リクエスト作品
空が高すぎる
5
徐庶が劉表へ仕官をしようとした件は、だれからともなく漏れて、やがて司馬徳操の私塾の生徒の、いちばんの話題となった。
劉表が断わりをいれたのか、それとも徐庶のほうが断わりをいれたのか、そのあたりはあやふやなまま、ともかく、話が流れた、ということだけが広がった。
生徒たちの大半は、裕福な家庭の子弟であったから、徐庶の挑戦を酒の肴にしては、どこがどう駄目なのかと勝手なことを話し合った。
そして、司馬徳操の私塾ではいつもの光景であるが、徐庶の悪口をたたく者たちの場に、孔明が居合わせると、かならず喧嘩となった。
司馬徳操も、最近では、どちらかが気絶するまで放っておくことが増えた。
孔明のこのところの機嫌はすこぶる悪く、仲裁にはいって、うっかり左の頬に拳をまともに喰らったことが、司馬徳操の態度を弱腰にしたのである。
孔明の機嫌が悪いのには理由があった。
徐庶は、劉表の仕官への話が流れたとはっきりすると、待っていたかのように、その日のうちに旅に出てしまった。
行き先は、だれにも告げなかった。
徐庶がそのように、だれにもなにも言わずに旅に出てしまうことは初めてであったから、それがまた、さまざまな憶測を呼んだ。
将来に絶望して、ちがう土地へ去ってしまったのだとか、故郷にもどるのだとか、いいや、別な君主をもとめて旅に出たのだとか、信憑性の高いものから、低いものまで、あれやこれやと出てきたが、確かなことは、本人しかわからない。
孔明の機嫌がわるいのは、徐庶が自分になにも告げずに行ってしまったことが気に入らないのである。
素行の悪い亭主を待つ女房のようだ、と軽口を叩かれることもあり、そうなると、孔明は果敢に戦った。
そして、たいがい、からだのどこかに青痣を作って家に帰り、黄家から来た年上の女房にひどく叱られていた。
旅の行き先は、じつのところ、徐庶にもわかっていなかった。
ともかく思いつきで、北ヘ行ったり、南へ行ったり、東、西へと足を伸ばした。
かつての大虐殺のあった徐州が、ほかならぬ曹操の治下で立ち直りつつあるのを見た。
大海の広さがどれほどなのかを確かめに東の果てまで行って見た。
公孫氏の治める土地にまで行って、辺境の民と蛮族との攻防の様子を見た。
曹操の膝元である許都の栄華を見た。かの張騫のように、汗血馬を探そうと思ったのだが、これは途中で熱病を患ったので、引き返した。
そのまま南下して、険阻な蜀の大地を目の当たりにし、荊州よりもはるかに平和で、多くの民族の交易が盛んな成都の様子を見た。
途中、道連れもあったし、たった一人で、何日もだれとも口を利かないこともあった。
足の豆をひたすら潰し、路銀がつきると、その土地で働き口をもとめて工面した。
中華と呼ばれる地域のほとんどをくまなく回り、最後に交州を抜けて揚州へ入り、江東からふたたび荊州へもどってくるのに、一年を要した。
徐庶は、旅の終わりに、襄陽にはもどらずに、石広元のところへ向かった。
石広元は、もともと徐庶と同郷である。
徐庶がおたずね者になって逃亡する際に、いっしょになって付いてきてくれた若者であった。
地味であるが、気のいい青年で、孔明とはまたちがった意味で、長年の徐庶を支えてくれた人物でもある。
小さな丸い顔に、カラスの羽をふたつハの字に並べたような髭が特徴で、目も鼻もまるっこい形をしており、人柄のよさがそのまま顔にあらわれている。
石広元は徐庶が顔を出すと大変よろこんで、一家をあげて迎えてくれた。
かれは、崔州平とおなじく、すでに妻を迎えており、故郷の両親を呼び寄せて、ともに暮らしていた。
石広元の位は郡の戸曹史主記である。
つまりは戸籍係であるが、辺鄙な土地柄で、禄は高くなく、生活は苦しい様子である。
石広元が仕官を急いだのは、早くも第一子に恵まれたからである。
崔州平とちがって実家が資産家というわけではないため、家族を養っていくために仕事が必要だったのだ。
