リクエスト企画第二弾
歳華春の思い出
一
どちらか選べというのも酷な話である。
しかし、どちらも選ばない、という選択肢はない。
困ったことだ。胃が痛む。
それもそのはず、いまや馬家の命運は、ほかならぬ自分が握っているのだから。
母親や弟は、顔をあわせるたびに、早く決断しろと突き上げてくるし、黙っている妻も、なにやら不安そうである。
それは子供にも移るらしく、このところ夜泣きがひどい。
しかし決断した先のことを思い、馬良は暗いため息をついた。
いま、曹操から避難して南下してきた荊州人士は、真っ二つに分かれていた。
それは孔明を中心にした動きと、龐統を中心にした動きに、である。
いまのところ、どちらが優勢かといえば、ひとくちで判断できないむずかしさがある。
孔明のほうが先立って劉備に仕えたために、その周囲にいるのは、劉備の古くからの家臣が多い。
孔明と同じく徐州の出身である糜竺や、孫乾もそうであるし、武将では趙雲が中心だ。
さらに、劉琦の死後、その遺臣たちのうち、伊籍を中心とする一団は、孔明側に寄った。
年季の入った実力者の多い、安定感のある集りに見えるが、逆に、出身地もばらばらで、雑多な印象もあり、真にまとまっているかどうか、そのあたりは、実際に入ってみなければわからない。そこが不安要素だ。
一方の龐統は、新参ながらも、荊州の名家の出自であることを生かし、多くの古馴染みを周囲にあつめ、早々に基盤を固めた。
その手腕は見事といわざるを得ない。
さきに劉備に仕えているはずの孔明のほうが、遅れを取ったようにさえ見えたほどだ。
多くの荊州人士は、豪族同士のしがらみもあるのだろうが、龐統の方に、より肩入れをしている様子である。
となれば、名家を自負する馬家も、龐統側に…というのが、母と、弟の幼常の意見である。
馬良も、龐統とはなじみがある。手紙のやり取りもしているし、司馬徳操の私塾でも、何度も顔を合わせている。
が、それをいうのならば、付き合いの深さでは、孔明のほうが上なのだ。
まして、諸葛家とは姻戚でもある。これを見捨てるような真似はしたくない。
ここが決断のしどころだ。
しがらみを一切忘れるということならば、その能力で測るべきであろうが、ともに龍と鳳凰に喩えられた、傑出した人物である。どちらも甲乙つけがたい。
どちらが、より天下に頭角をあらわすか、などと、簡単に予測できるものではないのだ。
「あなた、手紙が」
と、妻が手紙を持って、自室で頭をかかえていた馬良のもとへやってきた。
妻はいま、身重である。
そのことが、さらに馬良を追い込んでいた。
いま、己のする決断は、子供たちの運命をも決める。
生まれてくる子の運命もそうだ。
父として、家長として、最良の判断をしなければならないのだ。
「なにかお持ちいたしましょうか? 今朝もろくに召し上がらなかったのです。体が持ちませんよ」
「なにも口に入らぬ。わたしのことは気にせずともよいぞ。おまえは、生まれてくる子のことだけを考えておればよい」
と、口ではなかなかに男らしいことを言ってみるのであるが、心中は甘えたくて仕方ない気分だ。
体の弱い弟に母親を取られ、ろくに甘えることができなかった馬良は、同年の妻に、母親にするように甘えるところがある。
我ながら情けないと思うところであるが、なかなか直らない。
そして、外に一歩出れば、だれからも、どちらにつくかとたずねられるいまでは、妻子のいる場所だけが、唯一、くつろげる場所となっていた。
「どちらにも付かない、ということは出来ませんの?」
この妻は、なかなかに賢い。しかし、世間知らずである。
わずかに苛立ちをこめて、馬良は答えた。
「出来ぬ。どちらにも付かないでおれば、双方の恨みを買おう」
拗ねたような顔をする馬良を、やんわりと受け流し、妻はつづけてたずねた。
「わたくし、龐士元さまという方は、よく知らないのですけれど、孔明さまはよく知っております。あの方なら、あなたがもし敵方についたとしても、恨みに思わないのではないかしら」
