歳末リクエスト企画第二弾

歳華春の思い出

馬良は、その言葉に、正直なところ、気が抜けた。
なにをするのだろうと、不思議に思ってはいたが、てっきり、孔明の得意の弁舌を生かし、部屋に閉じこもることへの愚かしさを、とうとうと説くのではと思っていたのである。
歌を唄う、ということばに、とたん、その場から、どっと、潮のように、哄笑が沸き起こった。
これには、馬良はむっとしたが、となりの徐庶は、腕を組み、気遣わしそうに孔明を見守っている。
すっかり笑いもののようになっている孔明に同情したのか、芸人のうちの楽士が、伴奏をしようかと孔明に声をかけた。
しかし、孔明は首を振る。
「いいえ、申し出はありがたいのですが、これは、あまり知られていない土俗の歌でございますゆえ、みなさんはご存知ないでしょう。わたしも、曲名すら知らない歌なのです。ついさきほど、おぼえてきたばかりの歌でして」
楽士は、なにを歌うのだろう、と首をかしげ、龐統の取り巻きたちは、孔明もとうとう焼きがまわったと、やんやと囃し立てている。
そのなかでも、龐統だけが、笑わずに、意外にも、徐庶よりも緊張した面持ちで孔明をじっと見ているのが印象的であった。

孔明は、周囲の笑い声がおさまるのを待ってから、呼吸をととのえると、その言葉どおり、あまり洗練されているとはいいがたい、馬良も聞いたことのない唄を、朗朗とした声で歌い出した。
孔明の歌のうまさは、馬良はむかしからよく知っている。
ともかく、声質がよいうえに、咽喉もしっかりしているのだ。
論客向きだと、司馬徳操が太鼓判を押したほどである。
最初は、くすくすと忍び笑いが残っていたが、歌がつづくにつれ、孔明の歌の上手さや、その真剣さに押される形で、場は、しんと静まりかえった。

人の耳目を集め、なおかつ心までも奪ってしまう。
しかもたった一人の力で、わずかなあいだにしてのける。
龐統の手腕も、たしかにすばらしいものがあったが、孔明の吸引力というのは、やはり並ではない。
容姿の美しさに人々が魅了されているというだけではない。
孔明のなかに確かにある『何か』。魂の気高さ、光輝さに、知らず、心を奪われてしまうのだ。
そうして、いつの間にか、ひとびとは、諸葛孔明という人物の味方になっている。
味方になれないのは、そう、孔明のそばにありすぎるために、その本質がかえってみえなくなっているような、龐統の取り巻きのような連中ばかりだ。

孔明の歌う唄は、まるで垢抜けないものであった。
歌詞も陳腐で、面白みもなにもないし、節回しも、おそらく流行の歌のあちこちをつまみ取りしたのか、やはり特長にうすい。
しかし、いままで、高度な芸を連続してみていた人々が、孔明の歌う唄に、完全に呑まれていた。

不思議な静けさであった。

やがて、歌は終わり、水を打ったような静けさのなか、孔明は聴衆に向けて、見事な優雅さでもって、一礼をしてみせる。
その華のある挙搓に、一堂は、はっと我に返り、つづいて、いっせいに拍手喝さいが沸き起こった。
そして、そのとき、芸人の一座が公演を終えたときとは、ちがう変化が起こった。
同時に、馬良が不思議に思ったことは、となりで徐庶が、腕を組んだまま、
「あーあ」
とため息を漏らしたことであった。

それまで、一切の沈黙を守ってきた、王嘉音の部屋が、ぱっと開いたのである。

そうして、おどろいたことには、身に纏うものは深窓の令嬢そのもので上品で可憐なものであったけれど、長いあいだ、日に当たっていなかったためか、令嬢は、病人のように蒼白い肌をして、ひどく痩せていた。
そんな娘が、その姿に似合わない荒々しい足取りで部屋から飛び出してくると、土足であることもかまわずに、孔明に一直線に向かってくると、なんと、問答無用で、その頬を、高らかに打ったのである。
このあまりの突然の暴挙、そして勝負のつき方に、ふたたび一堂は、唖然とする。
しかし、意外にも孔明は、こうなることを予想していたかのように、平静そのもので、打たれた頬を気にするでもなく、興奮して、肩で呼吸している様子の嘉音に、冷静に目を向ける。
その冷静さが、かえって嘉音の気持ちを逆なでしたのか、令嬢は、怒りに震えた声で、叫んだ。
「あなたのような、ひどい人は、見たことがない!」

