長虹

うつせみの後ろ側

これまでの生涯で、後悔していることをあえていくつか挙げてみるなら、それは二つある。
まずは孫夫人をみすみす江東に戻してしまったこと。
もうひとつは、やはり女がらみである。

その女は、崔家の娘で、新野に落ち着いてから甘夫人の侍女となった女である。
名を長虹と言った。
その女と関わりがあったのは、一年くらいのあいだである。
春から始まり、冬に終わった。
四季をつうじて一人の女のもとに通ったのは、初めてのことであったが、結局のところ、長くはつづかなかった。胸に残るようなうつくしい思い出もない。
誘ってきたのは向こうのほうで、自分も長の新野の平和な暮らしに飽きていたということもあり、とくに悩むこともなく誘いに乗った。
なんとなくはじまり、なんとなく共に過ごし、日々を漫然とすごした。
不思議と、親しい会話を交わすこともなかった。向こうが甘えてきたこともない。
いや、甘えようとしてきたのかもしれないが、無意識のうちに拒んだのだ。
ほぼ一年のあいだに、互いに得たものがあったかというと、これも思い浮かばない。
なぜ自分なのかと聞いたことがあったが、貴方様の顔がいちばん気に入ったから、という答えだったのを覚えている。
趙雲はしまり屋ではないが、あまり女に金をかけることはしなかった。
とりあえず、経験から、あまり放っておくと五月蠅くなる、とわかっていたから、ときたま、気が向いたときに、女に物を与えた。
あまり嬉しそうにしなかったのだが、それには理由があったことを、あとになって知る。
冬の中ごろ、女のほうから、もう会わないと言ってきた。
なぜかと問うたが、答えなかった。
ならばよいとあっさり引けば、貴方様は冷たい、と怒ってきた。女の罵り声を最後に、関係は終わった。

ほどなくこの女、長虹は、別な男のところに嫁いだ。
裕福な豪族の息子で、同じ新野の出自というところが、決め手になったのだとか。
周囲は、趙雲と長虹の関係を、なんとなく気づいていたらしく、趙雲に同情を隠さなかったが、むしろ本人は、それを煩わしくすら思った。
女がすぐに子を産んだ。
しかし産み月が、婚儀を挙げた日から考えると、早すぎる、あわない、と聞いたときは、さすがにひやりとした。
が、ひょんなときに、女が、生まれた子と一緒に、甘夫人のところに顔を出しに来たことがあって、その子供を見たとき、夫となった男にそっくりであったことを見て、安心をした。

と、同時に、ひどく嫌な気分になった。
それは長虹が、趙雲と別れる前に、すでに夫となる男とも、関係を持っていたことの証左であった。
要するに、二股をかけられていたわけだ。
嫌な気分にはなったけれど、だんだんと冷静になってみれば、女が、その身に不相応な小物を持っていたのは見ていたし、その肌に、どこか自分とはちがう男の気配を感じ取ったこともあったのである。
だが、深くは考えてこなかった。
女は、趙雲の関心が、まるで自分に向いていないことを察し、そして己の未来を賭けて、居候のそのまた家臣である趙雲と、裕福な豪族の息子と、どちらを取るべきか、実に冷静に計算して、その身で比べていたわけである。
この女に心を動かされなかったくせに、惰性で一年も通ったことは不実である。だが、女もそれと知りながら、拒むことは一度もなかった。
一年の空疎な時間のあとの、空疎な結果のあとにやってきた春が、あまりにあざやかであったからこそ、趙雲は、長虹と過ごした無為な一年を、悔いているのである。
ときどき、趙雲は、じつはこの女こそが、始まりではなかったかと、自分の胸に聞いてみるのであるが、やはりそれはあてずっぽうな推理であって、はっきりしたことは判らない。



それから、時は流れた。
長虹の夫は、曹操の南下と同時に益州に逃れ、そして、そこで仕官したというが、結局、趙雲と顔を合わせることはなかった。
長虹が寡婦になったと聞いたのは、最近のことである。
いや。
普段は、いずれの女であろうと、そんな噂の欠片すら聞こえてこない。
それが聞こえてきた、ということは、だれか(だいたい見当はつくが)世話好きが、趙雲の耳に、そのことを、あえて入れたのだ。
長虹は子を二人抱えているのだが、どういう縁か、いまは張飛の家に厄介になっているという。