「かもしれぬ。しかし、亮くんの敵にはなりたくない」
「ならば、あの方とは姻戚でもあるのです。孔明さまにお付なさいな」
「簡単に言ってくれるな。それでは龐士元側の人間を敵にまわす。たしかに亮くんはすごい。しかし、龐士元も同じくらいにすごい。どちらが主公の軍師として上になるか、さっぱり見当がつかぬ。
わたしの決断如何では、おまえや子供たちばかりではなく、おまえの実家とて、肩身の狭いをするかもしれぬ。だからむずかしいのだ」
「俸禄が減ってしまうなどという位ならば、別に困りませんけれど。もともと、わたくしとて、さほど裕福な暮らしはしてこなかったのですから」
「金や米の問題ではないのだ。なんというか、こう…人の噂とか、中傷とかだな」
「うるさく言う方は、どんなに善行を積んだ者に対しても、うるさく言うものです。世の中には、天の神様の悪口をいう者さえいるじゃありませんか。
人が自分をどう言うかなどと気にせず、あなたは、あなたのよいと思うほうを選べばよろしいのです。わたくしは、あなたの味方ですからね。どうあれ、付いていきます」
と、妻はきっぱりと言った。
ああ、わたしはよい妻をもらったな、と心から感謝しつつ、馬良は、すこしだけ微笑んで見せた。
妻は、その白い手で、馬良の頬を軽く触れた。
「ろくに食べず、眠りもせず、ずっと悩んでらっしゃる。どうせ悩むのならば、生まれてくる子の名前をどうするかで悩んでくださいな。いま、粥をお持ちしますからね。すこし食べたら、お休みなさい。客が来ても、留守だと言いますから」
「ありがとう。そうだな。すこし眠ろうか。そうだ、手紙は、だれからか判るかい」
「めずらしいお方からですよ。徐元直さまから。あなた、あの方とも親しくしてらっしゃったのね」
「親しかったけれど、手紙がくるとは、本当にめずらしいな。なにかあったのだろうか」
そうして、馬良は、徐庶からの手紙を開いた。
一読して、馬良は、気が抜けた。
徐庶は孔明をずいぶんとかわいがっていたので、おそらく、馬良に、孔明の力になってやってくれと頼んできたのだと思ったのだが、そうではなかった。
徐庶が送ってきた手紙は、ほとんど昔話ばかりであった。
徐庶は、はるか北の敵地にて、捕らわれ人のように、曹操の家臣の末端にいるわけであるが、孔明がせっせと手紙を送っているので、荊州の様子は知っているはずである。
しかし荊州での派閥争いのことはひとことも触れていない。
昔は楽しかったな、などと、どこか自嘲もこめてつづられた手紙を読んでいるうちに、馬良もつられるようにして、つい昨日のようにすら思われる、なつかしい時代のことを思い出していた。
たしかに、昔は楽しかった。
いまのように悩むこともさほどなく…
「いや」
ふと、手紙の途中にあらわれた『歳華春』という文字に、馬良は、石につまづいたような気持ちになって、声に出して、おのれの気持ちを否定した。
忘れもしない。あれは春だった。
あのころも、似たような立場に立たされやしなかっただろうか。
それは、孔明が隆中に引っ込んだばかりのころ。
そもそも、孔明が、隆中に引っ込むことになったきっかけとなった、ある事件のことである。
司馬徳操の門下生である馬良は、さいしょ、その報告を受けたとき、絶句した。
それは、ほかの、同じように絶句した門下生とは理由がちがって、喜びのあまりに言葉をなくしたのであるが。
「本当か、それはすごいな」
「なにがすごいものですか」
と、末弟の馬謖、字は幼常は、面白くなさそうに言う。
馬謖は、病弱で、屋敷に籠もりがちの青年である。そのためか、肌が抜けるように白かった。
傲慢そうな目と、尖った印象を除けば、柔和な顔立ちをしているので、もしも女に生まれていたなら、さぞかし美しい女になったであろう。
しかし、いろんな意味で残念なことに、生まれてきたのは、男としてである。
幼いころは動く人形のようで、しかも病弱であった弟を、父母はたいそう、あまやかして育てた。
丈夫な馬良は、ほとんどほったらかしであったが、それはともかく、あまやかされて育ったがために、馬謖は、とてもわがままで、うぬぼれ屋な青年になってしまっていた。
