説教将軍シリーズ(?)
樊籠宿の悲劇

※このお話は、『説教将軍シリーズ(?)樊籠宿の悲劇2』のつづきとなります。ホラー風味のお話の三部作の後編となります。蛇のニガテな方、今回にょろにょろと大量発生予定です。ご注意くださいませ…
死者の魂は千里を駆けることができる、などいう俗信を聞いたことがあるが、珪麗は生きているのだ。
張卓が、あさましい幽鬼の身に成り果ててもなお、珪麗を巻き込もうとしているように思われて、休昭は腹が立った。
溺れ行く者が、沈むまいと必死に、だれかの手にすがろうとしているようなものなのかもしれない。しかし、村人から聞いた、張卓という男の行状、この土地に辿りつくまでに知った張卓の軌跡、どれを並べても、やはり休昭は張卓を好きになることは出来ないのであった。
考えれば考えるほど、恐怖よりも怒りが先に立つ。
成都でのんびりと過ごしていた頃の休昭であったなら、とっくの昔に気絶していそうなものを、いまの休昭は、張卓への対抗意識もあるであろうが、目をぱっちりと開いて、両の足でしっかりと立っていることができた。

そうして、宿の主の部屋を出て、隣の部屋に移動するのであるが、扉に手を掛ける途中で、蒋琬が言った。
「だれかに背中からのしかかられているような、嫌な感じだ。休昭、わたしの背中にだれも張り付いていないだろうか」
すさまじい質問に、全身に粟肌をたてつつ、休昭が否定すると、蒋琬は、ならばよい、と言って、扉を開けた。
あまり霊感のはたらかない休昭も、宿の主たちの部屋にやってきてからは、たしかに肺をぐっと押さえつけられているような、息苦しさをおぼえていた。
扉を開けば、そこはきれいに片づけられた、女の部屋であった。
灯りに浮かび上がる華やかな女物の小物を見ると、不気味ななかでも、すこしほっとする。窓の雨戸はぴったりと閉め切られ、この部屋がいちばん闇に深く沈んでいるのだ。
おそらく、張卓を引き止めたという噂の、女の部屋にちがいない。
狭いながらも、きれいに整頓されていて、見たことのない女の、しっかりした内面をうかがうことが出来た。
全身を悩ませる、じめじめとした見えない蛇に巻きつかれているような感触は、いまだにつづいていたけれど、休昭は足を励まして、女の部屋を探った。
やはりここも、部屋の主が荷物をまとめて逃げた形跡などなく、宝飾品なども、そのまま残されている。
部屋の壁には、例によって、読み方のわからぬ札が貼ってあった。
灯りを移動させ、小箪笥の引き出しを見た瞬間、休昭と蒋琬は、そろってうめいた。
引き出しを開いた途端に、変色した紙片があらわれた。そこにはたった二文字。
「珪麗」
と、あった。
ほかにはなにもない。呪いの類いでもなさそうな紙片なのであるが、それを見た途端、二人とも、それまでにないほど、いたたまれない気持ちになった。
空間全体から与えられる息苦しさもつづいているが、まるで、見知らぬ人の秘密を、暴き立ててしまったような居心地の悪さが、いっそう彼らを苦しめたのだ。
「なぜ引き出しに、珪麗どのの名をつづった紙片があるのでしょうか」
「わからぬ」
短く言うと、蒋琬はさらに引き出しから、土で出来た稚拙な造形の人形を取り出した。
「あったぞ、対になる女禍の人形だ」
さきほど拾った伏儀の人形と同様、半身が蛇の女のそれは、ちょうど蛇の部分が螺旋を描くようになっているのだが、隙間をあわせるようにして伏儀とかさねると、ぴったりとひとつの像となった。
「こうして重ねると、男女の交合像となる。つまりは、豊穣への祈願を祈るためのものだ」
「これが鍵になるのでしょうか」
が、それ以上でもそれ以下でもない。

