説教将軍シリーズ(?)
うつせみ
4
※このお話は、『説教将軍シリーズ(?)うつせみ3』の続編であります。
短刀を取り出すのか。
身構えた孔明であるが、男が取り出したのは、手ぬぐいで、そのまま何をするかと思いきや、盛大に鼻をかんだだけであった。
「あんたは殺さん」
と、男は鼻を始末しつつ、言った。
「殺す理由がない」
孔明は、この男の、あまりにつかみ所のない思考回路についていけず、絶句した。
唖然とする孔明を嘲弄するわけでもなく、男は淡々とつづける。
「殺せといわれて金を受け取れば、殺すし、俺を殺そうとする者は、殺す。しかし、あんたを殺せという者はいないし、あんたは俺を殺そうとしない」
「待て、周は、おまえを殺そうとしているのに、なぜおまえは殺さなかった」
すると、男は、不気味に顔をゆがめると、孔明を冷たく見遣った。
「いかにも、机の上だけで物事を動かそうとする、図々しい士大夫の言葉だな。なんとも軽く言ってくれるではないか。
あんたは殺さないが、しかし俺の嫌いな人種だ。俺を追いかけている男、あれを殺さないのも、あんたと同じ種類の人間だからだ。俺を敵と定めながらも、ただひたすら追いかけるだけで、手を下そうとしてこない」
「手を下さない? 周は、何も仕掛けてこないというのか。追ってくるだけで?」
「左様。ひたすら追ってくるばかりだ。笑わせるではないか。あいつの故郷の親は財産家で、仇討ちを宿願とする息子のために、せっせと送金をしてやっている。
本来ならば、働く理由もない男なのだ。俺を追うことが、あいつの第一の仕事だろう。
なのに、あいつは横道に逸れてばかりいる。あちらこちらの仕事に手を出しては、どれも長くはつづけずに、俺を理由に辞めてしまう。まるで、俺という看板を掲げておいて、親から金を騙し取ろうとしている、詐欺師なのではないかと、思うこともあるな」
「でもおまえは、周を殺さないのであろう」
「あいつからは、いまもって本気の殺気が感じられないからだ」
と、男は、せせら笑った。
孔明は、周憲明の、どこか茫洋とした、つかみ所のない空気、妄執にとらわれたものに共通してある、異様なまでの熱が、その身から感じられない理由が、いまわかった気がした。
男は、船着場のほうに首をめぐらせた。
「まだ船は来ぬか。俺は、己の話をしたぞ。あんたの話を聞かせてくれぬか」
急に、己に関心を向けられて、孔明は戸惑った。
「聞いてどうする。気に入らねば、斬るか」
「斬らぬ。暇つぶしに聞きたいだけだ。あんたは、俺の話を聞いても怯えておらぬ。そういう話に慣れているとも思えないのに、不思議なものだ」
「わたしから話すことは、なにもない」
だが…
男は、飄々と、影を多く含みつつある、夕暮れの川辺を眺めている。
そこに殺気は感じられない。
いまを逃したなら、もう生涯、答えを得ることはできないかもしれない。
孔明は意を決し、姿勢を正すと、あらためて刺客に向き直った。
「聞きたいことがある」
「なんだ」
「人を斬ったあと、笑ったことはあるのか。それを知りたい」
「は」
と、男は、思いもかけない問いに、顔を強ばらせた。
「なんだ、その問いは。それこそ、聞いてどうする」
「わたしの叔父は、刺客に討たれて死んだ。その刺客は、その場で舌を噛み切って自害して果てたのだが、そのとき、わたしに笑ったのだ。
なぜ笑ったのか、ずっと気になって、考えていた。男の正体がわからぬゆえ、背景も探ることができぬ。
しかし刺客であれば、人を殺めたあとに笑うなど、特別な理由がなければしないことなのか、それとも笑うことは、ままあることなのか、知っているだろうと思ったのだ」
「面白い。なるほど、蛇の道は蛇、というわけか」
男は、口にした言葉どおり、面白そうに、孔明を上から下まで眺めた。
「二度と会うこともあるまいと思って、よく眺めていなかったが、こうしてみれば、気味が悪いほど、あんたは綺麗であるな。なのに、刺客を前にして、人を殺めて笑うかと問うとは」
「誉めているつもりならば、男に対して『綺麗』は適切ではないな」
「左様か、悪かった。しかし大胆なことよ」
「答えられぬか」
「いいや、答えよう。殺しをしたあとに笑えるかであったな。そうだな、笑うこともある」
