捜神三国志・燭龍本紀
序・董幼宰、免官になる話
すべての名が読み上げられ、しばらくたって、かたかたと竹簡が巻き上げられていく音が聞こえた。
董和は、両隣、あるいは前後の者たちが、同情と好奇でもって、こちらを、ちらちらと、うかがい見るのに気づいた。
じっとりと、額に汗が浮かぶ。
脂汗であった。
「以上。みな、忠勤にはげむように」
と、尚書令の法正の声が響いた。それすら、董和の耳にはうつろに聞こえた。
名前を呼ばれなかった。
いつのまにか、人事の発表はすべておわっていた。
ぞろぞろと、文武百官がそれぞれのあたらしい職場へ散っていく。かつてこの巴蜀の地を治め、いまは追い出されて荊州にいる劉璋の配下であった者もいれば、あたらしく、この巴蜀の主となった劉備に従ってやってきた荊州の人間もいる。
それなのに、董和だけが、ぽつりと行き場所がなく、ぼう然としていた。
理解できないことであった。なぜ、自分が職務をあたえられないのか。どころか、はっきりと免官のお達しもない。
「大変なことになりましたな」
と、気遣わしげに声をかけてくれたのは、常日頃から親しくしている費伯仁であった。曹操の南下にともない、戦火を避けるべく、一族を率いて荊州から蜀にやってきた人物である。追い出された劉璋の姻戚で、費家の族父を勤めている。清廉潔白の士で、劉璋が蜀を治めていた時代にあっても、けして姻戚だからと威張ることなく、質素な暮らしをしていた。年は董和より上なのであるが、気さくで飾らぬ人柄で、生真面目で職務に熱心すぎるあまり孤立することすらある董和に、なにかと声をかけてくれる。
このときもそうであった。
「なにかの手違いかもしれませんぞ。よろしければ、それがしから、尚書令どのにお伺いを立ててみますが」
お願いいたす、とその言葉が出てこなかった。むしろ、費伯仁に言われ、ようやく頭の中ではっきりしたことがある。
『そうか、これが私に対する報復、というわけだな』
董和は、取り巻きにかこまれ、去っていく法正のうしろ姿を、いまいましげに見送った。
去っていき際、法正は、ほんの一瞬、董和のほうを見た。董和の反応が知りたかったのであろう。
そして、見事にその浅ましい思惑にはまってしまったわけだ。董和の顔はいつになく厳しく、おそろしげであった。
董和は忸怩たる思いで、今回の人事を決めたのが、かつて劉璋に冷遇され、いまはその報復にせっせと励んでいるという、厚顔無恥な裏切り者なのだと痛感した。
おおよそ、政治的な裏工作は、董和の得意とするところではない。
降伏した劉璋の臣下だった者たちは、劉璋に近しければ近しいほど、なりふりかまわず、裏切り者の法正に命乞いをした。
なにもしなかったのは董和と、費伯仁をはじめとする、少数の気概を持つ者だけであった。
「とはいえ、それがしも以前の職とは、禄がくらべものにならないほど低いところに異動です。いやいや、それでもまだ仕事があるだけマシでしょうな」
「ほかのご一族の方々はどうされましたか?」
「ああ、ひとりは李正方将軍(李巌)に気に入られておりまして、これは問題なく出世しました。とはいえ、あまりこちらに顔を出さない者ですから、喜ばしいことではありますが、複雑ですよ。それがしとしては、共に暮らしている甥の文偉こそ、出世するべきと思っていたのですが、これも書士止まりです。どうやら、完全に尚書令どのににらまれてしまったようですな」
「お互いに、ですな。宅の息子の休昭も、文偉殿とおなじ書士です。まあ、二人はまだ若い。これからこの国はいろいろ変わることがあるでしょう。それまでは修行と思って苦労させればよい、と思っております」
「いや、まったくそのとおり。これはあまり大きな声で話せませんが…尚書令どのが、怨敵をつぎつぎと捕らえては、処刑なさっているでしょう。それがしも劉璋殿の姻戚。いつ捕らえられてもおかしくないと思っておりますよ。文偉などは、目立たなくしていれば、われわれのような地味なものは、むこうが忘れてくれるでしょう、などと生意気を申しておりましたが」