風が、みしみしと宿を揺らして、どこからか入り込んだ枯葉を転がす。
その音が、まるで生き物が動き回る音にも聞こえて不気味だ。
次に移ろうかと腰を浮かしかけた二人であるが、ふと、食堂の部分が、やけに明るいことに気が付いた。
真っ暗で、互いに手を取り合わなければ、どこにいるのかさえも判らぬ濃い闇のなか、二階の酒家としてつかわれていた部分と、住居を繋ぐ扉が半開きになっており、そこから明かりが漏れているようなのである。
その夜は新月だから、月光と言うことはあり得ない。
だれかが入り込んできたにしては、静か過ぎた。
休昭と蒋琬は、自然と、手にした灯りを中心に、顔を見合わせる。
「どう思う? まだ奥に部屋は残っているが、戻ったほうがよいだろうか、それとも、無視して、やはり奥へ進むか?」
「何事かが起こっているのは間違いありませぬ。軍師ならば、どうなさるでしょう」
「怪異の原因はつかめておらぬが」
蒋琬は、眉根をしかめて、青白い光の漏れている扉の向こうをにらみつける。
「張卓は、酒家に珪麗がいる、と言ったのだ。闇雲にわからぬまま動いても、これ以上はなにもわからぬかもしれぬ。ここは一旦、様子を見て、それからまた対策を考えるべきだろう」
「この宿で、何が起こっているのでしょうか?」
怯えを懸命にかみ殺しつつ、休昭が尋ねると、蒋琬は、励ますように笑った。
「何が起こっているのか判らぬゆえ、怪異は怪異なのだ。さあ、行こう。いつでも剣を抜けるようにしておけ」

かくて、二人はそろそろと扉を開いて酒家の様子を見るのであるが、とたん、目の前に開けたのは、窓からさんさんとこぼれる明るい陽光と、さまざまな人々が、めいめいの卓に座って、にぎやかに飲み食いをしている、どこの宿屋でもよく見られる、当たり前の光景であった。
思わず、二人して目をこすり、そして、いつの間にか昼になっていたのか、あるいは長く陰湿な白昼夢を見ていたのかと疑った。
しかし、目の前にて繰り広げられる光景こそが、幻だと気づくのに、そう時間はかからなかった。窓の外からは太陽の光がさんさんとこぼれているように見えるが、窓の外には太陽が見えない。
いや、見えないどころではない。
まるで牛の乳に世界が覆われてしまったように、窓の外は真っ白なのである。
休昭と蒋琬は、慎重にその中を進んだ。
休昭が、状況を確認しようと蒋琬の袖に手をかけて、声を発そうとすると、蒋琬は、すぐさま振り向き、声を出すな、というふうに唇に指を当てた。
そのきびしい顔に。休昭がうなずくと、蒋琬もまたうなずき返して、階下の、開かずの扉へと向かっていく。

あれほどひっきりなしにしていた風の音は耐え、闇は払拭され、ごくごく平凡な、地方の宿屋のにぎやかな光景がひろがっている。
そこに不吉さを臭わせるものはなにもない。
なにもないがゆえに、休昭はかえって目を凝らして風景を見回すのであるが、やはり、それといって、死や恐怖を暗示させるものは見つからないのであった。

