新設定・試作品
おきつね様の危機 その4
きつねときたら。
「亮さん、来ているわ」
外には聞こえないだろうに、小声でささやくように月英が言う。
孔明は文机を離れて、よっこらしょと席を立ち、あまり急がず、月英のあとにつづいて、門から外を眺める。
ちょうどすずかげの木の向こう、趙雲の家の真向かいの家の塀の陰から、目立たぬように粗末な白い衣に身をつつんだ見慣れた男がひとり、半分だけ顔を出して、じっとこちらをうかがっているのだ。
その顔は、目の前のすすきのなかに自分を捕らえるための罠が仕掛けられていないかと疑い深そうに見つめているきつねに似ている。
そう、法正である。
「あの男は、ずっとああしているつもりかな」
「声をかけてあげたほうがいいのじゃない」
「いや、放っておこう。好きでああしているのだ、われわれが口を出すと、あの男のことだから悪く取って、きっとへそを曲げる」
「でもこのままにしておけないわ」
「言ったろう。夫婦喧嘩は犬も食わない。もちろん、龍も食わない」
そうして月英の肩を抱いて中に戻ろうとすると、ちょうど葵心が表に出てきたところであった。
どうやら、奴婢のひとりが見かねて教えてやったらしい。
「いらっしゃいますよ」
孔明が声をかけると、ここ数日でずいぶんやつれた葵心は、水にはじめて足を踏み入れる子供のように慎重に言った。
「でも、あのひと、迎えにきたわけではないのでしょう?」
見ているだけです、と答えるのも残酷すぎるので、孔明が別のことばを探していると、表のほうから、場違いなほど陽気な声がした。
「ほうほう、これはきつねどのではありませぬか。いったいこんなところでなにをなさっているのです。そういえば、ちかごろ、この近所でよくお見かけしますなあ」
趙雲である。
これはまずいと思った孔明だが、葵心のほうが早かった。
ぱたぱたと足音をたてて表に飛び出す。
孔明と月英も、そのあとを追った。
表に出てみれば、ちょうど法正が、趙雲を黙らせようと必死で身振り手振りをしているところであった。
しかし趙雲は気づかず、けらけら笑いながら、大きな声で、どうです、近くにいらっしゃったついでに、我が家にお寄りになりませぬか、などと誘っている。
そこへ葵心が飛び出してきた。
法正は、はっと息を飲み、顔をこわばらせた。
葵心のほうも、ひさしぶりに良人を見て、思うところがあったようである。
そのまま、身をこおらせて、黙ってしまった。
両者のあいだに、張り詰めた沈黙が落ちる。
だが、その沈黙を破ったのは夫婦のどちらでもなく、趙雲であった。
相変わらず陽気な笑みを浮かべつつ、近隣十軒すべてに聞こえるような大声で言う。
「奥方が出てきたようですな。これで仲直りなさるといい」
法正は杜鵑花のように顔を真っ赤にしている。
「うるさい、すこし声を落とせ」
「まあ、そう照れなさんな。軍師が知らせたとおり、すべては誤解だったのです。仲直りなさい。家庭円満が国家安泰につながりますぞ。さあ、葵心どの、こうしてご主人がお迎えにきてくれたのですし、家に帰るべきです」
しかし、葵心は、意外なことにここで首を横に振った。
「でも、この人ときたら、いままでずっと連絡をよこさないで、ひどい。わたくしは必要とされていないのではありませぬか。このまま帰るのはいやでございます」
「なんだと、いつまでわたしに恥をかかせる気だ、よりにもよって諸葛亮の家を選びおって。おまえはわたしに危機をもたらしたのだぞ、すこしは反省せい」
「危機だなんて、どこまで自分勝手なひとなの。たしかに誤解したのはわたしが悪かったけれど、あなただって、わたしが誤解したと思ったら、きちんと説明すればよかったじゃありませんか。
それを知らん顔してわたしをひとりぼっちにして。わたしだって、好きで月英さんの家に長居したわけじゃありませんわ」
「まだ言うか。ほれ、帰るぞ」
ぐい、と法正が葵心の腕を掴む。
しかし葵心はそれをはげしく振り払い、くるりと背を向けてしまう。
「帰りません」
「なんだと」
「別れてください。そのほうがお互いのためです」
「莫迦をいうな。別れて、おまえはどこへ行くのだ」
「尼にでもなりますわ」
「尼だと。ますますもってふざけるな。尼になんぞさせるか」
「そうそう、尼になるのはもったいない」