さて、こうなると黙っておられないのは、あつまった大衆とは、すこし離れたところで様子をずっと見ていた、王家のひとびとである。
嘉音の両親は、すぐさま、ようやく部屋から出てきた娘のほうへと駆け寄り、それまで龐統のそばにいた実兄もまた、妹のところへとやってきた。
三人は、ようやく久しぶりに姿を見せた、やせ衰えながらも、怒りで身を震わせ、どこか幽鬼のように見えながらも生気をみせている娘に問い詰める。
「まあ、おまえ、いったい、いままでどうして部屋に引きこもっていたの! こんなになるまでずっと、なんという親不孝ものでしょう!」
母親の涙まじりの声に、娘は徐々に興奮から醒めてきたのか、だんだん気まずい表情になっていく。
侍女たちとともに、馬に乗って草原を駆けていたほどの活発な令嬢である。
もともと気性のつよいところがあったのだろう。
目の大きな、頑固そうに口元を曲げた娘であった。
両親も兄も、どうしていままで閉じこもっていたのか尋ねるが、娘は頑として口をひらこうとしない。
むしろ、どんどんと、怒りにまかせて外に出てきてしまったことを、後悔している様子である。

娘が口をひらこうとしないので、両親の視線は、自然と孔明のほうに向く。
孔明は、これもまた予想していたらしく、こほん、と咳払いをして、すこし息をついた。
それを見て、馬良は、おや、と思った。
あれほど堂々と大衆の前で歌を唄ってみせた孔明が、なぜだかいま、緊張している様子なのである。
そしてまた、となりでは、訳知り顔の徐庶が、
「うまく誤魔化せよ」
と、つぶやいているのだ。

「どういうことなのですか。失礼ながら、諸葛孔明どの、貴殿は、娘がなにゆえ、ずっと部屋に閉じこもっていたのか、その理由をご存知なのでは?」
両親に問われると、孔明は、神妙な面持ちで答えた。
「知っていると申しましょうか。わたしがいま唄った歌は、樵夫たちが作業中に、よく口ずさむ歌なのであります」
とたん、馬良の目には、嘉音の表情に、怯えが浮かんだのが見えた。
それは、もっと間近にいる孔明にも見てとれたであろう。
そうして、孔明は、そこで、安心なさいとでもいうように、すこしだけほほ笑んだのである。
「ご令嬢が、遠乗りに出かけていたことはご存知でしょう。
そこで、ご令嬢は、森を散策していたのですが、あるとき、道にまよってしましました。
そうして困っていると、とある親切な樵夫があらわれまして、ご令嬢を正しい道に導いてくれたのです。
それから、ご令嬢はこの樵夫に礼をしようと、ふたたび森を訪れたのですが、なんという悲しいめぐり合わせでしょうか、この樵夫は流行り病によってあっさり死んでしまっていたのです。
この恩人の死に衝撃を受けたご令嬢は、だれに告げることもなく、こうして奥ゆかしくも、たったひとり、喪に服していた、というわけでございます。
わたしが歌ったこの唄によって、ご令嬢は、そのときの悲しみを思い出してしまったのでしょう。だからお怒りになった。
しかし、あえて申し上げたい、お嬢さん、あなたはまだ若く、道はいくつもあるのですよ。しかも、その道は、ほかの娘たちがうらやむようなものばかりなのです。気持ちを暗く閉ざしてはなりません。辛くとも、のりこえなければなりません。
陳腐な言葉に聞こえるかもしれませんが、こうしてあなたのことを心配しているご家族がいるのだということを、忘れてはなりませんよ」

孔明のことばに、嘉音の返事はなく、王家の両親のことばも、なかった。

大衆は、孔明の語ったことばによって、ことの真相を知って納得したらしく、お嬢さまは情に厚いお方だ、などと噂しあっている。
しかし、そこになにか、作為的な嘘が潜んでいることを気づいたものは、少なくとも、大衆のなかには、いないようであった。
幸いというべきであろうか。
気づいた者はしかし、たしかにいて、それは馬良もそうであったし、徐庶などは最初からお見通しのようであったし、嘉音の両親も、納得していない様子なうえに、孔明の語ったこと以上のなにかがあることに、親の勘で気づいたらしい。
さらに龐統も、さきほどまでの笑みを完全に引っ込めて、孔明と嘉音の様子を、見つめているのであった。

とにもかくにも、勝負はついた。
そもそもの勝負の決め手は、『閉じこもっている嘉音を部屋から出すこと』だったのであり、それに成功したのは孔明なのだ。
孔明の号は返上されずに済んだわけである。



