七夕フェスタ企画 コバ様よりリクエスト作品
砂漠のエデン
弐
匂い、というものがある。
やはりそれぞれの国には、それぞれの匂いがあるのであるが、バクダット鉄道の有色人種車両に充満する匂いは、羊肉の匂い、慣れぬものには生臭い匂いが充満していた。
大荷物を背負った商人や、妻子を連れて移動する暗い顔をした(なぜだか趙雲には、アラブ系の目鼻立ちの大きなひとびとの顔は、どれも悲しそうに見える)家族、なかには植民地にいる西欧人に売りつけるための極彩色の鳥や猿を檻に入れた男などもいて、まさに雑多、というにふさわしい。
このなかから、性別・年齢・国籍ともにすべてが不明なアサシンを探す、というのは至難の業である。
しかも、女は古式ゆかしい習慣に従って、真っ黒なチャドルで身を包んでいるために、目だけしかわからず、こうなってしまうとお手上げである。
イスタンブールなどの大都市に行けば、おなじイスラム圏でも、この戒律もだいぶゆるくなり、さまざまな色のチャドル、あるいは顔を出した女性を見ることができるそうであるが、このベドウィン族が大半を占める砂漠のど真ん中では、やはり身の安全を考えて、目だけをだしたチャドルの女性が大半だ。
孔明に言えば怒るであろうが、孔明くらい中性的な顔立ちをもつものが、たとえばアサシンであった場合、男だとしても、小柄であったら、チャドルで隠れていた場合、見た目だけでは、もうわからない。
胸元のタツノオトシゴ(本人は龍だ、と言い張るが)は、なるべく女に近づけ、でなければ霊査ができない、というが、ドイツ人将校が女に近づくと、男女の戒律のきびしい世界では、なにかされるのではないかという恐怖心がつよくはたらくらしく、ほかの男たちが、女をかばうようにさっと寄ってきて、剣呑な眼差しで見つめてくる。
孔明は素早く、これはちがう、あれもちがう、と判断してくれるのであるが、たった一車両を回っただけで、趙雲(とりあえずカール・ハインツ・シュナイダー)は、くたくたになってしまった。
「思うのだが」
『なんだね』
「こういう作業は、愛想がよくて口のまわるやつのほうが適しているぞ。姜維とか、費褘とか」
『しかし連中は臨機応変さというものに欠けているし…どうも正義感が強すぎていけないのだよ。子龍、わたしはあのとき、帰ろうとしたあなたの判断は正しいと思っているよ。わたしと同化して命題をこなそうと躍起になってしまう者は、ダメだ。共倒れしてしまうもの。だから、わたしを止めてくれるあなたが一番いいのだ』
そうか、とだけ趙雲は言って、なんとなく車窓の外を眺めた。
それ以上言葉を発せば、照れてしまって、どうにもならなかったからである。
砂漠の真ん中、といっても、そこにあるのは砂だけではなく、点在するオアシスや、異様な存在感を見せる岩山が見える。
オアシスでは、ベドウィンの娘たちが、燃料にするための家畜の糞を拾っているのが見えた。
バクダット鉄道はドイツの資本により1903年に敷設された。
これには、敵対国であったイギリスも、貿易面から必要であるとして支援していたのだから、皮肉なものである。わずか二十年もしないうちに、同国人のロレンスが、この鉄道を破壊しまくってしまうのだから。
「残るは白人車両だけだな」
と、インド人らしきターバンを巻いた兵士が、その入り口を守る車両の前に趙雲は立った。
ここから先のコンパートメントには、有色人種は足を踏み入れることができない。カラードおことわり、の絵文字の看板を投げ捨ててやりたい感情に捕らわれながらも、趙雲は傲然とした態度でもって、あやしまれないように白人車両の中に入った。
まず、あきれたのは、車両の内装の違いである。
有色人種専用コンパートメントの雑多さ、汚さ、異臭とくらべれば、これはおなじ線路を走る列車の車両とは思えなかった。
向かい合う、豪奢な革張りの座席に、車窓にかかる、趣味の良いカーテン。広い通路、天井にかかる、絢爛としたシャンデリア、壁にあるアール・デコ調のすずらん型ランプ。
ゆったりとした態度の、上品そうな乗客たち。葉巻の匂いは如何ともしがたいが、そこにあるのは猥雑な喧騒ではなく、古きよきウィーンのカフェに流れる趣味のよいピアノ音楽でも聞こえてきそうな、優雅な東洋の旅をたのしむ西欧社会の姿であった。
おもわずうろたえ、足が進まなくなる趙雲に、タツノオトシゴがしかりつける。
