説教将軍シリーズ(?)
樊籠宿の悲劇

※このお話は、『説教将軍シリーズ(?)うつせみ』のつづきとなります。おばか企画ではなく、ホラー風味のお話の三部作となります。
「難儀をしておりましたところ、お助けいただきまして、ありがとうございました。見てのとおり、我らは旅慣れぬ若輩者でして、見知らぬ土地で、さて、東へ行こうか、西へ行こうかと迷っておりました次第。貴方様が通り掛かってくださらなかったら、いまごろますます迷っておりましたでしょう」
「このあたりは、表街道から外れた道で、あまり旅人は来なさらない。あんたたち、運が良かったよ」
と、休昭と蒋琬を、水牛に引かせた荷車にのせた農夫は言った。
薄く霧のたなびく、うつくしい山水の街であった。
山深い道を歩いていたら、ぱっと視界がひらけて、集落があったのである。


さて、事情を整理しよう。
董休昭は、孔明の見合い相手である成都の旧家の行かず後家、宋珪麗という、齢24になる娘にひとめ惚れ。
見合いの席に乗り込むが、そこで、珪麗は、じつは親にも内緒で、16の歳に、おさななじみの男と夫婦の契りを交わしていたことを打ち明ける。
この夫は、成都を出て、中原で一旗あげるのだといって、珪麗を置いて、出て行ってしまったのであるが、その後、音信不通で、なんら便りがない。
生死不明の夫を待つ珪麗を見て、珪麗の夫の安否さえわかれば、おのれの気持ちを打ち明けてよいものか否か、わかるであろうと思い、休昭は、みずから、夫探しに名乗り出た。
ふだんはおとなしい休昭の、思いもかけないやる気を見て、孔明は、危険な旅路に、旅慣れている蒋琬を道案内につけてやった。

さてはて、寡黙な蒋琬と、引っ込み思案な董休昭の旅は、双方、あまり自己主張をせず、そのうえ、人の話をよく聞く性格だというので、途中、高山病にかかったり、道に迷ったりはしたけれど、おおむね、なんとも長閑につづいていたのであるが、肝心の珪麗の夫の足跡はまるで掴めず、二人は帰るに帰れないで、困り果てていた。
思いつくまま道を歩いていたところ、ちょうどこの集落に出た。
そこで、蒋琬が、休昭に提案した。
さてはて、まったく頼りのないまま、東西奔走していたら、ともに白髪になるまで成都に帰れまい。
諦めるか、それともまだまだ希望を捨てないでいるか、ここを岐路にしようではないか、と。

決断を委ねられた休昭が、手ぶらであいすみませんでしたと成都に帰るか、それとも、もうすこし粘って先へ進むか、どちらにしようかと迷っていたところへ、ちょうど農夫が通り掛かった。
そろそろ日も暮れるなか、宿の心配もあったので、とりあえず、農夫に、集落に案内してもらおう、ということになったのだ。



