七夕フェスタ企画 コバ様よりリクエスト作品
砂漠のエデン
参
「オレンス、オレンス」
深みのある声に呼ばれ、オレンス、ことトーマス・エドワード・ロレンスは、砂地の上でゆっくりと目を開いた。
ベドウィン族は、ロレンス(Lowrence)の『ロ』をどうしても発音できず、彼を「オレンス」と呼んだ(ちなみに日本語でカタカナ表記をするならば「ローレンス」のほうが発音に近い。ロレンス「lorence」という表記の姓もあるからで、日本の苗字でいえば、「大野さん」と「小野さん」くらいの違いである)。
さらにベドウィンの独立運動を支援する彼は、畏敬の念をこめ、定冠詞にも似た「エル」を頭につけ、「エル・オレンス」と呼ばれる。
つまりは、「ほかならぬ、あのオレンス」という強調をこめた名なのである。
しかし、ロレンスの盟友であり、ベドウィン族を代表して、なにかと面倒をみてくれるハリト族の若き族長アリ・イブン・エル・フサインは、ロレンスの、もっともベドウィンを理解しているがゆえに、本国イギリスの思惑とのはざまで揺れ動いている、微妙な立場を理解しているため、あえてエルをつけずに、ただ、オレンス、と呼んだ。
砂漠の風が岩に風紋をのこしていくように、この地の者たちの顔立ちは、目も鼻も口も顎も、すべてがそこにあるのだと主張しているように、大作りである。
このアリも同様で、義兄のファイサルの、人と人のあいだに揉まれて生まれた表情をつくる男とはまたちがう。
族長として、砂漠そのものと格闘してきた男だ。清潔な顔をしているな、と思う。
ロレンスは、このベドウィンの長の怜悧さと、剛毅さと勇気を高く買っており、好んで彼と行動をともにした。
「何を笑っている。怪我はなさそうだな」
アリの不機嫌そうな声にも、ロレンスは表情をかえず、いたずらな妖精のような笑顔で、砂漠に仰向けになったまま、アリに答えた。
「この通り無事さ。ほかのみんなはどうした?」
「あきれたことに、馬も駱駝も人間も、だれひとり欠けてない。あんたのイギリス兵もだ。みんな、風の精霊(ジン)が助けてくれたと言っている」
「ジンでもゼフィロス(ギリシャ神話の風の神)でもなんだっていいさ。奇跡の竜巻によって、わたしたちは遠い地へ運ばれてきたのだ。もしかしたらわれわれは、アフロディテのごとくキプロスに流れ着いたのかもしれないぞ」
仰向けにあおいだ空には、飛び込めばどこまでも沈んでいけそうな、雲ひとつない蒼い空がひろがっていた。
「残念ながら、地中海のまばゆき波の穂は見えぬ。ここにはいつもの面子ばかりさ。さあ、馬鹿ばかり言っていないで、立ってくれ。みんな混乱しきっているんだ。あんたの言葉でなけりゃ、連中は言うことをきかない」
アリは、こちらの自尊心をくすぐるのが上手だな、と笑みをこぼしつつ、ロレンスは起き上がった。
音も立てずに、黄色い砂粒が、真白い衣裳から落ちていく。
歩を進めようとして、その裾先に足をとられて倒れそうになり、アリがすかさず手を貸してくれた。
「今日は、なんだって、そんな衣裳で出撃したんだ」
と、アリは胡散臭いものを見るような目つきでロレンスを見た。
ロレンスはそれには答えず、ただ、意味ありげな笑みを、にっ、とアリに向けてみる。
ファイサル王子から贈られた、花婿のための白い衣裳であるが、ロレンスは、この特別な装束を、好んで着用し、ベドウィン族の前に立った。
