歳末リクエスト企画第二弾
歳華春の思い出
五
「昼間みると、なんてことのない平原だけれど、夜だと、なんだかさびしいね。月明かりがある夜でよかった。これで新月だったら、鳥の羽ばたきにだって、飛び上がっていたかもしれない」
馬良が言うと、むく犬を連れている孔明も、平原と、そのちかくにある林をみまわして、顔をしぶくして言った。
「ほんとうに、なんにもないな。昼間に来ると、楽しいことがあるのだろうか。どう思う」
と、孔明が徐庶に水を向けると、徐庶は明かりを手にしたまま、こたえた。
「そりゃ、おまえさんには、ただの、草の生えたひろびろとした土地にしか見えないかもしれないが、いつも言っているだろう。なにごとも、当事者の気持ちを、とことんまで想像して、それから考えろ、って。
ここは、ご令嬢の気持ちになってみるんだ。そうして想像してみるのさ。きっとここは、昼間になったらわかるだろうが、あちこちに野の花が咲いているはずだ」
「花」
鸚鵡返しにする孔明に、徐庶は深くうなずいた。
「深窓のご令嬢だったおまえさんとちがって、王家のご令嬢は、馬をかっ飛ばしてここまでくるほど活発な娘だぜ。馬を飛ばして心地よい汗をかいたあとで、ここで花を摘んで遊んだり、気心の知れた仲間同士でよもやま話をしたりするのが、なにより楽しかったんだろうよ。
おまえさんだって、琅邪の屋敷のなかにばっかりに籠もってないで、たまには外に出たいなと思ったことはないのか。
おまえさんが馬に乗ることを許されたと仮定して考えてみな。俺たちから見たら、何の変哲もない草原かもしれない。しかしだ、豪族の娘っていうのは、なにかと面倒なしきたりなんだの、周囲の目だのにつねに見られているものだろう。
そこから解放されて、おいしい空気を思い切り吸えたなら、どんなに嬉しいだろうな。そこを想像するのさ」
徐庶が言うと、孔明は素直に感心して、ああ、そうだね、とうなずいている。
馬良のほうは、孔明が、故郷の琅邪で、屋敷からほとんど出されないほどに大切に育てられていたことははじめて聞いたので、これまた正直におどろいていた。
そして、やはり徐庶は、ほかの連中とは、いう言葉の内容の濃さや重みがちがうなと思い感心した。
孔明が、なにかと徐庶を頼る理由がわかる気がする。
孔明があれこれ想像をはたらかせているあいだ、徐庶は苦笑いを浮かべつつ、身をかがませ、長い散歩につかれて、ぺたりと座り込んだむく犬のあたまをなぜた。
「さあ、白白、この世間知らずの坊ちゃんたちに、道を示してやってくれ。ここに来たあと、おまえの女主人さまは、どこへ行っていたのだ?」
すると、きもちよさそうに頭をなでられていたむく犬は、そのことばがちゃんと理解できるように、ゆっくり立ち上がると、暗闇のなか、鼻をひくひくとさせながら、歩き出した。
その行き先は、林のなかである。
夜の闇につつまれた林は不気味である。
葉のざわめく音も不気味であるし、足元がおぼつかないのも苦労であるし、なにより、不意に、闇のなかで、けものの光る目がとつぜんあらわれたりするのが、おどろかされる。
「きのこでも採っていたのだろうか。で、なにかわるいきのこを食べて、ひとが変わってしまったとか」
不気味さを払うために、馬良が言った冗談であるが、前を行く孔明は、なるほどとうなずいた。
「もしかしたら、そうかもしれない。きのこの中には、たちの悪いものがあるからね」
「いや、冗談だよ、亮くん……嘉音さんが、毎日、おやつ代わりにきのこを食べるために、林に行っていたと思うのかい」
すると、至極まじめな顔を、手にした明かりにうかばせて、孔明はこたえた。
「ありとあらゆる可能性を考えているのだよ。徐兄は、想像しろといったけれど、やはりわたしは男だからね、娘の気持ちはよくわからないし。
林。林の中にある、娘の喜び? なんだろうな」
孔明の推理は継続中というわけだ。
考え込んでいる最中に、あれこれ質問をして、混ぜっ返されることを、孔明は好まない。
そのことを知っている、馬良は、しばらく黙ってうしろにつづくことにした。
