七夕フェスタリクエスト企画  第十七弾 Mjさまからのリクエスト

白と黒の恍惚

おまけ

偉度+莫迦坊ちゃんズ

にじんだ月が群雲の上にあらわれて、成都の街は、すっかり夜闇につつまれた。
商店で提灯を買い求め、その灯りを頼りに、てくてくと自邸へそれぞれ向かう五人の姿がある。
先頭は趙雲で、そのあとを不機嫌そうに孔明、対称的に、ご機嫌な偉度、最後に文偉と休昭が並んで歩いている。
趙雲が寡黙なのはいつものことだが、孔明が不快なのを隠さずにいるのは珍しいし、いつも皮肉げな笑みを浮かべて、機嫌の上下とはまったく無縁な顔をしている偉度が、鼻歌でも口ずさみそうなほど機嫌がよいのも不思議な光景である。
文偉と休昭は、前を行く三人のあいだに、どんな過去があり、今に至っているのか知らない。
だから、偉度が、孔明と趙雲が揃っていると、嬉しそうにする理由がよくわからない。
文偉などは、二人がいる、というだけで、緊張してしまうし、その緊張があらわれているのが、この距離でもある。
偉度は、二人を尊敬して慕っている、というのではない。
なにかもっと強い絆を感じるのであるが、それを知ることは、偉度が語りたがらないこと、まさにさきほど、馬謖と喧嘩した原因になったことを探ることになるような気がして、問うことができなかった。

しかしそれにしても…

「馬幼常はどうしたかな」
「金子(きんす)はたっぷりありそうだから、適当な店に入って遊んでいるのじゃないか」
と、休昭は深い意味も考えずに、さらりと答えた。
まあ、特別に想像を働かせなくても、そんなところだろうな、と文偉も思う。
「金持ちは良いな。わたしもあそこで、金を気にせず遊んでみたいが」
「あんなところに入り浸るようになったら、絶交だからな」
「判っているよ、潔癖党副総裁」

休昭の言葉は戯言でなく、本気だろう。
となると、遊びに行く時は、こいつも一緒に連れて行って、黙らせる必要があるな、うむ。
二人分の遊興費が必要になる…そこまで稼げるようになるには、あとどれくらいかかるやら。

「軍師には驚かされるな。あんなところへ、独りで毎日通って」
すこしでも遊んで行こうかな、と考えなかったのだろうか。
まわりはよりどりみどり。
金はある。いざとなればその名を出して、楽しく豪勢にすることもできるだろうに。
文偉の言葉をどう取ったか、休昭も頷いた。
「あの方は度胸があるよな。わたしだったら、怖くて、一人で店に入るなどできないよ」
こいつ、いくつになったのだっけ。
潔癖というよりは、いささか小心に過ぎるのじゃないかな、と文偉は心配になってきた。

まあ、休昭は、見るからに世間知らずな純粋培養(でも貧乏)の雰囲気を全身から醸し出している。
一人で裏町をうろうろして、あのあたりに徘徊する狼どもに狙われたら、大変なことになるだろう。
とはいえ、いつまでもお坊ちゃまでいるわけにはいかない。
ふむ、となると、世間を教える役目を担うのは、わたしか。
まあ、わたしも一人っ子でこいつも一人っ子。
もう親友と言うよりは兄弟に近い(しかも互いに、競争心がぜんぜん起こらない間柄だ。意識していないだけかもしれないが)。
そうなれば、年長たるこちらが、兄の役目を負わねばなるまい。
とはいえ、いきなりあの界隈の店に連れて行ったら、幼宰さまより大目玉どころか、雷が落ちそうだ。
あの方は怒ると、とんでもなく恐ろしいからな。
折を見て、慎重に、世の中を教えていかねば。
こういう、生真面目すぎる奴に限って、ちょっとのはずみで道に逸れてしまったとき、崩れ落ちるさまも生真面目なのだ。
つまりは、絵に描いたような見事な転落っぷりを見せる。
免疫をつけなければいかん。
これは、休昭の転落を防止するためで、わたしが遊ぶ時にうるさくいわれないための防衛策ではない。うむ。





