リクエスト作品
空が高すぎる

男とすれ違ったさい、徐庶はすこしだけ興味が引かれたものか、男のほうに顔を向けたが、男のほうは軽く会釈をしただけで、そのまま立ち去っていく。
そのきびきびした歩き方は、いかにも武人、というふうだ。

男の背中が遠ざかると同時に、徐庶が近づいてきた。
「こんなところにいたのか、探したぞ。崔州平は帰ってしまったというし」
崔州平は、ほんらいは律儀な性格なのだが、ときどき、戸惑うほどに気まぐれな振る舞いをすることがある。
孔明や徐庶にはわからない、崔州平だけが感じる『不快さ』が原因らしいのだが、たとえ状況が落ち着いたあとでも、崔州平は、けっして具体的になにが不快なのか、理由をいわないので、やはり孔明たちが戸惑うばかりで終わり、原因をつかむことはできない。

また気まぐれが起こったのだな、あれも一児の父親になったというのに、そういうところは直らないのだな、と孔明が考えていると、近づいてきた徐庶は、顔を曇らせて、覗き込んできた。
「どうした、おまえ、泣いているのか」
たとえ喧嘩で一方的に殴られようと、罵詈雑言を浴びせられようと、人前で涙をこぼすことの稀なのが孔明である。
泣いていたことさえ、悟らせようとしない。
その意地っ張りが、あきらかに泣いていたのだとわかる様子で、人気のない城の一角でぼんやりとしていたのだから、おどろかれるのも、無理はなかった。

徐庶は、廊下ですれ違った男を振り返る。
「もしかして、いまの男と喧嘩でもしたのか」
どうやら徐庶は、孔明がだれかれかまわず喧嘩をするものと思っているらしい。
わたしの日ごろの素行の悪さが、そのまま反映されている言葉だな、と孔明は苦笑して、答えた。
「ちがうよ。あの人はわたしに道を聞いてきただけだ。涙が出ていたのは、照り返しがまぶしくて、目が疲れただけだ」
答えると、徐庶が、ほんとうか、と問うように、眉を上げた。
「ほんとうだよ。おどろかせてすまなかった。そちらの首尾のほうは、どうだった」
徐庶の顔は、とたんに、目をほそめて、肩をそびやかし、短く声を出して笑った。
こういう笑い方をするときは、よくなかった、ということだと、孔明は知っている。
「もともと仕官するつもりはなかったが、あれは駄目だ」
「仕官するつもりはない? どうして途中で変わったのだ? 崔州平になにか言われたのか」
孔明が詰め寄ると、徐庶は、やめろ、というふうに手を振って、答えた。
「そうではない。なんというかな、おまえの想像どおりだ。もしかしたら、間がわるかったのかもしれないが」
「間って? 劉州牧は、具合でも悪くしていたのか」
「いいや、元気だった。とりあえず、歩きながら話そう。なるべく早く、この城から出たい」

徐庶にうながされるようなかたちで、孔明は徐庶と肩を並べて歩き出した。
陽も翳ってきたので、あちこちで、蝋燭を手に、明かりをつける係の女官たちが廊下を移動している。
粛々とした動きは、なかなか幻想的で、女たちの衣裳のうすい絹の巾領が、まるで大きな蛍の羽根のように見えた。