「なにがおかしくて笑うのだ」
「おかしいから笑うのではない。仕事を達し終えて、安堵するから、つい笑ってしまうのだ」
「やり遂げたという満足から笑う。そういうことか」
「似ているが、ちがう。己を束縛していたものが、霧が消え去るようにしてなくなる、快楽にも似た安堵をおぼえるがゆえに、笑うのだ。
殺した相手を愚弄しての、笑みではない。そこまで、刺客というものは、殺す相手に思い入れがないものだ。殺す相手にいちいち、憎悪だの侮蔑だのと心を傾けていたなら、それこそ狂ってしまうであろう。
刺客にとって、殺す相手とは、ただの的だ。あんたの叔父を殺したという男にしても、やはり同じであっただろう」
とたん、孔明は、激しい怒りにとらわれて、腰を浮かした。
懐には、護身用の刀がある。それを揮えば、たとえ手練の男とて、この距離である。自分でも、討ち取ることができるのではないか。
ヒトの命を食いつぶして生きてきたモノ。
これは、人間とも呼べぬモノだ。
殺したところで、だれも責めるものはない。
男は、孔明から殺気を感じ取ったはずである。
しかし、座ったまま火に当たり続けており、孔明を見上げる表情も、静かなままだ。
その眼差しにぶつかったとき、孔明は、怒りは消えないまでも、石に躓いたように、行動に移すことができなくなった。
しばらく、孔明が一方的に刺客を睨み、刺客は静かにそれを受け止めるという、奇妙な状況がつづいた。
「殺すならば、俺がやろう」
不意に背後より声がして、見れば、趙雲が立っていた。
息を切らせたふうでもない。事情の仔細がわかっているような口ぶりからして、だいぶ前からそこにいて、会話を聞いていたものらしい。
顔色がどこか悪く見えるのは、無茶な行動に対して、怒っているためだろうか。
「子龍、いつから?」
「だいぶ前からだ。屯所の警吏の話では、周憲明の怪我は、たいしたことがないようだ」
「そうか」
と、平板に、孔明ではなく、男が答えた。
趙雲は、焚き火のそばに、ゆっくりと近づいてくる。
ただ歩いているだけ。戦袍と鎧姿という出で立ちでもないのに、趙雲から、すさまじい殺気があふれているのが、傍で立っている孔明にもわかる。
それでも趙雲は、親しい友に言うように、穏やかな口調で言った。
「逃げぬか。よい度胸だ」
「逃げたところで、あんたは俺を殺すであろう。俺と同じ、殺しに慣れ切っている目をしている」
「そうだな、慣れている」
男の言葉に応じて、趙雲は、じつに無造作に、腰の剣を抜き放った。
その振る舞いがあまりに自然であったのと、ちょうど船頭の小屋の影になっているせいもあり、黄昏をむかえつつある船着場の人夫も乗客も、彼らのほうに注意を向けない。
目と鼻の先では、ごく平和な日常風景が流れているというのに、黄昏の光に遮断されて、ここだけが、別の世界として切り離されてしまったような錯覚さえおぼえる。
男は座ったまま、剣を構える趙雲を、まっすぐ見据えていた。
趙雲は、男の眉間に、ぴたりと剣先が下りるように、剣を掲げる。
あまり見慣れぬ衣裳を纏っている所為もあり、趙雲自身も、見慣れぬ別の何者かに見える。
橙色の光が、川の波に照り返されて、まとう絹の袖も、橙色に染まっている。
奇妙な感じがした。
まるで、樊城の廊下での惨事を、もう一度やり直しているような。
「命令してくれ」
趙雲が、ぴたりと手を止めたまま、男から目を逸らさずに、言った。
「命令を。この男は、どのみち、官僚に斬りつけた。いずれは手配され、役人に追われる身となろう。裁きを待つまでもない」
たしかに言うとおりで、たとえ殺さなかったにしても、官僚たる周憲明を傷つけたのだ。
巴蜀に留まるかぎりは、手配がまわり、こんどは役人からも追われる身となる。
しかし、だからといって、裁きも受けさせず、この場で殺すのか。
男の表情も、男に剣を突きつける趙雲の顔も、まるで、よそ事のように静かであった。
孔明が殺してしまえと一言口にすれば、この場で、一人の男の命は確実に費える。
男は抵抗しないであろう。
死体の始末も、趙雲ならば、うまく手を回して片づけられる。
『どうせ』じきに死ぬ男だから、ここで殺してしまってもよい?