納得したような、しなかったような、奇妙な幕切れに、あつまった大衆は、わらわらと、王家をあとにし、旅芸人の一座も、龐統たちから、それ相応の報酬をもらって、屋敷を出て行った。
嘉音はというと、ほとんど日光にあたらないでいたためと、食事もろくにとっていなかったために衰弱がはげしく、母親に付き添われて、ふたたび自室にもどっていった。
あとには、龐統の取り巻きと、龐統と、孔明と、徐庶と馬良、そしてどちらについてよいのかきめかねている、馬謖が残った。
龐統の取り巻きたちは、自分たちで言い出したこの勝負に、まさかこんな奇妙なかたちで孔明が勝つとは思っていなかったらしく、こちらに声をかけるどころか、目線を送ろうともしない。
認めたくないのであろう。

潔くない連中だと腹を立てつつも、馬良は、徐々に打たれた頬が腫れつつある孔明に近づいた。
「大丈夫かい。裏口のほうにまで、君が打たれたときの音が聞こえたよ。くっきり手形までついているじゃないか」
「ああ、渾身の力をこめて打たれた、という感じだな。もしご令嬢が武器を持っていたら、それこそ、ぐさりと刺されていたかもしれないよ」
「冗談めかして誤魔化さないでくれたまえよ。さっき、きみが両親に言ったあの口上、あれもごまかしだろう?」
ずばり切り出すと、孔明は、打たれた頬に手を当てつつ、肩をすくめて答えた。
「やはり白々しかったかな。懸命に考えた、いちばんご令嬢の名誉を傷つけないですむ『作り話』だったのだけれど」
「やっぱり嘘だったのかい!」
「そうさ。利巧な犬と一緒に行動していたのに、森の中で迷ったりしないさ。両親には気づかれるかなと思ったけれど、君にまで気づかれたとなると、あとで変な噂が立たないといいな」
「題材は悪くなかったさ。ただ、おまえの話し方が、いささか自信がなさそうだったので、ちょいとばかり説得力に欠けたのさ。
嘘をつくなら、もっと堂々とつけ。それと、もうすこし、真実を織り交ぜたほうがいい。
親切な樵夫まではいいが、流行り病で死んだのを苦に、ずっと喪に服していたっていうのは、ちょっとばかり説得力がなかったな」
徐庶のことばに、馬良はおどろいてたずねた。
「徐兄は、もしかして、ご令嬢が引きこもっていた原因を知っているの? 親切な樵夫が死んだからという理由じゃないのかい? 
死者のことを思い出させるのが、かわいそうだから、亮くんは負けてもいいなんて、言っていたのではないの?」
「そんなに劇的な理由じゃないだろうな、とは思っていた。俺は、なんとなく見当をつけていただけさ。まさかぴしゃりだったとはな。そうだろう、孔明」
すると、孔明も、ちろりと、つまらなさそうに、徐庶に目線を投げた。
「なんだ、やっぱり徐兄のほうが、先に気がついていたのか。ご令嬢の引きこもりの原因は、やはり林の中にあったのだよ、良くん。親切な樵夫がいたのも本当だ。
だが、徐兄から聞いていたかもしれないが、かといって、ご令嬢と、樵夫たちのあいだに、なにかあったということはまるでないのだ。
だから、最初、なぜ令嬢が、犬と一緒ではあるが、遠乗りに出かけると、かならず一人になって林の中に入っていくのか、その理由がわからなかった。
樵夫たちも、口をそろえて、ご令嬢となにかあったわけでもないし、こちらでおかしなことを目にしたことも、聞いたこともないという。
まさに、一種の謎かけのようなものだったよ。
だが、逆に考えて、ふと気がついた。つまりね、令嬢側から考えたらどうだろうと。まさに、徐兄が言ったとおり、令嬢の気持ちになって林のなかで、じっと樵夫たちの様子を見ていたのだ。
かれらは普通に作業をしている。それを令嬢はひたすら見つめていた。一人で。なぜか? もしかしたら、樵夫たちにしてみれば、べつに気にも留めない当たりまえのことが、ご令嬢からすれば、つよく心を動かされることが、なにかあったのではないか。
そしてそれが、部屋に引きこもるほどの衝撃を与えるきっかけとなったのではなかろうか、とね。だが、そのきっかけが、さっぱりわからなかった。
わかった理由は、君が徐兄にもたらしてくれた情報のおかげなのだよ。
龐士元が呼び寄せた旅芸人たちに対して、ご令嬢が演目でつかう曲に、あれこれと注文をつけたという。
つまり、ご令嬢には、なにか聞きたくない歌があったわけだ。で、それを元に、樵夫たちに、歌に関して、なにか記憶していることはないかと尋ねてみたら、あったのさ」