「きれいなものだな。けれど、あこがれない。もうちょっと泥臭いほうが好みだ」
と、徐庶が、じつにらしいことを言うので、孔明は、やっとほっとして、笑った。
「間がわるかったって、どういうこと」
「さあて、今日は昼に、ちょっとした宴があったそうなのだ。
いま、荊州の最北の城に、劉予州とその家来がいることは知っているだろう。劉予州は、わかるな? 
袁紹のところから流れてきて、同族だからというので、劉州牧に、食わせてくれと頭を下げてきた御仁だ」
「名前だけは。いつも負けている人だな。けれど、ふしぎと評判はいい」
「そう。いわゆる識者といわれる連中からの評価は辛いが、世論からは好かれている男だ。
その劉予州が、家来と一緒に、劉州牧のところへ挨拶に来ていた」
「会ったの」
「いいや。しかし、さっきすれ違った男、あいつがその家来ではないかと思うのだが、そいつがひと騒動起こしたのさ。
はじまりはこうだ。宴のときに、劉州牧が更衣のために席を外したそうなのだ。で、そのあいだ、文官たちが、近頃亡くなった同僚の葬儀の仕方について、あれこれと論議をはじめた。
話の流れか、それとも酔っていたのか、そのなかのひとりが、劉予州の家来を、無学の徒と決め付けて、ずいぶん無礼なことを口にしたらしい。儀礼(ぎらい・五経典のひとつ。冠婚葬祭の礼儀作法をまとめた書)なんぞ、読んだことすらなかろうと、そんなことを言ったようなのだ」
「うん」
「そうしたらば、おどろいたことに、武人だというその男は、すっくと立ち上がると、自分がむかし習った知識がまちがっているといけないから、儀礼のすべてをこれから暗誦するので、確認していただきたいと言い放った」
「へえ、負けず嫌いだな」
「文官どもは、みな、武人が腹をたてて、勢いで口にしたことだろうと思って、これはよい肴になると、最初は喜んでいたそうなのだが、劉予州の家来は、そんな空気はものともせず、儀礼を完璧に暗誦してみせたそうだ」
「くだらない」

言い放つ孔明に、徐庶は足を止めると、その高い鼻梁をつまんで、からかいながら言った。
「また始まったか、暗誦をするなんて時間の無駄、内容だけを掴めばよい、が」
孔明もまた、徐庶の悪ふざけに、笑いながら手をふりほどいて、答える。
「そうではないよ。くだらないと言ったのは、そんなくだらない挑発をしたほうもしたほうだし、それにまんまと乗っかって、わざわざ知識を披露してみせたほうも、どうかしていると言ったのだ。
その家来とやらは、挑発されても、黙っているべきだった。儀礼のぜんぶを暗誦して見せれば、相手をやりこめられると思ったのだろうけれど、ただ樊城の文官のなかに、敵を増やしただけじゃなかろうか。
それは主君の身も危うくさせることだろうに」
「毎日、むやみやたらに喧嘩ばかりしているやつが、言うな。しかし、さすが経験者だ。わかっている、と誉めてやらんでもない」
「けなしているの、誉めているの、どっち」
「両方だ。まあ、要するに、おまえの言うとおり。ここの連中は、無駄に誇りが高すぎる。
その家来があんまりコテンパンにやりすぎてしまったので、かえって文官たちの反感を買ってしまったようなのだ。
出自のあやしい傭兵あがりの家来ごときが、意気がるな、とな」
「それもひどいな。劉予州は帝に血筋だと認められたと聞いているし、その家来だって、すべてがすべて、流浪者ではない。
徐州の糜家をはじめ、名門の人間だって加わっているのに」
「いくら帝室に認められても、その義兄弟は肉屋とおたずねものだぞ」
「その義兄弟だって、曹操からは、たいそう気に入られたという話も聞いている。最近の人物で、これほど講談の種になっている人物はめずらしいと、徐兄も誉めていたじゃないか」
「なんだ、庇うんだな」
「庇っているつもりはないよ。わたしと同郷の糜家まで悪く言われていることが気に食わない。
ここの人間は、一見すると親切なのだけれど、うわべだけで、どこかよそ者に冷たい」
「まあ、そう言うな。よそ者に冷たいのは、大都会でないかぎりは、どこの土地も似たようなものだぜ」

「家来というその武人……ああ、さっきの人だったのかな。まだ若いようだったけれど」
孔明は、自分に道を聞いてきた男の顔を、照り返しのまぶしさで見ることができなかったことを、いまさら悔やんだ。
「劉予州の弟分かな」
「いや、ちがうだろう。すれ違ったときにちらりと見たが、若すぎる。
ほかの連中が話しているのを聞いて、名前も聞いたのだが、趙、子…ナントカ、とかいう」
「字が『子』ではじまるのか? ならば、流浪者ではなく、れっきとした家門の子弟だろう」
「そうか? いまは身分が怪しいやつでも、勝手に格好のいい名前を名乗っている者もいるぜ。その口かもしれん。
ともかく、話を戻すが、やっぱり、ああいう連中はだめだ、という空気が満ち満ちているなかで、俺なんかがひょっこり顔を出して見ろ。どうなると思う」

