七夕フェスタ企画 コバ様よりリクエスト作品
砂漠のエデン
四
風を操る者たる自分が、ほかならぬ風に攻撃され、しかも、自分がどこにいるかわからない。
魔女の姿がなくなったのと同時に、アリとロレンスの姿が、まるで吸血鬼が陽光にさらされて灰燼に帰したように、風塵にまみれて崩れていくのが見えたが、見ているばかりで、なにをすることもできなかった。
風によって攻撃され、命が散ったのではない。時間が引き戻されたことにより、そこにあった物体も同時に消滅していったのだ。
轟々と吹きすさぶ砂嵐の中心に巻き込まれ、目を開くこともできず、ただひたすら耐えることしかできない。
孔明は、とっさにおのれも風を起こして、渦巻く風に抵抗し、砂を防ぐのであるが、それだけで精一杯である。
アトラ・ハシースとしては、アストラルの安全を最優先にしなければならないので、急ぎ趙雲の無事を確かめるが、これも崩れゆく世界の巻起こす砂塵の壁でなにも見えない。孔明としては、自分が窒息しないように砂を防ぐことしかできず、なんとか共有する視界を展開させ、その位置を確認しようとするが、やはり砂嵐ばかりが見える状態で、なにもわからない。
すぐさまアストラルの受肉状態を解除し、砂嵐による肉体的な攻撃を受けないようにしたが、間に合っただろうか。
口を開いて叫べば、息ができなくなるから、孔明はひたすら砂嵐がやむのを待つしかない。膨大な霊力を使用することができる孔明であるからこそ耐えられるものであり、並みのアトラ・ハシースでは、ともに風に千切られ、飛ばされていたことだろう。
砂嵐がやむと同時に、目を開けば、そこに灼熱の黄色い砂漠は姿を消し、代わりに、青白い月に照らされた、静寂と闇と神秘の折りなす、仮死と眠りの夜となっていた。
おなじみの戦車は跡形もなく、周囲を見回すと、青白い月の光に、半透明の姿を見せる、無事であった友が、鷲の頭にそっくりな岩のうえに立ち、まるで得物を狙う虎のように、じっと前方を見つめている。
「子龍?」
霊力の大放出に、ぐったりと疲れた孔明は、重い身体を引きずりつつ、声に出してその名を呼んだ。すると、おのれでも仰天するほどに、声は静けさに満ちた仮死の世界に響き渡った。
「アイオーンの乙女、と言ったな」
と、趙雲は、前方から視線をはずさないまま、孔明に問うた。
この人の声は、砂漠の砂に染みこむようだな、と思いながら、孔明は答える。
「アイオーンは時の神だよ。時間のない場所にいて、世界の出来事のすべてを記した書物を、時間が果てるまで、永遠に執筆し続けるのだという。個人か、それとも、自動的に世界の出来事を記録する、われわれの想像もつかない構造をもつ『構造物』なのか、それとも最高府のように、得たいが知れないけれど、われらの上にいる『者』なのか、はっきりしていない」
「だから、アイオーンに仕える乙女とかいうものは、時間を動かすことができる、というわけか。見ろ」
趙雲が見下ろす先には、二つの建物群があった。
ひとつは、さえざえと大地を照らす月光に、さむざむとその姿を見せる遺跡のそばに建つバラック群。バラックの側には英国旗が掲揚されている。
そして、その目と鼻の先には、兵舎と思しき建物群があった。
遺跡発掘現場を見張るか、あるいは威嚇するように、兵舎は建っており、夜回りの兵士もいるようである。
その兵舎の周囲にいる兵士たちは、みなフェズ(トルコ帽子)をかぶっていた。つまりは、トルコ兵の兵舎、というわけだ。
「大戦中にこんな光景があるわけがない。過去だ」
孔明は、受肉したままであるから、真っ白い息を月光の支配する世界に吐き出して、ぶるりと震えた。
寒かったのもあるが、さきほどのすさまじい砂嵐のなかでおぼえた、なんとも形容しがたい違和感。強烈な拒否感が思い出されたのである。あれが、時を遡る、という感覚なのか。積み重ねられた時間が、悲鳴をあげて、それでも容赦なく崩されていく。まさにそんなふうであった。
「ここがどのあたりで、どこまで戻されたのか、聞いてみるか」
孔明は、趙雲と連れ立って、かつての壮麗な都市の、砂に埋もれて遺構ばかりとなっている土地の中央に立ち、『ふるきたましい』の呪文を唱えた。
ゆるゆると、零度を記録する冷たい空気に、砂埃がゆっくりとゼリー状に形を持って沸き起こってくる。
やがてそれは、都市にいまだ留まる魂にまとわりつき、常では見えないその姿を、月光のもと、明らかにした。
片時だけ、そこには砂粒のひとつひとつに刻まれた記憶によって甦った、四千年の時を経た古代の都市の姿が浮かび上がる。
