捜神三国志・燭龍本紀
第六話 赤頭巾さん、気をつけて
胡偉度が持ってきた蝋燭が、はじめて役に立った。それまでは、先に潜行していた盗賊たちや、張大人に雇われた人間が灯した蝋燭があったので、自前のものを使わないで済んでいたのだ。
「初日から、このような恐ろしい目に遭うとは…どうなされました、幼宰さま」
「馬将軍は、劉公を、玄徳と言ったな」
主公を字で呼び捨てにする、など考えられないことである。
いま、この世で劉備を呼び捨てに出来るのは、年長の親族と、曹操の庇護する皇帝くらいのものだ。
あるいは、敵国が、悪し様に名を挙げるときくらいか…
玄徳から、自由になるため、と馬超は言った。
なんということか、と董和は怒りと共におもう。
劉璋は、馬超が劉備に投降した、という報せを聞き、馬超の有する涼州兵が成都を襲うのならば、勝機はないと判断して、降伏を選んだのである。しかし、馬超は劉備に心服して降伏したのではない。これもやはり、欲得づくの帰順であった…
『なんという身勝手な男であろう。温厚な劉公とて、馬超が出奔の意思を持っていると知ったら、黙ってはおるまい。またも身内を犠牲にするつもりか』
志のために。
妻子を犠牲にして、復讐に赴き、
負けて、ふたたび、戦火を拡げ、一門の命を奪う結果を招いた…
ふと、董和の脳裏に、炎に巻かれる草原に立つ、若武者の姿が思い浮かんだ。
声もあげず、慟哭する男の姿が…
「おや、伯岐さん、どうなさいました?」
胡偉度の声に、董和は幻想をやぶられた。もともと、空想をよくする性質ではないのだが、闇の中で五感が研ぎ澄まされているからであろうか。
見ると、張嶷は、董和たちに背を向けて、じっとしている。が、様子がおかしい。肩を小刻みに震わせている。
董和と、胡偉度は顔を見合わせた。
張嶷は、泣いているのだ。
「伯岐、すまぬ、唐辛子がそれほどきつかったとは。私の水をやろう。口をすすげば、すこしは…」
「ちがう!」
張嶷は、流れる涙をぬぐおうともせず、振り返った。顔は涙でぐしゃぐしゃになっている。
「おれは悔しいのだ! ひとりでは…たったひとりでは、まったく敵わなかった。逃げることすらできなかっただろう…!」
相手が悪い、と言葉をかけるのは残酷だろう。董和は口をつぐみ、胡偉度はしゅん、としている。
「あんな強い男が…しかも二人! おれはどちらにも勝つことができなかったのだ!」
「それはちがいますよ、伯岐さん。もしわたしたちが工作をしないで、一対一になっていたら、きっとあなたが勝っていましたとも」
「気休めは止めてくれ…おれはいま、自分がいかに井の中の蛙であったかと思い知らされた…単騎で県長夫人の救出を果たした勇士…はっ、田舎の盗賊ごときを蹴散らした程度で、いい気になっていたとは、お笑い種だな」
「くだらぬ自己卑下はよすがよい!」
董和は、ぴしゃりと張嶷をたしなめた。
「結果的に勝てなかったからといって、なんだというのだ。われらは生き延びた。あの錦馬超を前にして、三人とも無傷で逃げられたのだぞ。そなたでなければ、防ぐことすらできなかった。馬超だぞ、馬超。あの曹操すら恐れさせ、豪傑張飛とも互角に闘った、馬超だ!」
「そうです、あの錦馬超ですよ。わたしたちを庇いつつ、無傷で逃げられたのは栄誉です」
「そうだろうか…」
「そうだとも。馬超と再び対峙したときには、互角…いや、勝利できるように、いまはここから脱出し、地上へ戻ることを考えよう」
やはり、そうなるのですよね、と胡偉度は明かりをかかげて、先を進む。
ようやく涙をぬぐった張嶷の肩を、息子にするように、肩を温かく叩くと、董和は胡偉度に言った。
「あまり先に行くな。なにがあるかわからぬぞ」
地図にない新しい空間、というので、盗賊たちが現われる心配がないと思っているのか、胡偉度は、大胆に前に進んでいく。
「盗賊たちにあらされていないせいか、きれいな空間ですねぇ。埃は積もっているけれど、まるで誰かがていねいに掃き清めていたみたいです。もしかしたら、怪我の功名で、お宝が見つかるかもしれませんよ」
「なにをのん気な…」
