リクエスト作品
空が高すぎる

徐庶は教室を見回して、点検した。
床掃除は完璧だ。まるで鏡のようにうつくしく磨かれている。
机もぴしりと見事に揃っている。よく調練された兵卒のようだ。
机のうえには、だれの忘れ物もなく、座にしても文房具にしても、所定の位置にすべて戻した。

みなが全部帰って、掃除もすべて終わらせて、それから先が、徐庶の時間だ。
ほかの裕福な弟子たちとちがい、徐庶には自分のための書物を買う金がない。
だから、司馬徳操にとくべつにお願いして、その書庫に積まれた書物を、毎日コツコツと写している。
おかげで文字は上達したと、徐庶は自負している。

戦乱のために零落した官僚の家に生まれ、父は幼少時に死に、母とふたりだけで生きてきた。
物心がついてからは、母を助けるため、そして守るため、みずから市井に出て、大人に混じって働いた。
そうした境遇であるため、司馬徳操のところへやってくるまでは、すこしの文字しか知らなかった。
母は教養のあるひとで、徐庶に文字を教えてくれてはいたが、あくまでそれは必要最低限のもの。
書物を読みこなすためには、まったく知識が足りなかった。

それでも、故郷の潁川の町では、徐庶は知っているほうだった。
いや、知っているほうだと持ち上げられ、本人もうぬぼれて、その気になっていた、というのが実際である。
読み書きのほとんどわからない市井の者たちからは、教養のある変わった剣客、というふうに見られており、なにかと頼りにされていた。

思うに、あの小さな町で、ほかより多少ちがうという部分だけで、なにか偉くなったように錯覚できていたときが、自分にとっては幸せだったのかもしれない。
勘ちがいだと笑われてもかまわないから、あのまま過ごせていたらどんなによかったか、と徐庶は思う。

人から慕われて、まっ先に勘ちがいを起こし、請われるままに敵討ちに参加して、捕らえられ、さらし者になった。
なぜさらし者になったかといえば、敵討ちを頼んできたものを庇って、沈黙をつづけたためである。
名乗れば、自分に敵討ちを依頼した者の身元が明らかになり、報復のために消されてしまうおそれがあったのだ。
敵討ちには十分な理由があり、世間も、捕らえられた徐庶に同情した。
日ごろの行いがよかったのだろう。
身分の低い剣客がさらし者として町中に引き回されても、 町の者は、だれひとりとして役人に通報しなかった。
故郷の潁川の町では、いまでも、名無しの男は拷問にも屈せず、あるとき、だれの手引きかわからないが、牢から逃げた、というふうになっているはずである。
実際は、徐庶を助けるために、町の人々が動いてくれたのだ。
ただ慕われるだけではなく、人を動かせる力を、徐庶は秘めているのだが、その得がたい美点を、かれはまだ自覚していない。

逃げてきて、ぼろぼろになったところを拾ってくれたのは、司馬徳操であった。
下手をすれば、奴婢にされていてもおかしくないくらいに身を落としていたのだが、偶然に偶然がかさなって、司馬徳操と出会えた。

俺の運は、あのとき使い果たしてしまったのかもしれないな、などと、最近は、ふと考える。
そして考えて、うしろ向きになっている自分を見つけて、これではいけない、と叱りつける。
自分の年齢、そして周囲の状況の変化。さまざまなものが、いま、徐庶を悩ませていた。

あらためて姿勢をただし、漆で淡々と文字を竹簡につづっていると、戸口で、ガタリ、と大きな音がする。
だれかがやってきたようだと、キリがよいところまで進めて、それから顔をあげれば、あいもかわらず、どこぞで喧嘩をしてきて、しかも負けたらしい孔明が、顔を腫らして戸口の桟に寄りかかって立っていた。
「また目立つ化粧をしてきたな」
顔の傷は、すでに変色をはじめていた。
どうやら殴られたあと、しばらく気絶していたらしい。
衣のあちこちに土や雑草の葉がくっついたままであるが、孔明はそれを取り払う余裕もなかった様子である。
「負けたのか」
「負けた」
口の中は切っていないようだ。
孔明は短く答えると、ふらふらと中に入ってきて、徐庶のそばに腰かけた。

