捜神三国志・燭龍本紀

参話 朝が来て

 かたかたと、だれかが戸を叩いている。
今宵は風が強いようだ。
ああ、あれは、だれか、ではなく、なにか、だな。
庭の柏の木の枝が、木戸に近寄りすぎていたのを思い出し、夢とうつつの間にいる董和は寝返りを打った。
かたかた、かたかた…
うるさいな、じいやたちは何をしているのだろう。ちょっと起きて、庭へ出て、柏の木の枝の先を、すこし切り取るだけなのに。
がた、がた、がた…
どんどん音が大きくなっているのは気のせいではないらしい。それに、どこか隙間か空いているのか、ひゅうひゅうと甲高い風の音が漏れ聞こえる。
隙間風の音は、どうしてあんなふうに不気味なのだろう。まるでだれかが遠くで泣き叫ぶ声に聞こえるのだから。
「もうし、どなたか起きておられませぬのか…お願いにございます…もうし…」
その声にはっとして、董和は起き上がった。か細い少女のそれである。
あわてて木戸を開くと、庭にうずくまるようにして、十歳くらいの少女がいた。色が黒く、痩せっぽちで、着ている物も粗末で、あちこち泥で汚れていた。董和が姿をあらわすと、まるで一気に夜が明けたような、ほっとした顔になって、一瞬泣きそうになった。が、ぐっと奥歯を噛みしめるようにしてこらえると、真っすぐ董和を見た。清く、つよいまなざしであった。
「どうかお取次ぎをおねがいします。あたしは、ひとごろしの罪で牢に連れて行かれた者の妹でございます。どうか董幼宰さまにお目通りをさせてください。おねがいいたします」
と、少女は言った。
たしかに身なりは垢抜けないものの、その澄んだ双眸と、礼儀正しい言葉に、董和はおどろいた。
董和が黙っているのを、少女はどう受け止めたのか、袖を探ると、なかから小さな袋を取り出した。そして、てのひらに、数えるほどしかない小銭を取り出して、それでも両手で大事そうに、董和に差し出した。
「あたしの家には、もうこれしかお金がありません。これをなくしてしまえば、あたしは明日から食べるものも買えなくなります。ですから、あたしがあなたに差し上げられるのはこれが精一杯なのです。だからどうかお願いします。董幼宰さまにお目通りをおねがいいたします」
董和は言葉をなくした。
賄賂や横領が日常茶飯事の成都のなかにあり、こんないたいけな少女まで、賄賂を出さなければ、ちいさな義すら通らないことを知っている。
こんな小さな者にまで、みにくい世の中のありさまを押し付けている。
董和は、無性に腹が立つと同時に、かなしくなった。
庭へ降りると、いっぱいに広げられた少女の手を、両手で包むようにして、閉じてやった。
「これは、受け取るわけにはいかない」
そういうと、少女はがっかりした顔になって、うつむいた。
「足りないのですか? ごめんなさい、髪を売ろうとしたのだけれど、おまえの髪は痛んでいるからいらないと、断られてしまったの」
「なんだと」
「だって、うちは貧しいのだもの。よその家の子みたいに、髪に油だってさせないし、昼間はずっと外で働いているから、日に焼けて痛むの」
「そうではない、きれいな髪なら、そなたのような幼い子の髪でも買い取ろうとした者がいる、ということがけしからん」
「だって、家にはお金になるようなものはなにもないのです。人買いのおじさんにも、おまえみたいな痩せた子は、もうすこししないと値段が付かない、と言っていたし」
「ますますもってけしからん。その人買いという男の名は? さっそくとっちめてやらねば」
「おじさんを懲らしめてくれたら、おじさんはあたしを高く買ってくれるでしょうか?」
「おろかなことを。わが屋敷では賄賂など無用なのだよ。もちろん、これからも、わたしが成都の令をつとめるかぎり、おまえのような少女が賄賂を出さなくてはいけないようなことは、させぬ。董和の名にかけて約束しよう」
少女はびっくりして、大きな瞳で、董和を見上げた。
「あなたが?」
少女の問いかけに、董和は大きくうなずいた。
「わたしが董幼宰だ。いったいわたしに何の用だね。名前は?」
「晴嬰」
と、少女は、瞳を見開いたまま、つぶやくように、おのれの名前を言った。