そんななか、犬だけは、鼻をくんくんとひくつかせながら、夜道を行くのであるが、途中で、ぴたりと止まった。
孔明が、犬をつなぐ紐をひっぱって、先に行かせようとしても、犬はそこでぺたりと座り込んでしまって、頑として動かない。
「どうしたのだろう」
徐庶が、あかりをかかげて周囲を照らしてみるが、篝火に浮かび上がるのは、どこにでもあるような木の幹と、さらにおくにつづくけもの道ばかりで、特に目立ったものはない。
「孔明よ、とりあえず、場所は覚えたわけだから、明るくなってから、もういっぺんここに来て見たほうがいいのじゃないか。闇の中で見るかぎりじゃ、ここは男と逢引して楽しそうな場所でもなさそうに見えるが、昼間だとちがうのかもしれない。
それこそ、おまえさんがさっき言ったように、足元にめずらしいきのこか、木の実がなっていて、そいつを食べたために、ひとが変わっちまったのかもしれないしな」
馬良にも、なんのの変哲もない風景のように見えたので、同調してうなずくのであるが、しかし孔明は、篝火をさらに注意深く、ゆっくりと周囲にあてて、木の一本一本を点検していく。
やがて、一本の木で、明かりを止めた。
「これは、斧のあとだよ」
「そうだな。里の者が山に入っているのだろうよ」
徐庶のことばどおり、この山が里山であることは、道すがら、集落がそばにあったのを見ているのでわかっていた。
だから、人の手が加えられたものが、ところどころあっても、おかしくないのである。
しかし孔明は、その木にちかづくと、自分の肩幅ほどある大きさの幹をなぜ、明かりを持ったまま、闇にそびえる木を見上げた。
「これは薪にするための木ではない。材木につかうための木だよ。ほら」
と、その木を中心に、今度は足元を照らしてみると、切り株が、あちこちに点在しているのが闇に浮かんで見えた。
「薪にするために、集落の者が出入りしている場所じゃない。ここには樵夫が出入りしているのだ。ほら、その切り株なんかは、まだ切り口が真あたらしい」
孔明は、明かりに浮かび上がった光景に、満足そうに笑みをうかべてうなずいた。
「よし、これでとっかかりが出来た。嘉音さんは、ここに来ていた。つまり、樵夫に会いに行っていたのではないだろうか。
そうでないとしたら、樵夫が、嘉音さんの姿をかならず見ているはずだ。
嘉音さんが、この先の道を行って、なにか用を足していたとしても、犬はここで動かなくなったということは、ここで、樵夫に犬をまかせて、自分だけが山の奥に入っていったということだからね。
とすれば、やはり樵夫たちに話をきかねばなるまい。樵夫たちは、朝は早いはずだ。戻っている時間が惜しい。わたしはこのまま野宿して、かれらを待とうと思う」
「犬はどうするんだい。朝に返すと約束しただろう」
馬良のことばに、孔明は、む、と考え込む。
馬良は、嫌な予感がしたが、それを自分からは、あえて言わないでいた。
やがて孔明は馬良のほうに顔を向けると、すまなさそうな顔をして口を開こうとする。
やっぱりと合点した馬良は、手ぶりで孔明の口を止め、犬をつないでいる紐を引き取ると、言った。
「いいよ、わかっていたよ。わたしは犬と一緒に町へ帰る。徐兄と亮くんは、ここで樵夫たちから話を聞くといい。
わたしはすこし眠ってから、また龐士元の様子をたしかめてくるよ」
「すまない、そうしてもらえると、助かるよ、良くん。この穴埋めはきっとするよ」
「穴埋めなんていらないさ」
友達じゃないか、と胸の内でつぶやく馬良であるが、こうしたことばを、照れて口にできないのも馬良である。
そんな馬良に、徐庶が、手にしていた篝火を手渡した。
「明かりはおまえが持っていけ。俺たちはここで焚き火をして朝まで過ごすから、必要ない」
そうして、明かりとむく犬を引き継いだ馬良は、さっそく焚き火をはじめて、夜明けをまつ体勢に入っている徐庶と孔明を、何度か振りかえりつつ、夜道をてくてく戻っていった。
一人になったとたん、はあはあと息遣いを荒くして、自邸へもどっていく犬と一緒に、星のまたたくうつくしい空をみあげた。