近ごろ、急に、張飛から、頻繁に、屋敷に遊びに来い、と誘われるようになっていたので、嫌な予感はしていたのだ。
張飛が、劉巴のことをめぐって、孔明にたいし、ふたたび悪感情を持ちつつあることは知っていた。
孔明が、そのことを趙雲に相談しているのも、張飛は知っている。
孔明と近すぎることで、以前より、いっそう自分から距離を置いていた男が、いまになって、急接近してきた。わかりやすい男だから、何か思惑があるだろうとは思っていた。
張飛の家に、長虹がいる、と聞いて、趙雲は、その意図を見破ったわけである。
趙雲は、張飛から逃げようとしたが、背後から追いかけてくるものを突き放したと安心していたら、前方に立ちふさがる影がひとつ。
劉備であった。
劉備は、以前から知っていたのか、はたまた張飛から聞いたのか、新野における、趙雲と長虹のことを知っており、是非に会ってみろという。
これもなにかの縁ではないかと、こんこんと説得されるのであるが、もう自分の気持ちが、いまさら別なところへ向くはずがない。
長虹のほうは、おまえに心が残っているそうだし、やはり縁だったのだ。おまえだって、昔の縁があるわけだから、気が楽だろうとも、劉備は言った。
とりあえず、形だけでも妻として娶れば、連れ子もついてくるわけだから、あととりもできるわけだし、などと言われて、かえって趙雲は、嫌悪感を抱いた。
そんなふうに割り切って生きられるものならば、人生はとっくに変わっているだろう。
しかし主公の言葉は、主公の言葉。自分は家臣なのである。それに普段は、あまり強く押してこない劉備が、妙に強く言ってくる。
その背後に、すっかり月下氷人になりきっている張飛と、その夫人の姿を見たが、はっきりと断らねばならない理由を、彼らの前に出すことができないかぎり、逃げ出すことは難しかった。

こうなると、しゃしゃり出てくるのが陳到で、見合いのような堅苦しい席を設けると、趙雲が本格的に逃げ出す可能性があるわけだから、だれにもわからないような形で、大勢のなかで、ごく自然に再会させるのが望ましいと張飛に薦めた。
これに同意した張飛が、さっそく、とんとんと事を進め、陳到は陳到で、その日に着ていく衣装なんぞを、いそいそと選んで持ってくる。
それはまったく趣味ではない派手な衣裳で、趙雲はうんざりした。
しかし、陳到の一生懸命な目と合ってしまうと、長年一緒に働いてきて、気心もしれていしまっているために、無碍にするのが不憫になってくる。
半端な情など、かえって見せるべきではないのだが、趙雲は気弱になっていたのだ。

理由はといえば、それが孔明である。
孔明の口がたまに過ぎることは知っていたが、それが今回、きつい形で向けられた。
怒鳴ってしかりつけてしまえば、素直な相手なので反省し、謝ってくるだろうことはすぐに想像がついたのだが、ここで趙雲は考えてしまったのである。
自分はあまりに、この煌びやかな者を、美化しすぎてしまっていなかろうか。
距離をとって、冷静に見つめなおすべきではないだろうか。
いまはちょうど、その時期にきているのではないだろうか、と。

宴には、孔明は呼ばないということになっていた。
それを聞いて、もしや、みなは自分が隠していることを、なんとなく察しているのではと趙雲は恐れたが、聞けば、理由は単純で、孔明がいると、華やかなのに気圧されて、どうしても宴の中心が、孔明に移ってしまう可能性があるからだという。
とりあえず安心はしたものの、こうして少しずつ離れていって、そのうち、超えがたい溝ができるのではないかと、暗い想像も頭をよぎった。
共にあれば、心のそこに幾重にも重なって横たわる、闇は払拭されている。
だが、一人になったとたんに、この重たさはなんだ。
日々を毎日過ごすのさえ、たった一つのあゆみを進めるのでさえ、苦しくてたまらない。
いっそ、出会うこともなく、真の己を知覚することもなく生きていたら、どれだけ楽であったろう。歓喜もない代わりに、苦しみもなかったはずだ。
おそらく人生もだいぶ変わって、悩むこともなく、いまごろ長虹のような妻を持ち、漫然と日々を過ごし、禄を稼いで、かれらを養い、その日々のなかに、それなりにちいさな幸せを見つけていたかもしれない。
それは、新野での一年の延長のような日々だ。
張飛の宴には、その日々への入り口がある。
その気になりさえすれば、当たり前のように手に入れられるものではないか。
胸にあるものを抱えながら、これが露見したら、ただでは済まないと怯えることもなくなれば、己と人が違うのだということに、傷つくこともなくなる。
周囲にいるほかの者たちと、まったく変わらぬ者になれるのだ。