徐庶のほうは、文房具を片付けると、孔明の腫れた傷を冷すべく、奥からつめたい水と、清潔な布をもってきた。
そして、孔明のもとに戻りがてら、こいつ、この様子じゃ、今日は俺のところに泊まるだろうな、と予測した。
派手に喧嘩をしたあとは、孔明は傷が治るまで、自宅に帰りたがらない。
いちど、そのまま帰宅したことがあり、怖い嫁に、あやしげな薬を顔中に塗りたくられ、弟夫婦にはこんこんと説教をされ、ばあやには泣かれる、というさんざんな目に遭ったからだ。
だれが悪いのかといえば、喧嘩をする孔明なのであるが、孔明には孔明なりの、喧嘩を買うしっかりした理由があり、これは譲れないものなのである。

こんな水で冷すより、嫁さんの塗り薬のほうが効くだろうに、と徐庶は思うのであるが、孔明は、ちょっとした冗談に乗った結果、押し付けられた年上の妻を、本気で恐れている。
本人曰く、
「なににつけても敵わない」。
本人ははっきり口にしないが、夫婦という形をとってはいるものの、実際のところはただの同居人という状態であるらしい。
聞けば、背が高すぎる、という点を抜かせば、申し分のない嫁で、顔はよいし、色も白いし、そのうえ教養も高く、家事全般はそつなくこなし、さらには医学に長けているというおまけつき。
なにが不満なのかとあきれるところであるが、束縛されるのが大嫌いな孔明にしてみれば、完璧な嫁は、本来の家の主である孔明より完璧に家になじんでしまい、それが孔明に息苦しさを与えているようである。
そして、嫁のことを口にすると、孔明が不機嫌になることは知っていたから、あえて徐庶は言葉を呑みこむ。

「で、原因は」
「生意気だから、だってさ」
徐庶がゆるくしぼってくれた布の、冷たい感触に、孔明は気持ち良さそうに目をつむる。
そういえば、最初にこいつに会ったときも、こんなふうに手当てをしてやったなと、徐庶は思い出していた。
はじめてこいつが司馬徳操の私塾に入ってきたときは、まだ背が伸びきっていなかったから、あまりに整いすぎたその容姿ゆえに、どこぞの姫君のようなやつだと思ったものである。
徐州の人間の例に漏れず、背がすっかり伸びたいまでも、孔明の、ふしぎな無性の雰囲気は変わっていない。
そして、父親だか叔父だかが名付けたのか知らないが、相当に気合をいれてつけたらしい派手な名前も印象に強かった。
なにせ亮(あかるく光る)に孔明(はなはだ明るい)、思い切りぴかぴかした人生を歩ませたかったのだろう。
ところが、そんな親の願いを裏切るかのように、この孔明、まったく周囲になじめず、新入りだというのに口は辛辣で態度はでかく、けれど、さほど学業優秀でもない(でも身につけてくる衣は毎日ちがう)というちぐはぐさゆえに、いじめられて、喧嘩ばかりしている。
こいつが身体に傷を作っていないときが、果たしてあるのだろうかと思うほどだ。

「前にも言っただろう、腹が立つことを言われても、十のうち、九までは耐えろと。
おまえは自分で思っているより短気なのだから、人の倍は耐えなくちゃだめだ」
「今日は五対一だった」
「ふん」
「十のうち九だったら、五人ならば、一人あたり二つまでが限度というわけだろう。約束は守ったぞ」
「また屁理屈を言う。ほら、今度は左を向け。よしよし……で、なにを言って、生意気だって言われた」