家々が立ち並び、市場があり、ひとびとが往来し、この時代では最新発明であった馬車が、きれいに鬣の切りそろえられた馬に引かれて通り過ぎる。
音はしない。
しかしアストラル同様に、半透明に動き回るかれらの姿は、冴え冴えとした月光の下に生きる者にふさわしく、幻想的で、水晶のように美しかった。
そうして、月光の下で、遊ぶようにふわふわと歩き、散策を楽しんでいるような風情の、胸元まである立派な髯をたくわえた男の魂を捕まえた。
その身にまとう装飾品から、貴族、あるいは神官であろうとしれる。
かなり古い魂であるらしく、ただの幽霊というよりは、この土地の主、といった貫禄すらある。
たいがいの、土地に縛られた霊(端的に言えば地縛霊)というものは、なにかに妄執がすぎるあまり、悪いものに引っ張られてしまうことが多いのであるが、孔明の見つけた男は、自分が死んだことも把握しており、自分が土地を守っている、という自負もつよかった。
霊というよりは、もはやこの失われた町の守護者といってよいであろう。
アトラ・ハシースを見るのも珍しくないらしく、男は神にするように、地面に額づいて、孔明と趙雲のふたりを出迎えた。
『偉大なる賢者がた、この卑しきものに、如何様な用事でございましょう』
「ここは、どこだね」
『栄光ある王の轍を残す町、カルケミシュでございます』
「ヒッタイト帝国の…わたしたちがロレンスに追いついた場所は、アカバの付近であったはずだから、またずいぶんと北に飛ばされてきたものだな。おまえの守る町を騒がせている、あのバラックの連中は、いったい何者だい?」
男は振り返り、軽蔑のありったけをこめてバラックをにらみつけたあと、孔明に答えた。
『西の島国に都のある、大英帝国とかいう国の、墓荒らしどもでございます。やつらは、金目のものは、すべて自国に持ち帰ってしまう、いまいましい盗賊どもたちなのです』
この時代、中東およびギリシアにおける、欧州の発掘熱というのは、さながら恋の熱にも似ていた。誰もが架空の伝説だと信じていたトロイが、実際に実業家の1876年にシュリーマンによって発掘され、世界を驚かせてより、欧州の眼差しは、一気にオリエント地方に向けられる
。そしてシュリーマン以降、後世につながる考古学上の大発見が、つぎつぎとこの時代にされている。
じつは、孔明のいま立っているカルケミシュもまた、貴重な発見の一つである。
大英帝国、カルケミシュ、と聞いて、孔明はひとつの名前を記憶から引き出した。
「盗賊の頭目は、チャールズ・レナード・ウーリーと言う男ではないかい」
『ご存知でございましたか。ウーリーという男と、ホウガースという男が盗賊の頭目でございます。どうぞ偉大なる御力にて、かの盗賊どもを懲らしめてくださいませ』
そういうと、男はすうっと、煙のように、孔明の前から姿を消した。
「チャールズ・レナード・ウーリー…これまた念仏のように長い名前だな。知り合いか?」
趙雲の問いに、孔明は遺跡の中を進みながら答える。
趙雲はアストラルとして、着慣れた甲冑姿に戻っており、孔明は大英帝国の軍服を着崩している。
孔明は、ふと、これではトルコ兵の歩哨に見つかったときに厄介だと判断し、ふたたび趙雲を受肉させ、二人の着ている軍服を、ドイツ兵のものに戻した。ドイツ兵が大英帝国の遺跡発掘隊のバラックをうろうろしている、というのも奇妙なものであるが、当時のトルコ兵の質の悪さはつとに有名で、じっさいに、かれらは孔明たちを見つけたのに、同盟国のドイツ兵らしいというので、寄ってくるでも声をかけてくるでもなし、まったくなにもしなかった。
「子龍、ウーリーというのは、有名なイギリスの考古学者だよ。かのミノス文明を発掘したエヴァンズの弟子で、精力的にオスマントルコ領内を発掘し、数々の業績を残した男だ。後世のよき影響が認められ、たしかアストラルになっているよ」
「先刻の地縛霊に頼まれた、『盗賊』への懲罰はどうする」
「考古学者と盗賊は紙一重、といったら世界中の学究の徒が戸惑うだろうね。まあ、てきとうにそこいらの石に躓かせて、膝小僧をすりむかせる程度でよろしかろう。それより、このウーリーという男とともに働くホウガースという教授は、ロレンスの考古学上の師匠でもあった」
ほう、というふうに趙雲は孔明を見る。
「そしてここはカルケミシュ。つまりだ、若かりし頃のロレンスは、いま、あの宿舎のどこかで、ウーリー教授、ホウガース教授の助手として、眠っているはずなのだよ」