徐庶と石広元は、石広元のほうが年下であったが、二年のあいだに会わないうちに、かれはすっかり老け込んでいた。
もともと、老成したところのある青年であったが、老成などというものを飛びぬけて、一気に中年男になってしまったように見える。
生活の苦労が顔ににじみでているが、それでも、石広元の目は、生き生きと輝いていた。
これが女房をもらって家族を守っている男の顔か、と、徐庶は、似たような立場にいる崔州平(こちらは妻子もちで無位無官である)と、孔明(こちらは仮の妻もちで無位無官である)の顔を思い浮かべた。
崔州平や孔明の若々しさは、実社会で苦労していないせいなのだろうかと、徐庶は、苦笑しながら考えた。
石広元の妻が挨拶にあらわれたが、愛らしい、感じのよい女で、慎ましやかな暮らしを好む石広元には似合いであった。
奥のほうからは、やっと不明瞭ながらも、しゃべることをおぼえた子供の声が聞こえてくる。
その世話に追われる妻や両親たちの姿を見る友の目は、徐庶がおどろくほど深い優しさを湛えたもので、それは、襄陽では決して見ることのなかったものだった。
最初は、お互いの近況や、共通する友のことを話していた二人であるが、酒が進んでいくと、自然と、仕官の話になった。
徐庶は、この友には、素直に心情を打ち明けることができる。
孔明に対しては、『兄』でなければならない、という気負いが出てくるため、泣き言の類いは口にできないのだ。
「参考にならないかもしれないが、やはり、実地でおのれの才能がどれほどのものか、試されるというのは楽しいものだ。
世間から見れば小さな地位かもしれないが、俺はいま、毎日が楽しくてたまらないのだ」
と、石広元は笑った。
負け惜しみなどではなく、そうなのだろうと思う。
生活苦に悩まされてはいるようだが、目の輝きは、襄陽にいたときよりも強くなったように感じるからだ。
「昔の知り合いには、よく老けた、失敗したと思っているのではないか、などとからかわれるが、なに、ちっともそんなことは思っていやしない。
やはり、おのれの器を測るためには、人の中にいなければならないのだと、社会に出てからほんとうに実感するようになった。
昔はどこか、書物の言葉を借りてしゃべっていた気がするが、いまは、きちんとおのれの言葉を語ることができるのも楽しい」
「そういうものか」
応じる徐庶であったが、心のうちで、ほんとうだろうかと疑う心もあった。
徐庶の目から見ても、石広元は、地方の小役人で終わらせるには惜しい人物だと思っている。
本人が、仕官先にておのれの器を測っていると語っている以上、それを自覚しつつあるはずだ。
「一年以上も大陸をまわって、どうであった」
と、不意に、おだやかな笑みをたたえたまま、石広元はたずねてきた。
どう、の意味は、詳しく言われなくても明らかであった。
このところ、荊州の人間の関心時はただひとつ。
曹操は、やってくるのか否か、である。
「あと二年、いや、一年かな。曹操の治世は、やはりすごい。人の使い方が巧みなのだろう。袁紹との戦でよほど疲弊しているだろうと思っていたが、とんでもない僻地の村でさえ、復興をはじめているのだ。しかも命令が行き届いている。
俺たちは外の人間だから、曹操のことがことさら悪く見えるのだが、しかし実際に北の人間で、曹操を悪く言うやつは、すくないな」
「毎日を平和に暮らしていければ、だれも文句は言わなくなる。そうか、となると、曹操のところで仕官したほうがよさそうかな」
石広元はそう言って、口ひげを揺らして笑うのであるが、半ば冗談ではない証拠に、目が笑っていなかった。
「徐兄、あんたはどうするのだい。俺の耳にも、劉表に振られたとか振ったとか、そんな話が聞こえてきたのだがね。
ハッキリ言わせてもらえば、劉表は駄目だろう。曹操がやってくるかもしれないとわかっているのに、家督争いなんぞで家臣を真っ二つにしているようでは、袁紹の二の舞だ。
となると、もう残っているのは四つだけ。曹操、馬騰、劉璋、孫権。