「まさか。あなた方が捕らえられるようなことがあれば、私が断固として抗議いたしますぞ」
ぎゅっと眉根をしかめる董和に、費伯仁は、いつも笑っているようなたれ眼の顔をさらにほころばせた。
「貴殿がお味方してくださるとは心づよい。貴殿が動けば、漢族だけではなく、蜀に住まう、すべての蛮族が動きますからなあ」
ああ、それも原因なのだろうな、と董和は思いつつも、費伯仁の寄せてくれる信頼に応えるべく、笑って見せた。
一話・長星橋商店街有志、立ち上がる。
「そんな馬鹿な話ってありますか。なんだって、旦那が免官なのですか?」
と、まるで我が事のように、ちいさな酒家を取り仕切る晴嬰(せいえい)は怒った。
晴嬰は、小柄な愛らしい顔立ちをした女である。
色っぽさより、威勢のよさが目立つ女で、酒家を女手ひとつで切り盛りしているが、店ではけして色は売らず、本人曰く、『天下に恥じずに気持ちよく酒を飲める店』を目指している。すでに二十歳半ばであるが、幼さの残る面差しは変わらず、つややかな黒髪にさした、梅の髪飾りがよく似合っていた。
晴嬰は、成都の長星橋のそばに店を構えていた。
長星橋は成都から東の地へむかう旅人のために架けられた橋であり、店は、ちょうど成都の西と東をむすぶ中継点となって繁盛していた。
漢族だけではなく、行商のためにやってきた蛮族たちがあつまって、晴嬰じまんの料理をにぎやかにつついている。
明るくて気遣いのこまやかな晴嬰は人気者で、季節ごとにあらわれる商人のなかには、彼女のためだけに土地のみやげ物を持ってくる者もいた。
だから、小さいながらも晴嬰の店は、蜀をぐるりと囲むようにして居住している蛮族たちの、めずらしい小道具を一望することができる。
「まったく、旦那は人がいいのだから。どうせ、ほかの口先野郎がこぞって手柄を…なんていったっけ、あたらしいお殿様…ええと、劉備? ともかく、その人に売り込んでいるときに、じっと黙って、どころか戦の後始末をして駆けずり回っていたのでしょう?」
まさにそのとおりだった。
晴嬰が怒っている声を聞き、常連の行商人が、からかって言う。
「晴嬰は、董さまのことなら、なんでもわかるんだな」
すると、晴嬰は、つんと顎をそらして言い返した。
「当たり前だろう。よくお聞き、あたしの志はねぇ、いつかこの店をたたんで、花嫁道具をもって董さまのお屋敷に行くことさ。天下広しといえど、このお方に並ぶ真の男はいないよ。あんたたちも、このお方をお手本にしてみればいいよ。そうすりゃあ、ツケだっていくらかオマケにしてあげるから」
「董の旦那もえらい女に見込まれちまったもんだね。こういう女は、言ったことは必ずやってのけるよ」
と、店にいた客たちは、からかって、けらけらと笑った。
董和は、というと、晴嬰の言葉を本気にしていないので、静かに笑うだけである。
晴嬰は、まだ二十歳なかばを過ぎただけの女ざかり。一方の董和は、もう四十を過ぎた。年がちがいすぎる。晴嬰も、店を盛り上げるために、こんなおどけたことを言っているのだろう、と董和は受け止めていた。
「旦那、なんだってそんなに平気なのですか。これじゃあ、こんなに怒っているあたしが馬鹿みたいじゃありませんか」
「おまえがそんなに怒ってくれるので、私はこうして酒を飲んでいられる」
「ま、そういう旦那の肝の太いところも、あたしは好きなのですけどね。今日は、この晴嬰のおごりですよ。店をたたむまで、ゆっくりしていてくださいな」
「おいおい、客を贔屓するのかい。おれたちにも奢っておくれよ」
客の一人が抗議するのを、晴嬰はどすの利いた声で返す。
「冗談じゃないよ。あんたたちモグリかい? このお方はねぇ、巴蜀のバカ豪族どもが自分たち贅沢をするために、無茶苦茶な重い税をかけて領民をくるしめて、それどころかすこしでも反対すると、虫けらみたいに殺してしまうような世の中だったのを、たった一人で立ち向かって、豪族たちを取り締まってくださった方なんだよ。おかげで、どれだけの人間が助かったかしれやしない。しかも豪族どもときたら、それまでは蛮だからとかいうトンチキな理由で、漢族じゃない人間は、人間扱いしなかったんだ。だけど、このお方はちがう。ちゃんとそれぞれの族長を訪問して、訴えを聞いて、一族にひどい真似をした漢族にも、ちゃんと処罰を与えなすった。もう、あたしたちは拍手喝さいさ」
