歳末リクエスト企画第二弾
歳華春の思い出
六
王の家の庭をつかって行われる、有名な旅芸人の一座を、気前のよいことにタダで見られると聞いた町のものたちは、おおよろこびであった。
町のなかだけではなく、噂を聞いた、農村の者たちまでがあつまろうとする騒ぎである。
さすがに富裕な豪族の屋敷で、たしかにひろいといっても、さすがに反響が高すぎるために、あまり大勢がつめかけたら危険だというので、これまた龐統は、愉快な知恵をはたらかせた。
竹でつくった、かんたんな籤をつくり、街の広場にてそれを引かせて、当たったものだけが庭にはいれるようにしたのである。
それならば、公平であるということで、みなも納得し、籤引きじたいも楽しいものであったから、ますます「龐家の坊ちゃんは、ご面相はともかく、わかいのに、なかなかの知恵ものだ」と評判は高まる一方。
孔明のほうといえば、もともと、名前ばかりが先行している印象で、しかも荊州の人間ではない、ということもあり、どちらかというと忘れられた感があり、馬良としては、なにをできるわけでもなし、やきもきするばかりである。
横では、小生意気な弟が
「これは、すでに勝負ありましたな」
などとうそぶくので、兄の特権を生かして、これのほっぺたをつねったりして叱ることで、馬良はかろうじて憂さを晴らした。
あっという間に日は落ちて、夜が過ぎ、朝が来た。
そうして旅芸人が王家の庭で芸を披露する、その当日になっても、孔明はもどってこなかった。
もどってきたのは、一度、馬良から聞いた情報を伝えにいった、徐庶だけである。
「どうして徐兄だけ? 亮くんは?」
顔も蒼白に、うろたえて、詰めよる馬良に、徐庶は、さほどあわてた様子もなく、やはり飄々と答えた。
「なにかわかったらしいのだがな、まだちょいと考えたいことがあるというので、林のなかにいるぜ」
「まだ林! そんなにあの林が気に入ったの?」
あきれて眩暈すらおこしかけている馬良に、徐庶はなだめるように、手を肩にまわして、ぽんぽんと叩いた。
「あれには、あれの考えがあるのだろうさ。なんだか迷っているようだったぜ」
「もしや、逃げたのでは」
と顔を出してきたのは、醜聞大好きな馬謖である。
馬謖は自分の失敗はだいきらいだが、人の失敗はだいすきだ。
目をきらきらさせて口をはさむ、そのようすに、徐庶は、無言のまま、こいこい、と馬謖を手招くと、さて、なんだろうと近づいてきた馬謖のあたまに、強烈な一撃をおみまいした。
「あれが逃げるか、たわけもん。おい、季常、今からでもおそくない。家族会議をひらいて、こいつの性根をどう叩きなおすかを、一族全員で検討しろい」
「まったくだね、返す言葉もないよ……」
徐庶は鬼畜だ、非道だ、と殴られた頭を撫ぜながら、馬謖は、案の定、常日ごろ孔明をおもしろく思っていない者たちのほうへと駆けていく。
「やはり、おまえの弟経由で、こっちの情報は筒抜けになっているようだな。見ろよ、あいつらの、あの嬉しそうな顔。ぺしゃっ、と叩き潰してやりたくなるね」
「ぺしゃっ、ってね…だめだよ、徐兄」
ますます顔を蒼くした馬良に、徐庶はからからと、豪快に笑った。
「しない、しない。あいつら、ぺしゃっ、とやる素振りを見せただけで、痛いことをするのはやめてくださいと土下座するくらいの、根性なしだからな。こっちもなにもする甲斐がないのだよ」
「ということは、しようとしたことがあったのだね…」
「なあに、俺なんぞを怖がっているようじゃ、あいつら、だれも大成すまい。それよりも、籤引きで決められた者しか、王家の中には入れないようだが、俺たちはどうなのだ?」
「それは大丈夫だよ、是非に来てくれたまえと、わたしと徐兄と亮くんは三人とも招待されているのだ。けれど、本来の主役がまだ来ていないなんて」
「不安だと言いたいのだろう。わかるけれど、まあ、ここは、『臥龍先生』を信じてやろう。もしかしたら、いまごろは、襄陽の町に向かってきている頃かもしれない」