「のどかなところですね。お伺いしたいのですが、こちらに宿屋はございますか」
「宿屋?」
山羊のように長い髯をもつ農夫は、いかにも誠実そうな顔をした蒋琬をちらりと見上げ、それから、口ごもって、なにやら地面に向かって、ぶつぶつ言っている。
己の影に相談しているかのようだ。
「ないのでしょうか?」
蒋琬が尋ねると、農夫は、困ったな、というふうに息をつくと、笠の下の皺だらけの顔を向けて、答えた。
「あるにはある。というよりは、あったのだがね。あんたたち、あそこには泊まれないよ。なんだい、今日は、ここに泊まろうとしているのかい」
「はい、もうじき日も暮れますし。ちかくにもっと大きな集落があるというのであれば、いまから急いでそちらへ向かいますが」
「いやいや、隣村なんざ、歩きじゃ、たどり着くころには夜更けになっちまうよ。そうかい、泊まるつもりかい。それじゃ、ちと知恵を絞らねば。ときに、あんたたち、見たところ、商人ではないね」
休昭が事情を説明しようとするのを、蒋琬は、やんわりと手で制し、答えた。
「わたくしたちは成都で学問を修めている身なのですが、お師匠さまより、親戚の行方不明になっている男を探してほしいと頼まれまして、こうして旅をしている次第なのでございます。
もしや、ご存知ではないでしょうか、張卓という男なのでございますが」
すらすらと、虫も殺さぬ顔をして、嘘八百を並べ立てる蒋琬に、休昭は、農夫に聞こえないよう、小声で横から抗議を入れた。
「公琰どの、なぜ、本当のことを教えないのですか? わたしたちは、別に隠密をしているというわけでもないのに」
休昭が言うと、蒋琬は、すこし眉を開き、答えた。
「休昭、わたしは、宋珪麗どのの夫は、死んでいるのでなければ、どこぞの地で、すでに所帯をもって落ち着いているのではないかと睨んでいる。おまえも、ひそかにそう思っておらぬか」
「う。まあ、そうであったらいいなという、願望も含まれておりますが」
それを聞いて、この、ほとんど喜怒哀楽を表にあらわさない、頼りになる男は、めずらしく、愉快そうに声をたてて笑った。
「おまえは実に正直でよろしい。己の暗い部分を恥じ、抱え込むばかりではないところが、おまえのよいところだ。
さて、張卓であるが、もし妻帯しているとしたら、おそらくは地元のと者であろう。成都で妻が待っていると教えたら、どうなると思う。
わたしが、もし自分の姉妹の夫の、昔の妻の使者がふらりと現われたなら、いまの生活を守るために、そんな男は知らぬと言うだろう」
「なるほど。正直に名乗り出る可能性のほうが低い、と」
「張卓というのは、あまり人に威張れた経歴の持ち主ではないからな。成都には、帰りたくても帰れない、という心情があったのかもしれぬ」

張卓とは、ほかならぬ、宋珪麗のひみつの夫である。
この男は、十七の年に、ひとつ年下の幼妻を残し、一旗あげるべく成都を出たのであるが、それから一切の行方はわかっていない。
夢を追い求める蝶のように、ふわふわした男であったらしく、義勇軍に参加したとおもえば、山賊になり、その後、仙人(正体は、山の行者であった)に弟子入りしたものの、長続きせず、山を下りたらしいのであるが、さて、それからの行方がわからない。
山間のどこかの集落に、その足跡が残っているだろうと、足のマメをいくつも潰して、休昭と蒋琬は歩きまわったのであるが、張卓という男の行方は知れなかった。
どこぞで落ち着いているのでなければ、もしや、行き倒れになり、見知らぬ土地の小さな辻に埋められてしまったのではなかろうか…

ふと、農夫が、水牛を引きながら、振り返る。
「張卓というのは、あんたたちと同じくらいの年の男だろうか」
「いいえ、わたしたちよりも、いくらか年嵩な男でございます」
「そのひとは、成都の生まれじゃないかい」
蒋琬と休昭は、思わず顔を見合わせた。
「もしや、ご存知なのでございますか?」
農夫は、綿帽子のように膨らんでいる顎鬚をしごきながら、困ったように、言葉を濁した。
「さあて、困ったな。わしは、あんたたちをよく知らないが、見たところ、悪い人たちじゃなさそうだ。とはいえ、このあたりの山道は複雑なので、不案内なあんたたちを、夜道に放り出すような真似もしたくない。
泊まりたいというのなら、うちの納屋を貸してやってもいいが、その代わり、わしの家についたら、外に出てはならないよ。
それと、明日は、朝陽が昇る前に、この集落を出て行くと約束してくれないか。もちろん、そのあいだ、誰にも姿を見られてはならない」
「宿を貸してくださるというのであれば、条件を呑みましょう。しかし、なぜです。このあたりでは、よそ者を泊めてはならぬという、決まりごとでもあるのですか?」
蒋琬が尋ねると、農夫は、ちがう、ちがう、と、大きく手を振った。
「うちだって、そう裕福じゃないが、旅の人をもてなすくらいのことはできる。このあたりの家は、みんなそうだよ。ここは、水が良くてね、よい米が取れるのが自慢なのだ。あんたたちを邪険にしたくて、邪険にするのではない。原因は、ほら、見えた、あれだよ」
と、農夫は、木立のあいだに見える、集落からすこし離れてある、二階建ての建物を指差した。
このあたりでは珍しい、木造りの、立派な四角い建物である。
しかし、窓という窓は、雨戸に閉ざされており、黒木の壁には、蔦がいくつも絡まっている。見るからに廃屋である。
「あの家がどうしたのです」
「あそこは、このあたりじゃ唯一の宿屋でね、昔は結構、流行っていたものさ」
「見たところ、廃屋となっているようですが、なにかあったのですか」
「なにかあったのだろうが、わからないのさ」
と、農夫が言ったところへ、それまで、大人しく車を引いていた水牛が、ぶおーと、野太い大きな声を立てて鳴いた。
農夫は、その鼻面を、なだめるようにぺしぺしと軽く叩く。
「こいつも、あの側を通ると、必ずこうして声をあげる。よほど嫌なのだろうさ。あそこには、鬼が住み着いているのだ。それも、人を食っちまう。あんたたちが探している、張卓という人は、あの宿屋に泊まって、食べられちまった一人さ」
「なんですって?」
まったく唐突に、宋珪麗の夫・張卓の行方が知れた。



