リクエスト企画第二弾
歳華春の思い出
三
「負けですよ、負けですったら。負けに決まっています。恥をかくだけに決まっています。それに、ねえ、兄上、こんな使い走りのようなことを、どうしてわたしがしなくちゃいけないのですか?
お聞きください、わたしの足の裏には、マメができていたのですよ。しかも、さっきどこかの莫迦に、襟ぐりをずいぶんつかまれて、ああ、傷がついてしまったのじゃないかしら。兄上、見てくださいませんか」
馬謖は、とうとうと、それこそ奔流のごとくしゃべりつつづけ、まったく馬良に協力するつもりはないことを、ことばだけではなく、口ぶりでも示している。
馬謖としては、この孔明と龐統のあらそいに、心情的には龐統を応援したい気持ちなのだろう。
なるほど、孔明が『人質にもならないから、勝手にどこへなりと、好きなところへもっていけ』といった作戦は、みごとであったなと、馬良は、いまさらながらに思った。
わが弟ながら、はっきり言ってジャマである。
お小遣いをわたして、どこぞの酒家へ置いていこうと思い立ち、馬良は襄陽の街をみまわした。
荊州の街というのは、劉表の治世がいきとどいていて、どこもみな整備されており、ほどよく活気があり、暮らしやすい。
内陸部にありながら風光明媚、治安もよく、暮らしやすいこの街を、士大夫のひとりとして、馬良はこよなく愛していた。
そうして、やはりほかとおなじように、清潔でのどかな雰囲気のただよう街を見まわすと、いかにも馬謖がすきそうな、小奇麗で、そこそこによい食事を出しそうな(馬謖は裏通りにあって、『通が好む』といわれるような、妙に家庭的で、すこしばかり小汚い店が大きらいなのだ)店をみつけることができた。
とりあえず、そこでひとまず落ち着くことにした。
つまり、うまく言いくるめて、この弟を、そのままその店に置いてきぼりにすることにしたのである。
馬良は、この、お荷物きわまりない弟を酒家に置いて、とりあえずは、龐統の屋敷へ足を向けてみるつもりであった。
襄陽の街からすこし離れたところに、豪族である龐統の屋敷がある。
孔明の屋敷も立派であるが、そこは、流民(といっても相当な資産家ではある)の孔明のそれとは、規模もなにもかもちがう。
屋敷というよりは、城砦だ。
もしも一個師団に攻められたとしても、それを迎撃することができるだけの施設と、部曲を食客として擁していると聞いた。
名の知れた賢者をつづけて輩出していることからも、地元の名望はさらに高く、龐統も、その例に漏れない。
「とはいえ、あの龐士元が遊んでいたとは、すこしばかり衝撃だ」
酒家の娘が用意してくれた、漬物を、ぱりぱりと咀嚼しながらそんなことをつぶやく馬良。
馬良とて、まったく遊ばないわけではない。
最悪だったのは十五のとき。
先輩たちにだまされて妓楼につれていかれ、むりやりそこで女性という物を知ってしまったときである。
馬良はとても感受性のつよい、そして潔癖なところのある青年であったから、その妓女にとても済まないと思ったし(すでに、よく言いふくめられていたその女は、しょげる馬良を、むしろけんめいに励まし、なぐさめてくれたほどであった)、それが男と女なのだと、割り切ることもできなかった。
そんな経験があったので、遊ぶといっても、いまもって、舞妓の踊りを見て酒を飲んで、拍手喝さいをする程度。
特異な眉のせいで、妓女たちからすぐにおぼえられてしまうので、逆に、高名な馬家の人間だと知れてしまうから、言い寄られるのを断るのにも、ひと苦労。
性格的にも風貌的にも、『遊ぶ』ことに適していない青年なのだ。
馬良は、じつは、勝手に、龐統に共感していた。
というのも、龐統のあのご面相では、たしかに名前は知れているけれど、異相すぎて、本当のところは女人にあまりもてまいと勝手に思っていたのだ。
面相そのものはわるくない(と、自負しているのは、なぜかといえば、孔明の友人は、そろいもそろって、風貌のまさっている者が多いからで、自分もその仲間にくわえてもらっているからである)けれど、眉のためにいろいろとわりをくっている馬良としては、おなじく異相である龐統に親近感をおぼえていたために、裏切られたような気分になったというわけだ。
馬良には、もしも妻をもつのなら、やさしくて、しっかりしていて、温かいひとがいいな、とぼんやりとゆめに描いている。
龐統が遊び人ではないと勝手に思っていた馬良は、龐統も、そうしたささやかで、やさしい夢を持っているだろうと、勝手に考えていた。
想像していた以上に、自分という人間は、龐統という人間の像を、自分に近いようにつくりあげてしまっていたようだ。
これではいかん、龐統にも失礼だし、迷惑であろう。
馬良は、現実の龐統と、想像の龐統をうまく頭のなかで融合させてみる。
