説教将軍シリーズ(?)
うつせみ
2
※このお話は、『説教将軍シリーズ(?)うつせみ1』の続編であります。時代考証は常に地球の裏側に飛ばされていた状態であったこのシリーズ、ここより時代考証云々を突き抜けた、不思議空間に突入いたします。
彼らを見たとき、ああ、なんだか面倒なことになりそうだな、と思ったのだ。
こういったときの嫌な予感は当たる。
司馬水鏡先生の知り合いだ、というその男たちは、遠路はるばる中原から(詳しい地名はもう忘れた。顔だって覚えていないのだから、仕方あるまい)、荊州の学問というものが、どれほどのものなのかを確かめにきたという。
大きなお世話である。
彼らは、最初は普通に、もてなされる客として振る舞っていた。
うやうやしく遇されることに気をよくしたのか、先生の代わりになって、ありがたい最新の学問についての講義をしてくれるというので、わたしたちは、先生に一堂に集められたのだ。
思うに、自分たちは、『進んだ』中原からやってきた偉い学者さまなのだから、それなりの矜持を示さねばと気負っていたと思うよ。
ところが、連中のひとりが、先生の門弟たちのなかに、毛色の変わったのが混ざっているのを見つけたのがいけない。
とたん、がらりと彼らは態度を変えたのだ。
「そいつを知っているぞ」
と、男のひとりが指したのは、徐庶であった。
「俺は穎川(えいせん)の出だ。その男のことならば、よく知っている。なぜこいつがそんなよい身なりをして、俺の前に座っているのは解せぬ。おまえはこの家の奴婢なのか」
司馬水鏡先生というのは、なにをそんなに苦労されたのだか、年のわりにとても老けてらっしゃるが、だからといって、経験豊富な大人というわけではなかった。
お会いしたことはないかい? そうかい、残念だな。もしお会いしていたなら、きっとわたしの説明でぴんときたろうに。
ともかく、先生はこういう不穏な空気には、弱い方なのだ。
だれのどんな争いにも泰然としているというので、まるで仙人のようだとか、さすがあまたの門弟を引き受けてらっしゃるだけに、器量が大きい、などと評されているが、そうではない。
先生の場合は、おかしいときに浮かべる表情と、ひきつったときに浮かべる表情が一緒なだけである。
どんな顔かって? そうさな、叔至は、ウソをついているときの顔と、喜んでいるときの顔が似ているだろう。あんなふうだ。いや、もっとわけがわからなくなったな。
先生は気が弱い。だから、だれのどんな喧嘩にも、口を出さずに、ただ見ているだけ。
このときもそうで、男の口調の中に、あきらかな敵意があるのを見つけ、すばやく空気に溶け込まれてしまわれた。
つまりは、有象無象のひとりに紛れてしまったというわけさ。
なに、わたしのような教え子ばかりであったから、師が大人しくせざるをえなかったのだろうって?
いまの不穏当な発言は、あえて流すとして、どう思う?
先生の言われるところの『中立』。ある意味、見事な身の処し方といえるが、消極的にすぎやしないか。仮にも、我らは論客の卵であったのだから、その師としては、いまひとつ冴えないと思わないか。
老子の教えを身を以て体現されていると、評することもできなくないが、わたしから言わせれば、先生が、だまらっしゃいと一言おっしゃれば収まった話であるから、あえて否定的に語らせてもらう。
話を戻そう。
先生が、すっかり石に変じてしまわれたので、わたしが変わりに口を開いた。
「徐元直は奴婢などではない。われらの学友である。客人とはいえ、いきなり無礼であろう」
なに? おまえも、それは年上に対する態度ではない、だと?