一歩、一歩、踏みしめるようにして階段を降りていくと、村人たちがどうしても開けられなかったという扉が、まるで誘うように、すこしだけ開いた状態になっていた。
すこし先を歩く蒋琬が、扉の取っ手に、そっと手をかけ、周囲を見回す。
蛇は落ちてこなかった。
さすがにしばしためらったあと、意を決して扉を一気に開いた。
そこでも、平凡な光景があった。
もしやと予想していた血なまぐさい光景ではなく、卓と、客と、そして、窓辺に佇むひとりの娘。
呆然としていると、ちょうど休昭と蒋琬が立っている位置の奥から、足音も荒く、ひとりの娘が駆けこんできた。
娘の姿を見るなり、卓についている男のひとりが、注文をしてくるが、娘は気が強いところをみせて、
「あとにして! こっちも忙しいのだから!」
と言い捨てて、窓辺の、物憂げな様子で外ばかりを気にして立っている娘のところへ向かう。
「ちょっと、ねぇ! いま忙しい時間だって、わかっているの? あんたが働かないから、あたしばっかり駒鳥みたいに動き回ってさ、不公平じゃないのよ!」
と、奥からやってきた娘は、窓辺の娘の腕を掴んで、口を尖らせた。
窓辺の娘は、休昭たちには横顔しか見せていないのであるが、奥からやってきた娘と、顔立ちがよく似ていた。姉妹であろう。
「聞いているの? ほら、客だって、注文を待っているのよ! あんたが働かなくっちゃ、客が暴動起こすわよ?」
娘の尖った声を聞いて、卓についていた旅人たちは、声をたてて笑った。
「違いねぇ、腹が空きすぎて暴動だ。姉さんもそう言っていることだし、あんたもあきらめたほうがいいぜ」
まったくだ、と笑いあう男たちに、ますます姉娘は声を尖らせた。
「うるさいわね、あんたたちは黙っていてよ! ほらぁ、父さんだって、いい加減にしろって、カンカンだったわよ? あんたのことは、旅の人にだって知られているくらいなのに、恥ずかしいと思わないの? どうやったって、お嬢様には敵わないのよ。それともなあに? あんたは、あんな男のお妾にでもなろうって考えているの?」
姉娘のあけすけな言葉に、はじめて妹娘が口を開いた。
「でも、お嬢様もひどい。あたしが最初に、あのひとと、結婚の約束をしたのに!」
「それは、あんたとあの男のあいだだけで、勝手に決めたことでしょう? あたしも父さんも知らなかったんだから、あんたがあとからなんて言おうと、結局は捨てられた女の負け惜しみよ」
「まだ負けてないわ。それより、変なものが見えるの。村の人たちみんなでやって来て、この宿を焼き払っている光景よ。なんだって、そんな物が見えるのかしら」
姉娘は、妹娘がふたたび窓の外に顔を向けたのを、苛立ちを籠めて、足を踏み鳴らした。
「もう! わけのわからないことを言って! あきらめなさいってば! あんた、あいつに騙されているだけなのよ。どうしてわからないの? ちょっと都会の人間だからって、あの男、こちらを田舎娘だと思って、莫迦にしているのよ! いい、聞きなさい? お嬢様のおなかには、あの男の子がいるのよ」
「うそ!」
妹娘は、はげしく反駁するが、姉娘は、いささか得意そうに、わずかに笑みを見せて言った。
「知らないのは、あんただけよ。なあに、もしかして、あの男とお嬢様の結婚は、型式だけのことだなんて、本気で思っていた? あんたは騙されたの! さ、あの男のことなんて忘れてしまって、店を手伝いなさい!」
姉娘の容赦のない言葉に、妹娘はすっかり混乱しているようである。
「うそ、うそよ! お嬢様は、あのひとを手放したくないから、うそをついているの、きっとそう! 姉さんが意地悪いうのは、お嬢様の幼なじみだからだわ! お嬢様に恩を売っておいたほうが、あとあと、いい目が見られるものね! 姉さんは自分が出戻りだから、幸せになりそうなあたしに、意地悪をしたいだけなのでしょう? 姉さんなんかに、あたしのことなんか、わかりやしないのよ!」

