さかなのこころ
孔明が、例によって例のごとく、さらさらと上質の衣音をさせながら、新野の廊下をあるいていると、前方より、いつもは奥向きにいる女たちの、にぎやかな笑い声が聞こえてきた。
めずらしいなと思っていると、ぺたりぺたりと、小さいながらも力強い、床を伝う音がする。
のぞいてみれば、廊下を、阿斗が懸命に這っているのであった。
そして甘夫人と侍女たちが、わが子が廊下を這うのを、手を打って応援しているのである。
ほほえましい光景だな、と、つい微笑をさそわれて足を止めてながめていると、夫をはるかに上回る気遣いのひと、甘夫人が孔明の姿に気づいた。
長年連れ添った夫婦はよく似ているというが、劉備と甘夫人もその例に漏れない。
ふたりは、鷹揚な性格はもとより、風貌まで似ていた。
さすがに手足が長いとか、耳が大きいなどという特異な部分は似ていなかったけれど、甘夫人の、邪気のなさ、力強さは、劉備と共通するものだ。
なにより、何事にも動じない、つねに明るい笑顔は、劉備と、とてもよく似ている。おそらく、内側に抱える心の動きが、妻と夫でよく似ているのだろう。
そうして、甘夫人は、やわらかい笑みを孔明に向けてくる。
孔明に対する風当たりもまだまだ強いなか、笑顔を見るとほっとする。
つられて孔明が笑みを浮かべていると、ちいさく頭を下げながら、甘夫人は、まだなお前進をつづける阿斗の横にたち、かがんだ姿勢のまま、言った。
「じょうずに這い這いするようになったでしょう? この子は、一度動き出すと、止まることができないのですよ」
そう言っている間にも、阿斗はもくもくと這い這いをつづけ、孔明のすぐ前までやってくる。
そして、ぴたりと止まると、赤子独特の、澄明な眼差しで孔明を見上げてくる。
孔明も思わず身を屈ませ、阿斗に笑みを見せるのであるが……それからどうしてよいのやら、わからない。
言葉をかけるものなのか?
しかし赤子では言葉の意味もわからないだろう。
抱き上げてご機嫌伺いをする?
しかし赤子を抱いたことがない。
素早く道を空けてやるのが親切なのか?
しかしその場合、自分はどこへ行くべきか。
しばらく往生していると、甘夫人が見当をつけたらしく、ころころと笑いながら、阿斗を抱き上げた。
「軍師どのは、殿に御用なのでしょう?」
「左様でございます」
今朝方、執務室に贈り物が届けられていた。
それは立派な翡翠の帯飾りであった。
ため息がでるほど凝った意匠の、たいそう高価なものであったが、贈り主の名を聞いて、孔明は戸惑った。
糜竺の妹で、劉備の妻である糜夫人からのものだというのだ。
なぜかほかの文官たちとは一線を画して、親戚のように親切にしてくれる糜竺の親切ぶりにさえ、孔明は戸惑っているのに、そのうえ、糜夫人からも贈り物が届けられる。理由がさっぱりわからない。
とはいえ、無碍に付きかえすのも悪い気がしたので、劉備の知恵を借りて、うまく返そうと思っていたのだ。
しかし気づいた。
こういった陽気でにぎやかな光景に、かならず加わっているのが劉備という人物なのであるが、わが子の這い這い大会に、なぜか参加していない。
来客か、それとも忙しいのか。
甘夫人は、怪訝そうにしている孔明の表情を見て、またもや、察しをつけたようである。
「殿は寝込んでおいでです」
「お風邪を召されたのでございますか?」
「いいえ、お腹を丸出しにして寝ていたものですから、腹具合がおかしくなって、今朝からずっと厠にとじこもっておいでなのです。殿から軍師に伝言ですわ。『すまないが、今日は駄目だ。どうしてもって言うときは、厠でふんばっているところを見られるのが嫌なので、使いを出してやりとりしてくれると助かる』ですって」
「それはいけませぬな。主公に、お大事に過ごされますようにとお伝えくださいませ。主公のお加減がよくなるまで、あとは孔明がなんとかいたしますゆえ」
甘夫人は、阿斗を抱きなおしつつ、またころころと笑った。
「頼もしいお言葉だこと。軍師は大事なかったようですわね」
「おかげさまで健勝でございます」
と答えつつも、孔明は怪訝に思った。軍師『は』?