父母は、いまもって馬謖の好きなようにさせているので、それをたしなめるのは、馬良の役目である。
「やっかむな。凄いことにまちがいなかろう。鳳の雛と眠れる龍。また大層な号が与えられたものだ」
荊州には司馬徳操を中心とした学閥があるのだが、そこで頭角を現した物は、龐徳公より特別な号をもらうことができる。
司馬徳操に『水鏡』の名を授けたのも、この人物だ。号は、司馬徳操の人物鑑定に拠っておこなわれるため、その周囲は、大望を秘めた青年たちでいつもにぎわっている。
なぜかといえば、龐徳公に特別な号をもらうことができたなら、その門下生は、将来を約束されたも同然だからである。
混乱した世の中で、若者たちは、ほとんどがみな、いずれはどこかの英傑に仕え、その才能をつかって、存分に働きたい、よい暮らしをしたいと思っている。
龐徳公の鑑定眼のたしかさは有名であったから、号をもらえれば、どこの英傑に仕えるにも、自分を高く売ることができる。
逆に、自分から売り込みにいかなくても、その名を聞きつけた英雄より、うやうやしく招聘されることすらあるのだ。
そのために、みな、司馬徳操と龐徳公のお墨付きは、咽喉から手がでるほどに欲しがっているのである。
しかし、龐徳公は慎重な男で、滅多なことでは門下生に号を与える、ということはしない。
ところが、どういう心境の変化か、最近になって、急に、思いもかけない二人に号を与えた。
一方は、滅多に塾にも顔を見せない、容姿も冴えない豪族・龐家の息子。
これには、鳳雛という号が与えられた。
もう一方は、ひどく生意気で、誇大妄想もはなはだしい(という噂の)喧嘩っ早い琅邪出の避難民、諸葛孔明。
こちらには臥龍という号が与えられた。
門下生たちは、龐徳公が、なぜふたりに号を与えたのか理解できず、あちこちで不平不満をならしているのだった。
かれらからすれば、真面目に毎日塾へ通い、先生へのご機嫌伺いもかかさず、周囲ともうまくやっていける人間こそ、号を与えられるべきだと思っているのだ。
馬謖もまた同様で、龐統は龐徳公の甥だからともかく、孔明に号が与えられたことを、理解できないとむくれている。
そうして、おかしい、まちがっている、とブチブチ言っていたのだが、不意に真面目な顔になった。
「兄上」
「なんだ。ようやく亮くんを認める気になったか」
「ちがいます。龍より上は、なんでしょう? やはり、神でしょうか」
「そうだろうな。神、あるいは天帝だろう。なにを考えている」
馬謖が、なにかとてもよい案を思いついたというふうに、にんまりと笑ったので、馬良は薄気味悪く思ってたずねた。
すると、この、たしかに賢いのだが、賢さが一部の才能に限定されてしまっている弟は、目をきらきらと輝かせて言った。
「では、わたしの号は、おそらく神の名を冠するものとなるでしょう。いまから楽しみでございます」
「呆れたやつ。どうしたらそんな恐ろしい発想になるのだか。おまえが神になれるなら、わたしも神だ」
「いいえ、兄上には『白まゆげ』がお似合いです。この世に神は二人もいりませぬ」
あまりに能天気すぎる夢想にあきれつつ、それでも馬良は、ほかの門下生たちも、馬謖と同じように考えてくれればよいな、と思った。
孔明には、敵が多いのだ。
なにせ、口が正直だ。思ったことをはっきりいう。駄目なものは駄目だと容赦ない。半端なやさしさなんぞは、むしろ人にとって毒、とでもいわんばかりに、きびしい言葉ばかりを口にする。
孔明は徐州からの避難民であったから、荊州の若者たちのほとんどは、孔明を、よそ者なうえに大言壮語にすぎる、と言って仲間はずれにしている。
そんな嫌われ者が、号をもらったのである。ひと騒ぎ起こるだろうなと、馬良は暗い予想を思い描いた。
「ほかの者たちは、なにか言っていたかい?」
「それはもう、雀のように集って、大騒ぎをしておりました。とくに、孔明殿に対する『臥龍』の名は、過大評価に過ぎるのではないかという話で持ちきりでした。みな、現実を受け入れたくないのでございましょう」
