説教将軍シリーズ(?)
うつせみ
3
※このお話は、『説教将軍シリーズ(?)うつせみ2』の続編であります。おばか企画シリーズでありましたが、「うつせみ」はシリアスだったりしますので、おばかを楽しみにしてらした方、ごめんなさいですm(__)m
廊下を歩いていた。
すると、不意に男が現れて、叔父の玄にもたれかかった。
一瞬だった。孔明が、男の手にある刃に気づいたときには遅かった。
いまも鮮やかに思い出せる、夕陽を照り返す、茜色の刃。夕陽よりもなお赤い、血潮。
玄は、腹を割かれていた。おどろき怯える孔明に、血の滲む腹をおさえながら、それでも、大事無いと、安心させるように笑った。
すぐに人が集まって、刺した男は取り押さえられたが、警吏に渡される前に、刺客は舌を噛んで自害した。
玄は手厚い看護を受けたが、その日のうちに、亡くなった。
叔父の死の背後に横たわる、黒い闇の正体は、もう八年近くも前に晴れた。
闇はもう、己を飲み込む悪夢の塊ではない。
けれど、思い出すのは、夕陽の照り返す、まぶしい橙の色をした時間のことばかりである。
目の前で、叔父をむざむざと暗殺されてしまたっという後悔もあるが、もうひとつ、わからないことがあった。
叔父を殺したあと、刺客は、舌を噛んだ。
舌を噛んだとき、はっきりと目が合った。
痩せた、濃い髯をした男であった。
当時は、年配の男のように感じていたが、いま思えば、三十路には届いていなかったように思える。
男の唇から、鮮血が流れ出て、顎と髯を汚していった。
流れ落ちる血は、まさに男の命そのものでもあったのだが、そのとき、孔明は、いま死に行かんとする男が、笑ったのを見た。
意図のつかめない、謎めいた笑みであった。
叔父の笑みの意味は明解だ。
あくまで、怯え竦む孔明を安心させるためのもの、さらには、その行く末も守りきったのだという、満足の笑みであったにちがいない。
だが、刺客は、なぜ笑ったのだろう。
命令を遂行できたことに関する、満足の笑みだったのだろうか。
自分は死なねばならぬのに?
少年であった孔明が、怯えて怖じるさまを見て、嘲ったのであろうか。
だとしたら、かぎりない悪意に眩暈がするところであるが、一方で、死にゆく男に、それだけの余裕があったのか、疑問である。
自分は死ぬけれども、その代わり守られる、誰かのために笑ったのか。
だとしたら、男の守ろうとしたものは、なんだったのだろうか。
もはや、あまりに年月が経ちすぎており、男の出自も、素性も不明のままである。
誰かを人質に取られていたのか、それとも、莫大な報酬を約束されていたのか。
どちらにしろ、真実が明らかになる日はやってこない。
けれど、だからこそ、知りたいのである。
刺客というものが、なんのために命を賭して、人を殺すのか。
なぜに、最期に笑ったのか。
「兄さん、買わないのかい」
鋭い声に、孔明は我に返った。
とたん、周囲の音がいっせいに耳に入ってきて、かなり集中して沈思に耽っていたことに気づく。
「申し訳ありません、すぐどきますから」
と、文偉の声がそばで聞こえて、見れば、日に焼けて浅黒い顔をした露天商が、憮然としてこちらを睨みつけているのであった。
「まったく、図体がでかいのが、店の前に突っ立っていたのじゃ、店の前に壁があるようなものじゃないか。この市は狭いんだ。考え事は、よそでやんな!」
「すまなかったと言っているだろう」
悪態をつく露天商に、いささか凄みをきかせて言い返すと、趙雲は、孔明を横から抱きかかえるようにして、先に進ませた。
その一歩うしろを、文偉が、ぶつぶつ言い続けている露天商に愛想をふりまき、険悪な空気を、持ち前の、屈託のない笑顔で薙ぎ払いながら、ぺこぺこと頭をさげ、ついてくる。
