桟雲たなびくふもとにて
五
雨があがり、朝陽がのぼると、偉度はすぐさま村長の屋敷を出て、『首吊り岩』のところへと向かった。
大雨のために道はぬかるんでおり、道はまるで、溶岩が通り抜けたあとのように、どろどろに溶けてしまっている。
そのため、休昭や銀輪も、馬車を出すに出せず、村長から痩せたろばを借りて、これに御者をのせ、陳到たちのいる宿へ、まだ動けそうにないと使いをだすことにした。
そうなると、道が乾くまでは暇になるので、休昭も銀輪も、偉度のあとにくっついてきた。
偉度としては、物見遊山に行くわけではない。
村長の屋敷でおとなしくしていてほしい、というのが本音のところであったが、二人の様子を見れば、村長の口からくりかえし語られる、陰鬱で奇妙な話から逃げたいのがありありであった。
見ているほうとしても気の毒なので、しぶしぶながらも、いっしょにつれていくことにした。
村では、総出で、泥の河のようになっている道を整備するもの、それぞれの田畑をなおすものなどで分かれて作業をしている。
昨日、四人の若者が消えた事実は、雨と一緒に流されてしまったとでもいうのか、村人は、かれらを探すための人出を割かないことに決めたらしい。
「村には村の事情があるのだろうけれど、わたしたちから見たら、冷たく思えてしまうね」
と、休昭が、だれに同情しているのか、悲しそうな顔をしてつぶやいた。
たしかに、昨日消えたばかりの若者に対し、村の人間が無関心であるようにすら感じられる。
偉度を先頭にして、『首吊り岩』へ向かう三人であるが、いちばん後ろからついてくる銀輪が、村人に聞こえないように、ちらちらと注意しながら、小声で言った。
「さっき、聞こえちゃった。消えた四人は、きっとまた仙人に連れて行かれたのだろうから、たぶん問題ないだろうって言ってたよ」
おどろいて、偉度は足を止めて、銀輪を振り向く。
「問題ない? どう問題ないのだ」
詰問するような偉度の勢いに、銀輪が口をとがらせた。
「あたしに言われても困るよ。でも、そう言っていたよ。仙人のところに行けば、いまよりいい暮らしができるはずだから、きっとそのほうがいいって」
「狂っている。仙人に連れて行かれたものは、二度と村に戻ってこられないということだろう。この村の連中は、仙人を神と混同しているのではないか。
いや、仙人だろうと神であろうと、意味もなく人を攫って、贅沢をさせてくれるような都合のいいモノが、この世に存在するはずないではないか」
すると、こういうときに中に入って場をやわらげる休昭が、口をひらいた。
「わたしたちからすれば、都合のいい存在をつくるしかないほどに、ここの村の人は、貧しい暮らしをしているもの。そこを責めてはかわいそうだよ。それにしても、すこし気味が悪いな」
「なぜ」
偉度がたずねると、崩れたあぜ道を整備している農夫たちを遠くに見ながら、休昭は答えた。
「だって、この村では、ほんとうに仙人がいるみたいじゃないか。伝説なんてものからはみ出しているよ。まるで、近所に本物の仙人が住んでいて、気がむくと村の人間を連れ去っているみたいだ。この村の人たちは、どうしてここまで仙人のことを頭から信じられるのだろう」
「仙人のほかは、ほかに助けてくれそうな人間が思いつかないからだろう」
偉度が言うと、休昭も銀輪も、もうそれ以上は言わずに、無言であとにつづいた。
山の麓にある『首吊り岩』にたどりつくまで、偉度は、墓場以上に陰惨で、気持ちが塞ぐ場所を想像していた。
だが、おどろいたことに、鬱蒼たる林のなかを通る、きつい、ずるずると滑る坂道を抜けたあと、唐突に視界がひらけた。
『首吊り岩』は、山道を行き、竹林をさらに抜けたその先の開けた場所に、どんと鎮座していた。
そのあまりの大きさに、『岩にやって来た』というよりも、『岩に会いにきた』という感覚におそわれる。
それほどに存在感のある岩である。
色も黄味がかった赤色で、近づいてみれば、偉度の背丈の三倍はあった。
むかし、首吊りにつかわれていたという松は、枯れてしまっていまはなく、岩の周辺には、おなじ色をした小さな岩が(といっても、どれも偉度の背丈以上の大きさであったが)ごろごろと転がっている。
大切にされているのは確かなようで、岩肌に傷はない。