「父上、朝にございますぞ、起きなされ、父上!」
いつごろからだったか。息子を起こすのが父の役目であったのに、逆転して、父が息子に起こされるようになったのは。
 いままでは、屋敷のなかで、いちばんの早起きは、じいやであった。
つぎが董和、最後が、息子の休昭である。
ところが、成人してからというもの、休昭は、早朝がいちばん物事をおぼえるのにいい、といって読書のために早起きをはじめ、いまでは順序が逆転し、休昭、じいや、董和の順に目が覚める。
 とはいえ、董和は寝汚い人間ではない。毎朝、定刻になると、雄鶏のようにきっちり目を覚ましていたのだが、今朝だけは特別だ。ほとんど夜明けまで、ずっと栄耀飯店にいたのだから。
それに、なにか昔の夢をみたような…
 「朝帰りをしたとて、寝坊などゆるしませぬぞ、父上!」
 いまだまどろみの中にいる董和を、休昭はゆさゆさと揺らす。
口調が、似てきたな、と思う。
一人息子の休昭は、面差しは亡き妻に似て、やわらかな線とやさしげな表情を持っている。頑固そうな眉だけは父親ゆずりだ。
 妻が心労で死んだとき、董和は、おのれもあとを追おうと真剣に考えた。妻を死なせてしまったのは、おのれの責任だと思っていた。
生きながらえたのは、一人息子の休昭の身を思ったからである。妻が死の床で、くれぐれもよろしく頼むと言い残した子である。悲しみと自己譴責に負け、みなしごにしてしまうわけにはいかなかった。
 さいわい、古くから仕えてくれている家令夫婦が、休昭の面倒を見てくれた。手が足りないときは、近在の兄や姉がやってきてくれた。
董家の五男坊に生まれた董和は、兄弟たちのなかでも出世頭で、兄姉たちは、激務に耐える弟のために、いろいろと手を尽くしてくれた。
おかげで、董和は息子を成人させることができた。兄姉たちには、どんなに感謝しても足りない、とさえ思っている。彼らにも、何度か危険な目に遭わせてしまっているのに、いちども責めず、どころか、それもまた勲章なり、と誇ってくれるのだ。

成都の令の仕事は、人から…それも有力者から恨まれる仕事だった。
豪族と呼ばれる者のなかには、費家のように董和の公明正大な仕事振りに共感し、協力してくれる者もあったが、たいはんは、そうではなかった。
おそろしい脅迫を受けたこともたびたびであるし、部下を暗殺されたこともある。
なにより堪えたのは、家族を狙った脅迫であった。
とくにひどかったのは、査察をやめねば、幼い一粒種の休昭を誘拐して殺してしまうぞと脅迫されたときであった。
妻は、董和の仕事のさまたげになってはならないと、脅迫を受けていることを、ひと言も言わなかった。
もともと、愚痴ひとつ言わない女であった。いつも明るい笑みを浮かべて、少女のように歌を唄っていた。
董和が、妻の異変に気づいたときには、もうその体は病魔に冒されていて、とりかえしがつかなくなっていた。
仕事はうまくいった。だが、本来守るべきはずの、大切なものを代償にうしなった。
志、とはなんなのか。そも、志を抱いたのは、大切なものを守りたいと、その一心であったはずなのに。
 妻を亡くしてしばらくして、董和は心を失くしたまま過ごしていた。
そんなとき、晴嬰と出会った。
晴嬰は、牢につながれた兄を助けるために、遠路はるばる、たったひとりで、董和の屋敷へやってきたのだ。
半ば世の中に絶望していた董和は、兄の罪を軽くしたい一心で、おのが身を犠牲にしてもかまわない覚悟でやってきた晴嬰の姿に、おのれの為さねばならない仕事、向わねばならない敵の姿を見た。
 晴嬰の兄は、もうその頃には、賄賂を渡されていた獄吏たちにより、いじめ殺されており、結局、董和は間に合わなかったのだが、晴嬰に出会ったことをきっかけに、董和は失くしかけていた志を、思い出すことができたのだ。
 
「父上? どこか具合がわるいのでございますか?」
と、休昭が寝台を覗きこむ。同時に、開かれた帳から、すがすがしい朝の光が差し込んだ。めずらしく、今日の成都は晴天のようだ。
ちいさいが、手入れの行き届いた庭から、じいやが作った巣箱に育った小鳥の鳴き声がした。
「ひな鳥が鳴いているな。そろそろ巣立ちであろうか」