「もしかして、董の旦那って、董幼宰さまのことですかい?」
と、あきらかに漢族とはちがう衣裳をまとった、行商人ふうの男が立ち上がった。苗族であろう。
蜀の市でも、苗族の美麗な刺繍のほどこされた布は人気がある。
この男も、地味ながら、集落によって文様がちがうという刺繍入りの衣裳を身に纏っていた。
晴嬰の店は、出してくれる料理もうまいし、お高い店とちがって、蛮はお断り、などとくだらぬことを言わないので、遠来の行商人たちがよく集まった。
「知らなかったとはいえ、ご無礼をいたしました。あなた様のご令名は、わが苗族にも伝わっております」
すこし酔っているのか、揺れる灯火の下、苗族の日に焼けた顔は、興奮して紅潮しているように見えた。
「あたりまえのことをしただけだよ」
と、董和がかえすと、晴嬰は大げさに感心して見せた。
「これだよ。聞いたかい、あんたたち。真の男ってのは、あんたたちみたいに小さな手柄でも大きく見せようとして、わあわあわめくようなぶざまな真似はしないものさ。ねえ、旦那。奥様を亡くされてだいぶ経つのでしょう? 晴嬰は、お声がかかればいつだってお屋敷にうかがいますからね。今日だって、夜が明けるまで、ここにいてくださっていいんですよ」
店の者たちは、またまた、やんやとはやし立てた。
やれやれ、と思いつつ、董和は晴嬰に言う。
「そなたの心遣いはうれしいが、あまり遅くなると息子が心配する。免官になった親父が、自暴自棄になって酔いつぶれているような姿を見せたくはないからな」
「つれないのだから。若様もご一緒に来てくだされば問題ないのですよ。最近じゃ、昔と違って夜盗のたぐいも減って、静かなものですよ」
意外な話に、董和はおどろいた。法正の私兵がそれほど優秀だとは。
「それそれ、妙な話を聞いたのだが」
と、酒家の近所で竹細工を商っている男が、首をガチョウのように伸ばして口を挟んだ。
「以前はあれほど、そこいらをうろうろしていた夜盗やら、山賊の類が、ぴたりといなくなったのだそうだよ」
「そいつは目出度いことだよ。これでおれたちも、安心して商いができるってものじゃないか」
「やっぱり、新しいお殿様のお陰なのかねぇ」
と、怪訝そうにだれかが言う。
たしかに、劉備軍がやってきたときは、蜀の民は、兵たちの略奪をおそれて戦々恐々としていたが、予想していた以上に劉備軍というのは大人しく、民は、新しいお殿様は評判にたがわぬ仁徳のお方だと誉めあっていた。
とはいえ、警邏は増えているようだが、山賊や流賊を一網打尽にした、という華々しい話は耳にしない。
「いやあ、そうではあるまいよ。これは知り合いの博徒に聞いたのだが、どうも連中は、ひとつところに集まって、お宝を巡って争っているらしい」
「なに、宝とな」
と、みなが一斉に反応した。注目を浴びた男は、満足そうにみなの顔をじっくり見回して、言葉をつぐ。
「よく聞け、ご一同、おどろいたことに、その宝とは、得れば、かならず天下を取れる宝なのだそうだ」
おお、と酔客たちはどよめく。
「もしかして、それは袁術がほろびた際に、行方がわからなくなったという『伝国の玉璽』ではあるまいな」
「さあて、そこが噂の噂たるゆえんで、その正体がとんとわからぬ。だからこそ、腕におぼえのある者や、あわよくば天下を、と考えるものなどはこぞって集まって争っており、われらなど眼中にない、ということなのだ」
「しかし、おまえの言う『ひとつところ』というのはどこなのだ」
「それもわからぬ。噂であるからな」
「無責任な。どうせ、どこかのホラ吹きが面白がって口にしたのを、おまえのように真に受けた者がさらに話を大きくして広めたに相違ない」
ふと、目つきの鋭い、あきらかに羌族の地を引いた、頑強な体躯の男が静かに口を開いた。
「いや、そうとも言い切れまいよ。おれも耳にしたのだが、どうもその宝というのは、地中深くにあるのだそうな」
