桟雲たなびくふもとにて

陽が高くなると、のどかな陽の落ちる首吊り岩周辺は、あたためられた岩から熱気でも立ち上っているのか、しだいに暑いくらいになってきて、それがほどよい生ぬるい空気となって、偉度や銀輪たちのまぶたを重くした。
竹の葉の、さやさやと揺れる音が、また心地よい子守唄の代わりとなっているのである。

偉度は、何度も強烈な睡魔におそわれながらも、親指の付け根を揉んでみたり、たまに手元にある尖った小石をわざと腿に軽く突き刺してみたりして、なんとか眠ってしまわないように気をつけた。
一枚岩の上に大の字になっていた休昭は、すでに睡魔に屈服し、気持ち良さそうに、くうくうと規則正しい寝息をたてている。
銀輪もまた、偉度のとなりで、器用に、座ったまま眠っている。ちょうどその広い額の位置に岩の縁があって、枕代わりになっているのだった。

『眠いばかりではない。なんだってこれほど体がだるいのだ』
また瞼が垂れ下がってきて、偉度は一度、ぎゅっと目をつぶり、それからまた開いた。
ただ眠いばかりではなく、全身がだるくてたまらない。
ためしに腕を動かしてみても、まるで重石をつけているかのように、ゆっくりとしか動かない。
体の力が、まるで岩に吸い取られてしまっているかのようである。

偉度は、もともと想像力の豊かなほうではないが、それでも、怪しげな仙人が、おとずれる人間の命を吸い取る術を岩にかけているところを想像した。
だから、この岩の周辺では、失踪や自殺が絶えないのだ。
みな、岩に命を食われてしまった。
この岩が赤みを帯びているのは、人の命を含んでいるからにちがいない……

さわさわと、竹の葉が風に揺れる音が心地よく流れてくる。近くからは、岩の周辺に生えている、奇妙な植物群の葉音もしていた。
眠気をずっとがまんしているうちに、頭痛が起こり始めてきた。
携帯している薬と水を飲もうとして、懐をさぐるべく手を動かすが、体が、さきほどよりも、さらに重く、言うことをきかない。

なんだ、これは。
悪態をつきながらも、偉度は、視界ばかりでなく、頭に浮かぶ像も、ひどくめちゃくちゃなものになっているのに気が付いた。
支離滅裂な空想とも現実ともつかない場面が、意味もなく次から次へとあらわれるのである。
それでもなお、正気を保たせようと己を叱咤していると、ぼやけた視界に、一枚岩に寝そべっている休昭の周囲で、ひとが集っているのが見えた。
人攫いだ。
やはり、と思ったが、しかし忌々しいことに、せっかく読みがあたったというのに、体がうまく動かない。
これでは、飛び出していっても、返り討ちにあうだけだ。
休昭の周囲に集った者たちは、慣れたふうに、眠りつづける休昭を運んで、どこかへ連れて行く。

いかん、目を覚ませ!
おのれを励まし、立ち上がろうとする偉度であるが、しかし、そこへ、狙い済ましたかのように、いままでにない強烈な睡魔が襲ってきた。
立ち上がるどころか、声ひとつあげることもできず、偉度はその場で昏倒した。



どれだけ経ったのか、偉度にはわからなかった。
寝入るまえは、なにかの毒でも口に含んだかのように苦しい思いをしたというのに、目が覚めたとき、気分は爽快で、頭がはっきりと冴えていた。
倦怠感も、霧が晴れたようになくなっている。
いまならば、千里を駆けろと言われても、実行に移せる気がした。
なんと心地のよい、などと思いながら、体を伸ばそうとして、はっと気づく。
なにを呑気なことを。
休昭はどうした。

