リクエスト作品
空が高すぎる

徐庶が困ったことには、孔明の機嫌はずっとわるく、一張羅だという、いつにもまして派手な衣裳をまとっていながらも、顔はむすっとして、口をヘの字に引き結び、ただでさえ目立つ奴だというのに、特に今日は悪目立ちしている。
崔州平が仲介にたって紹介してくれる樊城の官吏とも、素っ気ない態度で応対し、なにか問われても、つっけんどんに返すだけだ。

こいつの子どもっぽいところは、こういう悪い面でも発揮されるなと、徐庶は決まり悪く思いながらも、さて、どうしたらよいものかと頭を働かせた。
だれひとりとして知り合いのいないなか、徐庶としては、ひたすら紹介される人間の顔と名前をおぼえるのが精一杯だ。
崔州平は、こういうときには知恵を貸してくれず、ひたすら傍観者に徹する。
そして、孔明のほうが、何度か樊城に来たことがあるので、場慣れしている。

機をみはからって、孔明にこっそりと、
「おい、助けてくれよ」
と、飾りのないところで頼むと、率直にいわれたことで、かえって目が覚めたらしく、孔明は急に顔を曇らせて、たずねてきた。
「ほんとうに、仕官するつもりなの」
孔明は、徐庶が崔州平の仲介で、劉表に仕官することをかんがえていると知ってから、ずっと不機嫌であった。
孔明がツンケンしている理由は、自分が尊敬する人間が、劉表のところへ仕えるということが、悔しいからであるらしい。
孔明の劉表に対する評価は、相当に辛く、そして徐庶に対する評価は、相当に高い。
根拠は、徐庶からしても、よくわからない。
どうやら勘とか、そういうあやふやな、他人にはわかりにくい基準によるものらしい。

それはともかく、孔明が怒るのは、本気で心配してくれているからこそで、うれしいことだが、もうすこし大人になってくれてもよいのでは、と思うのも本音である。
「劉州牧に会ってからな」
会って、人物を見きわめてから決断する、という意味を含めてのことであったが、孔明は納得せず、大いに眉をひそめて、言った。
「会ったら、徐兄のことだもの、きっと情に負けて、したくもないのに仕官することになるに決まっているよ。
徐兄はお人よしだから、実際に会って、口をきいてしまえば、みんないい人に思えてしまうだろう」
「俺はそこまで優柔不断かね」
徐庶がぼやくと、孔明は、今度は顔を険しくした。
山の天気のようなやつである。
「そういうところ、あるだろう」
「あるといえば、あるかな」
「あるのだよ。自覚しなくちゃだめじゃないか」

そのやりとりを、横で聞いている崔州平は、袖で口許を隠して聞いている。
人の悪いことに、笑っているようであった。
肘でこづくと、崔州平は笑い顔を袖から出して、言った。
「どちらが年上かわからんな。たしかに孔明のいうとおり、元直には、そういうところがある」
崔州平がそう言うと、孔明も、意をつよくして、大きくうなずいた。
「そうだろう、わたしはね、一人で取り残されるのがいやだから、ふて腐れているのじゃないよ。
徐兄が心配なのだ。こんなところ、徐兄にふさわしくない」

徐庶の腕をつかんで、いまにも帰りそうになっている孔明に、崔州平は手を伸ばすと、軽く頭を小突いて、言った。

「おまえの言う『こんなところ』で生活の糧を得ている人たちが、元直にあいさつしたがって待っている。帰るのなら、おまえ一人で帰れよ」
「駄目だ。見届けなくちゃいけない。
だいたい、劉州牧は、徐兄に会うだけではなくて、ほかにも仕官を希望している者たちと一緒に面接するって? 失礼じゃないか!」
「あのな、どれだけ特別待遇をのぞんでいるのだ、おまえは。一度話しただけで、劉州牧が興味をもって、会うとおっしゃったのだ、じゅうぶんに特別待遇だぞ。
おまえはなにか、太公望のように、王を横で立たせたまま、夕暮れまでのんびり釣りなんぞをしているのが、理想の出会いとか、そんなことを考えているのではなかろうな」
「いけないか」
「莫迦、やっぱり、おまえ一人で帰れ」

