リクエスト作品
空が高すぎる
3
樊城の構造は複雑だ。
もともとあった古い部分と、新しく増改築された部分が複雑に絡み合っており、さすがに官吏の行きかう部分などはわかりやすくなっているものの、奥に入れば入るほど、廊下は縦横無尽に走っている感を強める。
まっすぐ行くと唐突に突き当たりになり、部屋があるかと思えば、防風扉だけで、まだ廊下がつづいていたり、庭かと思えば、屋根つきの、用途のよくわからないがらんどうだったり。
伊機伯と仲良く手をつないで(実際は手をひっぱられて)、まるで父子のように(そのはしゃぎようには、だいぶ温度差があったものの)廊下を行きながら、孔明は、これは、帰りはだれかに案内されないと、最初にいた建物に戻れないなと、いささか不安に思った。
複雑すぎる建物を移動しながら、孔明は、古い建物にどんどん新しい建築物を建て増ししていったにしても、どうも蟻の巣のように、部屋のひとつひとつが狭いし、ともかく窓がすくないのは、どうしてだろうと、この構造物を作るように指示をした劉表の心中をはかりかね、ふしぎに思う。
と、同時に、現実的なところで、この複雑な建物のなかで火災が起こったら、いったいどうなるだろうかとも思う。
かつて叔父とともに劉表のもとへ挨拶に来たときは、奥まで入ることがなかったから、こんなふうに面倒な構造になっているとは知らなかった。
もしかしたら、大人数を収容するための配慮として、あるいは籠城にそなえての、窓の少なさ、部屋の多さなのだろうかと孔明は想像するが、やはり全体に漂う暗鬱さは、払拭しがたい。
なぜだろうと、首をひねりながら、廊下を歩き続けていると、不意に、目のまえを花の山が塞いだ。
建物のつくりに目を奪われていた孔明は、思わず足を止めるも、花の山のほうも、前がよく見えない状態で移動していたらしい。
かわしきれず、正面からぶつかる形となる。
馥郁たる香をただよわせる、からたちの花に似た、白い花弁の花だった。
その花を、両手いっぱいにかかえたその者の、驚きに目を見開いた顔が、飛び込んでくる。
孔明はおどろいた。
というのも、水鏡先生こと、司馬徳操の私塾には、多くの若者が出入りするが、そのなかでも、これほどにうつくしい容姿をそなえた少年は、見たことがなかったからだ。
十二歳くらいだろうか。
華奢な腕にかかえている純白の花のよく似合う、目の大きな、なんともいえない愛くるしさをそなえた少年である。
つんと上向いたあごの風情といい、小さな顔の全体的なつくりが、なんとも蠱惑的だ。
思わず見入っている自分に気付き、孔明は、はっとなって、半歩ほど、しりぞいた。
少年のほうは、しばらく孔明にぶつかったことで、おどろいた顔でぽかんとしていたのであるが、孔明が動いたことで我にかえったらしく、その愛らしい顔が、見る見る曇っていった。
少年の顔がこわばるのと同時に、孔明のなかで失望が高まった。
というのも、この少年、美しい外見に似合わず、浮かべる表情は、とんでもなくきついものであったからだ。
「大の大人が真っ昼間から寝ぼけていたのですか。しかも、人にぶつかっておきながら、謝りもしないとは!