さらに言わせてもらえれば、おそらくそのなかでも、もっとも将来が安泰なのは、曹操のところだろうな。帝を擁しているのは、やっぱり強い」
「しかし、許都を見てきてわかった。曹操のところは、士大夫が山ほどいる。俺たちのように後ろ盾のない人間は、どこにも食い込めずに終わるのが関の山だ」
すると、頬杖をついて酒をちびちびと進めながら、石広元は目をほそめた。
「なんだ、結局、徐兄も孔明の意見に賛成なのだな」
「なんだって?」
「いや、いつだったか、孟公威が故郷に帰りたいと嘆いていたとき、孔明のやつが『帰ったところで中原には士大夫がいっぱいいて、自分たちのくい込む隙はない。なにも中原だけが天下のすべてではない』とかなんとか言っただろう。つまりは、同じことじゃないのか」
「ああ、言っていたかもな」
うなずきながら、徐庶は、満腹だというのに、皿に残った料理を、ちびちびと口にした。
「曹操がだめだというのなら、あとは馬騰と劉璋と孫権だ。しかし、どこもいまひとつ魅力に欠けると思わないか。
馬騰のところは遠すぎるし、劉璋は、人物はそう悪くないが、天下の趨勢に疎すぎるという話しだし、孫権のところは、あれは完全に地縁社会だからな。それこそよそ者がくい込むのは厳しい。
となると、あとは世をすねて隠棲する、ということになるわけだが」
徐庶は、ともに隠棲するのも楽しいと話していた、孔明のことを思い出した。
一年以上の旅のなかで、なんだかんだと、徐庶の基準は孔明だった。
「なぜ旅をしてきたのだい。襄陽のほうじゃ、あんたが劉表に振られたのが悔しくて、出奔したことになりつつあるそうだぜ」
徳利を傾けながら笑う石広元に、徐庶はつられて苦笑いを浮かべた。
「言いたいやつには、言わせておけばいい。襄陽のことは、俺の耳にも入っている。あんまり変わっていないようだな」
「そうだな、孔明のやつが、すっかり隆中の田舎に引っ込んだよ。弟夫婦の畑がもぐらに悪さされてたまらないからだという話だが、実際は世間から遠ざかりたいからだろうという噂だ。
とはいえ、孔明は、妙なものだが、隆中に引っ込んでからのほうが、人づきあいがよくなったようだよ。暇さえあればぶらぶらと、知り合いの家へ出かけて、ほとんど家には帰らないらしい。
徐兄がいたころは、ほかのやつとは、あまり付き合いをしなかったやつが、変われば変わるもんだ。徐兄がここに来る何ヶ月か前に来たが」
「どう変わっていた」
徐庶が箸をおき、勢い混んでたずねると、石広元は、苦笑いを浮かべつつ、答えた。
「そうだな。すこし丸くなったようだった。隆中へ引っ込んだのが正解だったのか、あちこちぶらぶらしているので、返って世間ズレしたのか、そのあたりはわからんが、前よりはだいぶ話やすくなっていたぜ。
昔は人の話をろくに聞かないで、自説を押し付けるようなところもあったが、いまはちゃんと人の話を聴くようになった。話題も豊富で、話をしていて、ぜんぜん飽きなかったよ。
なによりおどろいたのは、うちの子の遊び相手をして行ったことかな。あいつ、大人には辛辣だが、子供には甘いんだ。どういう基準だろうな?」
「さあて、わからんが、崔州平の子供が懐かないといってしょげていたので、子供好きなのはまちがいないだろう。そうか、丸くなっていたか」
ああ、とうなずき、それから唐突に、石広元は笑い出した。
「どうした」
徐庶がたずねると、石広元は、杯を片手に、肩を揺らした。
「いや、なんだかおかしくなったのさ。奇妙なもので、俺は、水鏡先生のところにいるときは、孔明が苦手だった。世界がちがうというか、人種がちがうというか。話そうと思えば話せるのだが、どこかこう、違和感があったのだ」
「孔明は人を怖がっていたからな。あれも変わったのさ」
「いや、そうかな。俺は変わっていないと思ったよ」
石広元は、愉快そうに笑いながら、首を振る。
酒が相当に回っているらしく、その頬も鼻も、熟れた杏の実のようになっている。