うながされて想像し、孔明は心を沈ませた。
おそらくは、徐庶は、この樊城の文官らに、司馬徳操の意地の悪い門弟たちが徐庶にしているような、無礼な態度をとられたのだろう。
徐庶の可能性を閉ざした、劉予州の家来を憎らしく思い、そして同じくらい、偏見にとらわれて大事な者を傷つける、樊城の人間に腹を立てた。

「では、もう仕官はしないつもりなの」
「劉州牧は、あとで司馬徳操を通して返事を寄越す、と言っていたが、あの様子では、だめだろう。劉予州のほうへ行ったほうが、よほどいいかもしれぬ」
「だめだ、そんなのは。劉予州など、そんなところへ行ってどうする!」

劉玄徳という人物について、深い知識があったわけではない。
しかし、孔明は、ほとんど反射的に否定していた。
もともと偏見の目にさらされている徐庶が、流浪者のあつまり、などと莫迦にされている劉備の配下になったなら、ますます偏見がひどくなると思ったのだ。
孔明の素早い反応に、それまで、まるで他人事のようにおのれのことを笑いながら語っていた徐庶であったが、おどろいて、顔をこわばらせた。
ああ、今日は何度、似たような表情を人の中に見るのだろうと、孔明はすぐに恥ずかしく思ったが、しかし言葉を撤回することができなかった。
徐庶の視線を気まずく感じながら、口を閉ざす。

孔明にとって、徐庶は特別なのだ。
自分を認め、はげまし、そして支えてくれた人物。
ただそれだけではなくて、孔明が心から尊敬することができる、唯一の同世代の人間である。
劉表も劉備も、徐庶が仕官する先にしては、小さすぎて、ふさわしくないように思えた。

では、徐庶がどこへ仕官したら納得するだろうかと突き詰めて自問自答してみても、孔明の脳裏には、なにも浮かばない。
不意に、孔明は気がついた。
浮かばないのは道理である。
徐庶がほんとうになにを望んでいるのか、優先して考えたことがない。
徐庶は、生活と思想の両面を充実させることができるかたちでの仕官を、もっとも望んでいる。
けれど、それをまったく無視し、徐庶の姿に、おのれの姿を投影し、思うようにならない現実に怒りをいだいて、徐庶を煽り、振り回している。
それが自分ではなかろうか。

『いいや、そんなことはない。徐兄だって莫迦ではないのだ。わたしがまちがっていたら、きっとまちがっていると教えてくれる。
徐兄が劉州牧には仕えないと言っているのだし、この話は、もうこれきり考えないようにしよう。
徐兄に似合う仕官先は、きっと見つかる。見つかったら、わたしは今度こそ、持てる力をすべてつかって後押しをしよう。もし見つからなかったら、時機を待てばいいのだ。
徐兄は、わたしの世話になりたくないようだけれど、表立っての援助ではなくて、徐兄にわからないような援助の仕方をすればいい。そうして、ゆっくり二人で道を探してゆけばよいのだ』

自分に暗示をかけるようにして、胸のうちでつぶやきながら、うつむき加減に早足で歩く孔明に、徐庶はどう見たか、ぽん、といつものように親しげに肩を叩く。
徐庶は、孔明にとって、まちがいなく信頼できる相手なので、不意に触れられても、なんとも感じないのである。
「おまえにまで、嫌な思いをさせてしまったのかな。だったらおかしなことにつき合わせて、すまなかった」
「そんなことはない。わたしのほうこそ、わがままを言って、すまなかった。いやな思いをさせたのは、わたしのほうではなかったかな」
「おいおい、おまえがそんなふうに、しおらしくなるのは、かえって気味が悪いな」
徐庶が笑うので、孔明も、合わせて笑おうとしたのだが、うまく頬が動いてくれなかった。
「さあて、せっかく大きな町まで出てきたのだし、帰るまえに、なにかめずらしい美味いものでも食べて帰ろうぜ。
それと、土産も買っていこう。ここは、おまえの奢りだぞ」
屈託なく笑って言う徐庶に、やっと孔明も、自然に声をたてて笑うことができた。