では、あなたであれば、どうした。
似たようなことを口にしたと思うぞ。
ともかくだ、わたしの言葉に、男は顔を柿のように赤くして、いきなり立ち上がるや、怒鳴ったのだ。
「貴様、年長者に対し、その無礼な態度はなにごとぞ、名乗れ!」
予想できたであろう。この手合いが口にする台詞は、いつもだいたい、こんなものだ。
わたしは徐庶をいきなり奴婢だと決め付けられたことで、すっかり頭に血がのぼって、この男をとっちめるつもりでいたから、売り言葉に買い言葉、堂々と立ち上がって、名乗ってやった。
「わたしの名は諸葛孔明。徐州の琅邪の出自である。貴兄がいかなる貴門のご出自かは、あいにくと存ぜぬ。
招かれた身でありながら、満座の前で、堂々とよその門弟を奴婢呼ばわりして、卑しめるなどという、ご立派な礼儀を躾けられたようであるから、おそらく、たいした家門ではあるまい」
とたん、その場がしん、と静まり返った。
その静けさときたら、夜の墓場だってこれほど静かではあるまい、という具合だ。
あーあ、って、たしかにわたしもあーあ、と思ったとも。だが、あとには引けぬ。
男は怒りにぶるぶると震えて、わたしに怒鳴った。
「諸葛孔明と言ったな、前に出て来い!」
殴られるな、とわかったがね、前に出なければ出ないで、口ばかりの臆病者と嘲られるだろうことは予想がついたから、言うことに従ったさ。
若気の至りというのかね。それとも、蛮勇とは、こういうことを言うのかな。
ともかく、わたしは、うなだれ気味の学友たちの間を縫って、男の前に出ようとした。
が、足が進まなかった。
足が竦んだのではない。
肩を強くつかまれて、先に進めなかったのだ。
振り返れば、徐庶であった。
徐庶は、わたしが言葉を失くしているのを見て、頷いて、それから無理に座らせると、その場の全員の視線を集めつつ、明るく笑いながら、こう言ったのだ。
「たしかにご指摘のとおり、わたくしは故郷では、札付きのお尋ね者として名を知らしめた男でございます。わたくしの存在が、貴方様にご不快を与えたのであれば、謝罪いたしましょう。せっかくの貴方様のご講義を、学友たちが聞き漏らしてしまうのは、あまりに申し訳ない。
わたくしが目ざわりとおっしゃるのであれば、すみやかにこの場より立ち去らせていただきます。わたくしのことは、どうぞお忘れくださいますように」
そういって、相手が呼び止める隙も与えず、綺麗に礼を取ると(覚えていると思うが、徐庶は実に挙搓に無駄がなく、見ていて惚れ惚れとするほどであった)呆気にとられるわたしたちをあとに、学舎から出て行った。
本来なら、わたしもすぐそのあとを追うところなのだがね、なにせ、不意に徐庶に肩をつかまれたことでびっくりしてしまって、体が強ばってしまって、すぐに平常心に立ち戻ることができなかったのだ。
座ったのだって、隣にいた崔州平に袖を引っ張ってもらって、なんとか、というふうであったのだからね。
徐庶は、わたしが人に触れられると、固まってしまうことは知っていたから、その場を納め、わたしをなだめるために、わざとああしたのだと思う。
徐庶と、崔州平も知っていたな。あの二人以外は、知らないと思う。
ああ、思い出したのだけれど、二人とも、あなたと同じことを言っていたよ。弱点を、あまり人に知られないようにしろ、とね。
徐庶に戻るが、彼が立ち去ったとき、ほかの連中こそ、友だと思うのなら、席を立つべきだったとわたしは思っているのだが、あとで聞いた、みなの言い訳がひどい。
石広元と孟公然は、
「孔明が立たなかったから、それでよいかと」
と人に責任を押し付けるし、崔州平は、
「元直はすごい、孔明の短慮を見事におさめた」
とか嫌味を言うし。
ともかく、わたしの所為で、徐庶に卑屈な態度をとらせてしまったのだから、ちゃんとあとで謝りに言った。
すると徐庶は、意外にもからからと笑って、言うのだ。
