ミニ連載

浪浪歳歳

のんびりした場所であった。
これといって特徴のある風景ではない。天まで聳えるような杉の木と、それにからまる蔦かずら、野鳥が茂みから飛び立ち、たまに枯葉色の野うさぎが跳ねるのが見える。
近在の農民しか使っていないであろう砂利道には、ぺんぺん草が風に揺れていた。
ときおり、甲高い声をあげながら、とんびが頭上高く旋回するのが見える。
靄は完全に晴れ渡り、空には、とんびのほかは、雲ひとつない青空であった。
不意に歌声が流れてきたので、なにかと思い、空にむけていた目線を地上に戻すと、おどろいたことに、趙雲が鼻歌を歌っているのであった。
孔明はその脇で、無言のまま、心地良さそうに周囲の風景をながめている。
詩作の対象にもならない凡百の光景であったが、前をゆく二人には、それなりに新鮮に映っているようだ。
すこし遅れてついていく馬良は、朝が早かったので、馬上でうつらうつらしながら、もうすこし面白い場所へ行きたい、などと考えていた。
当初の予定では、特に明光風眉で名高い桂陽の山林をながめ、ちょっと優雅に詩作でもしつつ、どこかの農家へお邪魔して食事を摂り、夜は旅籠でゆっくり、というふうになるはずであったが、孔明の勘のままに足を向けよう、という趙雲の提案どおりにしたら、なんだかたらたらと道を歩くだけのつまらない旅になってしまったのだ。
とはいえ、今回は、疲労しきっている孔明を回復させる旅であるから、孔明が楽しんでいれば、問題はないわけであるが。

『私が付いてこなくても良かったなあ』
と、眠気覚ましに、肩を交互に回しながら、馬良は思った。
一見、三人連れのように見えるが、実際は二人とおまけの一人、という状態である。
たまに孔明が気を遣って、振り向いて話を振ってくれるが、趙雲がこれに入ってこないので、すぐに途切れてしまう。
早朝に言い争ったことを気にして、そうしているわけではないだろうが、この男、見た目の勇壮さを裏切る内気さを秘めている様子。
ときに物足りない人だと思わせるところがあったが、照れ屋で内気なために、あともう一歩のところで、肝心の言葉が出てこないのだ。
器用に見えて、肝心なところで不器用なところが、孔明と気が合う原因なのかもしれない。
交わされる二人の会話の断片をつなげていくと、どうやら互いにじっくり話すのは、かなり久しぶりであった様子だ。
これまた珍しいことに、主に話し手は趙雲であり、孔明は聞き手である。
呉の孫権の妹・孫夫人の暮らしぶりや、彼女を取り巻く侍女たちの話、劉備側の侍女との確執、そのほかに、おのれの部隊でおこったいざこざや、ちょっとした事件など、後ろでただ聞くだけの馬良も、なかなか興味深い。
言葉はすくないが、趙雲の語りは簡潔でわかりやすく、的確だ。
『いろいろ意外な人だな』
と、馬良は感心した。

当初、馬良は、趙雲は、よく浅慮な男にありがちな、盲目的な忠誠を孔明に捧げている武将ではないかと思っていた。
たしかに孔明に心服している様子であるが、そのすべてを肯定するわけではない。
孔明がぐらついているときは、叱り飛ばして矯正し、誤解を恐れずに直言を吐く。
仲がよければあたりまえのような行為であるが、実際、これに社会的な地位が絡んでくると、なかなか直言を交換する、というのはむずかしいものだ。
「たまには顔を出されよ。主公は、孔明が臨烝に籠もっているのでつまらぬ、とこぼしておられたぞ」
と、趙雲が言うと、孔明は、からからと笑って答える。
「顔を見せようかとも思うのだが、主公は新婚であるから、わたしが邪魔をしてはならぬ、とも思ってね」
「冗談ではなく、真面目な話だ。
口がさない者の中には、軍師が孫夫人を嫌って避けている、というふうに言う奴もいる。連中のつまらぬ憶測を消し飛ばすためにも、心を曲げて、顔を出せ」
「ふむ、するとあなたも、わたしが、孫夫人を避けている、と思っているのか」
「孫夫人を、というわけではないだろうが、避けているのは事実だろう」
その言葉に、しばし沈黙が流れる。
打てば響く会話を好む孔明にはめずらしい沈黙である。おや、と背後で聞いている馬良がいぶかしんでいると、孔明がつぶやくように言った。

