続・説教将軍・悪疫に伏す
風邪をすっかり治して、すぐさま職務に復帰した孔明であるが、たった一日休んだだけというのに、こなさねばならぬ仕事は、誇張でもなんでもなく山のようにあった。
事実、左将軍府にきたとたん、文机のうえに、崩れかけの書簡の山がどっさり載っていたのである。
とはいえ、仕事が難解であればあるほど、そして忙しければ忙しいほど燃えるのが孔明。
気合を入れて、早速、片っ端からつぎつぎと書面に目を通し、目にも止まらぬ早業で、つぎつぎと決裁を下していったのであるが…
「乗りに乗っておりますな」
と、となりに机を構える胡偉度が、わき目も振らずに書面に目を落とし続ける孔明に言った。
特に用もないのに話しかけてくるのは偉度の癖である。孔明が返事をしないとわかっていても、懲りずに話しかけてくるのだ。
いちど、なぜそんな無駄なことをするのか、と尋ねたことがあるが、答えはやはり曖昧なもので、なんとなく、ということであった。おそらく、単にさびしいのであろう。
「風邪もすっかりよくなられたようで」
「お陰さまでな」
と、病み上がりらしい、掠れた声で、孔明はちゃっちゃと筆を動かしつつ、言う。
「あの方が、風邪を持っていってくださったからでしょう」
ぴたり、と孔明は筆を止め、そ知らぬ顔をして、書面を読むフリをしている主簿のほうを見る。
「まことか」
「本日は、ご出仕なさらず、休んでおられるとか。ひどい熱があるご様子ですよ。うつされた風邪、というのは厄介でございますからな」
鬼の霍乱、と憎まれ口を叩く偉度を尻目に、孔明は筆を置くと、立ち上がった。
「どちらへ」
「わかっておるだろう。すぐ戻るゆえ、そなたはここで留守を頼む」
すると偉度は、あからさまに迷惑そうに柳眉をしかめた。
「ご冗談を。軍師がいらっしゃらなければ、すべてはわたくしに集中いたします」
「がんばれ」
「がんばりたくありません。わたくしも参りますよ。御者を呼ぶ手間が惜しい。わたくしが手綱を持ちますゆえ、あなたさまは馬車に揺られているあいだ、すこしでも仕事をやっつけておしまいなさい」
孔明は、偉度に言われるまま、書簡をまとめ、それから執務室の奥にある、仮眠をとるためにつかっている小部屋に行くと、以前に自分で処方した、感冒に効く薬の入った箱を開いた。
感冒、といっても、鼻にくるもの、咽喉にくるもの、熱ばかりが高くなるもの、さまざまである。
わたしはこれであったから、と思い、孔明は咽喉からくる感冒の薬を持ち、それから咽喉の痛みに効く煎じ茶も持ち出した。これは咽喉に利く、清涼感のつよい葉をあつめて煎じたもので、気付け薬にも使われることがある。咽喉がひりつくときには一番だ。
孔明が左将軍府を出るころには、偉度はすでに馬車の用意をして、表で待っていた。
御者台に座ってすました顔をしている偉度を見て、ふと孔明は、おや、この子はまた背が伸びたのではないかな、と思う。
偉度の地面に映える影法師は、以前は門の前にたつ孔明の足元まで伸びなかった。
「背が伸びたか」
と、馬車に乗り込みつつ孔明が尋ねると、偉度は妙なことを、と呟きつつ、答えた。
「わたくしの背を、なぜ気になさる」
「それは気にするだろう。どれくらいになったのだ。いいなさい」
「七尺は越えました」
「そうか、ならば、あとでおまえの屋敷に、あらためて衣を届けに行く」
「衣?」
素っ頓狂な声をあげつつ、偉度は馬車を走らせる。後ろに乗った孔明は、さっそく書簡を開いて、ああでもない、こうでもない、と考えながら、器用に偉度の問いに答えた。
「わたしの着なくなった衣をやろう。丈を詰めれば、まだ十分に着られるはずだぞ」
「あなたの衣を、わたしに? 衣の贈与は相当な仲でなければふつうはしないものです。それにもうひとつ意味が…邪推するものが出ますぞ」
「その、もうひとつの意味とやらは知らぬな。それに、邪推したい者には、させればよいではないか。勿体無いのだよ。わたしの衣を着こなせる物は、なかなかない」
「白まゆげの弟はどうです。中身はともかく、趣味は悪くなかったから」
「色が合わないよ。あれは案外、地黒だからな。と、するとおまえしかおらぬのだ。材質はどれも折り紙つきだぞ。不満か?」
「ぞっとしませんね」
そうか、と答えつつ、孔明は案件をすでに二つ、まとめていた。
同時進行で、脳裏に自分の衣をまとった偉度の姿が浮かぶ。襄陽時代に、やはり二十を過ぎたころに身にまとっていたものだ。材質が上等なので、大事にとっておいたから、傷みもせずに、まだ着ることが出来る。