石広元が仕官して襄陽から去って以来、徐庶、崔州平、孔明と、この三人はいつもいっしょにいるようになった。
たいがいのことは、仲良くしている三人であるが、たまに、その関係の均衡が崩れる。
きっかけは、たいがい崔州平と孔明の喧嘩である。
崔州平も意固地で、孔明はもっと意固地、ということもあり、二人が喧嘩をすると、殴りあいにならないぶん、長引くのだ。

そして、いつもそのあいだに挟まれている徐庶は、うんざりして、二人のあいだに割って入った。
「おいおい、頼むよ、やめてくれ。まるで嫁姑の喧嘩に巻き込まれた亭主の気持ちだな。
崔州平、おまえは孔明より年長なわけだし、孔明の性格はよく知っているだろう。孔明のなだめ方だってわかっているだろうに、どうして挑発するようなことばかり言うのだ。
そして、孔明も、挑発されているとわかっているのに、いちいちそれに乗るな」
「だって」
と、言葉を発したのは、ふたり同時である。
気が合っているのは、まちがいない。
「ともかく、俺はまだここから帰らない。なにも見ていないからな。孔明、おまえはもう帰っていいぞ。どうする」
「そんなことを言われたら、帰るに帰れないじゃないか」
と、孔明は口をとがらせると、今度はおとなしく、うしろからついてきた。


つぎつぎと紹介される樊城の人間は、みな愛想のよい者がほとんどであったが、それは崔州平の存在が大きいようであった。
愛想がよいのと、感じがよいのとは、すこしばかり意味がちがう。
もし、こいつら、崔州平抜きで会ったら、どんな表情でこちらを見るのだろうと徐庶は想像するが、そういう想像も、おのれの身の上を恥じる気持ちからくる卑しいものではないかとも思い、気が重くなる。

孔明がどうしてもというので身につけている、あまり着慣れない立派な衣に身を包み、その若々しい美貌ゆえに、多少不機嫌であろうと綺羅星のように目立つ孔明をつれて、どこまでも清潔に整えられた樊城を行く。
この城に入ってから、ずっと思っていたことではあるが、樊城にいると、中原においては、戦乱が絶えたことがないという現実のほうが、夢であるように思えてくる。
人々の表情はみな穏やかで、陰鬱さはどこにも見当たらない。
どこもかしこも行き届いた、清潔で美しい場所。
しかし、どこか落ち着かなく思えるのは、どうしてだろう。


劉表の家臣のひとりに、おしゃべりな男がいて、名を伊機伯と名乗ったが、これがどうやら、ひと目で徐庶を気に入ったらしく、あいさつをし終わったあとも、いまはちょうど手が空いているからという理由から、樊城のあちこちを案内してくれることになった。
その伊機伯がいうことには、樊城の居城は、劉表が入るまでは、風紀が乱れきって、建物もぼろぼろで、荒みきった場所であったという。
これを劉表がこと細かに指示をだし、いまのように、大幅に改修させ、居心地のよい場所となった(ここにずっといると、『居心地がよい』となるのか、それとも、周囲に配慮し、あえてそう口にしているだけなのだろうかと、徐庶は考えた)。
そして劉表は、曹操が儒者をきらっていることをよく知っており、今後、多くの儒学者が平穏をもとめて南へ逃れてくることを見越し、かれらの生活が定まるまで、そこに住まわせるために、樊城のなかに多くの部屋をつくったのだという。

故郷から逃げてくる途中で、そんないい話を聞いたことがなかったが、と徐庶が思い返していると、伊機伯は、屈託なく、
「劉州牧は、この戦乱の世において、やんごとなき身の上が、下手をすればどこまでも落ちてしまう今日のありようを嘆いておられまして、中原で苦しい生活をしておられる高名な方々に手紙を書き、積極的に樊城に招聘されておられるのです。
それゆえ、むかしは田舎町と揶揄されていたこの樊城も、あっという間に、天下の智者の集る学問都市に変貌した次第でございまして、われら家臣は、つねづね、それを誇りに思っております」
と、言った。

それを聞いて、徐庶は納得した。
身分が低い俺なんぞに、劉表の声がかかるはずがない。
なるほど、劉表は儒学者を保護しているから、その声望は高く響いているが、民を慰撫したという話は、あまり聞いたことがない。
内乱も起こらず、長く平和を保っているということは、目だったことはしていなくても、きちんと民を大切にしている証左だともいえるが、俺のひがみだろうか、儒学者を保護している目的そのものが、自分の名を保たせるためのように思えてしまうのは。