「…魔女の気配はあるか?」
「わからないな、正直なところ」
答える孔明が空を仰ぐ。
蒼白な処女のような顔をした月を中心に、おなじみのオリオンの三連星やスピカ、シリウスが瞬いているのが見えた。
呪文が解けて、ゆるゆると、都市に息づく人々は、ふたたび大気に消えていく。
「魔女というのは、ヴァルキューレやアトラ・ハシース、そしてアストラルともちがい、その力の源は、霊力ではないのだ。
あっても、微量なので、だから列車内でも、いくら家畜に化けていたとはいえ、見つけるのがむずかしかった。魔女は、我らが互いにするような霊査では、なかなか探り当てることがむずかしい」
「では、魔女の力の源は、なんだ? 時間を動かすなど、ヴァルキューレ並の…ずばりいえば、俺たちなんぞ歯が立たぬ力を持っている、ということであろう」
「力の源がわからないからこその『魔』女なのさ。おや、だれかが外に出てくるようだ」
キイ、と木の扉の軋むちいさな音とともに、バラックの一室より、ランタンをかかげた人影が移動していくのが見えた。
遠目なので、趙雲からは、ただ人だ、ということしかわからない。
だが、いかなる遠方であろうと、霊力によって細部まで見ることができる孔明は、思い切り柳眉をしかめた。
「サーカス団員がいる」
「なに?」
「いや、客寄せかな?」
「なぜ遺跡発掘調査隊に客寄せがいる?」
「この時代、イギリスの上流階級では、中東やエジプトの遺跡発掘現場の見学旅行が流行っていたのさ。アガサ・クリスティも、発掘現場を舞台にした物語を執筆しているくらいだ。そうやって上流階級の感心を引いて、考古学者はスポンサーを募っていた。まだ当時は、大英帝国華やかなりし頃で、まだまだ世界の中心だったからな。ほら」
と、孔明が、天空に輝く月にも似た色合いの手を差し伸べるので、趙雲がそれに触れると、孔明の見ている、ランタンを持った者の姿が、自分の視界にも、まるで目の前に立っているかのように、まっすぐに飛び込んできた。
フェズをかぶった青年である。フェズからは明るい金髪が覗いている。
メダルのような大きな飾りのたくさんついたアラビアの金メッキの首飾りに、同じように派手な腕輪をして、ご丁寧にアンクレットも同じデザインで統一していた。
くるぶしまでの長さの、金の刺繍のほどこされた黒いだぶだぶのズボンをはいて、その両足には、エメラルドグリーンに銀の刺繍が施された靴を合わせている。
そして夜風に、やはりアラビア風の、絹の安っぽいリボンふうのベルトをなびかせ、砂漠に反抗するかのように目立つ真紅のチョッキに、薄手の、白い肌の透けて見える、ある意味挑発的なシャツを身にまとっていた。
そこかしこに施された刺繍が、月光に鈍くまたたき、彼は、全身から、自分の存在を主張しているかのようであった。
「ロレンスだ」
「奇妙な衣裳を着て…ひどい趣味だな」
身なりに頓着しない趙雲でさえ、ロレンスの身にまとう衣裳に眉をひそめた。
たしかに、サーカスの団員とて、これほど派手にはしないだろう。
西洋人の、『アラブ趣味』を、これでもかと悪趣味に主張したような格好であった。
「そうだ。ロレンスは、助手をする傍ら、観光客相手にガイドをつとめたり、記念写真を一緒に撮ったりしていたのだった。その格好かな」
「この真夜中にか? というより、あれでは文化が間違って伝わる」
と、趙雲は、さきほど孔明の霊力によって出現した、いまも都市に住み続けている魂を想い、なにやら複雑に思った。
ランタンを砂漠にかかげ、さくさくと砂の上をいくロレンスに従い、孔明と趙雲はそのあとをつけた。
どこへ行こうとするのか…遺跡に向かう様子ではなく、なにもない砂漠の果てを目指し、ひたすらただまっすぐ歩く。
そしてふと、立ち止まったかと思うと、ロレンスは片手より何かを取り出した。
しまった。
ロレンスは、あまりに淡々としすぎていた。
思いもかけない事態に、孔明が気づいたときには遅かった。
ロレンスは、ランタンを片手に持ったまま、もう一方の手で取り出した銃をこめかみにつきつけ、迷うことなく、あっさりと引き金を引いた。
たん、と静かな銃声が眠れる砂漠につめたくこだまして、ほんものの死が、砂上に散った。
「自殺、か」
趙雲が言うのを、孔明はだまって聞いた。
すくい上げれば、砂漠の砂の感触はやわらかく、たやすく風にさらわられてしまう。
足音が響くこともなく、しんとした夜に、銀の盆のような月が冴え冴えとした姿を見せている。