そうして孔明の顔をのぞきこんだ。
「軍師、もしやお加減が悪いのではないですか。顔色がよくないようですぞ」
顔色が悪いとしたら、この、雑多すぎる市の人の気に当てられたせいだろう。
もともと、趙雲が、人に触れられることを拒む孔明を、すこしでも人に慣らそうとしたために連れてきた場所である。
そこで費文偉と会ったのは、偶然であった。
文偉が現われる前までは、昔話をしながら、あえて自分の弱点を誤魔化して、市の中に溶け込んでいたが、いまは、文偉の同僚という周憲明の仇討ちを止める、という目的に行動が変わったため、往来の人々に不用意に触れないように、動向に気をつけながら動かねばならない。
張飛の屋敷でのような失態を、これだけの人ごみのなかで、繰り返すわけにはいかなかった。
時刻もよくなかった。じきに黄昏がやってくる。
陽射しに陰りが含まれる、黄昏の時間こそが、叔父が遭難した時間である。
流した血潮のあざやかな色を、いまだに孔明は忘れることができない。
不意に男が、叔父にもたれかかった。その手には、刃が握られていた。
叔父が蹲る。そして笑う。
刺客が捕らえられる。舌を噛み切る。そして笑う。
声なき笑みであったのに、記憶のなかの男は、いつでも、陰にこもった笑い声をたてて、孔明を見つめていた。
なにを笑うのか。なぜ人を殺めておいて、自分も死なねばならぬのに、笑うことができるのか。
「軍師、お休みになられたほうがよろしいのでは」
文偉が、重ねて尋ねてくる。
文偉に、自分が人に触れることを厭う性質があることや、原因となる過去を説明するつもりはなかったし、趙雲からも止められていたから、不本意ながらも、孔明は嘘をつくことにした。
「張飛殿のところで、すこし飲んだからな。酒が残っているのだよ」
「ああ、そういえば、皆様方が集っておられると聞きました。近頃にはない豪勢な宴になるらしいと、噂は流れておりましたよ」
胸の内を悟られたくない一心で、孔明は無理に、笑顔さえみせて、尋ねた。
「へえ、なぜ」
「費家はご存知のとおり、貧乏なものですから、市場の商人やおかみさんたちと、値引き交渉しがてら、世間話をするのが日課となっております。
今日も市場に出かけましたなら、なじみの商人のひとりが、張将軍が、ありがたいことに、大きな買い物をしてくださる、しかも高級品ばかりなので、こちらも懐があたたまると喜んでおりましたから。なるほど」
なぜか文偉が納得しているので、孔明は首をかしげて尋ねた。
「なにが、なるほどなのだ?」
「軍師はいつもどおりでございますが、趙将軍が、珍しい色のお召し物をまとってらっしゃるので、なぜだろうと思っておりました」
それを聞き、孔明は、自分のとなりに趙雲がいることをあらためて認識し、安堵した。とりあえず、子龍が隣にいてくれる限りは、命は安全だ。
安全なのだと己に言い聞かせながらも、孔明は、混乱と緊張のなかにいた。
道行く人々が、こちらに集中して向かってくるような錯覚さえおぼえる。
現実感を取り戻したくて、隣の趙雲の着物の袖を掴んで、わざとおどけて尋ねた。
「文偉は、子龍の今日の衣をどう思う?」
「似合っているか、どうかでございますか? そうですな、趙将軍には、もうすこし渋めの色がお似合いになるかと思います。その色では、趙将軍のせっかくの威厳が損なわれるかと」
「でも流行の色だ」
「趙将軍には流行を追っていただきたくないですな。わたしの勝手ではございますが、趙将軍は、つねに急流のなかでも泰然として動かぬ岩のようであって欲しいのです」
うむ、いい喩えが出せました、と、自分で自分のことばに文偉は満足して、うんうんとうなずいている。