姉妹のやり取りを呆然と見ている休昭と蒋琬であるが、戸口にそのまま立ち尽くしていると、不意に、ちょうど彼らの立っていた扉の奥から、小奇麗な白い衣に身を包んだ、年齢の掴みづらい女が前に進み出た。
その質感のなさに、休昭は、またぞっとする。
女は、妹娘に寄っていくと、姉娘から引き離すようにして肩を抱く。
そうして、怒りと悲しみゆえか、体を小刻みに震える娘に言った。
「かわいそうに、こんなに怯えてしまって。この宿はあなたによくない。こちらへ来て、すこしおやすみなさい」
「待ちなさい、その子には家の手伝いがあるの! 金払いがいい客だと思って黙っていたけれど、これ以上の口出しは、もう許さないわ!」
女の肩を姉娘が乱暴に掴むが、しかし女はそれを堂々と払いのけると、きつくまっすぐと、姉娘を見据えた。
「な、なによ。睨んだってダメよ。あんたたちが妹をたぶらかして、宿に辛気臭いお札を貼りまくっているのは知っているんですからね。しかもご利益のないお札でさ! これは詐欺じゃないのよ。
いったい、うちの父さんや妹からどれだけふんだくったかしらないけれど、もうお役人にだって訴えてきたんだから。いい加減に目を覚ましなさいな、お嬢様のおなかにお子がいらっしゃる以上、御札の効果なんてなかったのよ」
姉娘の言葉にも、妹娘は答えず、女に抱えられたまま、ちょうど休昭や蒋琬たちが立っている場所にやってくる。
間近で見るその顔は、打ちひしがれて、朝露に濡れた白い葵の花のようだった。

「珪麗」
休昭は、その名に、はっとして顔を上げた。
部屋の外より、男の呼ばわる声がする。
宋珪麗は、ここにはいない。
「珪麗」
ふたたび男の声がすると、妹娘が、身を翻して、声のしたほうを向いた。
「あのひとだわ!」
ガタごとと足音がして、酒家に、ひとりの若い男があらわれた。
それは、さきほど宿の主人の部屋にあらわれた、あのうつろな顔をした男であった。張卓である。
妹娘は、女の腕すらふりほどいて、張卓のところへと駆け寄った。
それを面白くなさそうに姉娘は見て、鼻を鳴らす。
「なにさ、ウチの妹は珪麗なんて名前じゃないわよ。小洒落た名前を勝手につけちゃって、それにほだされる子も、どうかしているけれどね」
ぶつぶつ言う姉娘の声も耳に入らず、妹娘は張卓に駆け寄ると、その手を取った。
「待っていたのよ、どうしたの、ひどい顔色だわ。それに、ねぇ、荷物はどうしたの? 下に置いてあるの? それとも外に馬でも待たせてあるの?」
「珪麗、それなのだが」
と、張卓は、妹娘をちらちらと気にしつつ、そわそわと落ち着かない素振りである。
「姉さんに聞いてやしないだろうか。わたしはおまえたちと一緒に行けそうにないのだよ」
妹娘の顔が、とたんに強ばって、顔色の冴えない張卓を覗き込むようにする。
問わねばならないことはたくさんあるのだが、どれを口にして良いのかわからない、といったふうだ。
傍から見ているだけの休昭でも、娘が激しい動揺のなかにいることは判った。
張卓は、握られた手をほどこうとするのであるが、妹娘は、それを逃がすまいと、手を蜘蛛のように絡めて、がんばっている。
「ねえ、なぜ? なぜそんなことを言うの? どうしてそんなことが言えるの?」
張卓は、妹娘の問いに答えないで、目を逸らしてばかりいる。さすがに休昭も苛立ち、幻の中にいることも忘れ、あいだに立とうとすらしたが、蒋琬に肩を掴まれて留まった。
「あなたは、そんなことは言えないはずじゃないの! あんなに、ここから出たいって、そう言っていたのに!」

娘の必死の訴えをあわれに聞きながらも、休昭は、それまで聞こえなかった、奇妙な音がずいぶん耳のそばで聞こえているのに気づいた。
なにかの無数の息遣いだ。
あわてて周囲を探るが、白昼夢のようにどこか存在感の薄いかれらのほかには、部屋にはだれもいない。

「あなたは、そんなことは言えないわ。このあたしに言えないはずよ!」

しゅうしゅと、濃密な気配と同時に、生臭いにおいすら漂ってきた。
料理の匂いではないのだ。
この幻には、匂いがないのである。
現に、卓の上にならべられた酒などの匂いを、休昭は感じることができない。
ぞくりと、悪寒が背中を貫いた。
目。たくさんの目が、自分を、見ている……いや、見下ろしている。
まるでなにかに引っ張られたかのように首を天井に向け、休昭は激しく後悔した。
天井に、無数の蛇が、しゅうしゅうと舌を出し入れしながら、蠢いていたのである。