あなた、見たことがない顔ですけれど、どこの馬の骨ですか。せっかくの花が、散ってしまった。どうしてくれるのです!」
言語明瞭、しかし内容はきわめて峻烈。
売られた喧嘩は買う孔明であるが、このときばかりはうろたえて、素直に言った。
「すまぬ、このあたりに来るのは初めてで、つい。怪我はなかっただろうか」
「なるほど、おのぼりさんか」
と、吐き捨てるように少年は言う。
そこに、この樊城独特の、強い選民意識が感じ取れて、うろたえていた孔明も、かえって己を取り戻した。
「わたしの不注意であったから、すまぬと申しておるのだが、おのぼりさんとはひどいな」
しかし、少年は、すこしもひるまず、大きな目をちろりと冷たく動かして、一つ頭分背の高い、孔明の顔を睨んだ。
「おや、開き直りでございますか。どこのどなたか存じませぬが、ずいぶんと威張ったお方だ。
申し訳なかった、それで済むことではありませぬか。それを誤魔化すために、無礼だなんだとおっしゃるとは、なんという傲慢さでしょう」
普段であれば、ここで負けじと言葉でたたみかける孔明であるが、少年があきらかに一回り年下であることが、心に制御をかけた。
「花が散ってしまったな」
と、孔明は、自分がぶつかったために散った花弁の落ちている廊下と、左手にある小さな中庭を見まわした。
小さいながらも凝ったつくりをもつ庭は、小さな人工の川がつくられており、そこに色鮮やかなうろこをもつ魚が悠々と泳いでいる。
その小川は苔むした風情のある岩に囲まれているのだが、岩のほとりに、たくさんの花が咲き乱れていた。
しかし、そこに、少年が抱えている白い花はない。
「君、その花は、どこから採ってきたのだね」
「奥ですよ、もっと奥のほう。あそこまで戻るのは面倒なんです。忙しいというのに、わたしの用事を増やしてくれて、ほんとうに嫌な人だな」
「奥か。で、君、その花束を、どこへ持っていくつもりだったのだね」
孔明の問いに、少年は、なにを言い出したか、という顔をして、怪訝そうにする。
「どこへでもよいでしょう。それがあなたに何の関係があるのです」
「いや、いまからダメにしてしまった分の花を採ってくる。忙しいというのなら、わたしがあとで君の代わりに花を届けようと思ったのだが、どうであろう」
「客人でしょう、あなた」
孔明は取り繕うことなく、うなずいて、答えた。
「客人だが、花をダメにした客人だ。謝罪もこめて、花を届けよう。花のある場所を教えてくれ」
教えれば、いまにもそこへ行きそうな孔明に、少年は調子が狂ったのか、つんとすましていた表情が、今度はあきらかに戸惑いの表情に変わっている。
「結構です。忙しいと言ったでしょう。あなたを待っている時間はありません。それに、あなたが届けるにしても、邪魔をされるのは困る」
「邪魔をしないよう、こっそり行くつもりだ。目立たないようにするのは不得意だが、挑戦してみる価値はある」
と、妙なことを自信満々に、堂々と言ってのける孔明に、少年は毒気を抜かれて、呆れたようになって、沓の先から冠のてっぺんまで、じろりと孔明を見渡した。
「不得意どころか、ムリでしょう。あんたみたいな図体のでかい目立つ方に、のっそり来られたら迷惑だっていう話しです。
ただでさえこじれているのだ、よけいに向こうがごねるでしょう」
「おや、揉め事が起こっているのか、解決したいのなら、手を貸すぞ、花を摘むより、そちらのほうが得意かもしれぬ」
「どこまで図々しいのだろう。あんたなんかに間に入られたら、よけいに混乱しますよ! だいたい、あんたは誰なのです!」
そこまで来て、孔明は、名乗ってもいなかったし、名前を聞いてもいなかったことに気がついた。
孔明が名乗ろうとすると、それまで、横でおろおろとしていた伊機伯が、顔を赤らめて、少年のほうを叱った。