とはいえ、色合いが、三十を越した孔明には、華やぎすぎるのである。だから、二十を過ぎたばかりの偉度であれば、着こなしも洗練されているのだし、うまく着てくれるだろうとおもったのだが。
がらがらと馬車が進む中、ぼそりと、御者台の若者は言った。
「どうしても、というのであれば、戴きます」
「うむ、どうしてもなのだよ。では、あとで届けさせる」
やれやれ、これで物を無駄にしなくて済んだ、と孔明は喜び、偉度もまた、冷笑的な笑みを浮かべるのが常のこの青年にしてはめずらしく、子供のように嬉しそうにしていたのであるが、それは孔明には見えなかった。
趙雲の屋敷は、孔明の屋敷とほど近いところにある。
敷地が広く、屋敷は狭いというつくりで、広い敷地のほとんどが、あつめた馬を納めておく厩である。
趙雲は、ヒマができると厩にいって、馬だの驢馬だのの世話をして時間を費やしている。馬専用の、立派な井戸もあるほどだ。
家人のほとんどは、趙雲のあつめた馬の世話をする者たちで、実際に屋敷の中で働いている者はすくない。
趙雲には妻がいないため、家令が屋敷の一切を取り仕切る形となる。
とはいえ、どの世界にもお節介は存在するわけで、主に伴侶のいないことを気の毒に思った家令やそのほかの思惑をもつ一派は、趙雲に嫁をもらってもらう、嫁でなくてもせめて妾を、と運動をはじめた。
すなわち、屋敷に住み込みで雇う飯炊き女などに、自分たちに縁のある、若い美形の娘ばかりをあつめたのである。
趙雲の後宮屋敷、などと悪口を聞くものもいるが、たしかに屋敷はある種の華やぎがある。
しかし、肝心の主が娘たちに感心がないために、咲き誇る花は、客人の目を楽しませるばかりで、本来の目的をまるで果たしていない。
趙雲のもとに集った娘を、横取りしてやれと思う不埒な者もいて、このところ、趙雲の屋敷には、来訪者があとを絶たないとかなんとか。
「いい加減に、身を固めてしまえばよいものを」
「本当にそう思ってらっしゃいますか」
偉度の問いに、孔明は即答した。
「いいや」
「だったら、冗談でも薄情なことをおっしゃいますな。趙将軍が二度と病床から起き上がらなくなったら、どうなさる」
「? 子龍がなぜ、わたしのことばで、ずっと寝込むことになる?」
「いいから、黙ってらっしゃい。ごめんくださいまし、軍師将軍の主簿、胡偉度でございます。こたびは主とともに趙将軍のお見舞いに参じた次第にございます」
偉度は、とんとん、と扉を叩くのであるが、返事はまったくない。
おかしいな、とつぶやき、そっと門扉を開くと、やはりだれの姿もなく、屋敷内はしんと静まり返っているのであった。
「みなで、療養のために温泉にでも出かけたのではないか」
呑気にいう孔明に、偉度は、あきれたように答えた。
「だったら、留守居のひとりくらいは残しておくものでしょう。仕方がない。入りますよ」
孔明が静止するのも待たず、偉度はさっさと趙雲の屋敷に入っていく。
趙雲の屋敷は厩の立派さがひときわめにつくもので、風向きによっては獣臭い。それを緩和するために、ふだんから玄関には高級な香が焚かれており、これは唯一といってよい、趙雲の使用するぜいたく品なのである。
ずかずかと中に入り込んでいく偉度のあとに、気まずくついていく孔明である。
木蓮や柘植の木の青葉が、陽光にすけて、鮮やかな緑を見せているのが目に映える。遠くから、馬のいななきがたまに聞こえてくるので、まったく誰もいない、というわけではなさそうだ。
厩に回ったほうが早いのではなかろうか、と偉度に声をかけようとしたとき、前方の偉度が、ぎくりと足を止めた。
「どうした?」
偉度は、やはり背が伸びた様子で、八尺の孔明よりは低かったけれど、以前は肩のあたりで頭のてっぺんがくるという具合の小柄な少年が、いまや孔明と肩を並べられるほどになっていた。年相応に結婚をし、子をもうけていたら、こんな気持ちになったのかな、と感慨深く偉度を見る孔明であるが、一方の偉度は、前方にあるものに身を強ばらせる。
「これは、賊に襲われたか?」
見ると、屋敷の玄関からほどちかい廊下に、二人の娘が仲良く折り重なるようにして倒れているのであった。
それが、たまにぴくりと動き、うめき声さえあげている。
「どうした、そなたたち!」
偉度が助け起こすと、娘は、汗のにじんだ顔をして、うっすらと目を開く。
「わ、わたくしが…」
「どうした?