悲鳴をあげるのも忘れ、ふと見れば、それまで、眼中にすら入っていなかった様子であったさきほどの妹娘が、休昭と蒋琬の二人を激しく睨みつけていた。
娘が手を掴んでいた男の姿は、宿屋の主人の前で見た、白く頼りのないうつろなものに転じており、姉娘や宿の客たちの姿は消えていた。
闇は再び舞い戻り、風の音と、無数の蛇のたてるしゅうしゅうという息遣いが混ざり合っている。
蠢く蛇たちの動きが、休昭たちに逃げ場がないことを教えていた。
妹娘は、休昭たちを睨みつけながら、怨念のこもった声で低くつぶやいた。
「おまえたちも、あたしから取り上げようというのだろう」
「ちがう、取り上げるなどと、わたしは」
「莫迦! 声をたてるな!」
休昭が口を開いたのを、蒋琬はあわてて後ろから塞ごうとする。
しかし、時すでに遅し。
休昭が声をたてたのと同時に、天井に這い回っていた蛇たちは、つぎつぎと雨のように降ってきた。
ぼとり、どたんと鈍い音をたて、床に落ち、すぐさま鎌首をあげて、休昭たちをじわじわと追いつめていく。
咄嗟に休昭は抜刀したのであるが、しかし、相手は蛇。数も半端ではない。
闇に浮かぶちいさないくつもの目に睨まれながら、蛇に睨まれたら、目を離してはいけないのか、それとも目を合わせることがそもそもいけないのか、どちらであっただろうかと休昭は必死に考えた。

そうして、妹娘のほうを見れば、おどろいたことに、その腹に剣が突き刺さり、大きな切り傷をつくって、黒い血が衣にこびりついている。
血は絶えず流れており、その作り出す筋が、床を這って、やがて蛇に姿を変えた。
妹娘に手を掴まれた張卓の方を見れば、この期に及んでも、まだなにかを決めかねているのか、やるせなさそうに首を振っているばかりである。
「おまえは、子を宿していたのだな」
声を先に発したのは蒋琬のほうであった。
いちばん大きく太い蛇を真正面に見据え、抜き放った剣を、ぴたりと娘のほうに向けている。
「張卓に、この村を出て、一緒になろうとでも言われていたのだろう」
妹娘は答えない。
蛇の数は、一匹、また一匹と数を増やし、じわじわと休昭や蒋琬の周囲を囲みはじめていた。
「その腹は、だれにされたのだ? 子を宿していることを知った張卓にされたのか?」
蒋琬が娘に向けた問いに、休昭は、ちがう、と答えていた。
張卓は、口ばかりの男だ。
いくら娘が邪魔になったといっても、残酷な行為に手を染める度胸はない。

張卓は、宿の娘に、かつての幼なじみの名を与えた。
珪麗と呼ばれたその娘は、張卓の子を宿し、ともに村を出ることを約束する。
裏切られたので、悲憤し、自分で腹を割いたのか? 
いいや、たとえ狂ったとしても、女というものは、腹の子の命になにより敏感になるものだ。
それに、『取り上げるのだろう』と問うたということは、前提として『取り上げられた』ことがある、ということだ。
この宿で、なにがあったのか? 
張卓は、『珪麗が、死んでいる』と言いたかったのか?
自害か、それとも誰かに殺められたのか? 