突然、趙雲があいだに割って入ると、葵心を抱き上げ、肩にかつぎあげた。
それには見ていた孔明も、そばにいた法正も仰天である。
「葵心どのはおれがもらうことにしよう。おれは風雨をしのげる屋敷はあるし、管理するのが楽しみな荘園も持っているし、そのうえ、ほかに女もいないし、条件はいいですぞ」
からから笑う趙雲の肩で、葵心が手足をじたばたさせて暴れ出した。
「なにをなさるのです、下ろしてください」
「そうだ、慮外者、葵心を下ろせ」
「下ろすのは、おれのものになると葵心どのが承諾してからにしましょう」
「いやです、下ろしてください。わたしはあなたのものになるつもりはありませぬ」
「そうかといって、黙って尼になるのを見てはおられませぬ。葵心どのは、まだまだお若いではありませぬか。家にはお子もいらっしゃるはず。母をなくして、子らはどうして生きていきましょう。おれなら子供も引き取って育てる余裕がありますぞ」
「ふざけるな、趙子龍、葵心はいやだと言っているのだ」
それを聞いて、趙雲は、かれにしては意地悪く、ふふんと鼻でせせら笑った。
「これは面妖な。これまで奥方については知らん振りを決め込んできた揚武将軍どのが、どうして急に奥方に執着されるのです。人の物になるのは惜しいとか、そういう理由なのではありませぬか」
「ちがう、ふざけるな。わたしは、葵心がわたしを信じなかったことが悔しくて、それですこし反省させようと思っただけだ。
ちょっとやりすぎたのは反省しておるわい。だからこうして様子を見に来たのだろうが」
「それは本心ですかな」
「本心だとも。わかったなら、葵心を離せ」
「葵心どの、お聞きの通りでござるが、さて、どうなさる」
「家に帰ります。だから下ろして」
「尼になるのはやめますか」
「やめます。だから下ろしてください」
そうかそうか、と笑いながら、趙雲は葵心をようやく下ろした。
葵心は地面に足がついたとたん、笑っている趙雲の横っ面をぴしゃりと叩いた。
だが、葵心はここで奇妙な反応をみせた。
頬を打ってから、なんてことしたのだろう、という顔になったのである。
しかし、趙雲は叩かれてもなお、頬をさすりながら、やさしく笑っていた。
葵心の気持ちが、趙雲にはしっかり伝わったのだ。
一方、妻を奪われるところであったきつねは、歯をむき出しにして怒っている。
「おぼえておれよ、趙子龍」
「ざんねんながら、おれは一晩寝たら忘れる」
「ふん、忘れられないようにしてやるわい」
感謝するどころか捨て台詞をはいて、法正は葵心とともに去って行った。
葵心のほうは、去り際にちらりと振り返り、趙雲に向かって、申し訳ない、というふうに頭を下げた。
趙子龍劇場、幕、である。
「あなたという人は、ほかに解決法があったろうに、荒療治すぎるぞ」
あきれて孔明が言うと、趙雲はなにも気にしてないようで、けらけらと笑いつづけている。
「なあに、きつねがおれになにかしようとしても無駄だ。そんなことをしても、あんたが阻んでくれるだろうから」
「なんだ、わたし頼みの話だったのか」
「冗談だ。きつねはそこまで邪悪な男ではない。大丈夫だ」
さて、それはどうかなと孔明は思った。
当面、趙雲の昇進はないかもしれない。
どころか、神経を尖らせて見張っていないと、趙雲の家屋敷がいつのまにか没収されているということにもなりかねない。
そのあたりのことを、さっそく偉度に相談しなければと孔明は思った。
当の本人は、あとのことなど、なにも考えていないようである。
「まったくあなたは、大胆な人だね」
「いいではないか。これであんたの頭痛の種がひとつ減ったのだからな。きつねが感謝してくれない代わりに、あんたが感謝してくれ。
やあ、それにしても一芝居打ったら腹が減った。どうだ、これから蜀魂亭にでもみんなで繰り出そう。ことが解決したお祝いに、おれがみんなに奢ってやるぞ」
「やれやれ、すべて自分のためではなく、人のために力をふるう。あなたは奇特な人だよ、ほんとうに」
「いい相棒を持ったろう」
「そういうところがなければ完璧だ。行ってくるよ、月英」
そんなやりとりをしながら、二人しててくてくと蜀魂亭へと向かっていった。
おしまい
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