「やれやれ、あなたを重く感じるときが来るとはな」

『う。』
と、自分が言われたわけではないのに、馬良は胃に石が沈んだような気持ちになった。
人を重い、などと言っておきながら、孔明の纏う雰囲気はさらに重い。
なんだか後ろに先祖の霊でも背負っているのではないかというくらいだ。
趙雲は、というと、孔明の言葉をさらりと流して、答える。
「それが俺の役目であるから仕方があるまい。おまえは短い間に偉くなりすぎた。
周囲が遠慮してなにも言わないのは、おまえに心服しているからという理由だけではないぞ」
「そんなことは、いまさら言われなくても判っているさ。あなたには感謝しているよ。
もしあなたが私になにも言わなくなったら、そのときこそ、私もおしまいかもしれないな」
「それはない。死ぬ最後の瞬間まで、小言は止めぬから安心するがいい」
冗談だろうなあ、と思いつつ、しかし実際に遺言すら小言、という状況が、容易に想像できてしまうのはなぜだろう。
孔明は、かすかに笑い声をたてた。
「たぶん、わたしが一番に信用しているのは、主公でもなくあなたなのだろうね」
「なんだ、それは」
『私は?』
と、馬良は心の中でつっこんでみたが、もちろん、声なき声が、孔明に届くはずもない。
「以前に話したはずだが? あとでああ言っておけば良かったと後悔するのは嫌なので、そう思ったときに言うことにしているのだ。そういうわけで、これは本音だ」
「そうか」
「そうだよ」
いつの間にか、孔明の背負っていた、重い空気が消えている。
しかし馬良には、孔明の背後に、『部外者立ち入り禁止』のお触書が立てられたような気持ちになった。
とても二人の会話に入っていけない。
おそらく、このままひっそり馬首をかえして、屋敷に帰ってしまっても、しばらく孔明は気づくまい。
つくづく、もう襄陽の時とは違ってしまったのだな、と馬良はさびしく思う。
たとえここに徐庶がいたとしても、趙雲と孔明の間に入っていくことはできなかっただろう。
貝の口をこじ開けるのだってこれほど難しくはない。

しばらく行くと、刈り入れのおわった田んぼの横で、農民たちが雑草を刈っていた。孔明は馬の足を止め、彼らに声をかける。
「精が出るようだね。今年の実りはどうだい?」
おかげさまで、という返事を馬良は期待したのであるが…
「てんで、だめでございます」
「なぜ?」
「水でございますよ。去年までは、うちらが使い放題だった水路を、あたらしく郡を統括している諸葛ナントカって人が、平等に水を使えるように、なんて余計なことをしたもので、かえって全体に水が行かなくなって、米もいまひとつでした」
「そう…」
ここで食い下がるのが孔明であるが、やはり本調子ではないのか、たちまちどんよりと暗い雰囲気に包まれ、うなだれる。
あわてて、馬良が口を出した。
「しかし、このあたり一帯の取れ高は上がったのではないかね」
「そりゃあね。喜んでいる家もあるようですが、うちらには迷惑です」
しょんぼりとしている孔明に、馬良は、うながす。
「ほら、元気を出したまえ。聞いた相手が悪かったのだよ。
彼らのような、水利を独占している一部の農民から、水利を解放して、みなに使わせる、というきみの策は間違ってないよ」
孔明は、わかったような、わからないような、うむ、という曖昧な返事を寄越す。

