説教将軍シリーズ(?)
樊籠宿の悲劇

※このお話は、『説教将軍シリーズ(?)樊籠宿の悲劇1』のつづきとなります。ホラー風味のお話の三部作の中篇となります。部屋を暗くしてお読みください…(※ウソウソ。目が悪くなります。快適な環境でごゆっくりドーゾ)
二階の外付けの戸口は難なく開き、長剣を操るのに得意な蒋琬が、先導となって、暗い宿の中に足を踏み入れて行った。しかし、松明では火事の危険があるため、村人から渡された蝋燭に火を移しかえる。
その作業を手伝いながら、休昭は、
「こんなに暗い中で宿の探検なんかする意味があるのでしょうか。昼間だったら、すこしは怯えずにすむのに」
と嘆いた。
蒋琬は、灯火の向こうで、すこし驚いたような顔を向ける。
「なるほど、おまえ、頭がいいな。いまさらであるが、連中に、そういえば良かったのか」
「うわあ、ほんとうにいまさらだ。いまから言いましょう」
「しかしもう足を踏み入れてしまったのだし、いまさら連中にそういったところで、逃げ口上だとしか思われまい。もうすこし早く知恵を働かせてくれればよかったのだがな」
「わたしの所為ですか」
「いじけるな、責めてはいない。さあ、ここで嘆いていてもはじまらぬ。二階は泊り客のための部屋か。ひとつひとつ見て行くぞ」

蒋琬は、おっかなびっくりと足を進める休昭を背に、蝋燭を片手に、まるでふつうの民家に足を踏み入れたような平然とした足取りで、部屋を見て行った。
狭いながらも、部屋はなかなか綺麗に片づけられているのだが、異様だと思わせるのは、あきらかに泊り客のものが、ついさっきまで本人がそこにいたかのような状態で、そっくりそのまま残されていることである。
盗賊の仕業ではないのだな、とつぶやく蒋琬の衣を、しっかりと手綱を握るようにしてつかむ休昭は、闇に目を凝らし、きょろきょろと周囲をうかがった。
あまり見ようと気を張れば、かえって見なくていいものまで見えてしまい、余計に恐怖が煽られるのであるが、それでも休昭は確かめずにはいられない。
元来、怖がりであったし、盗賊の巣に潜入するというのならば、怖いにはちがいないけれど、敵の正体が知れているわけだから、まだ気の持ちようがあるのだが、相手が姿も知れぬ怪異というのだから、始末に終えない。
蒋琬が言ったとおり、戦い方が判らないのである。
とりあえず、護身用として、父の董和より武器を貰ってはいたものの、この旅のなかで、一度も抜いたことがない。
そもそも、休昭は、武術は、からきしだめなのだ。
恐怖で逃げ出したいところを、必死で我慢しているのは、宋珪麗のことがあるからである。
なぜに、こうも惹かれるのかはわからないが、宋珪麗は、ふしぎと休昭の心につよく響く印象をもつ女人であった。
その夫である張卓が、この世の者ではなくなった宿屋にて、いま自分が死すら予感するほどのつよい恐怖に怯えているのだから、なにやら不思議なものである。

宿屋の二階には、さして見るべきものもない。
蒋琬は、背中を掴まれると歩きにくいと、休昭の手を引いて歩くことになった。
子供のようだと休昭は恥じたが、この闇のなか、人の温かさを感じていなければ、おかしくなってしまう。なにせ、一寸先は闇というほどの暗黒の中なのだ。

慎重に、ぎしぎしと不気味な音を立てる階段を降りていく。
村人たちが宿に押しかけたときの名残であろうか、一階は、家具が打ち倒され、散乱しており、歩を進めるのにも難儀した。
しかし厨房にある皿や料理道具などは、荒らされずに残っており、火を近づければ、その大半が、ひどい埃に覆われていた。
さきほどの、下手に足を踏み入れれば抜けてしまいそうな階段といい、食器に積もる埃といい、とても一年前から打ち捨てられたものとは思えない。もっと昔に閉ざされた家だと説明されたほうが、しっくりきたであろう。
厨房をくまなく光で照らしていた蒋琬が、ふと、手を止めて、その勝手口側の壁を見る。
明かりを壁に寄せれば、そこには、見たこともない奇妙な絵文字を書き記した、一枚の札が書き記してあった。
絵文字は、漢字や納西族などの使用する文字とはまったくちがう、のたうちまわる蛇のような形をしていた。
「蛇、かな」
蒋琬のつぶやきに、休昭は尋ねた。
「読めるのですか」
「いいや、見たものを、思ったまま口にしたまでだ」