張大人の管理する入り口からの回廊が、だれかが動かした仕掛けによって、塞がってしまったのは痛かった。これで、確実に地上へ戻れる当てはなくなってしまったわけである。董和は、地図の空白に、隠し扉からの順路を書き加えた。
「張大人もあわてるであろうよ。それとも、いまごろ報告を受けて、あの壁を取り壊しにかかっているかな」
と、ようやく涙を完全におさめた張嶷が、さきほどの男泣きが嘘だったように淡々と言った。
「ここが、二階層目につづく階段とつながっているといいな。そうだと、盗賊たちに会う確率もへるだろう」
「うむ…それにしても、ほんとうにここは、なんのために作られた空間なのだろうな。始皇帝が地下に墓を作った、という話は耳にしたことがあるが、それが成都だとは」
「伯岐はこれが墓陵だと思うか?」
「死者が住むための宮殿として、地下にこれだけのものを建てたとしたらどうだ。豪族なども、墓室に生活用品を書いたりして、死んでからの生活が困らないようにするだろう?」
「筋は通っているが…いまひとつ釈然とせぬ」
董和は、天井に描かれた、巨大な神樹のレリーフを見上げた。樹を慕うようにして飛ぶ鳥たち。ところどころに描かれたその意匠には、『皇帝』という一個の人間に対する畏怖というよりも、もっと高度な存在にたいする、思慕、敬愛、といったものが感じ取れる。かつて、ここには何十人という職人がひしめいて、互いに腕を競っていたにちがいない。
先へ先へと進む胡偉度の襟を、張嶷が、ぐいっと掴んで引き戻した。ちょうど、襟元で咽喉仏をつぶされるかたちとなった胡偉度は、蟇蛙のような声をあげる。
「待て。炎の動きをよく見てみろ」
張嶷が指摘したとおり、先ほどまで、押されるようにして流れていた炎の先が、いまは、横からの風に揺れている。
九つの門のうち、不明な八つの門。うち、ひとつがここから近いのではないか。
ちょうど、道は突き当たりで、右と左に分かれていた。
「どちらへ行く?」
張嶷にうながされ、董和が指示をだす。
「風が吹いてくる方向だ。進もう」
董和たちは風の吹いてくる、左側の道を進んだ。とたん、壁は湿気を帯びてきた。地下水が染み出しているためか、壁のところどころは浸食され、崩れて、苔が蒸しているものさえあった。足元に、水溜りが幾重にもできている。水はどれも清く、濁りのないものであった。
やがて、鏡面のように平坦に整えられていた回廊の壁が、天然の岩のそれに変わった。どんどん先に進んでいくと、不意に目の前が大きくひらき、おおよそ城壁ほどの高さのある、見事な鍾乳洞にたどり着いた。董和らが足を踏み入れると、とたんにぱたぱたと蝙蝠が羽ばたいた。人の気配はない。
「御覧なされ、湖がございますぞ」
胡偉度が蝋燭をかかげると、前方に、たしかに見えた。その湖面はしんとして凍りつき、清澄な水をたたえている。そして水面に移すのは…
「月だ! 二番目の門ですぞ!」
たしかに、湖面の向こうにはぽっかりと外へむかった穴があり、そこから覗き込むようにしている月が見えた。湖面は、その月の姿を映しだしていたのである。思わず嘆息するほどに、神秘的な光景であった。
が、なぜだか董和はその光景に怖じた。湖にたどり着くまでには幾柱もの石が並んでいるのだが、それがちょうど人の背丈ほどで、まるで出口からやってくる敵を、ことごとく追い返そうと構える兵士の姿のように見えた。柱の表面に触れると、妙にざらざらとしている。明かりを近づけてよく見ると、それは塩なのであった。
「幼宰どの、ここは気持ちが悪い」
と、張嶷が素直に言った。こくり、と頷き、董和も同調する。最初に九門古城の入り口に入ったときと同様の恐怖を、ここにも感じる。だれもいないはずなのだが…
「ともかく、二番目の門を見つけたのだ。今宵の探索はここまでにして、地上へ戻ろう」
そうして、董和が水の中に足を入れようとすると、鋭い声がかかった。
「いけない!」
中年男の声であった。それは天井にこだまして、雷のように轟いて聞こえた。三人は仰天し、周囲を見回す。
しかし、四人目の姿はどこにもない。いまだ余韻をつけてわんわんとこだまする男の声に、蝙蝠が驚いて、ぱたぱたとはばたいている。