「それはお前もおなじだろう。おなじところで理解できるかもしれぬが、なにか不穏な動きはないか」
「さあ? そういえば、どうしても納得の行かない門下生が、龐徳公が留守なので、水鏡先生のところへ直訴しに行ったとか」
「なんという愚かな。で?」
「水鏡先生はいつものように、にこにこと笑って、孔明には、ほかに名前が思いつかなかった、と龐徳公が言っていたと、答えたそうでございます」
「それはまた、凄い答えだな。ほかに思いつく名前がない、とは」
龍、すなわち皇帝をも意味する天下一の霊獣。
つまりは、孔明が常日頃、なりたいと口にしていた、天下を動かす宰相に、十分になれる才能がある、いや、それどころか皇帝にもなれるぞと、龐徳公は太鼓判を押したのだ。
この評判が天下に伝わったなら、孔明は、各勢力から引っ張りだこになるだろう。輝かしい将来が約束されたということだ。
馬良にとって、孔明は姻戚でもあり、親友でもある。
友の幸運を、自分のことのように喜べるのが馬良であったから、うれしいにはちがいなかったが、同時に、友の苦境も、自分の苦境のように想像してしまうのも、馬良であった。
「どうも心配だな。一度、挨拶に行くか。それに、我が馬家にとっても、これは他人事ではないぞ。亮くんは、われらの姻戚なのだからな」
すると、馬謖は、これみよがしに野太いため息をついた。
「兄上はお人が好すぎますぞ。そして、世間知らずだ」
虚弱体質のため、ほとんど外出せず、人づき合いもすくない弟にそんなふうに言われて、馬良としてはおもしろくない。
白い、というよりは、色素のあせた、うす茶色の眉をしかめる。
「なにを言い出すか」
「ご存じないのですね。いま、門下生たちは、龐士元を中心に、先生に、孔明の号を取り消してもらおうと運動を起こしているのですよ」
「なんだって? たしかに、亮くんは敵が多いが、龐士元までが、どうしてそんなことを?」
「わたしは、龐士元どのを良く知りませんが、なんだかみなに担ぎ上げられているようです。
孔明殿とは対称的に、ずいぶん冴えない容姿だというところが、同情を買いやすいのではないかという噂です」
歯に衣着せぬ馬謖の言葉に、馬良はその白い眉をしかめた。
「おい、滅多なことを」
「わたしの言葉ではありませぬ。というか、みながそう言っております」
「よく知らぬ方のことを、勝手にあれこれと言うな」
「では、どんな方か教えてください」
「わたしも、よくは知らぬよ。滅多に塾にあらわれないし、あらわれたとしても、いつの間にか帰ってしまっているし。あまり口数の多い男ではない。けれど、友達は多いようだな。龐家の威光というのもあるのだろうが」
うがった見方をすれば、高名な龐徳公とはいえ、甥っ子かわいさに、鳳雛という号を与えたということも考えられる。
それは問題にされず、孔明ばかりが槍玉にあげられるのは、正義感のつよい馬良は納得がいかない。
「評判はよいようですね。性格は温和で、文も達者。たいへんな筆まめで、人物鑑定も得意とか。近所でも、親切でやさしい龐家の若旦那と有名なようですよ。そういう点でも、孔明殿とは真逆ですね」
「亮くんだって、温和で文も達者で筆まめで、人物鑑定だってするさ」
馬良が反駁すると、馬謖は、柳眉をあげて、鼻を鳴らしつつ、言った。
「おーや、温和な方が、なんだっていつも喧嘩ばかりなさっているのですか。近所でも、喧嘩っ早い傷だらけの凶悪な避難民として、評判が立っている様子ですよ。
お付き合いしているのも前科者なので、よけいにみな怖がっているとか。そうか、わたしも前科者の友を持てば、世間の注目を浴びることができるのか」
「たわけ、もしも前科者というのが、徐元直のことを言っているのならば、許さぬぞ」
すると馬謖は、すっかり舐めきった態度で言い切った。
「許さぬとは、どうするおつもりですか、兄上」
「わたしが行動を起こすまえに、母上に言いつけるつもりだろう。しかし、わたしはおまえより先に、亮くんに、おまえがろくでもないことを口にしていると言いつける」