ちがうだろう。
そうではない。
なんという思い上がりであろうか。
そこまで考え付いて、孔明は、趙雲がなぜ、らしくもなく暴力的な振る舞いをし、命令を催促してくるのか、意味を掴んだ。
同時に、恥ずかしさとともに、憎らしささえ覚えた。
「意地の悪いことをするものだ。そうして、映し鏡のように、わたしの心を、目の前で振る舞って見せるとは」
「殺さずともよいのか」
「やめてくれ。もうよい」
そうか、と趙雲は短く答えると、抜き放った剣を、ふたたび鞘におさめた。
終始、男の表情は静かで、己の前から刃が消えても、安堵した様子はない。
どころか、すこし失望したようにさえ見えた。
そうして、すでに茜色から、闇の混じる黄金色に転じつつある川辺に顔を向け、残照にかがやく水面のうえに、黒い影を落として近づいてくる船を見て、つぶやいた。
「ああ、舟が来たようだな。俺はあれに乗る」
孔明は男を止めなかったし、趙雲も、なにもしようとはしなかった。
役人を呼ぼうと思えば、呼べたであろう。
だが、男は、ごくごく自然に立ち上がり、舟に乗った。
そして舟が岸を離れるまで、二人は、沈黙のまま、しばらく男の姿を見送っていた。
男を乗せた舟が、やがて薄闇に隠れてしまうと、孔明は、焚き火の側に、ふたたび腰を落とした。
火の勢いは、燃やすものがないせいもあり、だいぶ小さくなってしまっている。
名前も聞かなかったあの男が、ついさっきまで隣にいたことに、現実感がない。
「いつから聞いていた?」
孔明が尋ねると、趙雲は、さきほど男が座っていた場所に自分が座って、近くにあった小枝を火にくべた。
「切れ切れにしか言葉が聞こえなかったが、流浪する身は、定住する者を羨ましく思うとかなんとか」
「なんだ、ほとんど最初からではないか。もしや、あの男、あなたが側にいることを知っていたのかな」
本当は、懐からあの男が取り出そうとしたのは、手ぬぐいなどではなく、やはり武器だったのではないだろうか。
しかし趙雲が側にいることを感じ取り、武器をおさめたのではなかろうか。
「おまえは、もうこの件には関わるなよ」
孔明はもう反感も持つことなく、趙雲の言葉に素直にうなずいた。
「そうする」
「落ち着いたか」
「だいぶ。やはり、すこし気持ちが昂ぶっていたようだ。あの男の話を聞いて、あなたの言うとおりだったと思ったよ。けれど、なぜ、文偉から話を聞いただけで、この件からは下りたほうがいいと言った?」
「文偉の話を聞いて、よくある話だとは思ったが、周とかいう男に同情したのは事実だ。だが、実際に周と、相手の男を見て、考えを変えた。
おまえは気が動転していたようだったので、判らなかったかもしれないが、あの二人は仇敵同士だというのに、互いにまるで殺気がない。
いや、殺気がない、というのは言いすぎか。仇と狙う側と、狙われる側、どちらも迷っているように見えたのだ」
「迷う?」
「直感で判断したからな、仇討ちというわりには、あの二人からは、ただいがみ合っている程度の人間が、気まぐれに、じゃれあっているふうにしか見えなかった。
仇討ちをしようとする人間は、もっと熱にも似た殺気を帯びているものだし、刺客が逃げるために斬りつけてきた傷も、急所を外れており、しかも斬り口が浅かった。
なにか裏があるのかと思っていたが、おまえたちの話を脇で聞いて、合点がいった。
周のほうは、殺すことをためらっているが、諦めることも出来ないので、とりあえず追うことをつづけている。
一方、刺客側は、いっそ殺されてしまってもよいとすら考えているのに、どこかで命を惜しんでいて、踏ん切りがつかないでいる」
趙雲の説明によって、刺客が明らかにした、周の家の事情と、刺客自身がこぼしていた、人生への疑問のつぶやきが、ぴたりと重なった。
「つまりだ、いまのあなたの言葉に加えて、詳しく言ってしまえば、周という男は、もう本当は仇討ちを本気で望んでいないのだが、いまさら諦めてしまうと、実家からの送金も途切れてしまうし、定職につく根気もないので、いまさら別な生き方を選ぶこともできず、とりあえず仇討ちを宿願に掲げて、漫然と日を食いつぶしているだけ。