「何者だ!」
張嶷が、するどく誰何すると、間をおかず、男の返事がかえってきた。
「そういう、あんたたちは何者だい」
場に似合わぬ、穏やかな声が聞こえる。張嶷が、周囲を警戒しつつ、董和を見た。董和は、応えるように頷くと、姿なき四人目に声をかける。
「ご無礼つかまつった。わたしは前の益州太守、董和。字は幼宰と申すもの。ここにいるのは、張伯岐と、胡偉度。われらは、この九門古城に、ゆえあって宝を求めに参った。貴殿は何者か? お姿を見せられよ」
からから、と小石が頭上から落ちてきた。見上げると、無数の奇岩が蝋燭の明かりに浮かんでいる。
胡偉度が悲鳴をあげた。董和も思わず、低くうめき、張嶷は槍を構えなおした。
突如として、天井に、巨大な化け物があらわれた。それは六本もの手を持っており、いまにも襲い掛からんと、上空から三人を威嚇する。巨大な目玉は四つもあり、大きな鼻、耳まで裂けた口をして、まるで董和たちを哂っているようである。その指一本が、董和らの腕一本に匹敵する大きさだ。その醜怪な姿に、言葉をなくした董和であるが、よくよく見ると…
「ぎゃあ! 化け物!」
がらがら、と音がして、董和たちの背後で、なにかが石ころと共に落ちてきた。後ろを振り返って蝋燭で照らすと、そこには、ちょうどでんぐり返しの姿勢のままで、団子蟲のように丸まっている男の姿があった。頭から地面に落ちたので、顔はよくわからない。
「何者だ!」
張嶷が鋭い声をかけるものの、男は答えられる状態ではない。手足は衝撃でぴくぴくと動いているが、それ以上は、うんでもなければすんでもない。
「死んだのか?」
「頭から、血が流れております」
と、胡偉度は地面を照らす。たしかに岩肌にのめるように男の頭はあるが、赤く見えるのは血ではなく、男がかぶっている頭巾の色らしい。闇夜でもあきれるほどに目立つ、真紅の頭巾であった。
ぐう、と男がうめいた。どうやら意識がもどったらしい。男が転がり落ちてきた壁は、ちょうどまっすぐに筋が出来ていて、こんな不様な姿勢で落ちながら、よく首の骨の折らなかったものだと、董和は感心した。
胡偉度が助け起こそうとするのを、張嶷がつめたく言う。
「まず武器を取り上げろ。助けるのはそれからだ」
「怪我人にそれはありませぬぞ。それにほら、この御仁は武器など持っておりませぬ」
「九門古城に潜る者が、武器を持っていないことなどあるはずがない。落ちた弾みに、どこかへ飛んで行ってしまったのかも知れぬ」
「武人というものは、薄情なものでございますなあ」
と、胡偉度が抗議すると、張嶷は無言のまま、蝋燭を乱暴に奪い、ぴくぴくと痙攣している男の掌を闇に浮かびあがらせた。
「手を見ろ。剣を持つ者特有のタコができておる」
たしかに張嶷の言うとおり、その大きな手は、文人のそれではない。日に焼けたてのひらには、手綱を持ちつづけたために、黒ずんだあざがついており、ところどころマメも出来ていた。張嶷が、証明するように、自身の掌を胡偉度と董和に見せる。張嶷の掌にも、男とおなじところにマメができていた。
「ともかく、何者なのか正体を確かめねば。おれが手足を縛る。幼宰どの、頭巾をとってくれ」
張嶷はひっくり返った男を起き上がらせようと手を掛けた。
とたん、腰から海老のように折れ曲がっていた男の足が、しゃんと伸びて、そのまま、ぴょん、と起き上がり、さらに弾みをつけて、後ろへ一回転した。そうして、すこしずれた赤頭巾をあわててかぶりなおす。
「気が付いていたのか!」
張嶷が槍を構えると、男は徒手空拳ながらも、腰を落とし、それを受けようとする。
…が、張嶷のために足場を照らそうと胡偉度が蝋燭をかかげたとたんに、男はふたたび、悲鳴をあげた。
「ぎゃあ! うしろ! うしろにさっきの化け物が!」
「落ち着け、絵だ」
董和の声に、男は驚き、頭巾から覗かせた目をぱちくりとさせる。
「絵? 冗談だろう、なぜにこんなところに絵なんぞあるのだよ」
その言葉の響きで、董和は気づいた。あきらかに、蜀の人間とはちがう。北の人間の言葉だ。劉備とともに入蜀した、中原の人間だろうか。