休昭にとって、親切なのか大いなる迷惑なのか、よくわからないことを、文偉が考えているなか、偉度は、さきほどから沈黙がつづいている趙雲と孔明の間に入って、提灯で足元を照らしている趙雲のほうに尋ねた。
「趙将軍は、もしや、軍師が女遊びをしているのではないと、最初から気づいておられたのですか」
すると、趙雲は、偉度のほうを見ないまま、無愛想に、
「まあな」
とだけ言った。
「なぜです」
「女は買わないと、前に言っただろう」
とは、ちょうど偉度の背後にいる孔明の言葉であるが、偉度は趙雲がなぜ慌てなかったのか、その理由を知りたかった。
付き合いが長いので、動揺したのなら、隠してもすぐ見破る自信がある。
趙雲は、まるで動揺していなかった。
「なぜなのです」
食い下がる偉度に、趙雲は、いささか迷惑そうに、眉をしかめたものの、それでも重たい口を開いた。
「顔を見ればわかる。これが、女に入れ込んでいる男の顔か」
言われて、ちらりと振り返れば、孔明はひたすら不機嫌そうであるが、その顔には、恋愛の嵐に巻き込まれている者特有の、熱っぽい艶めかしさはない。
頭の中には、等間隔で区切られた美しい碁盤の目と、白と黒の配置がぐるぐると回っているだけのように見える。
色っぽさもなにもあったものじゃない。
なるほど。
「よく観察しておられる」
「おまえは観察が足りぬな」
うまく切り返されたな、と思いながら、今度は、偉度は孔明の横に並んで、尋ねた。
「偉度に一言おっしゃってくだされば、だれにも洩らさず、ちゃんとお供いたしましたものを。なぜに黙っておられたのです」
すると、聡明な孔明にしては意外にも、そうだったな、などと、感心している。
とぼけているのではない。
孔明は、なにかひとつに夢中になると、ほかに頭が回らなくなる悪い癖があるが、今回は、それがまともに出た形だろう。
「正体をばらさず、あの用心棒に、実力を思うさま振るって欲しいというのが先に出て、ほかのことに気が回らなかった」
「場所が場所です。噂になることは考えなかったので?」
「噂はおまえが消すだろう」
「ご信頼ありがとうございます。しかし、中でなにをしていたかはともかく、妓楼に通っていた、という事実は事実なわけですから、軽率すぎますぞ。すでに、巷では、軍師によく似た者が、よからぬ場所に出入りしていると言う噂が、ちらほらと出ております」
「うむ、それはいかんな。おまえの言うとおりだな。悪かった、悪かった」
「『悪かった』は二度で結構」
「悪かった」