すると、いつもであったら、暴力に訴えてでも守ろうとした自分の主張を、徐庶に打ちあけるところが、孔明は、ぷい、と横を向くと、徐庶が直前まで写していた書を見て、言った。
「また写していたの。言ってくれれば、同じ物をとりよせるよ」
「金持ちは、さりげなくびんぼう人をいじめてくれるよな。おれが書を写しているのは、金がないというのももちろんあるが、こうしたほうが勉強になるからだ。
一文字一文字、ていねいに写していけば、文字の練習にもなるし、頭に入るだろう」
「たしかに文字の練習にはなるけれど、細かく文字を写すことで、書のほんとうに言わんとすることが頭に入るかどうかは疑問だな。
むしろ、文字の意味に気をとられすぎて、本来の意味を追うことがおろそかになってしまうのではないの。
奢られるのがいやだというのなら、出世払いでいいよ。
読みたい書はわたしが取り寄せるから、徐兄はもっとちがう勉強をするべきだよ」
と、孔明は、腫れた顔で、すがるように徐庶を見る。
勘のよいところで、徐庶はぴんときた。
こいつ、俺がらみで喧嘩してきたな。
「親切にありがたいが、それはやっぱりやめておく。俺は、文字を写すのが好きなのだ」
「たしかに、むかしよりは上手くなったよ」

断わられて、悲しそうな表情を浮かべながらも、孔明は、徐庶の書きつけた、その野性的な外見には似合わぬ、きっちり大きさも均一につづられた、几帳面な文字を見て言った。
一方の孔明は、これまた、柔和な女顔にまったく似合わない、飛び跳ねる魚のように奔放で力強い文字を書く。

「でも、文字が上手くなっても、よいところへ仕官できるとは限らないよ。文字はもう十分に上手くなったのだし、ちがう勉強をするべきだよ。
こういったら怒るかもしれないけれど、勿体ないと思う。わたしは、徐兄は、ほかのだれよりもよいところへ仕官できると思っているのに」
「そんなことを言うのはおまえだけだよ」
「でも、わたしの言っていることはまちがっていない。徐兄を贔屓しているからそう言っているのではないよ。客観的に見てもそうだと思う」
そうして身を乗り出してくる孔明に、徐庶は手を振って制した。
「よせよせ、なんだか言い寄られているみたいだ。俺はこの私塾のなかでは、いちばん勉強が遅れているのだ。その俺が、いちばんになれるはずがないだろう。
ほら、指もすりむいているじゃないか。布を当てておけ」
「話を逸らさないでくれないか。徐兄は学者になりたいわけではないだろう。
仕官したら、文字のひとつひとつを追うのは、そういうのが得意な部下に任せておけばいいんだ」
「俺は、なにになりたいのかね」
「また。徐兄は、肝心なところで本音を隠すな」
むくれる孔明に、徐庶は苦笑いを浮かべた。
「おまえに打ち明けたら、また暴走するだろうからな。
よくここまで歩いて戻ってこられたよ、驢馬にでも乗ったのか」
「いいや。寝ていたら」
「気絶していたら、だろう」
「……寝ていたら、たまたま通りがかった親切な人が、この近くまで馬車で送ってくれたのだ。ちょっと面白い顔をした人だったぞ。
なんだか顔が笑っているのだ。なにを言っても、ずっと笑っているのだ。
あれは、笑っている顔がもともとの顔なのだと思う。得なのか損なのか。零陵の劉子初、と言っていた」
「そりゃ、有名な零陵の劉家の若旦那だぜ。劉州牧の招聘を断わりつづけた、あの劉子初だ。
いまは郡の主簿をしているはずだが、ようやく折れて、劉州牧に仕える気になったのかな」
「親戚の家に寄って、いまから零陵に帰ると言っていたから、それはないと思うよ。
わたしの喧嘩の話を聞いても、五対一は卑怯だね、としか言わなかったし。
そうか、有名な人だったのか。名前と住所を聞かれたから、きっと手紙をくれるとおもう。わたしのほうも礼状もかねて手紙をだしてみようかな」
「おまえがそんなことを言うのはめずらしいな」
「話しやすい人だった。親切だったし、それに、面白いことを言っていたよ。
司馬徳操の弟子だと言ったら、君もいつか劉州牧に仕えるのかと尋ねてきたのだ。それはない、と答えたら、深くうなずいてね、それは正しい、劉州牧は裏と表が大きいから、というのだ。
どういう理由なのかとたずねたけれど、それは答えてくれなかった」
「おかしなことを言う人だな。しかし、零陵の劉家は、むかし荊州の境界線で孫家と劉州牧が対立したとき、同じ劉姓なのに、孫家を支持して、ずいぶん憎まれたのだ。
暗殺されかかったという噂も聞いている。そのことを言っているんじゃないのか」
「事情通だね、徐兄。そうか、だからなのかもしれないな。その人、無意識なのだろうけれど、零陵のことは『わたしの土地』というのだけれど、ここのことは、『よそ』というのだよ。
同じ荊州を移動しているという感覚ではなくて、異国にやってきたような口ぶりだった。
あの人の中では、自分のふるさとから外は、劉州牧の支配する敵地、という感覚になっているのかもしれない。
それは、わかる気がする。わたしも、ここに来てしばらくは、ここが『仮住まい』という感覚が抜けなかったもの」
「いまもか」
「いや、いまは、ここはふるさとだよ」