「なんだい?」
「かれらの仲間のなかで、いちばん若い樵夫で、とても歌が上手い男がいたのだそうだ。さきほど、わたしが歌った唄は、その男が得意として、よく唄っていた歌だったそうだよ。
が、その男は、最近、里の娘の婿養子になったため、樵夫を辞めたというのだな。で、よくよく聞けば、どうも令嬢がぴたりと来なくなった時期と、その樵夫が婿養子になった時期が重なる。つまり、ご令嬢が一人で林の中に入って行った理由は、その男だったのだ」
「つまり、恋仲だったっていうことかい? それなのに、捨てられた?」
「いやいや、そんなものじゃない。だったら、樵夫たちは、最初からそうだったと言っただろう。
恋心は、たしかにあったのだろう。しかし、ご令嬢は、自分の立場もあるし、強気に見えて、案外奥手だったのだ。気持ちを打ち明けることができないで、ただひたすら、見つめるだけの恋だった。そうして、ただ眺めるだけのささやかな恋には、悲しい終りがやってきてしまった、というわけさ。樵夫たちには、令嬢の繊細すぎる気持ちが、わからなかったのだ」
「つまりなにかい? 恋心を打ち明けられないまま、振られてしまったことに塞ぎこんで、ご令嬢は、ずっと部屋に閉じこもっていた、というわけかい」
「そうさ。おや、呆れた顔をしているね。いけないよ。これは、令嬢にとってはたいへんなことだったのだから。考えてみるといい。
なにせ、そもそもが身分違いもいいところだから、だれにも打ち明けられずに、相当に苦しかっただろうよ。だから一層、思い悩み、悲しみは深くなり、内に籠もってしまったのだ。
それに、こんな大きな屋敷で、蝶よ花よと育てられた娘には、もとめられるものはすべて与えられるべきものだというのが、おそらく常識だっただろうから、はじめて手に入れられないものがある、それが、しかも、とても大切なものだったという事実に、打ちのめされてしまったのではなかろうかね。かわいそうじゃないか。
これは想像だけれど、そんな気持ちをかかえている娘であったから、せっかくの龐士元の楽しい策であったけれど、あの様子では、一流の芸も、ほとんど見ていなかったと思う」
「だろうね。しかし、ご令嬢に傷がつくような話ではなかったのだから、真実を打ち明けても」
良かったのでは、といいかけた馬良に、徐庶が口をはさんだ。
「おまえはやっぱり、どこか人が好いな。世間ってのは、美談よりも意地悪な話を好むものだ。
ご令嬢が、どこの誰とも知らない樵夫に振られて、引きこもっていた、なんて知れてみろ。とたんに、なんにもなかったのに、いろんなことがあったことにされちまう。
だからこそ、孔明は知恵をしぼって、なんとか世間が変に誤解しないような、だれもが納得できる嘘の話を、懸命に考えていたんだろうが」
「ああ、なるほど。さすが亮くん、と、いいたいところだけど、ひとつ聞きたいな。その話を探り当てるまでと、嘘の話をつくるまでと、どっちが時間がかかった?」
すると、孔明は、気まずそうに顔をしかめて答えた。
「それが、『嘘』を作るほうが、時間がかかってしまったのだよ。嘘というのは、整合性を合わせるのがむずかしいものだね。徐兄、さっき、いいことを言っていたね。今後の参考にするから、もう一度、言ってくれないか」
「おいおい、それはかまわないが、あんまり参考にしてくれるなよ。
つまり嘘をつくときは、真実を上手に織り交ぜるのがコツだってことだよ。どこまでが嘘でどこまでが本当か、わからなくするのが、上手な嘘の付き方だ。
おまえのさっきの話は、いかにも嘘に慣れていないやつが、懸命にそれらしい話を作ってきました、というふうだったな。
親にはきっと、嘘だってばれたぜ。まあ、ほかの連中が納得すれば、だいたいは成功だけれどな」
「うむ、なにごとにつけても、慣れは必要なのだな。学習したよ。もし、もっと時間があったら、徐兄に嘘の話を点検してもらえたのだが」
「そんなものに慣れてくれるなよ。いくら優しい嘘だろうと、嘘は嘘だ。おまえらしくない」
とたん、孔明は、顔をかがやかせるものの、しかし腫れた頬が痛んだらしく、すぐに顔をしかめた。
「いまになって、じんじんと痛んできた。どこかで冷さないと駄目だな」
「それじゃあ、濡れた水で冷やすといい。井戸を借りてくるから、すこし待っていてくれないか」