そのやり取りを聞いて、めずらしく趙雲が声をたてて笑った。
孔明は、さらにむっとして趙雲の背中に尋ねた。
「なにが可笑しい」
「いや、偉度は、俺よりおまえを叱るのがうまいな」
「そうでしょうか。軍師はわたしの言葉には、簡単に相槌を打たれますが、その後、反省はしてくださいませぬ」
「反省? しているとも。心からすまなかったと思っているさ」
孔明がとぼけて言うので、偉度は口を尖らせた。
「嘘をおっしゃい。では、わたしが話しかける前に、なにを考えていたか当てて差し上げましょうか。正体がばれてしまったようだが、どうやったらあの用心棒をうまく説得して、左将軍府に召しだし、実力を振るわせられるかを考えてらっしゃった。そうでしょう」
孔明は、む、と小さく言い、眉をしかめた。
伊達に主簿はしていないさ、と偉度は思いつつ、図星だったことに、ため息をつく。
「あの用心棒ならば、軍師に勝てば、もっと褒美を取らせるといえば、ますます張り切って、その腕を見せるでしょうよ。ちゃんとわたくしが連れてまいりますから、軍師は大人しく待ってらっしゃい」
「わかった。頼む」
「本当にわかってらっしゃるのか。だいたい、あなたは他のだれよりも、とびきり派手で目立つのです。普通にしていても人目に付きやすい。お忍びなんぞできる方ではないのですよ。まったく、それでも変装して出かけたというのならともかく、いつものとおり、堂々と出かけていたというのだから、話にもなりませぬ」
「ならば変装していけばよかったのか」
「変装しても駄目です。しばらく大人しくしてらっしゃい」
「ハイ」
そのやり取りを聞いて、やはり趙雲は肩を震わせ、笑っているようである。
こっちは本気で孔明に意見をしているのに、なにが可笑しいのか。
「将軍、わたくしの言葉に、おかしな点がございましたか」
「いいや、可笑しい点なぞなにもない。俺が笑ったのは、やっと俺と同じ苦労を理解できる者が出来たというのが愉快で、笑っておったのだ」
「ふん、これも仕事ですからね。仕事でなければ、なにを好き好んで、こんなわけのわからない人の面倒なんて見ますか」
「そういうことにしておくか。軍師、本気に取るなよ」
「わかっているとも。何年越しの付き合いだと思う」
どうもうまくあしらわれているような気分が取れない。
というよりは、やはり二人の意見がまずあって、なんだかんだと、最終的にはそれに添う形になっている。
この関係は、磐石といおうか、やはり崩れないものなのだな、と、安心しながらも、すこしばかり、自分の力不足を見せ付けられたような気がして、偉度は、道端の石をぽんと蹴飛ばして憂さを晴らした。





馬謖

さて、話はすこし戻る。
長星橋の妓楼街の裏町に到着したものの、やはり馬謖は、仲間外れにされつづけているような、居心地の悪さがつづき、おもしろくなかった。
もちろん、あの説教好きな強面将軍も、口うるさくて生意気な主簿も、貧乏二人組も、積極的に馬謖を仲間外れにしようとはしていない。

馬謖はなにを求めているかというと、ひたすら自分を賛美し、盲目的に従ってくれる、都合のいい人間に、四人がなってくれることであった。
無理難題はなはだしいところであるが、それがわからぬあたり、馬謖は孤独でありつづける。
馬謖にとっては、己と並び立つものを認めることは、許せない事柄であり、己を否定することでもあった。
馬謖には、才能があるのである。
だが、臆病すぎるあまりに、己を高いところに肯定しておかないと、不安でいても立ってもいられない(この場合の『高いところ』とは山のことではない)。
自分を、自分の実際以上に高いところに掲げ、賛美を受けている間は、安心していられる。
だが、そこで満足しているかといえば、そうではない。
おのれを賛美する者たちの裏に、うつろな思惑があることを、馬謖は十分承知しているので、心は満たされない。
さて、そうかといって、己に直言を吐いてくれる者たちのほうが、よほどよいかと問えば、これは否で、己をすこしでも否定されると、馬謖は立ち位置がつかめなくなり、混乱を起こし、はげしく騒ぐ。
己を否定される混乱と、うつろな賛美の中にいるのと、どちらがよいかと問われて、後者を選択しつづけているのが馬謖の生き方なのである。
彼は自ら、孤独であり続ける道を選んでいるのだ。
馬謖がのぞむのは、盲目的に、おのれを肯定し、賛美してくれ、さらに、おのれの状況をも理解してくれたうえで、母のように優しく叱ってくれる相手である。
だが、そんな完璧な、『甘い人間』は存在しない。
存在しない者を求め続けるがゆえに、馬謖の心は満たされない。
そして、同じ現実を繰り返し続けている。
彼は、徹底して孤独なのだ。

そんな馬謖を心配してくれるのが、兄の馬良なのであるが、この馬良の、思惑のなにもない、まっすぐな忠告も、馬謖を溺愛している母親の言葉が制してしまうので、効果が薄くなってしまっている。
くりかえしになるが、馬謖は愚か者ではない。
だから、おのれの未来に見える、大きな落とし穴の気配は感じているのだ。
感じていながらも、どうしてそうなってしまうのかがわからないので、手を打つことができないでいる。