土壇場に来て、この囁きは、かなりの効果を持っていた。
趙雲は、陳到の(正しくは、陳夫婦の)選んだ服をまとい、張飛の屋敷に出かけた。
長虹を見たときの、最初の印象は、正直に述べてしまえば、老けたな、ということである。
当然である。
あれから七年近くの歳月が流れているのだ。
おそらく自分も面変わりしたと思われていることだろう。
長虹は、その年にしては、美しさを保っていたし、二人の子を持っていることは、この場合、かならずしも悪いことではない。
寡婦は、それだけ家を切り盛りする経験があるということで、重宝されるものである。
聞いたところによれば、ずいぶんしっかりしており、安心して家を任せられるという話だ。だが、長虹の、こちらを見る笑顔の中には、相変わらず、なんの感情も読み取れなかった。

ふと、趙雲は、新野のあの頃の自分ではわからなかったこの女の性質を、ようやく理解できた気がした。
この女にとって、男とは、その身にまとう帯と同じく、自分を守る物の一つに過ぎない。
長虹のなかに何も見出せないのは、つまりは、こちらが女になんの感情も抱かず、ただ『妻』という器として得ようとしているという事実があるのと同等に、向こうにもまた、『夫』という器として、あるいは子供たちの『父』という器として、趙雲と必要としているだけだ、ということなのだ。
考えてみれば、七年前とは、はっきり事情がちがうことに、もはやこの身は居候ではない。
巴蜀を支配する劉玄徳の家臣のなかでも、そこそこに稼いでおり、そのうえ、いまをときめく軍師将軍の腹心なのである。
長虹としてみれば、昔は選ばなかった扇が、まだだれの手にも触れられていないで残っている。ならば、これを再び拾わねば損ではないか、というところなのだろう。
逞しいと評価すべきだろうか。
しかし、趙雲は、女の心を読んでしまったために、すっかりうんざりしてしまった。
しかも、ふと見れば、張飛の子供たちと一緒になって、長虹の子供たちが、宴席を遠巻きにしながら、遊んでいる。
そのなかの一人、八つくらいの子供は、どうやら、新野でまだ赤ん坊のときに見た、あの子供らしい。
まだ八つくらいだというのに、その顔は、嫌でも長虹の前夫を思い出させるもので、もし、ただ己の保身と安定だけを目的に娶るのであれば、あの子供はどうしても、苦い思い出を呼び起こしてしまい、とてもではないが、かわいがることはできないだろうと想像がついた。

なんと空疎なことか。
いま、目の前に、あの春を迎えるまでに、自分が属していた世界の、その現実的な形がある。
彼らを選べば、だれも傷つけないですむし、自分も安心することができる。
だが、その安定は、必ずしも喜びは連れてこないのだ。

妙にはしゃいでいる張飛や、ほかの顔見知りらの声や顔を、眺めるとはなしに眺めていると、ふと、そこにいないはずの者の姿が、まっすぐに目に飛び込んできた。
孔明は、こちらを見て、すこし驚いたようである。
趙雲が咄嗟に思ったのは、あの直観力をもってすれば、この似合わぬ格好を見て、自分がなにをしにここに来ているか、すぐに悟ってしまうのではないだろうか、ということであった。
あわてて顔を逸らし、それ以上は見ることが出来ないでいた。
孔明がやってきたのは、張飛たちにとっても番狂わせであったらしい。
張飛は、とりあえず失礼がない形でと、意外に気配りの細かいところを見せて、孔明のための席を設けさせたのだが、趙雲のことを最優先にさせようとするあまり、席も末のほうになってしまい、かえって気まずい形となってしまった。
孔明は、おそらく今日のことを知らない。
知っていて、様子を見にやってきたのならばよいのに、と考えて、趙雲は、自分の子供じみた空想に、手にした杯を投げつけたくなるほど苛立った。
以前の自分は、こんなふうに想像豊かではなかったし、こんなふうに、あれこれと考えをめぐらせては、落ち込んだり、浮き立ったりすることはなかった。
いつも心は凪のようであったはずである。
それがなんだろう、いまのこの情けない状態は。
とりあえず、周囲にあわせてはいるものの、視線は自然と、欲するところへ向かう。
孔明が機嫌が悪そうなのを見て、むしろ安心している自分が気に入らない。
異常だ、俺は。