あわてて一枚岩のほうを見れば、やはり、休昭はいない。
どころか、となりでぐうぐうと眠っていたはずの銀輪もいないのだった。
もしや、人攫いは、あのあと、休昭だけではなく銀輪も見つけて、これを一緒に攫ってしまったのか。
とはいえ、なぜ自分だけが無事なのか、そして放置するにも、無傷であることに不自然さを感じながらも、偉度はあわてて首吊り岩から離れ、山道を駆け下りると、裏街道へと走った。
もし人攫いがやってきたのなら、裏街道をつかったのはまちがいない。
かれらはそこから安車を置いてやってきたはずだ。
休昭も心配であったが、いま、もっとも心配なのは銀輪であった。
男である休昭は、まあいいとして(父親の立場を考えると、身代金めあてに人質にされてしまう危険もあったが)、銀輪は危ない。
実際には子どもだが、発育がよすぎるために、妙齢の娘に見える。
もし自分が人攫いであったなら、銀輪をどうしようとするだろう。想像しただけでぞっとした。

朝にはぬかるんでいた道も、だいぶ乾いていたが、それでも泥に足をとられないように気をつけながら、ひたすら駆けていると、どこからか、ひづめの音が聞こえてくる。
早馬か、と頭をめぐらせると、二頭の農耕馬が、村のほうからこちらに向かってくるのが見えた。
よくよく見れば、馬の背には、ほかならぬ銀輪が乗っている。
それが、器用に乗り手のいない馬の手綱をあやつりつつ、ずんぐりむっくりした体型の馬に乗って、近づいてくるのだった。
ほかに、人影はない。

無事だった。
心より安堵して、偉度は、ため息をついた。
ため息をついたと同時に、自分の体が、ひどく強ばっていたことに気がついた。
どうやら、相当に混乱し、緊張していたようである。
馬の背にいる銀輪は、山を下りてきた偉度を見つけると、いつものように元気に、おおい、おおいと言いながら手をぶんぶんと振ってきた。
「よかった、起きたんだね。馬をつないで、また山を登るのは面倒だなって思っていたの」
こいつの頭の回転の速さは、女にしておくには惜しいと思うところだが、しかし、行動力も女らしくないのは、問題だ、などと、偉度は憮然としながら思う。
「ちょっと待て。順序だてて説明してくれ。この馬はどうした。なぜ持ってきた」
険を含む偉度のことばに、銀輪は、心外そうに眉をかるくひそめつつ、答えた。
「だって、休昭さんが攫われたから、追わなくちゃ」
「起きていたのか?」
どう見ても、銀輪はぐっすり眠っていた。熟睡していたはずである。
「寝ていたけど、目がさめたら、休昭さんがいなかったの。で、一枚岩を見てみたら、たくさん足跡があったのね。こりゃ、攫われたなあって思って」
「なぜ、わたしを起こさない!」
「だって、偉度さんも気持ち良さそうに寝ていたんだもの。よっぽど疲れているんだろうなあって思ったのね。
それに、まず追うにしても、走って追いつくとは思えなかったら、馬を借りてこなくちゃならないし、それくらいなら、銀輪ひとりでもできそうだから、すこし寝させてあげようかなあって」
「どんな優しさだ、それは」
銀輪の、大胆な行動力、さらに、いかにも子どもらしい、純粋すぎるやさしさに、偉度はしばし唖然とする。
銀輪は、偉度が怒っているのだと思ったようすで、泣きそうに顔を歪めて、言った。
「偉度さん、いっつもいっつも、疲れた、疲れた、大変だ、って言っているから」
「だからか」
「あんまり眠れていないのかな、って思ったの」
岩のかたわらで、自分は思い切り爆睡していたのだろう。
それを見た銀輪が、気をきかせてそのままにしたわけである。
とはいえ、銀輪が村に向かう途中で、うっかり人攫いの一行と鉢合わせになる可能性だって、なかったわけではない。

偉度は、どうして自分が、銀輪の前だと、うっかりと本音が出てしまうのか、その理由がよくわからない。
銀輪に、どこか懐かしいものを覚えるのだが、その懐かしさが、どこからくるのかも、よくわかっていない。
銀輪に似た少女と過去に出会ったこともないし、こういう素直すぎるほど素直な少女と接する機会も、これまでほとんどなかった。
ともかく、よくわからないが、自分が銀輪に甘えているのだ、という事実だけはわかる。