自分が特別なもの、遠方からやってきた、彼らを救うものとしての存在を、強調したかったのである。それは、なにもイギリスへの愛国心のなせるところではなく、ロレンス自身の自尊心からくる行動であった。
ロレンスは、アングロサクソンにしては足が短く、そのために、しょっちゅう、馬や駱駝から落ちた。
それに、砂漠の民の裾まである衣裳は、ロレンスには長すぎたため、たびたび足をとられていた。
しかもどんな戦中であろうと、成人男性は髯を生やすのが当然のなかにあって、いつも清潔に髯を剃っている。
小柄で、髯を生やさず、そのうえ新緑の季節のまばゆい光を凝縮したような、誰をも惹き込むうつくしい碧の瞳をしていたために、なにも知らない者からは、男なのか、女なのか、と問われたこともあるし、だれかの稚児だと勘違いされたこともある。
本人は、それでも、性の曖昧な姿でいることを好みつづけ、つねに清潔であることに拘った。
まるで禁欲的な僧侶のように。
ロレンスの母親のセアラは、不倫の果てに夫を得た、という経験から、異常なまでに、おのれの家族に対し、恥の意識をもっており、おのれの贖罪のため(つまり、本来ならば幸福の授かり物である子供というのは、彼女には、罪の果実にほかならなかった)息子たちを全員聖職者にしたがっていた。
母の望みに従ったのは、長男だけであったが、ロレンスもまた、別な意味で、セアラの要望を受け入れていたといってよいだろう。
ヒステリックな母の元、絶対的な処女性に対する服従と、清潔さを徹底的に教え込まれてきたがゆえに、彼にとっての恐怖は女性であり、女性のない戦場は、むしろ恐怖のない世界といえた。
危険や苦難や忍耐は、むしろ彼の快楽であり、彼はその点、もっとも戦場に向いている人材であったといえよう。
人を殺すことへの罪悪感や苦しみは、勝利への快感を思えば、実にちっぽけなものであった。
のちにオデュッセウスの翻訳を成し遂げるほどに怜悧な彼であったから、おのれの内面のゆがみには、だれよりもいち早く気づいていた。
当代、話題になっている、フロイトやユングを持ち出すまでもなく、ゆがみの原因は母にあり、母を想起させるものを、嫌悪するがあまりの歪みであることも、理解していた。
母は、男女の結びつきを『不潔』といい、自分の過ちを、子供たちにさせまいと必死になっている。
アルコール中毒で母を亡くし、若く美しい女性ながらも、家庭教師として必死にひとりで働かねばならない。
やっとめぐりあえた運命の相手は、ほかならぬ妻子持ち…雇い主の主人であった。
駆け落ち同然で結婚したものの、なんの咎もない妻と娘たちから父親を奪ったのだという罪悪感に耐え切れず、それをセアラは息子たちにそのまま押し付けたのだ。
ロレンスは母を憎悪しつつも愛していた。
だからこそ、彼は、この世でもっとも清潔な砂漠の世界にいるのである。
ここでは、彼の心身は解放されている。
清らかで、無垢な、うつくしい世界。
ロレンスたちが、あの奇妙な竜巻によって、どこに運ばれてきたのか、場所を特定することは困難をきわめた。
ロレンスがはっきりと覚えているのは、ダイナマイトが爆破した際に、まるで黄色い水のように、砂が大気に舞い上がり、列車が倒れた光景と、その直後、列車の屋根に黒い衣をまとった何者かが、立っていた、ということだけである。
遠目で、しかもこちらも馬上であったから、その者の顔はおぼえていない。
白人や、トルコ人、ベドウィンともまた違ったようである。
ロレンスは、考古学に造形が深い若者であった。あの黒い奇妙な長い衣は、中国人のもののように見えた。