「逃げたとは思いたくないけれど、迷うって、なにを迷う必要があるのだい。これは、純粋に勝負だろう? とにもかくにも、引きこもっている王家のご令嬢を、部屋から出せばいいのだ」
「ま、俺もそう思うわけだが、あいつはそうは思わなくなったらしくってな、負けても仕方ないかもしれない、なんて言いだしやがった」
「は? なんだってまた? 亮くんらしくもない。負けていいって、どうして。龐士元の手法に感動したからかい?」
「いいや、そうじゃなく、俺が龐士元のやっていることを伝えても、あいつは、余裕なのか、なんなのか、『ああ、そうかい』と言ったきりでな、あんまり興味をおぼえた様子でもなかったぜ」
「どういうつもりなのだろう。来ない可能性もある、ということじゃないか」
「それは、あいつ次第だろう。来なけりゃ来ないで、逃げたと笑いものになるのは判っているだろうし、来たら来たで、この華やかかつ、大胆な好敵手の作戦に、どう対抗するつもりなのか。俺たちは見守るしか、できないってことだな」
「他人事みたいになんだい。わたしたちは亮くんのために、林にまで迎えに行くべきじゃないだろうか。なにかほかの事情があって、林から動けなくなっているのかもしれないよ。ほら、林で迷ってしまったとか」
馬良が、じっさいに足を動かしかけると、しかし、徐庶は答えた。
「迷っているということはないよ。あいつは一人じゃない。樵夫と一緒だったからな。
それに、これは、龐士元と諸葛孔明の対決だろう。俺たちは、本来見ているだけしかできないんだよ。おまえさんの厚い友情はわかるが、俺たちにはどうしようもできないな」
「どうしようもできないだなんて、だって、士元のほうは、仲間がたくさん協力していて、亮くんは一人じゃないか。こんな勝負、不公平だよ!」
だんだん自分で口にしているうちに、興奮してきたのか、気分が高揚してきた馬良であるが、徐庶のほうは、あくまで冷静である。
「士元には士元の方法がある。あいつの周りには常に人がいて、あいつが動くと、それにあわせて、人も動く。そういうやつだから、こういう状態になる。
孔明は士元とはちがう。どちらがいいのかは、俺にはわからんがね、孔明はひとりで、実態の奥底に、ふかくふかく潜り込んで、未来を探ろうとしているのさ」
「どういうことだい。徐兄、ほんとうは、やっぱりすこし、亮くんがなにを考えているのか、知っているのだね」
「まあまあ、ともかく、洛陽でも大評判だった旅芸人の演目がはじまるぜ。ここは純粋に客として楽しもうじゃないか」
徐庶のことばに、いくつも言いたいことはあったが、林に迎えに行くのも、たしかに半端なことに思えて、馬良は、しぶしぶながら、観客たちにまざることにした。
都で大評判をとったという一座の出し物は、その前評判以上にすばらしいものであった。
さすがの馬良も、孔明のことをわすれて、その血と汗と涙の結晶たる芸に見入ってしまい、あわてて孔明のことを思い出す、ということをくりかえすほどであった。
となりで見物している徐庶も、感嘆の声をあげて、ほかのあつまってきた大衆とともに、芸人たちに惜しみない拍手を送る。
馬良は、演目に魅入られたあと、我にかえり、そして出し物の合い間合い間に、孔明があらわれやしないかと入り口や裏口のほうをさぐる、ということをくりかえしたのであるが、しかし、一向に、あの背の高い、鶴のような姿はあらわれないのであった。
馬謖から情報が漏れたらしく、龐統の取り巻きたちは、勝負があったと見たのか、酒まで持ち出して、やんやと芸人たちに拍手喝さい。それどころか、まだなにも勝負がついていないというのに、おめでとう、などと祝辞を述べている者さえいるほどだ。
「孔明め、やっぱり口ほどではない。あいつはおまえの叔父さんにゴマをすって、号を得たはいいが、おまえと対決するとなって、化けの皮がはがれるのが恐ろしくなって、逃げてしまったのだろう。これはおまえの勝ちだ」
そんな声が高らかに聞こえてくる。
全体の雰囲気も、龐統の勝利を確信しており、諸葛孔明と言う人物、名前負けもいいところだ、という声が、そこかしこから聞こえてくる始末だ。