うむ、人をしるという作業は、おもしろい反面、おどろきと失望を伴う作業でもあるのだな。
にしても、龐統も、そろそろ縁談が上がってもおかしくない年であるのに、どうして妻をもたないのだろう。
じつは縁談があるのだろうか。
馬良の周囲では、崔州平はとっくの昔に、杏という名の、なかなか愛らしい妻をもらっているし、石広元のようなだらしのない男にも、なぜだか妻はいる。
妻帯していないのは、龐統と、孔明と徐庶と、いま、目のまえで、神経質そうに襟を正している弟の馬謖だけであった。
いまだ襟元を気にする馬謖を見つつ、こいつの妻にならねばならぬ女は、苦労するであろうなと、いまからうんざりしつつ、馬良は考えた。
龐統がそこそこに遊んでいるというならば、たしかに引きこもってしまっている王の妹の女心が、すこしは理解できるかもしれない。
嘉音とかいったか。
その娘が、どうして引きこもっているのか、王はわからないといったが、本当かどうか。
実はしっていて、友達である龐統に、王が、嘉音がどうして引きこもっているのかを教える可能性のほうが高い。
そういう小ずるいところのある男だ。どうも信用ならぬ。
つくづく勝つ公算のない戦いだ。
だが、そこは友情。
嘉音が引きこもっている理由を龐統が知ったあと、どんな手を打ってくるかを調べるのが、自分の役目である。
こうして考えると、なるほど、徐庶が言ったとおり、やはり、孔明は不利であった。
なにせ王博謙とは、常日ごろから角を突き合わせているあいだがらで、嘉音という妹がどういう女性なのかも知らないだろうし、それに龐統とちがって、これがいちばんの障壁になるであろうが、女を知らない。
逆鱗、という言葉がある。
龍という生きものには、触れられると、それだけでいやがってあばれるうろこがある、という話であるが、眠れる龍たる孔明の場合、全身が逆鱗なのだ。
こうなるともう、遊ぶどころでもないだろう。おそらく、妻なんぞ、しばらくは無理だ。
というより、よく自分も、友達をしていられるものだと思うときがある。
向こうがわかっている分には、肩を叩いたりするのも平気なのであるが、ふとしたはずみに、体に触れただけで、おどろいたように身を引かれたり、あるいは、「なにをする!」と言いながらひっぱたかれたりと、こちらが「なにをする」と言いたいところであるが、そういうことがしょっちゅうなのだ。
ああいうのは、なんというのだろう。病の一種じゃないのかしらん。
眠れる龍とは、龐徳公もうまい名をつけたものである。
しかし、孔明自身が言ったとおり、人の心を知るのに、男も女もないというのは、たしかに事実であろう。
嘉音という娘を知っているといっていっても、その心を推し量ることと、ほかの女を知っている(かなり控えめな表現であるが)ということに、関係はないはずだ。
たぶん。
そうして、どうやって龐統のもとへいき、なんと探ろうかと考えていると、馬謖が酒家の奥にある、衝立で仕切られているほうへ目をむけて、つんつんと袖をひっぱってくる。
「兄上、あれは、わたしの襟を掴んでいた男のひとりですよ!」
敵愾心を剥きだしにして言う馬謖に、馬良もおどろいて、衝立のむこうがわに見える男の顔をのぞいてみた。
なるほど、たしかに徐庶の家にあつまっていた男のひとりであった。
「わたくし、言ってやります。おまえのせいで、首筋に傷がついたと!」
と、いきりたって立ち上がる馬謖を、馬良はあわてて、じぶんも立ち上がり、押し留めた。
「待て。こんなところで喧嘩をするつもりか!」
「ですが、ごらんください、この傷! なんとかわいそうな、わたしでしょう! ひと言どころか、二言三言、言ってやらねば気がすみませぬ!」
ぐい、と襟元をひっぱって、自分の傷をみせる馬謖であるが、その『傷』とやらは、蚊に刺されたあとと、さほど変わらないほど、ちいさなものであった。
いつものことである。
馬良はちいさくため息をつくと、無理に馬謖を座らせて、いった。
「わかった、おちつけ。おまえがそこまで言うのであれば、文句をいってやるが、しかし、それはわたしが言う」
不満顔で、馬謖は、それでも素直に座りながらたずねてきた。
「なぜでございますか」
「わたしが、おまえの兄だからだ」
兄は弟をえらべない。
母上は、どうしてこれを産んだのか、そんなことを考えつつ、それでも目をかがやかせ、兄上は、さすが兄上であるから兄上だ! などと感嘆する馬謖をよそに、馬良はしぶしぶ、その男のほうへと向かっていった。
男のほうは、馬良に気づいていない。
もともと、塾でも、めったに席が近くになることがない、そしてあまり塾に顔をださない不真面目な輩の仲間であった。挨拶すら、ろくにかわしたことがない。
名前も…なんだったっけ?