言いながら、蒋琬は、灯りをぐるりとめぐらせて、部屋を見て回る。
そうして、ふと、ひとつの扉の前で止まった。
なんの変哲もない、普通の扉である。
どうやら、厨房と、酒家となっていた店舗部分をつなぐ扉であるらしい。あとで増築したものなのか、厨房の奥にさらに階段があり、二階部分も酒家となっている様子だ。
休昭が驚いたことには、蒋琬は、まるでためらいもなく、その扉を開けるべく、手をかけたことである。
蛇が降って来るという話を覚えていた休昭は、おもわず足を引いて、天井を見上げたが、蛇が落ちてくるどころか、埃のひとつも落ちてこなかった。
蒋琬は、平然としたまま、扉を押したり引いたりして、しまいには諦めた。
「駄目だ、開かぬ。おそらくこれが、開かずの扉であろうな」
「でも、蛇は落ちてこない。立て付けが悪いだけかもしれませぬぞ」
「いいや。おそらく、これが件の扉であろうさ。嫌な感じがするからな」
「い、嫌な感じ?」
嫌な感じをおぼえつつも、扉を開けようとした蒋琬の度胸のよさに呆れつつ、休昭は尋ねた。
「公琰殿は、もしや、巫の素質がおありでは」
蒋琬は、肩をすくめるような仕草をして、首を小さく振った。
「すこし勘が働くだけだ。軍師ならば、蛇を祀る者たちと、この怪異のかかわりについて、あるいはなにかご存知かもしれぬが、わたしにはなにも思いつかぬ」
「軍師? なぜに軍師が?」
すると、蒋琬は、いまさらなんだ、というふうに休昭を振り返った。
「あの方のお名前からして一目瞭然であろう。『諸葛』。もともとのご先祖が、葛の茂る土地に住まわれていたことを示す姓であるわけであるが、ただ土地の特長を述べただけの名前ではない。葛を司る家であるから『葛』姓を名乗った。
しかし、時代が下るにつれ、葛姓が増えて、ほかと区分けがつかなくなってきたので、誇りをもって、あえて『諸』の字を苗字に冠し、『諸葛』と名乗るようになった、ということだ。
なにせ、琅邪といえば呉王扶差の都のあった土地。霊山である泰山をも擁する神秘の土地だ。自然と霊感も研ぎ澄まされよう」
「葛を司るといいますと、薬として利用していたということですか」
「そのとおり。医巫同源。巫女であり医者である。あの方自体も、なにやらこの世の者ではないような雰囲気をたたえてらっしゃるが、その祖霊からして、いささか人外の域におられる。
その反動かどうかは知らぬが、軍師ご自身は、あまり迷信を担がれぬが、ここぞというときの勘はすさまじいぞ」
「軍師が、ここにいらしたらよかったのに」
「うむ、まったくだ。しかし、いらっしゃらないものは仕方ない。どうであろう、休昭。我らはいま、宿の半分を見たところであるが、いまのところなにも起こる気配はない。だが、油断はならぬ。まだ半分は残っているのだからな。
ともかく、夜が明けるまで、この宿屋で生き残らねば、村人も納得せぬであろう。ここは、軍師にあやかり、もしも軍師であったなら、どのように動かれるかを想像しながら行こうではないか」
「軍師は突拍子もない方ですが、いざというときには、一番頼りになりますからね。わかりました。公琰どののご提案に乗りましょう」

かくて、休昭と蒋琬は、宿の半分の探検を、孔明がここにいると想定して、動くこととなった。
想像力というものは、なかなか武器になるもので、いかなる危機にあろうと、堂々と構え、そして明解に判断をくだす孔明が、もしも同行してくれていたならと考えるだけで、休昭は、何倍も心強くなった。
それは蒋琬も同じであったらしく、孔明を深く尊敬しているこの青年は、いっそう堂々として、さらに休昭を勇気付けた。
と、同時に、休昭は、自分のためにこのような災厄に巻き込まれてしまったというのに、蒋琬は、一度も恨みがましいことを口にしなかったことに気づき、怯えるばかりであった己を恥じた。
そして、謝罪と礼を述べるのはあとにして、ともかくこれから先は、みっともなく振る舞うことはしないようにしようと、心に決めた。

