尚書令さまに逆らえる者などおらぬ。じゃが、彭永年さまは、まるでご自分が、あのお二方と同列に扱われていると信じきっておるのじゃ。なにか悪いことが起きねばよいが…」
男から話を聞くまでもなく、張嶷は、彭恙の眼差しに宿る、あの狂気を間近に見て、知っていた。
気遣いや思いやりの一切が、身のうちから消し飛んでいる、己れしか世の中に存在しないと思い込んでいる双眸をしていた。だからいかな盗賊とはいえ、相手を木石かなにかのように叩き潰し、まるで悪びれない。
あんなふうに、他者の心をないがしろに…まったくの心の無い物として見られるようにならなければ、あの武芸の粋に、達することはできないのか。
「どいておくれ!」
黒イの姫、祝融は、後方からどんどん迫り来る彭恙たちを気にしながら、ちょうど張嶷たちのいる場所へとまっすぐ向かってくる。彭恙たちは、甲高い奇声を上げながら、獲物を目指して、馬を走らせる。小屋の周囲には、たくさんの人がいるのであるから、このままの速度で馬を突っ込ませれば、どんなことになるのか想像がつきそうなものであるが、それすらできないらしい。
馬足はすこしもゆるまない。
はじめは、ぽかんと成り行きを見守っていた人々も、次第に、身の危険を感じ始めてきた。
張嶷は、この男は嫌いだ、と思った。
もともと、あまり他者に対し、好きだの嫌いだのといった色分けをしない男である。
だが、彭恙に対しては、はっきりと嫌悪を抱いた。ありとあらゆる周囲の人間を軽蔑し、おのれの主張ばかりを声高に叫ぶ。欲望のままに動き、周囲の迷惑や悲嘆に、まるで目もくれない。その生き様を、自由とか奔放、というふうに評することもできるかもしれない。しかし、自由であることの代償として、だれしも例外なく、すべて一人で責任を追う義務を要求される。自由という生き様は、つねに孤独と隣り合わせであり、厳しくつめたい生き様でもあるのだ。
彭恙は、そんなことを考えもしないだろう。
思いついたことすら、ないにちがいない。
張嶷は、そこに嫉妬に似た感情をおぼえている自分に気付き、さらに苛立つ。
張嶷は、なにもかも捨てて成都へやってきた。捨てざるを終えない状況に追い込まれたのだ。
押し付けられた自由というものほど、じつは不自由なものはない。築き上げてきたはずのものは、とたんに空っぽとなり、張嶷は、徒手空拳のまま、族父である張大人の評判を知りながらも、それを頼らねばならなかった。
宝にはまったく興味はなかったが、九門古城に潜ってみたいと思ったのも、張大人に頼らねばならない自分から解放されたかったから。
そして、もうひとつ。死んでも良い、と思っていた。
張嶷は、彭恙の、獣じみたしまりのない顔が近づいてくるにつれ、なぜ、自分がこれほどに、この男を嫌悪するのか、その理由を悟った。
この男は、あいつにそっくりだ。自分勝手で、自分の欲望にしか興味がなくて、人を思うままに引き回し、すこしも反省することなく、それでいて、人の喜びや幸せを、無神経に摘み取る、あいつ…義父に。
祝融が、張嶷の目の前にまでやってきた。額から汗を流し、炎のようなその眼差しには、逃げるだけの自分に対する怒りと、悔しさが燃えている。張嶷は感心した。誇り高い女である。追い立てられることの恐怖より、獣のように追いまわされることに対する怒りが先にある。
祝融は、列にならぶ人々のなかに張嶷の姿を見ると、はっとした顔になった。そうして、迷うように足踏みする。張嶷は、何も言わずに、祝融を背中に庇うと、手にした剣を静かに抜いた。
彭恙は、頭巾からこぼれる短髪を、もはや隠そうともせず、人の列めがけて突っ込んでくる。
昨夜の火傷のあとを隠すためか、半身は布をきつく巻いている。軽症であったとは思われないのに、一晩明ければ、もう馬上の人、というその体力には、感嘆すべきであろう。祝融たちを取り逃がし、くわえて董和たちに怪我を負わされ、なおかつ逃げられた、という恨みつらみが、彭恙を動かしているのだ。
人々は、兵士たちの襲撃におどろき、めいめいに逃げ出した。
