うつせみ
終章

※このお話は、『説教将軍シリーズ(?)うつせみ4』のエピローグであります。
ひどく美しく、浅ましい夢を見た。

鼻腔を通り抜けて、脳髄を浄化してくれるような、心地よい香りが間近でする。
孔明の鬢の油である。
自分の上下する胸の動きをおさえるように注意しながら、趙雲は、おのれの胸に顔をあずける、孔明の顔を見つめた。

夢を見た。
なつかしい、白い桃の花の咲きほこる、薫風の季節の夢である。
新野で、はじめて差し向かいになった時に、瞬間的に嫌悪と恐怖をおぼえた。
もし、劉備がその場にいなければ、趙雲は、これを敵として、斬り捨てていただろう。
思うに、あれほど恐れたのは、諸葛孔明という名を持つ者が、やがて己のすべてを、根こそぎくつがえしてしまう、変化をもたらす者であろうと予感していたからかもしれない。
変化にたいするおののきが、嫌悪と恐怖として、あらわれたのだ。

紙燭は、いつの間にか消えており、自分たち以外のほかのだれかが部屋に入ってきた気配はない。
窓から入り込む月光が、胸にもたれて、安らかに眠る顔を浮かびあがらせた。
これは、夢のつづきだろうか。
しばし、そんな甘い空想にかられたが、手を伸ばしたとたんに、ずるりと胸からずれる髪の感触で、夢ではないということが知れた。
酒の臭いがまだ残っている。
長い夢だったように思ったが、さほど時間は経っていないようであった。
上背のわりには細い肩に手を伸ばすと、体が冷えてきているのがわかった。風邪を引いてしまう。
触れると、驚くほどなめらかな肌に、指の裏側で触れつつ、ちいさく、名前を呼んで見た。
それで目が醒めないとわかっている。
本人にも、そんなふうに呼んだことはないし、人前で呼んだら、それこそ聞きとがめられて、義兄弟でもないくせにと、妙な噂が立つにちがいない。
いつであったか、そう呼んでもいいと言われたことがあったが、断っていた。
おそらく、だれもいないところではよい、という意味であっただろうが、もし、それを自分に許してしまったなら、ずるずると、気持ちに歯止めが利かなくなりそうで、恐ろしかったのだ。
そのくせ、こっそりと、こうして呟いているのだから、我ながら、始末に終えない。
月光を音にしたような、美しい響きをもつ名だと思う。
この名のもつ、本人をよくあらわした、美しい響きが好きだった。

もう一度、名前を呼んでみて、深く寝入っている目の、ながく繊細な睫毛に触れてみた。そして、鼻の線をなぞり、やわらかな唇に指をおろしていく。
ときどき、自分が、いまだに放浪のさなかにあって、出来すぎた夢を見ているのではないかという空想に捕らわれることがある。
胡蝶の夢の喩えではないが、ほんの一瞬のあいだに、春の嵐のようにあざやかな夢を見ているのかもしれない。
もし、これが夢であったとして、目が醒めたとき、安堵するであろうか、それとも残念に思うであろうか。

趙雲は、起こさぬように、壊れ物をあつかうように、慎重に身体をずらさせ、ちょうど真横から、おのれにかぶさるようにして眠っていた孔明を、いったん寝台の上に横たえると、いちど、起き上がって、寝台から出た。
それから、沓をぬがせて、寝台からはみ出していた部分を中に入れてやる。
布団をかけると、すこしだけ、身じろぎをしたが、心地よいのか、ため息のような長い息を吐いて、ふたたび深い眠りにもどっていった。

うすい壁のどこからか、ほかの泊り客の鼾が聞こえてくる。
人の気配をそこかしこにおぼえつつ、それでも、この闇のなかにひとり、目を覚ましているのは己だけなのだと思うと、不思議な気がした。
これが最後だと思いつつ、身をかがめ、ふたたび名を呼んでみた。
子供のような顔をしている。笑っているように見える。
幸福そうに見えると思うのは、きっとそうであってほしいと、願っているからだろう。
冷えるにはちがいないと思ったが、趙雲は、着たくもないのに身に纏っていた上衣を脱ぎ、椅子にかけた。
狭い寝台の、空いている部分に身を横たえ、ほとんどのこりのないうすい布団をかぶる。
風邪を引くかなと思いながら、ふと、横を見れば、寝台のわずかな揺れで気づいたのか、孔明の目が、うっすらと開いていた。
起きたのか、と問えば、孔明はなにも言わず、腕を差し伸べてきてその身を寄せてきた。