「ほら、文偉もそう言っているよ。子龍、なんだって今日にかぎって、そんなふうに、流行の服を着てきたのだ。わたしも文偉と一緒で、やはりそれは似合わないと思う」
趙雲は、しばし答えず、緊張を隠そうとするあまり、かえって朱に染まっている孔明の顔を、口を引き結んで見つめていたが、やがて、憮然として答えた。
「是非に着ろと勧める者があったのだ」
それを聞いて、文偉が口を挟んだ。
「お内儀…のわけはありませぬな。家令のお爺さんですか。あのお爺さん、じつは洒落者ですよね。首にいつも巻いている手ぬぐい、毎日違うのですよ。あの年でも洒落っ気を失わないとは、見習いたいところでございます」
勉強になるなあ、などと言って、文偉は自分で結論を出したらしい。
「文偉、俺のことはよい。おまえの同僚の仇討ちの、そもそものきっかけを教えてくれ」
「ああ、左様でございました。申し訳ございませぬ。仇討ちの話でございますが、わたしは、本人からの話しか聞いておりませんので、公平さには欠けてしまいますが、どうぞご容赦を。
そもそものきっかけでございますが、周の師が、ある土地をめぐって、長いあいだ、とある男と争っていたらしいのです。
相手が度重なる嫌がらせをするものですから、周の師は、一族の男たちや弟子をつれて、相手の屋敷を焼き払ったそうなのです。それを恨みに思った相手が、刺客をやとって、周の師を討った、と」
「どっちもどっちだな」
ぼそりと、趙雲は言った。
それを聞きとがめて、孔明が首を向ける。
「しかし、土地の争いならば、公平に裁きを受ければよいものを、刺客を雇って殺させるなど、卑怯とそしりをうけても、仕方あるまい」
「たしかにそうだが、よくある話でもある。刺客を雇った側にも、刺客に襲われた側にも非がある。正義も大義もなにもない話だ。そんな話で一生を棒に振ろうという、あの男も愚かだ」
言って、趙雲は、往来の中から外れると、しばらく、じっと周憲明と、周の追う仇という男を睨みつけていたが、やがて言った。
「俺は下りる」
ええ、と抗議の声をあげたのは、文偉であった。
「趙将軍がいなくなると、心もとないではありませんか」
「俺だけではない。軍師も、文偉も、あれは放っておけ」
「冷たいお言葉ですな。このままでは、周は人殺しになってしまいます」
文偉の言葉にも、趙雲は、厳しい顔を変えず、心を変えるつもりはない、だめだという。
孔明でさえ、趙雲の説得には手こずる。
なにせ、ほかの武将とちがって、趙雲は、率直に過ぎる面もあるが、学があるので、たいがいのことでは言い負かされない。
さらにくわえて、気安く口論できるような雰囲気が、趙雲にはない。
己では手に負えないと判断した文偉は、孔明をうながした。
「軍師、どうぞお口添えを」
人ごみから外れられることに安堵しつつ、孔明は趙雲の前に立ち、尋ねた。
「わたしに気を使っているのならば、それは無用だ。万が一のときは、わたしや文偉だけでは収拾がむつかしい。子龍、付いてきてくれぬか」
「自分がそんな状態のくせに、人のことをかまう余裕などないはずだぞ」
そんな状態、と聞いて、ハテ、どんな状態だろうと、文偉は首をひねっている。
孔明は決まり悪く思いつつも、言い返した。
「わたしのことではなく、いまは、周憲明のことだ。あの男、このまま放っておけば、刺客とやらに、この往来で斬りつけかねない」
「それをおまえたちで止めるというのか。この側に屯所がある。そこの警吏に訴えて、周憲明と、刺客の両方を取り押さえてもらえばよかろう。なにも、おまえたちが関わる話ではないぞ。文偉はともかく、おまえの動機はおかしい」
まだ何も口にしないうちから、本音を言い当てられた気がして、孔明は鼓動を早めたが、そこは心が乱れているとはいえ、天下の論客である。簡単に表情には出さない。