掃き清められた廊下と、色とりどりの花の飾られた花壇と、清楚な衣を身にまとった、華やかな仕女たち。
美しい城であると思うが、どこかうわべだけだという感覚がぬぐえないのは、なぜだろう。
太陽はたしかに空から光を降り注いでくれているというのに、どこか暗さが感じられるのは、部屋が多くあるわりに、窓の小さすぎる建て方のためか。


そうして、あらかたのあいさつをおえて、いよいよ劉表に、という段になり、それまでぴったりと徐庶にくっついていた孔明が、ふと足を止めて、言った。
「すまないけれど、わたしはここで待っているよ」
好奇心のつよい奴が、めずらしいな。好奇心より内気さが勝ったか、と思った徐庶であったが、孔明の顔色は、おどろいたことに真っ白で、表情も態度も、落ち着きなく、そわそわとしている。
「どうした、具合でも悪くなったのか」
「そうではなくて」
と、孔明はいちど、そこで言葉を切り、しばらく袖の先端を指先でつまむなどして、逡巡していたが、やがて顔を向けてくると、一気に言った。
「徐兄にはまだ話していなかっただろうか。わたしの叔父は、この城で死んだのだよ。
叔父が刺されたのは、この先の廊下だ。あそこを通るのは、まだ、気持ちの整理がついていない。
取り乱して、徐兄の仕官の話を邪魔してしまいたくない。だから、ここで待っているよ」
ああ、そうであったのか、すねていただけではなかったのだな、と合点した徐庶であったが、一方で、となりにいる崔州平は、また意地悪な気持ちになったらしく、にっと笑みを浮かべると、孔明に言った。
「おまえはそれで、さっきからむくれていたわけか。
だったら、俺のほうも配慮ができなかったということだ。すまなかったな」
とたん、孔明は、ますます、すまなさそうな顔になって、言う。
「いや、わたしの態度が悪かったのは、ほんとうに謝る。
樊城にいるから機嫌がわるくなった、というわけではなくて、この城にいると、なぜだろう、うまくいえないのだけれど、落ち着かない。訳もなくイライラするのだ」
「おまえの大好きな、きれいな場所だぞ」
「たしかにきれいだけれど」
と、孔明は、周囲に目を走らせる。

その目線は、どこか、闇にひそむ猛禽をおそれている小動物のようであった。
勝気な孔明が、そんな表情を浮かべるのは、めずらしいことである。

崔州平が、きれいだけれど、の、つづきはなんだ、とさらに深く突っ込もうとするので、徐庶はそれをさえぎって、孔明に言った。
「気づかなくて悪かったな、おまえは、どこかで暇をつぶしていてくれ。
俺と州平とだけで行ってくる。無理をしなくていい」

孔明がほっとしたように笑みを浮かべたので、徐庶もつられて笑みになった。
じつをいうと、これから劉表に会いに行くということで、すくなからず緊張していたのであるが、孔明につられて笑ったことで、すこし固さがほぐれた気がする。
孔明は、黙って無表情でいると、顔が整いすぎているためか、ずいぶん冷たく見えるのだが、笑うと一転して、明るい優しい顔になる。
もともと、男とも女ともつかない、中性的な雰囲気をそなえているが、それが顕著になるのは、笑顔になるときだ。
そして、徐庶は、笑顔の孔明がいちばん好きである。