しゅうしゅうと不気味につづく蛇の息遣いを気にしつつ、休昭は、必死に考えた。
軍師ならば、いや、父上ならばどうなさるであろう。
父上は、こういった事件をいくつも手がけておられた。
そういえば、不義の子を宿した女を、一族の恥だからといって殺してしまったという、悲惨な事件があった。
しかし、この宿屋の人間は、地元の名家というわけでもなし、さきほどの姉娘の様子も、憎憎しげとはいえ、その憎しみは、妹への愛情から出ているものだ。
それは、ここにはいない、姉妹の父親としても同じであろう。
と、すれば、何者だ? 人が死ぬと、得をする者。張卓、張卓の妻。
いいや、張卓の妻は、宿屋の娘もまた命を宿していたことを知らないのだ。
そうなれば、残るのは?

蛇。蛇のような文字。蛇を祀る人々。蛇の札。

蛇たちが、いっせいに鎌首をあげて攻撃の態勢に入る。そのどれに毒があるかは判らないが、毒がないにしても、これだけの数に襲われたなら、悲惨な死はまちがいないところである。
落ち着け。どうして、この部屋ばかりが開くことがなかったのか。

休昭は、闇のなか、首をめぐらし、自分たちが入ってきた扉の、ちょうど部屋に向かう側面を見た。
扉には、宿のあちこちに貼られていた御札のなかでも、ひときわ大きなものが貼られていた。
蛇が迫ってくる。
迷っている間はなかった。
「公琰どの、扉のお札に斬り付けてください!」
休昭の声に弾かれるようにして、蒋琬が扉の札を斜めに斬りつけると、とたん、扉の側面から、あざやかな血潮が吹きこぼれ、耳をつんざくような女の悲鳴が轟いた。
「御札…ではない! 女だ!」
扉には、さきほどの幻であらわれた、白装束の女が、貼り付けられるようにして立っていた。
女が倒れるのと同時に、それまで整然と蒋琬や休昭を狙っていた蛇たちが、いっせいに落ち着き無く動き回った。
どこからか、きな臭いかおりが漂ってくる。
闇の隙間より、赤いものがちらちらと動いているのが見えた。
「くそっ、村人どもめ、我らまで焙り殺すつもりか! 休昭、外へ出るぞ!」
蒋琬は、休昭の手を強引にとると、女の死体を踏み越えて、釘で打ちつけられていた扉を剣で叩き割り、外に飛び出した。

すでに外は朝焼けを迎える頃合になっていた。
薄紫色の空の下、村人たちは手に火を片手に、つぎからつぎへと宿へ火を放っている。
宿を振り返った休昭が見たものは、燃え盛る宿のなかで、窓辺に立って、どこか怯えた顔をして外をながめる、妹娘の姿であった。
いかなる怪異か知らないが、もしかしたらあの娘は、今夜の光景を、幻として、すでに見ていいたのかもしれないと、休昭は思った。



蒋琬は、ここにきてようやく軍師将軍諸葛孔明と、中郎将である董幼宰の名(ほかにも利用できそうな名前はすべて)を持ち出して、自分たちが、村人たちによって秘密裏に消されてしまうことがないように動いた。
宿からは、当時の宿泊客たちの骨は見つかることはなく、ただ、開かずの間の付近に、真新しい女の骨だけが見つかった。
役人が来て言うことには、このあたりには、以前より蛇を崇める宗教の信者が多かったという。
しかし、そのなかの一派が、神聖な札だとうそぶいて、あやしげな札や薬を高値で売りさばき、あちこちで揉め事を起こしていた。
詐欺師というよりは、たちの悪い強盗のような連中で、金を取るためならば、どんな悪事にも平気で手を染めていたという。
この宿屋は、この近在でも儲かっていたために、詐欺師たちに目をつけられてしまったのだろう。

張卓との不倫に悩む娘は、詐欺とも知らずに父親と共に金を払いつづけていたのであるが、張卓の本妻に子が出来たことや、姉娘が出戻ってきたことで、すっかり追いつめられてしまった。
そのうえ、張卓は駆け落ちを一度は承諾しておきながら、結局のところ、娘を捨てることにしたのである。
札の効果がないことに腹を立てたのか、それとも、村にいられなくなったことを悟り、一人で出て行くことにしたのか、娘は詐欺師への金の支払いを止めるのであるが、これが原因で、娘は気の毒に、殺されてしまったのである。