孔明は背後につづくおのれの足音と、となりに一定の歩幅でつづいている友の足音をふり返り、それから、清い砂のうえに仰向けに倒れ、赤黒い血を撒き散らす、場違いな薔薇のような青年の身体を見下ろした。
忸怩たる思いとは、このことであろう。
一人の世界を変え得る青年が死に、これから世界は、思いもかけない方向へと転がりだす。だれの予想も付かない方向へ。
うつぶせになる青年の横顔は、月光を浴びてなお青白く、月影の加減であろうか、微笑んでいるようにもみえ、見る者の不快感をかきたてるものである。
フェズ(トルコ帽子)はすこし離れたところに砂に埋もれてあり、これにも赤黒い染みがついていた。
趙雲はそれを拾い、
「頭部を一撃、即死」
とだけ言った。楽に死ねたのだから、という、この男なりの慰めの言葉なのである。
砂漠は美しく清い。
あの魔女は、ロレンスに、こう言っていなかったか。
『砂漠に夢を託しすぎている。ここは、あなたの望むような、楽園じゃないわ。誤魔化してはだめ。託す夢が大きければ大きいほどに、あなたは、大きく引き裂かれてしまうのよ』
歴史は伝える。
ロレンスは華々しい戦功の最中にあって、なぜかトルコ兵に捕らわれ、一夜、拷問を受けた。
そのたった一夜に、なにがあったかは、本人も自伝『知恵の七柱』にて、曖昧にしか記述していないため、よくわかっていない。
ただ、後年、ロレンスは、本物の母のように慕ったウィリアム・モリス夫人に宛て、『あの日、わたしは肉体的な純潔を譲り渡してしまった』と書いている。
かれの言う純潔というのが、言葉そのものとして受け取ってよいのか、もっと精神的なものなのか、ロレンス自身があまりに複雑な人格をもち、高度な文章家であったがため、かえって事実があいまいになってしまっているのが現実だ。
ロレンスは恐怖の象徴である『女』から逃げるために、砂漠に逃げ、砂漠に身を託した。
しかし、砂漠はその身を手ひどく跳ね除けた、ということか。
サロメを、捕らわれのヨカナーンが見向きもしなかったように。
そういえば、オスカー・ワイルドは、サロメを、妖女としてではなく、女として未成熟な、少年のような薄い肉体の持ち主であるとイメージして執筆した、という。
ワイルドのサロメは、男でも女でもないものであるから、ヘロデ王を惹きつけ、シリア人を死に至らしめるほどの神秘性を纏っていた。
しかしヨカナーンの首に口付けをすることで、サロメは『女』となり、処刑される。
中性というものに対する、耽美的な憧れが、ロレンスの中にもあったのかもしれない。だからこそ、成人男性が髯を生やすことが当然であったベドウィンたちのあいだでも、毎日きれいに髯を剃り、純白の花婿の衣裳に身を包み、中性であることを主張しつづけていたのだ。
彼はそれほどに、性というものを恐れていた。
「月は処女なのだよ」
「なんだって?」
「知らないか。オスカー・ワイルドの「サロメ」の台詞だよ。『この時代』の、イギリスの作家のね。今宵の月はまるで銀の盆のようではないか…だったかな、まさにそんなふうだ」
孔明のことばに、趙雲は天空を見上げ、ああ、とだけ言った。孔明の言葉を計りかねている様子である。
月から落ちた男のように砂漠のうえに横たわる青年から、なんとも離れがたく孔明がじっとしていると、趙雲もそれに倣ってか、黙ってとなりに立っている。
それぞれの思いはちがったが、失敗の二文字が、脳裏から離れないことだけは確かであった。
「派手な死出の衣裳だな」
と、趙雲はいい、孔明もまったくだ、と同意した。
ロレンスと自分とでは、どこか似ていると思うところがあるが、衣裳という点では、まったくもって趣味が合いそうにない。
孔明は、特別な余興でもないかぎり、こんな派手なばかりの衣裳に袖を通したりしないからだ。
「でも、なぜ自殺など」
戦中のロレンスならばわかる。
アラブの独立運動にだいたいのメドがたったあと、ロレンスはまるで逃げるように砂漠から去った。そのときならば。
しかし、いまは優秀なオクスフォードの大学生、エリート中のエリートとして、みなから愛されて、青春を謳歌していたはずである。
「未来を知ってしまったからよ」
青白い砂漠の上に、銀の鈴を鳴らしたような声が響いた。
魔女である。
ヴァルキューレと同等の力を持つ魔女相手に、戦闘はむずかしい。
まさにアリと象が戦うようなものだ。だが、万が一のことを考え、いつでもアストラルである趙雲を基本世界に戻せるように、孔明は趙雲を背後に庇う形をとった。
「未来を知った? そうではない、未来を教えたのではないか、おまえが」