一方の刺客側は、体力の衰えが見えてきて、刺客稼業を続けるのに不安を覚えているが、かといって、ひとつの土地に留まることができる気性ではない。
ならばいっそ、死んでしまいたいとさえ思っているが、自害はできない。だれかに殺して欲しいとさえ願っているが、一方で、死にたくない。矛盾の中で生きている」
「そうだ。迷い合っている人間同士が、どういう悪戯か、敵味方に配されて、追う、追われるという立場になった。
連中は、互いに決断を先延ばしにして、えんえんと同じ日を繰り返している。同じ場所を、ぐるぐると回り続けているのと同じで、出口はない」
まるで、子供のころに聞かされた、妖怪変化の話にも似た、不気味な話である。
決着を先延ばしにすることで、かれらは延命しているわけではない。
逆に、無為な死に向かって、日一日と近づいているのである。
何も生み出すことなく、死に捕らわれて生きる。
「ひどい話だ」
「そうだな。だから、文偉の同僚は殺されなかったし、俺が刃を突きつけても、あの男は怯えることもなかった。どころか、俺が刃を突きつけたとき、あの男は、すこし喜んでいた。だれかに強制的に事態を終わらせてもらうことを、喜んでいたのだ。
もし、おまえがあのとき、殺せと命じていたら、あの男は、おまえに感謝して死んだだろう。それこそ、笑いながらな」
「あやうく善行を施すところだったのだな」
とたん、気持ちが沈みこんできた。
死に捕らわれて生きる者たちの呪詛が、自分に取り憑いているかのようだ。
なにも生み出すことなく…彼らと一緒ではないか。
「俺の予想だが、あの男、いずれは周を殺すだろうよ」
「なぜ」
「あの男のほうが、まだ冷静だからだ。ふと、素に戻り、己のはまっている馬鹿馬鹿しい状態に気づいたなら、これから脱け出すために、ためらいなく周を消す。
俺も、あの男と似たようなことをしていたから、何を考えているかは、だいたい読める」
「似たようなことをしていたって?」
初めて聞く話である。
唐突に出てきた告白に、孔明は驚いて、弱まった火の向こうにいる趙雲の顔を、まじまじと見つめた。
そも、孔明は、趙雲が、公孫瓚のもとを辞し、劉備に仕える前までのあいだ、どのように過ごしていたか、一度も聞いたことがない。
孔明が柳眉を寄せるが、趙雲は表情を変えず、炎をじっと見つめていた。
「盗賊を討伐したり、土地の争いを収める手助けをしたり、いろいろやった。仇討ちの代わりもつとめたことがある。金こそ貰っていないが、食糧と宿を貰っていたのだから、そう大差はない」
「ならば」
「志が違うだろう、などと言ってくれるなよ。人を殺めることには変わりはない。正義だ不正義だと深く考えずに、条件の良い話だけを請け負っていた。
あいつと同じだ。殺した相手の顔も覚えておらぬし、なかには、おまえが叔父君を殺した相手を恨んでいるように、俺を恨みに思っている者も、どこかにいるかもしれない」
誰かに似ていると思った。
追及して考えることが、怖くて出来なかった。
冗談だろうと、いつものように軽く笑って済ませてしまいたいのだが、顔が強ばって言うことをきかない。
「けれど、あの男が、同じ主君を得て、同じ規模の兵をまかせられ、同じ戦に出たとしても、あなたと同じ勲功は、挙げられなかったであろう。だから」
同じではない、と、否定しようとした孔明のことばを、趙雲はぴしゃりと跳ね除けた。
「いいや、その比較もちがう。すべては運なのだ。ちょっとした運の積み重ねの差が、あの男と俺の差に過ぎない。あの男と俺は、根本は一緒だ」
「一緒のわけがなかろう。昔からずっと思っていたけれど、あなたは自分を低く評価しすぎる。なにか気が咎めることでもあるのか」
孔明が問うと、趙雲の手が止まった。
安堵したことに、ほとんど瞬発力で投げた言葉が、図星であったようである。
孔明は、気を鎮めるために、しばし、目の前の炎のゆらめきを見つめていた。
「子龍」
「なんだ」
「飲みに行こう。近場でよいから、たくさん飲めるところに連れて行ってくれ」
「疲れているのだろう。家に帰れ。送るぞ」