触れると、ざらりとしていた。
岩の周辺には、いままでに見たことのないような葉をもつ草花や、おかしな斑模様の茎をもつ草、人の臓物を思わせるような、不気味なかたちをした花などが生えている。
果たして、これが村人がいうとおり、ほんとうに美味なのだろうか。
あやしんで、偉度は、なんとか口に入れてもよさそうな若草を選ぶと、それをつまんでみた。
何度か咀嚼して、味をたしかめてみて、当初は渋かった顔が、しだいにまろやかになる。
なるほど、青臭さはきついが、その味は、ふだん口にしている菜っ葉などよりも、甘い。
ついでに、思い切って、なにかの臓物にそっくりな形をした実を生やしている、みたことのない木の、その実を口にしてみる。
すると、これがおどろいたことに、肉の味そのままであった。
見た目が臓物に似ている、というところが、なにかの皮肉のようにも思えたが、たしかに村長が言ったとおり、この岩の周辺の草木が、どんな飢饉がおころうと枯れることがないのであれば、この土地を離れたがらない村人の気持ちがわかってくる。
ちょうど、岩の周辺に、護衛のように侍って転がっている、中くらいのおおきさの岩を階段がわりにして伝っていくと、首吊り岩の天辺にのぼることができる。
偉度は思い立って、ひょいひょいと、身軽なところを見せて、岩の天辺にのぼってみた。
天辺に立ったとたん、視界が一変した。
首吊り岩は、ちょうど村にのしかかるようにしてある、山と山の、その裂け目の中間に位置するかたちで、鎮座していた。
そのため、岩の天辺からは、これまで登ってきた山の斜面や村の様子に加えて、その周辺の山の稜線や、そのほかの集落、表街道などが見渡せる。
陰鬱で、閉塞的な、まずしい村に住むものが、岩の天辺にのぼったとたん、雲の上に乗ったかのような視界を得られる。
このはげしい落差が、人を混乱させ、仙人だの羽の生えた蛇だのという、奇妙な伝説を生んだのかもしれない。
遠くの山々の、その山頂のあたりにたなびく雲が、ゆっくりと流れて行くのが見える。
表街道を移動する旅人の姿、集落と、その周辺にひろがる田畑で、大雨の爪あとと戦うひとびと。
黒い背中を見せて、人とともに働く水牛。
山は果てしなくつづき、そして、その間を縫うように、街道が走る。
若者ならば、この岩の天辺に登ってみるだろう。
そしてここからの眺めを見たとき、なにを思うだろうか。
偉度は、岩の天辺に座り込むと、そのまましばらく、目の前の光景をながめていた。
「偉度さん、だいじょうぶ?」
声をかけられて我に返れば、ぬかるんだ山道を登ると聞いて、男装をした銀輪が、岩のふちから、ひょっこりと顔を出していた。
「大丈夫もなにも、ただ風景をながめていただけだ」
変なことを言うやつ、と偉度は付け加えるが、銀輪は、偉度のつっけんどんな態度に、もともと動じない少女である。
いくら冷淡にあしらわれようと、平然と流してしまい、滅多なことで怒ったり、悲しんだりしない。
だからこそ、十以上も歳の離れた少女に、偉度は、ときおり甘えている自分を見つけて、うろたえるのであるが。
銀輪は、岩の天辺に、おなじように登ってくると、風景を眺めつづける偉度のところへ近づいてきた。
「うわあ、すごいねえ」
と、銀輪が最初に発したのは、その声だった。
「空がこんなに広いよ。手を伸ばせば、雲だって掴めそうじゃない? あんなに遠くにあるものだけれど、ぜんぶが手に入りそうに思えるよね。
狭い土地に住んでいる村の人が、この岩を大切にする理由がわかるなあ」
「そうだな」
応じつつ、ふと、おそらく孔明も、この景色を見たら、おなじ感想を持つだろうなと、偉度は思った。
思ったついでに、たずねてみる。
「銀輪、おまえがこの村の人間だったとする」
「うん」
「一晩の宿を借りておいて、こういうのもなんだが、この村は正直、住みよい場所ではないし、よほどではないかぎり、住みたいとは思えない。
貧しいからというのではなくて、日あたりもわるいし、山に挟まれて、窮屈だからだ」
「うん」
「で、あるとき、思いついて、この岩の天辺に登ってみる。すると、ひろい世界を一望できることができた。
けれど、その『ひろい』景色すら、まだまだ一部だということに気づいく。どう思う」