「おかしなことを言う。わたしの動機など、単純なものだ。あなたも言ったとおり、仇討ちだろうがなんであろうが、この地においては、人を殺めれば罰せられるのだ。周憲明を止めねばならぬ。文偉だけでは、荷が重かろうというのだよ」
「そうかといって、おまえでも負いきれまい。常ならば、そのように軽々しく動かぬものを。冷静になれ。ともかく、一旦引くのだ」
近しいということは、厄介だ。
一言も本音を漏らしていないはずなのに、ただその挙動を見ていただけで、心が、周憲明を救おうということではなく、刺客のほうにより寄せられていることを探り当てたのだろうか。
だから、動機がおかしいなどと口にしたのか。
趙雲の眼差しは、厳しく鋭い。孔明がなにを言おうと、ここからは動かないと、その表情は伝えていた。
怒りすら覚えているようである。
趙雲は、ちらりと文偉のほうに目線を走らせ、それから、また孔明のほうを見る。
その仕草で、勘の良い文偉は気づいたか、周を追います、と言って、二人から離れた。
雑多な市のなかで、人の流れから外れて、物陰に隠れるようにして対峙するふたりを、見咎めるものはだれもいない。
隙間もないほどの人ごみのなかに、ぽつんと外れてみれば、かえって、自分たちが、この平和な日常のなかにある人々から、離れたところにいるのだという違和感が際立つ。
「あの男の話が、聞きたいと言ったな」
趙雲のほうが先に口を開いた。
孔明が、趙雲から目線を外さずに、ちいさくうなずくと、言葉がつづく。
「おまえの言う、あの男とは、周憲明のことではあるまい」
孔明が返事をためらうと、図星だったと判断したのか、趙雲は小さくため息をついた。そのため息が、孔明の苛立ちを強める。
「刺客を生業にする男から、なにを聞きたいというのだ。そもそも、張飛の宴のことがあって、気持ちが乱れているのだ。己が、おかしなことを考えているのだという自覚を持て」
「張飛の宴でのことは、影響しておらぬ」
つい、きつい口調になった。趙雲がすぐになにか言ってくるかと構えたものの、なにもなかったので、孔明は、ひと呼吸おくと、つづけた。
「正直にいえば、あなたの言うとおりだ。周憲明よりも、刺客だという男のほうに興味がある」
「なにを聞くつもりだ」
「わたしの心なぞ、説明したところでわかるまい」
孔明は突き放し、顔を、人ごみのほうに戻す。
道が狭いということもあり、往来は団子状態で、流れはゆるやかだ。
件の、敵討ちを狙っている男は、さまざまな頭の向こうで、慎重に仇のあとを追っている。
そのうしろを、懸命に文偉が、見つからないように追いかけているのが見えた。
もしも、叔父を殺めた男が死んでいなかったなら、やはり仇討ちを考えたであろうと、孔明は考える。
仇討ちをするために、身体を鍛え、いまとはちがう方法で、人を殺める手段をあれこれ模索したことだろう。
想像するに、不健康きわまりないが、そういう人生を送っている者が、現実に、いま、目の前で仇討ちをせんとしているわけである。
自分と同じ。
「刺客を生業にしている者より、話を聞きたいというのであれば、俺に聞けばよかろう」
趙雲の言葉に、孔明は、ふたたび顔を戻した。
「武将と刺客はちがうだろう。武将というものは、義によって剣をとり、兵馬を率いる者。刺客は、金によって剣をとり、不意をついて命を奪う者だ」
「それはわかっている。聞け」
俺は、と、趙雲が、言葉を続けようとしたときである。
人ごみの前方より、耳をつんざくような悲鳴が聞こえた。
見れば、例の周憲明の姿が、水に溺れたように見えなくなり、狭い道の途中で人だかりができている。
さらに、文偉の必死の呼び声が聞こえてきた。
孔明と趙雲は、苦労して人ごみを掻き分け、人だかりの真ん中に向かった。