「別に、ああいう差別を受けるのは、いまにはじまったことではなかろう。言われた言葉とて、これまで投げられた言葉のなかでは、平凡きわまりないものであったぞ」
さらりとそんなことを言う。
「あいつが向こうを知っているなら、俺もあいつを知っているのだ。穎川では、青白い顔をして、いまにも倒れそうな貧乏学士であったのだが、出世をしたらしいな。てかてかと脂ぎっていたではないか。あれは禿げるのも早かろう。
昔の話になるが、やつは、一度、妓女を買おうとして、手ひどくふられてな、そうしたら、やっこさん、頭にきて、その妓女を殴ろうとしたのだ。当然のことながら、女衒があらわれる。想像つくかと思うが、ぼこぼこにされていたよ」
「見ていたの?」
「ぜんぶ見ていたとも。なじみの妓楼の部屋の窓から……と、そんな目をする。おまえは、本当にカタブツというか、潔癖症だな。
けれど、縁も所縁もない男を助けてやったのだから、すこしは誉めてくれ。
まあ、そういうわけだから、ヤツが俺の顔を見つけて、あれほど声を荒げたのは、助けてもらった恩よりも、つまらん過去を知っているごろつきが、なぜだか殊勝な顔をして、目の前にいる事実に、混乱しちまったからにちがいない。そう考えれば、ちと気の毒なことをしたな」
「気の毒なものか。なぜ、そんなヤツに同情する必要がある。恩を忘れて仇で返すなんて、道義に反しているよ。散儒というのは、ああいうのを言うのだ」
「きつい言葉で人を貶めたつもりでいると、貶めたのは自分の品性だった、ということはままあるぞ。注意するがいい」
笑顔でさらりと言う。徐庶は、万事、その調子なのだ。
「すまない。気をつける」
「おまえは素直なのだがな、素直すぎて、危なっかしい。ところで、あいつの講義は、どうであった」
「つまらなかった」
「頭に血が上って、内容を聞き取れなかったのではないか」
「ちがう。本当につまらなかったと思う。でも、記憶力はいいみたいだ。このあいだ、親戚がまとめて送ってくれた本のなかに、あいつが話したのと、まったくおなじ文句がごっそりあったから」
徐庶はそれを聞くと、痛快そうにまた笑って、
「それじゃあ、俺はその本をおまえから貸してもらおう。ときに孔明、俺こそすまなかったな」
と、不意に真面目な顔になって言った。
「なにが」
徐庶があまりに率直であったから、気恥ずかしくなって、わたしがつっけんどんに返すと、徐庶は、すこしだけ表情を和らげて、それでもしっかり頭を下げた。
「おまえが、急に人に触れられると、口も利けなくなるということを知っていて、わざとああした。許してくれ」
「許すも何も、州平の言うとおり、わたしが短慮だったのだ。徐兄が止めてくれなかったら、たぶん、いまごろあいつとわたしは、顔を腫らして寝込んでいたよ」
わたしが言うと、徐庶は、なぜだかすこし悲しそうな顔をして、本当にすまないな、と繰り返した。
徐庶は、たまに、わたしに負い目があるような、不自然な言動をするのだ。
わけもわからず謝罪されるのもおかしな話だから、理由を話してくれと尋ねたのだけれど、結局、最後まで教えてはもらえなかった。
「で、その男たちはどうなったのだ」
「帰ったよ。徐庶と同郷の男は、病になってね、予定を切り上げて、早々に帰って行った」
「ふうん」
趙雲と孔明は、いつも足を運ぶ街とはちがって、ひときわ雑多で、狭い路地にやってきていた。
ゆるい坂道になっている路地では市が立っており、狭い道に、多くの人がごった返している。
最初、ここに案内された時、孔明は顔を強ばらせたが、趙雲の、
「ここならば、どうしても人と肩が触れ合う。避けようとすると、先に進めなくなる。最初は回りに注意しながら歩け。徐々に、人に不意に触れられることに慣らしていけばよいだろう。動けなくなったら、引っ張ってやるから、安心しろ」
との提案をうけた。
