リクエスト企画第二弾
歳華春の思い出
二
徐庶の家は、周囲を竹林に囲まれており、街からすこし、はずれた場所にある。
むかし、そこには、隠棲した老武者がひとりで暮らしていたそうだ。
武人は、知り合いのすくない、そして過去の事件にまつわるわるい噂をすでに立てられていた徐庶を、なぜだかひと目みて、たいそう気に入ったといって、気前良く家を譲ると、自分は、そのままどこかへ旅に出て行ってしまったという。
さわさわと、風が竹を揺らす音の心地よい、心が洗われるような、清雅な場所であった。
青々として茂る葉の向こう側に、白い陽光が透けて見える。
これが、秋になると、雨のように黄色い葉を散らして、風に舞うのだ。
さて、徐庶の家の扉を叩くと、はたして、孔明はいた。
馬良の姿を見ると、予想していたらしく、思っていたよりは驚かなかった。
そして、馬良が、老婆より預かった衣を渡すと、孔明は安堵したように言った。
「助かったよ。この近くの市場はろくな衣を売っていないものだから、ずっと持ち出した衣を着まわししていてね、洗濯したら、破ったり縮んだりしてしまって、このままでは、乞食のようになってしまうと思っていたのだよ」
その言葉どおり、見れば、孔明の衣のあちこちには、自分でそうしたものか、接ぎが当たっていた。
「ばあやさんが言っていたとおりだったね」
「ばあやも気が利くな」
「おまえは、ばあやさんと結婚したらいい」
と、奥のほうから徐庶が出てきて言った。
徐庶はいつでもきちんと身なりをしているのであるが、なぜか清潔さを感じさせない男であった。
不潔なのではない。
むしろ潔癖そのものなのであるが、その言葉の抑揚や、雰囲気がそうさせているものなのだろうか。
ただし、清潔さは無いといっても、汚らしいのではない。
そう、『埃っぽい』のである。
黄土のうえを彷徨う男。
徐庶は定置にいても、そんな印象をかきたてる青年であった。
徐庶の声に、孔明は真剣な顔をして振り向く。
「そう思うだろう? むかし、それを伝えたことがあったのさ」
「へえ、そうしたら?」
「亮さまが、常日頃おっしゃっているように、管仲や楽毅のような立派な宰相になったら、ばあやを妻にしてください、だとさ。残念ながら、わたしは将来、白骨と結婚することになるらしいよ」
笑いながら、徐庶は、季常に、中に入るようにと手ぶりでうながした。
「孔明の屋敷のほうはどうだった」
「予想しているのじゃないかい。けっこうな騒ぎだったよ。みんなどうかしている。号の取り消しなんて運動をするよりも、勉強に打ち込むべきだよ」
「それは、おまえがもうすでに、売り込みに使えるようなあだ名を世間から貰っているから、そう思うのさ。
どいつもこいつも、咽喉から手が出るほどほしいあだ名を、龐徳公の甥っこはともかくとして、流れ者が受け取ってしまったから、こりゃたまらん。
さあて、どうする諸葛家の若旦那。おまえさん、このままじゃ家に帰れないぜ」
徐庶がからかうように言うと、孔明は目をほそめて、ちろりと、徐庶を睨みつけた。
「他人事だとおもって、ずいぶん楽しそうじゃないか。迷惑な号だ。欲しいなんてひとことも言っていないのに。嫌がらせとしか思えない」
「こら、それをよそで言うなよ。俺たちだから聞き流してやれるのだからな。おまえさんたちは、どうも生真面目になんでも受け止めすぎるぜ。こういうのは、楽しむのが勝ちだ。
周りがわあわあ言うのに同調しちまったら、自分のことがわかんなくなるからな。冷静になるには、ともかくなんでも面白がっちまうのが一番だ。
季常、今夜は泊まってくか?」
からからと笑いながら徐庶は言うが、馬良は、あまり広くはない家を見まわして、答えた。
「ちかくに宿を借りるよ」
「遠慮するなよ。こいつは、土間に寝かせたっていいのだ。すこし鍛えてやらんとな」
「客を土間で寝かすつもりか」
ぶつぶつ言う孔明であるが、怒っているふうではない。
孔明の、いつもどおりの顔を見て、馬良は安心した。
なにも不安をおぼえていないというのは言いすぎであろうが、すくなくとも、徐庶と一緒にいるかぎり、孔明が混乱することはない様子である。