往来の真ん中では、周憲明が、二の腕を切りつけられ、血を流し、痛みに呻いているのであった。
ぽたぽたと、水よりも粘り気のある血が、石畳に落ちて、土に吸い込まれていくのが見える。
間近で見る周憲明という青年は、背のひょろりと高い、青白い不健康そうな頬をした、思いつめた目をした青年であった。
しかし、顔つきに鋭さはなく、どこか茫洋とした雰囲気があり、つかみ所がない。
もっと悪く言ってしまえば、仇討ちを誓っている者とは思えないほど、まとう空気は平凡で、印象に残らぬものであった。
孔明は、周憲明を間近で見たとき、なぜだか、詐欺にひっかかったような、失望にも似た違和感をおぼえた。
なぜかは、よくわからない。
追っていた仇はといえば、ちょうど人ごみに紛れるようにして、走り去っていくところである。
趙雲は舌打ちをすると、孔明に言った。
「ここからは、おまえは危ない。文偉と、警吏が来るのを待て」
わかった、と孔明が頷くと、趙雲は仇を追って、走り出した。
ほどなく、警吏がやってきて、斬りつけられた傷の痛みにうめく周憲明を、戸板に乗せて、運んで行った。
文偉は、それに付き添って、一緒に屯所にまで向かった。
孔明は、まだ不穏なざわめきの残る市の、周の残して言った血の染みを見下ろした。
血の臭いがする。吐き気がする。
やってきた警吏は、孔明の顔を知らないようであったし、孔明も名乗らなかったので、屯所に一緒に来るようにとは言われなかった。
いっそう顔色の悪くなった孔明を気遣ってか、名乗らない孔明に文偉も同調してくれたので、孔明はそのまま、市場に残った。
趙雲が、なにかを言いかけていたことが、気になっていた。
考えがまとまらない。いらいらする。血の臭いが鼻について離れない。耳鳴りがひどくする。
まだ残っていた警吏に、名乗らぬまま、下手人を追っている男がいるので、すぐに追いかけるようにと命令し、孔明は、人ごみから脱け出し、広い場所を求めて移動した。
待てと警吏に声を掛けられたが、無視をした。
人に不意に触れられるのが恐ろしい。長時間にわたり、人に触れ合うことができない。
だから、人の体の温かさもよくわからないし、過度の情熱を持ってだれかに接することがないようにと、自分の感情を抑えてきた。
生き物として、この在り様は不自然だ。
あけすけな話をしてしまえば、妻を妻として遇することができなかったのも、これが原因であるし、叔父が守ってくれた命が、この先、子孫につづかない、ということである。不忠もいいところではないか。
妻とは離婚はしていないわけだけれど、これから先、子供を為すような関係になるとは思えない。とすると、妾を貰うことになるだろうが、子供を残すためという理由で、妾を貰うなどと、なんとも事務的で、ぞっとする話である。
いいや、その前に触れることができるかどうか。
もし努力に努力をかさねて克服し、妾を貰ったとしても、ある程度の情は湧くであろうし、子が生まれたなら可愛がるだろうが、それは義務感に立ったものであろうということは、自分の性格からして、容易に想像がついた。
張飛の一家の姿を思い出してみる。
よき妻、よき子供たち。張飛は幸福そうに見えた。
なんやかやと毀誉褒貶のはげしい男であるが、人としての義務はしっかり果たしている。
一方の自分は、なんともいびつではないか。
清廉潔白とは、たいした誉め言葉である。その裏側に、こんな惨めな恐怖が潜んでいるのだと、だれが想像しようか。
孔明は、河岸にたどり着いていた。
水面を走り抜ける風に、ようやく生きた心地をおぼえる。深く呼吸をして、強ばっていた体から、力を抜かせた。
そうして、ゆっくりと歩を進め、川面した船着場の、船頭たちの小屋のそばにある石段に腰をかけた。