「たしかに孔明は、丸くなったし、社交的になったが、あれの根本はまるで変わっていない。俺は、それがうれしかったな。
孔明というやつは、得だよ。自分のよいところを、そのまま変えずに持っていられるやつなのだ」
「よいところ?」
徐庶がたずねると、石広元は、大きくうなずいた。
「妙なものだが、こうして実際に仕官して働き出してみると、襄陽の仲間で思い出すのは、あんたや崔州平たちではなくて、なぜだか孔明なのだ。
俺の出立の前の日に、おまえたちが送別会をひらいてくれただろう。あのとき、空の彼方を越えてみたいと、俺が話したことを覚えているか」
「ああ、たしかそれで盛り上がったな。仙人になるしかないとか、天女の衣を奪えばいいとか」
「そう。そのなかで、孔明だけが、空を飛ぶ算段を考えようと言った。冗談ではなく、本気で言っていたのだ。ほかの連中が、仙術がどうとか天女がどうとか、冗談にしてしまっていたのに、孔明は空を飛ぶには翼を作るか、それとも別の風に乗る方法を考えるべきだと真剣に考えていた。
まあ、飲んだついでの、たわいもない話だったかもしれないが、俺は孔明の言葉がふしぎに印象に残った。
俺たちはいつも、ああしたい、こうなりたいと、願望ばかりを口にしていたが、振り返って思い出してみれば、孔明はいつも夢を実現させるにはどうしたらよいか、かなり現実的なことを口にしていたように思う。
孔明は、すべてにおのれを重ねて、実際にどうするかを発想できるやつなのだ。
ああいうやつと一緒に仕事ができたら、意外と楽しいのではないかと、実際に働き出してから、そう思うようになった。
あいつなら、しきたりだのしがらみだのに縛られず、その場、その時の最良の方法を考え出せる気がする。
必要なのは知識ではない。知識は、書物を開けば、もうすでにそこにあるのだ。いまの、確かなものがなにひとつない世の中で、もっとも必要とされるものは、孔明のように、自由な発想ができるやつなのかもしれないなと、思うよ。
だから、孔明がここに来た時も、社交辞令ではなくて、ぜひまた俺に会いに来てほしいと思っていると言ったら、照れていたな。
ああいうところを見ると、徐兄がやたらと孔明を贔屓にして、過保護になっていた理由がわかる」
石広元は、最初に言っていたとおり、司馬徳操の私塾では、孔明を避けていた人間である。
それが、この変わりよう。
徐庶はたずねた。
「丸くなっていたと言っていたな。もう餓鬼のように喧嘩はしていないようだったか」
「うん、口喧嘩ですませているらしい。そこもたいした進歩だ。あんたがいないので、すこし自立したのだろう」
「そうか。変わったか」
徐庶は複雑だった。
徐庶が旅をはじめたのは、まず孔明から遠ざかるためでもあった。
劉表に仕官を求めた日以来、徐庶は孔明との距離が、いま以上に縮まるのを恐れた。
孔明がおのれを頼りすぎて、自分を押し込めているのが見えてしまったのが、ひとつ。
もうひとつが、孔明の優しい誘いに、抗えなくなる自分が、こわかったのが、ひとつ。
田舎に隠棲して暮らすことは、その気になれば出来ただろう。
あまり仲のよくなかった石広元さえ、いつのまにか心服させている孔明である。一緒にいれば、楽しいに決まっている。
だが、その先にはなにもない。
自分で築いてきたものを捨てる代わりに、未来も捨てることになる。
それに、徐庶には、わかっていた。
いままでは、孔明は、杖にすがるようにして、徐庶にすがって生きていた。
だが、孔明は、徐庶がいなくなったことで、かえってとおのれを成長させていった。
重ねてきた歳月のなかで、おのれの弱さを、自然と克服していたことに気づいたのだろう。
石広元とうまく付き合っていけるようになったのも、その証拠だ。
それまで小さい世界にあえて閉じこもっていたのが、外に目を向け始めているのである。
そうなることは、徐庶は十分に承知していた。
徐庶は、孔明に追い抜かされることを恐れて、旅に出たのではない。
それよりも恐れたのは、自分が、孔明にとって、『兄』ではなくなることだった。