『らしくもない。堂々と進め! ただ単に、こいつらは色素が薄いというだけの話だぞ。よし、元気の出る話をしてやろう。最近のDNA検査において、ヒトという種を運動能力や知能などで総合して比べた場合、もっとも優れているのは黒人で、次に東洋人、中東人、最下位は白人だった。
アルビノというものは、弱い。つまりは白人も、同様ということだ。いまは威張っているけれど、ワットが妙なものを開発するまでは、われらが文化的にも優位であったのだぞ。たかが百年のあいだに伸し上がったなりあがり者の嫌味な世界に怖じるな。それでも気が晴れぬというのなら、こいつら全員、貧血だと思えばよかろう。ゆけ!』
「お前は、本当に前向きだよ」
呆れなかばに、趙雲が通路をすすむと、おなじドイツ人らしい紳士が、目が合うと会釈をしてくる。
趙雲はかなり無理をしつつ愛想を浮かべ、コンパートメントの乗客のひとりひとりに、さりげなく近づいて行った。
しかし、孔明から、期待している「こいつだ」の声は聞こえない。
ギリシア正教会の一団と思しき、年老いた山羊を思わせる凄まじい髯の一団もいたが、これもやはり、なんらかの霊力を感じさせるものの、アトラ・ハシースではないことはまちがいない。
アトラ・ハシースの霊力ともなれば、ちょっとすごいな、程度のものではない。それこそ数メートル先からでも、電気に打たれたように、びりびりと感じるものなのだ。
「おい、これで最後の車両だぞ」
『途中でこちらの気配に気づいて、下車したのか? それとも、ほかに見落としがあるのだろうか。まさか、機関士、ということはなかろうな。機関車両へ行こう』
孔明の指示に従い、ドイツ人将校カール・ハインツ・シュナイダーは、(孔明の頭の中では、ドイツ貴族の若き少佐という設定になっているらしいが、シュナイダーというのは『仕立て屋』という意味の姓名であり、貴族であるはずがない。そのあたり、趙雲はあえて目をつぶり)板についている、いかにも将軍、といった雰囲気だけでおしまくり、渋る車掌をつかまえて、機関部に入った。
まさか、と思ったが、案の定、技術好きの孔明は、このレトロな列車の機関部におおよろこびで、車掌や機関士たちに聞こえないよう、おおはしゃぎで、あの釜に石炭をくべてみたい、などと呑気なことを言っている。
もしも孔明が受肉したとして、懸命に釜に石炭をくべる機関士と交替した場合、おそらく三分ともつまい。
そうして腹を立てて、風でこんなもの走らせてやる、といいかねない。そういうやつだ。
機関士はアラブ人がやとわれており、車掌はドイツ人なのである。
しかし孔明の霊査によれば、そのどれもが、アトラ・ハシースではないのであった。
「もうほかに誰もいないぞ」
『どこかに隠れているのかもしれぬな。貨物列車を見るか…でなければ、洗面所もすべてだ』
貨物列車には、羊やら小麦やら詰められており、中身のよくわからぬコンテナもあった。
それらをひとつひとつ、となるとたいそうな手間である。
それに、鉄道はすでに、終点バクダットまで半分を進んだ距離にまで来てしまっている。
『知恵の七柱をよく読んでおけばよかった。あれを読めば、今日の日付に照らし合わせて、ロレンスが、どのあたりで列車を爆破するかわかったのに』(注・「知恵の七柱」はロレンスが戦後に、自分の功績を備忘録を下に書き上げた書物で、一般に文庫で出回っており、よく読まれているほうの『砂漠の叛乱』は『知恵の七柱』を編集者がいいとこどりした、ダイジェスト版にあたる)
タツノオトシゴがぼやくので、趙雲はしかる。
「あんな、ぶ厚くて回りくどくて、同性愛奨励の、三冊もある本をこまかく覚えてなんぞおられるか」
『そう言う、ということは、読んだのだのだな。あれの冒頭の七行詩だっけ? S.Aに宛てた 『I Loved You…(我御身を愛す)』からはじまる詩は美しくて好きだが』(詩を捧げられたS・Aについてはいまだに諸説あり、シリア・アラビア説が有力であるが、ロレンスの愛したアラブ人少年ではないかという説もあり、知るのは本人ばかりなり)
「余計な部分はともかくとして、砂漠における戦術書としては最適だからな。アラブ人と戦う軍人ならば、あれは必ず目を通すべきものだ」
『あなたは、本当に真面目だよ。いざとなったらいつでもどこでもいけるように、ちゃんとそういう本を読んでいた、ということか。うむ、知の貯金ほど、役立つものはほかにない』