あとは、自然に騒ぎがおさまるのを待てばよい。
土産に酒を持ってきたので、馬良は二人と一緒に、しばし、よもやま話に花を咲かせた。
そうして気心の知れた友と一緒に、のどかな時間を過ごしていた馬良であるが、ふと、徐庶が、杯を口に持っていく手を止めて、怪訝そうに外のほうをうかがう。
どうしたのかと口に出してたずねようとした馬良を、徐庶が手ぶりてとめた。
そして、椅子に立てかけていた愛用の剣を手に、そとへと向かった。
馬良は孔明と顔を見合わせた。
孔明のほうが、こういうときは度胸がよく、音を立てないように椅子を引いて、そとから見えないように姿勢を低くして、徐庶とおなじく、外をうかがう。
徐庶は、戸口の隙間から外をうかがっていたが、なにが見えたのやら、唐突に声を立てて笑うと、乱暴に戸口をひらいた。
そうして、剣のつかでもって、自分の肩をたんとんと叩きつつ、そとに向かって言う。
「おいおい、うちは酒家じゃないのだぜ。そんなにたくさんで来られても、たいしたもてなしもできないのだが」
馬良も首を伸ばして見れば、徐庶の肩越しに、孔明の屋敷にあつまっていた門下生たちが、ずらりとならんでいるのが見えた。
そして、その中央には、眩暈がすることに、馬良の弟の馬謖が、首根っこをつかまれるような姿勢で立っている。
孔明は、困惑した顔で振りかえり、言った。
「良くん、尾行されたようだね」
「めずらしいな、おまえたちが、俺の家に遊びに来てくれるなんてのは」
徐庶は、一堂に近づいていく。
門下生たちは、
「徐元直の家だって、言っていなかったじゃないか!」
と、たがいに責め合っている。
徐庶は、前科者という触れ込みではあったが、私塾では誰になんと言われようと、泰然自若とした態度をくずさず、みなが帰ったあともひとりで掃除や洗濯などをこなしていることから、私塾の門下生たちから用務員だ、などと莫迦にされていた。
しかし、たまに、以前の侠客だったころの顔をとりもどし、世間知らずのお坊ちゃまたちの度肝を抜くことをしてみせる。
莫迦にされながらも怖がられているという、なかなか忙しい男なのだ。
「俺に用事ではないようだな。だれに用事だ? 季常の弟がいるところを見ると、季常に用事か?」
すると、門下生のひとりが口を開いた。
「ちがう。判っているだろう。単刀直入に行くぞ。おい、徐元直の後ろに隠れている孔明! おまえは号を返上すべきだ!」
呼ばれた孔明は、戸口からつかつかと出て行くと、徐庶のとなりにならんで、言った。
「うん、わたしもそう思う。『臥龍』という号が欲しいのであれば、龐徳公に言って、孔明がいらないと言っているので、わたしにくださいと、お願いしてみてくれ」
抵抗されるであろうと思っていた門下生は、あっさりと孔明が言ったのでおどろいたようであるが、しかし、すこしも喜ばなかった。
どころか、またも、たがいにひそひそと話し合っている。
「なんたるイヤミ。われらにそんな不遜な真似が出来ぬとわかっていて、挑発しているにちがいない」
「あっさりと譲歩したが、こやつはなかなか策士だぞ。なにか裏があるのかもしれぬ」
それを聞いて、孔明はしぶく顔をしかめた。
「わたしの評判は、ほんとうに悪いな。世の中おかしい」
「おまえだって、結構いろいろやっているだろ。その結果だ。
さあて、孔明は号をいらんと言っている。このなかで欲しいというやつがいたら、龐徳公のところへ行って、直接、話をつけてこい。それでこの騒ぎは終わりだ。それではご機嫌よう」
と、孔明の肩を抱いて、家に引きかえそうとする徐庶に、門下生たちは、あわてて声をかけてきた。
「待て待て待て! それで我らが承服すると思うか! おい、孔明、おまえ、どうやって龐徳公に取り入って号を得たのだ。それを教えろ!」
とたん、孔明は足を止め、ふりかえる。
その顔に、険しいものが走っていた。
「君たちは、わたしが不正をして号を得たと言うのか?」
孔明の反応が、かわったので、門下生のひとりが気をよくして、にたりと笑っていった。
「ちがうのか。知っているぞ。龐徳公のところへ行くと、いつもおまえだけが額づいて挨拶していると聞いたぞ。