「これ、調子に乗るのもいいかげんにせよ! このお方は、本日、劉州牧に面会にいらした徐元直先生の同門のお方で、諸葛孔明どのだ。龐家の若夫人の弟君だぞ」
「ああ」
どこかで名前を知っていたらしい。
が、孔明は、自分の姓名のめずらしさゆえに覚えられていたのか、龐家に嫁いだ姉の威光に少年が相槌を打ったのか、判断できなかった。
少年は、大きなまなこで、じろりと、ふたたび孔明の顔を見る。
やはり、あまり好印象はもっていない様子である。
そうした目線に孔明は慣れっこになっていたし、少年がこちらに怒っているのも仕方ないと思っていたから、さして悪く思うこともなかったのだが、伊機伯のほうは、恥ずかしくて仕方がないらしい。
しきりに汗をかきながら、少年に、低姿勢になれ、というふうに手ぶりで合図を送っている。
が、少年のほうはまったく無視している。
自分がどうというよりも、この人のよい伊機伯が気の毒になって、孔明はあらためて言った。
「ともかく、ぼんやりとしていたわたしがいけない。あらためて謝罪を申し上げる。どうしたら、腹をおさめていただけるだろうか」
嫌味ではなく、本心から丁寧に礼を取ると、少年のほうが、今度は決まり悪そうに顔をゆがめた。
「べつに、もう結構です。こんなふうに立ち止まっているあいだにも、ごらんなさい、無事な花がしおれてきてしまった」
「そこの川に浸すのはどうだ。すぐ元気になるぞ」
孔明の提案に、少年は、かりかりした様子で答えた。
「忙しいと申し上げているでしょう! まったく、とぼけた御仁だ。
機伯さま、客人をこんな奥まで案内して、いったいどうなさるおつもりです。
まったく、気味も悪く大の大人が手をつないで歩いているものだから、てっきり断袖のお相手にするのかと思いましたが、そうではないのですか」
これには、さすがの温厚な伊機伯も顔色を変えて、少年を叱りつけようとしたのであるが、少年のほうが上手で、さっと踵をかえすと、だめになった花をより分けて無造作に廊下に投げ捨てて、首だけを振り返らせた。
「冗談でございます。どうせ公子のご機嫌取りにうかがうつもりなのでしょう。
いまはダメでございますよ。わたしどもが朝から声をかけておりますが、すこしもお姿を見せてくださいませぬ。お食事も摂っておられません」
「なんと、おいたわしい」
と、伊機伯は悲しそうに顔をゆがめるが、少年のほうは、ずばりと言った。
「要するに、朝から不貞寝でおきてこない、ということです。いつものことではありませぬか」
「これ!」
「失礼」
少年は、有無も言わさぬ調子でぴしゃりと言うと、そのまま、花を抱えて、颯爽と歩き去ってしまった。
孔明は、少年が捨てた花を拾い上げる。
花弁がすこし崩れてはいるが、このまま打ち捨ててしまうのも気の毒である。
庭の小川に茎を浸してやると、ほどなく、ぐにゃりとしていた花に、生気がもどってきた。
「申し訳ございませぬ、いささか問題のある者でして」
「あの少年は、劉公子の侍童かなにかですか」
「いえいえ、そうではなく、劉州牧がぜひにと勧めたのでつけた、劉公子のお話相手というか、学友というか。
口が達者なばかりで、態度も無礼きわまりない田舎者ではございますが、見たとおり、愛嬌のある容姿をしておりますし、画才がございまして、劉公子が気にいっておられますので、仕方なく側につけているのでございます」
「名前を聞きそびれてしまいました」
「この城では、みなは、あの少年を花安英と呼んでおります」
なるほど、似合う名だな、と思った。
そうして、清い水を吸って元気になった花を見下ろしつつ、孔明は言った。
「花安英は忙しいと口にしておりましたね、もしわたしが顔を出すことで、かえってお邪魔になるようでしたらいけませんので、日を改めたほうがよいのではないでしょうか」
すると、伊機伯は、困ったように顔をしかめて、答える。