「それにおまえたちは何者だ。でもって、ここはどこだ」
む? と張嶷と董和は顔を見合わせた。最初の質問は意味がわかるが、あとの質問はどういうことなのか。
「怪しいやつめ、なぜそのような頭巾をかぶっているのだ。さては、おまえも先ほどの彭恙や馬超らの仲間か」
赤頭巾は、拳を構えつつ、首をかしげる。
「だれの仲間、だって?」
「彭永年と、馬孟起の仲間か、と尋ねているのだ。しらばっくれても無駄だぞ、われらはつい先ほど、両人と刃を交えたばかりだ。おまえもあの二人同様に、九門古城の『得れば必ず天下をとれる宝』を狙っているのだろう!」
「おまえたちの言わんとすることはさっぱりわからぬ。ここは宮城なのか? 宮城は、いつから『九門古城』などと呼ばれるようになっちまったのだ」
「どうやら頭を強く打ちすぎたらしいな。白を切っても無駄だぞ。ここがどこだかわからずに迷い込んだというのではないだろうな」
「若い癖して威張ったヤツめ。そのとおりだと言ったらどうする」
「信用できるか!」
と、張嶷が攻撃をしようとする。もし彭恙や馬超の仲間であるならば、さきほどの雪辱を晴らそうというのだろう。その勢いと殺気に、赤頭巾のほうがあわてて、拳を解いた。
「待った! あんたは丸腰の人間を相手に、槍で勝負しようだなんていう、卑怯な真似をするのかい?」
張嶷の動きが、ぴたりと器用に止まった。
「いま、おれを卑怯、と言ったのか?」
「そうとも。よくわしを見るがいい。寸鉄も帯びていない人間に、槍で、しかも三人で襲ってくるなんて、卑怯のきわみではないか」
「む…たしかに」
素直な張嶷は、ゆるゆると槍を収める。男は、野犬をなだめるように、ひとつひとつ、言葉を選んで、言った。
「あんたたちは、どうやら話ができる人間のようだ。わしを襲うにしても、ちょっと話をしてからでも遅くないのではないかね?」
張嶷は、赤頭巾がおかしな振る舞いをしないように注意しながらも、目をちらちらと向けて、董和の指示を仰いできた。董和は頷き、一歩、前へ出る。
「そうおっしゃるのであれば、まず先に、貴殿の素顔を拝ませてくれぬか。頭巾をかぶったままでは無礼ではないか」
すると、赤頭巾は、頭巾に手をかけたものの、しばらく悩み、結局、頭巾を脱ごうとはしなかった。そして、うめくように言った。
「あんたが頭目ってわけかい。董幼宰さん…であったかな? すまぬが、頭巾は脱げぬ」
「なぜだ? 貴殿は囚人か?」
「とんでもない、そうじゃあない。だが…似たようなものか。逃げている」
「なんだ? 役人からか?」
「ちがう。身内からだよ。わしは家人から逃げて彷徨っているうちに、穴からおちて、この洞窟に入り込んでしまったのだ。信じられない話かもしれんが、信じてほしい」
「穴? あそこから入ったのではないのか?」
と、董和は湖の向こうにある、月の見える入り口を指した。しかし、男は首を振る。
「あの湖は駄目だよ、渡れない。さっき、わしも渡ろうとして、ほれ」
男は、ひょいと裾を持ち上げると、董和たちによく見えるように、自分の沓を見せた。先のほうが焼け爛れている。
「あの湖は、酸なのだ。そこの蝋燭をもった兄さん、穴ぼこのそばの湖面を照らして、よくご覧」
男が言うまま、胡偉度は湖面のぎりぎりまで近づき、出入り口がよく見えるように蝋燭をかかげた。すると、闇の中で、岩だとばかり思っていた湖のほとりに浮かぶそれが、なかば溶けた水牛の死体だということがわかった。
「かわいそうに、水がほしくてここに紛れ込んだはいいが、酸の海だったので、焼け死んでしまったのだ。残念だが、あの出口へは、わしらは行くことができない。それで、わしも往生しておったのだ」
「なぜだ? 落ちてきた穴から戻ればよいではないか」
「それが、わしが落ちたとき、どこかにぶつかってしまったようなのだ。仕掛け扉になっていて、穴が塞がってしまった」
「仕掛け扉? それはいつのことだ」
「わしがここに落ちてから、一刻ほどは経っていると思うが」
董和たちは顔を見合わせた。もしかしたら、栄耀飯店から繋がる道は、この男が仕掛けをいじったせいで、閉じてしまったのではないか?