媚を売って、号を得ようなどと、卑しいとは思わぬか。やはりおまえに号を名乗る資格はない!」
その言葉を皮切りに、門下生たちは、そうだそうだと、口々に孔明の批難をしはじめた。
孔明は、しばらくきびしい顔をして彼らを見すえていたが、やがてその痩躯からは想像できないほど大音声で、吼えるように言った。
「わたしが不正をして号を得たと言うことは、それは龐徳公に対する侮辱でもあろう! それすらわからぬと申すか、この愚者どもが!」
あまりの迫力に、徐庶の家の戸口で様子を見ていた馬良も、そして門下生たちも、しばし、口をあんぐりと開けて、ほうけていた。
が、ひとり、まったく顔色を変えていない徐庶だけが、剣を持たないほうの手を、孔明の頭にのばすと、一発、ゴン、とにぶい音をさせて、頭をなぐりつけた。
「おまえは一言多いんだよ」
徐庶の言葉がきっかけとなって、門下生たちは、さきほどより激しく、火がついたように、さわぎ出した。
愚者とはなんだ、許せぬ、先輩にたいする敬意がなっとらん、生意気だ、というわけである。
徐庶はうんざりとした顔をして、門下生たちに言う。
「ったく、おまえたちも、いい加減、こいつの性格に慣れろよな。こいつがどんなことを言うか、だいたい予測できるだろう。どうしていちいち、そんなふうに怒れるのだ」
「なにを言うか、逆だ、逆! われらが孔明に慣れるのではなく、孔明が、われらに慣れるべきだ。ふざけるな!」
さらにはげしさを増した門下生たちの騒ぎを、まるで蜂がぶんぶんと飛びまわっているのをながめる程度に、平静にながめつつ、徐庶は、孔明に言った。
「あーあ、収まりやしない。家も知られてしまったし、おまえ、責任をとって、なんとかしろ」
「なんとかって、黙らせようとしたら、徐兄が邪魔したのだろう。騒ぎをひどくしたのは、徐兄だぞ」
口をとがらせる孔明に、徐庶はうんざりという顔をむけた。
「あのな。人を黙らせようなんて発想じたいが、おかしいんだよ。人の口を塞ぎたいのなら、とんでもなくつよい権力を手に入れて、だれも、なにも言えなくなるくらいの男になるか、でなくちゃ、赤子をあやすみたいに、やさしく、よしよしとなだめてやるしかない。
おまえは地位もなんにもない痩せっぽちのくせに、威張って、黙らせようなんて考えるから、おかしなことになるのだ」
「なだめるって、こんなにわあわあ言っている連中をか」
「そこは智者の本領発揮だろうが、ええ、臥龍先生。おい、白まゆげ」
と、徐庶は、孔明と門下生たちを交互に見比べて、どうやったら場をおさめられるか、徐庶の家の扉の前で、どちらかというと、忘れられた存在になりながらも、けんめいに知恵をしぼっていた馬良に言った。
「俺は眠くなったので寝る。あいつらの用件は、おまえとこの先生とで聞いてくれ」
「ええ? 助けてくれないのか?」
うろたえて馬良が言うと、徐庶は眉根をあげて、言った。
「助けるもなにも、べつに喧嘩がおこっているわけじゃなし、俺の出る幕はないだろ。おなじ、号を持っているもの同士、助け合って、自分でなんとかせい」
「なんとかせい、って。そんな殺生な」
「安心しろ、喧嘩になって、おまえがいつだったか、簀巻きにされそうになったときみたいに、ヤバくなったら出てきてやるから」
簀巻きにされそうになったときとは、やはり孔明がらみで、門下生たちが孔明と口論した挙句に派手な殴り合いになったので、助けようとしたら、とちくるった門下生たちが、馬良と孔明をまちがえて、馬良を簀巻きにして、小川に流そうとしたときのことである。
「ほんとうに出てきてくれるだろうね。あのときみたいに、笑いころげて、河に流される寸前まで、助けてくれなかったら、恨むよ」
徐庶は思い出したのか、肩を揺らして笑いながら、
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。今度は、簀巻きにされた時点で、ちゃんと駆けつけてやらあ」
と、言いながら、ほんとうに自邸に戻ってしまった。