なにより自分を嫌悪しながら酒を進めていると、視界の端では、張飛とその夫人が、なにかと長虹を、趙雲のほうに近づけたがっている。
陳到がいないのが救いであった。
あの男がいたなら、もっとあけすけに、近づけさせようとしただろう。
長虹が近づいても、あまり嬉しそうにしない様子の趙雲に、張飛は、照れているのだと勘違いしたのか、宴を盛り上げようと、どんどん酒を持ってこさせて、みなに振る舞った。
招かれた客は、いつになく派手に大盤振る舞いをする張飛に乗せられて、だんだんと無礼講になっていった。同時に、賑わいも、どんどん大きくなっていくようだ。
趙雲には、かえって好都合である。
普段はどんなに目ざといものであろうと、酔ってしまえば、役には立たない。
周囲にあわせて宴を楽しんでいるフリをつづけながら、見れば、ひとりだけ重苦しい空気を醸し出している孔明が、いつ席を立とうかと、頃合を見計らっている様子なのが見えた。
こういうのは、うまいからな、と、黙ってみていると、孔明が席を立つのと同時に、張飛がそれに気づき、おのれの子供をひとり、孔明のほうに向かわせた。
張飛は、ほかの客に話しかけられ、すぐに子供のほうから目を離した。
ほかに、宴席の、めだたぬ柳の木の下にいる孔明と、その子供のほうを見ている者はない。

孔明は、最初、子供に気づかなかったようである。
子供が、声を先に掛けていたなら、問題はなかっただろう。
だが、子供は、孔明を驚かせようとしたらしく、その身体に、不意に飛びつくようにした。
孔明が、ひどく狼狽したのがわかった。あの顔はいけない。
趙雲は、すぐさま席を立つと、思考も何も吹き飛んで、ただひたすら恐怖と怒りに支配され、子供を突き飛ばし、さらには手を挙げようとした孔明の前に立ち、突き飛ばされ、いまにも泣きそうな顔をしている子供を抱き上げた。
打つべき者が目の前から消えたので、孔明は驚き、そして我に返った。
朱に染まっていた顔が、一気に蒼ざめ、うろたえているのが見てとれる。
なにか言わねばと、唇を震わせているのがわかったので、趙雲は、目で、ここはよいから行け、と伝えて、孔明を去らせた。
子供は、孔明に突き飛ばされて驚いていたようだが、すぐに趙雲に気を取られ、機嫌を直したようである。
もともと、趙雲は、子供になつかれやすい。なつかれやすいのに、自分から子供に接しようとしないから、子供のほうからすれば、趙雲のほうから近づいてきて遊んでくれるのは、嬉しいことらしかった。

しばらく、子供をあやしてやって、それからもう大丈夫だと見てとると、孔明を探しに行った。
てっきり更衣に行ったのかと思えば、その姿は、張飛の屋敷の裏庭のなかにある、茂みの影で見つかった。
こちらのほうが、よほど子供のようだと思った。

これだけ世が乱れれば、死は、もはや風景の一部である。
孔明とて、戦場に立てば、地平までつづく死屍累々の光景を見ても、眉根ひとつ動かさない冷徹さを見せる。
それほど割り切らねば、万軍の将として立つことはできない。
地位があるからこそ、耐えられるというものではない。
孔明は、死のある風景に慣れている。
それは、徐州から揚州に逃げる過程でも、目撃しつづけた風景であり、荊州の学友たちと、各地の戦場を見て回ったことがあるという話からも、察することが出来る。
戦場で、なぜ怖じることがないかといえば、死も、そこに転がる身体も記号として捕らえているからだ。
その死の向こうに繋がる郷里の人々や、その者の辿ってきた人生などに、思いを馳せることを、あえて切り離す。
つまり、想像することを遮断する。
多くの死を前にしてしまえば、その事実に圧倒され、想像を働かすことすら、普通はできない。いちいちひとつひとつに心をかけていたならば、健全な思考はどうしても狂う。だから遮断するのだ。
ただし、その光景を眼窩に刻み込み、治世において、無為な死を回避するように努力する。それが孔明の役目である。