「金が原因…そうであろうか」
と、役人たちが去って行ったあと、蒋琬は首をひねった。
例の怪異のあと、体力をつかったと言って、蒋琬は、世話になっている家で、ごろごろと寝てばかりいる。
孔明が持つような羽扇をどこからか貰ってきて、優雅にぱたぱたと風を仰いでいるのだが、それがいかにも暇そうなので、あまりさまにはならなかった。
「金が原因でないというのならば、なにが原因だというのです」
休昭が尋ねると、蒋琬は、しばし躊躇うような素振りをしたあと、周囲に気を配って、それから低い声で言った。
「おまえ、嬰児を食べると万物の病に利く、という話を聞いたことはないか。もちろん、俗信なのであるが、地方によっては、これは真剣に信じられていることなのだ。いくら裕福とはいえ、たかが宿屋だ。
実は、もう金は巻き上げられるだけ、巻き上げられてしまっていたのではないか。金を取れないのであれば、あとは品物…恐ろしいことに、詐欺師の、あの女はそう考えたのかもしれぬ」
扉の女の断末魔を想像し、休昭はぞっと身を震わせた。
「なんという恐ろしい。しかし、ならば、あの札のことはなんと説明されますか?」
「これも憶測であるが、札は、ある程度の呪詛は籠めてあるものの、詐欺師が作ったものだから、最初はそう効き目はなかった。しかし、人外魔境とわれらの世界を繋ぐ架け橋にはなったのだ。
通常であれば、ただの札。しかし、子を宿したのに捨てられた女の恨み、理不尽な理由により殺害された女の恨み、この二つが強烈に作用して、札を本物にしてしまったのだ。
焼け跡からは、宿泊客のだれひとりとして見つからなかったのは、彼らがすでに、現世から、ちがう世界に旅立って行ってしまったからだ。
なのに、あの白装束の女だけが、怪異の源たる女とともに、あの場に繋ぎとめられていたのは、強烈な恨みを、ほかならぬあの女が受けていたからだ。
恨みの念は、引き裂かれた腹を通して、蛇となって、娘の胎内から絶えず生み出されていたのだ。同じ理由で、張卓も娘に捕らわれて、魂は宿を出ることが叶わなかった」
「張卓、張卓ですか」

その名を口にするだけで、休昭は、腸が煮えくり返りそうな怒りと、蛇の群に対するよりも、なおつよい嫌悪感を覚えずにはいられない。
なにせ、張卓は生きていたのであるから。

「たしかに、誰一人として『張卓は死んだ』とは言っていませんでしたけれどね、まさか、ずっと昏睡状態にあるだけだったなんて、これこそ詐欺です」
そして、村長は娘婿の帰還を喜び、帰還のきっかけを作った休昭たちを歓待しているのである。
最初はぜひに屋敷へと招かれたのであるが、縄さえかけられそうになって宿屋に連れて行かれたことを、二人とも忘れていなかったので、最初に宿を貸してくれた、親切な農夫の家から、二人は動くことはなかった。
親切な農夫は、二人の体験した怪異をおもしろがって、飽きもせずに、いろいろ聞きたがり、また、自分もあちこちから話を集めてきた。
そうして、休昭は、張卓が妻子とともに、穏やかな生活を取り戻したときいて、なんとも理不尽な思いにとらわれているのである。