だが、そいつがなぜ列車の屋根に上っていたのか、そしてなぜ自分が、こうもその者に強烈に惹かれるかがわからない。
ロレンスはある種の、鋭敏で独特な感覚でもって、おのれの運命を変えることがらに、目ざとくきづくことができた。
あの古代中国人のような人影が、何者かはわからないが、自分にとって、なにか未来が変わるものが訪れようとしている、ということだけは受け入れた。
恐怖はない。
もともと、ロレンスには、恐怖という感覚が欠如している。
度重なる落馬の所為ではあるまい。
彼は、彼自身の肉体への苛虐に快楽をおぼえる傾向にあったのだ。
もっとも、このひみつの性向は、まだ彼の意識に表面化されていない。
「オレンス、だれか来たようだ」
アリに言われ、ロレンスが振り返ると、駱駝に乗った、ひとりの黒いチャドルの女がいた。
女が一人でいる、ということは、この砂漠においては異常事態である。
女は一族の大切な財産であり、その財産が勝手にひとりで行動してはならない。
女は、黒いチャドルの内側から、まっすぐにロレンスを見つめていた。
最初は、女、ああ、なんだって女がこんなところに、と、ロレンスは嫌悪をおぼえて思った。
つづいて思ったのは、もし何らかの事情で一族とはぐれた女なら、アリによく言って、保護してやらねばならないな、ということ。
逃げてきたというのなら、また話はややこしくなる。
こちらに敵意はない、という意味でロレンスが手を挙げると、女もそれに倣って手を挙げた。
しゃらり、と豪奢な金色の腕輪の鳴る音が、透明な大気に伝わってきた。
「なぜ、ここに?」
と、ロレンスはベドウィンのことばで女に話しかけた。
しかし、女はことばが通じないのか、首を傾げる仕草をしてみせる。
隣にいたアリと顔を見合わせ、女のほうに歩み寄ると、女はそれに合わせて、駱駝から降りてきた。
アリのほうは警戒し、いつでも腰の剣を抜けるようにしている。
チャドルの奥にある、女の瞳が、ロレンスを見て、微笑んだ。ように、見えた。
ロレンスは、それこそ生まれて初めて、女という生き物の瞳に惹き込まれた。
なんと魅惑的な、そして神秘的な瞳であろう。
それは征服感を煽りたてる類いの感動ではなく、世にも稀な美しい自然の光景を見て、心を揺さぶられるのに似ていた。
「あなたは、なぜ、ここに?」
今度はトルコ語で問いかけてみた。
わずかに通じたらしい。
女の双眸の笑みが、さらに濃くなり、そして、おどろいたことに、女は顔の覆いを、ためらいもなく脱ぎ去った。
その顔を見て、ロレンスは、おもわずたじろいだ。
黒いチャドルからあらわれたその顔は、母セアラにとてもよく似た、美しい顔であった。
「朝だ」
ようやく戦車酔いから立ち直りつつある孔明は、戦車の砲塔から顔を出し、周囲を見回す。
風の精霊(ジン)の置いてくれた目印は、夜は月光で光り、朝は曙光に光り、太陽が昇りきると、陽光に輝いた。
孔明は、霊力を得るために砲塔から一面みわたすかぎり、砂と岩と青空の大地に吹き抜ける風を味わって、ぬばたまの髪を泳がせ、心地よいのか、声をたてて笑った。
アストラルが、アトラ・ハシースの霊力によって受肉した場合、アトラ・ハシースがつねに側におり、その霊力が尽きない限りは、食事や排泄などの肉体的な制限から解放され続けている。
しかし、アトラ・ハシースは不便なもので、受肉し、世界に来臨するのが大前提であって、食事や睡眠を摂って、ある程度、肉体回復をしなければならない。