「いえ、花安英の忙しい、というのは、聞き流してくだされ。
あの子は、この樊城の風俗を悪くするために存在しているようなところがございましてね、あの花とて、いったいなんのために持っていくのやら」
「仕女とでも揉めているのでしょうか」
だとしたら、ずいぶん若いのにたいした発展家だな、と孔明は感心するのであるが、伊機伯は、今度は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「そこは追及しないでくだされ。女ではありませぬ」
「はあ」
なにやら、それ以上は聞かないほうがいい、ということはわかった。
孔明は、元気になった花を自ら引き揚げて、この花の仲間たちをかかえた少年が、この複雑な城のどこかで、いったいなにをしようとしているのか、揉め事とはなんだったのかと想像したが、途中で怖くなり、止めた。
劉州牧の目にとまり、そして劉公子に学友として配された少年。
儒をなにより尊ぶこの城に、それを打ち消すような存在が平然といることが、なにかを教えてくれるような気がしてならない。
そのなにかを知ってしまったら、ここから二度と出られなくなるような、そんな気さえする。
考えすぎか。
気を取り直して、とさらに奥に通された孔明であるが、たどりついた場所は、城のなかでも以前のからの建物を利用しているらしい、古色蒼然とした雰囲気のある場所であった。
狭くて古いことはもちろんだが、なぜだか孔明は、その場に来てほっとした。
新しく増改築された建物のほとんどが、窓がないか、あっても小さいか、というつくりなのに対して、劉琦の住まいは、ごくふつうの建物であった。
きちんとしているけれど、そう片付きのよいほうではなく、生活感の感じられる空間である。
飼っているのか、建物のそばには、やはり小さな庭があったのだが、そこには鵞鳥の親子がいて、白い羽根をばたばたとせわしなく動かしている。
そして、その様子を描こうとでもしたのか、積んである石の上に画材道具が散らかっている。
花安英に画才がある、という話を思い出し、あの少年は、片付けないで、そのままどこかへ行ってしまったのだろうかと、孔明は考えた。
鵞鳥は人に慣れており、孔明がそばによっても、すこしも怖がらない。
伊機伯は、劉琦の様子を見てくるから、しばらく鵞鳥を見ていてくだされ、といって、建物のなかに入っていった。
静かであるが、人の気配がする。
花安英の捨てた白い花を手に、しばらくつくねんとしていた孔明であるが、その背後から、声がかかった。
「見たことのない顔だが、さっそくあいつに手を焼いているのか。人を見る目がないな。毒を喰らうようなもんだっていうのに」
その妙に馴れ馴れしい口調と、言葉の意味の不明瞭さに、孔明は、最初、自分に声がかけられているのだとはわからなかった。
声に聞き覚えもない。
何者だろうと振り返ると、そこに、どこかだらしのない風情の、無精ひげもぽつぽつと見える、徐庶と同年くらいの男が、眠そうな顔をして立っていた。
それこそ規律正しい軍隊のように、城のすべての人間の風俗は、清く正しくあらねばならない、という風潮のある樊城であるが、どうも劉琦の周囲だけは例外らしい。
寝起きなのか、面倒そうにあくびをし、首の後ろをぼりぼりと無造作にかきながら、男は孔明の顔を見るが、やがて、奇妙なものを見るような目に転じ、からだの動きを止めた。
孔明のほうといえば、ああ、いやだなと思った。
というのも、自分の容姿が男にしては整いすぎているという理由から、このように、初対面のものに不躾にじろじろと眺められることは、たびたびだったのだ。
「あんた、だれだ」
と、男は、孔明の顔から目線をはずさずに、たずねてきた。
ほかの不躾な者とはちがい、男の口調には、侮った様子や、馴れ馴れしさはない。