農夫の家は、農夫の母と、妻と、子供三人に加えて、犬を二匹という、なかなか賑やかなところであった。
そう裕福ではないと言った農夫の言葉は、いささか謙虚であったらしく、家の構えはなかなか立派で、二人は、納屋だとはいうが、それなりに、居心地のいい場所に宿を用意してもらった。

さて、その晩、農夫から聞かされた話は、こうである。
張卓という男は、ある日、ふらりと宿屋にやってきた男であった。
よほどひもじかったのだろう。
長いあいだ、山で暮らしていたそうで、宿屋で飯をたらふく食べたあと、すまぬ、実は俺は路銀がないのだ、と、宿の主に頭を下げた。
そう、あの宿屋は、もう何十年と閉まっているように見えるが、じつはほんの一年前までふつうに営業していたのだ。
宿の主人は、ふざけたヤツだと怒ったのだが、とはいえ、殴ったところで金が出てくるわけじゃなし、ちょうど忙しい時期であったから、こいつをタダ働きの下男として使ってやろうとおもいついた。
張卓も、それでよいと承知し、下男として宿屋に寝泊りすることとなった。
張卓は、なかなかよく働いた。
それに、あちこち放浪していたというだけあって、さまざまな部族の言葉や習俗を知っていたので、宿屋で働くには、ぴったりの男であった。
宿の主人は悪い男ではなかったから、張卓が、自分の食べた分をきっちり働いてくれたあと、いささかケチではあったが、ちゃんと賃金を払うようになった。
そうして、張卓は、この集落に長く留まることになったのである。

さて、張卓というのは、もともとれっきとした家の息子であった。学もあるし、武術の腕だってなかなかたいしたものであったから、集落の娘たちの注目をあつめるようになった。
なかでも熱心であったのは、村長の娘で、父親に頼んで、父親が宿の主人に頼み、やがてとうとう張卓を夫として迎えることになった。
張卓は、すでに集落に溶け込んでいたから、みなに祝福されて村長の婿として迎えられた。

だが、ここからがよくない。
宿の主人には、年頃の娘がおり、この娘も、じつは張卓に思いを寄せていた。
宿の娘は大人しいので、なにも言わなかったけれど、集落の者も、最初は、この娘と張卓が一緒になるのではないかと、予想していたくらいなのだ。
張卓は、頼まれるようにして、村長の婿におさまったのであるが、呆れたことに、すぐに村長の娘に飽きてしまい、もともとの勤め先である、宿屋にいりびたるようになった。
集落の者たちは、これはきっと、宿の娘と、よい仲になっているからだろうと噂した。
噂を裏付けるように、宿に、これまで宿泊しているのとは、あきらかに毛色のちがう、怪しげな連中が泊まるようになっていた。
どうやら、漢中で流行している宗教の亜流らしく、くわしくはよくわからないのであるが、宿屋の一家は、知らない間に、その信徒になっていたらしい。
宿の娘が張卓をたぶらかせたのも、あやしい宗教の力のせいだと、みなは噂した。