「あそこにいる、ほかの農民にも聞いてみよう」
と、趙雲が助け舟を出した。孔明はもう、聞く元気がないようであったので、代わりに馬良が尋ねる。
「今年の出来はどうだね」
しかし。
「いまひとつですな」
「なぜ」
「このたびわしらの郡の統括になった諸葛ナントカ様が、あたらしい品種を植えろとお命じになったのですがね、これがうちの土地にまるで合わなかったものですから」
横にいた農民も、うんうんと頷いて、これに同調する。
「きっと、諸葛ナントカ様は農業ってものを生業にしたことがねぇんだろうなぁ。
冷害につよいとか、イナゴに食われにくいとか、いろんな謳い文句がついていたもんで、ワシらも期待したんだけれども、なんか稲穂の粒のひとつひとつが小ぶりでねぇ」
「たしかに郡で新しい品種を勧めたのはたしかだが、土地によって合う、合わないがあるから、それぞれ検討してから植えるようにと達しをしたはずだが?」
馬良が言うと、農民たちは顔を見合わせ、それから首を振った。
「うんにゃ。ワシらはそんな話は聞いてません」
それはおまえたちが悪い、と馬良は孔明のために口にしかけたが、ほかならぬ孔明が、口をはさむ。
「それは、説明を徹底しなかったわれらに落ち度があった。すまなかったな。許されよ」
やたらと身なりが良くて目鼻立ちの通った青年が、そういって頭を下げるものだから、農民たちは目を白黒させている。
そして、孔明の背負ってる暗い空気は、ますます濃くなっていくのであった。

「どうやら、またも聞いた相手が悪かったようだぞ」
と、趙雲が見かねて口を入れてきた。
そして、顎で示す方向を見ると、直前に話を聞いた雑草を刈っていた農民が、作業の手をとめて、じっとこちらの様子を窺っているのであった。
「どうやら、おなじ地主にやとわれている小作人のようだな。
この一帯の大地主は、軍師のやりように反発をしているのだ。上の心は下に反映する。今回は、たまたまだ。そう気を落とすな」
「趙将軍の言うとおりだよ、亮くん。そんなに落ち込むことないじゃないか」
しかし孔明は、二人の声にうつむき加減に首を振ると、ぼそぼそと答える。
「わたしのやり方が気に食わない人間がいるのは仕方がないさ。
だが、指導が徹底していなかったがために、農民たちの暮らし向きが悪くなっているのであれば、申し訳ない」
「君はよくやっているよ。ついこの間まで、隆中の山の中で本を読んでばかりいた人間が、こうして三郡の監督を切り盛りしているのだから。
たしかに彼らは、ああ言ったけれど、書類の数字の上では、三郡ともに、以前よりずっと、よくなっているのだよ」
「所詮、数字は数字なのだ。見たかい、さっきの彼らの不満たらたらの顔を。
たとえ全体の数字が上向いていても、彼らがあんなふうにして不満を持っているのであれば、やはりわたしの治世というのは間違っているのではないか」
「まだ結論を出すのは早いよ。ほら、村が見えてきた。あそこでも話を聞いてみよう」
三騎の行く手には、馬良の言うとおり、村の姿が見えてきた。
孔明はちらりと村のほうを見ると、ぼそりと言った。
「…もう家に帰りたいな」
馬良はあわてて言う。
「まあまあ。結論は急がずに。
だいたい君、この旅は趙将軍のためでもあるのだよ。趙将軍の意向を大切にするべきではないかね」
言われて孔明は、顔を上げると、すこし離れたところで、のんびり馬を歩かせる趙雲のほうを見た。
馬良には、その姿はまったく普通にしか見えないのであるが…
「うむ、だいぶ機嫌がよいな。ありがとう良くん、この旅の目的を忘れるところだったよ。
仕方がない。子龍のためにも、旅はつづけよう」
「そうとも。それでこそ亮くんさ」
「それでこそ、か。良くん、がっかりしたのではないかい?」
「なぜ?」
「わたしは襄陽で、きみにずいぶん偉そうな口を利いていた。
しかし実際に三郡を統治してみたら、結局、ハンパな結果しか出せていない。
もし過去に戻れるならば、わたしは過去の私の口を自分で塞ぎたい気分だよ」
「何を言っているのだい。君、高望みが過ぎるのじゃないかな」
孔明は、しばらく沈黙した。おや、怒らせたのかな、と馬良は心配したが、そうではない。
孔明は、口元に寂しそうに笑みを浮かべて、やがて言った。