「わたくしが…薬を…もちに参ります」
「いいえ!」
ぐっと、もうひとりの娘が、倒れる娘の腕を渾身の力で掴む。
「なりませぬ。薬をお持ちするのは、わたくしの役目!」
最初の娘は、唸りつつも、隣に倒れる娘に唸るように言った。
「おだまり、新参者のくせに!」
「新参者だろうと古参だろうと関係ない! 古株の癖して、まったく見向きもされないくせに!」
「なんですって!」
孔明には、床に倒れる等身大のナメクジが、なにやらうごめいて争っているようにさえ見えた。
「どういうことだ?」
「軍師、この二人、ひどい熱がございます。どうやら家中のものが、感冒の波に襲われたようでございますな」
「それほどひどい風邪だったかな…」
「人に移された風邪はドンドンひどくなる。軍師から将軍に移された風邪は、家人たちにもっとひどくなって移っていったのでしょう」
こうしてはおられぬ、と偉度は口を布で覆い、後ろで縛った。
「おそらく趙将軍もろくに看病もされないまま、放置されているにちがいない。奥へ進みますよ」
「この娘たちは?」
「しばらく仲良く喧嘩させておきましょう。どちらにしろ、無駄な喧嘩なのですから」
そういって、勝手知ったる人の家、さらに堂々と中に入っていく偉度の後ろを追いかけながら、以前もこんなことがあったなと、懐かしく思いだしつつ、孔明は尋ねる。
「おまえ、ずいぶん子龍の屋敷に詳しいようだな。それに、無駄な喧嘩というのは、どういう意味だ?」
「その明晰な頭脳で考えたらよろしいでしょう」
「嫌味を言うな。わからぬから聞いておる。偉度、包み隠さず申せ」
「なんです」
「子龍には、実はもう心に決めた女子がいるのではないか?」
ぜんぜん気づかなかったと、さまざまな想像を働かせ衝撃を受けている孔明に、くるりと偉度はふり返り、言った。
「あなたは莫迦です」
「そうだと思う」
「自覚ナシ、と」
そう言って、偉度はふたたびずんずんと奥に進む。孔明は、わけがわからない。
「待て。莫迦だと認めたのに、なぜ自覚がないと言われねばならぬ」
「軍師、前にも言いましたが、わたくしは莫迦が嫌いです」
「覚えているとも」
「ですから、黙っていてください。お話したくありません」
「……」
そうして険悪な空気をあたりに撒き散らし、屋敷内に充満する悪疫と戦いながら孔明と偉度が奥へと進むと、趙雲の私室に行き当たった。そこに入るなり、偉度は言う。
「趙将軍は、物置に寝てらっしゃるのか?」
「ちがうよ、ここに来たのは初めてだが、子龍というのは、私物を持たない男なのだ。案内も請わずにきたから怒るかな」
言いつつ、孔明は、あきれるほどに何もない、調度品も、どこからかもらってきたか、拾ってきたのか、趣味もばらばら、座と卓と小棚と文庫だけ、寝台の傍らに、実に立派な鎧と武器の一式のそろえてあるという部屋で、寝台によこたわる趙雲のそばに寄った。
普段ならば、部屋に入る前から、おそらく足音でそれとわかるのが趙雲なのであるが、孔明が寝台の横に立っても、趙雲はぴくりとも動かず、目を開かない。
「重症だな」
その白蝋の顔をのぞきこむ孔明のつぶやきにより、趙雲は呻きながら、ゆっくりと目を覚ました。
「子龍、ずいぶんひどい様子だな。家人もすべて風邪で倒れたらしい。医者には診てもらったのか」
「風邪だから養生しろと、それだけだ」
と、趙雲は、なぜここにいる、といった余計な質問はいっさいせずに、そう答えた。
「熱のほかに、具合のおかしなところはあるか?」
「眩暈がする」
「うむ…食欲もない様子だな」
と、やはり卓の上に冷めたままになっている粥の入った器を見て、孔明は言う。
おそらく、さきほど見た、廊下に倒れていた娘たちのだれかが持ってきたのだろう。それにしても、だれが看病するかで揉めて、結局目的を果たせないでいる。これでは家人の意味がない。