「悪かった。油断して、眠っていたわたしがいけない。馬を用意してくれたことには礼を言う。うむ」
なにを納得させようとしているのか、自分でもわからなくなりながら、偉度は、うむ、うむ、と頷きつつ、銀輪の顔は見ずに言った。
「さすが武人の娘だな、ふつうはここまで気が回らぬ。感謝する、うむ。休昭を追おう」
「まだ眠かったら、寝ていてもいいよ、偉度さん。休昭さんは、あたしが取り戻してくるから」
「ばか」
そこまで甘えられるか、と心のなかで付け加えつつ、あえて表情をしかめたまま、偉度は馬の鞍にまたがった。
道がぬかるんでいるおかげで、山の麓に止まっていた、真新しい安車の轍のあとは、すぐに見つかった。うまい具合に、成都のほうへと向かっているようだ。
偉度は北ヘと馬を走らせた。



趙雲とその部下たちが、駿馬にまたがり、一矢の如くつらなって街道を南へ駆けていく。
そのすこしあとを、孔明らが追っていく。
機動力という点においては、孔明が指揮している護軍(都の警備にあたっている部隊である)よりも、最前線で働くことを前提に鍛えられている趙雲の部隊のほうが上である。
とくに趙雲は馬に力をいれて部隊を鍛えていたので、その差が、それぞれの部隊の距離にあらわれていた。
趙雲は、ひたすら蒙鳩村へ向けて走っていた。
それを追うかたちとなっている孔明のほうは、すこし余裕があって、いま、趙雲がなにを考えているのかな、と想像しながら騎馬を駆っている。

結局は、偉度の勘のほうが当たっていたわけだ。
たしかに、このところの趙雲は、疲れていたせいもあるが、いささか頑なだったかもしれない。
けれど、まちがいがわかったからといって、言いわけもせずに、すぐに行動にうつす、そういう潔さが、孔明は好きであった。
だから、本来なら趙雲だけに任せておけばよいことでも、こうして一緒に付いてきているのである。
それに、蒙鳩村にいる偉度のことも迎えにいってやるべきだろう。よく見抜いたと、誉めてやらねばならぬ。

街道には多くの旅人が往来している。
ほとんどが行商人や、近在の農夫たちだ。
自分たちで収穫した野菜や、あるいは日用雑貨などを、大きな町に売りに行くのである。
そうして、ささやかに家計を支えているのだ。

南へ下っていくほどに、街道沿いにある集落の家の構えが、小さなものに変わっていく。
とくに、蒙鳩村のあたりは、あまり裕福ではない地域であった。水はあるのだが、山が邪魔をしてただでさえすくない日光を遮り、農作物の実りがすくないのである。
このあたりで養蚕技術を流行らせたら、こうした人買いなどという痛ましい事件はなくなるかな、などと考えていると、ふと、それまで猛然と南へ駆けていた趙雲の一行が止まっている。

趙雲らは、ある安車をぐるりと囲んでいた。
その安車は女物で、ほかにももう一台、おおきな安車があり、そのあとにつづいているものであった。
二台の安車は、前後に恰幅のいい騎馬を従えていた。
どこかの豪族か、それなりに裕福な家の持ち物のように見える。
見たところ、怪しいところはない。前後にいる騎馬にまたがっている人間は、羌族の若者を雇っているものらしい。
独特の、素朴な顔立ちと、褐色にちかい焼け方をしている肌の色で、それと見当がついた。