「江東で、周公瑾という男に会った」
「知っているよ。会ったことはなかったが。美周郎なんてあだ名のある、ずいぶんと煌びやかな男だったらしいね」
「世の中に、これほど素晴らしい男がいるのか、と、正直おどろいたほどにすごい人物だった。
何ってね、彼がそこにいる、というだけで、周囲の人間の顔や目つきが一変するのだよ。男も女も、奴婢も武将も関係ない。
ありとあらゆるすべての人間が、彼を見るとき、目を輝かす。信頼する者を見るときのまなざしなのだ。
この人のためならば、犬馬の労も惜しまない、という目をしている。
さらにおどろいたことにはね、兵士たちがこぞっていうのだよ。『美周郎がわれらの上にいるかぎり、負けることはない』と。
兵士たちだけではないのだ。漁民も、『美周郎のおかげで、安心して漁ができるのだ』、と。ほとんど神のような扱いなのだ」
「たしかに、それはすごいな」
「本人はというと、まるで気負っていない。万人の期待と信頼を集めれば、そりゃあ責任も重くなる。
普通は縮こまるか、でなければ勘違いして尊大になるだろう? 
そうではないのだ。周公瑾にとって、賞賛されること、信頼されることは、あたりまえのことなのだ。
そうして、それだけのことを彼はしていた。惜しくも早死にをしたけれど、悲壮感のまるでない、じつに颯爽とした人物だったよ」
孔明が、そこまで人を褒め上げるのを聞いたことがない馬良は、感心してその話を聞いた。
劉備を語るときですら、孔明はこれほどまでに賞賛しなかった。
不意に、孔明の顔が曇る。
「とてもこんなふうにはなれないと、初めて他人を見て思ったよ」
らしくない言葉に、思わず馬良は孔明の横顔を見る。
「なれない、だなんて…」
「いいや、気休めは言わなくて良い。文武両道、という言葉があるが、彼はまさにその体現だった。
もし生きていたならば、この荊州はすべて江東のものとなり、わたしたちはわずかな土地にしがみつき、いかにして状況を逆転させようかと、いまだに右往左往していたかもしれない。
彼に比べれば、わたしなぞは、多少頭が良くて口が回り、顔が良いだけの士人に過ぎぬ」
それだけ条件が整っていれば、十分じゃないか、と馬良は思ったが、孔明のように、大志を抱いている人間にとって、人よりちょっと抜きんでている、というだけでは満足ではないのだろう。一番でなければ駄目なのだ。
「それで、君はずっと、塞いでいたのだね」