ぽっかりと浮かぶ白い月が、この世のものとは思われないほど、うつくしく見えた。
そうして、徐庶に全幅の信頼をおいている孔明と、その孔明を、おどろくべき忍耐力と包容力でささえている、徐庶のことを思い出してみる。
「多少の支えにはなれるけれど、全部にはなれないのだ。わたしにも、支えてくれる者は、いま、いない。これも運、不運なのだろうか。
それとも、いつか、わたしを支え、そしてわたしも支えることのできる人に、男でも女でもいい、めぐりあえることができるのだろうか」
そんなことを、ぽつりとつぶやいてみるが、むく犬はもちろん、白い月も、夜闇のなか、答えることはないのであった。
馬良が街に帰るころには、すっかり夜明けになっていて、むく犬は無事に王家に戻すことができた。
そうして、くたびれたまま、馬謖がいるはずの飯店に向かう。
もう一部屋借りて、すこしでもいいから眠るつもりであった。
すると、折り悪く、といおうか、空き部屋を確保し、さあ、寝台へ直行、という段になって、ぐっすりと快適な眠りをむさぼり、元気一杯な弟が、階段から降りてくるのとばったり出くわしてしまった。
肌つやもみごとな弟は、言うのであった。
「おやおや、ひどい格好でありますな。それにたった一日で面やつれなさったご様子。なにか心配ごとでも」
「おまえは天下泰平というところだな」
馬良が嫌味を言うと、馬謖は、ムキになって目をまるくした。
「なんと、この弟の働きを知らぬとはいえ、なんという嫌味をおっしゃるか。わたくしは、わたくしでちゃんと調べてまいりましたとも。
町はもう、この対決で大騒ぎ。龐士元は、見た目は地味ですが、やることは派手でございますね。期限の日には、王家の庭を開放して、みなでどちらが勝つかを見物するというのですよ。こうなるともう、お祭りでございます」
「なんだって、ほんとうか」
「ほんとうも、ほんとう。王家の庭はひろいので、見物客をいれても十分に対応できるのだと、王家が自慢そうに町中に吹聴しているようですし、まちがいございませぬ。それに、例の旅芸人の一座。あれから聞いた話でございますゆえ、確実なところですぞ。
つまり、単純な手でございますが、引きこもっているお嬢さんの部屋から見える場所をつくって、庭で、かれらの演技を披露させるのです。
ま、謖が読みまするに、すると、なにをお悩みになっているのかはわかりませんが、お嬢さんも心が晴れて、ついつい部屋から出てくるのでは、と士元どのは考えていらっしゃる、ということでしょう。
なかなかに見事な作戦。金はかかりますが、効果的でありますよ。評判の旅芸人の演技を、ほかの者にも見せて、場をもりあげて、楽しませてやろうという気遣いも素晴らしいではありませんか。わたしは、龐士元というひとは、すごい人だと思いましたよ」
それこそ馬良はびっくりである。
この弟が、だれかを誉めるなどということは、滅多にないからだ。
「話題の旅芸人が見られるということで、町は大喜び、というわけだな。肝心の王家のほうは」
「そりゃもう、さすが龐士元。身内だから『鳳雛』などという号を与えられたのではなく、あれは本物だと、手放しで誉めておりましたよ。
ただ、そうだ、おもしろいことを旅芸人の一座が言っておりましたな」
「なんだい」
「はい。ご令嬢には、すでに今度の勝負のことや、庭に芸人が入ることは伝えられているそうです。ただ、それを聞いたご令嬢が、それならばと、芸人たちに注文をつけてきたそうなのですな。『歌はやめてくれ』と」
「歌はやめてくれ、って、それでは面白くないだろうに」
怪訝そうにする馬良に、馬謖は、あ、そうだ、と悪びれずにつづけた。
「これは失礼。言葉が足りなかったようでございます。ご令嬢は、旅芸人が庭に入ることを聞くと、かれらがどんな演目を披露するのかを細かく知りたがり、この曲はだめ、この曲はよし、といろいろ注文をつけたそうでございます」
「ふうん? まるで興味が無いというわけではない。つまりは、まったく理性を失って、部屋に閉じこもっているのではないのだな」