「ひどい! 実弟を売るおつもりか」
「まったく、おまえが他人で、亮くんが本物の兄弟だったら、どれだけ良かっただろう。前科者と付き合っているだなんて、だれがそんな評判を立てたのだ、実態とまるでちがう。
どうせ、亮くんに嫉妬する門下生のうち、徐元直が怖くて、面と向かって言えないだれかが、勝手なことを言いふらしているのだろうな。
だいたい、号を取り消しさせるなんて、よくもそんな不遜な発想が浮かぶものだ。亮くんは知っているのだろうか?」
「さあ? 知らないからといって、教えて差し上げるのは、控えたほうがよろしいのでは?」
と、まったく懲りない馬謖は言う。
なぜか、と馬良が問うと、馬謖は肩をそびやかせて、答えた。
「いま、塾のほかの方々は、龐士元側と諸葛孔明側にきれいに分かれているのですよ。とはいえ、孔明殿につく人間は、指で数えるほどらしいのですが」
「つまり、なにが言いたい」
「孔明殿のほうがいちじるしく不利なこの状況で、兄上が味方に付けば、塾の方々のほとんどを敵に回す、ということです。
兄上に、そんな根性があるとは思えない。ここは凡人らしく、長いものにくるりと巻かれておしまいなさい」
得々と賢しげにいう馬謖に、馬良は、めまいさえおぼえて、言った。
「謖よ、おまえの献策とは、その程度のものなのか」
「その程度、とは失礼な。現実に即した考えを口にしたまでのこと。兄上にだから言うのですよ。もし、他人であれば、黙ってみています」
「そうだろうね」
馬謖はなんだかんだと、どんなに叱られても、馬良から離れない。
ほかにも兄はいるのに、それでも選んでついてくるのは、やはり馬良にいちばんなついているからであった。
それをよくわかっているので、馬良も、どこか馬謖には甘くなってしまう。
とにもかくにも、孔明に会わなければと思い、その所在を尋ねるが、馬謖はわからない、と答えた。
なんにせよ、塾の人間の一部(数の多すぎる一部の気がするが)に不穏な動きがあるのならば、親友として、ここは孔明を守らねばなるまい。
塾の人間のほとんどが敵にまわっても、怖くないぞ、そうだ。
龐士元という人物、馬良にとっては、これといった思い出がない。
龐士元に友達が多いといっても、その友達のほとんどが、馬良とは友達ではないので、接点がないのだ。
友達が多いとなると、八方美人なお調子者を連想しがちであるが、しかし、龐士元の場合は、それは当たらない。
人の群れのなかにあって、全体から見れば、さほど目立たないのだが、なにか事が起こるとかならず周囲から頼りにされるのが龐統という印象がある。
人徳はあるのだろう。
馬良も内気な性質であったから、やはり数えるほどしか友達がいなかった。
数えるほどしかいない友人の筆頭である孔明は、龐士元とは対照的である。
ともかく、孔明の交友関係はせまい。
友といっても、五本の指で数えられるくらいしか、いない。
とはいえ、友達は極端にすくないけれど、そのせまい人間関係のなかに流れる情は、かなり濃密である。
しかし、山椒は小粒でぴりりと辛いのたとえどおり、すくない友達は、全員が個性的で、自慢できる友達である。
面と向かって言ったことはなかったが、孔明には、強烈に人を惹きつける、磁力のようなものがあると思っている。
面貌が美麗すぎて、とっつきが悪いうえに、内気な性格の裏返しで、強気な発言ばかりするから、誤解を受けがちだけれども、ひとたび、孔明という人物の本質に触れると、その魅力にとりつかれてしまう。
人徳というのともまた違う、独特の魅力である。
そういった強烈な吸引力を、龐徳公は見抜いたにちがいない。
それにしても、眠れる龍、という号は、なかなか言いえて妙である。
孔明は、自分に才能があるとうそぶいているが、それは、本人の自覚するところでは、事務能力の素晴らしさや、発想のあたらしさを示すものであるらしい。
本人は、自身が持っている、人を酔わせる力に気づいていないようだ。
やがてそのことに本人が気づいたら、さて、どんなことになるであろうか。