孔明の人生は、ハタから見る限り、あまり恵まれたものではない。
両親を早くに亡くし、故郷を曹操に焼き払われ、頼りにしていた叔父もほどなく死亡。
私塾にて親友を得るが、ことごとく、やはり曹操が原因で失い、劉備の軍師となったが、これまた弱小勢力で苦労の連続。
孔明が安定した生活を送っていたのは、襄陽の私塾に通っていた数年の間だけなのだ。
これまでの人生に、挫折がなかったわけではないだろう。
戦火を知らず、裕福な家に生まれた馬良には、孔明の歩んできた人生を、感覚として理解できない。
さまざまな苦労を重ねて、自ら道を切り拓いたのが孔明だと、馬良は思っている。
孔明は自分の才能を自慢するが、過去の労苦をひけらかしたり、愚痴ったりしたことは一度もない。
だから馬良は、友としてだけではなく、人として、孔明を尊敬している。
その孔明が、自ら、胸のうちに秘めた脆さを、はじめて口にしたのだ。
これは相当、周瑜という人物に圧倒されたのにちがいない。
馬良は、いろいろと励ましの言葉を考えた。
気にすることはない、君は君だ、とか、頑張って才を磨いて、周瑜に追いつくようにしよう、とか。
しかしそのどれも、結局、口にすることができなかった。
どんな励ましを述べても、孔明を傷つけるだけのような気がしたからである。
そうして、互いに暗い空気を背負ったまま、村に入っていった。

静かな村であった。ときおり、飼っている鶏の鳴き声や、牛の低いうなり声が山間をよぎる。
小川が流れているらしく、さらさらと心地よいせせらぎの音もした。
だが、静か過ぎる。
なにか不幸でもあったのだろうかと馬良は思い、民家に目をやったのであるが、定番の泣き女の声も聞こえず、不気味なくらいにひっそりしている。
いや…それどころか、赤い提灯がぶらさがっている。祝い事があるらしい。
なんだかおかしいなと思いつつ、馬を進めると、女の泣き声が聞こえてきた。
やはり葬儀でもあったのだろうかと、馬を下りて、そっと覗き見ると、おどろいたことに、みごとな礼装の娘と、その親族らしい女たちと男親があつまって、みなでしくしくと泣いているのであった。

室内の装飾から、村人たちの、素朴な風情ににあわぬ晴れ着姿といい、どう見てもめでたい華燭の典がおこなわれているふうに見えるのであるが、せいいっぱい飾り付けられた屋内で、なぜだか彼らはひとつところにあつまって、しくしくと泣いているのだ。

さてこれは、晴れて結婚となったわけだけれども、花嫁をあまり気に入らぬ花婿あたりが土壇場になって怖気づき、花嫁を置いて逃げてしまったのではないか知らん、と馬良は想像をたくましくした。
どちらにしろ、気の毒なことには変わりはない。
落ち込んでいるときに、もっと不幸な人を見ると慰められるのは、不謹慎ではあるが事実だな、と思いつつ、馬良は村人に声をかけた。
「どうしたのだね、そんなふうに泣いて」
しくしくと泣くのに夢中になっていた人々のうち、輪の中心になって、見事な牡丹を黒髪にさした娘が顔を上げた。
その初々しい顔を見たときに、馬良は、さきほどの想像を打ち捨てた。
まさに泥沼に咲いた清楚な一輪の蓮の花。こんな娘を袖にして、逃げるばか者はおるまい。
「あなたさまは、どちら様でございますか?」
と、娘はしゃくりあげながらも気丈に尋ねてきた。
傍らでは、娘の母親とその親族らしい女たちが、「こんなのあんまりだ」とか、「世の中おしまいだ」といささか大げさな声を上げている。
「わたしは旅の者なのだが、すこし休憩をさせてもらおうかと思って声をかけたのだよ。取り込み中であるようだから、別の家を当たるが」
退きかけると、不意に袖をがっしりと掴まれる。仰天すると、いままでいないと思っていた花婿らしい晴れ着の若い男が、地べたに転がっていたのである。それが馬良の裾をがっしり掴み、泣きはらした眼を向けてくる。
どうやら、床に打ち伏したまま、おんおんと泣いていたようだ。せっかくの晴れ着が泥に汚れているが、殴られた様子ではない。
若者は激情家であるらしく、馬良の服の裾を両手でしっかりとつかんで、がなるように叫んだ。
「見れば身分のあるお方のご様子。我らを哀れとお思いならば、どうかお助けくださいませ!」
馬良はおのれがヒヨワなことを知っている。知っているがゆえに、危険に鋭い。
なんだか知らんが逃げるが勝ちだ、と直感し、足を引きかけたところへ、戸口から、ひょいと孔明が顔を覗かせる。
「どうしたのだね、良くん。いまふみ潰された牛ガエルみたいな声が聞こえたけれども」