だれが雇用に関する権限を持っているのかはしらないが、趙雲はそういうことに頓着しないので、わたしがいわねばならぬだろう、と孔明は思った。
将軍職にある男が、ひとりつくねんと熱にうなされている。哀れな話ではないか。
趙雲はというと、うっすらと目を開いたものの、やってきたのが孔明だとわかって安心したのか、また目を閉じて寝入ってしまった。
「しまった、薬を飲ませるのであった」
孔明が呟くと、偉度が杯と、娘たちの持っていた盆から奪った薬を取り出し、孔明に差し出した。
「将軍が眠ってらっしゃるわけですから、仕方がない。軍師、口移しで飲ませて差し上げたらよろしいでしょう」
「ああ、そうか」
と、孔明は水と薬を口に含み、瞑目したままの趙雲の後頭部に手を回すと、しばらくその、熱にやつれた顔を見つめていた。
身じろぎも、呻きもしないその顔を見つめていた。
もう四十に手が届こうというのに、ほとんど老いの気配のない顔をみつめていた。
こうして瞑目していると、ふしぎと性格が読めない顔だな、と思いながら見つめていた。
ただただひたすら見つめていた。
「ちょっと待て」
「あっ、薬! あなたが飲んでしまってどうするのです!」
抗議の声を上げる偉度に、孔明はきびしく振り返る。
「おかしかろう。ここは戦場ではなく、水差しもちゃんとあって、子龍には意識もある。なのに、わざわざ口移しをする意味がどこにある!」
「水差し? なんですか、それは。わたしの知らない物体です」
「嘘をつくな、嘘を! 後ろ手に隠したそれを出せ! まったく、何を考えておるのだ、おまえは。口移しなんぞしてみろ、正気に戻った子龍に、顔の形が変わるほど殴られるぞ」
「軍師に関しては、それはございませぬよ。わたしならば判りませんが」
まったく、とぶつぶつ言いながら、思わず飲み下してしまった苦い薬の粒を舌で始末しつつ、孔明は、もう一服あった風邪薬を、今度は普通に水差しで趙雲に飲ませた。
趙雲は、完全に眠っていたわけではなかった様子で、薬を飲むと、
「苦い」
と力なくつぶやいた。
孔明は寝台の傍らに座を持ってきて、膝をかかえて隣に座りつつ、趙雲の顔を見る。
「昔もこういうことがあったが、あのときよりだいぶひどいな。こういう、元気のない子龍を見るのは好きではない。律儀者め、本当に風邪を持っていくやつがあるか」
「仕方なかろう。季節の変わり目であったし、俺も油断した」
目を瞑ったまま、趙雲は言う。
「おまえとて、完全には治ってないようだな。足音でそうとはわかったが、声だけ聞いていると別人のようだ」
「そうだろう。良くんに声のよいカラス程度には回復したといわれた。声のよいカラスとはどんなものだ?」
「おまえたちは、あいかわらず呑気だな」
「仕事は山積みなのだが、良くんが来てくれたお陰で、滞りはない。今度、正式に挨拶にくる、と言っていたよ」
「俺の方が下位なのだ、俺が行くべきだ」
「あなたのほうが年上なのだから、あなたが訪問を待つべきだ。良くんは、わたしと同じで、あなたのことを兄のように思っているのだよ…おや、偉度がいない」
孔明は座を立つと、趙雲の私室から廊下を見た。
すると、偉度は、風邪の程度のひどくない家人をむりやりたたき起こし、そこかしこで倒れたり蹲ったりしている家人を一箇所にあつめ、寝台を用意してやっているところであった。あれも、他者への思いやりがでてきたのだな、背も高くなるはずだ、と微笑ましく思いつつ、孔明は趙雲のもとへ戻る。
すでに日は落ち始め、あちこちの物陰から、虫の声が聞こえ始めている。しかも家人たちはみな倒れてしまっているものだから、人の気配もなく、静かなものであった。
会話をすることすら憚られる気がして、孔明はしばらく黙って、趙雲の隣で、持ってきた書簡を見て、あれこれ決裁を下ろしていた。
やがて、夕餉の時間になると、これまた偉度が八面六臂の活躍をみせ、みずから厨に立ち、家人たちのための薬粥をつくって振る舞った。