「このまま、さようなら、今日はお互い疲れたな、などと言い合って、別れられると思うのか。それに、めずらしく飲みたい気分なのだよ。連れて行ってくれないか。というよりは、命令だ。連れて行け」
「ここで命令を使うか」
ぼやく趙雲であるが、ちょうど、最後の舟の荷の積み下ろしをおえた人夫たちが、火が焚いてあるのを見て、どやどやとこちらに向かってくるのが目に入った。
彼らに座を譲るために立ち上がると、同じく立ち上がった趙雲が、仕方ないからついてこい、と言った。
趙雲が案内したのは、一階が酒家、二階が飯店となっている大きな店で、市場を往来する商人や、旅人などで賑わっていた。
酒家が混んでいるので、別の店にしようとしたところ、店の主人が、二人の格好を見て上客だと判断したらしく、あわてて引き止めてきた。
二階の空き部屋を用意いたしますので、そちらでお休みください、ということである。
見る限り、その一帯の酒家は、商人たちでみな混んでおり(孔明は、張飛の催した宴の効果ではなかろうかと推理した)空いている店はなさそうだった。
静かに話せるのであればよいか、ということになり、二人は、店の主人が勧めるまま、二階の個室に通された。
狭い部屋に卓と寝台とがあり、酒を飲むために、無理に椅子が運び込まれたので、余計に狭く感じられた。
両隣とも埋まっているのか、物音や話し声が絶えない。
階下では、酒家のほうで、どんちゃん騒ぎがはじまったようだ。
それでも、部屋の扉を閉めてしまえば、音は遮られ、静かになった。
「さて、聞かねばならぬことが、山ほどあるのだが」
「なんだ、酒を飲むのが目的ではなく、尋問が目的か」
趙雲が不満そうにしたので、孔明はあたりまえだというふうに、肩をすくめてみせた。
「世間話をしてもよいけれど、なにか面白い話でもあるのか。今日の宴のこととか」
「いや、それは話したくない」
「わたしも、早急に忘れたいところだ。さあ、酒が来た。ゆっくり飲もう」
孔明が、酒瓶を傾けて、杯を寄越すようにと示すと、趙雲は、しぶしぶというふうに、杯を差し出してきた。
しばし、とりとめのない話で時間を過ごす。
酒瓶が半分になったころ、孔明は、なるべくさりげないふうを装いながら、切り出した。
「子龍、今日の宴、じつはあなたの縁談の席ではなかったのか」
ずばり切り出すと、趙雲は、黙ったまま、一気に杯を煽った。
そうだと答えたのも同じである。
一人合点して、孔明はため息をつく。
「やはりそうであったか。らしくもなく派手な晴れ着を纏って、このところ仲がよくなかったはずの張飛の屋敷で、上席に座っている。おかしいと思ったよ。受けるのか」
「莫迦を言うな」
「そうか…しかし、よく考えたほうがよいぞ」
命を繋げることができる者は、生き物として生まれた義務を果たさねばならぬ。
趙雲は、自分で酒を注いで飲みつづけている。
それを見ながら、孔明は尋ねた。
「周が斬られる前に、わたしに何を言おうとしたことも、当てようか。
『おまえがあの刺客に聞きたいと思っていることは、刺客を勤めたこともある俺が答えられるだろう。だから、俺に聞け』。
ちがうか。わたしは、あなたにそこまで気遣われなければならないほどに、弱っているように見えたのだな」
そして孔明は、船着場にて、趙雲が声をかけてきたとき、表情が曇っていたのは、孔明が刺客に発した問いが、思いもよらぬものであったからだったということに、気づいた。
「昔の話は、あまりしたくないのだ。おまえの力になればと思ったのだが、余計なお世話だったかな」
「余計なお世話ということは、ないけれど」
苦りきった表情を浮かべる趙雲の杯に、孔明は酒を継ぎ足した。
すると、趙雲は、なみなみと酒の注がれた己の杯を見つめていたが、手を伸ばすと、自分もまた、孔明の杯に酒を足した。
「おまえの考えは読めている。言っておくが、俺は悪酔いせぬぞ。ついでに、酒で口を滑らせることもない」
「わたしとて強いからな。よろしい、どちらか先に酔いが回ったほうが、昔の話をすることにしよう」
「待て。とすると、俺のほうが不公平だろう。おまえの過去の話は、あらかた知っている。おまえからだけではなく、馬季常や偉度から聞いていたからな」