これは不確かな情報であるが、大昔のアトラ・ハシースたちは、アストラル同様に、すべての肉体制限から解放された、純粋なる霊力の塊であったという。
が、その力があまりに巨大なために、世界のバランスが崩れることがあり、いまのように、来臨時は受肉させ、只人とおなじように、肉体という枷を加えた、という。
おかげで孔明は戦車酔いするわ、水を得なければならないわ、食事を摂らねばならないわで大忙しである。
ちょうど戦車の中に、本来の搭乗員のものとおぼしき乾燥パンがあったので、それを失敬し、水は、途中にあった井戸から、こっそり拝領した。
黄色い砂地のうえに、キャタピラの跡をつけて先に進んでいくと、やがて、ぼた餅をふたつ、ひっくり返したような岩山のあたりに、吹き飛ばされたものと思しきベドウィン族およびイギリス軍が、一夜明けてもなお、混乱の最中にいた。
どうやら、飛ばされた位置がわからず、ああでもない、こうでもないと論議を交わしているらしい。
「どうする。一発ぶっぱなして、ロレンスを出せ、とやるか?」
趙雲が尋ねると、砲塔から顔を出し続けていた孔明は、答えた。
「過激なことはやめよう。どれがロレンスかな」
「顔はわかるのか」
「ピーター・オトゥールに似た顔を捜せばいいのさ。映画の「アラビアのロレンス」の主役を勤めたピーター・オトゥールは、実際にロレンスの縁戚だったから、写真で見るロレンスよりも、実物にとてもよく似ているそうだよ。足は断然にピーター・オトゥールのほうが長いけれど」
と、孔明は砲塔の上から目を凝らす。
この時代の、感度の悪い双眼鏡を持ち出すまでもなく、アトラ・ハシースの霊力でもって、あまたいる人々の中から、ロレンスを探っているのである。
そうして、どれかな、あれかな、と、黙るということを知らないアトラ・ハシースは、まるで唄うようにして、ロレンスの気配を探っていたが、やがてぴたりと口を閉ざした。
緊張した気配が、運転台にいる趙雲にも伝わってくる。
「いたぞ…ついでにアサシンも」
いいざま、孔明は砲塔から飛び出して、砂地の上を、軽やかに、足音もつけずに、まさに風に乗用にして飛び出していく。
「肝心なときに、人を連れて行くことを忘れるな!」
悪態をつきつつ、趙雲は戦車のエンジンをふたたびかけると、ロレンスたちのいる場所へと向かって行った。
ロレンスは、言葉をなくして、母セアラに似た、チャドルをまとう白人女を見つめていた。
目が離せなかったのである。
そうして、自分が、どうして砂漠にいるのか、その本当の理由が、内側から雨雲のように、不愉快さをもって、もやもやとわきあがってくるのを感じていた。
母を恐れていた。
母に代表される女という生き物が恐ろしい。
『文明社会』にいれば、女とはどうしても接しなければならなくなる。
だから、遺跡発掘や、戦争にかこつけて、砂漠に逃げてきていた。
古代ギリシアの男たちの気風が、どこかに残っているこの土地、そして男たちのなかにいれば、自分の異様さは目立たない。
ところが、ここまで女は追いかけてきた。
この清く美しい世界にも。
ロレンスは、自分がいま抱いているものが、強すぎる己への嫌悪感なのか、それとも単純に、女に母を重ね合わせて殺意をおぼえているのか、わからなくなっていた。
となりで、アリがなにかを言っているようだが、耳に入らない。
ロレンスの碧の瞳は、すっかり目の前の女に繋がれていたからだ。
「恐れることなど、なにもないの」