もしも嘉音が旅芸人を楽しみにしているようであれば、これは部が悪いな、と馬良は考えた。
その馬良に、馬謖は、身を乗り出して、たずねてくる。
「で、もう一方の『臥龍』どのは、どうなされたのですか」
あやうい、と馬良は直感した。
この後先考えない、知識ばかりが頭にぎっちり詰まっている弟は、これだけ向こう側の情報を知っているということは、向こう側の人間と多く接触したということであり、つまりは、龐統側の人間にうまく言いくるめられて、こちらの出方を探る尖兵にされている可能性が高い。
いや、ほとんど、まちがいないところだろう。
あさはか者め、とあきれつつも、顔には出さないで、あえて大きなあくびをしながら、馬良は答えた。
「さあ? 散歩に出たようだけれど、そのあとは知らないよ」
「はあ、散歩? のんきに散歩というわけですか。もしや、勝負をもう投げてしまったのでしょうか? 兄上はどう思われますか?」
馬謖がしつこく聞いてくるのを避けるべく、馬良は借りた部屋に入ると鍵をかけ、すぐには横にならずに、これからのことを考えた。
龐統の手段は、じつに正統で、華もあり、思いやりに富んだもののように見える。
なるほど、こうして具体的な動きを聞くと、それ以上、ほかに手段はないように思える。
地味な容姿に似合わぬ、華やかで、楽しい策であった。
孔明自身が、竹林のなかでこぼしていたことばを思い出す。
龐統ほどに、人をうまく励ます人間は、なかなかいないという。
単なる力比べというノリで、孔明も受けてしまったが、この勝負の題材自体が、龐統がこの手のことに、力をおおいに発揮できることを見越して提示されたものではないかとすら、馬良は考えた。
ともかく、有利なのは龐統だ。
どちらにしろ、孔明にこのことを知らせなければ。
まずは、孔明たちは、いまごろ樵夫たちと接触をしているころだから、それまで眠って、体力を回復させておこう。
そう思い、馬良は目をつぶった。
昼になり、宿屋の人間が、客が来ていると部屋にやってきたその声で、馬良は目をさました。
さては孔明が戻ってきたかと起き上がり、階下にいってみれば、そこにいたのは孔明ではなく、徐庶ひとりであった。
「徐兄だけ? 亮君は?」
「あいつなら、まだあの林の中だ。考えたいことがあるのだと。とりあえず、町の様子はどうかと思ってな。俺は、今回は、使い走りというわけさ」
「なにかわかったのかい」
馬良の問いに、徐庶は困ったような顔をして、首筋をもむ。
「それがな、わかったような、わからぬような。王家のご令嬢は、ちと変わり者だな」
「どういうことです」
東の空が明け染めるころ、樵夫たちは、はやばやと作業場である林にあらわれた。孔明と徐庶が待ち受けているのに、かれらは驚いたようであるが、事情を話すと、もともと人の良い連中だったこともあり、いろいろと話をしてくれた。
かれらは、この近くに小屋を建て、一定期間はそこに寝泊りし、木を採って、そして材木商に卸しているのであるという。
みな日焼けして、肌はくまなく褐色になっており、口をひらくたびに見える歯の白さが気になるほどだった。
かれらは冬のあいだは、里に降りて、それぞれの家族と、蓄えていた食糧をたよりに食いつなぎ、春を待つのだという。
みな屈強な男たちであるが、嘉音と釣り合いがとれそうな年頃の『若者』がそのなかにいないことに、まず、孔明は落胆したようだった。
樵夫のなかに、嘉音と縁があった男がいたのではと推理していたのである。
樵夫たちは、嘉音が王家の娘だということは知らなかったし、名前すらも知らなかった。
かれらは、娘を『白白の姉貴』というふうに、犬をまず前提として記憶しており、そこからして、嘉音とかれらの繋がりが、期待していたほど密接ではなかったことが、さらにわかった。
犬は、かれらによく懐いており、この場所に来ては、嘉音といっしょに、みなの作業風景を見学して、しばらくすると帰っていったそうである。
「それだけ?」
さすがに孔明が言うと、樵夫は、逆に、なにを期待しているのだ、という顔を向けてきた。