銀輪は、真面目な性分なので、しばらく考えてから、やがて答えた。
「出て行きたいな、って思うかもしれない。もし目の前にある景色が、似たように暗い感じの土地だったら、こんなものかな、って思うかもしれないけれど、そうじゃないもの。
こんなに広い世界で、どうしてこんな狭い村にいなくちゃいけないんだろう、とか、あそこに通っている街道を見て、あの道はどこに続いているのだろうとか、そういうふうに思うかなあ」
「やはりそうか」
ここがかつて、自殺の名所だったという理由も、そのあたりにあるのだろう。
世がこれほど乱れるまでは、寒村とはいえ、役人の目はきびしく光っていた。
だから、逃げるという形をとるにしても、残される同族のことを思えば、村人は逃げることをあきらめるほかなかった。
それに、もし逃げることに失敗をすれば、見せしめのために、容赦ない拷問が待っている。
逃げたいのに逃げられないという絶望が昂じたとき、この岩から見える絶景は、
『目の前にありながら、つかめそうでつかめない』
残酷なものに転じるだろう。
そして、村人は、この土地に生まれた者の運命に絶望し、首をくくったのにちがいない。
『これは、やはり、負けかもしれないな』
そんなことを思いながらも、ふしぎと敗北感はうすい。
彼方に見える山々の、そこにたなびく、天女の衣のようなうすい雲を眺めながら、偉度は、かつて自分がいた『村』を思い出していた。
あの『村』で、もし、こんな光景をいつでも見ることができたなら、どんなだったかな、と想像してみる。
死に物狂いで逃げ出しただろうか。
それとも、絶望のあまり首をくくっただろうか。
『村』から、訓練が終わったとみなされて、下界に送り出され、広い世界を見たときに、こんなものかと失望したことを覚えている。
狭く密閉した社会のなかで、無理矢理に詰め込まれていた教育のおかげで、偉度は、たいがいの人間よりも、優位さを示すことができた。
学識や体力の差だけではなくて、思想や立ち居振る舞いなどにおいても、自分より優れた人間を見つけることはできなかった。
思えば、そのことが、たとえ一時期にしろ、自分たちが選ばれた人間ではないか、むしろ村に感謝すべきではないか、と勘ちがいをおこした原因だったように思える。
それを一気に覆してみせたのが孔明で、決定打を与えたのが趙雲だった。
自分に、ほんとうの意味での親はいなかった。
そんななかで、文にすぐれて、人格的にも偉度を凌駕してみせた孔明と、武にすぐれて、やはりおなじく人格的に偉度の上をいった趙雲と、あのふたりが導き手となって、偉度は、人の目指すべきもの、ほんとうに大切にしなくてはならないものを知ることができた。
あの二人に出会ってから、生れ変わった、と言い切れる。
だからこそ、あの二人には、つよい幻想を抱いているのだろう。
だが、幻想は幻想であって、現実ではないのだ。
日々を重ねていくなかで、すべてのものが移ろっていく。
変わらないものはない。
出会ったときの趙雲は、いまよりもっと柔軟で、けして思い込みだけで動くことがない人物だった。
だが、経験が邪魔をして、頑固になってきていることも、また現実だ。
それをがまんできないと騒ぐのは、自分の器量が狭いからか。
それとも、まだまだ、自分が子どもであるからか。
「まだわからないよ」
と、となりに座っていた銀輪が言った。
「なにが」
「趙将軍と勝負しているのでしょう。村の人が家出したのか、それとも別の理由があるのか、まだまだわからないよ。元気出してよ、偉度さん」
ああ、そっちか、と偉度は思いながらも、相槌を打った。
「元気はあるさ。すこし、昔のことを思い出していただけだ」
「昔って、いつのこと? 偉度さんって、義陽の生まれだったよね。そこのこと」
「義陽ではないが、荊州にいた頃のことかな」
それ以上の話はしたくなかった。
荊州での生活は、なるべくなら語りたくない。
どの思い出も、しまいには、かならず悲しい想い出に繋がってしまうからだ。
「ところで、休昭はどこへ行った」
と、気持ちを切り替えるために、偉度は、休昭をさがす。
岩を中心に四方を探ってみると、あきれたことに、董和の息子は、岩のすぐそばの、真平らのまな板のような岩のうえで、大の字になって、ぐうぐうと眠っているのだった。