だが、たったひとつ、心を懸けた者の死は別なのだ。
そのとき感じた恐怖、絶望、驚愕を、どうしても忘れることができないのは、それが風景ではなく、直接の痛みだったからなのだろう。

多くの者を殺してきた。たぶん、これからも殺すだろう。
だが、風景のひとつとして散っていった、ひとりひとりの向こう側に、孔明と同じ苦しみを持っているだれかが、この世界のどこかに存在することを、忘れてはならないのだ。
昔は、そんなことすら想像もしなかった。
奪ってきたものの向こうにあるものを教えてくれたのは、いま目の前にいる者であり、その痛みがどれほどのものかを教えてくれたのも、そうだ。
この痛みを知らなければ、おそらく今日に至るまで、だれの痛みも知ることはなく、見ず知らずの者たちに共感することもできず、それはつまり、世間という物を、愛することができずに生涯を過ごしただろう、ということだ。
人の世を愛せないまま殺し続けるというのなら、それは、ただの人殺しだ。
人の世を愛するからこそ、己の民を守るために、戦うことができるのである。


孔明が、しばらく落ち着くのを待ってから、そばに近づいた。
誇り高いから、あまり取り乱しているところを見られたくなかろうという、配慮からである。
そして近づいて声をかけても、反応が鈍い。
具合を悪くしたのかと、手を伸ばして顔を上げさせれば、その切れ長の目の縁が赤くにごっている。涙の痕だと知れた。
それを見たときに、まるで自分が、目の前の人間から、大事な者を奪った張本人になったような、ひどくすまない気持ちになった。
同時に、なんとしてもこの者を守らねばならないという、使命感にも似た、高揚した、それでいて崩れるような不安定な気持ちに襲われた。
咽喉がひりつくような、感覚があるが、不快ではないことだけが救いである。
二言、三言、言葉を交わしつつ、熱がないかと顔に触れれば、孔明は、童子のように大人しく、されるがままになっていた。
宴席へ戻れ、ということもいわれたが、戻るつもりはなかった。
はっきりそう答えると、孔明は怪訝そうに、今日はなにかあったのかと尋ねてきたが、それには答えることができなかった。
知られたくなかったのだ。

どうかしているのかもしれないと、本当に思う。
それでも、見慣れた顔のなかに浮かぶ、安堵と、心細げながらも笑顔と、そして、眼差しにはっきりとある信頼を読み取ると、心が落ち着く。
それまでに、いろいろと難しく考えていたのが、馬鹿馬鹿しくなるほどだ。
おそらく、長虹は、趙雲と同じ条件を揃えた男にも、同じ笑顔をしてみせることが出来るにちがいない。
だが、孔明の中にある、安堵の表情は、おそらくは、自分にだけに与えられたものだ。
この者は、ほかの誰にも、この顔は見せない。
自分を一番に必要としてくれている者は、だれか。
自分は、要するに、わがままなのかもしれない。
冷たい人間なのかもしれない。
結局のところ、自分を一番に思ってくれる者のところの元にしか、いたくないと思っているのだから、狭い人間なのだろう。
報われようとすら、思ってはいけない、心の在り様なのだとわかっている。

なんだって、こんなに重苦しい人間なのだろうなと、自分で自分を哂いつつ、趙雲は立ち上がると、心を決めた。
長虹には、まだ多くの差し伸べられる手があるだろう。
だが、この者にはひとつしかないのだ。
いずれは、まったく知らない第三者があらわれて、いまの己の役目を奪ってしまうことも、あるかもしれない。
それでも、それまでは、自分だけのものだ。

すっかり酔って、まともに頭の働かなくなっている張飛たちに、すばやく辞去を申し出ると、趙雲は、孔明を連れて、屋敷を後にした。

孔明はどこに行くのかといぶかしんでいたが、それでも嫌だとは一言もいわず、むしろ、ずっと機嫌がよくなって、喜んでくれているようだった。
趙雲は、口数が、俄然増えた孔明の言葉を、ひとつひとつ、丁寧に聞いていた。
ひどく孤独な幸福に酔いながら。
※このお話は、説教将軍の『うつせみ 2』に続きます…

更新履歴に戻る
MAPに戻る