と、孔明はいうと、徐庶のとなりで膝をかかえて、ちらりと機嫌をうかがいながら、言った。
「さきほどの話に戻るけれど、仕官するつもりはないの」
「なんだ、さっきから俺のことばっかり。おまえはどうだ」
「わたしは、仕官する気はないよ。幸い、叔父の残してくれたもののおかげで、食べるのには困らないし、弟たちと、ずっとここで暮らすつもりだ」
「ふうん」
「徐兄が仕官しないというのなら、なおさら、このままでいい。叔父上や父上のご遺志には背くかもしれないけれど、でも、わたしは人と上手くやっていけないし、無理だ」

こいつにも、似たような悩みがあるのだな、と徐庶は思う。
思ったことを口にし、思ったとおりに行動しているように見える孔明だが、それは頭の回転が早いから、思いつきで動いているように見えるだけのことである。ちゃんと考えているのだ。

このところ、同年輩の弟子たちが、つぎつぎと進路を決めていた。
ある者は家督を継ぎ、ある者は劉表に仕官、ある者は、故郷へ戻って、そこで認めてもらい、登用された。
徐庶は司馬徳操の私塾のなかで年長組に入り、それだというのに学業が遅れているという状況で、だれよりも焦らなくてはならない位置にいた。

実際、焦っているのだ。そう見せていないだけで、これから先のことを考えると、暗い未来しか浮かばず、気持ちがふさぐ。
ともに故郷の潁川から流れてきた石広元は、すでに早々と仕官を決めていた。
そのことも、徐庶を焦らせている。

孔明が、自分を高く買ってくれていることを、徐庶はありがたいと思っている。
世間知らずで、どこか無邪気な孔明の評価なので、頭から信じてよいかどうかは疑問であったが、孔明がはげましてくれるから、まだ平常心を保っていられるのだ。
こうまでなつかれて、可愛くないといったら嘘になる。
だが、このまま、孔明のいうとおり、仕官せずに二人で田舎に留まるという未来は、徐庶のなかでは、どうしても思い浮かべることはできなかった。

「おまえ、その顔じゃ、今日も俺のところに泊まるのだろう。衣はまあ、仕方ないが、その顔はせめて笠で隠してくれ。
奥に先生が置き忘れたのがあったはずだから、それを借りるといい」
徐庶のことばに、孔明は素直にしたがって、奥のほうに消えていった。

そして、一息つくと、もうひとり、さきほどから、悪趣味にも、戸口のところで身を潜ませていた男に声をかける。
「ときどき思うのだが、孔明の馬鹿正直なところと、おまえの妙にこそこそしたがるところ、二つ足して割ったら、ちょうどいいと思うんだがな」
徐庶がいうと、戸口のうしろに隠れていた崔州平は、気づかれていることに、すでに気づいていたらしく、四角い顔に、にんまりと人の悪い笑みを浮かべてあらわれた。
「忘れ物を取りに来たんだが」
「それなら、そこの棚の引き出しにしまっておいた」
最近、崔家の家督を継いだばかりの男は、しゃなりしゃなりと、気取った足取りで、徐庶が指さした先に向かって歩きながら、言った。
「じつはもう一人いたのだが」
「だれだ」
「いや、君の知らない人だ。女の子でね。そしてこれも知らなかっただろうが、君に思いを寄せていた」