それまで穏やかであった林間は、たちまち悲鳴と怒号に包まれた。
もっとも得意な得物である、槍を持っていなかったが、張嶷は怖じず、まっすぐと、やってくる彭恙を見据えた。羌族の馬であろうか。大きな馬身に、重い足音をひびかせる黒い駿馬にまたがっている。地上から見れば、騎馬に乗った兵士、というのは、怪物ほどに大きく見えるものである。まして、その頭上より繰り出される刃の重さ、鋭さは、地上で斬り合うことの比ではない。
来る。
張嶷は、振り下ろされる斧を、素早く弾き飛ばした。受け止めたのでは、斧の大きさ、重さに剣は負けてしまう。斧の斬り筋を見極められたのは、ひとえに張嶷の武術の才能ゆえである。間髪を置かずにニ撃目が襲ってくるのが横目に見えた。が、遅い。張嶷は、それは身をかがめてかわし、ふたたび彭恙が、おのれの脳天めがけて斧を打ち下ろすべく、振りあがるのを見た。
背後にいる祝融を突き飛ばし、頭上から振り下ろされる斧もかわす。ぶん、と空を切り裂く音だけがむなしい。
苛立った彭恙は雄たけびを上げる。興奮しきっているのか、もうその目は尋常な者のそれではない。欲に満ちた、獣のそれだ。狙いは、背後にいる黒イの姫であろう。
なんと醜悪な。
張嶷は、さらにはげしい嫌悪とともに、斧をふたたび持ち直す彭恙を見た。すべてが見通せる。九門古城では、狭い空間で、灯された蝋燭の、わずかな明かりだけが頼りであった。この白昼のもとでは、その切っ先も、彭恙の全身も、醜怪きわまる面貌も、すべてがあきらかだ。それに、遅い。錦馬超と渡り合った感覚がまだ残っている。あの電光石火の速さを誇る槍を相手にすることを考えれば、彭恙は、図体がでかいばかりで鈍かった。
斧を振り下ろすべく、彭恙が馬上で振りかぶる。
そうしたことで、正面ががら空きになる。片手は斧を奮い、片手は手綱をさばく。胸元を守るのは鎧のみ。そうして、むき出しになった咽喉もとは、なにも守る物がない。
速さでいえば、はるかに張嶷が勝っていた。張嶷のほうが若い、ということもあるが、彭恙は得物の重さを差し引いても鈍かった。おそらく、彭恙の手足を縛っているものは、ほかならぬ彭恙の欲望であり、欲望におもむくままに動いた結果…つまり、酒淫の結果がそのまま、命のやり取りをする場面でツケとして回ってきているのだ。
ためらいはない。張嶷は、地を蹴ると、つばめのような速さでもって刃を彭恙の咽喉もとへ突き出す。
手ごたえはあった。だが、浅い。張嶷は舌打ちをすると、刃を引き、ふたたび咽喉をえぐろうとした。
だが、相手もさるもの。彭恙は、また雄たけびをあげると、張嶷の脳天を叩き潰すべく、斧を振り下ろしてくる。
張嶷はとっさに剣を引き、斧をかわした。切っ先が、わずかに張嶷の頬を切った。つうっと、生暖かい筋が頬を流れるのを感じる。
と、小屋の前で列を成していた人々の声が、ひときわ高くなった。
つい、そちらのほうを見ると、なんと驚いたことに、あさましくも彭恙の部下たちが、巫女への供物をささげる人々にたいし、その供物を奪おうと、襲い掛かっているのであった。さきほど、白菜を張嶷に分けてくれた男の衣の背を、馬上から兵士が腕を伸ばして掴みあげ、引きずるようにして、手に持っている供物を取り上げる。そうして、持っていたのが白菜だとわかると、兵士は舌打ちして、放り投げるようにして男を突き放し、地面に打ち伏した男の背に、槍を突き立てた。
「貴様ら!」
張嶷の脳天を、はげしい怒りがつらぬいた。
男を兵士たちから助けようと動いた張嶷であるが、胸にある違和感に気付き、足が動かなくなる。
張嶷は、おのれの胸を見て、そこに信じられない光景を見た。
斧が、おのれの胸に深く突き刺さっている。
痛みも衝撃もない。ただ、驚きだけがある。
死。
その闇にも似た感覚を始めて身近に感じたとき、張嶷は、おのれがうろたえていることに気付き、哂った。
死んでしまってもかまわない、と思っていたはずなのに、実際に死を知覚すると、おののいている。死にたくない、まだ生きたいのだと。
驚きが薄まると、今度は熱が全身を侵した。