二手にわかれた徐庶と孔明であるが、ちらりと振り返れば、あの人のよい、おしゃべりな伊機伯が、ここでも世話役を買って出て、孔明の案内役となっているようである。
思わず徐庶は、崔州平に聞いた。
「伊機伯どのは、いったい、いつ仕事をなさるのだ。われらのように、無位無官の男を案内するのが、仕事ではあるまいに」
すると、徐庶のとなりにいた崔州平が、どこか怒っているような、つっけんどんな口調で言った。
「なんだ、君は知らないのか」
「なにが」
「この樊城の家臣は、いま、二手に分かれているのだ。
さきほどの伊機伯どのは、劉州牧のご長男の世話役をしている方で、次男のほうを擁護している蔡将軍ににらまれて、閑職に追いやられているために、城内では、暇で暇で、仕方がないのだ」
「なんだ、それは。つまり、後継者争いが起こっている、というわけか」
「うん、死んだ正妻の生んだご長男は、気立てはよいのだが、いかんせん、身体も気も弱く、そして優しすぎる。
このような世の中でなければ、もっと多くの家臣の支持を取り付けることも可能だったかもしれぬ。
が、現実として、四方八方を向こうにまわして立ち回る必要のある主君としては、心許ない、というのが、みなの本音であろうな」
「だから次男を支持する者がいると? それは要するに、次男の擁護者である蔡将軍を支持している、ということではないのか。
しかし、筋が通らぬであろうが。たしか、次男は、まだ十歳にもなっていなかったはずだぞ」
「とおらぬ筋にしても、とおっているフリをしなければならぬということだ。
もし樊城に仕えるのだとしたら、そのあたりは心得ておかねばならぬ。
ついでに言えば、劉州牧は次男を溺愛しており、寝るときも、片時も手放さぬほどだとか。
それほどのまぶしいばかりのご寵愛ぶりでは、つぎの後継者がだれになるかは、それこそ火を見るより明らかといわざるをえまい」
「しかし、順逆が狂う。袁家もお家騒動で揉めているという話を、劉州牧は知らぬのか」
「よそはよそ、うちはちがう、なんとかなる、とでも思っておられるのだろうさ。
さもなくば、蔡将軍の力が圧倒的につよいので、ご長男のほうが騒いだとしても、押さえつけられるだろうと見ているからなのかもしれぬ」

「十歳の子どもがどれだけ優秀かは知らぬが、これだけ儒を尊び、学者を厚遇している人物が、自分の家庭では、教えを守れない、というのは、皮肉なものだな。して、おまえはどちらだ」
「どちらを支持しているか? 聞いてどうする。わたしはここの家臣ではない。
どちらがあとを継ぐことになろうが、関係なかろう」
「関係ないわけがあるか。どちらに味方するかで、崔家の家運もちがってこよう」
「家、か。滅びる時は滅びるだろう」

なんだ、投げやりだな、贅沢なやつ、と、すこしだけひがみも混じって、ちらりとその顔を見る徐庶であるが、崔州平の横顔は、意外にも、沈うつなものであった。
そういえば、俺は、こいつが名のある崔家の人間で、つい先日、結婚をして家を継いだばかりだということ以外、詳しく知らないと、徐庶は気がついた。
こいつが、司馬徳操先生の私塾に入門する以前のことを、語ったことがあるか? 
孔明は、いっぺん気をゆるすと、なんでもいろいろしゃべってくれるところがあるが、崔州平は逆だ。
まだ付き合いはじめて間もない頃のほうが、昔の話をしてくれていた気がする。
たしか、兄が死んだので、養子に行った先から戻された、ということではなかったかな。
いや、養子だと言っていたかな。預けられていた、としか言っていなかったように思えるが。

「州平」
「なんだ」
「あらためて尋ねるが、おまえが劉州牧に仕えない理由は、なんだ?」
「なぜそれを聞く。友達ができそうにないから、わたしに一緒に仕官してくれとでも言いたいのか」
「おまえな、そう意地悪を言うなよ。たんに気になったからだ」
「気にする必要があるのか。わたしは、君が仕官することになっても、なにも変わらぬぞ。
孔明みたいに、もっといいところに行けるはずだと、むくれることもしない」
「いや、それを心配しているわけではないが、なんだか、孔明よりも、おまえのほうが怒っているように感じる。
俺に遠慮して、なにか言いたいことがあるのに我慢しているのなら、言ってくれ。俺に非があるのならば謝るし、もし直せるところがあるのなら、直すように努力するぞ」
すると、それまで徐庶のほうを見ずに、ひたすら足早に、長大な廊下をあるいていた崔州平は、大きくため息をつくと、足をとめて、徐庶のほうに、身体ごと向きなおった。
「やめてくれ。わたしは君が仕官することを、なんとも思っちゃいない。
いまは、自分のことが大事だろう。どうしてわたしのことを気にする」
「ほら、それだ」
と、徐庶は、かぶりなれない頭巾のうえから、頭をかいて、言う。
「おまえは俺の友人だ。すくなくとも、俺はそう思っているわけだが、なんとも思っちゃいない、なんて言われるくらいだから、おまえのほうは違うのかな。
だとしたら、俺としてはがっかりなんだがね」
「待て。それは」
「それは?」