さすが武人の発想らしく、荒療治に思えなくもなかったが、心配してくれてのことらしい。
心を汲んで、孔明は、おとなしく従うことにしたが、しかし、普通に人の中にいると、緊張が先に立ってしまう。
そこで、昔話をして、気を紛らせることにしたのだ。
「おまえ、なにかしただろう」
「なにかしたか、とは、含みのある言葉だな。わたしはそれほど腹黒か?」
「いいや、腹黒とは思わぬが、しかし、そこで講師を、黙って名残惜しく見送るような性質でもあるまい」
「確かにそうだが、わたしのしたことなんぞ、大したことではないぞ。徐庶の剣を借りてだな、衣裳もそっくりなものを用意して、例の男の宿の前で、笠を目深にかぶって立っていただけだ」
「講師の病気の原因は、それだ」
「なぜだ。心に疚しさがなければ、誰が宿の前に立っていようと、関係ないではないか。わたしはあくまで、立っていただけだからな」
「ひたすら立っていた、おまえの根気に呆れる」
「どうにも治まらなかったのだよ。今思うと、子供じみた行動だったとは思うが、後悔はしておらぬ」
「徐元直殿とは、あまり親しくなる機会がなかったが、おまえの話と、俺の記憶とでは差があるな。おまえは、兄弟子になついていたのだな」」
「わたしが人にもつ恐怖心をやわらげてくれたのは、徐兄だからな。同じ主君に仕えることができたら、どれだけよかっただろうと残念に思う。
いまでも手紙のやりとりをするが、徐兄の魏での地位を知っているか。下士と変わらぬ扱いだという。徐兄とともに曹操のもとに降った石広元のほうが、位が上だというのだ」
そのことに及ぶと、苛立ちが昂じたのか、孔明の足は早くなり、人ごみを、まるで弾き飛ばすような勢いになった。
元気ではないかと呆れた声でつぶやいて、趙雲は、いささか迷惑顔をして、身なりのよい士大夫を見やる人々から、孔明を庇うようにして隣にならび、尋ねる。
「徐元直殿の扱いが悪いのは、原因は、わが主公にお仕えしていたからか」
その言葉に、孔明は、顔の険をとき、趙雲をちらりと見た。
「今日はずいぶん気を遣ってくれるのだな、うれしいけれど。徐兄が不遇をかこっているのは、わたしのせいだよ。わかっているだろう」
「曹操という男、老害が出ているのか、ずいぶん粘着質だな」
静かな口調でありながら毒を吐く趙雲のことばに、孔明が面白がって笑うと、趙雲も、笑みを見て安心したのか、すこしだけ笑った。
「赤壁のこともあるし、それに、わたしといまだに手紙のやりとりを止めないのが原因だろう。わたしの手紙は、ときに横から奪われて、検閲にかけられているときもあるようだ。
だから、互いにしかわからないような文言を含めて書いているのだが、それが曹操の気に入らないらしい。
以前に、しばらく手紙のやりとりは止めるべきではないかと書いたのだが、徐兄は、気にせずよこせ、俺を、退屈なあまり、悶死させるつもりかと書いて寄越してきた」
「おまえは、どんな手紙を送っているんだ?」
「蜀の内情なんてものは書けないし、いまさら天下の趨勢を語っても仕方ないだろう。敵味方に分かれているから、かえって互いの国情はよく見えている。
だから、かつての新野の面々の出来事かな。張飛の家に、また子供が生まれたとか、関羽の馬を殖やそうと、主公が自分の馬とのお見合いを申し込んだら、手ひどく断られたとか」
「俺のことは?」
「糜家の孫が結婚したとか、孫乾殿が、ぎっくり腰を鍼で治そうとしているとか」
「俺のことは、おまえ、なにかろくでもないことを書いているだろう?」
「何を言う、いちばん贔屓にして書いているのに、ひどい疑いようだな」
「曹操を怒らせる手紙だぞ。疑うのも当たり前だ」
「曹操が何に対して怒ったのかは知らぬよ。気難しい男だから、わたしたちが想像するのとは、まったく違うところで、腹を立てたのかも知れないしね。ともかく、徐兄は、曹操が死ぬまで駄目だ。魏では芽が出ない」