なぜか、ひどくおどろいているようである。
「わたしは徐元直の門弟の、諸葛孔明と申します」
短く答えると、男の記憶が刺激されたらしい。
諸葛、と姓名を聞いて、なにか思い当たったようだが、すぐに、男は答えなかった。
奇妙な沈黙が流れる。
男は、孔明の顔をじっと見つめたまま、腕をせわしなく動かして、衣をととのえ始めた。
男が黙っているので、もともと人見知りのはげしい孔明は、どうしたらよいかわからず、決まり悪く思いながら、ひたすら黙っている。
「すまない」
と、男がふたたび口を開いた。
男の手は、無精ひげのある顎を、しきりにさすっている。
そうすることで、ひげが磨耗してなくなるかのように、その仕草は止むことがなかった。
「すまない、おどろいただろう。勘ちがいだった。あんた、いや、貴殿が、その白い花を手にしていたので、てっきり、いまの安英の相手かと思ったのだ」
花安英をめぐる、風紀の乱れについては深く考えるのを止めて、孔明は答えた。
「花安英どのには先ほどお会いしました。わたしがうっかりしていて、花を抱えていたかの方にぶつかってしまい、花をだめにしてしまったのです」
「それか」
と、男はすこし笑みを浮かべて、孔明の手にしている花を指す。
そうだ、と孔明はうなずくが、戸惑っていた。
この男とは初対面のはずである。
が、どういうわけかこの男、喜んでいるようなのである。
「すこしも駄目になっていない」
「いえ、花びらがすこし欠けてしまいました。あちらにあります庭の小川で水に浸しましたら、すこし元気になったので、捨てるのに惜しくて、ついここまで持ってきてしまったのです」
「それをどうする。劉公子に会いに来たのだろう。贈り物にするのか」
「いいえ、花びらの欠けた花では無礼でしょう」
鵞鳥にでもあげようか、と考えていた孔明であるが、ふと、男が、片手を差し出してきた。
「捨てるのなら、俺にくれぬか。すくなくとも、そいつらよりは、花のありがたみはわかると思うぜ」
と、鵞鳥のほうを顎でしゃくって、男はいう。
孔明としても、せっかく拾って、元気を取り戻させた物を、鵞鳥の餌にしてしまうのは勿体なく思えたので、男に素直に与えることにした。
そして、男の差し出す手の上に、花を置いたのであるが、一瞬、花を置いたとき、男の手のひらが、孔明の手を掴むように動いた。
叔父の暗殺される場に居合わせて以来、家族か徐庶以外の人間に触れられることを極端におそれるようになった孔明は、男の手のひらから感じ取れる熱が、さらに強くなったので、思わずびくりと身をすくませる。
しまった、と、初対面の人間に弱みを見せてしまったことを、後悔した孔明であるが、ちらりと男の様子を見れば、孔明におどろいたところもなく、逆に、憐れんでいるような目を向けていた。
訳知り顔な男の振る舞いに、孔明はむしろ、気味悪く思いはじめていた。
「失礼だが、あなたはどなたです。劉公子のご学友ですか。花安英と同じく」
孔明に促されて、男は、はじめて名乗っていなかったことに気づいたようだった。
「ああ、こちらこそ失礼をした。俺は程子聞という、そのとおり、劉公子の学友というやつだ」
言いながら、程子聞は孔明の横を過ぎると、花を片手に鵞鳥たちをやりすごして、画材道具のところまで行った。
花安英のものではなかったのか、と孔明は思いながら、たずねた。
「絵を描かれるのですね」
「昔からこれは得意だった。俺ができることのなかで、人を喜ばせることができる唯一のことが絵を描くこと。
ほかは、そうだな、水遊びなんかは好きだが」
唐突なことを言う男だな、と孔明はふしぎに思いながら、答えた。
「旅に出た先で、たまに羽目を外して水遊びをすることもありますが」
「泳ぐのかい」
「旅先でしたら、風呂の代わりにすることもあります」
「あんた、徐州だろう」
「おわかりですか」