さて、孔明を探す四人とすこし離れて歩いていると、くいくいと袖を引っ張る者がある。
客引きか、と馬謖がうんざりして振り払おうとすると、袖を引いた男は、すばやく言った。
「旦那、薬は探しておられませぬか。いい薬がございますよ」
思わず振り返れば、そこには、子供のように小躯の男が、訳知りがおで、袖を引っ張っていた。
「薬とは、媚薬だの強壮剤だのの類いであろう。いらぬ」
すると男は、その答を予想していたのか、ひっひ、といやらしい笑みをこぼして、言う。
「うちは世間じゃ扱わないような、珍しい薬を商っております。旦那がきっと欲しくなるような薬もありますよ。店はすぐそこです。どうです、覗いてみませぬか」
「ふん、わたしはおまえのような卑しい奴に付き合う余裕はないのだよ」
「まあ、そうおっしゃらず。どんな薬もございますよ」
「大きく出るではないか。では、賢くなる薬もあるのか」
それは、と客引きが言葉を詰まらせるのを期待していた馬謖ではあるが、意外な返答がかえってきた。
「ございます」
「まことか」
「ええ。お名前を申し上げることはできませぬが、かつてこの薬を飲んだおかげで、司徒の地位に上がられた方もおられます」
まさかとは思いつつも、具体的な例が出てくると弱い馬謖は、買わないまでも、すこし覗いてみるならばよいか、という気になった。

馬謖の袖を引き、小躯の男は、いそいそと路地を行く。
そこには、奇怪な建物が、幾重にも組み合わさるようにして建っている界隈で、思いもかけないところに窓があったり、どうやって出入りしているのだろうというところに、扉があったりする。
客引きの薬屋は、獣くさい一角にあり、扉の中には、あやしげな器具や壷などが並んでいる。
客はほかにだれもおらず、店番もない。
どうやら、この小男が、客引きと店番を兼ねているようだ。
思わず馬謖は、袖で鼻と口を覆いつつ、小男に尋ねた。
「まこと、賢くなれる薬があるのだろうな」
「ございますとも、貴方様をひと目見て、このお方に、あの薬を煎じてさしあげたいと、ぴんと来たのでございます。旦那は本当に運がよい。わたくしも、この商売をはじめてから、やっと手に入れることができた、稀少な薬を仕入れたばかりだったのでございますよ。まさに天の配剤。さあさ、あの奥に薬はございますゆえ」
小男の言う奥、とは、店先の奥にある扉で、中に入ると、小さな部屋に、大きな壷や籠やらが、それぞれ、強烈な胃臭を放って陳列されている。
「こんな臭い薬に、ちゃんと効能があるのだろうな」
「良薬は口に苦し、臭いもまた、きつければきついほどによいのです」
「初耳ぞ」
「こちらは、この道、数十年の玄人ですぞ。どうぞお任せくださいませ。旦那のお求めになる薬は惚れ、この中に」
と、小男が、ぱっと籠の蓋を開けると、中には、白と黒の毛玉が入っていた。
が、その毛玉、動く。
よく見れば、それは蜀の山中に住まう、白と黒のふしぎな模様の入った、熊に似た動物の子であった。
「知っておるぞ、これは、『モー』(パンダ)という生き物だ。鉄や銅を食う、かの兵主神のような動物だ」
博識なところを見せる馬謖であるが、小男はまるで頓着せず、言った。
「そのとおり。この動物の、脳みそが、貴方様のお求めになる薬でございます」
「脳みそ?」
「左様。この動物の頭蓋を切り取り、脳みそをすすることによって、不思議な力を得ることができるのです」
「脳みそをすする? 生のままでか?」
「焼いても構いませぬが、効能が落ちますぞ」
そんな薬なんぞ聞いたことがない。
馬謖が答えを返しかねていると、店の表のほうで、激しく扉を叩いている者がいる。
おやおや、今日は千客万来だ、待っていてくださいまし、と言いながら、小男は店の表に行ってしまう。