と、不意に女が口を開いた。
安心したことには、その声は、母セアラの、唐突にヒステリックになる、あの声とは似ても似つかぬ、おだやかで優しい、包み込むような調子のものであった。
「怖かったでしょう、もう、大丈夫よ」
と、女は、長く留守番をしていて、親の帰還を待ちぼうけていた子供をなぐさめるかのように、やさしく言いながら、手を伸ばし、砂漠にあってはなお目立つ、ロレンスの金色の髪をなぜた。
「いらっしゃい、わたしと一緒に。わたしはあなたを拒んだりしない」
「ここにいれば、拒まれることなんてない」
ロレンスは、反射的に女のことばに反駁していた。
だが、女は慈愛のまなざしでロレンスを見つめ、唇にはおだやかな微笑を湛えたまま、首を横にふる。
「いいえ、あなたは、すっかり判っているはずよ。母親からは恐怖しか与えられず、心を許せる友もおらず、軍隊内では浮き上がり、母国はあなたの名前を利用はしても、ベドウィン族の誇りなど意に介さず、その屍をあしもとに、平気で裏切っている。
あなたはぼろぼろに中身の崩れてしまった、かわいそうな人。疲れ切っていて、砂漠に夢を託しすぎている。ここは、あなたの望むような、楽園じゃないわ。誤魔化してはだめ。託す夢が大きければ大きいほどに、あなたは、大きく引き裂かれてしまうのよ」
「それはあくまで、基本世界での話だろう」
己の縛られた意識を、明快に断ち切るような凛とした声に、ロレンスはようやくおのれを取り戻した。
見ると、女のすぐ後ろに、背の高い東洋人が立っていた。
母国の軍服を身にまとってはいたけれど、軍人ではないことは、砂漠の風に揺らめく、長すぎる黒髪でわかった。
真珠のように光沢のある白い肌に、烏の羽よりなお黒い、漆黒の髪をもつ、なにより、背筋があわ立つほどに澄明で力のある双眸に、ロレンスはつよく惹かれた。
と、同時に、自分と似たものの気配をおぼえた。
男でも女でもあろうとしないもの。
禁欲をおのれに強いているのではなく、その生き様が自然と禁欲しているようになってしまう類の、生まれついて清い、おおいなる祝福と呪いの両方を背負った、稀な宿命をもつ者。
「遅かったわね。砂漠で干からびたかと思っていたわ」
と、女は、孔明の登場にも、怖じることなく挑戦的に言って、笑った。
「まずは謎解きだ。列車内のどこにいた?」
「いたわよ…こちらだって、姿を変えることができる、ということを忘れないでほしいわ。貨物車両の、家畜としてね」
「先にそちらを調べるべきであった、というわけか。では、次いで尋ねる。貴女の名は?」
「名乗ると思う? 手の内を知られてしまう。馬鹿馬鹿しい質問は、感心しないわね、新米さん…諸葛孔明、でしょう? 発音しにくい名前ね」
孔明は、事態の悪さに言葉を無くした。
こちらの正体が割れたところで、恐ろしくはない。
それだけ、孔明は自分の力に自信があった。
だが、この女のアトラ・ハシースが、かなり古い霊格らしい、ということがわかったからだ。
しかも、かなり特殊な力を持っている…
孔明がうろたえたのを見て、女は楽しそうに、鈴のような美しい声で笑った。
「あなた、有名だもの。わずか千八百年のあいだに、馬車馬みたいに働きまくっているアトラ・ハシースがいる、って。たしかに、あなたの力は強力だし、貴重だから、呼び出される回数も高いのでしょうけれど、どうしてそこまで熱心に、人のために…それも、どこのだれのためだかわからない、不特定多数のために、力を揮うことができるのかしら?