「待て待て。すると、盗賊どもが寄り集まって、みなで地面を掘り返しているというのか」
「そうではない。地中、といっても埋まっているのではなく、洞窟があって、その奥深くに隠されているのだそうな。おまけにその洞窟というのは、まるで迷路のようになっておって、しかも陽光の差さぬ地中ゆえに、迷い込んで、二度と出られぬ者もあるとか。おかげで盗賊は減っておるが、中はまるで死屍累々のすさまじい有様だというぞ」
「そのような大きな洞窟など、いままで成都に暮らして何十年にもなるが、いちども耳にしたことがないぞ」
「だから、いままでは秘中の秘であったのだ。しかし前の殿さまの劉璋さまというのは、鷹揚というかぼんやりしたお方でな、門外不出の大事なものだというのに、ちゃんと管理しなかったのも祟って、うっかり秘密の地図をなくしてしまったのだ。それを手に入れた者がいて、ここに宝と書いてある、ならば捜して見せようと言い出した。それだけならば、まだ半信半疑の話であるが、その男、宝の一部を探し出し、地上に持ち出した。それを見て、盗賊どもは、地図を信じるようになった。ところが、盗賊のあさましさ。地図は一枚しかない。これを寄越せ、寄越さない、の問答がはじまって、争いになり、結局、たった一枚しかなかった地図は焼けてしまったのだ」
「おい、ずいぶん詳しいではないか」
と、いままで黙って耳を傾けていたほかの客が、気味悪そうに男に言った。男は、さきほどとは様子がちがって、なにか得体の知れないものを見る目を向ける酔客に、苦笑いを浮かべた。
「くわしいのは当然だ。なにせ、このおれが、最初に洞窟に潜った人間から、直に聞いた話なのだからな。その男は、洞窟から、なんとか宝を持ち出したものの、地図をめぐる争いにまきこまれ、結局命を縮めてしまった」
「宝を持ち出した? というと、盗賊どもは、空っぽの洞窟を、いまでも宝があると信じて探し回っている、というのか」
「失敬、ことばが足りなかったようだ。おれに話を教えてくれた男というのは、どんな恐ろしい目にあったのかは知らぬが、もうすでに頭がおかしくなっておった。男は、本物の宝そのものは持ち出せなかった。いや、実際は探し出すことができなかったらしい。男が地上に持ち出したのは、本物の宝にくらべるとまるで価値のないものだとか。しかしそれでも、十分なものだとおれは思ったのだがね」
と、男は言うと、大事に持っていた羊の胃袋の袋から、絹にくるまれたものを取り出した。
それを見て、酒家の人間は、みな一様に、感嘆の声をあげた。
目も眩むような光を放つ、黄金の杯!
男が取り出した宝とは、まばゆい純金の杯であった。
董和はいつもなら、酒をすこし飲めば落ち着いて、すぐに屋敷に帰るのであるが、その夜はちがった。
客のほとんどは帰ってしまい、ひとり、近所の常連が酔いつぶれて、いびきをかいているのを覗けば、店には晴嬰と董和だけであった。
「すまないな」
と、董和は言った。董和はザルである。どんなに飲んでも、けして己を失うことはない。
「なんですよ、旦那。あたしは旦那に謝ってもらうようなこと、何もしていませんよ」
そうではない。晴嬰は、ほんとうはもっと内気でしとやかな女である。店では、酔客になめられないように威勢を張っているが、それにしても今夜は饒舌に過ぎた。落ち込む董和の気をまぎらわせるために、わざと人前で董和を口説いて見せたりしたのだろう。
「そなたは、ほんとうに佳い女だな」
「旦那、ほんとうにそう思ってくださっています?」
卓を掃除していた手を止めて、晴嬰はじっと董和を見た。
さんざん苦労をして辛酸を舐めてきた晴嬰の双眸は、それでも童女のように澄んでいて美しい、と董和は思う。
「思うよ」
「わたしがさっき、お客に言っていたこと、冗談だとお思いですか」
「ちがうのかい」
「ちがいますよ」
「年寄りをからかうものじゃないよ。それより、明日からはわたしも晴れて自由の身だ。おまえにその気があるのなら、おまえに似合う男をみつけて娶せてあげるよ」
「そんなもの、いりません」
そうきっぱり言ってのけた晴嬰の眼には、うっすら涙すら浮かんでいた。