もはや痛み、などというひと言では片付けられない感覚である。灼熱が胸に深く突き刺さり、それが全身のありとあらゆる感覚を侵し、暴れまわっている。
「しっかり!」
気付くと、祝融が、斧に打ち倒される寸前のおのれの身体を、後ろから抱きとめてくれていた。炎にも似た眼差しが、はじめて弱気に揺れているのを見て、張嶷は、役に立てなかったな、とすまなく思った。
いつもそうなのだ。本当に守りたいものを守ることが出来ない。気の進まない手助けは上手にこなせるのに、いざ自分で動こうとなると、さっぱりうまく行かないのだ。
「死ね、下等な蛮どもめが!」
と、彭恙の声が頭上で響いた。なにかひとつでもいい、一言でもいい。この男に一矢報いてやりたい。おれは蛮なんかじゃない。おれは漢族だ。蛮なんぞであるものか。
心のうちで激しく叫びながら、朦朧とする意識の、ひどく冷めているところで、ああ、おれは、俺自身を裏切って死ぬのか、と嘆く自分がいる。差別されることを恐れて、周囲に嘘を突き通してきた。それが破綻し、故郷を逃げるようにして去った。ところが、この期に及んで、己自身をいちばん差別していたのは、己であったということに気付くとは。
「汚らわしい漢族の男め! 恥を知るがいい!」
祝融が、張嶷を抱きかかえたまま、激しく叫んだ。彭恙は、それを聞くや、おぞましい笑みを馬上から投げる。
「ふん、おまえはタダでは殺さぬ。たっぷりと、楽しませてもらわねば、この火傷の代価にならぬわ」
勝手なことを…と張嶷は思った。祝融を取り逃がし、その八つ当たりで盗賊たちを片っ端から殺していた男。そこへ董和たちに遭遇し、胡偉度の火炎瓶で身を焼かれた。自業自得ではないか。
せめて、この黒イの姫だけでも助けられないか。自分はもういい。この姫だけでも…
徐々に朦朧とする意識の向こうで、空を突き抜けるような呼子の音がした。
見ると、背後より槍を突きたてられてもなお、さきほどの男が、なんとか起き上がり、賢明に呼子を吹いているのであった。
そうか、あの男、督軍従事に類する職を拝命していたのだな、と張嶷はぼんやり思った。その呼子の甲高い音に、彭恙は苛立ち、呼子を吹き続ける男のほうへ馬首をめぐらす。
いかん。
動こうとする張嶷を、祝融が叱り飛ばした。
「動くのじゃない! 死にたいのかい!」
どうせ死ぬのだ。だが、ほかの者は助けたい。
そう言うつもりが、声にならない。もはや痛みは、ひとつの鼓動のようになり、絶え間なく押し寄せては、張嶷の身を、内側から打ち砕く。そうやって、張嶷のありとあらゆる感覚を奪いつつあった。五感がすべて失われたとき、死がやってくるのだろう。
ふと、耳鳴りのひどい耳朶を正気づけるように、重々しいひづめの音が遠くからやってくる。
うるんだ視界に、騎兵が駆けてくるのが見えた。その冠についた羽根飾りは白い…荊州兵。軍師将軍の直属の兵士たちだ。おそらく昨夜の人殺しを捜しているうちに、呼子の音を聞きつけたのだろう。馬上の彭恙が、やってくる荊州兵を見て、大きく舌打ちするのが見えた。
張嶷は、思うようにならない腕を動かし、おのれを支える祝融の手に伸ばした。そうして、力を振り絞って、いう。
「逃げろ…あいつらは、きっと貴女を奴と同じようにあつかう…」
「見損なわないでほしいね、出来るわけがないだろう、そんなこと!」
祝融は、間髪おかずに張嶷の言葉を否定した。
祝融は、さらになにかを続けようとしたらしいが、ふと、言葉を止める。
小屋の扉が開いたのだ。
そうして、そこには、色とりどりの古布で全身を覆った老婆がいた。背丈が子供ほどしかない、異様にちいさな老婆であった。老婆は張嶷のもとへとやってくる。張嶷も、老婆を見ていた。
無造作に巻かれた布から、わずかに双眸が覗いている。
不思議な目だ。金色の、蛇のような目をしているのに、恐ろしさはない。むしろ、どこか落ち着くような、穏やかさを讃えている。
「わたしの小屋へ」
と、老婆はくぐもった声で言った。
意外な申し出に、祝融も張嶷も返事をしないでいると、老婆はどう思ったのか、腕をさっと小屋のほうへ振って、さらに中に入るようにと促した。