「ほう、不公平とのたまうかね、趙将軍。よろしい、こうなれば、わたしも意地でも酔わないからな。さあ、どんどん飲め」
「どういう勝負だ。なぜ、そうなる」
「今日は、ずっとあなたに先回りされているようで、面白くない。さあ、この店で一番の酒を持ってこさせよう」
そうして、互いに意地を張り合いつつ、昔話を賭けて、どちらが先に酔いつぶれるかの勝負をしたふたりであるが、やがて夜も更け、月が群雲の上に顔をのぞかせたころ、決着がついた。
四方から聞こえてきた賑やかな声が、ぴたりと収まった。
階下の酒家は店じまいをしたらしく、ずいぶん静かで、廊下を行くだれかの戸板を踏む足音が、大きく聞こえた。
いつのまにか、机に突っ伏して、眠っていたようである。
孔明は、起き上がると、目の前の、いくつも転がった酒瓶を数えた。
「ずいぶん飲んだな」
強いといったのは虚勢ではなく、孔明は、実際につよかった。
肝臓が丈夫なのが自慢なのである。
机に転がる酒瓶の山の向こうには、椅子の上で、まるで瞑目するように眠っている趙雲の姿がある。
眠っているというよりは、民の陳情に耳を傾けている、役人といった風情だ。
「夢の中でも、仕事をしているのではあるまいな。子龍、わたしの勝ちだ」
どちらも酔いつぶれたわけだから、勝負は引き分けなのであるが、孔明は、勝手に、先に目覚めたほうの勝ち、という規則をくっつけた。
軽い頭痛がするものの、気分はそう悪くない。
呼びかけてもまったく反応がないので、立ち上がって、肩を揺すると、趙雲は、わずかに返事をしたが、うめき声程度である。
完全に酔いつぶれているようであった。
「せっかく勝ったのだが、これは駄目だな」
残念な気持ちを和らげるためにつぶやき、孔明は、ちらりと、部屋の寝台を見る。
このまま椅子の上で寝かせていては、風邪を引いてしまうだろう。
「わたしはどうするかな。いまから迎えを寄越してもらうのも面倒だし」
ぶつぶつと独り言をつぶやきながら、孔明は、趙雲に肩を貸し、寝台の上に寝かせた。沓をぬがし、剣を傍らに置く。
酔客は、死人のようにおとなしく眠っている。
「さて、わたしは帰るか、それとも空き部屋を用意してもらおうか」
独り言をつづけながら、寝台のそばから離れようとすると、いきなり腕をつよく引っ張られ、寝台の上に倒れこむ形となった。
倒れたついでに肘を打ち、痛みに顔をしかめる。
孔明は、趙雲の胸の上に被さるようなかたちとなった。
ずいぶんな悪戯をするものだ。
そうして、ちょうど目を上げると、そこにある趙雲の顔に、文句をつけた。
「あのな、酒軍の大将、酔っているからといって、万事が許されるわけではないぞ」
と、みれば、趙雲は、酔郷を冒険している最中なのか、起きているとも眠っているともつかぬ様子である。
「困った人だな」
とは口にしつつも、じつは、孔明はさほど困っていない。
いまさら酔いがまわってきたのか、動くのも億劫になってきたので、ちょうど寝台の真横、趙雲の頭に真横に添うようなかたちで、枕元に突っ伏し、目を閉じた。
無理をして帰らねばならない家でもない。この飯店にいると、家人に使いは出してある。
ふと、つかまれていた腕の力が弱くなった。
やれやれ、どんな夢を見ているのかは知らないが、内容が変わってくれたようだ。
身を起こして、趙雲の顔を覗き込むと、孔明のほうは見ないまま、目だけをしっかり開けて、無表情に天井なぞを見つめている。
そういえば、文偉のすすめた家鴨の肉、隠し味が酒だとか言っていたな。
それで、これほどに、このひとばかりが酔っているのだろうか。
「子龍、大事無いか」
孔明が問うと、趙雲は、孔明のほうを向かないまま、口を開いた。
紙燭の頼りない灯りでは、酔っているものなのか、それとも素面なのか、判断がむずかしい。
「昔の話が聞きたいと言ったな」
「うむ」
「十五のときに家をでて、そのあと袁紹のもとへ、村の若いのをつれて義勇軍として参加した」
「いつか話していたな。そこで錬兵の名を借りた私刑のような目に遭ったと。それから、公孫瓚のもとに仕えた」