龐士元は、勝ってなんていないじゃないか、と憮然と馬良は思った。
なぜならば、この愉快な演目を見ているはずの王嘉音は、いまもって、自分の部屋から出てこようとしていないのだ。
嘉音が、演目を近くで見たくなって、外に出てくるように演出する、というのが龐統の狙いのはずだ。
とすれば、思いつきはよかったものの、この策、じつはまだ、成功していないことになる。
嘉音の部屋のそばには、犬を貸してくれた侍女たちがそわそわと、部屋と部屋の中を往復している。
嘉音が外に出たがっているのかと、馬良は遠目でそれを見てひやりとしたが、しかし、本人が出てくる気配はまったくない。
龐士元は、これをどう見ているのかなと思えば、取り巻きたちに囲まれて、にこにことしているものの、しかし、勝利に酔っている、というふうではない。
そこはさすがに、この勝負の本質をわかっている、ということか。
もしも、孔明がこのまま現われなくても、嘉音が部屋から出てこなかったら、引き分けということになる。
もしや、孔明は、それを狙っているのではなかろうか。
消極的な手段であるが、可能性としては、ありうる。
しかし、どちらかといえば安全な家屋のなかに引きこもり、自然と触れ合うことには、とくにありがたみをおぼえない孔明にしては、いつまでも林の中で、しかも樵夫たちと一緒にいる、というのはふしぎであった。
樵夫たちに捕まっているのではなかろう。
もしも、男たちの性質が悪そうであれば、徐庶がこれを孔明から引き離しているはずである。
そのあたりの判断は、徐庶は、まちがわない男だ。
そうして演目はどんどん進んでいくのだが、王嘉音は部屋から出てくることはなく、孔明も姿をあらわさない。
孔明が戻ってこないことはともかく、王嘉音が引きこもったままであることは、龐統と、その取り巻きにとっては問題である。
当初は、最初から勝利を決め込んで、手放しによろこんでいた者たちも、だんだんと、このままでは引き分けになると気がつき始めた。
それゆえか、その場の世論を動かそうとでもいうのか、こんなことを言い始めた。
「孔明はとうとう姿を現さないつもりらしい。つまり勝負を投げたのだから、これは、我らが鳳雛先生の勝ちということではなかろうかね」
あつまった人々の心には、盛り上げて、楽しませてくれた龐統への感謝の気持ちが出来上がっている。
この声には効果があり、そうだな、諸葛孔明というひとは、逃げたのだろうと囁く声が、そこかしこから聞こえてきた。
いかん。これはいかん。
なんとかせねばと馬良は考えるが、しかし、いい案が浮かんでこない。
そこへ、視界に飛び込んできたのが、さきほどから無邪気に演目に酔っている馬謖の姿であった。
「あんなことならば珍しくもない」
「演出が陳腐だ」
「わたしならば、ここで、ああする」
「ああいうことならば、わたしにだって出来るだろう」
等々、周囲が聞きたがらない、批判なのだか薀蓄なのだかをくりかえし、ほかの観客に迷惑をかけまくっている弟を呼ぶと、馬良は言った。
「どうだ、幼常。勝負はやはり、士元のほうだと思うか」
「そうではないでしょうか。しかし、厳密にいえば、王嘉音どのは部屋から出てきていないわけで、このままでは、士元どのが勝ったとも言えないでしょう」
そのとおりだ、と感心しているふうに馬良は大きくうなずいた。
「このままでは、士元の取り巻きによって、勝負の結果がゆがめられてしまう。この勝負は、どちらが楽しいことをしたかではなく、嘉音どのを部屋から出す、ということにあるわけだ。おまえはよくわかっているな。兄としてはおどろいたぞ」
馬良が言うと、ある意味、素直で単純な弟は、目をきらきらとかがやかせて、破顔した。
「そうでしょうとも。兄上も、ようやくこの幼常の価値をわかってくださいましたか!」
「うむ。この勝負には、本来ならば、おまえのような知恵者が加わってしかるべきなのだ。孔明も士元も失敗した、王嘉音を外に出す、というこの命題を、おまえが果たしたら、世間はどう思うだろうな」