異臭のする部屋にひとり残された馬謖は、モーの入っている籠を、こわごわと覗いて見た。
モーは、成長すると熊のように大きくなる。籠に入っているモーは、犬くらいしかないから、まだ子供なのだろう。
馬謖が覗いているのに気づいたか、籠の中のモーは、がさごそと動き回り、そして、ぴょこりと顔を出した。
その瞬間、馬謖の胸の中で、なにかときめきにも似た明るい感情がはじけた。
モーの子は、無邪気な黒い瞳を馬謖に向け、たしかに、にっこりと笑ったのである。
無垢な赤ん坊のような愛らしさでもって。
すべてが丸で構成されているような、身体の愛らしさもそうであったし、モーからは、異臭がしなかった。
むしろ敷き詰められた笹の臭いが身体に移っており、青臭い。
目はあくまでつぶらで、怯えも怒りもなく、これから待ち受ける運命の暗さを、まるで恐れていない。
子犬でさえ、ときには主人に吠え掛かる。
だが、このモーは、初対面からして、笑みを浮かべて、馬謖を歓迎していた。
こんな生き物の脳みそをすすれというのか?
ふと、表のほうを見れば、どこぞの男が、強壮剤がまるで駄目で、妓女に笑いものにされたと、小男と揉めている。
小男のほうは、いろいろ言葉を尽くして抗弁しているが、短気な客は、やがて埒が明かないと見るや、小男をぽかりと殴りつけ、そのまま床に伸ばしてしまった。
そうして、客はぶつくさ言いながら、立ち去っていく。

静かになった店のなかで、馬謖はモーを振り返った。
モーは、籠の端に己の両腕を引っ掛けて、じっと馬謖を見つめている。
馬謖も、困惑してモーを見つめていると、その丸い顔が、首をかしげるような仕草をした。
それは、馬謖に、
「これからどうするの?」
と、尋ねているように見えた。
こうなると、馬謖は決断が早い。
モーを籠から取り出すと、見えないように懐に入れて、ただ黙って持ち去るのもあれだから、と払えるだけの金を小男の側に置いて、そのまま夜の街へと飛び出して言った。
懐でもぞもぞと動くモーの毛皮がくすぐったくもあり、また、その温かさがうれしくもあった。


数日後、左将軍府にて、偉度は孔明に呼び止められた。
「偉度よ、このたびはよき働きをしてくれたな」
はて、噂を消しまくったことだろうか。ガミガミ助平(魏延)のやつめが、面白おかしく誇張して騒いでいたのを封じるのは、なかなか大変だったが、それか? と、偉度が首をひねっていると、孔明は、にこにことうれしそうに言う。
「馬謖のことだ。さきほど、季常より謝礼の手紙が来たよ。とてもよき友を紹介してくれた、そなたには感謝しておると」
「はあ…」
だれのことだ? 文偉? 休昭? あれから仲良くなったなんて、聞いていないが。
「馬謖は喜んで任地に帰って行ったそうだよ。手紙を読んでみるかね。
『愚弟が、皆様方に迷惑をかけまくったとのこと、こちらも気を揉んでおりましたが、最後になり、よき友を得ることができたそうで、その友と一緒に、任地に帰って行きました。
ともに行動できるほど、胸襟を開ける友が出来たということは、愚弟が、ようやく世間様と歩調をあわせることをおぼえた証左であり、兄としては、これほどうれしいことはございません』だと」
「軍師、申し上げますが、白まゆげ殿はなにやら勘違いされているのでは。わたくしの紹介したなかに、共に任地へ向かうほど、馬幼常と気の合ったものはおりませぬ」
「ふむ? では、返答はどうすべきかな。幼常は、そなたらに付き合ったお陰で、友を得られたと言っていたそうだが、となれば、この手紙も、的外れではないぞ」
「しかし、こちらに覚えがないのですから、白まゆげ殿に感謝される謂れもない。軍師、ご親戚なのですから、わたくしの代わりに、うまく返答してくださいませぬか」
「かまわぬが…面妖なことだな。となると、幼常の友とは、何者だ?」
「とんと見当がつきませぬ。あとで兄弟たちにも聞いておきましょう」
奇妙だ、奇妙だと首をひねりつつ、立ち去る孔明を見て、偉度は、馬幼常は、最後までよくわからぬ男だったな、とため息をついた。