張嶷はもう、自力では立てないでいたから、祝融に抱きかかえられるような形で、なんとか身を起こすと、老婆の先導に従い、小屋に向かった。立ち上がるとき、歩き出すとき、右足を出す、左足を出す…ふつうであればなんてことのない動作のひとつひとつが、はげしい熱と痛みを呼ぶ。わずかな振動にさえ、勘弁してくれと弱音を吐きたくなるほどだ。しかし言葉に出すこともできず、乾いた唇から、なさけないうめき声をあげるのがせいぜい。
祝融は、張嶷に肩を貸し、一歩一歩、はげましながら小屋へむかっていく。
そうして、なんとか小屋にたどり着いたときには、すでに張嶷の意識は朦朧とし、視界も靄がかかりつつあった。祝融は、小屋に入るなり、手近なもので、張嶷の手当てをはじめた。腕に覚えがあるばかりでなく、怪我人の介抱にも心得があるらしい。大量の血にも怖じることなく、てきぱきと手が動く。
開け放たれた扉の向こうで、駆けつけた荊州兵たちの声が聞こえる。
あの男は、無事だったろうか、と張嶷は考えた。荊州兵たちがあらわれたことで、場はますます混乱しているようだ。ひずめの音が、静寂を荒らしている。
荊州兵のひとりの、悲鳴にも似た声が上がった。誰かの名を呼んでいる。白菜をくれた、あの男の名であるらしい。とたん、大地を奮わせるような大音声が聞こえた。
「どういうことぞ、彭恙! この騒ぎの原因をすみやかに答えよ! 返答次第では、タダでは済まぬぞ!」
この声は、聞き覚えがある。昨夜、董和が会話をした、趙子龍のものだ。どうやら奴さんも、おれと一緒で、ほとんど眠らず、成都の町を回っているらしい。高名な長阪の英雄と、妙なところでおなじになったので、張嶷は思わず苦笑した。
趙雲の姿は見えないが、声だけで、周囲の肝を縮こませるのに十分な迫力を持っている。ところが、そうではない者がひとり。
彭恙だ。
彭恙は、鼻で笑うと、興奮に上ずった声のまま、答える。
「翊軍将軍ごときが、このおれにたいした口を利いてくれるではないか。貴様はこんなところに出張ってこないで、あの青瓢箪の犬でもしておればよい」
「なんだと?」
「犬には人の言葉がわからぬか。貴様ごときに、おれを呼び捨てにするいわれはない、とっとと失せろ、と言ったのだ。あの青書生のお守りでもしておれ!」
沈黙。
あれほど蜂の巣を突ついた騒ぎであったものが、ぴたりと静かになっている。いや、静かにならざるを得ないのだ。この異様な緊張感。小屋にて介抱を受けている張嶷でさえ、張り詰めた空気に身を縮ませた。
「いま貴様は、だれのことを罵った」
虎の唸り声のような低い声が、ぴんと張り詰めたなかに、響く。すさまじい殺気の籠められた声だ。だが彭恙は、図太いのか愚かなのか、揶揄することばを止めようとしない。
「犬は飼い主を謗られると怒るか。フン、悔しければ、龐軍師が戦死されたのをよいことに、その手柄をうまうまと横取りした、運がよいばかりの青二才に泣きつくがいい。荊州に置いてきぼりをくらって、あわてて追いかけてきた男なんぞに、このおれが御しきれるはずがないのだからな」
と、方法は嘲りをこめて呵呵大笑する。
その場面を目にすることの出来ない張嶷は、想像するしかできなかったが、それでも、趙雲の怒りが頂点に達したのを気配で感じた。
笑いをなぎ払うかのように、剣戟の音がはげしく響いた。
一合目、それから間髪をおかずに、二合、三合…なんという速さ。目にしなくても、音だけで、そのすさまじいまでの速さと鋭さ、重さがわかる。見たい。英雄と呼ばれる男の繰り出す槍というものを、死ぬ前に見てみたい。
身を起こそうとする張嶷に、祝融が悲鳴にも似た抗議の声をあげた。だが、かまわず張嶷は、開け放たれた扉へ這っていこうとする。もはや、あまりに出血がひどくなったため、痛みすらわからなくなってしまっているのだ。おそらくなにも感じなくなったときが、おしまいのときなのだろう。意外に楽なものではないか、などと考えつつ、張嶷は扉へむかう。
と、無情にも、扉はぱたりと閉じられた。