余計なおしゃべりはともかく、と貨物列車へ移動しようと機関部を出ようとしたまさにそのときである。
どおん、という轟音と共に、砂が大波のように機関車を襲い、列車そのものが、まるで矢を射掛けられ、のたうちまわる大蛇のようにおおきくうねった。
自身もはげしく壁に打ち付けられながらも、アラブ人の機関士が喝采を叫んだ。
「やったぜ、エル・オレンス!」
「なにがエル・オレンスだ! 自分の列車が爆破されたんだぞ! このくそ野郎ども!」
車掌は悪態をつきながら、身を起こし、軽い脳震盪を起こしているのか、ふらふらとしながらも気丈に立ち上がり、車窓の外を見る。そして、とたんに顔を強ばらせた。
おなじみの、ベドウィン族のホウ、ホウという掛け声とともに、駱駝に乗った勇壮な部隊が、三日月刀を砂漠の光に照らしながら、どどっと押し寄せてくるところであった。
『子龍、中央!』
みると、その黒一色の装束を身にまとったベドウィン族の中心にあって、真っ白な衣裳を風になびかせた白人が、小ぶりの駱駝にのってやってくる。
ファイサルから贈られた、花婿用の白い衣裳を好んで身にまとっていた、T・E・ロレンスその人である。
「くそっ、中央指揮官が堂々と、ど真ん中にやってきた! その勇気は誉めてやりたいが、場合が場合だ。どうする!」
『おかしいな。ロレンスというのは、いつもダイナマイト爆破を専門にして、車両を襲うのはベドウィンに任せていた男なのに。それはともかく、もう間に合わぬ。アサシンの気配はわかるか?』
「それらしき者の姿はない」
『仕方ない。戻る!』
そういうと、孔明はすさまじい電光とともに、タツノオトシゴよりふたたび元の受肉した姿に戻った。
西欧人にもアラブ人にも見慣れぬ、真珠のごとき白い肌に映える黒い衣を身にまとった謎の中国人の、いきなりの来臨は、機関部をただならぬ大混乱に陥らせた。
「天使! いや、悪魔か? ああ、神様、お助け下さい! Eile,mich Gott zu erretten,Herr,mir zu helfen!」
胸からロザリオを引き出して、あわれなほど必死に祈り始めた車掌に、孔明は怒鳴りつけた。
「やかましい、聖句なんぞ唱えたところで、アトラ・ハシースたるわたしが消えるか! おい、車掌、いまから車両へ行き、なにがあってもだれも表に出るなと伝えにゆけ! そこな機関士たちも全員だ!」
「あ、あんた…いや、あなたさまは、ジブリールさま?」
「いいからサッサと行くがよい! さもなくば、ゲヘナの業火に投げ込もうぞ!」
「業火!」
ぎゃあ、と言いながら、車掌と機関士たちは、あわてて車両のほうへ飛び込み、孔明の指示に従っている。
「おまえ…こんど受肉するときは、白い衣で出て来くるようにしろ」
「検討する。それよりも、アサシンの気配はまだないな」
「なにをする?」
「ぜんぶ吹き飛ばすのさ! あなたもどこかに掴まっているがいい!」
孔明のいつものやり方を熟知している趙雲は、言われるまま、すぐに機関部の丈夫そうな取っ手をぎゅっと掴んだ。
そうして孔明はというと、機関部の入り口からぱっと降り立つと、むささびのように華麗な速さで、横倒れになった列車の天井に上り、それから、横一列になって波状攻撃を仕掛けてくるベドウィン族に向かって、風を巻き起こす呪文を唱え始めた。
「ふるきもの、あたらしきもの、ひかりのもの、やみのもの、すべてに駆け巡る風よ、幾星籍とつらなる地において、うらみあるもの、かなしみもつもの、すべてを吹き払え! 風の精霊(ジン)よ、輩の声に応えよ!」
とたん、横倒れになった列車を守るかのように、砂の壁が巻き起こり、そしてそれが、逆巻く波のようになって、逆にベドウィン族に襲い掛かった。
それは、波のように引くことはなく、どんどんと力と大きさを増して行き、やがて勢いに乗って止まることのできないベドウィン族を巻き込んで、巨大な竜巻となって、ほんの一瞬のうちにすべてを空中に薙ぎ払った。
と、ここでベドウィン族と忠実な駱駝たちが地面に叩きつけられてしまえば、そこはまた修羅場が展開されるところであるが、砂嵐を直視していたものは、そのなかに、はっきりと、翼持つ人の姿を複数、認めたことであろう。
そして彼らが、宙に踊らされているベドウィン族と駱駝たちを引き上げて、彼方へと運び去る姿を見送ったはずである。