「訛りがすこしあるな」
「あなたも北のご出身なのですか」
すると、程子聞は、また沈黙をして、それから顔をあげて孔明にたずねた。
「どうしてそう思う。俺は、生まれも育ちも荊州だ」
「それは見当違いでした、申し訳ありません。
ただ、すぐに徐州の訛りがあるとわかったというので、同じ徐州が、さもなくば、同じ北の出身なのかと」
「俺の訛りは消えているだろう」
たしかにそうだったので、孔明は、はい、と応じたのだが、荊州出身だというのに、『消えている』というのは妙な表現だなと思った。
「この城に仕官するのか。貴殿の叔父君は、喜ばないだろうに」
不意に、叔父の話が出てきて、孔明は心臓をいきなり掴まれたくらいにおどろいた。
「叔父をご存知なのですか」
「会ったことはない、が、話だけは聞いている。
偽帝の命令で揚州の予章の太守になったはいいが、漢朝側の人間に追い立てられて逃げてきて、けれど、結局、樊城まで追いかけてきた刺客に殺された。そうだろう」
事実である。が、孔明はすっかり気が動顚していた。
あらためて目に鮮やかに浮かぶ、夕映えのなかの廊下と、同じくらいに鮮やかに床を染め上げた血潮。
だから、樊城には来たくなかったのだ。
「叔父は、この城で遭難したから、わたしが足を運ぶことを喜ばないとおっしゃるか」
「そんなところだな。俺だったら、嫌だね」
「わたしとて、好きでここに来たわけではありません。わたしが仕官するのではなく、徐兄が仕官するために来たのです」
「そうか」
と、程子聞は、誤解していたらしく、意外そうな表情を浮かべた。
「叔父君が亡くなったあと、ずっと司馬徳操のところにいたのかい」
「なぜそれを聞くのです」
「いや、ちょっと興味があっただけだ。司馬徳操の門弟は、みな総じて高い評価を受けているから、貴殿もそうなのかと」
「わたしは、末席に座っているだけの、つまらない者です」
じつに孔明らしからぬ、通り文句であったが、そんなことばしか出てこなかった理由は、叔父の遭難のことを思い出し、ひどいめまいと嘔吐感に襲われていたからだった。
伊機伯はいつ戻ってくるかわからないし、初対面の相手に無礼な態度はとりたくないしで、ぐっと堪えてはいたものの、しだいに、こめかみからあぶら汗が流れてくる。
「おい、大丈夫か、顔が真っ白だ。具合でも悪いのか」
問われて、堪えていたものの緊張感がほぐれた。
崩れそうになるおのれを励まして、孔明は、口許を袖で押さえて、言う。
「申し訳ございませんが、すこし気分が悪くなってしまいました。
伊機伯どのが戻られましたら、今日はお会いしても、かえって劉公子に失礼になるかと思いますので、ここで引き取らせていただきますとお伝えいただけませぬか」
「それはかまわん。機伯どのとて、今日の公子を、床から上げさせることはできまいよ。
それより、あんた、付いて行かなくてよいか」
男が手を伸ばしてきたので、孔明はとっさに、それを激しく振り払った。
相手のおどろいた顔が袖越しに見えて、孔明は心のなかで、大きく舌打ちをする。
無礼ばかりしている。最悪だ。
「申し訳ございません、ご無礼に関しましては、後日あらためて謝罪に参りますゆえ、本日はご容赦くだされ」
「ああ」
孔明の様子があまりにひどいものだったからか、程子聞はおどろいた様子ながらも、責めたり不快そうにしたりする気配はない。
そこに安堵しながら、孔明は劉琦の住まいから、小走りで、逃げるように去った。
その背中に、程子聞の声が追いかけてきた。
「俺はいつもここにいる。また、来てくれ。いつでもいいから、必ず。あんたと話がしたい」
なにか、そこに切羽詰った物を感じ取ったのは、自分の体調の悪さゆえかと孔明は思ったが、最初の印象のほうが当たっていたことに気が付いたのは、程子聞と再会を果たしてから、数年も後のこととなる。