「それはもう、世間は、天から与えられた真の宝に気づいて、歓喜することでありましょう!」
「兄としても、そうなることを期待しているのだが」
と、ここで、馬良は、大げさなほどに深いため息をついてみせた。
「このままでは、どうやら、なし崩し的に士元の勝ちが決まってしまう様子だ。ああ、惜しいことだ。だれかが、みなに、まだ令嬢が外に出ていないということを、思い出させてやらねばならぬ」
「兄上、おまかせくだされ。その役目はわたくしが!」
「おや、おまえがするのか。気が利くな、幼常」
わざとおどろいて見せると、馬謖は得意げに声をたてて笑いながら、まかせろ、というふうに、どんと自分の胸を叩いた。
「おまかせくだされ、兄上。この勝負、きっとこのままでは決着がつきますまい。ご令嬢が外に出なければ、勝負はつかないのだということを、みなに広めてまいります。
さすれば、いくら龐士元どのの取り巻きが、結果をゆがめようとしても、これだけの証人がいるのですから、なにもできやしないでしょう。さっそく、みなに話をしてまいります」
言うが早いか、馬謖は、馬良がおどろくほどの行動力を見せて、みなに、龐統の取り巻きたちの言っていることは論理のすり替えで、ここはやはり、嘉音が外に出てこなければ勝負の決着はつかないということを吹聴してまわった。
もちろん、この問題を解決する人間は、じつはべつにいるらしいと、もったいぶった情報を、付け加えることを忘れずに。
弟にはすまないと思いつつも、これで、すこしは時間が稼げるか、あるいは龐統の勝利に異議をとなえる人間が出てくるのではなかろうかと、馬良は思った。
徐庶は、というと、一部始終をしっかり見ていたらしく、
「おまえさんは、やっぱり白眉といわれるだけあるな」
と、苦笑いを浮かべていた。
さすが一流の芸人集団というのは、客の盛り上げ方のツボと言うのも実にこころえており、一連の見事な出し物の途中で、退屈だといって飽きるものはいなかった。
終盤に近づけば近づくほどに、出し物の内容は高度なものになっていき、いつしかあつまっていた人々は、この出し物自体が、勝負の一環であることすら、すっかり忘れていた。
それは龐統の取り巻きも一緒で、あまりに見事な芸のかずかずに、いつもの嫌味な空気はどこへやら、すっかり童心にかえって、素直に演目を楽しんでいる。
それは馬謖も一緒で、人々を多く楽しませる、という目的が、勝敗の分かれ目になるのだとしたら、この芸人たちを選んで、人々に紹介した龐統の勝ちは、確定であっただろう。
当初とはちがい、大勢のひとびとのなかで、まったくといっていいほど出し物に集中できていなかったのは、ほかならぬ馬良であった。
ちらりと見れば、龐統も、場が盛り上がれば盛り上がるほどに、周囲にあわせて浮かべている笑顔が、減っているようである。
王嘉音の閉じこもっている部屋は、ぴったりと閉ざされて、ひらく気配がない。
この出し物を、窓の隙間からのぞいているかどうかもわからない。
人々の楽しげなざわめきも、芸人たちの威勢のよい歌声や掛け声も、かの女のこころには、なんら響いていないというのであろうか。
そうして、親友の諸葛孔明は、いったいどこでなにをしているのやら。
見たところ、龐統の取り巻きたちは、勝利を確信しているらしく、孔明が屋敷にやってこられないように、どこかで待ち伏せをしている、というような、姑息な手段には出ていないらしい。
待ち伏せして足止めをするなどという、古典的な手段をかれらがとるのではと、馬良がなぜ危惧しているかといえば、じつはかれらには前科があるのだ。
どうしても孔明が出席せねばならぬ試験に出られないように、道で待ち伏せをして、大勢で取り囲み、いろいろと言いがかりをつけて、わざと吹っかけてきたのである。
そのとき、孔明はずたぼろに殴られ、あちこち衣も擦り切れ、歩くのもままならないひどい状態であらわれたのであるが、試験だけはきっちり受けて、すべてに解答し終わったあと、ばったりと気絶したという、すごいことをしてのけている。
