桟雲たなびくふもとにて
四
どこにでもあるような、谷あいのちいさな、まずしい村。
名前を蒙鳩村といい、谷あいに埋もれるように、ひっそりとある。
その村の者たちは、よく消える。
消えるほとんどは、若者であるという。村があまりにまずしく、そして夢も希望も持ちようがないほどに逼塞した地のなかにあって、近在の村からも嫌われているほどであるから、若者が、将来を悲観して、逃げ出してしまうのだろうと、世間では思われている。
とはいえ、村人が簡単に土地を離れることはできない。
人が土地からいなくなれば、その土地から得られる税がとれなくなる。
だからこそ、大地主や役人たちは目を光らせて、逃亡者がないように注意をする。
だが、蒙鳩村の若者は、そんな世間の仕組みもおかまいなしで、消えてしまったあと、その行方が知れることは、まずない。
よほどうまく隠れているのか。
あるいは、逃げた者たちが庇いあっているのか。
どちらにしろ、追っ手をまいて逃げるには、大きな街にまぎれてしまうのがいちばんだ。
集っているのか、それともばらばらなのかは不明だが、もし村人が村から逃げているとしたら、流れ者のあつまっている街にいることには、まちがいがない。
趙雲と孔明は、身分を隠して、蒙鳩村のことについて、あれこれと尋ねてまわったが、成果はかんばしくなかった。
この街の流儀は、他人のことを詮索しないこと、である。
あれこれ尋ねてくる者に対しての警戒心は、半端ではない。
まして、孔明も趙雲も、街に馴染んでいるとはいいがたい風貌だ。
大人しくまとめているつもりでも、やはり纏っている雰囲気は、そうそう容易に変えられるものではないのだ。
たいがいが、なにかから逃げた者たちがあつまるこの街では、みなが敏感だ。
だから、趙雲も孔明もあからさまに警戒されて、なにも聞きだせないのである。
「簡単に考えすぎていたかな」
と、めずらしく孔明がこぼした。
孔明は、もともとは内気な性質だから、ふだんは自分から人に近づくことはしない。
けれど、職務のためとなると、がらりと変わって外向的になり、みずから、あれやこれやと積極的に人にかかわる。
そうなると孔明の勢いに呑まれないですむ人間は、まずいない。
が、この街の人間は、どうやら例外であるらしく、孔明がにこにこと、愛想よくして近づいて言っても、だれも笑顔で応じない。
酒や干し肉で釣っても、効果はない。
なので、めずらしく孔明はこぼしているのであった。
夕闇がせまってくると、市場のあちこちに明かりや焚き火がともされて、その周囲に人が集まっている。商売をしている者もいれば、単にあつまって、囲碁や双六などに興じている者もいた。
一方で、一日の労働に疲れ果て、地べたにそのまま横になって眠っている者すらいる。
こうした者たちが日中、いったいどこへ働きに出かけているのか、気になったが、いまは、そこを探っている場合ではない。
「もし村を捨てて逃げたのなら、この町に紛れているのはまちがいなかろう。しかし、町の人間が、こうも頑なでは、探ることは容易ではない。
酒で釣るのがダメとなると、いちばん単純な方法は、どこかの店に客として入って、買えるだけ買って、相手を油断させて聞き出すのがいちばんだろうな」
趙雲の提案に、孔明も、それがよかろうと同意して、この街のなかでも、口の軽そうな店主を選んで、話を聞くことにした。
最初の、ニ、三軒は、まるでだめで、単に銭を失っただけであった。
四軒目の肉屋にいたっては、肉切り包丁で追いかけられるはめになった。
そしてようやく五軒目の店(店といっても、ちゃんとした軒のある店ではなく、ぼろぼろで継ぎだらけの天幕のなかのことである)の草履売りが、蒙鳩村について、詳しくしっていた。
「あの村のことは、有名だからね」
と、草履売りの老人は、うんうんとうなずきながら、答えた。
「なぜ有名なのだ」
孔明がたずねると、老人は、目をきょろりとうごかして、おどけた表情で言う。
「それはもちろん、連中が、おかしなことばかり言うからですよ。羽根のある蛇が空を飛んでいただの、仙人が岩をめざして降りてくるだの、とても信じられないようなことを、連中は、さも本当のことのように話ますからね。
それでいて、語り手本人は、空を駆ける蛇や仙人を、じかには見ていない。それなのに、本当だと信じているのだから、笑うしかないじゃありませんか」
「なるほど」
「村の連中は、じぶんたちの先祖が、お役所から、いわれない罪をかぶせられて追い出されたえらいお役人たちだと言っていますがね、ほんとうはそうじゃありませんよ」
と、草履売りの老人は答えた。