「うまく話を逸らしたな。戻って来い」
「いやだ。戻ったら、しまいには、きっと怒るだろう」
「ほら、やはりろくでもないことを書いているのだ」
「ちがうというのに。徐兄のほうに戻ろう」
「徐元直殿か。張飛は、元直殿は、主公に忠節を尽くして、魏では働かないと決めた男だ、と褒めちぎっていたが」
直情径行で情にあつい、張飛らしい発想である。孔明は声を立てて笑った。
「それはちがうよ。徐兄は、そんなふうに力を封じ込める人ではない。すくなくとも、官位を拝領しているのだ。
官僚とは、民のために働く者だろう。官僚が働かなかったら、困るのは上役でも同僚でもなく、民だ。徐兄は民を見捨てる真似はせぬ」
「母の仇である男の元にあっても、民のために力を揮うと。そういうものかな」
「そういものもなのでございますね。なるほど、さすが軍師が兄事されるお方。奥が深い方ですな」
「そうそう、彼のお陰で、わたしの人に対する考えはずいぶん広がったのだ、って、いつから一緒に横に並んでいた、文偉」
問われて、いつのまにやら孔明の斜めうしろに、ちょこりと加わっていた文偉は、はもはもと、屋台で買った家鴨の足の照り焼きを、噛みくだしながら答えた。
「盗み聞きするつもりはなかったのですが、お二人の話が、あまりに弾んでらっしゃるので、声をかけそびれました。軍師が、宿屋の門に立っていたあたりから聞いておりましたが、いやはや、軍師が友情に厚いお方であったとは、費文偉、感動いたしました」
うんうん、と一人合点する文偉に、孔明はさすがに気分を悪くした。
常に人に囲まれ、公的にも私的にも、その発言は人の耳をあつめる。
だから、言動には注意を払っているのだが、趙雲と二人でいるときは、もっとも気心が知れている相手だというのもあり、偽らざる本心をあけすけに口にしている。
それを横から聞かれていたというのでは、気も悪くなろうというものである。
趙雲も迷惑そうな顔を隠さないでいたので、文偉は、さすがに決まり悪くなったのか、言った。
「ご無礼をばつかまつりました。わたしはこれにて」
「待て待て、追い立てるつもりもない。文偉、おまえは仕事中のはずであろう。相方がいないからといって、遊んでいてはいかんな」
孔明が言うと、文偉は、身を乗り出した。
「それなのでございますよ。実は、人の命にかかわる事情がございまして。まあ、話をする前に、家鴨の足の照り焼きを召し上がれ。ここの屋台は皮がおいしい。ぱりぱりしておりますぞ」
文偉は、屈託のないところをみせて、手にしていた家鴨の足を、ふたりに一本づつ分けた。
文偉の言う屋台を、孔明が振り返ると、跳ねたタレで袖を黒く汚している、髯面の職人が、せっせと家鴨の足を焼いている。
客足も絶えないようであるが、孔明が眉をひそめたことには、家鴨肉に、ぶんぶんと蠅がたかっていたことである。
衛生面におおいに不安あり。
加えて、宴で子供を打ちかけた自分に気分が悪くなり、すこし吐いていた。食欲がない。
てかてかと黒光りする家鴨の足を前にして、孔明がためらっていると、すでに一本目を、あっというまにたいらげていた趙雲が、いらないのならよこせ、といって、孔明の分を取って行った。
「酒が隠し味になっているのか、美味いな。ところで、仕事はどうした」
趙雲が尋ねると、文偉は、ふたたび人ごみのなかを、きょろきょろしながら、並んで歩く。
「わたくしとて、仕事を好きでサボっているのではないのですよ。休昭がいないからつまらないとか、そういった理由でもありませぬ。実はほれ、前に歩く、深緑色の衣に、臙脂色の帯をした男がおりますでしょう」
見れば、たしかに深緑と臙脂とで衣裳を揃えた、文偉よりすこし年上の男が歩いている。
「最近、われらの部署に配属されてまいりました、周憲明という物でございます」
「官僚なのか? なれば、なぜ幅巾なんぞ被っておる」
幅巾は、隠者のかぶる帽子である。