ちなみに、そのときに足止めをくらわせた連中は、ことなかれ主義の司馬徳操もさすがに眉をひそめ、謹慎処分にしたほどであった。
それはともかく、孔明は、もしかしたら、このまま現われないのではないのか。
逃げるとは、どうしても思えない。
それこそ、深窓のご令嬢のような容姿をしているくせに、とんでもなく負けん気がつよく、前向きなのが孔明だ。
もしかして、屋敷のすぐそばまで、近づいてきてはいるのかもしれない。
そうだ、迎えに行こう。
いてもいられなくなった馬良は、庭に集まっている人々をかきわけ、かきわけて、裏口から外に出ようとするのであるが、そのとき、一座の長があらわれて、最後の口上を述べはじめた。
「お集まりのみなさま、ありがとうございました。お名残惜しいことではありますが、これにて最後の演目となりまする」
もう最後。
王嘉音がどんな女人かは知らないが、恥かしがりやなために、最後の最後になって、姿をあらわす可能性もある。
どうやら座長は、龐統に言い含められていたらしく、あつまった観衆に向かってではなく、とくに、王嘉音の部屋のほうに向かって、丁寧におじぎをしてみせる。
いつでも表に出ていらっしゃい、というわけだ。
最後の演目というのは、それまで登場した芸人たちが、いっせいにあらわれて、流行の歌曲にあわせて、群舞を披露する、という華やかなものであった。
すっかり座は温まっていたから、この派手で楽しい群舞に、観衆は大喜びで、惜しみない拍手を送っている。
この乱世で、いくらか平和とはいえ、いやな事件も多い世相で、さまざまな身分が一堂にあつまり、これほどに屈託なく、楽しくしている光景というのは、たしかに微笑ましいし、それを作り出した龐統の手腕は、たしかにたいしたものである。
発想の根本が、優しいのであろう。
自身は高名な豪族の子弟であるが、龐統の脳裏には、身分の垣根はないのかもしれない。
だからこそ、その周囲に、多くの人が集まるのかもしれない。
そして味方になって、盛り立てようとしてくれるのかもしれない。
煌びやかで美しい鳳凰。その雛。だから鳳雛。
なるほど、龐徳公が、甥につけた号は、ちゃんとそれなりの理由があったからなのか。
「これはまた、ずいぶん盛り上がっているようだね。最初から見たかったな」
その妙に平和な、そして聞きなれた涼やかな声がしたときに、馬良は魂が抜けるかと思うほどにおどろいた。
いつの間にやら、裏口の戸口のそばに孔明がいて、盛り上がりに盛り上がっている群舞を、呑気に眺めていたのであった。
「亮くん! いまのいままでなにをしていたのだい! もう終わってしまうよ!」
「そのようだね」
「そのようだね、って、なんと呑気なことを」
「いやはや、派手で華やかで、じつに素晴らしい。みんなも喜んでいるし、こんなに盛り上がって、わたしには、こんなふうには出来ないな。差を感じるよ」
「感心している場合ではないよ!」
抗議のことばをつづけようとする馬良をさえぎるかのように、それまで観衆に混じっていた徐庶が、これまた馬良が焦れるほどのんびりと近づいてきて、孔明に問いかけた。
「で、どうだった。答えは得られたのか」
孔明は、あっさりと答えた。
「ああ」
とたん、それまで苛立ちばかりで眉ばかりか、髪まで白くなりそうな思いをしていた馬良は、一気に安堵した。
「なんだい、つまりそれは、ご令嬢を、部屋から連れ出す策が、亮くんにはあるということだね?」
「まあね。しかし、あまり気が進まないのだ。いっそ、このまま、芸人たちの演目の素晴らしさにみんなが勝負を忘れて、なんだかすべてがうやむやになってしまうか、そうでなければ、ご令嬢がさいごに部屋から出てくるか、してくれればいいのに」
「なにを言っているのだい。負けてもいいというの?」
意気込んで馬良が言うのを、孔明はあっさりと肯定した。
「うん。正直なところ、この手段を用いるくらいなら、負けたほうがいい」
「つまり、ご令嬢が部屋に閉じこもっている原因までは、しっかりつかめたというわけだな」
徐庶が言うのを、孔明は素直にうなずいた。