わるい冗談だと一瞬思ったが、すぐに考えなおした。
こんな冗談なぞ、出来はしない。
人に触れられることをあれほどに恐れ、子供が相手であろうと我を忘れて、怒りにとらわれていた。
だれよりも、明るいものに満たされているのだと思っていた。過去の闇は払拭され、立ち直っているのだと思っていた。
これほどに苦しんでいたなど、知らなかった。

強い感情につき動かされ、こちらも、その細い体を巻き込むようにして腕を回すと、さらに身体に強く肌を寄せてきた。
赤ん坊が、母親にするような仕草だと思った。
あきれるほど、無垢な信頼を寄せてくる。
そう思ったとたん、熱病のように瞬間的に失せた理性は、ふたたびかたちを取り戻し、趙雲は、腕の力を抜いた。
あたたかさと重みを覚えつつ、おどろかせないように、鳥が卵を抱くように、力み過ぎないように注意しながら、腕の力をすこし強くしてみた。
幸福そうな、子供のような顔をしている。
父が子に抱く感情にも、似たものなのだろうか。
孔明は、こちらにすべてを預けたまま、安らかな寝息をたてて、深い眠りに戻ってしまった。

許すと言った。
どこかで、かならずそう言うだろうという計算があったのは、否めない。
孔明が明らかにしたのは、おのれの明るい部分、よい面ばかりではない。
光は、おのれでもうんざりするほどの醜さも、容赦なく照らし示す。
弱みに付け込むようにして、同情と憐憫で引きとめようなどと、昔は思いつきもしなかった。
けれど、たとえ卑怯者と謗られようと、どうしても、失いたくなかったのだ。
それで失わずにすむのであれば、どんな卑怯者にでもなろう。

深く目を閉じてみる。
これが偽りの時間だとしても、想う者が腕の中にいて、おのれにすべてを委ねて眠っていることは、事実なのだ。
深い眠りにつく、夢とうつつのあいだの、わずかな時間だけでも、同じ夢の中にいるのは、いまは二人だけなのだと錯覚をするくらいは、許されるだろう。
心は、夢であろうと、引き離すことは出来ない。



見たこともない、けれどなぜか懐かしい光景のなかにあって、ひどく美しい、浅ましい夢を見た。
矛盾しているが、そうとしか形容ができない。
目が醒めたのは、夢の美しさに圧倒されて、恐ろしくなったからではなく、浅ましさのあまり、いたたまれなくなったからだ。
まだ、腕の中にあった甘い感触が抜けきらず、苦労したが、原因は、眠っているあいだに出て行った孔明が、掛けてくれた上衣についていた香りのせいであった。
香で焚き染めたのであろう。
衣の全体から、香りが漂っていた。
すがしがしく心地よい、好きな香りである。

宿代はすべて払ってもらっているという。
すまないが先に行くという伝言を、飯店の者が伝えてくれた。
急ぐ必要もなかったから、自分でも呆れるほど女々しく名残を惜しんで、部屋を出た。


その後も、何度か張飛の屋敷より、長虹と引き合わせるために、なにかにつけ訪問の催促があったが、すべてを断った。
せっかくの良い思いつきが駄目になった張飛は、カタブツというよりは、おまえは冷血だのなんだのと、ずいぶん散々なことを言ってきた。
しかし、趙雲の心は、もう揺らぐことはなった。


ときどき、孔明が置いて行った上衣を、引き出して、手に取ってみる。
もう香のかおりは薄らいでしまったが、以前に、同じように衣を手にしていたとき、ほんの一瞬だけ、香りにさそわれて立ち昇るように、あの夜に見た夢の姿が、はっきりと目の前に浮かび上がった。
手に取ることは叶わなかったけれど、その姿は、まぎれもなく夢の残滓そのものであった。
以来、思い出しては、またふたたび同じ夢の姿を見ることはできないかと、あてもなく道筋を探っている。

とても美しく、あざやかな夢だった。
月のように蒼ざめた、白い花びらの散華する、あの春によく似た夢であった。
夢のなかにのみ存在する、我が永遠の伴偶。








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