ちょうどそこは、船頭たちが火を起こして休む場でもあるらしく、焚き火の痕が残っている。
孔明は、小屋の周囲で作業をしていた人夫のひとりを呼び止めて、火を起こしてもらった。
炎のゆらめきを見ていると、なぜか落ち着く。
寒くはなかったが、火に手をかざし、その熱をたしかめた。
そろそろ日も暮れてくる。
子龍のことであるから、きっと首尾よく仇の男を捕まえて、いまごろ警吏に引き出しているころだろうと、孔明は待っていた。
ここにいることは、趙雲も文偉も知らないので、ちょうど探している頃なのかもしれない。
こちらも迎えに行こうかと腰を浮かせたとたん、石段を降りて、こちらに向かってくるものがある。
無精ひげの、薄汚れた衣の男。
驚いたことに、それは、まさに周憲明が狙っていた仇であった。
なんと趙雲の追跡から、まんまと逃げおおせたらしい。
驚いた孔明をどう見たか、男は、さきほど人を斬ったとは思えぬ穏やかさで、口を開いた。
「船が来るまで、しばらく時間があるということだ。ここで、一緒に休ませてもらってよいか」
「かまわぬ。もとよりわたしの場所でもないからな」
己でも不気味なほど、平常どおりの声色で、言葉が出ていた。震えもせず、昂ぶりもせず。
男は、まったく不信感を抱かず、孔明の真向かいに腰をかけた。
男の衣についている黒い染みは、血だろうか。
孔明は構えたが、しかし血の臭いは、男からは感じられなかった。
男は、孔明の返事に、しごく穏やかに言葉をつづける。
「そうか、助かる。ここは人目にもつかぬ。私事であるが、どうも厄介な連中に追われているのでな」
そういいながら、男は薄く笑った。
その笑みは、追跡を受けるのが、日常茶飯事であるかのような、軽さを含んでいた。
「厄介な連中とは、聞き捨てがなりませぬな。どうなされました」
しらばくれて孔明が尋ねると、男は、薄い笑みを浮かべたまま、静かに、ちいさく首を振っただけであった。
思いもかけず、刺客の表情は穏やかであった。
「ときに、貴殿は、舟を待っておられるか」
見た目のみすぼらしさとは裏腹に、男は丁寧な口調で話しかけてくる。ただの賊あがりではなさそうな。
無精ひげに覆われた表情を、孔明は伺うが、男は己の感情を隠すことに長けているらしく、そこからは、なにも読み取ることはできなかった。
「舟ではなく、人を待っている」
「左様か。贅沢なことだ」
「おかしなことをおっしゃる。待つことが贅沢と? 待たせるほうが贅沢だと思うが」
孔明が言うと、男は、またも静かな、諦観しきったような顔つきで言った。
「すまぬ、奇妙なことを口にしたな。待つにしろ待たされるにしろ、相手がいてこその話であろう。定まった土地に住み、定まった職を持ち、友や家族を持つものは、俺の目には贅沢に見える」
だれかに似ているなと、不意に思った。
だれに似ているのかと考え始めたところで、強烈な嫌悪感が胸の底からこみ上げてきて、孔明はあわてて己の思考を遮断した。
そして、気持ちを落ち着けながら、あらためて男の言葉を吟味した。
「定まった基盤を持つ者が羨ましいとお思いか。みたところ、流浪されておられるようだが」
「羨ましいとはちと違う。俺はこうとしか、生きることができない宿命なのであろう。定まった土地に住もうと努力したこともあったが、季節が動くたびに、違う土地に行きたいという気持ちが逸ってならず、結局、一年と留まることができなかった」
「己が運命を見定めておられるのに、迷っておられるのなら、そのほうが贅沢というものでしょう。世には、己の運命を見極めることのできないまま、迷いつづけて生きるものが大半だというのに」