馬良はつねづね思うのであるが、諸葛孔明という人は、あやしげな仙術を用いていて、じつは普段は魔法の目に見えない看板を首からぶらさげているのではなかろうか。
それはふつうの人にはみえないのであるが、困った人が見ると、そこに看板が掲げてあるのがわかるのだ。
その看板には、こうあるに違いない。

『当方、とてもお節介。よろず悩み事ひきうけます。お代は不要』

なぜそんな奇妙な空想をしたかといえば、孔明がただ顔を出した、というだけで、その場の泣き崩れていた人々が顔をあげ、まるで神さまがやってきた、といわんばかりに、ぱっと顔を輝かせたからである。
困り果てた人、弱り果てた人が、孔明の顔を見ると、千里の彼方から救い手がやってきたような顔をしておおよろこびするのは、今に始まったことではなく、いつ、いかなる場合においても、たいがいそうであった。
これは徳、というものなのであろうか。馬良などは、人から期待されただけで、万事うまくこなさねば、と緊張してしまう。
まして他人にお願いします、と頼まれて、よしきた、まかせておけ、などと答えることは、なかなかできない。馬良が孔明を尊敬するのは、孔明は実にあっさりと、
「よかろう」
のひと言で承諾してしまうからだ。
もともとお節介な気質もあるだろうが、おのれの能力に自信があるから出来ることだろうとも思う。
孔明の場合、結果がきちんと伴うわけだから、やはり、さすが、のひと言につきる。

とにもかくにも、孔明は、いきなり涙でくしゃくしゃになっている村人たちの視線が一斉に集まってきたので、面食らっているようである。
「だれか死んだのか」
孔明が遠慮なくずばり尋ねると、花嫁の母親らしい、農家の女将さんにしては気品のある顔立ちをした女が前に進み出て、袖で涙を拭きながら、孔明に答えた。
「これから死ぬのでございます」
「病かね、それとも事故か」
「どちらでもございませぬ。あたくしどもの誇りを示すために、死ぬのでございます」
花嫁の母の話はこうである。
このたび、めでたく娘と許婚の婚儀が整った。今日がその日であったのだが、このあたりを治めている地主が待ったをかけた。
娘は村でも評判の機織名人なのであるが、今回の婚儀のために、地主から借金をした。
わずかな額であったのだが、今日になって地主が証文を持ってきたのを見ると、借金が数十倍にも膨れ上がっている。
おどろいて、なにかの間違いだと抗議したのだが、利子がついたのでこの額になった、証文があるので、払うことができなければ、娘は貰っていく、という。
この地主に、いささかオツムのあやしいドラ息子がいる。
この息子が娘に横恋慕をしていたので、親に泣きついて、無理にでも娘を自分の物にしようというのだろう。
その魂胆は、誰の眼にも見え見えであったし、地主への反発もあって、村人たちは総出で抗議をしたのであるが、証文の存在が重く、借金の返済を撤回させることができない。
しかしなんとか借金返済を五日後にまで延ばすことができた。
もちろん、五日で工面できる額ではない。
それを見越したのか、地主は、今度、劉左将軍の奥方に献上する予定の衣がある。その衣を五日後に作ることができたなら、借金は帳消しにしてやろう、と言い捨てて言った。
しかしどちらも無理である。
実は、娘は婚儀の支度の途中で、黄金の指先に怪我を折ってしまい、機織ができない状態なのだ。
しかし、かねてより近隣の豪族の娘から頼まれていた衣があり、これに手を加えればなんとかなりそうなのであるが、残念なことに、死ぬ気で機を織るにしても、糸が足りない。
これから買出しに行くとしても、大きな市のある臨烝へ行って戻ってでは、期日の五日は間に合わない。
かといって、唯々諾々と、地主の卑怯な要求を呑むわけには行かない。
ならば、誇りを示すために、ドラ息子に触られる前に死んでくれよう、と花嫁は言い出し、母親も、それでこそあたくしの娘です、と褒め上げる。
そんなふうで、せっかくの婚儀の場が、永のお別れをみなに伝える場となってしまった、というのだ。
地主が嫌味ったらしく残していった、証文の写しを見ると、正規のものであり、役場で問題にするのも難しい。
元金の数十倍、という利子の付き方が尋常ではないが、もともと借りた金というのが、証文の額と、花嫁たちの言う額とでまったく違うのである。花嫁が字を読めないことをいいことに、地主が嘘の金額を書いて、それをタテにしているらしかった。
だが、それを証明できるものがないかぎり、娘は地主の家に行かねばならない。