「あきれたものだな、それが士大夫の振る舞いか」
偉度が叱りつけると、休昭は、悪さをしていたところを見つかったねずみのように、びくりと身体をふるわせて、ふだんが嘘のように、俊敏に起き上がった。
ねぼけているのか、きょろきょろと周囲を見回している。
「おい、上だ、上」
偉度があきれて言うと、休昭は、恥ずかしそうに、頬を桃の花びらのように染めつつ、顔をあげて、抗弁した。
「いきなり怒鳴ることはないだろう。せっかくいい気持ちであったのに」
「莫迦。だからといって、そんなふうに無防備に寝るやつがあるか。
まったく、しつけがよいのか悪いのか、ときどくわからなくなるやつだな。文偉の影響か?」
ぶつぶつ言いながら、『首吊り岩』の天辺から偉度が降りてくると、休昭は、寝乱れていた衣を直しつつ、頬をふくらませている。
ちなみに、この場に銀輪がいるわけであるが、休昭の認識のなかでは、銀輪は子どもなので、多少ぶざまなところを見られても、恥ずかしいと思えないのである。
「ゆうべは、雨粒が雨戸にあたる音で、妙に目がさめて眠れなかったのだよ」
と、休昭は言った。
こいつ、枕がちがうと眠れないとか言う輩だな、乱世につくづく向いてない、とさらに呆れつつ、偉度は言う。
「だからといって、こんなところで大の字になるやつがあるか、みっともない」
「そうぽんぽん言わなくてもいいではないか。ここでぼおっとしていたら、なぜだか強烈に眠くなったのだ。
偉度だって、めずらしく大人しくしていたじゃないか」
こいつの中のわたしは、相当に騒がしい人間なのだなと思いながら、納得するところもあったので、偉度は『首吊り岩』をふりかえった。
たしかに、ふしぎと磁力のある岩である。
肌が岩に触れているだけで、なぜだか妙に離れがたくなる。
岩肌は、太陽の光を吸収して温かく、熱気が岩全体からたちのぼり、そのせいで、近くにいる偉度たちも、頭がのぼせているのである。
といっても、その熱は、鬱陶しいほどのものではなく、まるで生物のからだに身を寄せているときのように、心地よい。
そのせいか、たしかに休昭が言うとおり、ここにいると、身体がだるくなってくる。
「うん、あたしも眠くなってきたよ」
と、休昭を助けるかたちで、銀輪が言う。
おまえは寝るなよ、と軽口を叩きつつ、偉度は考えた。
「仙人だの羽の生えた蛇だの、ほんとうにいるとは思われない。けれど、村人はそいつらが本当にいると信じている。なぜだろうな」
「なぜもなにも、夢ではなくて、村の人は、ほんとうに見たと思ったのかもしれないよ」
この場に趙雲がいたら、寝ぼけるな、顔を洗って来いと一喝されそうなことばを、呑気に休昭が口にする。
軽蔑のまなざしで偉度が休昭を見ると、休昭のほうは、侮辱されたことで顔を赤くして、言った。
「偉度も、わたしと同じように、その平らな岩のうえで横になったら、わかるよ。
さっき偉度に怒鳴られて目が覚めたとき、岩にしなだれかかっている竹の先が、まるで蛇に見えたもの」
その言葉を聞いて、銀輪がさっそく休昭の真似をして、まな板のような岩のうえに、仰向けに横になり、まぶたを閉じたあと、ぱっと、目を開いてみせる。
すると、なにが面白いのか、笑いながら、言った。
「ほんとうだ。竹が蛇に見えるよ」
「枝の先に、紐がからんでいるようだ。それでよけいに蛇に見えるのだよ。風で飛ばされてきたのかな」
と、休昭が竹を見上げて言う。
「竹に紐がからんでいるだと? どこの竹に?」
偉度が、おなじく見上げながら探すと、休昭は、岩にしなだれかかっている竹のなかでも、いちばん太いものを指さした。
それは、よく見なければ、竹に絡まる蔦のようにも見えたにちがいない。
偉度は目をこらし、上空にある紐をにらんだ。
風に飛ばされて絡まっているというふうではない。
はっきりと、その先端に、紐がしっかりと結ばれているふうに見える。
「なぜ、あのようなところに、紐を結わえる必要があったのだ?」
思わずつぶやくと、休昭が答えた。
「あそこで首を括ろうとしたとか」
が、偉度はすぐさまそれを却下する。
「莫迦。あんな高さまでよじ登って、首吊りのための紐を結わえる元気のあるやつが、死のうなどと考えるものか」
「そうかい? 死にたいと思うからこそ、頑張るかもしれないよ」