「どうしたのだ」
追いついて、趙雲にたずねると、趙雲のほうは、馬から降り、安車の幌をじっと睨んで、言う。
「気のせいか。この車のなかから、笛の音が聞こえてきたのだ」
「笛の音?」
風流好みが乗っていて、旅を盛り上げるために、笛を吹いているのかもしれない。
もちろん、趙雲もそれくらいは想像しただろうが、なにかが、長年の勘を刺激しているようで、横顔は厳しい。
「なんとも弱弱しい、旋律もめちゃくちゃな音だった。旅の風情を盛り上げるためにしては、おかしかろう。
おい、おまえたちの主人はどこだ」
趙雲が、羌族の若者に問うが、言葉がわからないらしく、早口でなにか言って、首を振っている。
そして馬を降りてくると、幌のまえに立ちふさがり、またなにか言った。

ある程度、羌族のことばには慣れていたが、かれらは訛りがつよく、なにを言っているのか、孔明にはわからない。
が、趙雲にはわかったらしく、おおいに眉をひそめると、問答無用で若者を押しのけて、女物の安車の幌をあばいた。

中には、よく見慣れた姿があった。
董和の息子の休昭が、なぜだかぐるぐるに縛られた状態ながら、なんとかそれをずらし、懸命に笛を吹こうとしているところであった。
趙雲らと目が合うと、休昭は助かった、というようなことを言ったが、これも聞き取れなかった。
それというのも、休昭は子どものように泣き出してしまったからである。

休昭を助け出し、そして、もう一台の安車を改めようとしたとき、部下たちの制止を振り切って、安車が動き出した。
趙雲は、それでもあわてることなく、部下の持っていた弓矢を受け取ると、安車の御者を、たった一矢で射抜いた。
御者のいなくなった安車は暴走し、街道から逸れて、しばらく、いじめられているネズミのようにぐるぐると野原を駆けたあと、馬ごと横転した。
横倒しになった安車の中からは、芝居小屋がつかうような、奇妙な衣装の数々とともに、人買いたちが飛び出してきた。
もちろん逃げる場所などどこにもない。
かれらはそれでもなお、近くに散らばった袋などを鷲掴みにして走って逃げようとしたが、高い調練を積んだ兵卒たちに追われては、手も足も出ず、結局、みな捕まった。

しばらくしてから、偉度と銀輪が馬に乗って南からやって来た。
そうして、孔明は、蒙鳩村をめぐる人買いの事件の全容を知ったのであった。



「結局、勝負はどちらの勝ちになるのでしょう」
人攫いから掬われて、ようやく人心地のついた休昭が、まず、口火を切った。
孔明らは、街道の要所要所にもうけられた駅を借り、ひと休みしている。
すぐに成都に帰ることもできたが、休昭や銀輪が疲れている様子を見せていたので、まず休んでから、みなで一緒に帰ることにしたのだった。

趙雲と偉度は、さきほどからまるで口を利かない。
趙雲は趙雲で、偉度の出方を待っているふうであるし、偉度は偉度で、意地っ張りなものだから、頑固に口を開こうとしないでいるらしい。
やれやれ、とちいさくため息をついて、孔明は答える。
「勝負は偉度の勝ちであるが、そうだな、八割方は偉度の勝ち、といったところか。のこりの二割は、わかっておるな。休昭を攫われた、爪の甘さがいかん」
「あの岩の魔力のせいでございます」
普段は言いわけをしない偉度が、めずらしく口をとがらせた。
「場所があそこでなければ、このようなへまはいたしませんでした。軍師が蒙鳩村へ行ったなら、きっとお分かりいただけるかと思います」
「あいにくと時間がないゆえ、行くことはない」
偉度はすっかりむくれて、孔明のことばに、ぷいっとそっぽを向く。
ときどき、偉度は思い出したように子供に後戻りするが、いまがそれであった。

孔明は、偉度が趙雲の態度にあれほど腹を立てた理由が、ようやく理解できた気がした。
要するに、偉度には趙雲に変わらぬ存在でいてほしいと願っている。
地位などの表面的なところはともかく、その思うところ、挙搓、風貌などは、同じでいてほしいと、子供のように願っているのだ。
そうであれば、偉度もまた、同じままでいられる。
長く子供のままでいられるのだ。