 「鳥も鳴いておりますが、わたくしも泣きそうです。父上、お早うお目覚めくださいませ。でなければ、允は任官早々に遅刻をしてしまいます」
 「てのひらにも満たぬ小鳥が巣立ちをしようとしているのに、おまえは、父に見送られねば、出仕もできぬと甘えたことを申すのではなかろうな」
 「允はそのようなことは申しませぬ。お聞きしたいことが山ほどありまして、それが聞けないかぎりは、出仕ができませぬ」
 「やはり甘えているではないか。じいやに申し伝えておけばよかろう。帰ってきたら、おまえの聞きたいこととやらはすべて答えられるようにしておく」
 「そのようなお言葉では、誤魔化されませぬぞ」
と、休昭は、寝台のうえに腰かけた。
董和は、のしかかるような眠気と闘いつつ、うっすらと目を開く。といっても、一瞬後にはふたたび目が閉じられてしまうのだが。
 「父上、昨夜はどちらにいらしたのですか。允は夜更けまで父上をお待ちしておりましたのに」
 「いつもの店だ」
休昭は、父が晴嬰の店で飲むことを知っている。
 「長星橋のあの店、ですか。なるほど、なるほど」
と、休昭は意地悪く目を細める。
 「重ねておたずねしますが、父上、ずっと晴嬰さんの店にいたのですか」
 「話せば長くなる…允よ、父は眠い。死にそうなほどに眠いのだ。見送ってやれぬのが心苦しいが、今朝はこのまま出仕してくれぬか」
 休昭は、そういって寝返りを打つ父の姿に、さびしそうに眉をしかめた。
 「父上、自棄になっておられるのでは?」
 「免官になったごときで、いじけたりはせぬ。これからわたしは楽隠居の身ぞ。董家の総領はそなただ」
 「そのような情けないことをおっしゃいますな。董家の長は、かわらず父上でございます。昨日も、父上が免官になったと聞いて、伯父上や伯母上方が、お見舞いにいらしてくださったのですよ。それなのに、酒家にいりびたっていたなど!」
 「わるかった、わるかった。兄上や姉上には、わたしが今日、ごあいさつ申し上げる。そなたは心置きなく仕事にはげめ」
 「それともうひとつ…いえ、ふたつ。今朝はやく、晴嬰さんが我が家にいらっしゃいましたよ」
 「まことか」
がばり、と董和は起き上がった。そして、胡散臭そうに父を見遣る一人息子とばっちり目が合った。
 「おつかれでしょうからと、百合根のいためものを持ってきてくださいましたよ」
 「で、いまいるのか?」
 「父を起こしましょうかと尋ねましたら、ゆっくり休ませてあげてくださいまし、と言って帰られました」
 「さようか…」
と、言いつつ、ふたたび董和は寝台に寝転がった。なんと現金な、と休昭があきれてつぶやく。
 「最後に、父上。どうしてもお聞きしたいのですが」
と、眠っている父の上に、顔を寄せて休昭は言う。すると、もうひとつの声がそれに重なった。
 「休昭どの、父上はまだお休みか」
 低音の、それでいて明瞭な声だ。大将向きのよい声だな、と董和は思った。
休昭は、部屋に入ってきた張嶷に聞こえないように、早口で言う。
 「今朝はこのひとの演武の掛け声で目が覚めましたぞ。このひとは、いったい誰なのです!」
 「本人に聞け」
張嶷は、若いだけあり、わずかな眠りで体力が回復したらしい。中年の董和はそうはいかない。
栄耀飯店の居候だという張嶷を、むりやり屋敷に招いたのは董和である。
張大人にとって、張嶷というのは、便利な若い衆程度のあつかいしかされていないようであったし、悪徳に染まった館に、これほどすがすがしい若武者を置いておくのは心苦しかった。朱に交わればなんとやら。張嶷が張大人の悪影響を受けてしまうのは勿体無い。
 「ところで休昭どの、表に、費文偉どのとかいう、ご同輩が待っておられるようだが」
 費文偉、というのは費伯仁の甥にあたり、休昭と年が近いのもあり、仲良くしている青年である。
 「なに、文偉め、もう来たのか。仕方ない。父上、それでは允は行ってまいります。わたしが帰ったら、きっとお答えくださいよ」
寝言ともつかない生返事をして、寝台のなかから、董和は息子を見送った。
 