「このところ、殿は、軍師とずっと話しこんでしまわれて、夜が更けても、まだ話し込んでいらっしゃる。それでも貴方は、仕事は休まれず、きちんとこなす。殿は貴方の態度に関心なさって、ご自分も、徹夜をして頑張って政務を執られていたのですよ。
ところが、やはり年のせいですわね、疲れがどっときてしまって、昨夜は寝室に入るなり、そのままろくに着替えもせず、ぐうぐう眠ってしまったのです。お腹が丸出しになっているのも気づかなかったものだから、すっかり冷えて、下してしまったのですわ。その点、軍師は、いつ見ても颯爽としてらっしゃる。やはり若いからですわね」
駄目な殿ですわねぇ、と茶化しながら、甘夫人は声をたてて笑った。
この夫婦の仲のよさを見るのが、孔明は好きである。
劉備は、新野に落ち着くまでは、ほかに複数の女人を抱えていたそうだ。
だが、いまは古女房というべき甘夫人と、糜竺と糜芳の妹で、徐州時代に迎えた糜夫人のふたりだけが側にいる。
甘夫人はこのたび目出度く嫡子の阿斗を生み、正夫人の座をがっちり固めたわけであるが、糜夫人のほうは、元来、あまり体が丈夫ではなく、妻としての務めも果たせないでおり、逆に甘夫人や劉備の世話になっている、という状態であった。
口の悪いものは、劉備は、糜竺の財産と引き換えに、糜竺の妹の看病を引き受けたのだ、とさえ言う。
孔明も糜夫人に何度か会ったことがあるのだが、どっしりと構えた感のある甘夫人とは対照的に、可憐な野の菊のような風情のある、美しいが儚げな印象のあるひとであった。
優しげな目の表情が、兄の糜竺にとてもよく似ている。
甘夫人は、このもうひとりの妻を、実の妹のように可愛がっており、みずから進んで看病をし、こまかに世話を焼いている。
呂布に捕らわれたり、関羽とともに曹操の人質になったりと、さまざまな苦労と危険を分かち合ってきた二人だけに、一人の男をめぐる敵同士というよりは、実の姉妹以上に仲が良いのであった。
甘夫人は、ちらりと、澄み渡った空を見た。
新緑の季節にひろがる青空は、どこまでも清い。
すがすがしい風を受けて目をほそめつつ、甘夫人は笑うのを止めて、孔明に言った。
「軍師、阿斗を抱いてごらんになる?」
孔明が返事をするより先に、甘夫人は阿斗を差し出してくる。
こうなれば、受け止めるしかないのだが、孔明はそれまで赤子を抱いたことがなく、扱いもさっぱりわからない。
いちど、崔州平の何番目かの子供が生まれたとき、悪友たちと一緒にお祝いにいったことがあった。
おとなしいかわいい子なので、抱いてよく見てやってくれと崔州平に渡された途端、子供は火がついたように大泣きをして、しまいにはげえっ、と吐いた。
その思い出から、孔明はあまり赤ん坊には近づかないようにしている。
当然ではあるが、言葉が通じない。
もともと不器用で人見知りのする孔明は、赤子のように反応のつかめないもの、純粋であるがゆえに単純で、次の行動が読めない者が苦手だ。例えば張飛など。
ぎこちない抱き方に、侍女たちははらはらしてこちらを見ている。
大丈夫かしらといわんばかりの視線を一身に集めてしまい、孔明はますます緊張する。
腕がこわばってきた。
だが幸いにも、阿斗は大人しくしてくれている。
ただし、大きな目をじいっと孔明に向けており、どうもそれが『居心地悪シ。至急、改善ヲ求ム』と訴えているように見えるのは気のせいか?