「だったら、それこそここに来るまでにたくさんあった、杉や松のような、登りやすい木に紐をかければよかろう。竹を登るなんぞ、至難のわざだぞ」
「そうだよね、あんなところまで登れるなんて、よっぽど身が軽いんだね。猿みたい」
銀輪が言うと、休昭も、うなずいた。
「もしかしたら、猿が悪戯したのかもしれないよ」
「猿ではなく、人間が悪戯をしたのかもしれない」
偉度は竹を見上げながら言うと、紐の結わえられている竹のほかに、似たような細工がされている竹がないかどうかを探した。
枯れた竹の葉が、何層にも重なっている地面を、すべらないように注意しながら進むと、ほかにも、似たように、紐がぶら下がっている竹や、あるいは、根元に紐を幾重にも巻いた跡のある竹が見つかった。
「だれかが、竹の先になにかをぶら提げようとしたのだ。その細工をするために、鉤のようなものを使って竹の先端をとらえてしならせ、そして細工をしているあいだ、竹が動かないよう、竹と竹を紐でつないで押さえた」
「なにをぶら提げようとしていたのかな」
休昭は、顔をひきつらせて、気味悪そうに竹林を見回しながら、言った。
「まさか、人、ということはないよね?」
「かもしれぬ」
偉度は言って、ふたたび竹林の上空をにらみつけた。
「人は人でも、『仙人』かもしれないぞ」
蒙鳩村をおそった雨雲は、夜遅くに成都にやってきて、さんざんに人家の屋根を叩いていったあと、朝方に去って行った。
こうなると、成都のあちこちで、溝が枯れ葉で詰ったとか、橋が流されたとか、どこそこのだれそれが、昨日から姿が見えないとかはじまるので、手の空いている兵たちは、この復旧作業に借り出される。
これも訓練の一環なので、指揮をとる者もかれらに同行し、現場にいる治水工事を担当する役人と相談しながら、作業をすすめていく。
趙雲も、兵卒といっしょに、雨上がりの成都の町へと繰り出すことになった。
趙雲の担当する部隊は、平時は、主に成都の警護を担当している。
ほかの部隊より、街の様子を把握しているということから、復旧作業ではなく、訴えがまだ起こっていない場所で、大雨の影響が出ているところはないか、見てまわることとなった。
大雨のせいで川が氾濫し、家が浸水してしまった地区を見舞ったり、逃げ遅れて、成都のなかを流れる川の勢いに呑まれてしまった家畜を引き上げたり、崩れそうな橋を見つけては、人が渡らないように立札をつくって、臨時の橋を架けたり。
そんな作業に追われているうちに、あっというまに昼になった。
兵卒たちに休憩を取らせようと、どこか適当な場所を探している趙雲の視界に、どこかで見たような人影が、馬にまたがって駆けてくるのが見えた。
それが誰かわかったとき、伴もだれもつけていないのを見て、趙雲はおおいに眉をひそめた。
あいつは、なんだって、偉度がそばにいなくなると、途端に野放図になるのだろう。
泥を盛大に跳ねながら、孔明は、趙雲のところまでやってくると、めずらしく息を切らせて、言った。
「子龍、例の街のそばで、水死体が見つかった。溺れたのではない。斬られたようだ」
いやな予感にとらわれつつ、趙雲はたずねた。
「だれが殺された」
「草履屋だ。昨日、わたしたちと話したあとに、だれかに殺されてしまったのだろう。これは偶然ではあるまい。
やはり、蒙鳩村で人が消えるのには、なにがしかの暗い理由があるのだ。そして、それを隠したがっている者がいるらしい。
子龍、左将軍府事として特別に命令する。兵とともに、いますぐわたしと供に来てくれ」
「どこへ行く」
「例の町だ。さきほど屯所に密告をしてきた者があって、殺された草履屋は、ある品物を裏へ流す仕事を請け負っていたらしい。
わたしたちがやってきたのを見た仲間が、草履屋から商売のことが暴露されるのではと恐れて、殺してしまったそうなのだ。
その密告をしてきた者は、だれであったと思う? 肉屋だよ」
「肉屋が?」
趙雲の脳裏には、流浪人のつどう街のなかで、『羊の肉』と声をはりあげて肉を売っていた商人のことが思い出された。
「その商売をしている連中の根城に、いま屯所の役人を配している。連中がどのような商売をしているかはまだわからぬが、話の次第によっては、偉度があぶない。これから蒙鳩村へ向かうことも覚悟していてくれ」