「そりゃあ、たまにゃ、話もしたし、犬におれたちの飯を分けてやったこともあったし、逆にお嬢さんが、俺たちに差し入れをしてくれることもあったな。
とはいえ、それ以上でもなければ以下でもねぇよ。おとなしいお嬢さんで、犬の方が、むしろなれなれしかったな」
「犬はいいのだよ、犬は。じつは、嘉音さんが、このところ、お屋敷の自室に籠もりきりになって、親がなんと言っても、一歩も外に出なくなってしまったのだそうだ。その原因がわからなくて、みな頭をひねっているのだよ。
もしかしたら、ここに理由があるのではと思ってきてみたのだがね、どうだろう、心当たりはないだろうか」
すると、樵夫は、たちまち警戒の色を浮かべて、孔明に言った。
「待った。気分が悪くなると嫌だから、さきに言っておくぜ。俺たちとお嬢さんは、なんというかな、この森を通じての『顔見知り』だったんだ。
あんたらだって、旅に出た先で、見知らぬ土地で、見知らぬ人に会ったとしても、向こうが会釈してくれば、会釈をかえすだろ。そういうふうだったんだよ。
俺たちが、なにかお嬢さんに悪さしたとか、考えるのはよしてくれよ。だいたい、あのでっかいむく犬がいるのに、お嬢さんに悪さなんかできやしねぇ。ありゃ、熊の子くらいにでかかったからな。噛まれたらヤバい」
「それを疑っていたわけではないが」
という孔明に、徐庶も、となりから口ぞえした。
「この人たちの言うことは当たっていると思うぜ。もし、そんな悲惨なことがあったとして(と、ここで樵夫が『してねぇっての』と反駁してきたのを、徐庶は手ぶりで押さえ、つづけた)、それは犬にとっては大事なお嬢さんを守れなかったいやな土地として記憶されるはずだから、あんなに素直に、俺たちを案内してくれなかっただろうよ」
「じゃあ、あなた方以外に、この山に入ってくる者はいるかい。旅人とか、行商人や、里の者などだが」
「いいや、この里山を抜けるには、ちゃんと別に道がある。このあたりは、平坦に見えるかもしれないが、けっこう迷いやすいし、この時期は蛇もクマも出るからな、近道でもないし、旅人も行商人もこないし、里の者はたまにしか来ないよ。
それこそ、山菜を摘みにくる程度だな。第一、里の者が来るっていっても、たいがいが女たちだぜ」
「それじゃあ、なぜ嘉音さんは、ここに来ていたのだろう」
「そりゃ、木が倒れるのが面白かったんじゃねぇのか。王家のお嬢さんだっていうのなら、きっと木を切り倒すのなんか、初めて見ただろうしな。ここは、木の香りがして気持ちがいい、って言っていたな。
ほら、そこの切り株、いつもそこに座って、俺たちのことをにこにこしながら犬と一緒に見ていたよ」
と、樵夫が指差したところには、座るにちょうどいい古い切り株があった。
孔明は、しばらく、むずかしい顔をして、じっとそれを見つめていたが、やがて、肩の力をぬくと、息をついて、言った。
「見方を変えてみるべきだな、これは。質問ばかりして、あなた方の手を止めてしまって申し訳ないが、もうすこし聞かせてもらってもよいだろうか。
嘉音さんがここに来たきっかけはわからないかな」
「きっかけかい?」
と、人のよい樵夫たちは、それぞれに首をひねって考える。
すると、そのうちのひとりが、思い出したようで、手を打った。
「ああ、そういやあ、歌声が聞こえたので、なんだろうと思ってやってきた、みたいなことを言ってたぜ。
俺たちが作業中に歌う唄があるのだが、そいつが聞こえたんだろう」
「そうかい。で、あなたたちのあいだで、なにか変わったことはなかったかな」
「俺たちかい?」
樵夫たちは、たがいに不思議そうに、たがいの顔を見合わせる。
しかし、期待した返事はなにもかえってこなかった。
「で、亮くんはいまだ粘って、林の中にいるの。それはよくないな。龐士元は、着々とことを進めているっていうのに」
と、かくかくしかじかと、馬良は、旅芸人のことを知る限り細かく、徐庶につたえた。
「そりゃあ、また林に戻って、そのことを教えてやらにゃならなんな。旅芸人が王家にあらわれるのはいつだ」