「たしかにおっしゃるとおり、おれは贅沢かもしれぬ。しかし、流浪する者と、定住する者、これはどうしても相容れぬもの。とはいえ、互いに互いを見たときに、羨ましいと思ってしまうのは仕方ない。
すまぬな、さきほど、人を斬ってきたばかりで、心が揺らいでいるのだろう」
さきほど、買い物をしてきたばかりだと言わんばかりの、平易な口調で、男はあっさりと、人を斬ったことを認めた。
さすがに孔明が言葉を続けられないでいると、男は、まるで独り言のようにことばを続ける。
「俺には、もともと剣の腕しか頼みにするところがない。この腕が鈍ってしまったら、牙をもがれた野犬と同じで、たちまち野垂れ死にしてしまうにちがいない。
もっと若い頃は、迷いも不安もなかったというのに、身体にガタがあらわれてくると、どうしても、俺はこれで良かったのかと、疑問に思ってしまうのだ」
男の、苛立ちをおぼえるほどに、淀みない、高潔な儒者のような告白を聞きながら、孔明は、その内心を必死になって探った。
この男は、とんでもない愚か者か、そうでなければ、狂っているのではないか。
なぜに、人の生死にかかわる言葉を、こんなに淡々とつむぐことができるのだろう。
「俺も弱くなったものだ。さっきの斬った男だが、あいつの師匠を斬ってから、調子がよくない」
「貴殿、そのように、わたしに喋ってもよいのか」
すると、それまで静かであった男の表情が、急に野生の獣じみた酷薄なものに転じた。
その変わりように、孔明はぞっと背筋を震わせる。
狂っているにはちがいなかろう。
なにが狂っているかといえば、この男の倫理観である。
この男は、孔明が立ち上がり、船頭や人夫たちに助けを求める素振りを、すこしでも見せたなら、斬り殺してしまおうと考えているのだ。
「興味がなければ、聞き流せばよい。話しをしたい気分なのだ。これは、流浪人の独り言にすぎぬ。俺が、あの周とかいう若造と係わり合いになったきっかけは、くだらぬ土地の争いでな、よくある話であった。
二人の男が、土地の利権をめぐって争いをはじめた。俺の依頼主は根性の曲がった男で、片方が嫌がらせのために、相手の土地の井戸を潰した。
これに激怒した相手が、郎党を引き連れて、敵の館に火を放った。そのときに、家族はもろとも焼け死んでしまったのだという。そこで引っ込めばよいものを、俺の依頼者は、すでに心が狂っておった。
この恨みを晴らすまでは、死んでも死に切れぬ。とはいえ、自分では腕に覚えがない。だから代わりに仇を討ってくれ、頼むと言ってきた」
「受けたのか」
「報酬は悪くなかったからな。仕事は単調であったよ。相手は、ほとんど寝たきりの爺さんだった。なにせ、争いがあったというのは、何十年も前の話なのだからな」
「何十年も?」
孔明が驚くと、刺客は、己の話が孔明にもたらした効果に喜んで、にやりと笑った。
「そうさ。亡霊の妄執だ。赤子が生まれ出て、大人になるだけの長い長いあいだ、何十年と、ずっと機会を待っていて、相手が弱ったところで、殺すつもりであったのだ。
ところが、自分も体が弱ってしまって、もう動けない。だから、俺を雇いたいのだという。
俺が仕事をし終えたときに、爺さんは嬉し泣きに泣いておった。これでもう、思い残すことはなにもない、とな。
だが、問題はそこからだ。殺した相手の弟子とかいう男が、何十年も前の遺恨を理由に人を殺めるとは許せぬといって、俺を追いかけてきた。それが三年前だ。そうして、三年間、俺はひたすら逃げ続けている」
「三年も?」
周憲明の、仇討ちを切望しているとはとうてい思えぬ、茫洋とした雰囲気を思い出す。そこに、三年もの歳月に含まれた恩讐が、うまく重ならない。
いや、三年と一口に言っても、その長い時間をひたすら、仇を追い求めて暮らすのである。想像もつかない不安定な日々であっただろう。