孔明が決め付けると、魔女は、その言葉には明確に答えず、砂を含む風に、黄金の髪と、黒いヴェールを躍らせて、孔明と趙雲の前に立った。
そうして、緊張する二人に、嫣然と笑みを向けてくる。
「安心するといいわ。わたしは、あなたたちを豚に変えてしまおうなんて、思っていないから。そう、未来を教えたのはわたし。彼の悲鳴が、私の耳に届いたから。
かわいそうな人。これが、彼ののぞんだ一番の結末なの。誰よりも愛した、清く美しい砂の世界で、自分もまた、清いまま死んでいくことが、かれの夢だった。
いろいろなパターンを試したわ。彼を苦しみから救う方法を」
「救うことが、殺すことなのか?」
理解できない思考に、孔明が唖然としているのを尻目に、魔女はセイレーンが歌うように嘆く。
「でも、どうしても、だれをどんなふうに配置しても、場所を変えようと、天候を変えようと、彼は、わたしの手から逃れて、『生き残ってしまう』の。わたしをからかっているのじゃないかしらと思うくらいに、たやすくね」
「わたしたちを召喚したのがおまえならば、なぜわたしたちに、ロレンスを殺せ、ではなく、守れ、と言ったのだ?」
「試したのよ」
と、魔女は、今度は童女のように無邪気に言った。
しかし孔明はそれには釣られず、きつく柳眉をしかめる。
「なにを?」
「わたしが彼を移動させるのではなく、まったく外部のアトラ・ハシースが介入した場合、世界にいくらかの変化が現われるのではないか、と。
でも、やっぱりだめだった。あなたがたは優秀よ。彼を守りきり、結局、殺させなかったのだから」
「でも、いまは死んでいる」
そうして、孔明は、砂漠に横たわる青年を見下ろした。
魔女は、屈むと、黒いヴェールを風に躍らせながら、まだぬくもりを残している体を、いたわるようにしてそっと触れる。
「あなたは赤子のように清い。そうして、永遠にこの世界に、わたしとともに留まるの。あなたはいなくなり、アラブの独立運動は様相を変える。百年以上もつづく中東問題も、この清らかな死によって、もう起こらない」
そんなにうまく行くものか、と孔明が声を上げようとしたそのとき、もうひとり、背後から、アラブ服を纏った男が、砂の上をやってくるのが見えた。
銀色の光に照らされて、アラブ服を風になびかせ、歩いてきたその男は、太陽のように明るい金色の髪を持っていた。
「貴方がたの言いたいことは理解しているつもりだ。すべてがうまくいくとは、わたしだって思っていない。だが、すくなくとも、イギリスがつくことになる、二つの嘘は、不履行となるはずだよ」
「ロレンス? 本人か?」
思わず、足元に倒れる青年と、目の前の、三十を過ぎた、いささか日焼けしているものの、深い緑色の瞳に知性を湛えた青年を見比べる。
魔女がいたときには感じなかった、つよい霊力の気配を感じる。
アトラ・ハシースだ。
孔明は、死んだ大学生ロレンスと同様に、わずかに笑みを浮かべているロレンスに、抗議するように言った。
「君は知っているのか、アトラ・ハシースは、いかなる世界においても、自分自身に干渉してはならない。干渉したアトラ・ハシースは、最高府によって罰せられ、煉獄行きになるのだぞ」
「煉獄には行かないわ。そのかわり、彼はずっと、わたしのこの世界に留まるのよ」
と、魔女は、傍らにやってきたT・E・ロレンスを、わが子のように抱きしめた。
ロレンスは、その抱擁を心地よく思っている様子である。
母と子が、互いを庇いあい、睦みあっているかのようである。
孔明が、ロレンスの母・セアラの姿をもし知っていたなら、魔女の姿が、まさにロレンスの理想たる母の姿であったことに気づき、慄然としたであろう。
二人のあまりに無邪気な様子に呆れつつ、孔明はなおもつづけた。
「莫迦な。最高府の意向には、いかなる者も」
魔女は、孔明のことばを遮った。
「アイオーンの乙女たちは、例外なのよ。この世界自体が、最高府の全意向を、もっとも濃く受けて、生じたものだから」
「これは、君自身が、魔女を介して、自分自身に自分の未来を告げて、引き起こした自殺なのか?」
孔明がロレンスに尋ねると、引き寄せられそうになるほどの深い碧の瞳の青年は、たった一言。
「これでいいのです」
とだけ言った。
魔女と、ロレンスの間に、すでに話し合いは出来上がっていた、というわけだ。
ロレンスは基本世界における、果て無き紛争への責任に、苦悩していた。
その悲鳴を、魔女は聞きつける。
ロレンスは、魔女に、自分という存在を消してしまうことを望んだ。