そうして、馬良はいつも携帯している、きれいな手ぬぐいを片手に、王家の井戸を借りに、裏手へとまわって行った。
滅多に入れない豪族の屋敷であるために、旅芸人が去って行ったあとも、名残惜しいのか。、物見遊山なのか、まだ観衆の一部がちらほらと残っている。
そうして、ちょうど井戸をみつけた馬良は、水をくみ出して、手ぬぐいを水に浸そうとしたのであるが、ちょうど、偉度のそばの橘の茂みの影で、ざく、ざくと、なにかを切り刻んでいる音がしているのに気がついた。
音には、すこしばかり水の音も混ざっており、これは料理人が、野菜でも刻んでいるのだろうかと思った馬良であるが、よくよく見ると、その橘の木の一部から見える背中は、どう見ても粗末な麻のそれではなく、上等な士大夫の衣であった。

しかも、色に見覚えがある。
藍色の上衣に、金の刺繍の縁取りのあるこれは、龐統のものではなかろうか。
龐統が、なにゆえ、こんなところで野菜を刻んでいるのか?
怪訝におもいつつ、馬良はそっと、その背中から様子を見て、思わず声を挙げそうになり、あわてて口を塞いだ。

龐統は、大きな瓜を地面に置いて、それに、一心不乱に刃を突き立てていた。
その瓜には、筆で『諸葛孔明』と書かれている。

その刃を突き立てる形相たるやすさまじく、それまで馬良が龐統に抱いていた好印象が、すべて吹き飛ぶほどの恐ろしげなものであった。
憎しみ、嫉妬、怒り、そういった負の感情が、龐統の形相にすべて集約されている。
もともとの容姿が悪いから、余計にそう見えるのではない。
いや、もともとの容姿が悪いのではないのだ。
この、浅ましくも醜い、そしてどこか滑稽で、悲しい顔こそが、龐統の顔なのだ。
孔明の美しさが内面から押し出してくる光によって、なお映えるのと逆に、龐統の場合、いつもは懸命に、笑顔の底で押し隠している負の感情が、しかしどこかで滲み出ているがゆえ、通常の醜さに、悲しいことに反映されてしまっているのだ。

それにしても、なんという情けない姿か。
負けたことが悔しいならば、悔しいといえばいいのだ。
しかし、龐統は、ずっと『善人』を演じ続けている男だ。
そうであるがゆえに、この局面においても、負の感情を人前で表すことができない。
そのために、こうして溢れてくる負の感情を、なんとか抑えようとしている、のだろう、これでも。

あまりに気の毒なため、止めようとした馬良であるが、背後から唐突にあらわれた腕によって、そのまま羽交い絞めにされて、井戸からほど遠い物陰に引きずり込まれてしまった。
さては、龐統の仲間かと暴れた馬良であるが、じたばたと暴れるその耳に聞こえてきたのは、腕にこめられた力とはうらはらに、のんびりとしたものであった。
そのうえ、声に、聞き覚えがある。
「白眉、儂だ、儂。暴れるな。腰が痛むではないか。長旅から帰ったばかりで、こちらは疲れておるのだぞ」
そうして解放されて、振りかえれば、そこにいたのは、ほかならぬ、龐統の叔父である龐徳公であった。
「旅に出ておられたと伺っておりましたが、いつ戻られたのですか?」

龐徳公は、甥にすこし面ざしの似た、目の細い、しかし頑丈な体つきをした男である。
くだけた人柄のため、慕われるが、しかしどこか親近感を抱かせすぎるためか、世間からは舐められた態度をとられることが多い。
そうしないのは、馬良や徐庶、崔州平、孔明といった、わずかな者たちだけであった。
龐徳公は、たしかに人柄はよいが、鋭い眼力を持っている男でもある。
ことなかれ主義である司馬徳操にはない、豪胆な舌鋒を、孔明は尊敬している。だからこそ、礼を尽くしているのだ。媚を売っているわけではない。