このままで、よいではないか。
孔明は、そのあとは、いつも以上に、ひたすら徐庶に従って、街で過ごした。




劉表は、あとで司馬徳操を通して返事をする、といったが、おそらくそれは逃げ口上で、要するにあれは、遠回しに仕官を断られたのだろうと、徐庶は思った。
直接、本人に言わないところが、奥ゆかしいのか、それとも優柔不断なのか、とても悪くとれば、善人ぶっているのか。
どちらにしろ、実際に顔を合わせてみた劉表という人物は、思った以上に、だらしない印象を与える人物であった。
これほど樊城の風俗をきっちり取り締まって、儒を尊ぶようにと励行しているわけだから、それこそ絵に書いたような聖人君子があらわれるのではなかろうかと徐庶は思っていた。
たしかに礼装をしてあらわれた劉表は、血筋のよさゆえか、貫禄はあったものの、しかし、これを尊敬できるかと尋ねられたら、徐庶の答えは否である。

ともかく、肉体の崩れ方が、ひどい。
運動をしていない、というだけではあるまい。
筋肉の全体がたるんでしまっており、だらしのない印象が特に増していた。
衣裳で誤魔化そうとしているのが見てとれて、そこもさらに失望を強めた。
それは、老いによるものばかりではなさそうであった。

そして、なにより目。
たしかに、こちらは仕官したいという意志を先に伝えてあったのだから、値踏みした目で見られるのは当然である。
が、それ以上に、温厚そうな風貌をしているわりに、その目の表情が、ときおり、ぎくりとするほど冷たいものに転じるのは、徐庶にとっては、ますます意外であった。
江東の孫家との争いを終わらせた以降の劉表というのは、さして武力を誇示するでもなく、ひたすら荊州の守りにつとめて、いまの平和を築き上げたわけである。
温厚篤実な男、という評判があったのだが……
『評判どおりの人物ではない』
というのが、徐庶の印象であった。
猜疑心の強そうなその冷たいまなざしを、一瞬の表情の移り変わりの中に見つけたとき、徐庶は、たとえ是非にとすすめられても、劉表のもとで働くことは考えないようにしようと決めた。
『いつ裏切られるともわからぬ者に仕えるなど、蛇の巣にわざわざ足を踏み入れるようなものだ』

とはいえ、そこですっぱりと諦められるかというと、そこはまたちがってくる。
生活のことがあるからだ。
劉表のもとに仕えれば、かくじつに安定した生活を得ることができる。
仕送りをしてくれている母に、楽をさせてやることができる。
司馬徳操のつてを頼れば、いまならまだ、なんとかなるかもしれない。

気持ちが揺れるなかで、こんな疑問も浮かんでくる。
だが、その安定は、ずっと長くつづくものなのだろうか。
そして、徐庶は、ますます深く悩むのだった。

もし安定だけを求めるのなら、飛ぶ鳥を落とす勢いの曹操の傘下に入ったほうが、確実である。
しかし曹操周辺は、すでに古参の家臣や貴族たちによって固められており、身分の低い人間が要職にくい込める可能性は、もうほとんどなくなっている。
出世はのぞめない。が、安定は手に入る。
『おふくろだって、出世をするより、どんな小さな地位でも、役人となって働いていたほうが喜ぶだろう。
けれど、小役人になるために、俺は何年もみなに莫迦にされても耐えて、勉学に打ち込んできたのか?』
俺はなにがしたい?
なにを望んでいる?



樊城の街のなかで夜を迎えた孔明と徐庶は、けっきょく、その日のうちに帰るのをあきらめて、街のなかに宿をとった。
こういうときに、叔父から多額の遺産を受け継いでいる孔明は、頼りになる。
宿代などは、すべて孔明持ちなのだ。
徐庶とて面子があるから、すこしは払う、というのだが、孔明はこういうとき、頑として徐庶の財布を開かせなかった。
「叔父上は、いつもよい友を得よ、そのためならば、手間も時も金も惜しむなとおっしゃっていた。
徐兄は、わたしにとっては最良の友なのだからして、だからこそ、金はわたしがすべて払う」
というのが孔明の理屈である。

孔明のなかで、叔父という人物は、だいぶ美化されているようだが、割り引いて見ても、すくなくとも孔明にとっては、たいへんに立派なところを見せた男だったようだ。
だが、友には金を惜しむな、という論理を、果たして、ほんとうに口にしたかどうかは、怪しいだろう。
孔明は、いつも自信満々に振る舞ってはいるけれど、しかしどこかに、まだ弱いところがあって、だから、問い詰められたときに、抗弁する際は、もっとも頼りにしている『叔父』の名を盾にして、自分の心を主張する癖があるのである。