王? 李? 徐? 張?
思い出しながら衝立のそばに行こうとすると、ちょうど勢いよく、料理を運んで行こうとする、酒家の娘とぶつかりそうになった。
馬良は身を引きつつ、謝った。
「邪魔をしてしまったね。すまない」
店の看板娘であるらしい、愛嬌たっぷりの、美人では無いけれど、性格のやわらかそうな娘は、こたえた。
「いいわよ、料理がはねて、衣をよごさなかった? 厠なら外よ。奥には、お客しかいないわ」
「そのお客に用があるのだよ」
馬良がこたえると、娘は意外そうな顔をして、盆を手にしたまま、いった。
「お客さん、見かけない顔ね。もしかして、一座を追って、襄陽まで来たの? あのひとたちって、ほんとうにすごい人気者なのね」
「一座?」
鸚鵡返しにする馬良の耳に、衝立の向こうから、男女の入り混じった、にぎやかで楽しそうな声がきこえてきた。
店の娘はそちらに顔をむけてから、ふたたび馬良のほうをみて、言う。
「ちょっと待っていてね、この料理を運んでから、あんたの用事を聞いてあげる」
店の娘は、なにか誤解をしているようである。だいたい、一座とはなんなのか。
衝立の向こうがわのほかの席には、まだ時間が早いせいもあるのか、客もまばらである。ちらりと見れば、馬謖は馬謖で、おとなしく、やってきた料理を、これはきちんと兄が戻ってくるまで、箸をつけないで待っていた。
こういうところの行儀のよさは、かわいらしいと思うところであるが。
しばらくして、店の娘が、すっかり中身をきれいに平らげられている皿を手に、息をきらせてもどってきた。
「ああ、すごい食欲だこと。あのひとたち、うちの蔵をぜんぶ空にしちまうんじゃないかしら。商売繁盛で、ありがたいけれどね。
もうちょっと待っていてね、これを厨房に下げてくる」
と、店の娘は器用に何枚も積み重ねた皿をもって、奥に引っ込もうとする。
馬良はいそがしそうな娘に、かん違いをさせているのなら申し訳ないと思い、声をかけた。
「待ってくれないか。わたしがどうして、向こう側に行こうとしているのか、君は知っているのかい」
「あら、お近づきの杯をかわしたいのでしょう?」
「だれと」
ちらりと、馬良は、私塾の同窓の男を見た。
すっかり上機嫌で、顔は茹でたタコのようになっている。
あれは、襄陽では、そんなに有名人だったのか?
面貌も平凡だし、塾での成績もさほどではないし、家名だって馬良の家より低いほどなのに。
怪訝そうにしている馬良に、娘は、むしろふしぎそうに言った。
「あんた、もしかして、衝立の向こうにいる人たちが、だれだか知らないの? 許都で大人気だった旅芸人の一座じゃないの。
このあいだ、広場ですこしだけ芸を見せてくれたのよ。あんた、それを見たから、近づいてきたんでしょ?」
「いいや、知らないよ。なんだい、それは」
「滑稽芝居が得意な一座で、男が女の格好をしたり、小人と大男がヘンテコな技をしたり、とっても面白いのよ。
あんまりおもしろいんで、今度、龐家が雇って、どこかで公演をさせるみたいね」
龐家と聞いて、馬良はピンと来た。
つまり、私塾で同窓のあの男、やはり龐統の使いで、龐統は、引きこもっている娘を外に出すために、おそらくは王家にかれらを派遣して、気を引いて表に出す作戦をとったのだ。
「そうとうなお金が必要だろうね」
おもわず、即物的なことを口にすると、酒家の娘は、肩をすくめて答えた。
「そりゃそうでしょうよ。あたしでさえ、あのひとたちが襄陽にくる前から、名前を知っている一座ですもの。雇うとなったら、そうとうなお金がかかるはずよ。
けれど、そんなの、龐家にはへっちゃらに決まっているじゃない」
地元でも、名高い知識人を多く輩出する、龐統の実家は自慢の種であるらしく、娘は、どこかその名を、ほこらしげに口にした。
馬謖は、馬良が思ったように、足のマメがどうとか言い続けてくれたため、これさいわいと酒家に弟をおいて、その足で、夜道も気にせず、徐庶の屋敷へといそいだ。
一刻も早く、龐統の作戦を孔明におしえるためである。
襄陽から、郊外の、徐庶の家まで、ほとんど一晩かかってしまった。
