桟雲たなびくふもとにて
三
雨雲は、村をいじめているかのように、まるで動く気配を見せず、ひたすら大粒の雨をおとして、人家の屋根を打ちのめしつづけた。
そのはげしい雨音は、村長の屋敷で雨宿りをしている偉度、休昭、そして銀輪たちの耳朶をもなかば塞ぐ。
まだ明るさを残している屋外は、しかし、大雨のために、道がまるで河のようになってしまっており、とてもではないが、馬車を出せる様子ではない。
『街道からそれた村であるからか。一度の雨で、これほど道が崩れるとは、まるで整備がされていないということか』
と、偉度は、濁流のようになった道を見て思う。
見るものすべてが、陰鬱な気持ちにさせる村である。
迫ってくるような山の、どこか素っ気なさのある冷たいむき出しの岩肌も、村の雰囲気が暗く見せているのかもしれない。
村長の屋敷は、たしかに村のよその家よりは、まだまともではあったが、それでもすこしまし、という程度のものでしかない。
もしも、この村に生まれて、ずっとここで過ごさねばならないと思ったなら、どんなふうに考えるだろう。
ときおり、村を通る、よその土地の者たちを、うらやましく思わないだろうか。自分も外にでたいと、そう思わないか。
村長はめずらしい遠方からの客をもてなそうと、あれやこれやと世話をしてくれるのであるが、耳が遠いらしく、その姪だという、ほかの村人と似た風貌をした、痩せぎすの女性の通訳がないと、まともな会話ができないありさまであった。
本来は短気であるが、仕事のこととなると、とたんに根気強さを見せる偉度は、趙雲の言っていた、『悪夢のような話ばかりする嘘つきの村』ということばを覆すべく、気を取り直して、その証拠をにぎろうと、親身になって村長の話を聞きつづけた。
休昭は、年長者は尊重すべしという、父の教えを守って、偉度とともに村長の話しを聞いているが、これはフリだけなのは、ちぐはぐな受け答えからわかる。
やはり躾のいきとどいた銀輪も、表には決して出さないけれど、困惑しきっているのは、おなじようなものだ。
しかし、偉度としては、二人を責めることもできない。
というのも、村長がする話しといったら、ここ最近の村の様子なのだが、たいがいが、『村の○○がいなくなった』というものばかりであったからだ。
村長の話からすれば、村人のほとんどが、『首吊り岩』の近辺に出かけて、その後、姿がみえなくなっているらしい。
その『首吊り岩』。
なんだってそのようにおどろおどろしい名前がついているのかといえば、理由がある。
聞き取りづらい村長の話をまとめると、こんなふうである。
むかしは、このあたりは、成都から追放された政治犯があつまる場所で、いつしかその罪人が、土地に住み着き、そのまま定着したものが、村人の先祖であった。
いつの時代かは、もう正確にはわからないが、むかしむかしは、村のなかで、さらに罪を犯したものは、首吊り岩と呼ばれる、みごとな一枚岩のそばで絞首刑に処せられるのが常であった。
なぜその岩のそば、と場所が決まったのかは不明である。
言い伝えによれば、いまは枯れてしまったものの、その岩のそばには、大きな松の木が生えていて、これがちょうど絞首台の役目を担っていたかららしい。
それゆえ、岩は、『首吊り岩』と呼ばれるようになったとか。
時代も下り、この村において罪を犯したものが、首吊り岩で処刑されることもなくなった。
しかし、そこが命が消える場所であった反動とでもいうのか、ふしぎなことに、その岩を中心に、奇妙な形の草花が生えるようになった。
その草花の形状が奇妙なことは、休昭や銀輪が採りにきた竹の姿を見れば、あきらかなとおりである。
さらに不思議なことに、首吊り岩の周辺に生える草木は、どれも口にすると、美味なのである。
そのため、もともと貧しい村では、田畑での収穫が乏しかったり、あるいは年貢の取立てがきびしく、貯蔵庫が空になったりすると、山に入って首吊り岩へいく。
そして、岩の周辺で採れる山菜で、当面の飢えをしのぐのだ。
この岩には、さらにふしぎな力があり、どんなに飢饉があろうと、山菜が生えない年がない。
だから、村人は、なかなかこの土地を離れない。岩の恩恵で、飢えることはないからだ。
恒常的に食糧が手にはいる、流通にめぐまれた土地とはちがう。
村人は、物資を手に入れるためには、遠くの大きな町の市場へ出かけなければならないし、不便この上ない生活を強いられる。