一部屋に寝台をふたつならべて、闇の中、ふたりはしばらく大人しく眠っていた。
しかし、寝たふりをしているだけで、ほんとうに眠っていないのは、気配でわかった。
それぞれに、昼間にあったことが記憶にあって、興奮して眠れないのだった。

闇になれた目で、なじみのない天井の柱のかたちをじっくりながめていると、闇の向こうから、孔明が語りかけてきた。
「起きている?」
「ああ、おまえも眠れないのか」
「話してもいいだろうか」
「かまわないさ。仕官のことか」

目だけを動かして、孔明の横たわる寝台のほうを見るが、闇を区切る輪郭がわかるだけで、ほかは黒に包まれて、何も見えない。
「それもあるけれど、いままで、はっきり聞いてこなかったなと思って。徐兄は、なぜ仕官をしたいのかな」
「食べていかなくちゃいけないからな」
「そうだろうね」

孔明は、方向のつかめない闇の向こうから、相槌を打ってきた。
ぼんやりと見慣れぬ天井を眺めながら、徐庶は、自分が暗い水面のうえにぷかりと浮かんでいるような錯覚をおぼえた。
孔明の声が、どこか遠くから聞こえるように感じる。
実際には、そう距離はないはずなのだが。

しばしの沈黙のあと、孔明がまた言った。
「そうではなくて、すまない、気を悪くしないでほしい。そういうことを言いたいのではなくて」
と、孔明らしからぬことに、言葉が見つからずに、自分で自分にいらだっているのがわかる。
またしばらく次の言葉を待っていると、孔明はとうとう落ち着かなくなった様子で、身体を起こしたのが、音と気配でわかった。
「素直に言うよ。いま、わたしは焦っているのだと思う。自分がこの先どうしたらよいのか、わからない」
「宰相になる、とか言っていただろう」
「どこで? 帝を擁する曹操とはどうも考え方が馴染めないから、だめだ。となると、ほかの勢力のだれかに仕えることになるだろうが、いまのところ、だれも見当たらない。わたしを使いこなせる人間がいるとは思えない」

いつものこいつのオレ様節が始まったな、と徐庶は思っていたのだが、それからいつもならばつづく孔明の天下談義が、今日はなかなかはじまらない。
どうしたのかな、寝ちまったのかな、と思いながらも待っていると、やがて、孔明の、ふしぎと苦しそうな声がつづいた。
「と、いうのは嘘だ」
「なんだ、いきなり。今日は弱気じゃないか」
「わたしはいつも弱気で、不安だよ。不安で仕方がないけれど、それを悟られたくないから、隠しているのだ。
思えば、わたしを評価してくれる人はとても少ないし、もちろん友人も少ないし、だから人脈もつくれていない。
それに、知っているだろう、人から触れられると体が固まってしまう癖。こんなふうに、人というものとまともに付き合うことができない人間が、ほんとうに人の上に立てるものなのだろうか。
いや、人の中に入って、やっていくことができるものなのかな」

徐庶は横になったまま、孔明の告白を聞いていた。
徐庶からすれば、孔明などは、ずっと若いし、往来を歩いても振り向かない人がないほど目立つ風貌をしているし、弁もたつし、遺産はあるし、家名もよいし、悪いところがないやつで、いまだ仕官しないのは、単にお高いからだと思っていた。
やがて、世間を見る目がもっと慣れてくれば、いい仕官先が見つかるだろう、と。
叔父の暗殺を目の当たりにして以来の、人から触れられることが出来ない癖、というものは、孔明にとって、思わぬ障害になっているようだった。