崔州平は、なにかを言おうとしたが、徐庶が言葉をうながすしぐさをすると、顔を赤らめて、横を向いた。
「それは、わたしの言葉の選び方が間違っていた。君を不快にさせたのなら、すまない。
仕官するのは喜ばしいことだ。君がどれだけ母上を心配していたかも知っているし、ここに仕官するなら、生活も安定するだろう」
「まあ、これからの面接次第でもあるだろうが、なにか引っかかるぞ、俺は」
「なにが」
と、今度はうるさそうにして、崔州平は徐庶のほうに顔を戻した。
「すまんな、俺はどうも変なところに気がつく性分らしいのだ。
おまえも、もしかして孔明と一緒で、この樊城にいい思い出がないとか、そういうクチか? 
だったら、俺のために無理をしなくていいのだぜ。俺だって、三つや四つの子どもじゃない、ちょっと行く先を教えてくれれば、ひとりで劉州牧に会ってくるさ」

すると、崔州平は、気を鎮めるためなのか、ふうっと大きな息を吐くと、徐庶に言った。
「じゃあ、わたしも正直に言う。わたしは、この城が大嫌いだ。
孔明なんかより、ずっとずっと苦手だ。できれば、いますぐ帰りたいくらいだ」
「そうか、じゃあ、三人で帰ろうぜ」
「そうも行かないだろう。先方は、君が来るというので、待っているのだ」
「俺だけを待っているというわけではなくて、今日は見どころのありそうな若者を、劉州牧がまとめて会う、という日だろう。
俺みたいに無名の人間が、ぎりぎりで棄権したところで、先方は気にすまい」
「なにを言うか、司馬徳操の門弟となれば、つまりはそれだけ優秀な人間だということで、注目のされ方もちがう。
孔明が、なんだって君に、そんな似合わない錦の衣を無理に着せたと思う」
「ああ、やっぱり似合っていないよな、これ」
と、徐庶はイヤミではなく、ほんとうにそう思っていたので、おのれの姿を見下ろした。
「そうではなくて! わたしはもう、先方に、君のことは伝えてある。
今日、ほかにどんなやつが集っているかは知らないが、おそらく一番注目されるのは、司馬徳操の門弟である君だ。
君の過去ですら、あの司馬徳操が、それを承知で、あえて門弟にした、ということで、かえって勲章かなにかのように思われるだろう。
だから、見てくれだけで判断されないようにと、孔明が衣裳を用意したのじゃないか」
「あいつ、女房みたいなことをするよな」
「混ぜっ返すなよ、すっかり帰るつもりだろう」

崔州平が、それは許さんとばかりに肩に手をかけてきたので、徐庶はそれを振り払った。
「たしかに、ここにうまく仕官できたら、生活は安定するだろうさ。母に仕送りもできるようになる。
だが、おまえたち二人が、揃いも揃って、ここにいたくないと言うんだ。おまえたちの勘が鋭いことは、長い付き合いでわかっているし、きっとなにか、おまえたちを嫌がらせるなにかが、ここにあるんだろう。
俺はそんなところで働きたくないぜ」
「だから、帰るって?」
あきれて言う崔州平に、徐庶は真顔でうなずいた。
「もし俺が、ここに仕官したとして、そうなったらおまえら、滅多に俺に会いに来なくなるだろう」
「子どものようなことを言わないでくれ。それに、わたしたちの勘がまちがっていたら、どうする」
「だな。そのときはガッカリするな」

「元直、冗談ではなくて、君は、もしかしたら、今日、人生の転機を迎えているのかもしれないのだよ。
それなのに、人任せの判断で、自分の将来を決めてしまうのかい」
「正直言うと、迷っている」
「なにを、どう」
「たんに食い扶持を稼ぎたいだけで、俺はここに仕官してよいのかと、ずっと考えながら、ここまで来た。
呆れてくれ、まだ答えが出ないのだ。それに、ただ食うためだけであったなら、兵卒になっていればよかったのだ。
多少腕におぼえのある奴なら、どこでも引っ張りだこだったろう」
「ああ、呆れた。なんのために、いままで必死になって勉強してきたのだ」
「そうだ、なんのためだったかと言えば、さらに呆れてくれ、さっき気がついた。
俺は、孔明が言うとおり、俺は、人に仕える下っ端の官吏になりたくて、水鏡先生の私塾の門を叩いたわけではない。
もっと、そう、上の人間になりたかったのだ」
「上の人間? 孔明が言っているような、宰相とか? いきなりは無理だぞ。それこそ夢物語だ」
「孔明、あいつは実際にそうなるために、かなり具体的に考えているぞ。
俺が書を写すのを見て、文字の練習はもう十分だ、文字に対する知識は、学者が究めればいい、文章を書くのも、部下にさせればよいのだと言った。
そういうあいつを、みなは笑うし、俺も、いままでは困ったやつだと思っていたが、考えが変ってきている。
あいつは、俺は、もう、ほかの学問をするべきだと、はっきり言った」
「ほかの学問とは、なんだ」
「人を動かすための学問だろう。たしかにそうだ。宰相は、学者じゃないのだ。事細かな文字についての知識は、人心を掴むためには、ほんとうに必要ではない。
それに、俺は文字を書くのがたしかに好きだが、学者になりたいとは、これっぽっちも思っていない。
ましてや、だれか顔も知らぬやつのものした命令書を清書し、決裁にまわすだけの、退屈な文官にも似合わない」