わたしには真似できないし、真似しようとも思わない。わたしが力を使うのは、そう、愛する人のためだけよ」
と、女は、慄然とするほど、生まれたてのわが子をのぞき見る母のような顔を、ロレンスに向けた。
ロレンスはといえば、一時は孔明の声によって意識を取り戻したものの、女の言葉には、なんらかの作用があるのか、ふたたび金縛りに遭ったように、動きを止めてしまっている。
孔明の視界の端で、勇敢なアリ・イブン・エル・フサインが、女に刀を振り上げようとしているのが見えた。
孔明は、動かぬまま、素早くそれを制止する。
「ハリト族の若き長よ、この女は只人ではない。そなたは手を出してはならぬ。そなたにまで何事か起これば、また歴史は歪む」
「歪む…ね」
孔明の言葉尻をとらえ、女は意味ありげな笑みをこぼした。
「ところであなたの属性は風雷。これからどうするの? 雷を落として、わたしだけを狙い撃ちして消滅させる? それとも疾風で切り裂く? それとも宙高くに飛ばして、岩山に叩きつける?」
そのすべてを実行することは可能だ。
霊力は十分であるし、なんら制限はない。
相手はひとり。
ロレンスをすぐさまかばい、女だけを攻撃する…
だが、なぜか孔明にはためらいがあった。
女に余裕がありすぎる。正体がまるで読めない。
攻撃型アトラ・ハシースは、たいがいの場合において有利に立てるのだが、たまに防御型アトラ・ハシースというのがいて、異常な俊足の持ち主のため、捕らえることができないだとか、やはりおなじ風属性で、どんな攻撃をも撥ね退ける盾を作ることができる者などが存在する。
そうなった場合、アトラ・ハシースは、ほぼ無力となってしまう。
これをカバーするのがアストラルで…しまった、戦車に置いてきた。
おお、と遠方から歓声があがり、見ると、孔明が吹き飛ばしたもののうち、イギリス兵が喝采を挙げている。
キャタピラの音を響かせて、戦車がやってきたからだ。
乗り手も今回、すべて吹き飛ばしていたから、よろこんでいるイギリス兵たちは、援軍がきたものと勘違いしているのだろう。
戦車をちらりと見て、女はアストラルの気配を感じ取っているだろうに、余裕の笑みを見せたまま、つづける。
「アストラルは一人きり。えらいわね。ちゃんと、あの指示をまもった、というわけ」
「あの指示、だと? なぜヴァルキューレからの指示を知っている?」
その質問には答えず、女は赤い唇を、思い切り邪悪にゆがめて見せた。
戦車の砲塔がひらき、趙雲がこちらにやってくるのが背後の気配でわかる。
孔明は、あらためて女を見た。
波打つ黒髪に、太陽に光る海原を、そのまま凝縮させたような紺碧色の瞳、神秘的な笑みをうかべた、不思議な女。
感じる霊力はさほどつよくない。
ヴァルキューレは、もはや霊格云々を突き抜けた存在であるから、こんなに感知できる霊力が弱い、などとは考えられない。
そもそもが、アトラ・ハシースに、アトラ・ハシースを消滅させよ、という、命題自体が奇妙であった。
ヴァルキューレは、基本的に、自分の管理する世界で、争いごとが起こることを好まない。
まして、時空に影響を及ぼすことすらあるアトラ・ハシース同士の争いは、なおさらだ。
まさか、と孔明は灼熱の砂漠のうえで、つめたい汗をかいていた。
アリは、新たにやってきた、イギリス兵の格好をしているが、どう見ても東洋人、という長身の男の登場に、さらに顔を険しくしている。
趙雲はといえば、その殺気には頓着しない。
アリは非常に誇り高い男であり、喧嘩を売られれば、理由はともかく、必ず買ってくるタイプである。こんな状態で、只人と喧嘩をしている場合ではない。だから趙雲は、あえてアリのむけてくる敵意を無視したのである。
「このことは、ヴァルキューレの知らないことなのか?」
「莫迦な、アトラ・ハシースを呼び出すことができるのは、ヴァルキューレだけだぞ」
趙雲が言うと、女はさらに高く声をたてて笑った。ひどく耳障りな、海鳥のような笑い方であった。
「いままで、仕事をこなしてきたとはいうけれど、ずいぶん仕事を選んでいたのではなくて?」
「なんだと?」
趙雲がさらに噛み付こうとするのを、孔明は手で制した。