健全な思いではない。
純粋な子供時代というものを、捻じ曲げられて奪われた、かつての子供のわがまま、と言ってしまったら身も蓋もないが、それを責めることができるだろうか。
偉度の怒りが爆発して、こちらに向かってこなかった、ということは、偉度からすれば、わたしはまだ悪く変わっていない、ということか、とも孔明は思う。
つまり、変に老け込んでいない、世の中の悪い垢がついていない、ということだが、反面、あまり成長していない、ということでもなかろうか。

容赦のない子だと思いながら、孔明は、ちらりと偉度を盗み見る。
すると、偉度のほうも、ちらりと孔明を盗み見ている最中であった。
目があって、思わずたがいに逸らす。
なにをしているのやら。
血の一滴もつながっていないというのに、この子は日に日にこちらに似てくる、このふしぎ。
ともかく、偉度と趙雲を仲直りさせなければならない。

「偉度や、わたしはこれでも誉めているのだがね。最後の肝心な爪が甘かったけれど、おまえはよくやったと思う。
そも、おまえが蒙鳩村に行くといわなければ、いまでも人買いどもは、のさばっていたことであろう」
「たしかに。俺が家でであろうと一蹴した件については、反省せねばならぬ。あらためておまえには謝罪せねばな」
と、趙雲が孔明のことばに添えるようにして言った。

趙雲のよいところは、悪かったところは素直に認めて謝罪できるところである。今回は、すこしばかり時間がかかったけれど、まちがっていたと納得したら、軌道修正は早いのだ。
こうなると、手柄を立てた側でありながら、偉度のほうが、分が悪い。
孔明や趙雲ばかりではなく、休昭や銀輪の目線を受けて、偉度は、顔を熟れた柿のようにして、うるさそうに言った。
「ああ、ああ、わかりました。そも、勝負などと言い出した、わたしが悪かったのでございます。
わたしはおのれの爪の甘さを反省し、趙将軍には、思い込みのおそろしさを反省していただく、と。これでよいではありませんか。
蒙鳩村の若者がいなくなる、ということは、もう金輪際、ないことでしょう」
「たしかにそうだが、どうも妙な空気だな。おまえはもっと素直に喜んでよいのだよ。誉めているのに」
孔明がいうと、偉度はそっぽを向いたまま、
「べつにけっこうです」
と、よくわからぬことを言った。


その後、蒙鳩村から攫われていた若者たちは、つぎつぎと発見され、芋づる式に、人買いと、その斡旋をしていた者たちも捕まった。
同時に問題になったのが、人夫に対する賃金の低さや、斡旋業者と役人の癒着で、孔明はしばらくこの問題にかかりきりとなる。
蒙鳩村のまずしさは相変わらずであったが、家出を決意して、一度は村をあとにした方旬をはじめとする少年らは、村よりも、外の世界のほうが、よほど怖ろしい場所だということを知って、それから以降、村から出ることはなかった。

偉度は、あいかわらず孔明や趙雲の挙動に目を光らせて、たまに気に食わないことがあると、がぶりと鋭く噛み付く。
だが、孔明も趙雲も、村の事件以来、偉度の眼力に一目置くようになっていた。
だから、偉度のわがままと片付けず、ちゃんと耳を傾けるようになり、結果、ふたりが道を誤ったり、あるいは惰性の赴くままに老け込んだりすることは、ずいぶんとすくなくなった。
その点においても、やはり偉度の勝利なのであろう。



おまけ

それから、数ヶ月が経過した、ある日のことである。
孔明は、首吊り岩のすぐ下に立っていた
理由はというと、山と山に挟まれ、日光のささぬこの村に、あたらしい養蚕技術を紹介するためであった。
さいわい、山に磨かれているため、水はよい。
日が射さなくてもよく育つ桑を品種改良して、その苗を植えさせるところからの実験である。
蚕がよく食べる桑がうまく育つようであれば、実験のほとんどは成功といってよいだろう。