草履売りは、なにか曰くありげな、自身がまるで仙人のような風貌をした老人で、ことばに訛りがなく、趙雲がたずねても、気圧されることもなく、はきはきと答えた。
趙雲が、駄賃のついでに丈夫そうな草履を買い求めると、孔明もまた、それにならって、めずらしそうに草履を手にして、自分の分も買った。
孔明は着道楽であるから、いつも衣にあわせた、洒落た沓を履いているので、めったなことでは、草履に足を入れることはないのである。
本人は、『わたしが、人前で草履を履いて移動せねばならなくなるような事態になったときは、おそらく巴蜀の危機であろう。わたしの、この動きの悪いと不評な沓は、巴蜀の平和の象徴なのだ』とか、わけのわからない理屈を展開している。
なぜ孔明が草履を好まないか、その理由の実際のところは、見てくれの悪い粗末な草履を、洒落た衣に合わせたくないという、孔明の意地によるところが大きいのだ。
「あの村は、行ったことがあるのならご存知でしょうが、山に挟まれて日も差さず、田畑も痩せた、いいところのなにもない土地です。
もともと、あそこにいる連中は、山から降りてきた連中なのですよ。むかしは、もっと山の奥深いところで、みんなで住んでいた。
けれど、どうした心境の変化か、山を下りて、麓に集落をつくって住むようになったのです。麓に下りてきた理由が、連中らしいのですが、『首吊り岩』が落ちたから、だそうなのですよ」
首吊り岩なる、不吉な名前のついた岩については、趙雲は初耳であったので、いったい、それはなんなのかと尋ねた。
すると、老人は、からからと笑いながら答える。
「いや、文字通り、その岩のそばに、大きな松の木がありまして、村の生活がいやになった人間は、そこの木の枝に縄を引っ掛けて、自分で人生をおしまいにするのが、村の習慣のひとつみたいになっていたのです。
まあ、あんな面白みのなにもない、貧乏で薄暗い土地にいたら、だれだって人生が嫌になるでしょう。まともな人間は心がふさいで首をつり、そんなことをまるで気にしないでおられる、どこか抜けている、おかしな連中だけが生き残った。ただ抜けているだけじゃなくて、言うことにしても、とびきりおかしな連中だから、ほかの村の者たちは、付き合いを避ける。
となると、仕方がないから、おかしな連中だけが、村の中で、それぞれ婚姻をくりかえすことになる。そうしたことをくりかえしているうちに、村の人間は、ほんとうにおかしな連中ばかりになって、だれも首は吊らなくなった。けれど、名前だけが残った、というわけですな」
「さきほど、首吊り岩が落ちた、と言っていたが、どういうことだろうか」
草履の強さをたしかめて、曲げたり、ひねったりして感心していた孔明が、口をはさんだ。
すると、老人は、答える。
「かなり前の話になります。それこそ、時代が漢より前のことだという話です。わたしが聞いた話によれば、むかしは山で狩りをして暮らしていた村の人間は、山の中腹に生えたように鎮座していた赤い岩を、山の神の代わりとして崇めていたそうなのです。
ところが、その神さまの代わりが、土砂崩れで麓まで落ちてしまった。そこで、村の人間も、それを追いかけて、麓へ降りてきたというわけですよ。村が、成都から追放された人間が落ち延びた場所だった、というのは、まるで嘘ではないかもしれませんが、村のほとんどは、むかし、山で暮らしていた人間の子孫だと聞いています」
「しかし、羽根の生えた蛇だの、仙人だの、あまりに突飛だな。まさに山海経そのままではないか。そのうち、一本足の人間やら、唄う魚なども登場しかねない」
孔明が真剣に言うと、老人は、冗談だと受け止めたらしく、また声をたてて笑った。
「いや、そのとおりでございますよ。連中ときたら、ありもしないことを、さも本当のように語る名人なのですから、騙されてはいけません。
逆に、連中を騙すこともたやすいのですがね。ともかく信じやすい」
「言い伝えを信じているから、まるで幻を、ほんとうに見たように言うのだろうか」
孔明がたずねると、老人は、綿毛のように真っ白な髭をしごきながら、言う。
「さあて、連中が言うには、仙人たちは、どうしたわけか、首吊り岩にしかあらわれないそうで、そこになにか秘密があるのかもしれませぬ。
首吊り岩には、たしかに霊験といいましょうか、不思議な力があるようでして、その岩の周囲では、どんな凶作の年だろうと、植物が枯れたことがないそうです。
それも不思議なのですが、岩の周囲に生える草花は、よそで生える草花とちがって、口に入れると、おそろしく美味だとか。おかげで、飢饉が起こっても、岩のまわりに生える草のおかげで、あの村の人間だけは、飢えることがないのだとか」