「時間がかかったけれど、とりかかりが出来たなら、あとは早かった。部屋から出す手段は、良くんからの情報で思いついた。まず成功するだろう。
ただし、問題はそのあとなのだよ。そのあとの言い訳をどうつけるか、それをずっと悩んでいて、遅くなった」
「どういうことだい、わたしの情報とか、言い訳とか」
首をかしげる馬良であるが、孔明は、だれもが笑顔で見ている群舞を、きむずかしい顔をして、じっと見つめるばかりである。
おそらく、その双眸には、楽しい光景はなにも目に映っていないのであろう。
見れば、徐庶までも、孔明とおなじように気むずかしい顔をしている。
「それじゃあ、どうする。棄権するか。というより、このまま勝負が、なんとなく盛り上がったから、龐士元の勝ちというふうになってくれると、いちばんいいような気がするがな」
「それでいい。号は、いくらでも返すさ。龍は、寝とぼけたままということで、鳳の雛は盛大に飛び立ってくれたまえ」
「どうしたのだい、らしくもなく後ろ向きな!」
馬良が抗議すると、孔明は、困ったように笑ってみせた。
「そこまで、わたしのために気を遣ってくれて、ありがとう、良くん。でも、この勝負は、そもそもしてはいけないものだったのだよ。
ご令嬢の気持ちも知らないで、勝手に自分たちの名誉のために勝負のネタにするなんて、心ないことだったのさ。言い出したのは、ご令嬢の実兄だが、あいつはやっぱり馬鹿だ」
「そういうところは、亮くんだね。すこし安心したよ」
「さあて、おおいに盛り上がったところで幕、というところらしいぜ。もうこうなったら、一緒に盛り上がって、すべてをうやむやにする方向で、俺たち自ら動いちまおう。ほら、白まゆげも拍手!」
「徐兄は、ときどき、変な人になるな」
なにがなにやら、わからないながらも、徐庶が盛大に拍手するその横で、馬良は一座のために拍手を送り、そしてろくに演目を見ていなかったであろう孔明も、ぱちぱちと拍手をして、その芸をねぎらった。
龐統と、その取り巻きまきたちは、芸人たちに向けられている拍手や喝采が、まるで自分たちに向かっているかのようにかん違いでも起こしているのか、たがいに肩を抱いたり、手を取り合ったりして、勝利に酔っている。
「おめでたいやつらだな」
呆れたように言いながらも拍手をつづける徐庶であるが、どうやら、孔明と交わしたわずかな会話で、徐庶は孔明の思惑を、なんとなくではあるが大筋で掴んでいるようであった。
孔明は、さすがに負けてもいいと口にしているものの、その負けん気の強さや誇りの高さは、よく知っていたから、この空気には、やはり穏やかではいられないだろうなと、馬良は、自分のことのように胸を痛めた。
群舞がすべて終わると、いっそう拍手喝さいの嵐となった。
観衆の拍手は、楽しませてくれた一座にだけではなく、この楽しい場を用意してくれた龐統に向けての感謝の意味もこめられている。
場の主役は、すっかり龐統である。
地味な、それどころか不恰好なその容姿が、拍手と喝采のなかでは、とても立派でかがやいて見えた。
だが。
馬良は、ちらりと王嘉音の部屋を見たが、この期におよんでもなお、その部屋の窓や扉がひらかれる気配はない。
よほど頑固な気質の娘なのだろうか。
しかし、となりにいる孔明は、ぽつりと、
「われらには楽しく見えるものでも、ご令嬢にはうるさいだけだろうな」
と、ちいさくつぶやいた。
勝負は、徐庶や孔明の希望どおり、なんとなく龐統の勝ち、というふうに流れつつあった。
馬良が冷静に観察するところでは、祝辞すら述べられている龐統であるが、その表情は、笑ってはいるものの、どこか落ち着かない様子である。
『ご令嬢を外に出す』ための策は、失敗したのだということが、はっきりとわかったからだろう。
しかし大衆とはいい加減なもので、盛り上がったし、どこにいるのかわからない徐州の変な名前のひと(孔明はあまり世間に出ることはしなかったから、その顔を知る者も少なかった)は何もしないようであるし、これは龐家の若様の勝ちなのだろうと思っている様子である。