「そのとき、主公にお会いしたのだが、そのときはまだ、配下に加えては頂けなかった。公孫瓚との関係がまずくなって、兄の葬儀をきっかけに傘下から離れた。それから、主公にお仕えするまでの数年のあいだ、俺は仕える主君を定めず、あちこちを放浪していた」
「そこで、用心棒や、仇討ちの手伝いなどをしたのだな」
「そうだ。俺は人を殺めるのに、抵抗も罪悪感も抱いてこなかった。ただ食べるために仕事を請けた」
「だから、あの刺客とおのれを同列に見るのか? そうしなければ、飢えたのであれば、仕方のないではないか」
「ちがう。故郷に帰ろうと思えば、帰ることもできた。金を無心することだって、不可能ではなかった。己の身を磨くためという理由はつけていたが、主公にお仕えするまでの数年間は、周のように、決断の先延ばしをしていたのだ。
目標があるようで、ないようで、毎日を、ただ漫然と暮らす。責任を負うこともなく、欲の赴くままに動いた」
「わたしだって、主公にお仕えする前は、似たようなものだったよ」
「ぜんぜん似てなどない。おまえは、人を殺めることを生業にしたことはないだろう」
孔明は、寝台に頬を預け、趙雲の言葉の重みに耐えるように、目を閉じた。
「許してくれ」
孔明は、言われたことばの意味がつかめず、ふたたび目を開くと、顔をあげた。
「なにを?」
孔明が顔をあげると、趙雲は、その目線から逃げるように、顔を背け、片手を額に置いた。
「俺は、おまえがあれほどに苦しんでいると知らなかった」
孔明は、しばし絶句し、紙燭に輪郭だけをはっきりと浮かばせている趙雲の姿を見つめた。
孔明が答えないうちに、趙雲は、顔を隠した状態のまま、ことばをつづける。
「主公にお仕えする前の話は、ずっとしないつもりだった。話してしまえば、おまえは俺を憎むかもしれないと思ったからだ。
軍師、俺は、人を殺したあとに、笑ったことがある。あの刺客が言ったことは正しい。笑うのは、緊張がほどけて、安堵するからだ。
殺される者の親しい者に、どれだけの深い傷を負わせることになるだろうとは、いっさい考えない。刺客は、人を人として見なくなる。動く的としか見ないのだ。俺は、今日まで、そんなことを知覚することすらなかった」
答えるべき言葉が見つからない。
あなたは違うと否定するのも嘘だし、気にするなと励ますのも嘘だ。
なんと汚らわしいと罵倒すれば、おのれを騙すことになる。
幾百、幾千と、世に言葉はあふれているのに、それを武器にしている人間なのに、肝心な時に、肝心な相手に向かって、肝心な言葉が出てこない。
おのれの無力さに孔明がうろたえていると、趙雲がふたたび、呻くようにくりかえした。
「許してくれ」
なにか言葉を。ともかく、言葉を口にしようとして、孔明は、唇を閉ざした。
紙燭のともし火のなかで、戦場でも滅多に見せない、苦悶の表情が、趙雲の顔に浮かんでいた。額には汗さえにじんでいる。
孔明は、手を伸ばすと、寝台に横たわる趙雲の、その額に汗で張り付いた髪をかき上げてやり、尋ねた。
「なにを許せばよい」
答えはなかった。
ただ、趙雲は、同じように、許してくれとつぶやいたように聞こえた。
片方の空いた手の指が、空を切って、所在なさげに、なにかを掴もうとしている。
孔明は、その指に、自分の指を絡めるようにして添わせた。
指を絡めると、びくりと震えが伝わったが、振りほどこうとはしてこなかった。
武人の手だ。大きくて、手綱を握って武器を揮うせいか、皮も厚くて、ごつごつしているし、刀傷らしい古傷が、手のあちこちにある。
それに、自分の細い指を絡めると、同じ手であるのに、違う生き物が、寄り添いあっているように見えた。
指先だけでも、温かいものだなと思う。
しばらく、指先を絡めたまま、じっとしていると、さきほどより明瞭な、趙雲の声が、すぐ側で聞こえた。
「俺が、本当に、おまえたちの語るような男だったら、どれだけ良かっただろうな」
絡めたままの指を、趙雲がつよく握ってきた。
離すまいとするように。
己を律し、導くもの。常に強くあり、正しくある存在。滅多なことで誤ることはない。
それこそ、急流の中にあっても泰然としている、岩のような存在だと思ってきた。
「許すよ」
考えるより先に、言葉のほうが飛び出してきた。
指先にある温かさに集中しながら、孔明は、泣きたくなってきた。