「俺に触られるのは、もう平気なのだろう。だったら、世の中すべての人間は無理かもしれないが、そのうち、一部だけでも平気になるかもしれない。
だいたい、人が、自分の身体に触れてこることなんて、あまりないものだぞ。気持ちはわかるが、そこまで深刻にならなくてもいいんじゃないか」
「人が怖いのだ」
「うん?」
「揚州で叔父が朝廷の命令を受けてやってきた新しい太守に追い出されたとき、そそのかされた民がいっせいに蜂起した。賞金首に目がくらんだのだ。
叔父は、いま振り返ってみても、よい太守であったと思う。いつも民のことを考えて、自分は質素に暮らしていたのに、みな妄言に振り回されて、血なまこになって、武器を手にわたしたちを襲ってきた」
「ああ、そうだったってな」
「すまない、何度も聞きたくない話だな。でも、わたしは、あのときから、そして叔父が殺されてしまってから、人というものがわからなくなってしまった。
どこかに仕官したとして、そこで、わたしがなにをしたいのかと考えることがある。
けれど、ほんとうは、叔父の復讐を世の中にしたいのではと思えてきて、怖くなるのだ」
「世の中?」
「人というもの、すべてだよ。本来ならば裏切るべき者ではないものを、金のためにたやすく裏切ってみせた人というものを、わたしは罰したくてたまらない人間なのではないか。
そんなふうに冷たい人間が、人の上に立つなどと考えてよいのだろうかと」

「それはおまえ、考え違いというものだろう」
「どうちがうの」
「おまえが許せないでいるものは、人間とか、世間とか、漠然としたものではなくて、金や欲望のためにあっさりと情や義を踏みにじれてしまう、人間という奴の中にある、どうしようもない弱さを許せないでいるのだ。
人間や世間そのものを憎んでいるわけではないんだよ」
「そうかな」
「そうだ。おまえの嫌うものは、すべての人間の中にある。俺の中にだってあるんだぞ」
「そんなことはないよ。だって、徐兄は、人の敵討ちを代わりにするほどに、義に厚い人じゃないか」
「義に厚かったから、というだけではないさ」

答えながら、徐庶は、かつて故郷の潁川での出来事を思い出し、孔明に語った。
敵討ちをしたときの話は、何度か話したことがあったが、もっとも飾らず、素直に話したのは、これがはじめてであった。
不幸な人から頼られた。うれしくて、意気込んで、代理で敵討ちを果たした。
そのとき、自分の力を世に示したいという欲がなかったとは言い切れない。
人を斬ってしまったあとに、後悔した。斬られても仕方のないような男が仇討ちの相手ではあったが、とても後悔した。
苦い後悔のなかで、敵討ちに巻き込んだ人間を恨んだこともある。
いまでも、あれにかかわっていなかったら、俺の道はこんなに難しいものではなかったはずだと、どうしても思ってしまう。
けれど、ほんとうに覚悟をきめて人を斬ったなら、不平不満などあとから出てくるはずもない。
そこに欲があったから、いつまでも過去を引きずり続けているのだ。

徐庶の語ったことばに、孔明はしずかに耳を傾けていた。

「俺にも弱さがあるが、おまえにだって、しっかりある。おまえはもしかしたら、自分にはそんなものはないと思っているかもしれないが、触れられることが嫌だとかいう癖以外に、弱くて脆くて、卑怯なところがあるはずなんだ」
すると、ここでいつもなら反駁してくる孔明が、おとなしく、そしてか細い声で、応じた。
「そうかもしれないな」
「おまえが戦おうとしているものは、自分と考えがちがう人間ではない。強いばかりの人間なんぞ、いないのだ。
おまえは、そろそろ、人間の弱さを認めなくちゃいけない」
「でも、認めたくない、許せない気持ちが消えないときは、どうしたらよいのだろう。
やはり、わたしは、ほかの人間の弱さを、決して許すことができない、心の狭い人間なのだろうか」
「許せないと非難するばかりが戦いか? 弱くて卑怯だと攻撃してばかりで、それで駆逐できるものなのか? そうじゃないだろう」
「……」
「人の弱さをおまえは暴いて、そして変えようとしている。けれど、自分の弱さを引きずりだされて、喜ぶやつなんているものか。
だから、いつもおまえは人を怒らせてばかりいるのだ。そして、誤解されて、憎まれる」
「誤解って?」
「弱さが許せないからこそ、直してやろうと思っているのさ、おまえは。つまりは、人の心を変えようとしているのだ。根元から、人間をまるごと生れ変わらせようとしている。
それが果たしてできることなのか、それは俺にもわからん。だが、いまの方法では、だめだ、ということだけはわかるな」
「どうしたらいいのだろう」
「さてね。わからん。おまえにいま、いちばん足りないものがあるとすれば、その方法がわからない、というところだろうな。
俺にも、こうしたらよかろうということは言えないよ」
「世の中というものは人間で構成されているわけだから、世の中を変えたければ、人間を変えればいい。そう思うことは、莫迦だと思う?」