趙雲は、いまだ混乱と恐慌から脱け出せないでいる列車から、いちはやく、ひとり顔をだして、天井にすっくと立つ孔明に声をかけた。
「おい、ロレンスは?」
「とりあえず、この地の管轄者である風の精霊(ジン)に頼んで、元の安全な場所に戻してもらったよ」
「手元に置いて、保護してやったほうが、よかったじゃないか」
「……子龍、いまもってアサシンの気配を微力であるが感じる」
「どこだ?」
趙雲は、すばやくトリガーより銃を引き抜くが、あたりにそれらしき人影、あるいは物陰はない。
「思うに、こいつはわたしたちのように、風に乗ったり、操ったりするなどの力がなく、非攻撃型のアトラ・ハシースなのだ。あそこだよ」
と、孔明が指す方向には、いまや黒い点となって、砂漠の果てに消えていこうとする、疾走する駱駝のうしろ姿があった。
風を巻き起こし、数百にものぼるベドウィン族および、その背後に控えていたイギリス軍を吹き飛ばせるほどの力を持つ攻撃型アトラ・ハシースの孔明であるが、いまもって二千年以上の年数をこなしていないため、『新米』である。
一方、逃げるばかりの非攻撃型アトラ・ハシースは、いったいどれだけの古さをもつ霊格なのか。
アトラ・ハシースの力量は、もちろん、その個人の能力の高さによるものであるが、攻撃力・防御力・精神力・人格のすべてのバランスが取れていて、はじめて霊格が高いと認められるものであり、どれかが抜きんでて、ほかがダメ、というアトラ・ハシースはいくら年数が長くても、霊格は低い。
しかし理不尽なことに、年功序列というものがあり、いかに能力が高かろうと、二千年を越していないアトラ・ハシースはいまだ『新米』で、二千年を超えてから、ようやく『一人前』なのである。
『一人前』のアトラ・ハシースは、たとえ本人の力が弱くても、『新米』にはないような、思いもかけない能力を持っていることがある。
たとえば、『地中に深く潜れる能力』や『石からヒトを生じさせることのできる能力』などだ。
そういった特殊能力の保持者は、『神話時代』と呼ばれる時代に活躍した人々に多い。そうなると、『新米』たちはことを慎重に運ばなければ、思わぬところで足を掬われてしまう。
孔明も趙雲も、経験からそれを知っていた。
知っていたからこそ、趙雲は深入りをおそれ、孔明に言う。
「風に乗って追おう。それで終わりだ」
趙雲の提案に、孔明は首を降る。
「どうも妙だ。非攻撃型だということはわかったが、アサシンといわれるくらいなのだ。なんらかの攻撃方法を持っているはずなのだよ。どうして、暗殺を邪魔したわたしを攻撃することなく、さっさとロレンスだけを狙って逃げる? 無用な争いを避けた、といえばその通りかもしれないが、なにか嫌な予感がしてならない。ロレンスをわたしたちが守っている以上、アサシンは近づいてこない、つまりは、その力を出してこない、ということだ」
「では、どうする?」
「ロレンスを餌に、アサシンの正体をあぶり出す。そして、そもそも、この命題がなぜ出されたのかの答えも引き出すのさ」
「物好きだな。よほど、この命題の出題者に腹を立てているのだな。では、どこかで駱駝を調達しよう」
「駱駝? あの感じの悪い生き物?」
と、孔明は露骨にいやそうな顔をする。
どうやら過去に、駱駝にひどいめにあったことがあるらしい。
駱駝というのは、馬とちがって、なかなかに扱いの難しい動物だ。
なにより表情がかわいくないので、馬好き・驢馬好きの趙雲であるが、駱駝はいまひとつ好きではない。
「ほら、ちょうど精霊(ジン)が残してくれた、イギリス軍の戦車があるよ。あれでロレンスを追おう。足跡は風で追うことができる。駱駝のアサシンより早かろうし」
というわけで、孔明はひらりと列車から飛び降りると、イギリス軍の戦車に向かっててくてくと歩きだした。
一方の列車のほうでは、あれはジブリールだ、オスマントルコの力あるイマームにちがいない、いやいや、大天使ミカエルである(中国風なのは、きっとそういう気分だからなのだろう、とギリシャ正教会の僧侶は言った)、などなど、みなでアーメンだの、アッラー・アクバルなど口々に言いながら、二人の背中を見送った。
「孔明、おい、その格好、なんとかしろ。せめて俺と一緒にしろ」