扉の前には、さきほどの、地元の民からは玄女と呼ばれている巫女がいる。
「武人の性というのは、救いがたいものがある。だが、おまえの場合は、ちと様子が違うようだ」
巫女のくぐもった声が、扉の向こうから聞こえる剣戟を消し去る。幾重にもまかれた布の向こうから聞こえてくるわりには、巫女の声は響きがよく、明瞭であった。
「おまえは死にとり憑かれている。死が、おまえにとって、もっとも望むものであれば、このまま天命に委ねよう。だが、おまえが生きたいと願うのであれば、助けてやらぬこともない」
どうやって助けるというのか。もう無駄なことだ。
その心の声が聞こえたのか、金色の光を宿す、不思議な色をした巫女の目が、にいっ、と笑った。
「わたしに出来ないことはない。とはいえ、おまえが、只人であれば、わたしの力は通じない。だが、九門古城の客であれば別だ」
なぜ知っている、というその言葉が、どうしてもしゃべれない。
もがくような格好になった張嶷に、巫女は同情したのか、さらに目を細めた。
※
諸葛孔明が去ったあと、董和は吹き抜けた風に、ぞくりと身を震わせた。
あの男と対決しなければならないのか。
わずかにも、あの男の心の内を読むことができなかった。いったい、何を考え、なんのために屋敷を訪れたのか。
気味の悪いほどに美麗な容姿、自身に満ち溢れた物腰、そしてなにより、あの双眸の異様なまでの輝き。孔明…はなはだ明るい、という名前をそのまま体現している男だ。民草の上に立ち、動かすためだけに生まれてきた男である。まさに眠れる竜の異名のごとく、そのうねりは天下を動かす。あまりに巨大すぎて、凡人では、その大きさすら量れない。
屋敷を売って欲しいなどと…とても本気とは思われない。
董和は、住み慣れたわが家を見つめた。
董和と、息子の休昭と、じいやの三人で、つましく暮らしてきたちいさな家である。こざっぱりとはしているが、なにも大金を積んでまでほしがるほどのものではない。この家は、董和の妻が、長星橋の解放的な空気が気に入って、住み着いたところである。董和も、激務のあいまに、休みのときなどは雨漏りを直したり、壁を塗りなおしたり、あるいは庭の手入れをしたりと、もうひとりの子供のように世話をしてきた。それに、この家には妻の思い出が詰まっている。成都の令を辞して僻地においやられていた間でも、この家を手放すのが忍びがたかったので、人をやとって管理させていたほどである。そうそうたやすく手放せる類いのものではないのだ。
ふと、感傷にふける董和のもとへ、じいやが、あたふたと駆け寄ってきた。
「旦那さま! 旦那さま!」
古くから、董和の家に仕えてくれた老爺である。めったなことでは動じないのであるが、それが、必死の形相になって、なにかを訴えてくる。伝えたいことがあるのだが、驚愕と焦りで主人に呼びかけることしかできない。そのことに焦れて、苛立っている。そんなふうに見えた。
「落ち着け。どうしたのだ」
董和が言うと、老爺は、董和に取りすがるようにして、腕を掴んだ。
「お早く! どうかお早くお逃げくださいませ!」
「逃げる?」
不穏な言葉に眉根をよせた董和の耳に、馬のいななきが届く。来訪者があるらしい。それも多数。
「じいは、間違いと存じております。じいだけではございませぬ。成都の民は、みなあなたさまのお味方でございます。どうかお早くお逃げくださいませ!」
「落ち着くのだ。いったい、何があったというのだ」
じいは、目に涙を浮かべつつ、叫んだ。
「法尚書令が、旦那さまを、市場の蝋燭を買い占めている咎にて、捕縛する、と!」
「莫迦な!」
思わず叫んだ董和であったが、それが冗談でもなんでもないことに、すぐ気付いた。案内も請わず、無礼にも屋敷を通り抜け、庭にあらわれた男…今日はそんな連中ばっかりだ…その男の姿を見て、董和は暗い面持ちで事態を悟った。なんということか。呑気にすぎた。
平西将軍・馬超は、小憎らしいほどの悠然とした笑みを向けて、董和に笑った。
「昨夜は世話になったな。邪魔をするぞ」