ふてる休昭に、蒋琬は肩をすくめて見せた。
「広い心を持て。お陰で、我らは村人から感謝され、贅沢三昧をゆるされておるのだから」
「そりゃあね、村の人の態度がコロリと変わって、毎日のようにご馳走を運んでくれるのは、悪い気はしませんがね、肝心の張卓本人が、一度も我らに挨拶にやってこないのは解せませぬ」
「男の面子があるのだろうさ。村では、どこから聞きつけたのやら、おまえが宋珪麗の使者というだけではなく、未来の夫候補であるという話も流れているそうだからな。
かつての妻の新しい夫になるかもしれぬ年下の青年に、頭を下げるのが出来る男であったら、おそらく人生ちがったものになっていただろう」
「筋が通りません」
「そう言うな」
蒋琬は、言いながら、ふと、声を落として言った。
「哀れではないか、休昭。いまは幸福そうに見えるかもしれないが、張卓は、この先もこの村で幸せに暮らせると思うか?」
「どういう意味でございましょう。村長の婿に納まったのです。未来は磐石でしょうよ」
「そうかな。わたしはそうは思わない。あの男は、いつも常に『自分の居場所はここではないどこかだ』と信じている男だ。それが妻子に囲まれた平和な村のなかであろうと、幽鬼に捕らわれた世界であろうと同じこと。
あの男は、ありもしない本当の居場所を探すために、また村を出ようとするだろうな。そのあと、どんな人生を辿るかどうかは、もう我らは知らぬ」
「そういうモノでしょうか」
「そうさ。わたしにも、似た傾向があるから、よくわかる。本当の居場所がもしあるとしたら、それはヤツが最初に手放したものだっただろうに、それが判るのは死に際か、あるいはやつにとって、永遠の謎になるだろうさ」
「はあ…そういえば、心残りなのですが、あの娘に、『珪麗』という名は、張卓の最初の妻の名だということを教えてやれませんでした」
「教えていたら、おまえは生きてはおるまいよ。哀れも哀れ、さまよえる魂は、帰りたかろうに、帰ることもできず。望郷の言葉をこぼす代わりに、懐かしき佳人の名をつぶやくばかり。
だが、我らは堂々と大手を振って帰ることができるぞ。休昭、おまえはいまから、珪麗どのに、ことの顛末をどう説明するか、頭の中をまとめておけ」
「はあ、それです。困ったなあ」
「うまく行くといいな。ああ、わたしは早いところ、女房の顔が見たい」

のどかな山村の、おだやかな田園にはそぐわぬ怪異譚は、これにておしまい。
村にはかつて宿があり、ある事件があって燃えてしまったのであるが、そこにはいまも、怯えた顔をしてたたずむ娘の姿が、たまに見えるそうである。


※あとがき※
蒋琬の推理はあくまで推理でして、別な解釈も成り立つようになっています。
宿屋の娘はもともと、なんらかの力を持つ能力者であったのだが、妊娠したことでその力が向上、加えて御札が娘の力を増幅させた。張卓を繋ぎとめるために、娘は宿の時空を狂わせて、永遠に時を止めていた…あるいは、御札を売っていた宗教者たちは、詐欺師ではなく本物だった。娘の胎内を通して、生まれ出ようとしていたのは、彼らの信仰していた蛇である。無数の蛇は、彼らの信仰心の象徴であり、空の腹から、娘の怨念と結びついて、外界に飛び出していた。信者の女だけが最後に登場するのは、女だけがあの宿の中で、巫女として死んだ娘の怨念と、外界と異空をつなぐ象徴であった宿を結びつける物であったから…などなど。
正解はありません。いろいろ解釈していただけたらと思います(^^ゞ
窓から怯えた顔をして外を眺めている幽霊の話は、ヨーロッパの怪談から取りました。残念ながら詳しい話は忘れてしまったのですが、とある暴動で命を落とした貴族の幽霊が、いまも彼にだけ見える外にいる暴徒に怯えて外を眺めている、という話であったと思います。その幽霊は、幽霊なのか、それとも、あまりに強い恐怖の念をその場に残したまま死んだ貴族の残像なのかと考えたのが、お話のきっかけでした。また、廃墟をあつかったHPから、今回は多大な影響を受けました。途中までは、写真にしたがって、実在する廃墟を二人に冒険させています。

お話はふたたび成都に戻ってきます。さてはて、休昭はどうなるのでありましょうか?
そしてうつせみ以降の、すこしぎこちない例の二人も再登場予定です。さて…

つづく
更新履歴へ戻る
MAPへ戻る