連敗記録、その後。

「どこか遠くへ行きたい」
人の顔をみるなり、そう宣言した孔明に対し、趙雲は即座に答えた。
「仕事はどうする」
すると、孔明は、渋い顔のまま、肩を落して、言った。
「現実的な返事をありがとう。そうだな、仕事があるから、遠方へ行く余裕もない」
兵の調練を終えて、兵舎にて簡単な決裁を下していた趙雲のもとへ、孔明がいきなりやってきた。
孔明が、屋敷になり、兵舎になりに、いきなりやってくるのは(思いつきで動いているので)そう珍しいことではないが、わがままを口にしたと思ったら、理由も告げず、踵を返して、立ち去ろうとする。
その訳のわからなさに、趙雲は呼び止めた。
「おい、なんだったのだ」
うん? と元気がなさそうに振り返る孔明に、とりあえずそこに座れ、と座を用意して、人払いをさせた。
孔明は、しょんぼりと、力なく言う。
「連敗記録がとうとう30台に突入した」
「おまえ、まだあの用心棒と囲碁勝負をしていたのか」
呆れて言うと、孔明は、肩を落とし、目線も下向きのまま、しおれた葵の花のようになって言う。
「負けたのは別にいいのだ。連敗記録とて、あと30回も打ち続ければ、勝機が見えてこよう」
「あと30も続けるつもりか」
「継続は力なり」
「この場合、当たらぬと思うが」
「子龍、わたしには囲碁の才能がないのだろうか。象棋は無敵なのだが、囲碁ではこの有様だ」
「べつに囲碁の才能がなくても、そう落ち込む必要もなかろう。囲碁の才能があるからといって、世の中が良くなるかといったら、別だからな」
「それはそうだが、やはり、悔しいではないかね。囲碁とは士大夫のたしなみの一つであるし、囲碁が得意というと、ほら、あなたが例えば槍の他にも、馬を繁殖させるのがうまい、というのと同じで、なんというか、付加価値が上がるというか」
「まあ、賢さの目安にはなるか」
「そう、まさにそのとおり。わたしの周りには、わたしと同等の腕をもつ囲碁名人はいないからな、あの用心棒を破ってこそ、堂々と威張って、囲碁が得意と言えると思う」
「で、それがどうして、遠くに行きたいことと繋がる」
「主公が来たのだ」
「主公?」
囲碁と用心棒と付加価値と劉備と、どういう関連があるのかさっぱりわからない趙雲は、ぽんぽんと話の飛ぶ孔明の、つぎの言葉を待った。
「わたしが、市井の用心棒と囲碁勝負をしているというのを、どこからか聞きつけて、様子を見に、お忍びで、左将軍府に遊びにこられたのだ。
で、わたしが負けたのを見て、面白がってだな、『そんなに強い奴なら、儂も派手に負けてみるか』とかなんとか言って、用心棒と囲碁勝負を始めたのだ」
「ふうん?」
「で、勝った」
「用心棒が?」
「ちがう。用心棒に」
「主公が?」
「そう。そして言うのだよ。『孔明、おまえ最近、おつむの調子が悪くなったのじゃねぇか。儂が勝てて、おまえはなんで勝てないのだ』と。それはもう、誇らしげに」
ははは、と孔明は力なく笑う。
趙雲には、そのときの劉備のはしゃぎっぷりが、目に浮かぶようであった。
「出来ることならば、隠棲して、おつむの調子を上向かせてから、また戻って来たいところだ」
「囲碁のためにか?」
「そうだよ」
趙雲は、いまこそ、心の底から言った。
「おまえは莫迦だ」
「莫迦だよ」
「……肯定するな。おまえ、すこし疲れているのではないか。なんだって囲碁にこうも振り回されて、隠居まで考える必要がある。囲碁と志に、どう関係が?」
「あるような、ないような」
「ないだろう」
「主公が勝てる相手に勝てない軍師など、存在価値があるのだろうか?」