趙雲の言葉に、うん? と孔明は振り返り、ようやく自分の格好のそぐなわさに気づいたようである。
「ああ、たしかにこれは不味いな。それに、あなたも不味い。イギリス軍の戦車にドイツ人将校が乗っているものか。それ」
ふたたび、孔明は趙雲と自分の衣裳を、ぱっとイギリス人将校の軍服に切り替えた。
ドイツ帝国の軍服よりはいささかくだけたデザインの、ドイツ帝国のものよりは薄いカーキ色の制服に、皿ヘルメットが特長のものであるが、孔明はさっさと皿ヘルメットを脱いでしまい、換気の悪い戦車に入って、駱駝よりまし、とつぶやいた。
「おい、おれの容姿は戻してくれないのか」
趙雲が不平を言うと、熱いらしく、軍人らしからぬことに上着の釦をはずしつつ、孔明は言う。
「それでよかろうが。わたしも、だれかが近づいてきたら、アングロサクソンのフリをするつもりだ。そうそう、あなたの名前であるが、ドイツ人ではなくなったので、カール・ハインツ・シュナイダーはとりやめにして、セシル・ローズなんてどうだ」
「だから、適当につけるな、と言っているだろう」
「ではジェームズ・ボンド。わたしは、そうだな、ジャック・ライアンにしよう」
「おまえな…」
「わかったよ、では、あなたの名前はジム・フェルプス。わたしの名前はブルース・ウェイン。それでよかろう」
「……今度、おまえに召喚されるときは、『幸運をまねく命名字典』を持ってくることにする」
「おや、わたしの命名法に問題が? とりあえずさっきの列車ではなにも起こらなかっただろう」
シリア砂漠の風の精霊(ジン)は、輩(ともがら)たる孔明のため、ロレンスをどこに運んだか、その道筋を、光沢のある石を辿らせることで教えてくれている。
その石は夜も光ってくれたので、趙雲は迷わせることなく、ロレンスのあとを追うことができた。
第一次世界大戦において、戦車というのは超最新兵器であった。その前線への投入は、1916年のことである。
趙雲がその最新兵器を運転できるのは、この世界が基本世界より百年ほど遅れている、というせいであり、趙雲は、この後ろで、駱駝の悪口をえんえんとつづけている孔明のために、いつどこで呼ばれてもよいように、たいがいの乗り物を運転できるようにしていた。
孔明は、駱駝に振り落とされたあげくに、前足で蹴り飛ばされて骨折したことがあり、しかもそのとき駱駝に唾棄された(要するに、駱駝のいつもだらしなくむにゃむにゃ動いている口の唾液が垂れただけなのであるが)のがゆるせず、駱駝が嫌いになったのだという。
そうして、夜の帳がおり、シリア砂漠の寒い夜がやってきた。
砂漠の気温差は激しく、昼は五十度を超えることすらあるというのに、夜には一気に零度にまで下がるのだ。
砂漠の生き物たちは、夜になると地中に穴を掘り、体温の蒸発を防ぐために、眠りにつく。
この極端な気温の中でぎりぎりの生活をしているベドウィン族というのは、毎日が荒行の連続といってもよいくらいだ。
だからこそ、異教徒からすれば意外なのではあるが、キリスト教やユダヤ教などよりは、ずっと融通が利き、人情味あふれている戒律をもつイスラム教が信奉されているのかもしれない。
駱駝がなんだ、とぶつぶつ言っていた孔明が、妙におとなしくなってきた。
寝たのかな、と思えばそうではない。どうやら酔ったらしく、青白い顔をして、気持ち悪そうにぐったりしているのだ。
まさに青菜に塩。こういうときの孔明が、じつは趙雲は好きである。静かだし、問題が起こらないからだ。
「受肉すると、ろくな目にあわない。どうしてアトラ・ハシースは受肉した状態で来臨しなければならないのだ? 最高府の戒律こそ、改善されるべきではないのか。ああ、気持ち悪い。空気は悪いし、汗臭いし、かといって寒いし、メチャクチャだ。なぜヒーターがないのだ」
「この時代の戦車になにを期待する。ならば、物質化したらよかろう」
「一度、酔ったものは、物質化しようがなにをしようが変わらぬよ。ロレンスめ、どこへ行ったのだ。でもって、ロレンスを狙うアサシンに、この苛立ちをすべてぶつけてくれようぞ」
「そういう前向きさ、本当にえらいとは思うが、ここでは絶対に吐くなよ」
うー、と孔明は唸るようにいい、それから朝までずっと大人しくしていた。
※「ずんだ」における、戦車のエピソードのこれが理由でした。でもって、孔明はあと弐百年もしたら「新米」から脱出です。