さて、宿屋は、厨房から酒家につづく扉は閉ざされているが、厨房から、さらに二階の食堂部分にあがる階段は機能しており、ふたりは先に進むため、階段を昇ることにした。
階段を昇りきると、大きな部屋に行き当たり、そこには、使用者の面影をそのまま残すように、卓と椅子が並んでいる。
薄気味わるいことには、椅子が半端に後ろに引かれているのが、まさにだれかが、いまさっき席を立ったばかりのように見えることである。
宿泊客と、宿屋の主人は、いったいどこへ行ってしまったというのだろうか。
蒋琬は、厨房のときと同じく、ぐるりと四方を見回し、やはり同じように、壁に、蛇をあらわす札が貼られているのを見つけた。
「ひと部屋に、一枚ずつ貼ってあるのだろうか。宿の部屋は暗すぎて気づかなかったが、もしかしたら、そこにも一枚ずつ貼ってあったのかもしれぬ」
「宿屋の人間が信仰していた宗教の御札でしょうか。以前に、仙人に師事していたことといい、張卓は、迷信深い男だったのかな。珪麗殿に、もっとお話を伺うのであった」

じつは、成都を発つまえ、休昭は、じかに珪麗と言葉をかわし、張卓という男について、聞いていた。
珪麗が、あまり表情を動かさず、淡々と張卓のことについて、冷静に口にしたことを、休昭はとくに印象強くおぼえていた。

「これほど世が乱れると、救いをもとめて民衆は古い偶像を持ち出し、さまざまな神を祀って縋る。張卓が信仰したのも、もしかしたら、まったく未知の神かもしれぬ」
蒋琬のことばに、休昭は、ふと思いついたことがあった。
「張卓は、仙人に師事をしていたことがあったのですから、もしや、そのときに怪しげな術を身につけたのかもしれませぬ」
「それもあるし、袂を別つたはずの仙人と、じつはひそかに繋がりがつづいており、宿屋に出入りしていたという得体の知れぬ信徒たちは、その仙人の弟子であった可能性もある」
「ああ、なるほど。怪しげな連中が、怪しげな術を使って、この宿屋を無人にしたと」
「怪しい術の存在の有無は置いておくとして、張卓が、この怪異に関わっているのは、間違いあるまい」
となると、と、つぶやきつつ、蒋琬は、ちょうど大部屋の真下に位置する、開かずの部屋を伺うように、床に目を落とした。
「一階の、開かずの部屋が、やはり臭う。村人がこじ開けようとしたら、蛇が降ってきたという話だが、蛇に襲われないように、部屋を開ける方法を探さねばならぬということだ」
「鍵がどこかにある、というのであればよいのですが」

休昭はそこまで言って、ふと、耳をそば立たせた。
蝋燭のともしび以外は、濃い闇に包まれている空間のなかで、隙間から入り込む、ひゅうひゅうという悲しげな風の音とは別に、がたごとと、人が歩きまわっているような物音が聞こえたのである。
恐怖のあまり、心臓をぎゅっと掴まれたような痛みをおぼえ、休昭は、身をすくませた。
蒋琬も同じであったらしく、ふたりは、無言のまま、顔を見合わせた。
たしかに、階下より、がやがやと、人が大勢動き回っている音が聞こえてくる。
村人たちではあるまい。
この異様な闇のなかにあって、ありえない物音である。

それまで平然としていた蒋琬も、さすがに顔色を悪くして、緊張した声で言う。
「怪異がとうとう現われたというところだな。休昭、剣は、つねに抜けるようにしておけ。それと、灯りからは離れぬように」
階下から聞こえてくる物音は、次第にだんだん大きく、明瞭になってきて、足音ばかりではなく、椅子を引く音、話し声らしきものまで耳に届くようになってきた。
しかし、話し声とはいっても、言葉が聞き取れるようなものではなく、非常に早口で、耳障りですらある。
異国の言葉のように聞こえるのだが、ときおり、意味の取れる言葉が受け取れて、そうではないことがわかる。
話し声は、早口でありすぎるあまり、まるで休昭と蒋琬の侵入に、苛立っているように聞こえた。

「この声は、あまり聞くと駄目だな。休昭、あちらにも小部屋がある」
見れば、大きな部屋の横に、茶や酒を入れるためであろうか。
やはり物が雑多に置かれて、そのままになっている小部屋があり、さらにその部屋の奥に、更に深入りを誘う扉があるのを見つけた。
「さて、岐路であるな。いまより、下に戻って怪音をたしかめるか、それとも、さらに先に進むかだ」
「軍師ならばどうされるでしょうか」
蒋琬は、うむ、と考えてから、休昭を振り返った。
「いま戻ったところで、開かずの扉が開く保障はない。先に進み、鍵になるものを見つけるのが良いだろう。あの方は、戦略や理念のない行動を嫌う。おそらくそうするであろう」