「見たこともない植物ばかりが生えている。子龍、もしかしたら、この岩場のまわりに桑を植えたら、実験はうまくいくかもしれないな」
孔明が呼びかけると、奇妙というよりは不気味さのまさる、人間の臓物そっくりの形をした実をつけた草木の茂るなかを、渋い顔をしてあるく趙雲が答えた。
「ろくでもない桑が伸びて、とんでもない蚕が育つ気がする」
「しかし、とんでもない蚕が、すばらしい絹を産むかもしれない」
「蚕が繭をつくるまえに逃げ出して、成長して蛾になって、逆にそこいらの畑を荒らしまわる害虫になったらどうなる」
「ふむ、あなたの足元にある草木を見ていると、たしかによい結果は想像できないな」
「俺もこの年まで、いろいろな場所を見てきたが」
と、趙雲は、胡散臭そうに、自分の周囲を見回す。
「うまく表現できないが、おまえがいま座っている、その赤い岩を中心としたこのあたり一帯は、まるで異界のようだ。
俺はさっきから、寒くもないのに悪寒がしてたまらぬ。おまえは平気か」
「いいや。なにかこう、嘔吐感ではないけれど、嫌悪感というのか、むしゃくしゃする感じというのかな、なにもかも捨てたくなってしまうような、そんな気持ちがこみ上げてくる。あまり長くいたい場所ではない」
「では帰るぞ」
趙雲がいうと、孔明は動かず、首をすこしかしげてみせた。
「そう急くこともなかろう。たしかに嫌な場所ではあるが、ふしぎと離れがたい場所でもある」
「あのな、そういう矛盾した気分の結果が、ここでの大量の首吊りを呼んだと思うぞ」

「そこなのだがね」
と、孔明は、岩に腰かけたまま、足を組み替えて、言う。
「戸籍台帳を調べるだけ調べてみたのだが、この村の自殺者というのは、噂ほどに多くはないのだ。
過去二十年まで遡ることができたが、自害したと思われる者は、年に二、三人だ。それも、過去のほうが多い」
「つまり?」
「うむ、例の人買いの一味が言っていただろう。この村は、そもそも流刑地のように利用されていたと。
村に流されてきた者が絶望して死んだと考えたら、村が出来たばかりのときのほうが、数が多いのもわかるだろう。
もともと、周囲の村にとっても、蒙鳩村は心象をよくする材料のすくない村だった。それゆえ、悪い噂を特に流されて、それが大きく膨らんでいった、ということもあるのかもしれない」

孔明のことばに、身近にあった草を手でむしってながめながら、趙雲はうなずいた。
「たしかに筋はとおる。しかし、蒙鳩村の人間は、あきれるほどに信じやすく騙しやすい、というのは事実だろう。
そこは、やはり、血が濃くなりすぎた結果なのだろうか」
「それもあるだろうな。嫌な話だが、周囲の部落からのけ者にされてしまえば、当然、結婚相手を外から、というわけにはいかなくなる。かなり近いところで結婚をくりかえしてきたのだろう。
外の世界をほとんど知らないままの人間が、さらに似たような人間と家庭を営み、どんどん閉鎖的で隔絶的な社会が出来上がっていく。その結果としてのこの村があるのかもしれない。
もともと、この岩を中心とする信仰集団のようなものがあり、それが村の基盤をなしていた、という特異な事情もあるからな」
「そこが俺にはよくわからぬ。いまおまえが足蹴にしているその岩は、村の連中にとってはご神体なわけだ。
そのわりには、扱いがぞんざいであるし、神のまえで死のうと考える、その感覚が理解できぬ。一種の抗議なのだろうか」
「抗議というより、『あなたの世界に一緒に連れて行ってください』というところではないのかな。あいにくと、そこは想像しかできないよ。
きっと、この村で生まれ育った者ではないとわからない感覚で、よその人間にはわからないものなのだろう。ところで子龍」
「なんだ」
「あなたの手にしている、その耳たぶそっくりの形をした莢のついている草、食べてみたらどうだ」
「どんな罰だ。こんな気味の悪いもの、食べたくない」
「偉度があとから思い出していたが、この岩場で強烈に眠くなったのは、その草を食べたせいではないかというのだ。
ここに生えている草は、なんらかの幻覚作用をもつ草で、そのために眠くなる。本当は飢えているのに、草を食べると腹が満たされると錯覚することもあるかもしれない」