だが、まず、生きるためにもっとも重要な食料が尽きることがない、という理由から、この閉塞感漂う寒村に住み続けている。
つまり、平素は豊かであろうと、飢饉になったときに悲惨を極める土地よりは、いつも貧しいけれど、岩のおかげで飢えない土地のほうがいい、という理屈なのだ。
首吊り岩の不思議なところは、それだけではない。
首吊り岩は、ほかの岩石とはちがって、濃い赤さをもつ、ひときわ目立つ岩である。
罪人の血を吸ったからだという伝説もあるが、そこは定かではない。
この岩に日中にやってくると、なぜか強烈な眠気に襲われることがある。
そして、ついついうとうとしていると、空に、羽根の生えた蛇が飛んでいたり、色とりどりの極彩色の衣裳を身に纏った仙人が、岩のそばで踊っていたりするのを見ることができる。
ただし、かれらに声をかけようとしてはならない。
かれらは人界と関わることを極端にきらうのである。
かれらは、たまに好奇心に負けて人界に下りてくる。
蒙鳩村の、この岩をとくに目指してやってくるのは、この村の人間が、よそよりも純朴であるからなのだ。
もしうっかりと声をかけて、かれらを驚かすような真似をすると、かれらは怒り、そして、声をかけてきた不届き者を、自分たちの世界へ連れ去ってしまう。
連れ去られた者がどうなるか、それはわからない。
帰ってきたものは、だれひとりとしていないからだ。
「どうして、だれも帰ってきたことがないのに、連れ去られるってことがわかったのかな?」
と、銀輪が、なかなかするどいところを突いた。
それに対して、村長とその姪は、にこにこと笑うだけで答えない。
休昭も、村長に合わせてにこにこと笑っていたが、なにやら小動物らしい敏感さで感じ取るものがあったのか、村人でもないのに、村人代表のように、なかなか秀逸な答えを披露してみせた。
「それは、だれかが攫われたところを見ていたんだよ」
話の辻褄を合わせるならば、それが正解だろう。
仙人だか、羽根の生えた蛇だかに声をかけた人間が、その場に一人ではなくて複数いて、そのうち、黙っていたものだけが取り残され、声をかけた者だけが連れ去られた。
そう考えねば、『声をかけた者が連れ去られて帰ってこない』という話が伝わるはずがない。
もちろん、これが事実としたら、だ。
『有名な嘘つきの村』
趙雲のことばが、嫌でも偉度の脳裏に浮かぶ。
とどめは、にこにこと、なにが楽しいのか笑いつづける村長の、最後のことばだった。
「もしかしたら、いなくなった四人も、仙人か、羽根のある蛇にうっかり声をかけて、連れ去られてしまったのかもしれませぬなあ。この村では、よくあることですから」
そんなこと、よくあるか。
仙人じみた人物なら、ひとり、よく知っているが、本物の仙人など見たことがない。
『これは、負けるかな』
と、偉度は思いながらも、まだ確定したわけではないと、おのれを励ましてみせる。
そして、とりあえず、雨が止んだら、すぐに首吊り岩へ行って、ほんとうに抜け道の類いがないかどうかを調べようと思った。
うらめしいのは、この雨だ。
雨さえ降らなければ、足跡などから、消えた若者たちの足取りをたどれたのかもしれないのだが。
「このあたりに来るのは、初めてだな」
と、孔明はめずらしそうに、あちこちをきょろきょろと見回している。
傘で顔を隠し、金目のものはいっさい身につけず、衣も、泥と苔がたわむれているような、汚らしい色のものを纏っている。
が、やはり、孔明は、あばら家の立ち並ぶ街のなかで浮き上がっていた。
本人がそれに気づいていないのは、いいことなのか、悪いことなのか、
どちらにしろ、この界隈に、孔明が住むことになるようなことは、生涯なかろうと、趙雲は思う。
孔明に零落ということばは似合わない。
きびしい労働でくたびれた男たちの集る街は、一日の終わりに、最後のにぎわいを見せていた。
男たちが得た賃金を目当てに商人たちが市場で声を張り上げ、あるいは、街娼たちが待ち伏せして、客を得ようと擦り寄ってくる。
男たちの大半は流れ者で、どこかの土地から逃げて、この街に住み着いた者が大半だ。
一人の者もいれば、家族とあつまって暮らしている者もいる。
泥と生活のにおいが立ち込める街のなか、すこしはなれて観察するに、街の中を、ゆうゆうと歩く、高級な香を身につけている孔明は、特にひとりだけ、人造的な雰囲気を醸し出していた。