それならばと、蒋琬の提案に、休昭はしたがって、二人して先に進むこととなった。
扉の先は、また廊下になっており、部屋がいくつか並んでいるのだが、最初に入り込んだときに覗いてみた部屋とはあきらかにちがい、もっと生活感にあふれていた。
おそらく、宿屋の人間の住居部分なのであろう。
階下の物音が遠くなり、ふたたびしんとした静寂につつまれたわけであるが、だというのに、休昭は先程よりも、ずっと強い恐怖を感じていた。
のしかかるような、ねっとりとまとわりつくような、そう、まるで大きな見えない蛇にゆっくり巻きつかれているような感覚である。
蒋琬もそれは感じているらしく、あえて口には出さなかったが、蝋燭の灯火に浮かぶ顔は、緊張をつよめている。

廊下に入ってすぐの、真正面の部屋を開くと、そこには、壁に男物の衣の干してある、飾り気のない部屋であった。
寝台が隅に寄せてあり、そのうえには、だれかが横たわっているような盛り上がりがある。
おもわず、蒋琬と休昭は顔を見合わせ、ふたりで、そろり、そろりと布団をめくってみるのだが、単に、布団がちょうどいい具合に膨らんで見えるだけであった。
ほっと胸をなで下ろし、軽く咳き込みながら蒋琬が言う。
「ひどい埃だ。いつ家人が帰って来てもおかしくなさそうな様子なのに、埃の積もりようからして、長いあいだ、だれもこの部屋に足を踏み入れていないのがわかる」
「宿の主人の部屋でしょうか」
「おそらくな」
言いながら、蒋琬は、文机があるのを見つけ、その引き出しを開けてみた。
「筆だの竹簡のばらばらになったものだの、針道具だのが雑多に入っているな」
言いながら、蒋琬は、ふと、眉根を寄せて、引き出しに手を入れた。
「どうしたのです」
休昭が声をかけると、蒋琬は、だまって引き出しからなにかを取り出し、蝋燭の明かりに照らし出して見た。
それは、粘土で捏ね上げた、人の顔をもつ蛇の像であった。
蛇、また蛇である。
「そうか」
と、蒋琬は、その粘土像を見て、愁眉を開いた。
「休昭、さきほど、壁に、鎌の穂先だけが掲げてあったのを覚えているか」
この宿屋に入る前に、外付けの階段の途中で見つけた、奇妙な鎌の穂先のことである。休昭が頷くと、蒋琬は言った。
「なんの呪いであろうかと思ったが、あれも蛇だ。この文字を読むことはできぬが、おそらく同じく蛇を表わしているものだと思う。」
「なぜわかるのです」
「あの鎌は、蛇を表わしているのだ。蛇が頭をもたげた様子を、鎌首を上げる、と言うだろう。鎌はとかく、蛇の象徴としてあつかわれる道具なのだよ。あれはおそらく、家内安全を祈願した呪いにちがいない。
この宿屋に出入りしていた、新興宗教の信徒の神が、おそらく蛇なのだ。だから、宿に、蛇の力を借りた呪いがこめられているのだ。
おまえも、先祖が巴郡の出自であれば知っているだろうが、秦が漢族を大量移民させるまえに、このあたりには、蛇を信奉する一族と、白虎を信奉する一族が、互いに覇を競い合っていた。
この一族は、同じ民族であったから、争いをおさめるために、互いの代表の王に、洞穴に剣を投げ、剣が地面に立った方が、すべての王になると約束した。
剣が地面に立つ、つまりは、大地に、その投げた剣が受理された、母なる神に王権を担うことを認められたということだ。
この勝負に勝ったのは白虎の一族で、蛇の一族は、次第に白虎の一族に吸収されていった。しかし、信仰が消えたわけではない。われら漢族の伝説にも残る、三皇五帝にも数えられている、絡み合う雌雄の蛇の姿をした半人半蛇の伏犠と女禍は、彼らの信仰の名残なのだ」
「なるほど、この宿屋に出入りしていたという宗教の信者は、古い宗教を守る信徒であったということですか」
宿屋の宗教の謂れがわかったところで、怪異が判明するわけではないが、何も知らないよりはマシなわけで、休昭は、すこしだけ安心した。
「だから、開かずの扉を開こうとしたときに、邪魔をするために蛇が現われるのだろう」
「では、その像が、鍵になるのでは?」
休昭としては、粘土像のなかに、開かずの扉の鍵が隠されていることを期待したのであるが、蒋琬はちがうらしく、じっと考え込んでいる。