晴嬰には年の離れた兄がいた。
両親は早くに亡くなり、晴嬰は、この兄によって育てられた。
ところが、この兄が、ふとしたはずみで人を殺してしまったのだった。
原因は、晴嬰の兄の持っていた古道具に眼をつけた男が、それを騙し取ってしまったからだった。晴嬰兄妹にはとても大切な、先祖伝来の品であった。
董和は、成都の令になりたてのころ、この晴嬰の兄の事件にぶつかった。
しかし運悪く、殺した相手の男、というのが、とある豪族の血縁であった。裁きの場に引き出される前に、晴嬰の兄は賄賂をにぎらされた刑吏たちによって、ひそかに粛清されてしまっていた。
それどころか、口封じのつもりであろうか、少女であった晴嬰までも、人殺しの仲間として、獄につなごうとしていたのである。
庇護者のない少女が、牢獄につながれてしまえば、あとはどのような目に遭わされるか、火を見るより明らかである。
董和は、あやういところで晴嬰を助けだし、下手人が死んでしまったのに、と渋る役人たちをせっついて、事のあらましを明確にし、たしかに晴嬰の兄は人を殺してしまったけれど、殺されたほうの男にも、十分な理由があったのだと世間に証明してみせた。
以来、晴嬰は董和を慕い、なついているのであるが、董和にとっては、晴嬰は娘、あるいは年の離れた妹のような存在であった。
『泣かせてしまうつもりではなかったが』
と、董和にしてはめずらしく落ち込んで、屋敷への夜道をひとり、とぼとぼと歩いていく。
風の強い日であった。
温暖な成都にしては、めずらしく風が冷たい。
おのれの身をかばうように、両手で体を抱きかかえるようにして、董和は、月明かりをもとに夜道をゆく。
董和は、ふと、酒家で羌族の商人が話していた宝のことを思い出した。
巴蜀に、秘宝のありかを示した秘密の地図がある、などという話は初耳であった。
しかし、男が見せた、目も眩まんばかりのまばゆい黄金の杯は、『まさか』と『しかし』を完全に封じるに足るみごとなものであった。
だが、その黄金の杯すら、たいしたことのないもの、と思わせる、すばらしい本物の宝が、まだ洞窟に眠っている、という。
危ういな、と、董和は思った。
万が一、宝が見つかったとして、それが換金性の高いものであれば、宝を軍資金に、反乱を企てる者が出てくる可能性がある。
せっかく落ち着きを取り戻しつつある蜀の地が、ふたたび戦乱に巻き込まれるなど、ぞっとしない話であった。
黄金の山か、それとも『伝国の玉璽』に類するものか…得れば必ず天下を手にすることのできる宝。いったい、どのようなものなのか。
『おや?』
重たい足をすすめる董和の前を、見覚えのある陰が過っていった。
まちがいない。さきほど、酔客に黄金の杯を見せていた、羌族の商人であった。がっしりした体格の男で、商人というよりは、屈強な兵士のようである。
『このような夜更けに、いったいどこへ行くのであろう』
いぶかしみつつ、董和は、吸い寄せられるように男のあとを追った。どうせ、明日から、通わねばならない職場もないのだ。
静かであった。
耳に流れる風の音だけが聞こえてくる。足音で悟られぬよう、董和は慎重に歩を進めた。男はというと、わずかに顔を出す月明かりだけを頼りに、ずんずんと成都の街を歩いていく。
柳が、手招きをするように、ゆらゆらとそよいでいる。その下で、男は不意に足を止めた。
董和も足を止めた。
が、男は、そのまま不動の体勢をとって、ぴたりと動かなくなった。
そうして、董和に背を向けたまま、男は殺気を押し殺した低い声で、闇を破るように言った。
「おい、隠れていないで出てくるがいい。おれは逃げも隠れもせぬぞ」
しまった、ばれていたか、と董和は緊張した。
とはいえ、董和が男を尾行していたのは、純粋に好奇心からで、男をどうこうしようという意志はない。誤解をとかねばなるまい、と真面目な董和はそのまま男に歩み寄る。しかし、数歩行ったところで、背後からつよく肩をつかまれた。
「駄目ですよ、旦那。あの男に近づいたら殺されてしまいます!」