あとで、こいつがひとりでこのあたりに来ないように、言い含めておかねばならないな、と趙雲は思う。
孔明自身は気づいていないようであったが、その異質な姿に対して、街の男たちの何人かが、胡乱なまなざしを向けてきているのに気づいたからだ。
当然のことだと思う。
孔明は、戦乱に巻き込まれての悲劇に出会ったことはあるが、経済的に困窮したことがない。
だから、金に関する問題に関しては、ときおり、首をひねりたくなるほど鈍感になる。
孔明にとっては、金は、あって当たり前であって、なくなったためしがないもの、なのである。
それだけ強運なのだが、そのありがたさに、いったい気づいているのか、いないのか。
そして、孔明としては、いつもより地味にしているので、町になじめているものと思っているだろう。
街の連中が孔明に絡んでこないのは、となりで趙雲が睨みを利かせているからである。
お忍びだろうか。
そんな囁き声も聞こえてくる。
これで孔明は隠れているつもりなら、呑気なことこの上ない。
常々思っていたが、細作には絶対に向いていない。
なんだって、いちいち目立つのだ、こいつは。
「面白い物を食べているな」
と、孔明が足をとめて、ぐつぐつ煮込まれた鍋を見る。
それは屋台で、一杯を安い値段で人々に提供しているのだ。
なかなか繁盛しているらしく、鍋のまわりでは、男たちのほかにも子供たちが、廃材でこさえた椅子に座って、汁をすすっている。
次のことばが予想できたので、趙雲は、ぐっと孔明の腕を掴んで、屋台から引き離した。
孔明はおおいに眉をしかめて、趙雲のほうに顔を向けて抗議する。
「なんだ、いきなり。ひどいではないか。あの鍋を食べてみたかったのに」
「駄目だ。おまえが食べたら腹を壊す」
すると、孔明は目をほそめて、ますます不機嫌な表情になった。
「あなたは食べても大丈夫といわんばかりだな」
「俺は、あれくらいならば、なんともなかろうさ。主公と再会するまで、伊達に各地を放浪していたわけではない。
香草と毒草をまちがえて食べたこともあるが、寝込まなかった」
「内臓も頑強なのだな」
「そうでなければ、武将なんぞできん。おまえはそういう経験はなかろう」
「わたしは、そういう間抜けはしないからな」
つんとすまして言う孔明だが、趙雲は知っている。
職務上での誤りは、おどろくほどに少ないが、日常生活においては、なんやかやと、細かいしくじりを孔明は、いつもしている。
孔明は、日常生活に関しては、ほとんどその高い能力を発揮できないのである。
機織はできるが、洗濯や繕い物はできない。
竹簡の整理整頓は大好きだが(放っておくと、一日中、書庫に閉じこもる)、掃除はおおざっぱである。
草むしりは得意だが、庭木の剪定に関してはまるで駄目だ。
なにがどうしてそうなったのか不明だが、庭にあった檀の木を、爆発した栗の実のように切ったところを、趙雲は見たことがある。
趙雲は、すこしばかり意地悪な気持ちになって、言った。
「あの鍋の中身を教えてやろうか」
「うむ」
「死んだ犬の肉と、豪族の屋敷から出た野菜屑を、一緒に煮込んだものだ」
案の定、孔明の顔が嫌悪でゆがんだ。
趙雲は、思惑通りの表情を引き出せたので、すこし得意になりながらも、かくして、たずねた。
「いまから引き返すか?」
潔癖症の気のある孔明は、嫌悪でゆがんだ顔のまま、首を横に振った。
「よす」
「それがいい。このあたりの露店などは、たいがいが町の塵を集めて、なんとか売り物にしているようなところばかりだ。
酒屋にしても肉屋にしても、売主の言葉どおりの品物が売られているとは限らない」
趙雲に言われて、孔明は、ふたたび市場を見回した。あまり清潔とはいいがたい肉屋が、しきりに『羊の肉、羊の肉』と叫んでいる。
「羊の肉だなんて、癖があるだろうに、売れるのかな」
「羌族は羊の肉を好むそうだから、そういった客が目当てなのかも知れぬ。いまさら俺の解説が必要とも思われぬが、このあたりの住人は、ほとんどが戸籍を持っていない。
税を払ってない者たちがほとんどで、若いやつは、たいがい、兵役がいやで逃げてきたか、あるいはどこかの荘園から逃亡した奴婢だ。そういう連中がいちばん嫌う人間は、だれだと思う」
「役人」
「そう、ここにいる人間にとっての天敵が、俺たちだ。決して身分を明かすな。名乗ってもならん。