「おどろかせてしまったかな。なあに、士元と孔明がさっそく喧嘩をはじめたと聞いたので、これは面白いと駆けつけてきたのだよ。一部始終を隠れてみておったが、面白かったな。やはり、孔明が勝ったか」
それは、甥である龐統に対して、いささか冷たくなかろうかと馬良は思ったが、それが正直に顔に出たらしい。
龐徳公は、声をたてて笑いながら、言った。
「それは孔明が勝つだろうよ。こういった勝負事に関しては、孔明のほうがいろいろとひどい目に遭っているから、おなじように悲しい心にとらわれている者の気持ちを掴みやすい。
あの令嬢、ひどく怒っていたようだが、いつかは孔明のことを感謝するようになるだろうな。ただし、士元が呼んだ旅芸人のことは、すっかり忘れてしまうだろう。
士元は、まだまだ雛だ。育ちが良すぎて、世間や人の心のむつかしさを、まだなんにも知らない」
「先生、お言葉ではありますが、わたしにはわかりません。士元殿のまわりには、いつもだれかが士元殿をしたってあつまっております。
しかし、逆に孔明は、むしろ遠ざけられ、一人でいることのほうが多い。それなのに、孔明のほうが、世を知っているとおっしゃるのですか。たしかに、孔明は叔父君のことなど、いろいろと苦労もあるようですが」
すると龐徳公は、眼をほそめて、髭がまばらに生えている顎をさすりつつ、言った。
「白眉も若いな。人が集まっているからといって、そこに確たる絆があるとは限らぬぞ。
士元のよいところは、人の美質を見抜き、それを上手くおだてて、伸ばしてやれるところだ。
誉められたり、おだてられたりしたら、ふつうは嬉しくなって、そう言ってくれる男のそばに集まるものだろう。
ただし、士元はそれが半端なのだ。
どこかに、『こういえば、自分を好きになってくれるだろう』という計算が言葉の裏側にある。自分ありき、なのだな。
つまり、自分というちっぽけな目線からしか、世の中を見ることができないでいるのだ。
才能は、わが甥ながら十分にあると思う。けれど、まだまだ小さい。だから鳳の雛という号を授けたのだよ。
とはいえ、これがうまく孵るかどうか、それはだれにもわからない。あれの、あの癖、なんとか治らないものかな」
「あのう、申し上げにくいのですが、あの瓜のことでございましょうか」
そうだ、という意味を籠めて、龐徳公は、深くため息をつく。
「びっくりしたであろう。あれは、面と向かって悔しいと言えないものだから、ああやってモノに当たって、なんとか心の均衡を保つ癖があるのだ。これを知っておるのは、わしと、兄上だけだ。哀れなものじゃないか。おまえも哀れだと思うのなら」
「はい、わかっております。だれにもしゃべりませぬ」
馬良が悲しげにいうと、龐徳もまた、豪快な人柄に似合わず、顔を曇らせて、つづけた。
「あれは、小さいころに大病にかかったせいで、ご面相が悪くなってしまって、かわいそうだと、ちやほやし過ぎたのだな。見慣れれば、そんなにひどい顔ではないのだが。
しかし、両親や周囲の人間のいたわりが過ぎたために、かえってあれは、自分の容姿は人に同情されるほどにひどいものなのだと、いじけてしまったのだ。その穴埋めのために、学問に励み、人に気に入られる術を身につけた。
だが、庇うわけではないが、性根がすこしばかり暗いというだけで、心根が悪いのではない。
それに、嫌われたくないという、勝手な思いだけで動いているのでもない。あれは、自分を労わってくれる人を大切にしたいという思いが強すぎて、相手の意に反することができなくなってしまっているという、繊細な面もあるのだ。
弱いといったら弱いのだろうが、それを責めるのも不人情だろう。だから、儂も諌めあぐねているのだよ。
それはいまも同じで、自分にあつまってくる者たちの期待を裏切りたくない、失望させたくないという思いが強すぎるために、だれにも本音を打ち明けられずにいる。そうして、あんなふうに、モノに当たる癖がついてしまったのだ」
「そうでありましたか」

馬良の脳裏にあるのは、甘やかされすぎて、歪んでしまった弟のことがある。
あれも、愚かではあるが、悪いのではない。
そう考えると、才能があるとはっきりわかるだけに、龐統の内側に鬱積したものを、ああいった寂しい方法でしか解決できないということが、気の毒であった。

「あれに、心から信頼できる友が出来たなら、またちがうのかもしれない。うまくいかないものだ。
あれの逆が、孔明だな。孔明の場合は、ひとたび信頼した相手には、すべてを委ねてしまう危うさがある。
いろいろと、あの歳でひどい目に遭っているのに、それでも人を信頼しつづける力は大したものだと思う。
ただし、えり好みが強すぎる。ふつうの人間が触れようとしただけで怒る。まさに逆鱗を持っている、龍みたいだ」
「なんと? もしや、亮くんに臥龍という号を授けたのは、触られるのを嫌がるという亮くんの癖を、先生も見抜いておられて、それでつけたものなのですか?」
「うむ。そうだよ」