孔明にとって、不要な人間になってしまう、おのれの小ささ、弱さが嫌だった。
「そうだ、水鏡先生から手紙が来ていたのだった。おまえがもし帰ってきたら、かならず寄るように伝えてほしいとのことだよ。大事な話があるらしい」
「もちろん、寄るつもりだが、なんだろう」
「たぶん、新野の劉予州の件だろう。俺は会ったことがないが、あの御仁は、このところ、軍師がほしいと、方々に働きかけているのだそうだ。
曹操がまちがいなくやってくるから、その備えのためもあるだろうが」
劉玄徳の名は、荊州でほとんど隠居のようになっているにも関わらず、旅のなかで、ときどき聞こえてくる名前であった。
おのれの国を持ってない、四十をなかば過ぎようとしている人物に、いまだ関心を見せている人々がいるのである。
劉姓であるからなのか、それとも、その義兄弟や家臣たちの、いかにも講談師が好みそうな物語が、人々の記憶を刺激し続けているからだろうか。
思うに、六年間も動けずにいる主君に対して、もともと荊州の人間ではない家臣たちが、だれひとりとして欠けることがない、というのも、不思議なことであった。
「それはつまり、俺に劉予州の軍師にならないかと、そういうことを水鏡先生は考えてらっしゃるのだろうか」
石広元は、さあ、と言いながら、首をかるく回した。
仕事で体が固まってしまっているのか、石広元の身体からは、ぱきぽきと関節の音が聞こえた。
「どうかな。しかし、悪い話じゃなさそうだぜ。劉予州は、たしかに劉州牧の食客になっている人物だが、評判はいいみたいだ。あんたとも相性がいいんじゃないのかな。
もう四十五にちかいという人物だが、赤ん坊のように素直なんだそうだぜ。
年を取ると、自分の経験をよそさまに吹聴したがるようになるのが普通だが、劉予州はそういう真似はせず、ひたすら人の話を聞いて、勉強しようとするのだそうだ。
水鏡先生がめずらしく劉予州の軍師を探しているのも、劉予州の人柄が気に入ったからだろうな」
「水鏡先生は、自分が軍師になったらいい」
「そこはそれ、あの方は、たしかに人にものを教えるということには長けているが、駆け引きというものがまるでできない。
そういう人間は、組織のなかでやっていくのは、つらいよ」
そう言って、石広元は笑う。
笑いながらも、やつれた顔を見て、徐庶は、この友も、世間というやつと戦って、けんめいに自分を磨いているのだなと思った。
俺は、みなから、だいぶ遅れてしまっているようだ。
石広元の屋敷で数日ほど世話になったあと、その足で、徐庶は、襄陽をあえて通り過ぎ、孔明が隠遁しているという、隆中へと向かった。
教えられた道のとおりに孔明の庵へ行くと、その途中、拍子抜けするほど、あっさりと、本人と再会した。
孔明は、なだらかな丘のうえで、ひとり、身をかがめて、草を積んでいた。
農作業をしている、というふうではない。
人の影もまばらな、のどかな光景のなかにあっても、孔明は相変わらずの着道楽だった。
だれも見ていないというのに、質のよさそうな洒落た衣を纏っているのが、孔明らしいといえばらしかった。
孔明は草叢で、丹念に植物を取って、几帳面についている土を払っている。
薬草を集めているようだ。
旅の中で、さまざまな顔を見た。
男の顔、女の顔、年寄りの顔、子供の顔、人種もばらばらな顔だ。
しかし、孔明の顔というのは、やはり際立っている。
美しさもそうであるが、男の顔とも女の顔とも判断つかない、性の曖昧な、それでいて、気高くはっきりとした線を持っている顔。
一年のあいだに、ずいぶんまた、迫力が増して、綺麗になったじゃないか、と徐庶は思った。
その容姿を形容するのに、綺麗などという言葉がすんなり出てきてしまうところも、孔明のすごさである。
見ただけで判った。孔明は、一年のあいだに、とんでもなく成長したのだ。
その内面の成長が、外面にも大きな磨きをかけた。
そして、徐庶は、はっきりと予感した。
人生は残酷だ。