さて、おさまらないのは村長と、村長の娘である。放蕩する夫を取り戻すべく、村長の娘は、必死になって懇願した。
じつは、村長の娘は、もう腹に、張卓の子を宿していたのである。
張卓は、それを聞いて、改心し、かならず家に戻ると言った。
しかし、宿の娘と、ある約束をしているので、これをもう守れなくなったと伝えにいかねばならないと言って、ふたたび宿屋に戻ったのだ。
しかし、張卓は、いつまでたっても戻らなかった。
もしや、宿の娘と逃げてしまったのではと、村長の娘は色めきたって、朝を待って、家人郎党ひきつれて、宿に押しかけてみたのだが、宿には、張卓がひとり、食堂の床のうえで、倒れているだけであった。
しかし、張卓のほかは、娘も、宿の主人も、泊り客さえいなくなっていた。
ありえないことに、だれひとりとして、いなくなっていたのである。
なのに、荷物だけはそのままなのだ。
賊が入ったにしては荒らされていないし、何事かあって、みなで宿を後にしたとしても、金目のものが残っているのが奇妙であった。
宿をくまなく探そうとした村長たちであるが、なぜか、一階の奥の部屋だけは、家具が邪魔をして開かない。
向こう側になにかあるのだろうと、外に回るのだが、雨戸がぴたりと閉じてあって、中をうかがうことができない。
斧で扉を壊そうとしたときである。
天井より、突如として蛇が降ってきて、斧を打ち下ろそうとした者の首に巻きついた。蛇は、すさまじい勢いで、ぐいぐいとその者の首を締め付けたが、斧を手放すと、すぐに力をゆるめて、逃げていった。
ほかの者が試しても、不思議と、また同じことが起こった。
これは、なにか魔術の仕業にちがいないと、みな恐れて宿から逃げた。

そこで話し合い、近隣でも有名な巫女を呼んで、魔術を破ってもらおうと思ったのだが、巫女は、宿を見るなり、ここには近づいてはならぬ、いますぐ燃やしてしまうがいい、と言って、逃げるように去って行った。
張卓はといえば、これは鬼に魂を食われてしまったらしく、以来、二度と目を覚ますことはなかった。



「なんなのだ、この張卓と言う男。女人を不幸にするために生を受けたとしか思えぬ。嫌な男だ」
八年の歳月を、ずっとひとり、ひみつを胸にかかえて耐えていた宋珪麗のことを思い、休昭は、我がことのように腹を立てた。
考えれば考えるほど、珪麗が不憫でならない。
張卓めと対峙できないのが残念であるとさえ、休昭は思った。
そんな年下の道連れを見て、蒋琬は、諭すように言う。
「そういきり立つな。とりあえず、答えを得ることはできたのだ。張卓は、己が身の不始末にて、怪異に巻き込まれ、もはやこの世のひとではない。宋珪麗どのも、これで納得してくださるのではないか。
明朝、すぐにでも成都を目指そう。陽の明けないうちに出て行かねばならぬのだから、もう休んだほうがいい」
「集落の者は、よほど宿屋の怪異を恐れているのですね。しかし、われらは、宿屋の一家の信奉していた宗教の信者ではないのに、どうしてこそこそ隠れていなければならないのでしょう」
「休昭、怪異を祓ったことはあるか?」
唐突な問いに、休昭はおどろいて首を振った。
「とんでもない。祓う方法もしりませぬ」
「わたしも知らぬ。つまり、巻き込まれたら防ぐことも戦うこともできない、手出しのできぬ問題だということだ。怪異とは、奇妙にひとを惹きつけて、闇に取り込もうとする恐ろしい性質を持っておる。
我らでどうすることも出来ぬ以上、関心は持つな。我らは、ただここで知った事実のみを成都に持ち帰る。よいな?」
きっぱりと念を押されて、休昭も、素直に頷くしかなかった。


そうして二人は早々に寝入ったのであるが、夜もしんしんと更けた頃、納屋の戸を、どんどんと、乱暴に叩く者がある。
何事であろうかと戸を開けてみれば、そこにはずらりと松明を片手に立つ男たちの姿があった。
その数、二人や三人ではない。
霞たなびく光景のなかに見えた人家の男たちが、こぞって集ってきたような数である。
男たちの中央には、ひときわ立派な風貌をした男と、決まり悪そうにしている農夫の姿があった。
さては、噂に聞く、盗賊の村に迷い込んでしまったのではと、休昭は怯えた。