「休昭がいたならば、あの男も、こんな妙な真似をすることを、思いとどまったことでございましょうが、実は周憲明、師の仇を追っているのだとか」
「仇討ちとな?」
気づかれないように、孔明が、たまに横を向く周憲明の視線を追えば、それはたしかに市を覗いているもののそれではなく、人ごみの中に、何者かを追っている目線なのであった。
趙雲のほうをみれば、そこはさすが本職、周の目線ひとつで、だれを追っているのか、すぐに判ったらしい。
「周が追っているのは、無精髯の、いかにも流浪者といった風情のあの男か。なるほど、たしかに隙がなさそうだな。ただのやくざ者ではあるまい」
「ご明察でございます。周の師という老人が、土地をめぐる争いに巻き込まれ、命を落としたとかで、髯の男は、名うての刺客とか」
「刺客」
思わず、孔明は声に出してつぶやいていた。
思い出されるのは、樊城で刺客によって討たれた叔父の玄のことである。
だが、事情を知らない文偉は、孔明のつぶやきに、深くうなずいた。
「周は、仇である刺客を探して、成都まではるばるやってきたそうです。いま、われらが宮城に納められる商品の出入庫を管理しているのはご存知でございましょう?
仇というのは、商人の用心棒もする、いわば裏稼業の何でも屋だそうで、我らの部署は、商人とも直接やりとりをすることもございますから、男を捜すために、志願して配属してもらったのだとか」
「なるほど、周には、かなりの怨みがあるのだな」
趙雲は合点するが、孔明は、思わぬなりゆきに顔を曇らせる。
十六の歳に起こった悲劇の記憶の断片が、なんども目の前を現われては、消えた。
とたん、呼吸の仕方を忘れたように、息が苦しくなってきた。人いきれでくらくらする。
だれもいないところ、安全なところへ行きたい。
孔明は、自分を尊敬してくれている文偉に弱いところをみせたくなかったので、浅く呼吸をくりかえし、いつもの声色をけんめいに作って、たずねた。
「仇討ちか…して、文偉、おまえの役目はなんだ」
「思いますに、復讐は無益なことでございます。仇を討ったところで、報われるのは、周憲明の払った努力だけ。死者が生き返ることはございませぬ。それに、軍師が法科において、私的な報復は今後、これを許さぬと規定しておられましたな。
つまり、あの男は仇討ちを果たしたところで、罪人となってしまうのです。ですから、それを止めようと、こうしてあとをつけているのでございます」
と、文偉は、神妙な面持ちで言った。
「そうだな、自分でそう定めたのであった」
と、孔明は、自分に言い聞かせるようにしてつぶやいたが、乱れた心のなかでは、文偉のことばに反発していた。
復讐は無益なものだと、そんなことはわかっている。わかっているから、成都を制圧したさいに、旧怨を晴らすために虐殺をおこなった法正を牽制するため、復讐はならぬと法科に盛りこんだのだ。
「無理をするな」
文偉に聞こえないように、趙雲が声をかけてくれたが、その声すら、どこか遠いこだまのように、孔明は聞いた。
「子龍、あの男をこのまま尾行しよう」
「よせ。周憲明のことが気になるのであれば、もっと事情を調べてから動け」
「いいや」
孔明が、さきほどから目で追っているのは、周憲明という若者のほうではなかった。
「あの男の話が聞きたいのだ。すまないが、わがままを聞いてくれないか」
しかし、と趙雲は反駁しかけたが、孔明の、ただならぬ顔色に、口を閉ざして、その言に従った。
おまけ
とある山奥の村。
村中のひとびとの、『この二人はなんだべ』という怪訝そうな目線を一身にあつめる、若者が二人。
蒋公琰と、董休昭のふたりである。
山を三つも四つも踏破し、この山深い村にやってきたのだ。
これほど不便な場所に、最初に住み着こうと思った人間の、そもそもの発想がよくわからない。
空気は薄いし、交易もほとんどできないし、娯楽もなんにもない。