ここまでくると、孔明は、おのれの主簿の優秀さが得意でならず、さきほどの馬鹿な悪戯は、もう忘れてやろう、衣裳と一緒に帯や帯飾りも用意してやろう、と考え始めていた。
さて、そうこうしているうちに夜もすっかり更け、孔明は趙雲の屋敷にやってきた使者に、決裁を下ろした書簡を託すと、同じく使いを出して、今宵は戻らない旨、己の屋敷のものに伝えさせに言った。
孔明は、偉度も屋敷に戻すつもりではあったのだが、
「では、朝餉はだれが用意するのです」
と、おおいに張り切っているのを邪魔するのが不憫であったので、好きなようにさせることにした。
思うに、偉度としては、これほどはっきりと他人様の役に立てること、そして直に感謝の言葉を述べられることが新鮮なのだろう。本来なら、もっとたくさんの人の中で活かすべき人材であるのに、背負っている過去が邪魔をして、ほかならぬ本人が、目立つ役職に就きたがらない。
たとえ公の場でなくても、こういう機会を設けてやるべきだと思いつつ、孔明は趙雲の元へ戻った。
そうして、上着を脱ぎ、髪を解きはじめた孔明を、さきほどよりはずっと顔色のよくなった趙雲が、目をぱちくりとさせて見ている。
「なにをしている。風呂か。風呂ならば遠いぞ。ここは脱衣所ではない」
「風呂ならさっきもらったよ。そうではなくて、一緒に寝よう、子龍」
「は?」
おそらく、その「は?」は、これまで孔明が聞いた趙雲の言葉の中で、もっとも間の抜けたものであっただろう。
「だれと、だれが」
「わたしとあなたが。そしてさっさとわたしに風邪を移せ。今度はわたしが持ち返る」
「悪疫が脳にまで回ったか」
「しかし、風邪を治すには、だれかに移すのがいちばん早いぞ。わたしが移してしまったのだから、わたしに移すべきだ。ほら、筋が通っているだろう」
「筋は通っているが、その手段がなんだって?」
「一緒に寝るのさ。いや、ちょっと待て。妙なことは考えるなよ。というより、いまこの瞬間より、妙なことは一切合財、頭より消し去れ。わたしは、あなたに添い寝をするのだ。添い寝。それだけ!」
「それだけか」
「ほかに何か期待しているのか? それなら、風邪が治ってから相談に乗るが」
「そんな相談、絶対にするものか。ああ、永遠にすることはない! というより、頼む、軍師、いや、軍師将軍殿、俺に寄るな」
「なぜ? わたしは、あまり経験はないが、ふつう、義兄弟や、それに類する仲のよい友同士というのは、よく同衾するものだろう。なにを恥じる」
「……言葉だけ聞いていると、すごいことを言われている気がする。なあ、おまえ、本当に風邪が治ったのであろうな。というより、風邪なのか? ちがう病になっているのではなかろうな」
「ちがう病とはなんだね、人聞きの悪い。あなたが鼾も歯軋りもせず、死人みたいに静かに眠ることは知っているよ。わたしだって行儀がよいものさ。だから、となりで大人しくしているので、気にせず風邪を移すがいい」
「兵卒どもに行軍命令を出すのとはわけがちがうのだぞ。そう簡単に風邪が俺からおまえに移るものか」
「やってみなければわからぬ。さあ、早いところ寝台の半分を私にゆずり渡せ。そうそう、美しく二等分だ。枕も借りてきた。完璧だ」
「本当に待ってくれ。別の疑問がわいてきたぞ。おまえ、本当に諸葛孔明であろうな。諸葛孔明に化けた偉度。そういう嫌な展開ではなかろうな」
「風邪がかなり進行しつつあるな。眠れ、子龍。わたしも眠る。それとも、特別に子守唄を唄ってやろうか。姉が得意だった歌があるのだが」
「いらん」
これでは埒が明かぬ、と判断した孔明は、さっさと寝台に横になり、転がり落ちるようにして逃げようとするが、しかし熱のため(普段ならばとうていありえないことに)あっさり趙雲を捕まえて、横にした。
「おまえな」