溜まりに溜まった疲労が、周から、生気を奪い取ってしまっていたのだろうか。
………そうであろうか。
猛禽を見るがいい。獲物を前にした生き物の獰猛さ、鋭さを、あの周は持っていなかった。
調子が狂うのは、この男のほうからも、厄介だと口にしながら、追われる者としての切迫感が感じられないことである。
ついいましがた、人を傷つけてきたばかりの者であるのに、投げやりといってもよいほどに、緊張感がないのはどうしたことか。
と、孔明は、この男に対して、甘い評価を下しかけていることに気づき、己をいましめた。
定住し、日々を重ねて生きる者は、大地と向き合って戦いながら、ようやく糧を得て暮らしている。そのなかで、家庭をつくり、命をはぐくんでいるのだ。
ところが、この流浪者は、あるときふらりと現われては、卑怯者に金で雇われて、人の命をもぎ取っていくのである。
すくなくとも、いま目の前にいる刺客は、人が鍬を手にして大地を耕すのと同じ感覚で、人を殺めている。
大地に鍬を突き立てることに、人がなんの感情も覚えないのとおなじように、この男も、人を殺すことに、なんのためらいもないのだ。
そして、仕事が終わってしまえば、なにも覚えていないにちがいない。
だれかに似ていると思ったが、ちがう。これは、ちがう。
思い浮かんだその者の姿を脳裏に浮かべれば、別な方面から怒りが沸いてきた。
俺はこれしか出来ないなど、たいした言い訳ではないか。
この男は、そうやって、自分にも周囲にも言い訳をして、ずっと生きてきた。
いまになって、これでよいのかと問うてくる。
過去への懺悔もなにもないままに。
「正当な裁きを受けよ」
怒りを殺した声で言えば、男は、是非もない、と、薄く笑った。
「裁きを受けて、斬首を待てというのか。俺が殺した数は、一人や二人ではない。叩けばいくらでも埃が出る身だ。下手をすれば、俺の以前の依頼者に消されることだって考えられる」
「人の命を奪っておきながら、己は死にたくない、だから逃げるというのか」
「逃げなければ殺されるのだから、仕方あるまい」
ならば、追ってくる者を殺す。逃げ切るには、それしかない。
男は、それをしようとして、失敗した。
………おかしいだろう。
孔明はそこで、男と、男を狙う周との間にある、捻じ曲がった感情を、一瞬だけ垣間見ることが、出来たような気がした。
この男ならば、さきほどの市で、周を殺せたのではないか。
いや、周は見たところ、さほど武芸の腕も達者なふうではなかった。
刺客を生業にする者が、追われる一方でありつづけ、三年もの間、追われるだけであったというのも、おかしな話である。
「生きて、どうする。追われ続けるのか」
孔明の疑問を含んだ問いに、男は、最初に見せた、薄笑いを浮かべ、やるせなさそうに首を横に振った。
なにを否定したものか、孔明にはわからない。
そして、ふと、上目遣いに、孔明を見る。
「正義感であいつを助けるつもりでもなかったのなら、なぜに俺を追いかけてきた?」
やはり気づかれていた。
とたん、全身を強ばらせ、孔明は、目だけを動かして、周囲を探った。
船頭も人夫も、船着場での荷物の上げ下ろしに集中しており、だれもこちらを見ていない。
「あいつの親戚か、それとも兄弟弟子か、なにかか」
嘘をつくのは下策だ。この男は、流浪人として、ひとりで生きてきた。だからこそ、人を読む技術が長けている。
「いいや、周憲明とも、斬られた男とも、面識はない」
「ならば、なぜだ」
なぜかと問われて、一言で答えるのは難しかっただろう。
天下の論客と誉めそやされた身が、刺客の問いに、答えを見つけることができず、沈黙した。
そんな孔明をどう思ったか、男は、笑みを引っ込めると、懐に手を差し入れた。