時が経つのは、早いものだと董和は嘆息する。ついこの間まで、父上、父上と、もみじのような小さな手を差し伸べて、あとを追いかけてきていた子が、いまやりっぱに宮仕えをするようになったとは。
 「ずいぶんと仲が良いのだな」
と、まるで独り言のように張嶷は言った。まだ部屋に残っていたのだった。
 息子とちがい、客である。眠いからとむげに追い出すわけにはいかない。董和は起き上がった。
 「今年で十七になるのだが、母がない子ゆえ、不憫に思い、甘やかして育ててしまった。なにを決めるにも、わたしを頼って、おのれで考えない癖がある。そのうえ、見栄坊でな」
 「それはしばらく世間を歩けば、自然と矯正される欠点だろう。ご子息は、貴殿が好きなのだな」
 「失礼だが、そなたの父御は?」
 「早くに亡くなって、母はすぐに再婚した。養父が張姓でな。これと折があわなかったので、おれは母の実家で育てられたのだ」
 「すると、張大人とは血縁ではないのだな」
 「そうだ。しかし義理の兄弟の頼みで、どうしてもあやつに頼らねばならぬことが出来た。胡偉度と同じだ。おれも身内の借財を背負っているようなものなのだ」
 「なるほど、宝の魔性に引かれたわけではなかったのだな」
 董和はほっとした。まだ知り合って一日も経っていないが、董和は、この気骨ある青年をすっかり気に入っていた。
休昭とさほど変わらぬ年なのに、ずいぶんと大人びた言葉を語り、それが浮いていないのは、早くから世間に揉まれ、苦労しながらも、みずみずしい感受性を失わなかった証である。
 「大丈夫なのか」
 と、張嶷は、精悍な顔に、まるで表情というものを浮かべず、うかがうように董和を見た。
 「なにがだね」
 「九門古城へ行くのは、蛾眉山に遊山にいくのとはわけがちがう。昨日の盗賊どもの話を聞いただろう。盗賊たちのほかに、得体の知れない人間も、別の門から潜入している。ただ一度の潜行で、命を落とす危険すらある。貴殿は、ご子息を残して逝ってしまうおつもりか」
 まるで、臨終の床にあって、医者に小言を聞かされているようだ。
 「生きて戻ればよかろう」
 「む…まあ、そうだが…」
「ところで伯岐どの、聞いておったかもしれんが、わたしは、日中は、兄や姉のところへ行って、これからのことを話してくる。しばらくは楽隠居を決め込むとでも言っておくつもりだ。そうでなければ、兄も姉もあれこれ口を出してくる。そうなると動きがとりにくくなるからな。九門古城のことは、家の者には知られたくない」
 「それがよかろう。おわかりかとは思うが、張大人の決めた『九門古城』の規則を破らないよう、ご注意めされ。張大人は執念深い男だ。まして…失礼だが、貴殿はいま、免官されて頼る者も少ない身。張大人は容赦なしに襲ってくるだろう」
 「うむ。堅気の人間には、けして『九門古城』の話を漏らしてはならない。まして官吏には絶対にしゃべらない、であったな。気をつけよう。そなたはこれから、どうする」
 「まずは鍛冶屋へ行き、鎧の調整をしてこようと思う。それから、胡偉度と連絡をとって、薬や包帯などの小物をそろえてみるつもりだ」
 「それは長星橋商店街で集めるといい。晴嬰に言えば、手配をしてくれるはずだ。晴嬰にあったら、董幼宰もあとから来ると伝えてくれ」
 「あの女人は、晴嬰、という名なのか。漢族か?」
 「そうだが」
 「ふむ…いや、気にするな。似た名前の女人を知っていたのでな。しかもすでに故人だ。ところで、相談がひとつある」
 「なんだね」
 「貴殿は昨夜、おれを客間に通してくれたが、今日からはすぐそこの、小部屋に移動させてもらってよいだろうか」
 張嶷の言う小部屋、とは、董和の部屋の真となりにある、陽の射さない物置がわりの部屋であった。
 「あの部屋はもともとじいやの部屋であったが、かび臭いうえに湿気がひどくて関節に障る、というので物置にした部屋だ。賓客であるそなたをそのようなところに通すわけにはいかん」
 「お気遣いありがたいが、あの部屋がいいのだ。もし貴殿に何事かあれば、すぐに駆けつけることができよう」
 「わたしが、だれかに襲われる、と?」
 張嶷は、凛々しい風貌に、表情らしいものをみせず、淡々と言う。