「いいから、早く寝よう。そうだ、御伽噺でもするかね」
「それもいらぬ」
「話すことがないな。そうだ、うちの屋敷に野良犬が忍び込み、仔犬を産んだというほほえましい話で、なにやらひきつっているあなたの顔を、やわらかいものにかえて差し上げようか」
「犬? 犬がどうしたというのだ。犬が俺のいまの苦境のなんの役に立つ!」
「苦境を脱するためにも、早く風邪を移したまえ。こちらはなにやら眠くなってきたぞ。お休み」
「おい?」
趙雲は、まだなにやらがみがみと言っていたが、孔明は頓着せず、そのまま眠気にまかせて目をつぶった。まったく、たまに人の寝顔をなにやらじっと見る変な癖のある男の癖をして、こうあらたまると、なんだって照れたりするのだ、へんなやつ。
寝ている間に逃げ出す、ということのないよう、孔明は体を横にして、趙雲の手首を掴んだまま、寝入った。こちらがすっかり口を閉ざしてしまうと、趙雲は、最後のわるあがきとして、孔明の指を一本一本取って、逃げようとしていたが、結局果たせず、隣に横になったのが、寝台の揺れでわかった。そうそう、最初から大人しくしていればよいのだ。
「子龍」
起きていたとは思わなかったらしく、仰天した趙雲が起き上がろうとするのを、孔明は手首に力を籠めて留めた。
「いま思い出していたのだが、子供の頃から、これだけ近くに人がいる状況で眠ったことがない」
「乳母とか、弟とか、姉君とか…細君とか、いただろう」
「妻は…あれは妻というより同志だからな。彼女は別として、うちでは、わたしが『皇帝』だったのだよ。なぜあそこまで徹底して特別扱いされたのか、いまもってよくわからぬ」
「跡取り息子ということで、期待があったのではないか。その…没落を防ぐためにも」
「そうなのかな。姉上は荊州なので、いまお話を聞くことは叶わぬが、異腹で、年が違いすぎる、ということもあったのだろう。いくらか年が近いはずの均も、わたしにすこし遠慮があるし、兄に関してはもう、いわずもがな」
「うむ?」
「特にオチがある話ではないのだ。いままで考えたことがなかったのだが、やはり、わたしの母上という方は、何者であったのだろう。どうして、わたしばかり誰にも似ていないのだろう。不思議だな。わたしは、ほかの、書物さえめくれば見つけられる事項や、部下たちの家族のことや、どんな出自であるかなどはよく知っているのに、自分のことがよくわからない」
明かりの消した闇のなか、しばらく沈黙が続いた。
寝息が聞こえないことから、おそらく趙雲はまだ眠っていないだろう。
孔明は答を期待していなかったから、そのまま目を閉じていたが、やがて、声が聞こえた。
「俺とて、自分のことがよくわからない。迷いがあるのもしょっちゅうだ。家人に、やたらと若い娘が多いだろう?」
「うん」
「周囲が気を回して、いろいろと世話を焼いてくれているのだ…いや、これは本音ではないな。結局のところ、俺と婚姻でつながりをもてば、おまえとも繋がりができる。そういう野心を持っている者が、女を使って近づいてくる。最近は、特にひどい」
「そうであったか」
「いっそ、そういった争いとまるで関係のない女を娶ってしまえばよかろうと思うのだ。だが、心をあずけることのできない、ただの盾として必要とする『妻』など、そこいらにある家具と同じではないか。ある程度、生活は保障してやれるし、共に暮らせば情も湧く。だがそれ以上となると、無理だ」
「決まったものでもなかろう」
「わかる。無理だ。だから俺は、おそらくずっと一人で生きていく。だがな、ちゃんと覚悟を決めているはずなのに、こういうふうに体が弱くなると心も弱くなるようで、本当にこのままでよいのか、だれもいなくなって、一人になってしまうのではないかと、柄にもなく沈み込むわけだ…おい、ひっつくな、気味の悪い」
「うるさい」
孔明は言うと、闇の中の趙雲の体の肩のあたりに、子供のように腕を伸ばした。