「普通になさったらよいのに。軍師には、お子はいらっしゃらないのでしたっけ?」
触れて欲しくないところだな、と思いつつ、孔明は、簡潔に、はい、とだけ答えた。
「うちの者たちは、みな子供が好きなので、それが当たりまえだと錯覚しがちですけれど、ふつう、殿方というのは、子供のあつかいは苦手ね。
軍師はおいくつでしたかしら」
「二十八になります」
「徐州の琅邪のご出自でしたわね」
はい、と答えると、甘夫人は、優しいが、どこか憂いの含んだ瞳で、阿斗を抱く孔明を見る。
「ご存知でしょう、もう十七年以上前になるかしら。
曹操の襲撃をうけた陶謙さまからの救援を求める声に応じ、殿は徐州へ兵を率いてやってきた。
そのとき、徐州の惨状をご覧になって、殿はずいぶん心を痛めておりました。
一日ごとに情勢のかわる、いやな時代でしたわ。
すこしも気持ちが休まることもないし、陶謙さまはわたくしたちを歓迎してくださったけれど、城のそとにいる難民や、目にしてきた死者たちのことを思うと、とてもよい待遇に甘んじてはいられませんでした。
あのとき、軍師はおいくつ? 十歳くらいでしょう。きっと、私たちよりも、当時の悲惨な様子はおぼえてらっしゃるでしょうね」
忘れられるはずもない。
さいわい、家の者たちにしっかり守られて、直にせまる凶刃におびえる心配はなかったけれど、味わったことのない、浮き足立ったような不安な空気、姉の深刻な顔、大人たちの神経質な苛立ちの気配、すべてを昨日のことのように思い出せる。
つらい問いだな、と苦く思いつつ答えずにいると、甘夫人はつづけた。
「ちょうどその頃だったかしら。あの子が妻に迎えられ、ほどなく、懐妊したのです」
あの子、とは、甘夫人の、糜夫人に対する、独特の呼び方である。
劉備には、阿斗が生まれる以前にも子供がいたが、どれも早世していたという。
それは知っていたものの、糜夫人が懐妊していたという話は初耳であったから、孔明はおどろいた。
「男の子でしたわ。初めての男の子だったこともあって、殿はたいそう喜ばれて、あんなときだったからこそ、ずいぶん大切に育てておりました。
でも、殿が城を留守にしているあいだに、呂布に攻められ、人質として捕らわれてしまったとき、子供は熱を出し、そのまま逝ってしまったのです。
それからあの子も気落ちしてしまったのでしょう。それに呂布の部将らが、わたしたち人質のもとにいつ忍んでくるかわからぬ状況。
さいわい、だれも辱めをうけることはありませんでしたが、呂布という男を、わたくしたちはみな、芯から恨みましたわ。
あの子も、もともと丈夫な子ではなかったので、心労が重なり、寝込んでしまったのです。それからずっと、あの子の体は回復しないまま。殿はそれをご自分の所為だと責められて、ずっと後悔なさっておいでなのです」
そんな事情があったとは知らなかった。
劉備は孔明に、自分がいろいろ経験したことを、あれこれと教えてくれる。曹操のことは非常に冷徹に分析し、的確に表現するものの、しかし、呂布に関しては別で、ひどく憎憎しげに語るので、ふしぎに思っていた。
わが子の死の原因となった男、人質には手を出さないという不文律を、完全には守らなかった男を、義のひと劉備は憎んだのだ。
「殿は、貴方様を見て、亡くした我が子が戻ってきたようだと喜んでおられましたわ。もちろん、十歳も年がちがうのですけれど、わたくしたちが徐州で見たものは、悲惨な死ばかりでありましたから、同じ徐州の出だという貴方様が、これほどまでに立派に成長されているのをみて、すこしは救われた命もあったのだと、ほっとしたのもあるのでしょう。
もちろん、誤魔化しにすぎない、ということは、殿もあの子もわかっているのです。でも、ごまかしでもなんでも、殿やあの子が、貴方様のなかに希望を見つけたのも事実なのですわ」
甘夫人は、孔明が口を開くのをさえぎるように、首をちいさく振った。
「あの子の贈った帯飾りを返しにいらしたのでしょう?