わあわあとさわぎつづける門下生たちを尻目に、孔明は徐庶のうしろ姿をみながら、いらだちのふくまれた声で言った。
「最近、つめたいのだよな。徐兄にかぎってまさかと思うが、わたしが号をもらったことを、やはりこころよく思っていないのだろうか」
「それはないよ、考えすぎじゃないのかな」
馬良が言うと、孔明は向き直って答えた。
「そうではなく。徐兄は、わたしが号をもらうのはよいが、号をもらう時期が早いとか、そういう形でおもしろくないと思っているのでは、と思うのだ。
だって、義兄弟にならないかと言っても、断ったのだよ。冷たすぎるだろう」
その話はおどろきであった。
孔明のように極端に内気な人間が、自分から義兄弟になろうと申し出たということがおどろきである。
その相手が自分でなかったことに、すこしばかり胸を痛めつつ、馬良は孔明が、
「で、良くんはどう見る?」
という言葉を、見当してみた。
「どうもこうも……君のその自信が、どこから来るのか知りたいよ。わたしの自信は、どうやら母の胎内に置き去りにしてきてしまったらしい」
そうして、忘れたものをぜんぶ持っていったのが、そのあとに生まれた馬謖である。
「こら、おまえたち! こちらの話を聞いているのか! そこの白眉! おまえも孔明の側につくというのなら、覚悟をしておけよ! この弟も、ただではすまぬからな!」
そうして、首根っこをつかまえられた馬謖は、ぐいっと前に押し出されるのであるが、いつもの負けん気のつよさはどこへやら。
言葉の暴力にはつよくても、実際の暴力には、とことんよわい弟は、いまにも泣きそうな顔をして、
「あにうえー」
と、馬良に助けをもとめてきた。
「ただではすまぬもなにも、べつにかまわぬぞ、どうなっても」
と、答えたのは、ほかでもない、孔明である。
「なんだと」
孔明のことばに、門下生ほか、馬良も馬謖も顔をこわばらせた。
「幼常はすこし痛い目にあったほうがいいと、つねづね良くんと話し合っていたのだ。よろしく教育たのむ」
孔明が言い放つと、門下生たちはたがいに顔を見合わせ、
「なんと冷酷なヤツだ。不人情な」
と孔明を非難した。
しかし孔明はどこ吹く風。
傲然とした顔をして、腕を組んだ姿勢のまま、門下生たちが、動揺したすきをのがさず、言った。
「わたしが号をもらえた理由は、あいにくとわたしも知らぬ。わたしひとりが額づいて挨拶をする人間だったという程度で、龐徳公がわたしを気に入ったとは思えない。龐徳公は、それほどやわな男ではないぞ。それは諸兄らもよく知っているだろう。
諸兄らは号を返上せよと言うが、それではわたしに号を与えた、龐徳公の考えを否定することにはならぬか」
門下生たちは、孔明のことばに、たがいに顔をみあわせて、なるほど、たしかにそれはある、下手に龐徳公に号を返上すれば、かえって叱られるかもしれない、などと話している。
「どうであろう。諸兄らがどうしても気に入らぬというのであれば、わたしは号を返上するが、しかし理由が『兄弟子たちがうるさく言ってきたから』では、龐徳公も納得しないであろうし、かえって諸兄らをうらみに思うかもしれぬぞ」
「それは困る」
門下生たちのことばに、孔明も同調してうなずいた。
「そうであろう。そこでだ。諸兄らの条件でかまわぬ。わたしが号をもらうに足る人間かどうか、試してみるというのはどうだ」
「ほう、おまえが、俺たちに試されるというのか」
門下生たちが乗ってきたのをみて、孔明は、口はしに笑みをうかべつつ、またうなずいた。
「そのとおり。なにか命題を出してくれ。わたしがそれを見事に解決することができたなら、諸兄らも納得し、龐徳公を困らせるようなことはしないでほしい」
孔明の出した提案に、門下生たちは、たがいに顔を寄せて、またまたひそひそと話し合っている。
そして、門下生たちのなかでも中心となっている男が、孔明に言った。
「ようし、ならばその条件に乗った。
俺が命題を言おう。町にある家がある。ある家というのは、実は俺の家のことなのだが、俺には妹がおり、これが、なかなかの評判の美人で気立てもいい。