許してくれと、同じ言葉を、少年のあのときに、ほかならぬ叔父を殺した男から聞きたかった。
すべてはもう終わっており、残される者は、ただひたすら痛みに耐えるしかない。
己もまた、人を傷つけるものなのだということを自覚し、それでもなお、人を恨むことをやめられない己を、嫌悪しながら生きていく。
生きるとは、なんと辛くて苦しいことなのだろう。
「許す」
指を絡めたまま、孔明は寝台に腰かけると、そのまま、趙雲の胸の上に、頭を預けるような形で横になった。
耳にあてた胸から、間近に鼓動が聞こえてきた。
許すといいながら、重荷を背負わなくてよいのだとは言わない、己の狡さに暗然とする。
人に触れること、触れられることが恐ろしい。
それでも、たった一人でも、すべて委ねられる者がいてくれさえすれば、ぎりぎりのところで、世をそねまず、生きていくことができるのだ。
わたしは、この温かさ以外の、だれのぬくもりも知らない。
「きっと、ずっとそうだ」
そのつぶやきに答えはなく、代わりに、それまで趙雲の顔を覆っていた手が、髪に触れてきた。
まるで子供のときに戻ったような穏やかさ。
孔明は、力を抜いて、その穏やかさにすべてを委ねる。
平安と温かさを与えてくれる者だからこそ、だれよりも深く愛したのだ。
たとえ、罪悪感と同情から心を与えられているのだとしても、かまわない。
一瞬でも、自分だけが、世から離れた者だということを忘れられるのであれば。
利己的な執着に、嫌悪と悲しみをおぼえつつ、孔明は、そのまま目を閉じて、温かさを追うこと意外の、一切をわすれた。
翌朝、朝冷えのために目がさめた。
いつどうなったのか、身体はすべて寝台にあり、まるで抱きかかえられているような形で横になっていた。
しばらく、眠りつづける趙雲の顔を見つめていた。
こういうふうに生まれたかったといつも思う、この世でいちばん好きな顔だ。
深く眠り込んでおり、冷たい指先で、そっと頬に触れても、反応はない。
一度、起きたらしいことは、上衣が椅子の上にかけてあるところを見ればわかる。
あのあと、夜更けに目が醒めて、冷えてしまうので、寝台に入れてくれたということだろうか。
朝の冷気が、白々と明け染めた外から入り込んでくる。
いまだ眠り続ける背中に、そっと手を触れてみると、燠火のようにあたたかかった。
どれだけ触れても、恐怖も嫌悪も抱かなくてすむ、唯一の者である。
趙雲の眠りは、浅いのがもっぱらであったから、このように、深く眠っている身体に触れることができるのは、めずらしい。
幼いころ、病がちであった父に抱きかかえられて、眠ったことをなんとなく思い出した。
自分が子供に戻ったという空想がおもしろくて、思わず笑みをこぼすが、趙雲は、変わらず眠ったままである。
なんとなく、気だるい空気を楽しんで、そのままそうしていたかったが、朝議があることを思い出した。
起こさないように注意しながら、寝台を抜け出し、部屋を出た。
そして、まだ陽ののぼりきらぬ中で、朝餉の支度をしている飯店の者に声をかけ、馬を手配してくれるように頼んだ。
衣に、きつい酒の香りがついてしまっているので、このまま宮城へ出かけるわけにはいかない。
一旦、屋敷に戻り……使いをやっておいたから、心配していることはないだろう……身支度を整えねばならぬ。
間に合うだろうか。
朝議の段取りをあれこれと考えているうちに、朝の冷気に固められるように、次第に気持ちが醒めてきた。
こうして、日々に立ち向かっていくのだ。しかし、忘れまい。
代金をすべて支払うことにして、宿の主人に金を渡していると、主人の女房が出てきて、外はずいぶん冷えておりますから、そのお召し物ではお寒いでしょうといって、厚手の外套を用意してくれた。
孔明は、これほど深く眠りこんでいる趙雲を起こしてしまうのが忍び難かったので、起こさないことに決めた。
だが、黙っていくのも心苦しかったので、最初に纏っていた上衣を、眠る体の上に掛ける。
そして、無理に起こさないようにと主人に言い含めて、冴え冴えとした朝陽の下りる街に、ひとり、出て行った。
蒋琬&董允のお話につづきます