「聞いたことがある。世界の一部は、ヴァルキューレのように盾持つ乙女たち以外に、魔女の管理する場所もあるのだと。魔女の霊力は低い。しかし、特殊な力を持ち…そうだ」
孔明は、はっきりと思い出した。
最高府は、存在だけが確固としてある。
実際にその権限も高く、その使者を名乗る者たちも多い。
それなのに、どこにあるのか、何者が運営しているのか、彼らの意思決定の、そもそもの基準がどこにあるのか、わからないことだらけなのである。
世界は、『最高府』の意向を受けたアトラ・ハシースと、おのおのの汎世界を管理する『ヴァルキューレ』(アプサラス、モイライ、などとも呼ばれているが)の連動によって、動かされている。
だが、最高府の意向により、盾持つ乙女たちが管理しない世界が存在する。
その世界を管理するのは魔女である。
ただ、最高府が、なぜほかの世界と切り分けて、魔女に世界の管理を任せるのか、それは不明だ。
そして、その世界で魔女がなにをしているのか、そもそも、盾持つ乙女と、どう違うのかすら、わからない。
ただ、ひとつだけはっきりとしていることは、魔女の管理する世界は、軸がずれている。
「魔女はアイオーンの乙女たちと呼ばれ」
孔明は、魔女から一歩、後ずさる。
彼女が何者か、その固有名詞はわからないけれど、魔女という身分さえあきらかになれば、もはや抵抗すら意味がない。
後退するかたちで、ゆっくりと手を広げ、背後にやってきた趙雲を庇う体勢をとる。
魔女の、紺碧の瞳から、すこしも目を逸らさずに。
「彼女たちは、時間を自在に操作する」
そのとおり、と魔女は邪悪に笑い、そうして、傍らにいる、動けないでいるロレンスのこめかみに、隠し持っていた銃を突きつけた。
一瞬のことである。
孔明はとっさにかまいたちを発生させ、引き金を引かんとする魔女の腕めがけて攻撃を仕掛けた。
たん、と砂漠の空に銃声がひとつだけひびく。
銃弾は、ロレンスのこめかみをぎりぎり掠めて、銃は、魔女の腕もろとも砂のうえに落ちた。
悲鳴はなかった。
魔女は悲鳴をあげることも、蹲り、痛みに泣くこともなく、ただ静かに透明に、自分の斬られた腕を見ていた。
孔明のほうも、ロレンスを救ったというのに、まったく達成感や手ごたえがない。
銃を持ち出すくらいなので、彼女自身の霊的な攻撃手段はないわけだ。
だが、異様な緊張感がその場を支配していた。
つぎに、魔女がなにをするのか、孔明にはさっぱり読めなかったのである。
孔明の背後にいた趙雲が、すぐさま飛び出すと、ぼう然としたまま、蝋人形のようになっているロレンスを引っ張り、自分たちの背後に庇った。
「そうね、やっぱり彼は、この時点ではもう、破滅に突き落とされてしまうのよ」
と、魔女は、自分の切り落とされた腕を、まるで地面に描かれた不思議な落書きを見ているかのように、じっと見つめたまま、まるで他人事のようにつぶやいた。
「仕方がない。『戻す』しか」
魔女はそういうと、黒いチャドルを風に躍らせて、自身がまるで渦の中心になったかのように、孔明すら聞いたことのない言葉で、不思議な呪文を唱え始めた。
それは聖歌のようであり、すすり泣きのようでもあり、悲鳴のようにも聞こえた。
とたん、砂が一斉に巻き上げらる。
孔明は、背後にいる二人と、すこしはなれたところにいるアリ・イブン・エル・フサインを、風の防御魔法で砂から守った。
防御魔法自体は、そうむずかしいものではないし、巻き上がる砂自体に、攻撃性はないようである。
だが、孔明は目の前の光景が、信じられなかった。
防御魔法自体に失敗はなかった。霊力も十分であったはずである。
なのに、目の前にいるアリ・イブン・エル・フサインは、まるでジグソーパズルが崩れていくように、徐々に徐々に、その姿が風に吹き飛ばされ、消えているのである。
「孔明!」
趙雲に鋭く呼ばれ、振り返ると、趙雲にはまったく変化はないものの、その庇っている、ロレンス自身もまた、アリと同じように、徐々に徐々に、その輪郭が、砂に吹き削られるようにして散ってしまっているのだ。
そうして、いつの間にか、彼らのそばに、魔女の姿がなくなっていることに気がついた。
※次回、番外編、いよいよ最終回。お楽しみに(^^ゞ