盗賊の村とは、旅人のあいだで流行る怪談で、旅人が、とある村に迷い込み、一夜の宿を頼んだが、夜更けに、ひそひそと話し声がするので目を覚ます。
耳をそばだたせてみれば、どうやら、自分の処遇をどうするかをみなで話し合っているらしい。
村人たちは、旅人を襲って金品を稼ぐことを生業にしていたのだ。
旅人は、あわてて村から逃げ出した、という話である。

咄嗟に身をすくませる休昭であるが、傍らの蒋琬は、愛用している長剣を片手に立ち上がると、表情をわずかに険しくしただけで、恐慌に陥ることもなく、休昭をうしろに庇うようにして、男たちの前に、堂々と進み出た。
「斯様な夜更けに何事であろうか」
蒋琬の、あまりに落ち着いた素振りに、村の男たちのほうが、かえって恐縮したのか、彼らはこぞって一歩後退し、進み出た蒋琬を遠巻きにする。
「張卓を探しにまいられた、成都からの客人とは、貴殿らのことか」
と、淀みない漢語をあやつって、村長らしい、立派な風貌の男が言った。
蒋琬も、それに応じ、過度にことばを荒げることなく、頷いて言う。
「いかにも。我が名は蒋公琰、この者は、董休昭。ともに、成都でおなじ師につかえる学徒である」
男たちが、ざわざわと囁きあう。
そこに殺気はないものの、張りつめた、嫌な空気が漂っていた。
すくなくとも、歓迎してくれているわけではないことは、休昭にはよくわかった。
「貴殿らは、おそらく宿の怪異を、この男より耳にしたことと思う。張卓は、恐ろしい魔術の虜によって、二度と目覚めぬ身となってしまった。
原因は宿にあるとはいえ、そもそものはじまりは、張卓なる男が、この集落に迷い込んできたがゆえのこと。
我らは怪異を祓おうと何度も試みたのだが、そのたびに、怪異が邪魔をして果たせなかった。いまのところ、宿以外では、怪異は起こっておらぬが、我らはみな怯えている。
張卓を取り戻しにきたというのであれば、あの宿の怪異を祓い、張卓を救うのが筋だと思うが、如何か」
「つまり、張卓の知り合いならば、責任をとって、怪異を祓え、我らに巫と同じことをせよと言うのか。
くりかえすが、われらは凡庸な学徒にすぎぬ。仙術も巫術も得意とするところではない。聞けば、力ある巫女が、宿を焼き払ってしまえと言い残したそうだが、なぜにそうせぬのだ」
「そうしようと、何度も試みた。しかし、そうするたびに、どこぞより蛇が沸いて出て、我らを宿から遠ざけようとしてしまうのだ」
「蛇とな。宿の中には、開かずの場があり、そこへ至る扉を開こうとすると、蛇がふってくるという話を聞いたが、同じものか」
「おそらく」
話の早い、聡い旅人に、村長は、すこしおどろいたような顔をして、うなずいた。