しかし孔明には、その前に克服しなければならないことがあるだろう。
孔明は、人から触れられることを極端に恐れている。
本人は気づかれまいと振る舞っているが、馬良は近くにいて、見抜いていた。
それは体に実際に手を触れることもそうであるし、心の中に踏み込むこともそうだ。
憶測に過ぎないが、どこか、世の中を、人という者をおそろしいもの、得体の知れないものとして捉えてしまっている部分がある。
孔明が内側にある棘をむき出しにして、どこか他人を遠ざけているように見える理由は、目の前で殺されたという叔父の死に深く関わっているらしい。
辛いだろうな、と馬良は思う。
馬良は孔明のように、戦火を逃れて長い旅路を歩いたことはないし、目の前で親代わりの人物を暗殺されたこともない。
そういった血なまぐさい経験をしてしまった孔明のことを、同情することはできても、完全に理解することはできない。
歯がゆいと思うし、親友なら、なんとかしてやりたいとも思う。
しかし、孔明を助ける方法も、思いつかないのであった。
襄陽の街外れにある、立派なたたずまいの屋敷を久しぶりに訪れてみれば、そこには、まずいことに、司馬徳操の私塾の門弟たちが集っていた。
まさか、家にまで押しかけて、号を返上せよとせまっているのではなかろうな、と馬良はかまえたが、ほっとしたことに、そのなかに孔明の姿はなく、応対は、いつも孔明たちの世話をしている、品の良い老婆がしているようである。
近づいてみれば、孔明はここにいないので、それでは意味がないから、帰ろう、ということで話がまとまりつつあるらしい。そうして、ばらけつつある人のなかには、意外なことに、龐士元、そのひとがいた。
龐士元は、馬良の顔をみると、柔和に微笑んで、拱手する。
挙搓にも、裕福な豪族の余裕が感じられるといおうか、孔明の颯爽とした雰囲気とは対称的に、龐統はゆったりとして、落ち着いている。
すこしばかり、孔明より年長だということもあるからだろうか。
幼いころに疱瘡にかかったために、気の毒に面貌がくずれてしまっているが、その双眸は深みがあり、やさしげだ。
「君もきたのかい。すっかりお祭りさわぎだね」
と、龐統はおだやかな口調で言った。
龐統は人柄が良く、だれの相談にもこころよく応じるところがあったので、いつもだれかが横にいる。
馬良は、龐統が一人でいるところを見たことがない。
とはいえ、喧騒のなかにも、その姿を見つけることはない。
今日のように、騒ぎのなかにいるのは珍しいのだ。
「いったい、どうした騒ぎです。亮くんは、ここにはいないようですが」
馬良がたずねると、龐統は、おっとりと答えた。
「いやね、かれらが、私と孔明殿に号が与えられたことを記念して、宴を開いてくれるそうなのだよ。だから、孔明殿を迎えに来たのだが、どこかへ旅に出かけてしまったようだね。残念だ。仕方ないから、私たちだけで宴を開こうということになったのだ」
そうですか、と生返事しつつ、馬良はちらりと、龐統の周囲にいる人物を見まわす。
かれらもまた、馬良を見るのであるが、その目線は鋭くけわしく、部外者を見るものである。
さては、こいつら、祝いにかこつけて、亮くんに号を返還せよと迫るつもりだな、と馬良は見当をつけた。
龐統は、それを知っていながら、呑気なことをわざと口にしているのだろうか。
居心地の悪さを顔に出さぬよう、馬良は、龐統の顔をちらりと盗み見る。
馬謖とも語りあったとおり、龐統の面貌は、孔明と比べれば、かなり見劣りがしてしまう。
だが、その澄明な双眸は、孔明の磁力を秘めたそれよりも、ずっと深い印象を与える。
感受性のつよい馬良は、想像した。
孔明の賢さは、少年のころにさまざまに経験したことを糧にして蓄えられたもの、実践的なものである。
一方の龐統はどうか。
裕福な豪族の息子として、なに不自由なく暮らしながらも、その容姿が特異で見劣りすることから、辛い目にあったこともあっただろう。
もしかしたら、本人しかわからない苦難を乗り越えて、いまの、年齢に見合わない落ち着きを得たのかもしれない。