生前、かれが偽名・変名を駆使して、徹底的に「ロレンス」という男を消そうとしたように。
存在を消してしまえば、かれの世界に与えた影響は消え、違う方向に動き出す。
基本世界は不可侵であるから、これはもう変えようがない。
そこで、魔女は、自分の世界にいるロレンスを殺すことで、彼の望む世界を見せてやろうとした。
しかし、魔女の世界の彼は、どんな方法でも殺すことが出来ない。
そこで、外部のアトラ・ハシースをわざと世界に侵入させ、ほんのすこしだけ、歴史を『ずらす』。
アトラ・ハシースの力によって、基本世界の歴史の流れとのあいだに、ズレが生じる。
そのズレの間に、ロレンスを殺せるか、一瞬の可能性に賭けたのだ。
しかし、それでもロレンスは死ぬことはなかった。
そこで魔女は、最終手段として、『エル・オレンス』になる以前のロレンスを消すため、時間を巻き戻した、というわけである。
ただ、殺したのではない。彼がもっとも望む『清く美しい』ままの死を迎えさせた。
孔明が選ばれて召喚されたのは、この時代に、そしてこの地方に、砂漠という者に、かかわりも、思い入れも、まったくない、それでいて働き者で、生真面目に命題をこなすアトラ・ハシースであったからだ。
「わたしたちは、これでお役ご免、ということかね」
つまりは、ちょっとした『お試し品』として利用されたわけである。
こんな屈辱ははじめてだ。
理不尽さと苛立ちを、胸いっぱいに抱えたまま、孔明は魔女とロレンスの両方を見据えた。
第一次大戦中に、イギリスのついた三つの嘘。
この嘘を支える前提となるのが、ベドウィン族の、オスマントルコからの独立であった。
T・E・ロレンスというカリスマが出現しなければ、独立運動が成功したかは大いに怪しい。それほどに、ロレンスの功績というのは大きかった。
ロレンスがいなくなれば、あるいは21世紀までつづく中東問題は、様子を変えて、もうすこしわかりやすいものになるかもしれない。
だが、すべては可能性の積み重ねだ。
ロレンスがいなければ、その代わりともいえる人物を、時代は排出する可能性がある。
ただひとつだけ、たしかなことは、ロレンスという男は、この魔女の世界では、自分を消し去るという最高の願いをかなえることができた、ということだ。
だが、本来ならば煉獄へ行かねばならない事態である。自分自身の運命を、まさに自分自身で断ち切った…自殺させてしまったのだから。
「あなたがたに、もうひとつ、お願いがある、といったなら、怒るだろうか」
と、ロレンスは、魔女の抱擁からゆっくりと解放されて、言った。
ロレンスは、声が甲高いため、いつも興奮しているように聞こえる。
孔明は、すっかりうんざりしていたので、いささか冷淡に答えた。
「煉獄へ連れて行かないで欲しい、という願いであれば却下だが」
「そうではない。たったひとりのイギリス人を消しただけでは、この世界は救えません。あなたの風を巻き起こす力で、ぜひ作って欲しいものがあるのです」
「つくる?」
怪訝そうに、背後にいる趙雲と顔をあわせる孔明に、魔女が言った。
「道具はすべて用意してあるわ。ただ、それを運んで、適当に配置すればいいだけ。ほんの数年間でもいいから、この世界の人間の戦の手を止めさせることができればいいの。
わたしには、世界を渡る自由と、時間を動かす自由があるけれど、あなたのように、風を操るような大きな霊力を持っていない。だからお願いしたいのよ」
魔女の表情はもちろんのこと、ロレンスの目は、あまりに透明で、表情が読めない。
孔明は、そこからわずかでも、この複雑な人格をもつ青年から、本心を汲み出そうと苦慮しつつ、尋ねた。
「戦を止めるため、というのであれば、協力するのに反対はないが、きみが煉獄へ行かなくてすむという、理由をおしえてくれないか」
「わたしが、彼女の元に留まって、この世界の構築の手伝いをするからです」
孔明は、驚きと共にロレンスを見た。
「きみは、『完全なる者』なのか?」
「まさか。わたしの使える力はひどくちっぽけで、『世界中の言葉をあやつる』という力です」
それでもたいしたものだ、と背後で趙雲がつぶやいたのが聞こえた。
内気な子供のように、なにやら恥じ入っているロレンスに代わるように、魔女が言った。
「魔女の世界の構築を手伝うものは、煉獄行きを免れる。その代わり、二度と基本世界には戻れない。彼は、永遠にこの世界に留まることになるの。それが、煉獄行きの代わりの、かれに与えられた罰よ。納得した?