それでは号というより、渾名ではないかと呆れつつ、そういえば、自分の『白眉』というのも、半ば渾名ではないかということに、馬良は気がついた。
言葉のひびきのよさに何となく浮かれていたが、どうもこのひとの号の授け方は、偏りがあるような。

「あと十年、いや、五年かな」
「なにがでございます?」
馬良がたずねると、龐徳公は、真面目な顔をして、言った。
「儂が授けた号の意味が、効力を発揮する時期だよ。おまえ、儂が適当に、渾名のように号を授けたとおもったであろう」
「申し訳ありません。すこし」
正直に答えると、龐徳公は、豪快に笑った。
「それは仕方ない。たしかに、勘でつけているところがあるからな。しかし、妙に悩んだときよりも、勘でこれだ、と思ったときに号を授けた者のほうが、不思議と大成する。
あと十年、はやくて五年後くらいに、あのふたりの運命は、世に明らかになるだろう。そのときに、白眉、おまえは両方から好かれているようだから、どっちかの支えになってやってくれ」
「わたくしが?」
「おまえにも王佐の才がある。それは、孔明や士元とは、またちがった、優しい、木漏れ日のような、あたたかーい才能だ」
「わたしは、そんないい人間ではありませぬ」
それは真情であった。そうしてなにやら悲しく思いながら答えると、龐徳公は、かえって満足したように言った。
「そこで、悲しみをおぼえられるおまえだからこそ、やはり逆にいいのだよ。だが、あえて身内を贔屓して言うのなら、どちらかを選べとなったなら、できればおまえには、甥っ子のほうに味方をしてほしいところだがなあ」

龐統と、孔明と、どちらが孤独かと問われたなら、その時点では、はっきりと龐統であった。
だから、馬良は、どちらかを選ばねばならないなどということが、もしあるのだとしたら、それは、どちらか一方だけの味方ではなくて、両方の架け橋のような存在になれたらよいなと、漠然と思っていた。
しかし、そのときには、孔明には、徐庶がいて、崔州平がいて、そうして自分もいたから、そう思ったのだ。

いまは、孔明には、徐庶も崔州平もいなくなってしまった。



年月は、あっという間に過ぎ去った。
龐徳公が予言したとおり、二人の運命は、呼応するかのように、ほぼ同じ年に、天下に明らかになった。
臥龍たる孔明は、劉備の軍師として迎えられ、曹操南下による攻撃を、みごとに短時間で軍をまとめてこれをしのぎ、東呉と同盟を組んで、荊州三郡を足がかりに、益州を取る基盤を作り上げた。
一方の龐統は、遅れた感はあるものの、周瑜と親交をむすび、孔明よりさらにつよい呉との結びつきを背景に、おなじ荊州の豪族仲間たちとも組んで、劉備の軍師となって、孔明を追い抜くようなかたちで、益州攻略の軍師として、劉備に随行することになった。

いまの孔明と龐統の対立というのは、かつて私塾に通っていたときのような、牧歌的なものではない。
もっと殺伐として、そして切羽詰ったものだ。
一つ、その選択をまちがえれば、明日はない。
架け橋になろうなどという、やさしい論理は、そこには通用しない厳しさがある。
あのときは、自分もまた、自由であった。一人であった。
いまはちがう。妻がいて、子がいる。
かれらを守らねばならない。
この決断が、運命を大きく変えることになるのだろう。

「われらが歳華春は、あっという間に過ぎてしまったのだな」
徐庶からの手紙を読んで、たしかにあった歳華春という、どこかつたなく、切なく、そして楽しかった頃を思い出し、馬良は悲しくため息をついた。
あのとき、たしかに三人でいたというのに、いまのこの運命の開き方はどうだろう。
困ったとき、迷った時に、道を示してくれた徐庶は、いまは、とおい敵地の彼方にいる。
龐徳公は存命しているが、やはり孔明と龐統、どちらかにつけばよいかと相談すれば、あの時と同じように、士元についてくれと言うだろう。
あれは孤独だから、と。

現状では、圧倒的に孔明が不利。
劉備の好みの軍を、龐統は指揮することができる。
すなわち、張飛のように、華のある武将を盛り立てて、派手に陣太鼓を叩きながら行軍するような、あの時とおなじ、だれが見てもわかりやすい軍を。
だからこそ、孔明を押しのけてまで、龐統は抜擢されたのだ。
孔明にはできないことができると、見込まれたから。