そうして、この場は流れて、孔明の号は返上されるのかなと、釈然としない馬良であったが、おおかたの願いを、まさに踏みにじるかのように、ろくでもない発言をしたのがひとり。
「たしかに楽しい演目ではございましたが、勝負が決まったというわけではありませぬぞ。ご令嬢は、まだ部屋から出ておりませぬ。つまり、勝負はまだまだつづいております。龐士元どのの勝ちではありませぬぞ。
ほら、あそこに諸葛孔明どのがいらっしゃる。あの方の策はまだ披露されておりませぬ。
ご令嬢を部屋から出すことが、そもそものこの勝負の焦点であったはず。孔明どのにも、なにかしてもらわねば公平ではありませぬぞ」
この無粋な発言に、それまで和やかな空気につつまれていた場は、一変した。
その声が、妙に通りがよく、ひびくものであったことが、よくなかったことが、ひとつ。
そして、その内容が、まさに勝負がついていないと報せる、的確な、しかし、きわめて場違いで無粋なものであったことが、もうひとつ。
その野暮天はだれかと見れば、予想するまでもなく、馬謖なのであった。
さきほど、孔明の負けを回避するために下手な策をつかったツケが、こんなところで出てきてしまったわけだ。
それにしても、あわれな弟よ。おまえは正直、浮いている。
「良くん」
頭をかかえる馬良に、いつになく、よそよそしい、孔明の強ばった声が、となりから聞こえてくる。
馬良は、その横顔を見ることすら出来なかった。
「なんだい、亮くん」
「差し出がましいかもしれないけれどね、わたしは、一度、きみの家で、きちんと家族会議をひらいて、幼常の矯正を真剣に検討すべきだと思うよ」
「もちろん、わかっているさ。というより、わたしも今回はいけないのだ。兄弟そろって、あとで君に詫びを入れるよ」
「やれやれ、結局こうなるのか」
それまで、賑やかで楽しい雰囲気につつまれていた場は、馬謖の発言によって、顔を強ばらせ、緊張をはしらせた龐統とその取り巻きを中心に、しだいに緊張したものに転じていった。
その場にあつまっていた大衆のほとんどは、孔明の姿をしらない。
しかし、龐統の取り巻きの視線によって、裏口のすぐそばに立つ、ただでさえ目立つ、類い稀な容姿をもつ長身の孔明を見つけた人々は、もしや、これがその、龐家の坊ちゃんの好敵手とかいう、徐州出の変な苗字の人なのかと、視線をあつめはじめた。
「ほら、やはりそうらしいよ。あれが噂の、琅邪の、諸葛ナントカとかいう、変な名前の、臥龍とかいう号をもらったひとらしい」
というわけである。
「やり過ごせると思ったのにな。どうする、孔明。棄権するか。なんなら、俺も一緒に頭を下げにいってやってもいいぜ。そういうのには、慣れているからな」
徐庶がからかうように言うと、孔明は、肩をすくめた。
「ここまで注目を浴びて、すみません、なにも出来ません、というのも、かえっておかしいだろう。
まったく、身内だけならば、頭を下げてもよいが、こんな衆目の前で、わたしは無能ですなどとは言えない。号
を授けてくれた龐徳公の名に、泥を塗ることになってしまう。気が重いが、行ってくるよ」
言いつつ、孔明は、人々の視線を一身に受けた状態で、人の垣根を越え、そして、それまで一座が愉快な芸を披露していた場所の、中央に立った。
計算してそうなったわけではないだろうが、孔明は、とかく容姿がすばらしく良いうえに、若いのにどこか威厳すら漂わせているため、それまで芸を披露していた綺麗どころさえ、孔明の引き立て役に見えるほどであった。
盛り上がったあとだからこそ、その注目は高く、失敗すれば、大いに笑いものになる。
だが、馬良は知っている。
こういう局面にこそ、孔明は真の強さを発揮するのだ。
いや、この状況でいうなら、発揮してしまう、というべきか。
孔明は、龐統に対し、まず軽く一礼すると、つづいて、王嘉音がいる部屋にむかって、慇懃に拱手してみせた。
そうして、顔をあげると、まるで宣戦布告するかのように、高らかに告げた。
「これより、歌を唄います」