もうそれ以上は、深入りはお止めなさい。わたしに豚にされるよりも、ずっと辛いことになるわよ」
「魔女の世界に永遠に留まることが罰、か。風を起こす前にひとつだけ。魔女よ、あなたの名は?」
「わたしの名はキルケ。深入りするなら、豚にするわよ」
そういって、美しき魔女は、月光のもと、薄いヴェールをなびかせながら、銀の鈴のような声で笑った。
数週間後。
その将来を嘱望されていたロレンス青年の自殺のショックから脱け出せないでいた、大英帝国の遺跡発掘調査隊は、古都カルケミシュの数キロ先の砂漠の中に、異常に多数の動物の骨を見つけた。
建築物の遺構などはなかったけれど、砂漠地帯にはありえない、世界中のさまざまな種類の樹木の化石が同時に発見され、同時に、多数の動物の骨のなかには、中近東のみならず、ロシアやオーストラリア、あるいは太平洋の島々でしか見ることのかなわぬ、ありとあらゆる動物の骨が発見されたという。
いまは枯れてしまっているが、そこには大きな川が流れていたことも確認され、それは延々と伸びて、四つの川に繋がっていることも確認された。
『見るからに好ましく、食べるによいものをもたらす木を地に生えいでさせ…中央に、命の樹と善悪の知識の樹を生えいでさせた…一つの川が流れていた…園を潤し、四つの川となっていた…野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持ってきて、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて物の名となった…』
C・L・ウーリー教授とホウガース教授は、この遺跡が、かのエデンの園ではなかろうかと発表し、世界中の人々を仰天させた。
エデンの発見は、すなわち聖書が事実を描いたことの証明であり、同時に『神』の存在の、確実な証明でもあったからだ。
世界中に、一大的な神への祈りを捧げるムーブメントが発生し、中近東およびアフリカ大陸に眠る領土と資源をめぐる、きなくさい政治闘争は、奇跡的なねばり強い交渉によって、平和的解決を見せる。
第一次世界大戦は起こらなかった。
第一次世界大戦で、多額の賠償金を要求されるはずのドイツも、それを免れたために、極度のインフレに陥ることなく、貧乏画家のアドルフ青年が、のちにアドルフ・ヒットラーとして、悪魔的な活躍を見せることもなかった。
第二次世界大戦も起こらなかった。
それでも紛争は起こっているが、ふたつの大戦を経て、人類が蒙った傷を思えば、歴史的にみれば、『微々たるもの』であった。
「納得できない。できるものか」
と、基本世界の完全なるコピーである、アトラ・ハシースのための基本世界、通称『下宿先』(環境だけがコピーである。住民が、只人と、選ばれたる魂たるアトラ・ハシースおよびアストラル、という差があるため、文化の進度、生活スタイル、すべてにおいて、まったくちがう世界となっており、汎世界とも隔絶されて、影響を与えないように処置されている。そもそも人口がすくないので、社会制度すらなく、ただ最高府が、『下宿先』にある建物などを管理しているのみの、いわゆる善き勇敢な戦士の集い場・ヴァルハラ、楽園である)に帰った孔明は、アトラ・ハシースの社交場でもある『バベルの塔』の個室タイプのインターネットカフェにて、アトラ・ハシース専用の、汎世界の情報をすべて知ることができるHPを見て、悪態をついていた。
汎世界のすべてがわかる、と銘打つ、唯一の最高府公式サイトなのであるが、魔女キルケの支配する世界の情報は、概要が開示されているばかりで、ロレンスがそこでどんな活躍をしているのか、その後の世界が、どのような動きをみせるのか、それ以上は、引き出すことはできなかった。
魔女キルケ。
古代ギリシアにおける魔女神である。
アイアイア島の主で、漂流者たちを誘惑し、意に添わなかったり、あるいは飽きてしまうと、豚などの家畜に変えてしまうことで恐れられていた。
有名な「オデュッセイア」に登場する魔女であったが、そういえば、ロレンスは、「オデュッセイア」の翻訳をしたことがあったな、と孔明は思い出していた。