「それは面白いな。岩が、山の神と崇められていた理由はそこだろう。だからこそ、土砂崩れとともに岩が落ちてしまうと、村人の先祖はわざわざ自分たちの暮らしを捨ててまで、岩を追いかけて麓へ移住したのだ」
「岩の不思議な力というのは、なんなのだ」
と、趙雲がたずねると、孔明は真顔で答えた。
「山の神の力だろう」
「冗談ではなく、真面目に答えろ。どう思う」
「どうもこうも、神のことまでわたしが知るか」
孔明としては、どうやらはぐらかしたり、茶化したりしているのではなく、本気でそう考えているようだ。
すなわち、神秘は神秘で、容易にわかるものではない。
理論家である趙雲にはなかなか納得できない考え方ではあるが、直感とひらめきの人、孔明には、そのあたりの曖昧な線引きは、簡単にできるものらしい。
「まあいい。じいさん、あんたずいぶん詳しいみたいだが、もしかして、蒙鳩村の人間に知り合いでもいるのか」
趙雲がたずねると、それまでほがらかであった老人の表情に、とたんに警戒の色が浮かび上がった。
日が落ちてもなお、賑わいつづける市場のなかで、素早く周囲に目を配る。
その目線は、追っ手をおそれて周囲をうかがうネズミのように油断がない。
それまで、場に似合わない、品のよい老人だと思っていた相手が、急に怪しげな本性を見せたので、趙雲はさすがに薄気味わるく思った。
「あんたたちは、役人かなにかか」
「役人だったら、どうなる」
答えをあいまいにして、質問に質問で答えると、老人は、とたんに嫌悪の情をあらわにして、鼻を鳴らした。
「だったら、こちらに話すことは、もうないよ。村のことで知っていることは、すべて話した。厄介事は困る。さっさとあっちへ行ってくれ」
「厄介事と言ったな。どういうことだ」
趙雲がことばを捕らえてたずねると、老人は、今度こそ不快感をあらわにして、手ぶりで趙雲を追い払う仕草をした。
「いいから、失せろ! ここで、役人がいると騒いでもいいんだぞ!」
騒ぎは困る。
もし、役人がいると知ったら、たとえそれが自分たちを追っている者ではないとしても、ここの街の人間は、一致団結して、寄ってたかって殴りかかってくるだろう。
凶暴になった群衆ほど、始末に悪いものはない。こちらこそ、厄介ごとはごめんであった。
趙雲は、まだ話を聞きたそうにしている孔明をうながして、老人が騒ぎだすまえに、その場を離れることにした。
市場のあちこちで、星のように明かりがともされて、それぞれに人々が集って、今日の仕事の具合をたずねたり、怪しげな商談をまとめたりしている。
闇に浮かび上がるその姿は、ここが流れ者のあつまる街だと思うからこそ、そう感じるのか、みな幽霊のように見えてきた。
いったい、人生のどこをどう間違えてしまえば、こんな吹き溜まりのような場所で生きることになるのだろうと、趙雲は考える。
きびしい生活から逃げた代償だというのか。しかし、ここをひどい場所だと思うのは、自分が恵まれているからで、もっとひどい場所から流れてきた者たちにすれば、ここは理想郷と言ってもいいほどに、すばらしい場所なのかもしれない。
「あの老人は、おそらくむかし、官吏だったのにちがいないよ。おそらく不正かなにか、世間に顔向けのできないことをして、逃げているのだろう」
と、草履売りの屋台からだいぶ離れたあと、孔明は言った。
「なぜわかった」
趙雲がたずねると、孔明は、当然のことだ、というふうに肩をすくめ、そして言った。
「指にタコができていた。草履を編みつづけたところで、指の最初の関節にあんなふうに大きなタコはできないよ。
あれは、四六時中、筆を握っていないとできないものだ。学が多少ある人間が、なぐさみに字を綴る程度では、あんなふうにはならない。
そこから考えれば、朝から晩まで文字を綴ることを、それこそ何年も生業にしていたのだと考えるのが自然だろう。そこから素直に考えれば、役人だな。
蒙鳩村のことをあれほど詳しく知っていたからには、そのあたりに赴任していたのではないか」
言って、孔明はそこで、ぴたりと足を止めて、草履売りの店があったほうを振り返った。
趙雲もつられて足を止める。
「どうした」
「いや、さきほど、あの老人は妙なことを言ったな。騙しやすいとかなんとか」
「ああ、そうだな、言っていたな」
「蒙鳩村の人間を、騙したことがなければ、どうして騙しやすいなどとわかる。『そうだ』とか、『らしい』とかいう伝聞ではなく、断定していた。まだなにか知っていると見てよかろう。子龍、戻るぞ」
趙雲の返事を待たず、孔明は草履売りの店へと戻っていく。
趙雲は、それを追いかける形になったのであるが、老人が店を開いていた場所をふたたび訪れると、そこにはぽっかりと空間ができているばかりで、老人の店はどこかへ引き払ってしまったあとであった。