「ふむ、ご存知ないのか。張大人は、晴嬰どのにずいぶん執心でな。あの強欲の権化が、長星橋商店街の借金の返済期限をもうけておらぬのは、あの女人の歓心を買うためだ」
 「なんだと!」
 董和は、一見すると柔和だが、実はなかなか頭に血が上りやすい。
いま、世の人の中ではもっとも嫌っている張大人が、よりによって晴嬰に気があるとは! 董和ははげしい嫌悪感と、憤りを感じた。
 「しかし晴嬰どのは、心に決めた人がいる、それは貴殿だ、といって張大人をフッたのだ。おかげで張大人は面目まるつぶれだが、まだあきらめておらん。貴殿さえいなくなれば、と思っているはず。だからこそ、貴殿に九門古城の探索を進めたのだ。だが、九門古城とて、入り口はやつが仕切っているが、中に入ってしまえば、だれの統制もきかぬ無法地帯。盗賊たちは張大人に恭順しているように見えるが、その実、あわよくばその地位を、と狙っている者ばかりだ。とすれば、張大人は、免官となって、お屋敷にいることの多くなる貴殿を狙うはずだ」
 「莫迦な。免官になった身とはいえ、成都は無法地帯ではない。わたしに害をなせば、罪に問われるぞ」
 しかし、張嶷は、無表情なまま、首をかしげた。 
「そうかな。おれの見たところ、いまの成都は無法地帯だぞ。昨日も尚書令の法正めが、以前の政敵の屋敷を私兵におそわせて、処刑をしている。やりたい放題ではないか。政権の調整がうまくいっていないのか、劉備も法正を御し切れてない。聞けば、その配下も益州方と荊州方に分かれ、暗闘を繰り広げているそうだ。張大人のもっとも得意とする状況だ。あやつの力、また伸びるぞ」
「張大人は益州方に付くのかな」
「おそらくな。荊州方の家臣の大将格は、軍師将軍の諸葛孔明という男だ。張大人はこいつを嫌っておる。張大人がごあいさつにと面会を申し出たとき、おれも一緒についていったのだが、なかなか変わった男だったぞ。
あちこちに竹簡のころがった、雑な部屋におって、張大人が遠まわしに、賄賂を渡すので商売の便宜をはからってほしいと、歓心を引こうと、必死になって喋るのだが、軍師将軍は、にこにこ笑うばかりで返答をしないのだ。それで張大人もずいぶん焦って、必死にしゃべっておった。
ところが、最後に将軍は、やっぱりにっこり笑って、「それで、ご用件はなんなのでしょう」と。張大人は絶句して、すごすごと引き返した。あのときの張大人の顔、というのは、ちょっと見物であったな」
董和は身を乗り出した。
「ほほう。それは面白い」
「だがその諸葛孔明も、法正には手を出しかねている有様だ。益州の人間に気を遣っているらしい、という噂だ」
「ずいぶん詳しいのだな」
「栄耀飯店には、いろいろな人間があらわれるのでな。おれも思うに、しばらく、この状態は続くだろう。成都が完全に落ち着くのは、まだ先のこと。となれば、宝を見つけないかぎり、貴殿に真の安全はない、ということなのだ」
「む、そうなるか」
「おれは貴殿の武勇伝をいくつか聞いているので、日中は問題ないと思っている。ただ、眠っているあいだはだれでも無防備になろう。その間の守りは、おれがする。どうだろうか」
「そなたの気持ちを無碍にするわけにもいかぬ。じいやに言って、部屋を片づけさせよう。ほかに必要なものがあれば言ってくれ」
「いまのところは、ない。あとで貴殿も鍛冶屋で鎧の調整をなさるがいい。それと付け加えるが、九門古城の天井は高い。矢を射掛けられる場合もあるので装備は厚いに越したことはない。では、またあとで」
というと、張嶷は踵を返して部屋を出て行った。
董和は、すっかり眠気が覚めていた。ほかならぬ、晴嬰の話を聞いたからであった。
娘…あるいは妹がいたら、悪い虫が寄ってきたとき、こんな腹立たしい気持ちになるのだろうか。あとで晴嬰に会ったら、けしてあの男の前では隙をつくってはならない、と言いつけなければ。
それから起き上がって、晴嬰のもってきてくれた百合根のいためものを食べたが、昨夜の疲れがふっとぶほど、それは美味かった。

四話へつづく…
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