足をはこぶと、朝のはやい徐庶はもう起きだしており、上半身ころもをはだけて、井戸端で水をかぶっていた。
その肌にある入墨をみて、声をかけようとした馬良はぎょっとする。
見てはならぬものをみてしまったような気がした。
そうしてためらっていると、徐庶のほうが馬良に気づいた。
「おう、白まゆげ、どうした。宿屋が相部屋であったのか。おまえも孔明と一緒で、どっか神経質なところがあるからな」
と笑いながらも、さりげなく、徐庶は、身にほどこされた入墨を衣でかくす。
みられたことに気づいただろうが、互いに声はかけない。
徐庶が、やはり、もともとは、自分の知らない世界にいた人間なのだということを目に焼き付けつつ、なにもしらない素振りをして、馬良は答えた。
「偶然だったのだけれどね、龐統が、どうやって王家の嘉音という娘を表にだそうとしているか、その作戦がわかったよ。孔明はどうしている?」
「さあて、あいつも、なにやら襄陽のあたりをうろうろして、昨日の遅くに帰ってきていたな。まだ寝ているよ。もう起こしてやっていいのじゃないか」
徐庶に言われて、馬良は中にはいると、狭いながらも清潔で整理整頓の行き届いた、徐庶の家のなかにはいる。
窓から差し込むつよい光が、暗い土間を照らしている。
土の香りのするその家の奥の客間に、孔明は眠っていた。
扉をそっと開くと、いかにも疲れて帰ってきたものらしく、髪を解いて、きもちよさそうに、ぐっすりと眠っていた。
布団にちらばる黒髪の、その艶やかさに、わが友ながら、すこしばかりどきりとしてしまう。
孔明の容姿が際立っているのは知ってはいるけれど、こうしてあらためて寝姿を見ていると、なにやら怪しい気分にさえなってくるではないか。
いかん、なんだって、ミョーな色気があるのだ、この友は。
馬良は、近づくのをためらって、戸口のところから、眠る孔明に声をかけた。
「亮くん、亮くん、起きてくれたまえよ、もう日が昇ってずいぶんになるよ。亮くん」
孔明は、うー、とか、ああ、とか呻いていたが、根気よく馬良が声をかけつづけていると、ようやくのろのろと目を覚ました。
そうして、上半身だけ起こして、ぼんやりした顔をして、馬良に呑気に言う。
「やあ、良くん、おはよう。今日もいい天気だね。やっぱり晴れというのはいいよ」
「今日も暑くなりそうだよ。ところで早速だけれど、龐士元が、どうやって王家の妹を部屋から出そうとしているか、その方法がわかったよ」
「へえ、さすが良くんだな。すばらしい早さだ」
言いながら、孔明は寝台から起き上がり、それこそ見事な手際で、てきぱきと身づくろいをととのえる。
そうして、またたく間に、いつもの雅びやかで、一部の隙もない、美貌の諸葛孔明の姿になった。
この早業には、馬良は感心しているのであるが、真似しようとしたけれど、うまくいったことは、いちどもない。
それはともかく、馬良は、襄陽の酒家で聞いたことをすべて孔明に話して聞かせた。
孔明は、ふむ、とか、なるほどな、と相槌を打ちながらそれを聞いていたが、馬良がおもったほどに、おどろきはないようである。
「龐家らしいといえば、らしい手段だな。その滑稽芝居をする一座というのなら、わたしも見にいったよ。あれはたしかに、おもしろかった。とくに女人に受けるかもしれないな。若くて顔のきれいな男たちがいっぱいいたから」
「なにを呑気な。それじゃあ、勝ち目がないじゃないか。そんなことを言って、亮君は、昨日はどうしていたんだい」
「すべてのことには、理由があると思わないか」
ふと、真顔になって、孔明は馬良のほうをあらためて向いた。
その真摯なまなざしに、馬良はどきりとする。
「つまり?」
「王博謙の妹の、嘉音さんと言ったか。若い娘が部屋から一歩も外に出ようとしないなんて、これはよほどのつよい不満があるにちがいない。
王家にいって、家人をつかまえて話を聞いてきたのだがね、王家というのはあまり子供たちにうるさくああしろ、こうしろと指図をしない、鷹揚な気風があるらしい。つまり、嘉音さんは、だれかに命じられて、そこにいるわけではないのだl