こいつ、そんなことを考えていたのか、と徐庶はおどろきながらも、それは口に出さずに、答えた。

「莫迦だとは思わんよ。そう思っているのだったら、どうしたらその方法を見つけられるか、本気でじっくり考えてみろ。時間だけはたっぷりあるんだ」
「うん」
沈みがちであった孔明の声に、すこし明るさが戻ってきた。
「それとな、嫌いなもののことをがんばって変えようなんて、本当は考えないものさ。
おまえは人を憎んでいるわけではなくて、ほんとうは好きなんだ。好きだから、裏切られたのが悲しくてたまらないんだよ。
そこを間違えるな。損をしているぜ」
「そうなのかな。ありがとう」
「礼はいいさ」

「わたしは、徐兄がいなくなってしまったら、いったいどうなってしまうだろう。想像もつかない」
「なんとかなっているだろ」
「そうは思えないよ。いつまでも間違いに気づけない、いま以上に嫌な人間になってしまうと思う。
なにもかも世の中のせいにして、いじけて、そのくせ、心の中では怖い怖いと怯えている人間だ。
けれど徐兄がわたしの間違いを教えてくれるから、わたしもすこしは、まともでいられる。
ほんとうに感謝している。ありがとう、吹っ切れた。徐兄の言うとおりにしてみるよ」
「ま、おまえの考えもところどころ入れて、自分なりにがんばれ」
「うん、がんばろう。わたしたちの将来を、きっといいものにするように、がんばらなければならないな」

孔明の声が眠気まじりのものになる。
しかし、徐庶はかえって目が冴えて、言った。
「わたしたち、ではない、わたし、だろう」
孔明は答えなかった。
安心して、眠りについてしまったようである。

『いつだったか、二人でこのまま襄陽で暮らせばいいと言っていたことは、本気なのか』
たしかに、二人でいれば、これほど心強いものはない。
孔明はいままでも、自分のことばならば、素直になんでも言うことを聞いた。
隠棲をするのではないにしても、二人でどこかに仕官をし、いまのように語り合って、切磋琢磨することも可能だろう。
『いや、切磋琢磨ではないな。俺は、孔明にとっては、砥石ですらない。
俺のほうが世間を知っているとタカをくくってきたが、孔明のほうが、世の中のなにが問題なのかを、的確に掴んでいるじゃないか。
人の弱さを直してやろう、などと考えるのが不遜なのかもしれないが、だれかが真剣になって、荒んだ人の心を矯正しなくてはいけないのは、たしかに事実だ。そこに必要なのは、俺の勉強してきた書物のなかの細かい文字のひとつひとつじゃない。
文字で残された知恵のほうこそ、世の中には必要なのだ。
こいつはまだまだ人との接し方が拙いから、だれもこいつに同調しない。
が、こいつがしっかり現実を見るようになって、理想を果たすためにどうしたらよいか、その方法を見つけ出したときには、どうなるのだろう』

徐庶は、眠る孔明に気づかれないように、ちいさくため息をついた。

『内気さが、こいつの真価を世間の目から覆い隠しているだけだ。やはり、こいつは、なにかが常人とちがう。言葉だけではなくて、人を根本から変えられる、影響力のようなものを持っている。
俺はどうだ。孔明は間違いを見つけてくれる、などと言っていたが、俺が指摘できたことは、ほかの奴だって出来たことだろう。
このままでは、だめだ。いつか孔明は俺を追い越す。
けれど、孔明が俺といつまでも一緒にいようと、俺にばかり頼って、甘えて、世間を避けているかぎりは、だめなのだ。
いまの俺が孔明に勝っているところといえば、ただ年長で、多少、世間を知っているというところだけだ。そんなもの、あと数年もしたら、意味のないものになるだろう。
俺が孔明に勝るものをもっていない以上、俺では孔明の矯正はできても、成長させることはできない。
このままでは、お互いがお互いを惰性の中に閉じこめて、可能性をつぶし合ってしまう』

徐庶には、はっきりと二手に分かれた道が、その脳裏に見えはじめていた。

5へつづく
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