董和はぎょっとした。自分と男以外の人間が、その場にいたことにもおどろいたが、それ以上に、声の主が、ほかならぬよく知る女であったからだ。
「晴嬰? そなた、なにをしているのだ」
「しいっ! いま、仲間があの男を捕らえます。じっとしていてくださいよ」
仲間? と、頭をめぐらすと、闇夜に、いつのまにか複数の影が浮かんでいた。それが男をゆっくりと取り囲んでいく。
とたん、それぞれから発揮される、すさまじい殺気。たがいに一歩も引かない気迫。これは、単なる夜道で行き合った町人の喧嘩ではない。
人と戦うことに慣れた、熟練の兵士のそれである。
「我らの街を騒がす者よ」
と、影のひとつが男に呼びかけた。
「何の目的で、我らの暮らしを脅かすのか。答えよ」
「脅かす、だと? 浄化している、の誤りではないか?」
「そなたは中原の者か、それとも江東の者か」
男は、鼻で笑った。
「ふん、天下に力ある者は、いまやその二つしか残っておらぬと思っているのか。おまえたちこそ、答えろ。おまえたちは軍師将軍の手の者か、それとも尚書令の私兵か」
「この地で、力ある者は、その二人しか思いつかぬのか」
「あいにくとな。あわれなり、名もなき者たちよ、ここで死なねばならぬとは」
「それはこちらの言葉だが」
それを合図に、影が一斉に動いた。
煽られるようにして、柳が一斉に枝を大きく揺らす。同時に、たあん、と大きな音が闇を裂いた。見ると、男はすばやく民家に立てかけてあった長柄杓を得物にして、向ってくる影を追い散らしているのだ。
多勢に無勢、のはずではあるのだが、黒装束の影たちの情けないこと。たかが長柄杓の得物を手にした相手に、ぶざまにあわてふためくばかり。
ある者は干してあった桶に躓いて、一緒に地面にごろごろと転がり、ある者は、長柄杓を避けたついでに体のバランスを崩して甕に頭から突っ込んだり、ある者はサルのように身軽に屋根に上ったはいいが、調子に乗りすぎて、なにもしないうちから足を滑らせたり… 昼間にこの光景を見たら、道化の演武とまちがえたかもしれない。
影たちのうろたえぶりに、男の嗜虐心に火がついたのか、虎のような雄たけびをあげて、影たちを追いかけ、煽るようにして攻撃を繰り出す。
影たちも善戦しているほうなのであろうが、ともかくおのれの身を守るのが手一杯で、追いかけっこをしている子どものように、きゃあきゃあと逃げ回る。
男は、長柄杓をぶんぶんと振り回しながら、四方八方に逃げ惑う、へっぴり腰の影たちを追う。
影のひとりが、着地をあやまって足をひねった。
ぐらりと揺れる体に、男の容赦ない一撃が降りてくる。
影は、それを運良くかわしたものの、すっかり腰をぬかしてしまったようだ。立ち上がることができず、腕をつかって、懸命に地面を這う。
さきほどまでは遊んでいるようだった男の身から、今度こそ本物の殺気が周囲をふるわせた。
たとえ長柄杓だろうと、あれで急所を思い切り打たれたら、あぶない。
董和は伊達に成都の令を拝命していたわけではない。戦場にこそ出たことはないが、毎日の鍛錬は欠かしたことがないのだ。
ここは、と前へ出ようとする董和を、またまた晴嬰が止めた。
「だめですったら!」
「しかし、放っておくわけにはいかぬ!」
と、晴嬰は、まるで駄々っ子をなだめる母親のような顔をした。
「まったく、旦那は真面目なんだから。大丈夫ですよ。ここで見ていてください」
と、月明かりにぼんやりと浮かぶ民家の屋根に、ひとつの影が浮かび上がった。
それは、屋根の際にまで立つと、地を這う男に集中して、気づかないでいる男の頭を狙い済まして、すぽっ、とおおきな籠を降らせた。
調度いい具合に、男の頭を籠が覆った。突如、視界がうばわれ、男はうろたえて長柄杓を手から離す。
「ようし、いまだ、それっ!」
の、掛け声のもと、いままでどこに潜んでいたのか、わらわらと屋根伝いに影たちがさらに姿をあらわし、うろたえる男めがけて網を投じた。
つぎに、ひっそりと静まり返っていた家屋から、いきおいよく新手の影たちがあらわれて、網の裾を手に手に、もがく男を中心に、ぐるぐると回りはじめた。またたく間に男は全身を網でまかれていた。