主君の妻として、年長者としての命令をします。黙ってお受け取りなさい。
貴方には迷惑かもしれないけれど、これは、あの子なりの、感謝の気持ちなのです。そう思うのが嫌ならば、貴方への、これからの期待を込めての贈り物だと受けとめればいい。
荷物を背負わせるつもりはありません。ただ、貴方にはたくさんの期待がかけられているということだけは、忘れないでほしいのです。それに、ほら」
と、甘夫人に促され、見ると、腕の中にいた阿斗が、いつのまにやら孔明がいつもしていた帯飾りをつかまえて、口の中に入れてしゃぶっている。
丸い輪に、飛鳥の絵の掘り込まれたものであったが、その大きさは、ちょうど阿斗の口に納まりが良いようであった。
「阿斗様、それは食べ物ではありません!」
かちゃかちゃと石のぶつかる音をさせて、無表情なまま一心不乱に帯飾りをしゃぶる阿斗から、何とか石を取り上げようとするものの、もともと子供の抱き方に自信がない孔明は、どうやって片手を自由にしてよいかわからない。
そうしているあいだにも、帯飾りは阿斗の唾液でべたべたになっていくのであった。
まだろくに歯の生えそろっていない赤子の悪戯である。
不潔には思わなかったものの、阿斗は帯飾りが気に入ったのか、どうしても口から離そうとしなかった。
甘夫人は、明るい笑い声をたてて言った。
「では、こういたしましょう、軍師。貴方は、いままでの帯飾りは、阿斗にくれてやる。その代わり、阿斗の義母であるあの子が、貴方のために、あたらしい帯飾りを贈った」
「しかし、まったく値段がつりあいませぬ」
「だめです。もうわたくし、決めてしまったのですもの。さあ、阿斗、よかったわね、軍師がそれをおしゃぶりの代わりに下さいましたよ」
母の声が聞こえたか、阿斗はさらに力いっぱい、いまやおしゃぶりと化した帯飾りを、力強く口の中でかちゃかちゃと言わせるのであった。
仕方なく孔明は帯飾りを外し、腕の中の阿斗と共に甘夫人に渡した。
甘夫人は満足そうであるし、阿斗もご機嫌な様子なので、良かったことにするべきなのだろう。
孔明は、その場を辞し、ふたたび執務室へ戻ろうとしたが、ふと、だれかに呼ばれたような気がして、顔を上げた。
もちろん、だれの声もしなかったので、空耳である。
だが、突き抜ける青空のもと、奥向きにある楼閣の一角に、人影があるのを見つけた。
声の届く距離ではないから、やはり錯覚だったのだ。
人影がだれであるかわかったとき、孔明は楼閣に向き直り、深々と礼を取った。
顔をあげると、その人はちいさく手を振ったようである。
あまりこの場に留まって、事情のわからぬ者に見咎められ、不用意に噂になっても味気ない。孔明は、今度は軽く頭を下げると、その場を辞した。
母親の顔がわからない。名前すら知らない。
恋しく思ったこともあるけれど、その想いは年を重ねるごとに、次第に薄くなっていった。
だが、長じたいまになって、母親が欲しいという願いが、ふしぎなところで叶えられたわけである。
戸惑いのほうが強かったが、それでも孔明は、徐州で子を亡くした母親の、優しい気持ちを受け止めようと思った。
どこまで出来るかわからない。しかし、甘夫人がいったように、自分は多くの者たちの期待を受け、守られてきた。そうして今に至っている。
さて。
孔明は、深呼吸して気持ちを整えると、四方八方敵ばかりの城内へと戻っていった。
多くのものに守られ、慈しまれたがゆえの代償が、休息の許されぬことだというのなら、前に進み続けてやろうではないか。
力を与えられたような気持ちで、孔明は、一歩、足を進めた。
(C) hasamino nakama 2003