対する孔明は、地味だ。
徹底して訓練された、統制の取れた軍隊、士気に振り回されることのない堅実な軍隊を指揮することを好む。
しかしそれは、劉備の好むところではない。
心情的には固く結びついている主従であるが、目指すところに、大きな差があることが、龐統という男の登場で、誰の目にもあきらかになってしまった。
そこへ、いっせいにつけ入られてしまった感がある。

龐統は、わかりやすい。
孔明は、むずかしい。まわりくどい。
人は、わかりやすいものを好む。
さらに、みなは龐統と孔明の軍才に、そう差がないであろうことを知っている。
だから、入蜀がうまくいけば、その後のあつかいは、まちがいなく逆転し、龐統が劉備の、いちばんの寵臣となるであろう。

単純に考えれば、そんな未来が簡単に描ける。
だが、そうであろうか。
あのときと、じつは本質は、なにも変わっていないのではなかろうか。
わかりやすく見えるものは、ほんとうにわかりやすいものだろうか。
劉備の好みの軍を指揮できるというこの特長、じつは、以前とおなじように『相手を失望させたくない』という、龐統の無理から発せられていないと、どうして言い切れるだろう。
じつは、龐統には、実績らしい実績は、まだひとつもないのである。
孔明のように、曹操の追撃をかわすための野戦に参加していないし、荊州をとるための指揮をとったのも、孔明であって、龐統の戦歴らしい戦歴は、じつはなにもない。
実績がないという危うさが、龐統にはあることを、みなは不思議と、忘れてしまっている。

孔明のもつ、地味な軍隊。
派手な勲功を好まず、徹底して作戦遂行のために動ける軍隊。
つまりは、孔明の意志が、一兵卒にまで行き届いている軍隊だ。
この軍隊の基盤をつくったのは、徐庶である。
孔明は、その軍を、徐庶から引き継いだ、宝のようなものだといって、たいせつに育てていた。
生き残ることを目的にしている軍だ、志を守るためには、生き残らなければならないから、と。

徐庶の手紙には、こんなことが書かれていた。
『なつかしい歳華春の頃は、霧の彼方のように遠くなってしまったが、いまになって、あのときに、もっとおまえたちと語っていれば良かったと思う。
龍は、ひとりで歩いているか。もう杖に頼っていないか。
それを間近で見ることができないのが残念だ。
だが、だからこそ言いたいのだ。
道をあやまって、生き恥をさらすことを恐れるな。生き残れ』

生き残れと、君はわたしに頼むのか。
そうだな、生き残ることができたら、また君と、なつかしい想い出を語りあうことができるかもしれない。
君は、われらが兄、そしていつまでも師であるのだな。

馬良は、筆を執ると、すぐさま三通の手紙をしたためた。
一通目は、孔明宛に。これからもよろしくと。
二通目は、龐統宛に。武運を祈る、荊州にて孔明と朗報を待つ、と。
三通目は、徐庶宛に。

先のことは何もわからない。
しかし、君とたしかに過ごした歳華春のことを、やはり君も覚えているというのなら、同じく想い出を共にし、つたないながらも小さないくさを戦った友と、これからも手を携えていこうと思う、と。

そして、結びに書いた。
ありとあらゆる思いを籠めて。
ありがとう、と。

おしまい

※あとがき・ミニ※
歳華春とは『青春』のことであります。孔明と龐統の対立の話で進みながら、最後は、道の分かれてしまった徐庶に対する感謝で終わるという、ちとフシギな構成となりました。
馬良と徐庶が仲が良かったかどうかは不明なのですが、孔明の交友関係がそう広くはなかったであろうという憶測より、こうした設定となりました。友達の友達は、友、というわけです。そして、孔明と龐統、この二人が対立せざるをえない心情的な理由が描けていれば幸いであります。
このお話は、これから進むであろう本編の番外編的な位置づけであり、なおかつ、これから描くことになる、おそらくいちばん悲しい人物になるであろう、龐統の試験的な登場作品となりました。単に孔明の『敵』などという単純なものではない、『こうとしか生きられなかった』人物が書けたらなあと思いますが、さてはて、このペースでは本格登場はいつのことやら。まだまだお話は展開を続けていきます。これからもお付き合いいただけたらと思います(^^♪
そして、この作品を書くきっかけとアイデア、そして機会ををくださった瓊玉さまに、深く感謝いたします。ご期待に添えるものだったらうれしいのですが…m(__)m 
さいごに、みなさま、ご読了ありがとうございました。


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