とこのところ、気が塞いでしまって、家族がなにを話しかけてもろくな返事をしなくなってしまった。それどころか、屋敷の窓辺に腰かけて、じっと遠くをながめて、ため息をついてばかりいる。
俺が下女に言い含めて、事情を聞きだそうとしたのだが、これも失敗した。しかも、妹ときたら、気が塞いでいるばかりではない。かれこれもう一ヶ月も、用を足す以外は、自室から出てこなくなってしまったのだ。
それどころか、どんどんとその表情もうしなわれていき、いまではろくに言葉も発さぬ。医者に見せても、健康そのものであるというし、まったくお手上げなのだ。そこで、おまえたちの出番だ」
「おまえたち?」
孔明が怪訝そうにすると、男はうなずいた。
男の名は王、字を博謙といい、孔明に反感を持っている者たちの中心人物でもある。このあたりでも有名な財産家の息子であるが、温厚な父親が甘やかしすぎた結果か、金にものをいわせて、ろくに学問もせず、腰ぎんちゃくをひきつれて、いつもぶいぶいいわせて遊んでばかりいる。
そういったやからと孔明が合うわけがなく、二人はいつも喧嘩をしていたが、この博謙と龐統とは、仲がよい。
馬良は、『おまえたち』ということばに、孔明とおなじように、嫌な予感をおぼえた。
王博謙は、こほん、と咳払いをひとつすると、言った。
「俺の妹を、部屋から出てくるようにしてほしいのだ。あ、言っておくが、乱暴して無理に連れ出すとか、その気も無いくせに口説いて表に出すとか言う、あこぎな手段はなしだからな。
あくまで穏健な手段で、知恵をしぼって妹を外に連れ出してほしい」
「よろしい、わかった。その妹さんの名は」
「嘉音という」
すると、孔明は素直に感嘆して言った。
「へえ、きれいな名前じゃないか。嘉音さんか」
普段は仲の悪い孔明からそんなふうに誉められたので、博謙は、動揺し、あー、とか、うーとか言って、しまいには、
「どうもありがとう」
と言った。
ぶいぶい言わせているといっても、この平和な隆中では、こんなものである。
いつもは慇懃なくせして、突然、ほんとうの顔を見せる徐庶のほうが、よほど怖い。
「ところで、嘉音さんを表に出す期限はいつまでだい」
「そうだな。十日だ。十日のうちに、妹を部屋から外に出してくれ。このことは、士元にも伝えておく。正々堂々と戦えよ、孔明!」
いい捨てつつ、門下生は、首根っこをつかまえていた馬謖を解放し、立ち去ろうとする。
その背中に、孔明は怪訝そうに声をかけた。
「おい、幼常を、人質としてつれていかなくていいのか」
「人質の価値のないやつを、人質にとっても意味はない」
と、王博謙は、無情にも、さらに言い捨てた。
それを聞いて、襟をととのえていた馬謖が、顔を真っ赤にして叫んだ。
「人の価値のわからぬ連中だ、おぼえているがいい! そして、あんた、諸葛孔明! ぼくがほんとうに連中にひどい目に遭わされたら、どんな責任を取ってくれるつもりだったのさ!」
あばれたせいで、首筋と襟元のあいだにできた傷ををなぜながら、馬謖が詰め寄ってきても、孔明は、さらりと流して答えた。
「わるかったな。たのむから離してくれと懇願するより、そんなやつはどうだっていいと突き放したほうが、王博謙の性格からして、すぐに解放してくれるだろうと思ったのだ」
「だからって、なんて侮辱だろう! 兄上! そこで土器みたいに突っ立ってないで、この無礼な、のっぽに、なんか言ってやってください!」
「亮くん、きみ、どうやって博謙の妹を部屋から出すつもりだい。こう言っちゃあなんだが、きみは女人に関しては、からしきだめじゃないか」
「無視ですか!」
ぶうぶうと抗議の声をあげる馬謖を無視し、馬良はけんめいにかんがえる。
王家の箱入り娘の嘉音は、評判の美人で、教養も深く、立ち居振る舞いも花のように優雅だという。
博謙をはじめ、王家のものたちが、掌中の珠のように、大事に大事に育てている娘なのだ。
王家自体は、莫迦息子が浪費ばかりしているのと、父親の人の良さがわざわいし、このところ家門が傾きかけているという噂があったが、嘉音については、いい噂しか聞こえてこない。