「それは、宰相になれる者のすることだ。わたしたちは、まずはこつこつと下積みからはじめるべきだ。
それこそ、順逆にかなうものだ。大それた野心は、身を滅ぼすだけだぞ」
「たしかに、常識でいえばそうなのだが、しかし、こつこつと下積みからはじめて、宰相になれるのは、頭がすっかり白くなってからか? 
それでは遅い。だれが天下を安んじる」
「天下?」
「そうさ、天下だ。水鏡先生のところで、みんなでさんざん議論してきたではないか。天下を安んじるためにはどうしたらよいかと。
俺たちは、英雄が出れば、自然と天下が治まってくる、さて英雄とはだれだ、と、そんな話ばかりしていた。おぼえているか」
「おぼえているとも。そして、孔明は、なにを思ったか、その席で、わたしは管仲や楽毅のような宰相になって、英雄を助けて天下を早く安んじると言い切った。
それで周囲の顰蹙をかって、また喧嘩になったのだ」
「だが、孔明の発想は、正しくないか? 
すでに北では大量の優秀な官吏が曹操のもとに集りつつあるというし、孫家のところは地縁がつよいためによそ者が入りづらく、益州のほうは、すっかり時代遅れだ」
「では、劉州牧に仕官するのがよいと?」
「いや、おまえのさっきの話からすれば、樊城はいま、家臣が二つに割れていて、内輪もめを起こしている、ということだったな。
そして、実権を握っているのは、蔡将軍だと」
「言ったが」
「そんな中に仕官しても、たしかに生活は安定するだろうが、上へ行くことは望めない。
ないならば……孔明ならこう考えるはずだ。作ればよい、と。
たしかにそうだと思わぬか。せっかく苦労して学問を修めたのだ。俺は、同じく死ぬにしても、地方のつまらぬ書生で終わるより、はっきりと、自分の手でどれだけのことができるのか、それを知って、死にたい」

崔州平は、しばし沈黙し、それからまじまじと徐庶を見ていたが、やがて、口を開いた。
「君のその志は、男子として立派だと誉めるべきなのだろうが、あえて言わせてもらう。家門も低く、お尋ね者という過去も持っている君が、いきなり高位につけるはずがない。
曹操は、才能のある人材なら、いかなる身の上でもかまわないと言っているが、それとて、よほどの才人に限られた条件だろう。
だいたい、育てるなどと軽くいうが、どこのだれを育てるつもりなのだ。馬や牛を育てるのではないのだぞ。
さきほどわたしが説明した、内輪もめの話が気になっているのなら、ほかの君主のもとへ行けばいい。
だが、はっきりいうが、どこへ行こうと、君の家門が低いことや、過去のことは消せないぞ。
ただ、ここならば、わたしの名前が物を言う。刀筆吏よりはマシな仕事につけるよう、働きかけてもかまわない。いや、そうするつもりだった」
崔州平は、息をつくと、それから言った。
「君の誇りを傷つけてしまったのなら、あやまる。
だが、わかってくれ。この城は、そういう、とても保守的なところが、極端にあるのだ。
樊城の官吏のなかで、士大夫以外の身分のものはいない。もしいたとしても、下位の人間か、蔡家の後押しがある人間かのどちらかだ。さもなくば、宦官か」
「いまからでも遅くない、ちょん切ってみるか」
「笑えない冗談だよ、元直」