アイオーンの乙女に関しての情報も同様で、アイオーンの名を出した時点で、どのアトラ・ハシースも口をつぐむ。
自分がいったい、どこで、なにをしたことになったのか、わからないだけに、孔明は、利用されたという思いばかりが強くなり、苛立ちは募っていくのであった。
「若いくせに、いろいろ拘るな、それとも、若いからこそ、拘るのか、と悪態をつかれた」
と、不機嫌な孔明のもとへ、さらに不機嫌な趙雲がやってきた。
孔明は、首を伸ばすようにして趙雲を振り返ると、言った。
「その口調からすれば、なにがしかの情報を引き出してきたらしいな。教えてくれないか」
が、趙雲は、個室に入ってくると、その正面のソファに腰掛け、孔明を真摯に見つめて、言った。
「その前に、約束してくれ。もうこの件には、深入りしないと。そうでなければ、俺はなにも教えない」
「気になる前提を持ち出すものだな。深入りしたら、どうなる」
「最高府に消されるぞ」
「だれから聞いた」
「それも言えない。いいか、アイオーンの乙女たちには、ひたすら従っておけ。反対をしてはならないし、その仕事を邪魔してもならない。深入りもするな」
「それでは、黙っていろ、忘れろ、ということではないか」
まさにそれが我慢ならないのだ。
孔明は、不満に顔をしかめるものの、趙雲は大きく頷き、つづける。
「そうしろということだ。ひとつだけ教えてやる。というよりは、俺もこれしか教えてもらえなかったのであるが、最高府はどうやら、アイオーンの乙女たちを使って、『原世界』を再現しようとしているらしい」
『原世界』、と聞いて、孔明は、それこそパラノイアのたわ言を聞いたときよりも目をむいて鸚鵡返しをした。
「原世界だと? 本当か? 冗談だろう? シャングリラだの、アトランティスだの、ムーだの、エリュシオンだの、桃源郷だのと、まあ、ともかくいろいろ言われている、あれか? 大洪水だか天変地異だかで一瞬にして崩壊したという」
「人が黄金で出来ていた時代の、争いを知らなかった、エデン。創造主が、いちばん最初につくった世界を、最高府は取り戻そうとしている」
孔明は、細長い指先を唇にあて、しばし考えたあと、そうか、とつぶやいて、趙雲に言った。
「無垢な世界に、ふたたび可能性と想像力を与えた人類を配して、すべてを最初から始めようという思惑なのだろうか。だとしたら、いまの汎世界はどうなる?」
「そこまでは知らないし、もう考えるな。すくなくとも、俺たちは、最高府の『試作品』の世界において、ふたつの大戦を起こさないきっかけを作ったという重要な命題をこなした。最高府も満足していることだろう。そう思えばいい。そう思って、納得しよう」
孔明は腕を組んで憮然とした。
石臼で身を削られるような、時を遡るときの異様な感覚を、いまだに思い出す。まさか最高府は、それを汎世界全体で行おうとしているのではなかろうか。
冗談ではない。
いま、懸命に生きている、ありとあらゆる汎世界の住人たちはどうなる。
かれらは、塵のように消されてしまってもいい、ということなのか。
「納得できないな」
趙雲は、孔明がそう答えることを想定していたらしく、あえて重々しく言った。
「しろ。頼むから」
「…頼まれると弱いな」
「頼まれてくれ。もう深入りはするな。というよりも、アイオーンの乙女には、もう召喚されないようにしろよ。こんなわけのわからぬ事態に巻き込まれて、俺だって不愉快で仕方ないのだから」
「悪かったよ。今度は、ちゃんとヴァルキューレの召喚かどうかを確かめるようにする。ところで、今度の命題は、日本なのだよ。行ったことがあるかね、仙台という、東の町なのだが、すでに召喚されているアトラ・ハシースの軍師をする、という仕事らしいのだよ。面白そうだから、行ってみようと思う」
「そうか。出番になりそうなら、呼んでくれ」
わかった、かならず呼ぶよ、と約束した孔明であるが、まさか召喚された世界が、閉ざされた12月を繰り返す、呪われた仙台であるなどということは、この時点では二人とも、まだ知る由もないのであった。
※そして「ずんだGAME」につづく…