「もっとそばにいたほうが、ずっと風邪の移りが早くなる。それだけだ。それだけなのだぞ」
そうして、その肩に頭を預けるような形で、孔明はふたたび目を閉じた。片側に寄せた頬にあたるぬくもりが、ふしぎと心地よく、それからほどなく、深い眠りにはいったのであった。
さて、翌朝。
計画通りであれば、首尾よく風邪になっていなければならないのであるが…
「完全な健康体だ。それになんと清清しい朝であろう。声も戻ってきたぞ。あなたは?」
と、中庭に面した欄干で、大きく伸びをして気持ち良さそうにしている孔明に、まだぼんやりした顔をしている趙雲は、しばし考えたあと、
「熱が下がったようだ」
と答えた。
「風邪はどこへ行ってしまったのかな」
「知らぬ……どこかな」
とはいえ、あちこち探して悪疫が箪笥のうしろに隠れている、というものでもなし。家人のなかにも回復したものがいたようで、趙家はおだやかな朝を迎えたのであった。
趙雲はしばらく憮然として、あまり目を合わせないようであったが、昼も過ぎるとすっかり元通りになり、熱が下がったせいもあるのだろうが、かえって機嫌がよくなり、孔明もまた、安堵したのであった。
やれやれ、人助けとは心地よいものだと孔明が喜んで自邸に戻ってくると、なにやら見慣れた衣を幾重にもまとった、あやしげな物体が廊下をウロウロしている。
なにごかと見れば、青白い顔をした偉度なのであった。
偉度は孔明の姿を見つけると、むずむずする鼻をうごめかせながら、なさけない顔をして言った。
「おごどばどおり、おめじもの(お召し物)はいだだいでまいりまつ」
「それは構わぬ。役立てよ。それより、おまえが風邪をひいたのか…そうか。わたしは本意ではなかったとはいえ、事前に薬を飲んでいたから、風邪がうつらなかったが、悪疫の蔓延する中、張り切っていたおまえはまともにその餌食になったというわけか」
「びどだずげなどもうごりごりでず」
「そういうな。たいした働きぶりであったぞ。ふむ、何枚も重ねていると孔雀のようだが、やはり似合うようだな、よかった」
鼻をずみずみ、と鳴らしつつ、偉度はこくりとうなずいた。どうやら悪寒が止まらずに、何枚も衣を重ねて纏っていないと、我慢ができない様子であるらしい。
中には、与えるつもりではなかったものもあったが、偉度の趙雲の屋敷での奮闘振りを思い出し、まあ、あれの褒美としてやってよいか、と孔明はすぐにあきらめた。
「ときに、おまえ、寝ていなくてはだめではないか。だれぞに部屋を用意させてもよいのだぞ。どこへいく」
「おもでにでで、いぢばんざいじょにあっだにんげんに、うづじでまいりまつ」
「……あまり人さまに迷惑をかけるでないぞ」
「いっでぎまず。ごげんどうをおいのりくだざい」
言いつつ、ずるずると孔明の衣裳を頭からすっぽりかぶって、裾を引きずりながら、偉度はふらふらと表に出て行った。
その後、偉度が最初に遭遇した人物は董允であった。
このお人よしの青年が、偉度の思惑も知らず、うっかり風邪をもらってしまい、それをきっかけとして、その後費褘→費伯仁→董和→馬良→孔明→趙雲→偉度→董允、とその後数ヶ月におよび果て無き連鎖を繰り返すことになる。
そうしてあらかたの家庭訪問を終えた悪疫は、最後は寝込んだ趙雲をからかいにきた張飛のところへついて行ったのだが、そのあたりで消滅した。
かくて悪疫の禍は過ぎ去ったのであるがその後、左将軍府を中心とする人間関係が、その後微妙にぎくしゃくしたのは、言うまでもない。
※あとがき※
17777HITニアミスリクエストで戴きました、説教将軍の続きでございます。
孔明が咽喉の薬を趙雲に持っていく、ということでお題を戴きまして、あいかわらずのお話となりました。おそらく『孤月』のあとに読まれる方が多いと思われますが、すごいギャップで申し訳ありませぬ…特に偉度。