迷い、悩み、苦しみ、もがき、それでも楽しかった日々は、もうとっくに終わっていた。
はっきりとした節目を迎えないままに、俺たちの道は、すでに分けられてしまった。
俺たちは、節度というものを知り、おのれという者を知り、互いの形をはっきりと見た。
境界線のあやふやだった昔には、もう戻れないのである。
孔明は、額にかかる後れ毛を、繊細そうな細長い指先で払っていたが、その途中で、ふと気づいたように、こちらに顔を向けてきた。
唖然としている顔が、またおかしい。
とうとう吹きだすと、それを合図に、孔明が草木を踏み分けて、丘の上から駆け寄ってきた。
「いつ!」
と、孔明は言った。
「十日ほど前だ」
短く答えると、孔明は、まだ信じられない、というふうに、まじまじと、目のまえの徐庶を見た。
言葉を失っている顔や、目じりににじみはじめた涙を見て、徐庶は、こいつもまた、俺のことを忘れてはいなかったなと思って、うれしくなった。
かけがえのない友である。
これほど強烈に惹かれた人間は、ほかにはいない。
最初は、孤立している少年を見ておられなかったから、面倒を見た。
だが、そのうち、孔明から与えられる愛情が、かけがえのない大事なものになった。
孔明は、そのすべてで、自分自身の明るいところを、太陽のように照らしてくれた。
孔明がいなかったら、ここまでしっかりと学問を修めることができただろうか。偏見に克って、人生を見つめなおすことができただろうか。
そうだな、俺は、こいつに育ててもらった人間だ。
俺がこいつに感謝しているのと同じくらい、俺もこいつから、一緒に年月を過ごしたことを、感謝される人間にならなくてはいけない。
出会ったのが孔明だったからこそ、襄陽での俺の暮らしは、いま思うと、切ないほどに、楽しいものになったのだろう。
それなのに、ずっと一緒にいることは、もう出来ないのだ。
これからは、互いに同じ方向を向きながらも、決して交わることのない道を、真っすぐ歩いていく。
出来ることは、励ましあうことだけだ。
そして、徐庶は知った。
なぜ、大恩ある司馬徳操のいる襄陽を無視して、まず孔明のもとへやって来たのか。
「元気そうだな」
「元気だよ。驚いた。白昼夢でも見ているのじゃなかろうか」
そうつぶやく孔明の目尻から、静かに涙が、白い頬に線を描いて落ちた。
つんけんした態度を取っているわりに、情が厚いのが孔明なのだ。
ふと、そんなに堅苦しく考えるな。突き詰めずに、今までと同じように振る舞って、のんびりと田舎で過ごせばいいじゃないかという思いが頭をよぎった。
それを振り切るようにして、徐庶は空を仰ぐ。
雲ひとつない蒼穹は、深い深い色をたたえて、果てしなく広がっている。
なんという高い空か。
かつて、まだおのれをはっきり知らなかった頃は、怖いものなど何もなかった。空でさえも飛べるのではと信じていた。
空も飛べないこの小さな身の、ちっぽけな限界を超えるために、先へすすむ勇気をもたなければならない。
共にあろうといえば、孔明は喜んで従う。
けれど、それは互いに成長するどころか、元に戻ることを意味する。
あまりに近くにありすぎた。
だからこそ、あまりに互いに依存してしまった。
弱さすら優しく許してしまうまでに馴れ合ってしまったこの関係に、未来は用意されていない。
もしも相手をなにより大切に思うのならば、優しい過去と決別しなければならないのだ。
願わくば、孔明が、これから先も、高く飛び立てることができるように。
俺がその礎になれればいい。
深く傷ついた人間同士で、互いに支えあって生きた。
お互いの境目がわからなくなってしまうほどに、共にあることにこだわったのは、きっと寂しかったからなのだろう。
俺たちは、そういうふうに出会ったのだなと、運命の苦さを噛みしめながら、徐庶は、ゆっくりと、別れの言葉を口にした。
「孔明、俺は仕官をするだろう。そのために戻ってきた。たぶん、おまえと顔を合わせることは、これからしばらく、ないだろう……」
終