「明日だよ。時間がない。なんだって、亮くんは、林にこだわっているんだろう」
「そこはそれ、あいつ、素直なんだよなあ。ほら、俺が、ご令嬢の気持ちになって考えろって言っただろ。
それを忠実に守って、ご令嬢が座っていたという切り株に座って、しばらく、林のなかで、ご令嬢がなにを考えてそうしていたのか想像しながら、次の手を考えたいのだと」
と、徐庶はからからと笑う。
そこが、どこか突き放しているように感じられて、馬良はこの際であるしと、思い切って、たずねてみた。
「徐兄、これは亮くんも気にしていたから、あえて聞くのだが、徐兄は、亮くんが号をもらったことについて、どう思っているんだい」
「貰うべきやつが貰ったと思っているさ」
と、これは即答でかえってきた。
「なら、もうすこし亮くんに優しくしてやれば……いや、ちがうな、いまでも十分すぎるくらいに優しいけれど、亮くんは、徐兄が、最近、自分と距離を置こうとしているように感じられるといって、ぼやいていたよ。意識して、そうしているのかい」
「ああ、そうだな」
と、これまた即答がかえってきた。
率直な徐庶の答えに、馬良の方が面食らう番である。
「なぜだい。知っているだろう、亮くんはもともと友達が少ないうえに、人との付き合い方が本当に下手なんだ。だから、徐兄を頼りきりにしているのだよ。
それを知っていて、わざと距離を置こうとしているのなら、すこし薄情じゃないかい」
「あー、そういうヤツが、やっと出てきたか」
といいつつ、徐庶は、苦笑いをしつつ、腕を組んだ。
「どういう意味?」
「そこまで俺たちのことを見てくれているおまえなら、俺がいまから言うことも分かってくれるだろう。だから言うぜ。
孔明は、だから駄目なんだ」
「駄目って? 人を頼るのがいけないの? だったら、わたしが亮くんや、ほかの友達を頼るのは、いけないことってことになってしまうよ」
「そうじゃない。あいつは、警戒心が強すぎるくらいに強いくせに、ひとたび信頼できる人間にめぐりあうと、びっくりするほど相手に全部を投げ出しちまう。それは、なんでだと思う」
「信頼しているからだろう」
口をとがらせる馬良に、徐庶は首を振った。
「いいや、ちがう。楽だからだ。昔の十七、八の頃ならともかく、あいつはもう、分別もできたし、才能も人並み以上に伸ばしている。
ところがだ、不思議なことに、自分じゃそうではないと思っている。言葉を変えれば、自分に自信がないんだ、あれは」
「亮くんが?」
つねに颯爽とした孔明の姿からすれば、意外な分析である。おどろいていると、徐庶は、真面目な顔をして、つづける。
「おまえも気づいているだろう。あいつの人に触れられると固まっちまう癖。でもって、自分からよほど覚悟しないかぎり、人に触れられない癖。
叔父貴ってひとが、ひどい死に方をしたのが原因らしいが、そいつに捕らわれすぎちまって、いつまでも自分を認めず、そして、いつまでもなじみの顔の側にばっかりいる。
なじみの連中なら、孔明の癖を知ってくれているからな、孔明にとっちゃ楽なんだ。だが、刺激は当然、ない。成長も遅くなる。わかるよな?」
「なんとなくだけれど、わかってきたよ。なかでも特に、亮くんは、徐兄に頼りきりになってしまっているので、それじゃ、器が狭くなってしまうと、そういいたいのだね」
馬良がいうと、そのとおり、というふうに、徐庶はうなずくが、その表情は、冷静な言葉とはうらはらに、どこか悲しそうであった。
「せっかく立派な号を貰ったんだ。いい機会なんだよ、もっと世界を広げるべきだ。あいつは、こんなちいさな田舎で埋もれちまっていい人間じゃない。それは、おまえも分かるだろう。
いまの俺は、あいつにとっての杖なのさ。あいつは、もうちゃんと自分の足で歩ける。早いところ、それに気づいてくれるといいんだが、まだ気づくのは、あとになりそうだな」
ま、気づいたら気づいたで、俺はさびしく思うのだろうが、けれど、そう言っていたのは黙っていろよと、徐庶はやはり、からからと声をたてて笑った。