さらに、影のうちでもっとも巨漢の男が、のそりと現われると、手にした縄でもって、あざやかな手際で男を縛り上げた。縛り上げた、というよりは、梱包した、というふうである。
「よくやったね、みんな!」
晴嬰の声に、影たちは顔をあげた。どれもこれも似たような黒装束なうえに、闇夜なので、どんな表情をしていて、誰なのか、さっぱりわからないのだが、それでも晴嬰があらわれると、男たちはよろこび、浮き立っているように見えた。
董和は、わけもわからず、晴嬰とともに、いまや大きなミミズのようになっている男に近づいていった。
さきほどの、縄をかけた巨漢の男は、無情にも羌族の男にがつんと一発くらわせて、地面に転がした。
そして、巨漢の男は、大仰そうに、よっこらしょ、と言って羌族の男のかたわらに屈みこみ、無造作に網の間から、体を探っている。
と、巨漢の影がちいさく舌打ちして、顔を上げた。
「晴嬰さんよ、やっぱり、こいつも持っていたぜ」
その野太い指に、なにかを掲げている。月明かりに鈍く光るそれは、黄色い輝石の嵌め込まれた、銀の指輪であった。
晴嬰と董和、そしてほかの影たちは、指輪を覗きこむ。
「やっぱり、こいつもあの連中の仲間だったのだね。いったい、何が目的なのだろう」
「晴嬰さんの店だけじゃなく、田さんところの店でも、おなじようなことをしていたらしいですよ。お宝と称して、黄金の杯を見せびらかす。で、そのあとひとりでわざと夜道をうろついて、宝の話に興味を持った人間を捕まえて、どこかへ連れて行ってしまう…」
「連れて行かれたほうは、自分で付いていったのだと信じているのだから、困ったものだね。二度とお天道様を拝めなくなるっていうのにさ。でもやっぱりわからないね、『九門古城』の噂を広める必要がどこにあるのだい? そんなことをしたら、宝を独り占めすることがどんどんむずかしくなるじゃないか」
「それは、こいつにしゃべってもらいましょう」
と、影は、まだ抵抗を見せている、巨大なミミズを、足でこづいて言った。格好はものものしいが、その黒装束の声に、聞き覚えがある。
董和は尋ねた。
「もしや、そなた、竹細工屋ではないか…」
「ええっ、どうしておわかりになったのですか、董の旦那」
と、男はもう敵がいない、というので安心したのか、黒頭巾を脱いだ。
中からは、董家で贔屓にしている、腕の良い竹細工職人の、ちょっとネズミに似た、出っ歯の細面があらわれた。
「やはりそうか。すると、そこの屋根でこいつに籠をかぶせたのは、玉子売りだな。道理で動くものに籠を被せるのが得手なわけだ。毎日、すばしこい鶏をそうして籠でつかまえているのだからな。動作の遅い大男など、問題ではなかろう。そして、そこで縄をかけたのは肉屋だな。なるほど、道理で手際が良いわけだ。動物をあやめるときに、かならず暴れるものを縛めねばならぬおまえなら、網で身動きのとれない男を縛るなど容易だろうからな」
「ご明察でございます」
と、董和の詰問に、影たちは答えるようにして、つぎつぎと頭巾を取った。どれもみな、この長星橋では見た顔ばかり。董和が仕事の帰り際に、立ち寄っていく店の主ばかりである。
「おまえたち、夜盗の真似事なんぞして、なんのつもりなのだ!」
「夜盗はあんまりですぜ、董の旦那。おれたちは、成都の町を守るためにあつまった、長星橋商店街の有志なんでさ」
と、黒頭巾を外して、恐ろしげな、いかつい顔をした肉屋が抗議の声をあげた。
「守るだと? 賊の輩は、ここ最近、減っていると言っていたではないか」
「それはあくまで上っ面だけの話でしてね。晴嬰さんの店でも話したでしょう。この男の言うことは、いまいましいことに、本当なんですよ」
「宝を求めて、賊がひとところに集まって殺し合いをしている、という話か」
「ここじゃ警邏がやってきます。栄耀飯店へ参りましょう。あそこがあたしたちの本営なんです。旦那にはそこで事情をお話いたします」
と、晴嬰が言った。そこには、董和のよく知る晴嬰の面影はなく、厳しい、どこか決意に似たものをみなぎらせた、一個の女の姿があった。