「ああ、すまなかった。怒るな。けれど、おまえさんの言葉で、ナゾが解けたよ。
この城はたいそう清潔で美しいのに、どういうわけだか、暗く息苦しい感じがしてならなかった。
が、そいつが原因だったのだな。
漢王室が衰亡したのは、一部の甘い汁を吸いたがる連中が、こぞって王室に群がって、さらには派閥争いだの、後継者争いだのをしたのが原因だった。
劉州牧の最初の思惑はどうだったかは知らないが、漢王室をかつては飾っていたよいものを各地から取り寄せて、それで自分の城を飾ってみたがいいが、結局は、漢王室とおなじ運命を辿りつつあるのだな」
「おどろいたな。そこまで読むか」
「読むもなにも、ダメになったものを、そのまま真似したら、同じ結果になるのは当たりまえだろう。
よし、そこがわかったなら、かえって踏ん切りがついたぜ。行こう」

徐庶がふたたび前を歩きだしたので、あわててそのあとを、崔州平がついてくる。
そんな崔州平をちらりと振り返って、徐庶は言った。
「おまえは、途中まででいいからな」
「なぜ。わたしが同行しなくては、意味がないだろう」
「俺はここに仕官しないことに決めた。だが、劉州牧という男の顔を見てみたい。裏と表があるっていう男の顔が、どんなものなのかな。
おまえは、孔明を連れて、先に帰ってもいいぞ」
「冗談だろう。それこそ、暴れ牛を引っ張っていくのよりむずかしい。
孔明が、君より先に帰ろうなんてするものか」
「そりゃそうだな。わかった、それじゃあ、孔明と待っていてくれ。なに、すぐにつまみ出されるさ」

笑いながら言う徐庶に、崔州平は、小走りに追いかけてきて、隣に並ぶと、小声で言った。
「元直、誤解しないでほしい。さきほど、わたしの態度が孔明並みに悪かったのは、孔明と一緒だ」
「なんだ、それ」
思わず、足をとめて尋ねると、崔州平は、いつものとりすました表情をやめて、いまにも泣きそうな、子どものような顔になっていた。
「この城には、嫌な思い出しかない。わたしが、長兄が死ぬまで、預けられていた先は、ここと深い関わりがあって、なんと言ったらよいのだろう」
と、崔州平は、周囲を気にしながらも、言葉を選んで、つづけた。
「もし、長兄が死ぬことがなかったら、わたしは、きっとこの城にいたはずだ。
そう、たぶん、ひどい身の上として、崔州平という名も、名乗れていなかっただろう」

崔州平の語ったことが、あまりに意外なものであったから、徐庶は咄嗟に返事をすることができなかった。
なにを言わんとしているのかわからない、どういう意味なのかもわからない。

「劉子初が言った、樊城に裏と表がある、という言葉は、派閥争いや後継争いのことを指していたのじゃない」
おい、と声をかけようとした徐庶であるが、崔州平の、聞くな、という手ぶりに抑えられて、なにも言えなくなってしまった。
「孔明が言ったことの云々は、やはりわたしには理解できないが、ともかく、君がここに仕官しないということであれば、わたしも、もう何もしない。それでいいね? 
君は、いま言った、わたしのことばは忘れて、できるなら、二度とここには関わるな」
「いや、しかし、おまえ」
司馬徳操のお遣いで、樊城に来ることは、これからもあるだろう。
そう言おうと思ったが、それよりも先に、崔州平は、まるで逃げるように徐庶に背を向けて、走り去ってしまった。
崔州平の沓が、掃き清められた廊下を叩く足音が、いつまでも残響として、徐庶の耳に残った。



孔明は、反省していた。
とてもとても反省していた。
さきほどまでの、むっつりした表情はなくなり、ヘの字の口はそのままであるが、後悔のあまり唇をかみ締めて、うなだれている。
まるでしおれた花のようだ。
となりにいる伊機伯の説明も、ほとんど頭に入っていない。

それというのも、徐庶や崔州平と別れたすぐあとに、このあいだ、喧嘩したばかりの相手と、ばったり出くわしてしまったからである。
喧嘩したことが決まり悪くて、しょげていたのではない。
その相手が、早々と樊城で官吏として働いているのを見て、徐庶がもしかしたら、ほんとうにここに仕官するかもしれないというのに、自分の先ほどの態度は、あまりに見っともないものだったということに、気がついたからである。
徐庶がたとえ、周囲に好印象を与えたとしても(与えないわけがない、と孔明は固く信じている)、自分の無礼な態度が、それを打ち消してしまっただろう。
そのために、仕官したあとの立場が、悪くなったりしないだろうか。