蒋琬は、しばし考えたあと、尋ねた。
「われらがそれを断ったなら、どうなるのであろう」
「残念であるが、貴殿らは、成都に帰ることは叶わぬぞ」
休昭は、子どもが父親にするように、背中にかくれて、蒋琬の服の袖をぎゅっと握っていたが、蒋琬は、すばやく背後の休昭に言った。
「下手に逃げようとしてはならぬ。この家の主が、見つからぬようにせよと忠告してくれたのは、このためであったのだ」
「怪異を祓う役を負わされるから?」
「いいや、彼らとて、われらが怪異を祓うことができるなどとは、期待しておるまい。我らは、生贄に選ばれてしまったようだ」
「イケニエ!」
声を引っくり返らせる休昭であるが、闇の中で目を凝らしてみれば、なるほど、彼らの手には、いざというときに備えてであろうか、縄まで用意されているではないか。
蒋琬や休昭たちが暴れたときに、それを使うつもりであるらしい。
「に、逃げましょう!」
休昭の言葉に、危機には慣れているのか、蒋琬は、寝崩れた前髪をかき上げながら、ため息をついた。
「人の話を聞け。村人は、怪異のために気が立っておる。ここで我らが逃げたなら、憂さ晴らしのように追いかけてきて、きっとわれらを打ち殺してしまうであろう。
我らは道を知らぬが、彼らは道を知り尽くしておる。しかも今宵は月がない。ここは、従うしかあるまい」
「かといって生贄はないでしょう! 怪異には、関わってはならぬとおっしゃったのは、公琰殿ではありませぬか」
「こうなっては仕方あるまい。やるだけのことはやろう。なあ、休昭、逃げて打ち殺されるのと、宿屋の怪異と戦って死ぬのと、どっちがいい」
「なんですか、この究極の選択。第三の選択肢は?」
「ない。では、わたしが決めるぞ。ともかく、宿屋に行ってみよう。村人には怪異に見えることでも、よそ者たる我らが見たなら、そんなことか、という話かもしれぬ」



そうして、蒋琬と休昭は、村長の理不尽な申し出を受け、新月の夜道を、男たちに囲まれるようにして、宿屋に向かった。
二人を納屋に泊めていた農夫は、しきりに、申し訳ないと、くりかえしていた。
休昭は、こんなことならば、どちらへ向かうか迷っているときに、農夫が声をかけてくれなければよかったのに、と恨みに思ったが、そんな様子を見て取ってか、蒋琬は、親切が、空回りしてしまっただけなのであるから、許してやれ、と諭した。

さて、身近で見る宿屋というのは、松明の篝火に浮かんで、ひどく不気味に見えた。
里山の斜面を背後にして立っており、入り口は、すべて外側から釘が打ちつけてある。中に潜むという怪異を、表に出さぬためであろう。
地上から、直接、二階の裏口に至る階段があり、中へ潜入することが可能だという。
男たちは、宿に着くなり、一定距離から、先に進もうとしなくなった。
ちらりと、休昭は逃げられるのではと期待して、となりにいる蒋琬を見たのであるが、蒋琬は、その視線に気づき、だめだ、というふうに、首を振った。
蒋琬は、度胸が良すぎるといおうか、恐怖心が欠落しているのではないか、というほどに冷静であった。
休昭は、一歩進むごとに、まるで炮烙の刑を受けているような気がしていたのであるが、蒋琬の足取りは、震えることもなく、どころか、遅れがちな休昭を、うながすようなことまでしてみせる。
軍師がつけてくれた道先案内人であるが、冥府の案内までしてくれるのじゃないかしらん、と休昭は怯えたが、月明かりのない夜に、ひとりで見知らぬ土地を逃げる度胸があるはずもなく、半泣きになりながら、宿の階段を昇っていった。


宿の怪異がはじまってから、一年と経っていないというのに、階段を始めとする、建物の傷みぶりはひどかった。
木壁に伝う苔の厚さにおどろいたし、建物を構成する、木自体の脆さにも、気味悪く思うところであった。
階段は、そのまま建物の裏側にある、二階の扉につづいている。
階段の踊り場に、里山の斜面から枯葉が雪崩のように大量に落ちてきていた。
足を踏み入れると、それこそ雪の中に足を突っ込んだように、先に進むのが難しかった。
蒋琬は、村長から渡された松明をかかげて、休昭の行く手を照らしてくれた。
宿になにか危害をくわえようとするたびに、蛇があらわれたという話を思い出し、休昭は神経をとぎすまさせて、蛇の、しゅうしゅうという、独特の這う音が聞こえないかしらと集中したが、風が枯葉の山を、からからと揺らす音以外は、なにも聞こえない。
「休昭、壁に手をつくな。あぶない」
見れば、壁と柱のあいだに、錆び付いた鎌が差し入れられている。取っ手はなくなっており、鎌の穂先だけなのであった。
「危ないな、だれがこんなところに」
「ずいぶ錆びているが、宿が怪異に襲われる前に、だれかがここに置いたのか、それとも、なにかのまじないか。わけがわからぬが、すでに退路はない。さあ、先に進もうとしよう」

つづ
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