だいたい、村の風俗や人種からして、もう漢族とはかけ離れている。言葉だって、まるでちがう。漢語が通じる人間が、村の中に一人いれば、万々歳、という状態だ。
「あ、あそで日向ぼっこをしている、いかにも『生き字引』っぽい空気を醸し出している、ありえない皺を身体に刻んだ、いかにも賢者ふうのご老体に話を聞いてはどうか?」
と、大きな荷物を背負った休昭が足を伸ばそうとすると、公琰がそれを止めた。
「意味のないことに体力を使うな! この村ではもう情報は引き出した。宋珪麗どのの夫という男、ここからもっと奥の村にいるとわかったのだ」
「でも、なにかの間違いで、意外と近場にいるかもしれないし」
「たわけ、これはRPGではない! 村人から、片っ端から情報を集めないとフラグが立たない進行ではないのだ、目を覚ませ! まったくA型だろう、おまえ」
「なにソレ、RPGとか、フラグとか……あ、そうか、これ、元はおばか企画だった」
「軍師と趙将軍のあれやこれやで、なんだか忘れられがちではあったが、このシリーズは、おばか企画なのだよ。
というか、我らがウッカリしているあいだに、なぜだかこのHPはどうぶつと、仏蘭西の小娘に占拠されており、我らの出番はどこへやら! そのうえ、我らをすっ飛ばして、姜維が活躍しているのは、なぜですか! ここは声を大にして訴えたい!」
休昭は、めずらしく激昂している公琰を、どうどうと抑える。
「お静かに、公琰殿。山間の村に木霊がひびきまくって、かなりいい塩梅に、村人に騒音被害が広がっています!」
「なにを言うか、おまえももっと気張らねばならんぞ! なぜに我らに『ずんだGAME』での出番がないのか! 姜維ばっかり、なぜなに、どうして! 羅貫中の呪詛? そういうわけなの?」
「うわあ、公琰殿が壊れている! これって高山病の一種? 文偉にSOSだ! って、なんだ、この表示! 『今シリアスモード突入中。携帯は持っていないことになってます』って! おばか企画でシリアスするほうが、どうかしていると思う!」
「文偉め、ぬけがけか。わたしは、また本編から置き去りにされたというわけだな…」
「そういえば、公琰殿って、シリアスの登場が、「媚」と「風の終わる場所」の二本だけなんですよね。不遇だなあ」
「不遇も不遇。しかも、こんな辺鄙なところにまでやってきてもなお、主役になれぬ理不尽さ。ああ、ヨーヨー・マのチェロの響きが聞こえてくる。ここから先は、ぜひ松平定知アナの声で文章を読んでいただきたい」
「え、ここってシルク・ロードだったのか…」
「休昭、こうなれば、われら二人で盛り上がるしかあるまい。さあ、あの山を越えるぞ!」
「って、なんだかチョモランマ越え決定? ムリムリ、こんな軽装で、死にますよ」
「そこに山があるから登るのだ! いざ参らぬ!」
「やっぱり、まちがいなく高山病で幻に悩まされているよ、この人! 生きて成都に帰りたい…いやいや、珪麗どのの夫の消息をつかむまでは、帰れぬ。
ああ、なんとも健気なわが性格が、この際、とっても厄介でならぬ。どうして適当に嘘を作って、切り上げる、ということができないのかな、わたしは…」
こうして、休昭は、決意を秘めた顔に、なぜだか涙をこぼしつつ、万年雪を冠する世界最高峰の山へと挑もうとするのであるが、麓の村のシェルパに、「山を舐めたらイカンぜよ!」と説教をくらったあげく、すごすごと来た道を引き返すことになることは、まだ知らない。
がんばれ、二人。つぎのつぎのつぎあたりは、たぶん主役だ。
※ 大幅に書き直しました。説教将軍、孔明サイドと公琰サイドに分かれて進行する形ですが、本来ならばメインの公琰たちは、しばしのお休み。つづきは孔明のお話となります。両方とも、しばし、おばかではなくなります。さあて、どんな展開になるやら(ホントに)。どうぞお楽しみにー(^^ゞ