それと、あとになって、物見遊山の気分で、この町に一人で足を運ぼうなどとは思うなよ」
「なぜ」
孔明は、笠をすこしだけ上げて、趙雲に尋ねてくる。
笠の影になった孔明の顔は、かえって陰影が際立つためか、いつもより、より一層、男女の差のない風貌に見えた。
「おまえみたいに細いのは、見るからにカモだ。あっという間に囲まれて、気づけばそこの肉屋の鴨肉といっしょに、仲良く並んで、売り飛ばされることにもなりかねないぞ」
「いやなことを言うな。人の肉なんて」
「いやなことは確かだが、中原のほうでひどい食糧難が起こったときは、市場で、あたりまえのように人肉が売られていたこともあったぞ」
「噂ではきいたことがあるが、ほんとうに見たのか?」
「見た。悲惨なものだった。あの時代に戻ることだけは避けなくてはな」
「うん、そうだ、まったくそのとおり」
と、孔明は、何度も得心したようにうなずいて、それから、さらに距離を詰めて、小声でたずねてきた。
「食べたのか?」
「あのな、食べるか、孔子じゃあるまいし。どういうわけか、人の肉を食べることを美食のひとつに数える好事家もいるようだが、俺には理解できん。
たとえどれほど身分が低い者の肉であろうと、俺とおなじようにものを考え、語ることができる生物の肉を食べたいとは思わない。どれだけ腹が減っていてもだ。
まして、それを薬だとか、あるいは趣味の一環として食べようなどと考えるやつらは、まったく理解の外の存在だな」
「わたしにだって、そんな者たちは理解できない。子龍」
「なんだ」
「手をつながないか」
「は? なにを言い出した?」
ぎょっとして、趙雲は、孔明のほうを見る。
が、孔明の顔は、笠の下で、さきほどよりも強ばっていた。
「なにを言い出した、ではない。怖くなった。わたしは普通に墓場に葬られたい。だれかの胃袋のなかが、人生の終着地点など、嫌だ」
孔明の顔は、冗談ではなく、ほんとうに蒼くなっている。
「むかし、旅をしていたとき、道端に捨てられていた骨があった。ひどい飢饉があった土地で、飢え死にした者たちだろうと想像していたが、その骨は、みな奇妙に真っ白い骨ばかりであった。
徐々に朽ちたのなら、骨の色は変色するだろう。なぜこうも真新しく白いのか、そのときは、わからなかった。が」
「が?」
「いま理由がわかった。あなたの所為だぞ」
しまった、脅かしすぎた、と趙雲は後悔したが、あとのまつり。
いつもは人の肌になかなか触れたがらない孔明が、自ら手を伸ばしてくるので、とりあえず、趙雲はその手を握ったものの、違和感がある。
なんだ、これは。
「全面的に俺が悪かった。謝るが、だからと言って、手をつなぐのは、どうだ?」
「では、せめて袖を握っている」
「子どもじゃあるまいし」
「うるさい。よいか、わたしは袖を握っているから、袖に違和感をおぼえたら、かならず振り返るように。
わたしが明日の朝陽を見ずして鴨の仲間入りを果たさぬように、いつもにも増して主騎の職務に励め、よいな?」
こうなると、孔明は止まらない。
そのことを理解している趙雲は、不毛な言い争いにならないように、折れることにした。
「わかった、袖を握っておれ。ところで鴨肉候補どの、俺はここで、何をすればよいのだろう」
すると、孔明は、袖を破きかねない勢いで、ぐいっと引っ張って、言った。
「決まっている。蒙鳩村の者を探すのだよ! あなたが自分で言ったのだぞ。いまごろは、成都のどこかの街で働いているだろう、とな。家を飛び出した者が最初に辿り着く場所といったら、成都ではこの街がいちばん最初に思いつく。
もちろん、連れ戻されることを警戒して、出身地を偽っている可能性もあるから、慎重に、まずは噂の類いが流れていないか、探るのだ!」
趙雲は、いまにも崩れそうな、黒い空を気にしつつ、孔明にたずねた。
「いまからか?」
「夕飯時のいまが、この街にいちばん人がいることくらい、わたしとて知っている。
それに、見れば、みなほろ酔い状態だ。これならば、いろんな話を聞きだしやすかろう。それいけ!」
「それ行け、といわれてもな」
ぶつぶつ言いながらも、趙雲は、孔明に命じられるまま、蒙鳩村の家出人探しをはじめた。
気が乗らないなかで、酔客や、いかにも事情通そうな男に話を聞きながら、ほんとうに、どうして俺は、こいつに逆らえないのだろうと考えながら。