「その仕掛け扉というのは、どこにあるのだ」
「案内してやってもいいが、兄さんの槍を、わしに向けない、というのが条件だ」
張嶷がむっとして言う。
「おれの名は張伯岐。兄さん、などと侠客のように呼ぶのは止めていただこうか」
「そいつは悪かった。れっきとした家の武人であったか。あんたが張伯岐、となると、そっちの蝋燭を持っているひとは胡偉度ってひとだね」
「そういうあなたのお名前は? 頭巾は取れない、名前も教えられない、というのではないでしょうね」
胡偉度が言うと、頭巾の男は気まずそうに、頭巾の上から頬を掻いた。
「うむ…すまぬがそのとおり。わしのことは、そうさな、赤頭巾、とでも呼んでくれぬか」
ふざけている、と張嶷が槍を構えなおし、胡偉度は、お話になりませぬ、と首を振った。董和は、二人の意見に同調しつつも、頭巾に悪気がないことだけは認めていた。さあて、この男をどうするべきか?
「貴殿は家の者から逃げている、ということだが、借金でもしているのかね?」
「そうではない。ちょいと恥をさらすようだが、じつは縁談が持ち上がっているのだ」
「ほう、もしかして、貴殿のお嬢さんの?」
「いいや、わしの、なんだよ」
男は、董和よりいくらか年上のようだが、それでもこの年での縁談、というのは珍しくない。
「それはめでたいな」
「めでたいものか。うちで雇っている…というか、ほとんど息子同然に思っているやつがいるのだが、こいつが強引でなあ、いつまでもわしが逃げ回っているもので、そろそろ強攻策を取りそうな気配なのだよ。気持ちよく寝ているところへ、いきなり女が夜這いにやってくる、なんてことも在りえないことじゃない。おかげですっかり寝不足なのだ」
「贅沢な悩みだな…」
「冗談じゃない、こっちは寝不足だわ、ヤツの顔色を窺わねばならんわで、やつれる一方だ。それで、逃げてきて、いつのまにか、ドボン、だ」
赤頭巾の話はこうであった。
顔を合わせれば、心は決まったかとうるさく言ってくる「ヤツ」から逃げるため、赤頭巾は、こっそり愛馬とともに外へ脱け出した。
そうして林にやってきたはいいものの、馬に乗っているうちに、亡き妻を思い出し、だんだん悲しくなってしまった。
わが心はまるで吹雪のように荒れ狂っているというのに、皮肉なことに成都の空はめずらしくも晴天。とんびがくるくると輪を描いているのを木々の合間に眺めつつ、赤頭巾は思わず涙をこぼした。妻よ、どうして吾を一人残して逝ってしまったか…
鼻が出てきたのでかもうと思ったが、懐から布を取ろうとすると、気むずかしい愛馬が足踏みをして、妙にむずかる。
おまえもなにか悲しいことがあるのかな、と声をかけ、馬を下りた途端に、馬が棹立ちになって、暴れだした。
どうどう、と落ち着かせようとするが、どうしたことか、うまくいかない。そうして馬ともみ合っているうちに、足元が不意におぼつかなくなり、気づいたらごろごろと闇の中を転がっていたのだった。
落ちたあと、しばらく気絶をしていたらしく、朦朧としたまま、とりあえず馬を探さなくては、とふらふら歩き出した。
いま思えば、これがいけなかったのである。そのとき、手探りで壁をいじったのだが、とある石に触れた途端、ごおん、と轟音がして、上空から射していた光が消えた。穴が塞がってしまったのだ。
それでも赤頭巾は、まさか自分が地下の巨大遺跡に入り込んだと知らないから、あたりの暗さも、知らないあいだに夜になってしまったのだなあ、としか思わなかった。
意識がはっきりしたあとは、もう手遅れ。
呼べど叫べどだれもいない真っ暗闇。不気味なことに、蝙蝠のはばたきがこだましている。たまに、背筋をぞっとさせるような、岩から雫の落ちる音が聞こえる。えらいところに来てしまった、と思ったものの、もう出口がわからない。
なんとか思い出そうとしばらくあたりをうろついてみたが、ようやく出口らしい穴を見つけて泉に入ろうとしたところ、沓が、じゅう、と不気味な音をたてて焼けた。酸なのだ。
こいつはあぶない、うろうろしすぎると、ほかにどんなものが潜んでいるかわからない。
そこで赤頭巾は、身を隠せるような岩場を見つけ、そこに昇って、だれかがやってくるのを待った。
「信用できるか?」
と、張嶷がこっそりと耳打ちしてくる。嘘にしては、この異常な空間においては、似合わぬほどに平和すぎる嘘だ。頭巾のせいで表情がわからないが、目出し穴からのぞくつぶらな双眸は、悪人のそれではない…気がする。
「とりあえず、この男の落ちた穴、とやらに行ってみよう。うまくすれば、第三の門が見つかるかもしれぬ」