崔州平は、ときおり、こいつになにがあったのだ、とうろたえるほどに唐突に、冷たく意地悪な面を見せことがある。
徐庶には、なにがきっかけなのか、さっぱりわからなかったが、崔州平は、いま、意地悪をしたい気分であるらしい。

「冗談だろう」
「冗談なものか。いやしかし、君のことだから、どうせ興味も持たないだろう。だから、こう説明しておいた。
元直がいま手当てをしているやつは、男のように見えるけれど、じつは男の格好をした女で、元直が世話をしているのだ、とね。
いや、まさか信じないだろうと思ったら、ふつうに信じてしまったよ。で、泣きながら帰ってしまった」
「ときどき、おまえをぶん殴ってやらなくちゃならない、と思うときがあるが、いまがそのときかもな」
徐庶は脅しではなくて、本気で言ったのだが、崔州平は、怖じることもなく、じつにしれっとした態度で言った。
「わたしたちが喧嘩をしたら、さて、だれが怪我人の孔明を君の家につれていく。
あいつが喧嘩をした理由、気づいているだろう。君だよ。石広元が仕官できたのに、君が仕官できないのは、前身が卑しいからだと、莫迦どもがはやし立てたのだ。
そのなかの一人が、最近、樊城への仕官が決まってね、おそらくはそこを自慢したかったのだろうが、孔明には通用しなかったものだから、腹を立てて、いきおいで、君のことを持ち出したのだ。
莫迦だよな、たしかに五対一で孔明のほうが負けたけれど、一張羅をびりびりに破かれて、泣きそうな顔をして帰ったぜ、そいつ」

ほんとうに莫迦だな、と怒りをおさめて、徐庶は思った。
自分のことを持ち出した連中のことではなく、人のために本気で怒った、孔明のことを、である。
そして、孔明と自分とで、生まれも育ちもまったくちがうが、その性質は、兄弟のように似ているなと思った。
かつて、自分も、故郷の町で人のために本気で怒り、そして怒りに流されて人を斬って、人生を狂わせた。
おそらく、孔明も、同じ立場に立たされたら、同じようなことをするのではないだろうか。

「一張羅をびりびりに、か。そういや、孔明の爪が伸びていたな」
「泊めるのだろう。だったらついでに切ってやればいい」
「そこまでやるか。自分で切らせる」
「そう? たまに君たちが妬ましくなる。孔明が言っていたように、二人で田舎に引っ込んでいるのもいいのじゃないかい。それを許されているかぎりは、だが。
けれど、孔明が、ああもぴったりそばにいるかぎり、君のところに嫁はこないだろう。入り込める隙がない」
「おかしな冗談を言うな。そんなふうにはならないさ」
「では、仕官するつもりなのか」
「考えてはいる」
徐庶のことばに、へえ、と崔州平は、器用に片方の眉をつりあげてみせた。
「意外か?」
「いや、いつかはそういうだろうと思ったけれど、どこへだい。手近なところでいえば、劉州牧だが」

崔州平のことばを憎たらしく思いながら、しかし、徐庶は、たしかに早く仕官するのなら、劉表のところしかあるまいと思っていた。
零陵の劉子初は、親の代からのいざこざで劉表を避けているようだが、自分は劉表とはなにもないわけであるし、すくなくとも、世間のおおまかな評価は、劉表には好意的なので、仕官する先としては、悪くはない。
ただ、儒教の思想をなにより尊び、潔癖症なところもある劉表が、剣客であった自分をどう受け止めるかが問題だ。

「おまえは仕官しないのだな」
「孔明ではないが、先祖代々の財産で十分にやっていける。それに、わたしこそ、宮仕えに向いていない。
親しい人間でさえ怒らせたくなる癖は治らないようだし、ずっと田舎にいるさ。そう才能があるわけではないのだ。立身出世に未練もない」
「いさぎよいな」