趙雲は、その話を聞くと、しばらく、手にした草をじっと見つめ、それからつぎに、岩場から、自分を見つめている、年齢不詳の軍師(こんな山奥でも、やはり人目をひく、煌びやかな衣裳をまとっているところが孔明である)を見た。
「軍師、おまえが嫌がる話をしてよいか」
「なんだろう。でも、なんとなく予想はつくけれど」
「では言うが、もし、この草を増やすことができて、戦場で栽培できたら、どうだ」
すると孔明は、やはり、というふうに肩をすくめた。
「あなたにだから言うけれど、じつはわたしも考えた。この草があれば、わずかな食糧でも兵卒たちは空腹を訴えずに動く。兵糧の運搬も軽くてすむようになる」
「戦場の様子が、だいぶ変わってくるな」
「そうだ。けれど、大事なことを見落としてはならない。たいがいの薬が使い方をあやまると毒になる両刃の剣であるように、この草も同じく危険な面をそなえている。
偉度が言うことがほんとうならば、この草は幻覚を見せる力を持っているが、同時に、強烈な睡眠作用も持っている、ということだ」
「寝てばかりいる兵卒なんぞ、役に立たぬな」
「そう。それに、これも村の者には内緒だけれど、たしかに蒙鳩村の人間は、純朴というものを通り過ぎて、どこか大事な部分が欠けてしまっている者が多い。それは年長者に多く見られる傾向だ」
「それも副作用か」
「おそらくは。草を長く口にしていると、的確な判断能力や記憶力が鈍磨するのではないかな。きちんと確かめてみなければ、わからないけれど」
「村人たちが全員で試験をしているようなものか」
「だから、この草のことは、村の秘密にしておくといいと思う。
養蚕技術がうまく根づくといいな。そうすれば、すこしは余裕ができて、草を食べるようなこともなくなるだろう」
「あとは努力次第、か」
「そう、努力次第だ」
「この岩は、いったいなんなのだろうな。そして、この草は?」
「さあ」
孔明は、あっさり答えると、笑いながら、言う。
「神仙がほんとうにいるのかどうか、わからないけれど、きっとそれに限りなく近いものがいて、この岩はそのひとつなのだろう」
「それは、要するに、わからない、ということではないか」
「うむ、正直なところ、わからぬ。でもそれでよいではないか。なにもかもわたしが解いてしまったら、世の中、あたりまえのものばかりになって、ちっとも面白くなくなってしまうよ。謎だからこそ面白い、ということもあるからな。
さて、そろそろ戻ろうか。だれも気味悪がってついてこなかったけれど、おかげでゆっくり話ができた。眠くはならなかったと言ったら、偉度はどんな顔をするだろう。一緒に教えに行こう」

孔明が言いながら手を差し伸べてきたのを、趙雲は受け取って、岩から降りるのを手伝った。
その身を受けながら、あいかわらず羽根のように軽い、と思う。
身にまとう絹の、風になびくやわらかさが、よけいに軽いように錯覚させているのかもしれない。

偉度が、趙雲の偏見に腹を立てたとき、『こうであるべき』という像を押し付けられている気がして、あまりよい気分ではなかったのは事実だ。
だがそんな一方で、孔明にたいして、『こうであってほしい』と思っている自分もいて、これでは偉度とまったく変わらないと呆れてしまう。
しかし孔明のすごいところは、理想を崩すことなく、どころか、それを軽く凌駕して、思いもかけない面を見せてくれるところだ。
こいつがいるかぎり、俺は自ら死を選ぶような、そんな真似はしないだろう、と思いながら、趙雲は、孔明とともに、村へと戻って行った。

ご読了ありがとうございました(^^)/

おしまい。
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