「それじゃあ、なぜ引きこもっているのだろう」
馬良が言うと、孔明は、自分の指を二つ立ててみせた。
「考えられることはふたつ。『なにかに反抗して表に出てこない』。もうひとつは、『なにかが恐ろしくて外に出てこられない』」
「ああ、なるほど。そうかもしれないね」
「わたしが話を聞いた家人からすれば、この嘉音さんという女性は、たいそう美しい人で、なにが美しいといえば、姿かたちはもちろんだけれど、あのあそび人でどうしようもない兄の博謙とくらべると、気立てもよくて、生活も快活。仕女たちと一緒に、あちこち出かけるのが好きな女性らしい。
出かけると言っても、遊ぶのではなくて、身体を動かすのが好きらしいのだな。馬に乗ることができるので、親に専用の馬と、護身用としての犬を飼ってもらって、これで遠出をすることもあるそうなのだよ」
「へえ、活発な女性なのだね」
そうして、馬良は、駿馬にまたがり、おなじようにうつくしい娘たちとともに、草原を疾駆する、爽快な乙女のすがたを瞼にうかべてみた。
想像するだに、詩のひとつも読みたくなるような光景ではないか。
あいにくと、馬良は、詩作はてんで駄目であったけれど。
「家人の評判は、すこぶるよい。ところが、この快活な女性が、どうしたわけか、ある日を境に、ぴたりと外に出かけなくなった。
塞ぎがちになり、ろくに食事もとらず、仲のよかった仕女ともろくに口をきかず、夜も眠ることもなく、どころか、月光のしたで、庭をひとりでふらふらと彷徨っていることもあったほどらしいのだ」
うつくしくも、やつれた女が、月光の下でさまよっている光景を想像し、馬良はその凄愴さに、ぞっと身をふるわせた。
「なんだって、そのひとは、そんなふうになってしまったのだろう」
「わからないよ。最初はね、恥かしい話だけれど、わたしは、博謙のことだから、『理由はわからない』とわたしにウソをついているのではと疑ったのだ。
ところが、実際に家族の者も、だれひとりとして、嘉音さんがそんな振る舞いを始めた理由がわからないという」
馬良は、ふと暗い想像をはたらかせ、言った。
「もしや、馬で遠出をした際に、流れ者につかまって、狼藉を受けたとか、そう言う話ではないだろうか」
すると、孔明は即座に首をふった。
「そこまで陰惨な理由ではないと思うね。すくなくとも、命を絶とうとまで考えるほどの悩みでは無いらしいのだ。
ただし、やはり、馬で遠出をしていたのをぱたりと止めたことと、対称的に部屋に閉じこもるようになったことには、ちゃんと理由があるのだと思う。
そこを突き止めねば、いくら有名な芸人を家に呼んで、芸を披露させたところで、嘉音さんは外から出ようとは考えないと思うのだ」
「では、どうするのだい」
「うん、だからね、わたしは、もうすこし眠ろうと思うのだよ」
唐突な孔明のことばに、馬良は耳をうたがった。
「なんだって?」
そういっているうちに、すでに孔明は寝台に横になり、布団をかぶっている。
「昼が過ぎたらおきるよ。悪いのだけれど、徐兄にも伝えてくれないか。
たぶん、付き合ってもらうことになると思うから、たっぷり昼寝をしておいてほしいと一緒に伝えてくれると、なおありがたい」
「昼寝? なんだってまた! 夜遊びでもするのかい?」
馬良が思ったのは、ここへきて、孔明は覚悟を決め、女を知るために夜の街へ遊びに行こうなどと考えているのでは、ということだった。
しかし孔明のほうは、窓から差し込む白光にまぶしそうにしながら、布団をかぶると、
「それじゃあおやすみ」
と、言って、ほどなく、やすらかな寝息をたてて、ほんとうに眠ってしまった。
あわてて馬良は徐庶のところに向かったのであるが、これはあらかじめ了解していたのか、それとも外で孔明と馬良の会話を聞いていたのか、徐庶もまた、自邸の庭の柏の木の根っこで、愛用の、抜かれることのない剣をかかけて、すでに眠りに入っているところであった。
そうして、馬良だけが、わけがわからず、ぽつんと、その場に残されることとなってしまった。