気づけば、花安英とぶつかった廊下にまで戻ってきていた。
さきほど散った白の花びらが、まだ廊下に残っている。
だれもいない、しんとした廊下のなかで、孔明は、柱にもたれてこみ上げる嘔吐感と戦っていたが、しばらくすると落ち着いて、わずかな吐き気が残る程度にまでおさまった。
大きく息をつき、柱に首をあずける。
なんの因果か。空からの陽射しは西に傾き、いま、あざやかな茜色に転じて、孔明の立つ廊下と、中庭を緋色に染め上げていた。
あのときと同じ。
予章から逃げてきた孔明と叔父を支援してくれた劉表に、礼をいうための登城だった。
荊州に落ち着いてから、だいぶ期間をあけての訪問であったが、それまでにも、叔父は何度か樊城に足を運んでいた。
どうやら、跡継ぎである孔明の顔を見たいと、劉表がせがんだために、礼を言うため、という理由をつけて登城することになったらしい。
らしい、というのは、叔父は、そのあたりの理由を、はっきりと孔明に説明しなかったのだ。
まずは孔明と叔父が挨拶をし、そのあと、叔父だけが劉表と面会した。
そのあとである。
夕暮れであった。
すでに日が落ちるということで、樊城に泊まることになったふたりは、案内されて廊下を移動していた。
そのとき、不意に、柱の影から文官装束の男があらわれて、叔父ににこやかに話しかけてきた。
異変に気づいたのは、その直後だ。
孔明が叔父のほうをみたとき、すでに男の突き出した刃は、叔父の身体に深々と突き刺さっていた。
こぼれ落ちる真っ赤な血潮が、廊下をゆっくりと染め上げていく。
あの日から、なにもかもが変わってしまったのだ。
孔明は涙をこぼしたが、それがおのれを憐れんでいるものか、それとも叔父への哀惜のためかはわからなかった。
ただ、ひたすら悲しかった。
ちょうど真正面の花窓から太陽が光る。
いや、花窓から入る陽光が、室内にある鏡に反射し、それが孔明の視界を眩ませているのだ。
目を細めて、緋色のなかで立ち尽くしていると、庭を挟んで向かい側に、だれかが立っているのに気がついた。
伊機伯かと思ったが、そうではない。
自分と同じくらいの背の高さの男で、逆光のためによく顔を見ることができないが、武官装束のようである。
腰に剣を佩いている。
叔父を殺した男も、そんなふうに剣を佩いていたのかな、とぼんやり考えていると、向かい側に立つ男は言った。
「失礼、お尋ねしてもよいだろうか」
深みのある声だが、やはり聞き覚えはない。
北の訛りのある声だ。
「どうもこの城には不案内ゆえ、迷ってしまったらしい。貴殿の立つ廊下の向こうが、劉州牧の居室になるだろうか」
ずいぶん迷ってきたな、と孔明は、おかしくなって、すこし笑みを浮かべた。
「いえ、こちらは劉公子のお住まいですよ。劉州牧のいらっしゃるところは、逆です。
いまいらした道を、まっすぐに戻られたほうがいい。わたしもこの城の者ではないので、その先のことはわかりません。
だれかいるでしょうから、案内を請われればよいでしょう」
「左様か、ではそうさせてもらおう。かたじけない」
いえ、と応じて、その姿が背を向けるのを見守った孔明であるが、ふと、その男が途中で立ち止まると、首だけすこし動かして、また尋ねてきた。
「貴殿はここで、なにをしておられる」
泣いていたところを見られたのかな、と思いながらも、孔明は素直に答えていた。
「ぼんやりしておりました。すこし、むかしのことなどを思い出しましたので」
「不躾でしたな。そろそろ日が落ちる。冷えるので、ほどほどにされるがよかろう」
親切な人だな、心配してくれているのか、と孔明は思って、答えた。
「ありがとうございます」
男は、ちいさくうなずくと、今度は振り返らずに去って行った。
孔明がその姿を見送っていると、それとすれ違うようにして、徐庶がこちらに向かってくるのが見えた。