むしろ、孔明が王家の娘の嘉音のことを知らなかった、ということが、いかにも異性にまったく興味をしめさない孔明らしいところであった。
「士元はどう動くかな」
めずらしく、孔明が龐統のことを口にした。
馬良がしるかぎり、孔明は、龐統のことをあまり気にしていないようである。
おなじ士大夫でありながら、暮らしぶりや性格に、共通するところがすくないからだろうか。
それとも、対抗意識が邪魔をしているものなのか。
孔明は媚びているのではなく、心より、龐統の伯父にあたる龐徳公を尊敬していたから、そのあたりで絆がうまれてもよさそうなところなのに、そうはならないところがふしぎである。
龐徳公という男は、茫洋とした男だが、ずばりはっきりと物事を的確に指摘するおとこで、水鏡と謳われる司馬徳操同様に、ことばに嘘がなかった。
その嘘のなさが、徐州から荊州にいたるまでの数年間、人間の裏側という物を、いやというほど見なければならなかった孔明を、惹きつけているのかもしれなかった。
「おい、孔明、おまえ、こいつは不利だぜ」
と、奥で昼寝をはじめたはずの徐庶が、のそりと玄関からふたたびあらわれた。
そして、眠そうに、首のうしろをぽりぽりとかきながら、自邸の土壁にもたれて、のんびり言う。
「おまえは色事についちゃあ、呆れるほどに、なーんにも知らないやつだが、龐士元、あいつ、真面目そうな顔をしてじつは遊んでいるからな」
それは意外だった。
孔明の清雅な雰囲気は、まさにその生活態度がまんま、表に出ているからなのであるが、龐統のそれが見せかけだったことに、馬良はすこし裏切られた気持ちになった。
「というか、なぜ徐兄はそれを知っている」
とんがった声を出す孔明に、徐庶は、あはは、と軽く笑ってごまかしつつ、言った。
「聞いた話じゃ、あいつは、とんでもなくマメなのだと。ご面相がアレなので、最初は莫迦にされてしまうのだが、たいがいの女は、マメに使いをよこされたり、贈り物をされたりするので、だんだんと本気になってくる。
そのうえ、あいつは人のよいところを誉めるのが抜群にうまいのだそうだよ。手がきれいだとか、声が澄んでいるとか、髪が豊かで撫でるときもちよいとかだな。参考になりそうだな、うむ」
孔明は、ますます顔をけわしくして、言った。
「だからどうして徐兄はそれを知っているのだってば」
「おまえは俺の女ってわけじゃないのだから、そんなに口を尖らせることないだろ」「あたりまえだろう。わたしは女じゃない。でも、気になるじゃないか!」
抗議する孔明に、徐庶は、すこし困ったような顔をして言った。
「ほんとうに、おまえも乳離れしないとだめだよな。そいつはともかく、つまり、龐士元のほうは、女心をよく知っているが、おまえさんはぜーんぜん、というところからして、まず不利だ。
王博謙にしちゃあ、ちゃんと切迫した事情があったからこそ、妹のことを言ったのだろうが、それにあわせて、龐士元のほうが、女というものがだいたいわかっているし、それに、王家に何度かあそびに行ったこともあるしで、有利だとわかっていて、あんなことを言ったのさ。おまえさん、ちゃんとそれを把握していたのかい」
徐庶がからかうように言うと、孔明は、傲然と、つんと鼻をそらして言った。
「知っていようが知るまいが、どうせあいつは龐士元の仲間だ。わたしに不利な条件を持ち出してくるだろうなということくらいは、把握していたよ。
わたしが女心を知らないから、不利だというがね、しかしヒトのこころに男も女もあるだろうかね。ともかく、わたしは、嘉音さんという妹さんが、どうして部屋から出てこないのかを調べるところからはじめるつもりだ」
「それは悠長にすぎるよ、亮くん」
心配し、声をかけた馬良に、孔明は、明るい笑顔を向けて言った。
「心配してくれてありがとう。それならば、君に頼みたいことがあるのだが、龐士元が、今回の件について、どういう動きをするのか、それを知りたいのだよ。
きみならば、向こうもさほど警戒しないであろうし、どうだろう、やってくれないだろうか」
孔明の提案を断る理由もなく、馬良は、ぐずる弟を引き連れて、さっそく龐統のすまう襄陽へと向かったのであった。