叱られても文句は言えない態度だったというのに、徐兄はまったく叱らないどころか、気遣いが足りなかったと謝罪までしてくれた。
今日の主役はだれだ? 
わたしではなかった。
それなのに、わたしは誰に対する配慮もせずに、傍若無人に振る舞って、まったく、なんて幼稚なのだろう。

樊城は好きではない。どうしても好きになれない。
いまだに夢にあらわれる、夕映えの部屋にひろがる血の汐と、倒れる叔父の姿。
けれど、これは徐兄とは、まったく関係のないことではないか。
そうだ、いまからでも遅くない、わたしは徐兄を樊城に売り込む側にまわろう。
徐兄がここに仕官しるなんて、ほんとうはいやだが、本人がよいといっているのだから、わがままは控えねばならぬ。
わたしは徐兄に依存しすぎているのだ。
嫁がれた姉上の代わりに、徐兄にすがってばかりいないか。
まったく、いくつだというのだ、わたしは。

「ときに、孔明どのは、おいくつでございますかな」
まるで考えていたことをずばりと言い当てられた気がして、孔明はぎょっとしたのだが、となりの伊機伯は、悪気があったふうではない。

口のよく動く、そして喋る話に事欠かない男だと感心する。
そして、なんだってこんなに腰が低いのやら。
だが、そこに気にいられようだとか、あるいは、なるべく取り込んで利用してやろうという邪心は見られない。
単にほんとうにお節介で、世話好きで、若者が大好きなだけのようだ。いや、十分に美質であるが。
「ずいぶんお若いようでございますが、劉公子よりは年下でございましょうな」

樊城のなかでひそかに始まった後継者問題について、孔明は姉の嫁いだ龐家を介して耳にしていた。
長男の劉琦が、圧倒的に不利だということも。
劉表の長子の劉琦は、堂々とした体躯の劉表とはまるで似ておらず、細面で、いかにも繊細そうな、蒼白い頬をした青年だった。
孔明が覚えているかぎり、劉琦はいつも目を伏せて、口許には、奇妙に静かな笑みを浮かべていた。
そして、自分では決して意見をいわず、だれかの述べる意見を、ひどく悲しそうに聞いていた。
自分には、意志を主張するということが許されていないのだと、思い込んでいるようにも見えた。

「劉公子は、たいへん聡明な方でいらっしゃいまして、文学に関しての論議も好まれます。
孔明どのとは年も近いようですし、きっと話も合うことでしょう。このところ、劉公子は、塞ぎこみがちでして」
と、ここで伊機伯は声をおとして、孔明にささやくように言った。
「ご存知でしょうが、蔡将軍らの所為なのでございますよ。このあいだ庭で詩作に励んでおられた公子を、まあ、女々しいだのなんだのと、あてこすりを申しまして」
「それはひどい」
同じことを言われがちな孔明が同調して怒りをあらわすと、伊機伯は、おおきくうなずいた。
「ええ、まったく。わたしの年が、あと十も若ければ、拳でぺしゃんこにしてやりましたものを」

特に智者でなくてもわかる。
伊機伯は口だけは勇ましいが、実際に十歳若くても、蔡瑁を拳でぺしゃんこになどできなかっただろう。

「あたらしいお話し相手ができましたら、きっとお心も晴れることでしょう。
じつはわたくし、ひと目、孔明どのを見たときから、なにやらぴんと来るものがありました。
この方ならば、劉公子と気が合うはず、と。この勘は当たりますぞ」

なにを根拠に、まさか、わたしの容姿も女々しいからではなかろうな、と孔明は怪しんだが、伊機伯は、自分の思い付きが楽しくてならないのか、くすくすと笑いながら、孔明の服の袖をぐっと掴む。
一張羅だ。破かれたらたまらない。
というより、また妻の黄夫人に叱られる、怒鳴られる、睨まれる、嫌味を言われる。ともかく大変なことになる。
そして弟夫婦は助けてくれない。

袖を引っ張られた孔明は、破かせまいとしながら、足を進ませ、結果的に、伊機伯の思惑通り、劉琦のところへ連れて行かれることになった。


3へつづく
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