「すくなくとも、おまえでなければ動かせない仕事が残っているうちは、存在価値があるのだ」
「呆れるほどに現実的だな。しかしだな、すこしはわたしの気持ちもわからないか?」
「わかるとも。わかるからこそ、止めているのだ。もしおまえが隠居なんぞしたら、法揚武将軍がここぞとばかりにしゃしゃり出て、人事が引っくり返るだろうな。俺なんぞは、おまえに近すぎるから、閑職に追いやられるのは目に見えておる。
そうなると、俺もおもしろくない。一緒に隠居するとして、ちょっと離れたところに家を構えてだ、暇になったら会いにいって、こういう実のない会話を毎日しながら、気が付けば白髪頭になり、そのうちお迎えが来てぽっくりと逝く。そんな人生で楽しいか」
「結構楽しそうだぞ。ちょっと離れたところというと、どれくらいの距離だ? 経験から行って、屋根が見える程度の距離に家があるというのが、冬の間に困らなくてよいのだが」
「そうだろうな。馬も最低限に抑えて、あとは鶏や家鴨を食料用に飼って、番犬も飼って、あとは農耕用の牛がいればよいか」
「土地のめぼしはつけてある。近くに綺麗な沢のある、住みやすい場所で…」
「待て。そちらを具体的にするな。いまのは無し。いや、たとえ隠居を始めたとしても、おまえは飽きる。一ヶ月もしないうちに飽きる。そうして後悔するに決まっている。俺はそのとき、愚痴は聞かぬぞ」
「冷たいな」
「仮の話だ。囲碁ごときに、いままでの苦労を捨ててどこへ行く? だいたい、おまえ一人ならばよしとして、偉度やほかの者たちはどうするのだ。約束をすっかり忘れて、ほっぽり出すのか?」
「……そうか」
「そうだ。わかったなら、隠居なんぞ考えるな。主公が勝ったのは、たまたまだ。あの人は、異常な瞬発力があるからな。たまたま打ったら、たまたま勝った。次に勝負したら、きっと負けるさ。うちの馬を全部賭けてもいいぞ」
「それ、主公に言ってはならぬぞ。あんなに喜んでおられるのに」
孔明の言葉に、趙雲は笑った。
「ということは、おまえにもちゃんとわかっていて、なんとなくだが愚痴を言いたくなって、俺のところに来たというのが真情だな。図星か」
とたん、孔明は、顔を柿のように赤くして、言った。
「べつに甘えにきたわけじゃないぞ。子供じゃあるまいし。なにをそんなに笑っている。なにが可笑しい。わたしは、ちっとも可笑しくない! もう帰る。見送りは不要!」
そういって、孔明は、来たときと同じように、唐突に去って行った。
その早足に遠ざかる背中を見て、趙雲は、なんだか可笑しくなり、また笑った。


その後、孔明の連敗記録は、50を超えるあたりでようやく止まった。
それが果たして孔明の実力であったのか、それとも用心棒が、孔明のしつこさにウンザリしてわざと負けたのか、そのあたりは、いまもって不明である。
ちなみに、用心棒が孔明から巻き上げた(?)贈り物の数々は、効果をあげることはできず、用心棒は、泣く泣くその女をあきらめ、ほかの女と所帯を持ち、幸せに暮らしたそうである。

おしまい

※おまけにあるまじき長さとなりました。「趙雲が全然慌てなかった理由」+「馬謖救済小話」+「いつものダラダラな世間話」という3エピソード構成でお送りいたしました。これで本当に完結となります。リクエスト下さいましたMjさま、ありがとうございました&ご読了ありがとうございました(^o^)丿

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(C)Hasamino Nakama 2005 08