それを思えば、孔明に心を掛けるあまりに、理不尽に抱いていた龐統への反発も、薄らいでいった。
龐徳公の甥だから、号を得ることができたというわけではないのだ、ということが、すんなりと理解できる。
孔明をきらう者たちが、龐統をきらわない理由が、なんとなくわかった気がした。
龐統という人物、孔明にはない包容力がある。
孔明は、その良さがわかりにくいので、付き合える人間と付き合えない人間が、両極に分かれてしまうが、龐統には、すべてを預けてしまえるような安心感があるのだ。
そんなことを考えていると、龐統が声をかけてきた。
「そうだ、季常くん、よかったら、君もわたしたちと一緒に来ないかい。君とは一度、ゆっくりと話をして見たかったのだよ」
そう言われるとうれしく思うのが人情。
馬良は、よろしい、参りましょう、と答えそうになったが、龐統の周囲にいる者たちの、馬良を疑わしそうに見ている表情にぶつかって、思いとどまった。
どうやら、こちらが迷うまでもなく、周囲は、自分を、亮くん側の人間だと判断しているらしい。
「誘ってくれてありがとう。けれど、あまりゆっくりもしていられないのだよ。知っているとおり、うちには病弱な弟がいるから、その看病が大変なのだ。またなにかの機会に、是非誘ってくれたまえ」
「そうかい。残念だな。今度、君の家の近くに行ったら、寄らせてもらうことにするよ。そのときには、よろしく」
歓迎する、と、馬良は本心からこたえて、孔明の屋敷から去っていく龐統と、仲間たちを見送った。
たしかに、龐統は立派な人物のようだ。
しかし、どうも周囲がよろしくない。
龐統には強い包容力があるが、どうも、よろしくない人間まで包み込んでしまっているのではなかろうか。
むずかしいものだと考えていると、門のところで応対していた老婆が言った。
「お久しゅうございます、季常さま。亮様でございましたら、徐元直様のお家にいらっしゃいます」
「まだ町にいるのか。旅に出たというのはどういうこと? 徐元直の家で支度をしているということなのかな」
孔明の屋敷から徐庶の家までは、歩いてすぐの距離である。それを旅とはいわない。
老婆は、口を手で隠して、品良くころころと笑うと、答えた。
「だって、旅に出たとでも言わなくては、あの方々は帰ってくださらなかったでしょう」
「それはそうだね。均くんは中にいるのかい?」
「均さまも、奥様と一緒に、外へ出ております。姉上さまも所用で外へ。お屋敷には、本当にだれもおりません」
「そうか。しかし、なんだってみんなして留守にしているのだい。それもバラバラに」
「ああいう方々を避けるためですの。わたくしは女の身で、よくわかりませんけれど、龐徳公の号というものは、まるで天下の宝のようなものなのですねぇ。
たまたま亮様がそれをもらってしまったものだから、みなさま目の色をかえて、おまえには似合わない、俺に寄越せと迫ってくるのです。
もともと、亮様は、あまりお味方の少ない方ですから、このままだと争いごとに巻き込まれないとお嬢さまがご判断なさいまして、事態がおさまるまで、みな、目立たぬように、バラバラに散って、騒ぎが鎮まるのをまつことにしたのです」
「そうだったのか。さすが結束力が高いというか、あいかわらずこの家は、思い立ったら、即実行なのだね。でも正解だよ」
「亮様は、もし貴方様がやってきたなら、居場所を教えてやってくれとおっしゃっておりました。元直さまのお家に行くのであれば、ついでに着替えを持って行ってさしあげてくださいませんか。
金があればなんとかなる、なんて呑気なことをおっしゃっていましたけれど、亮様は、お召し物にはやたらと懲る方ですから、市場に気に入った品がなければ、持って行った着物を使いまわしなさるでしょう。
ろくに洗濯の仕方も知らないのに、そんなふうに過ごしていたら、あっというまにボロを着て過ごすことになりますからね」
そうして馬良は、老婆よりあずかった孔明の着物を手に、今度は徐元直の家に向かった。