口にはしたが、反発があるのも確かだ。
崔州平は豪族の息子だ。
この戦乱の世にあっても、食べることに困ったことがない人間である。
いま、自分の持つ、切迫感というものは、こいつにはわかるまい。

「なあ、元直、もし君さえよければ、劉州牧に君を紹介してもいい」
「ほんとうか」
唐突な申し出に、徐庶がおどろいていると、崔州平は、すでに戸口から半分身体を出した状態で、あまり乗り気ではない様子で、うなずいた。
「ただし、あんまり期待しないほうがいい。聞こえてしまったのだが、劉子初の言葉は正しい」
「裏だとか、表だとかか。どういう意味なんだ」
「知らなくてもいいだろう。君のほうが、わたしより直感には優れているのだから、自分の目で劉州牧の人物を見極めたらいい。
会うだけはタダだが、どうする」
どうする、と問われて、断わる理由もなかったので、徐庶は崔州平の提案にしたがうことにした。



海の彼方を越えようとした者の話は知っている。
大地の彼方を探訪した英雄の話も知っている。
だが、空の彼方を越えてみようとした者はいない。
海も大地もすでに先駆者がいるのなら、自分は空を越えてみたいと思わないか。

夢見がちな石広元は、酔って頬が少年のように紅潮していた。
まるで自分がたったいま、千里の彼方から戻ってきたかのように興奮して。
石広元の問いに、まともに答える者はなく、妙に律儀なところを見せて、孔明が、空を行くなら、まずは飛ぶ算段を考えねば、と答えただけだった。
孔明は真面目に答えたつもりだったようだが、これを茶化した孟公威が、飛ぶなら仙人になるしかない、と言い出し、崔州平が、いつもは大人しい癖して、天女をつかまえてその衣を奪うといい、衣に空を飛ぶ力があるのだ、ついでに天女を女房にできて、一石二鳥だ、ということを、かなりきわどい話をまじえて口にした。
話はそれから逸れに逸れ、石広元がほんとうに言いたかったことも、うやむやになってしまった。
そのあと、石広元は、新天地に向かって旅立っていった。

空。
それをどんな喩えで口にしたのか、そのときはわからなかったが、いまなら、そう興奮して語りかけてきた、石広元の気持ちがわかる気がする。
だれしも、未踏の地を、まっさきに踏んでみたいと思う。
先駆者に、いや、人の先頭に立ってみたいと思う。
それが志を持つ者の、健康な考えだ。
学者になりたいわけではない。
では、俺はなにになりたいのだ。
この戦乱の世で、俺の目指すものは、なんなのだろう。

ただひたすらに、故郷の母によい報せを持って帰りたいと、そればかり考えて勉学に励んできた。
劉表のところへ仕官すれば、生活は安定する。母に仕送りをすることだってできるようになる。
だが、仕官できればそれでよいのか。
俺の志は、それで果たされることになるのか。

月明かりが窓から差し込んでいる。
虫の音が妙に耳について、眠れない。
となりでは、喧嘩した疲れもあるのか、孔明がしずかな寝息をたてて眠っている。
ほのかに月明かりに浮かぶその顔を見つめて、そういえば、こいつは、管仲のような宰相になりたいと言っていたな、と徐庶は思い出していた。

石広元は、仕官することで、新天地で、空を制覇するくらいの功績をあげたいと、そう意気込んで旅立っていった。
その石広元に、こいつは、空の飛び方をまず考えなければと答えたのだ。
たしかに、こいつは人とは物の受け止め方、感じ方がちがう。
理詰めで考えるだけではなく、直感的に本質をとらえる力を持っているようだ。
だが、人とちがっているという点で、孔明は世間になじめない。
いや、なじめないからこそ、かえって公正になれるということもないだろうか。

もし孔明が宰相になれるとしたら、それはずいぶん面白いことだろうなと、徐庶はそんなことを考えながら、目を閉じた。

2へつづく
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