その様子を見守っている休昭であるが、ふと、全身の毛穴がいっせいに開くような、はげしい悪寒にとらわれ、身を震わせた。
しかし、心地の悪いことに、悪寒をすることも、ままならないような、発作のような身の強ばりに襲われる。
ひどい耳鳴りのために、頭が混乱する。
自然と、吸い寄せられるように首が振り向いてしまう。

視界のなかに、部屋の戸口に立つ、白い影が浮かび上がった。
いや、白くぼやけた姿をした、男が立っていた。
月光が入り込んでいるわけではない。今宵は新月である。
休昭は声を失い、蒋琬もまた、息を呑んだ。
とはいえ、やはり年上で、あちこちを放浪し、さまざまな経験をしている蒋琬のほうが立ち直りは早く、呼吸することすら忘れて、身を強ばらせている休昭を後ろに庇い、長剣をすらりと抜き放つと、白い影につきつけた。

白い影には、ぼんやりと輪郭がある。
なにをしようとするわけでもなく、手をだらりと下げて、うつろな、対になっている穴のような黒い瞳で、蒋琬と休昭を見ている。
見ている、と表現はしたものの、実際に目に入っているかどうかは怪しい。
長剣のするどい切っ先をつきつけられながら、平然としている様は、不気味ですらある。
男の唇が動いた。
その動きも、死に行く鳥の、最後の羽ばたきのように力がない。
「おまえは何者だ? なにが言いたい?」
蒋琬の誰何に耳を貸さず、男は、ぼんやりした表情のまま、ふたたび唇を動かした。
「珪」
「なに?」
「珪麗が」
休昭は、ほとんど直感に拠って、いま目の前にいる白い影、おそらく幽鬼となったこの男が、張卓であろうと判断した。
珪麗と聞いては、黙っておられない。
己をかばう蒋琬の前に進み、意気込んで尋ねた。
「おまえは、張卓だな? 珪麗どのがどうしたのだ。あの方は、成都で息災に過ごしてらっしゃるぞ!」
成都、と聞いて、白い影の表情に、すこしだけ変化があらわれた。
望郷の念であろうか。
思い出に耽るような、悲しさと喜びが入り混じった、不思議な微笑を口に浮かべたのである。
幽鬼が笑ったことにたじろいだ休昭であるが、ここで引き下がることはできない。
懸命に足と口を励ましながら、さらに促した。
「重ねて問おう、珪麗どのがどうしたというのだ?」
「珪麗が……いる」
「どこに?」
「酒家で、珪麗が……いる」
か細い声に苛立ち、さらに休昭が尋ねようとするのを、傍らにいた蒋琬が止めた。
「落ち着け。語らせるのだ。珪麗どのが成都で無事なのは、我らは知っている」
しかし、と反駁しようとしたとき、白い影の男は蒋琬の手にしていた蛇の像に目を落とした。
そして、深い悔恨を浮かべて、残念そうに言うのだった。
「失敗した」
「なにがだ?」
その問いには、もう影は答えなかった。
最後に、失敗した、と、ため息のように、かすかな声を残して、姿を消した。
それまで、わずかにしか聞こえていなかった風の音が、いっそう強く休昭の耳に届いてきた。
「どういうことでしょう。あの幽鬼は、なにを我らに伝えようとしたのでしょうか」
蒋琬は、男が気にした半人半蛇の像に目を落とした。
「これが伏犠の像だとすると、どこかに女禍の像があるはずだ。これは推測に過ぎぬが、二つ揃えば、この宿で起こった怪異の原因がわかると思う」
「あの男は張卓にまちがいございませぬ。珪麗どのが酒家にいると口にしましたが、どういう意味なのでしょうか」
「さあて、なにかの暗号か、それとも事実を述べたことなのか。ともかく、まだ部屋は残っている。そちらも見てみようではないか」

張卓が事実を述べたとするならば、一年前、珪麗が、この宿に現われたということではないのか。
だが、それが原因で怪異が起こったなどと、想像できない。
第一、成都からこの土地は離れすぎているわけであるし、長期にわたる女の旅が、人の耳目を誘わないはずがないのである。
珪麗の父も、珪麗のことを調べておしえてくれた近所の婆さんも、珪麗が長旅をしたことがあるなどと、口にしていない。
では、なぜ張卓は珪麗の名を口にしたのであろうか。

つづ
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