ひとことも口をはさまず、ふむふむと肯きつつ、すべてを聞き終わった孔明は、目をきらりと輝かせる。そして、打ち明け話をしたことで、また盛り上がり、お互いの肩を抱き合って、おいおいと泣き伏せる村人たちに言った。
「死ぬことはあるまい」
すぐさま、花嫁の母親が、甲高い声で反駁する。
「まさか、死ぬなど早まるな、生きて耐えよ、などとおっしゃるのではないでしょうね?」
「耐えることもない。要は、衣が出来上がればよいのであろう」
「しかし、娘に機は織れませぬ」
「地主は、衣を用意しろ、と言ったが、かならず花嫁に織らせろ、とは言わなかった。そうであろう?」
言いつつ、孔明はにんまりと笑う。
孔明は、なにか策があるときの、自信満々の顔をしている。大波津波、どんとこい、といった顔だ。
「その作りかけという衣を見せてはくれぬか。それと機屋へ案内してほしい」
「構いませぬが、貴方様は?」
村人たちの問いかけに、馬良が意気揚々と名乗ろうとすると、いつのまにか入ってきていたのか、趙雲がそれを手ぶりで止めた。
そして代わりに答える。
「我らは休暇中のただの小役人だ。しかしこのような不正は許せぬ。我らが尽力し、おまえたちをかならず助けるがゆえ、安心するがいい」
趙雲が戦場で兵卒たちに下知するような、重々しい声で言うと、村人たちは、おおー、と安堵のため息をついた。
おいしいところを攫われた気がするが、馬良は思わぬことの成り行きに戸惑いながらも、久しぶりに小憎らしいほど自信にあふれた孔明にほっとしつつ、花嫁の案内に従って機屋へと向かった。

織機を見るや、孔明はううむ、とうなった。
「最新型だな」
馬良には、ごくごくふつうの織機にしか見えない。
織り機など、どこの家のものも同じ、と思っていたのであるが、どうも違うようである。
孔明は、素人目にもよく手入れがされているとわかる織機に近づくや、『最新』の部品らしいものをしげしげと観察する。
「あたくしの娘は当代一の名人でございますから、その腕に見合った道具をと思って、用意してやったものでございます」
と、花嫁の母は、得意げに説明する。孔明は振り返ると、感心したように肯いた。
織機のおかげで、花嫁の母と孔明の間に、あっというまに共闘意識が芽生えたようである。孔明は気骨あふれる職人が大好きなのだ。
「その織りかけの衣が、例の衣でございます」
なるほど、といいつつ、孔明はその、雪原のように清い白い衣を手に取る。
白い衣に、巧みに鳳凰の絵図が織り込まれたものだ。単色のものならばともかく、鳳凰の絵図を織り込むために、下絵のなにもない状態の布に、織女の頭の中にある図像をそのまま腕に託して、糸をさまざまに換えて、徐々に徐々に積み重ねるようにして、織っていくのだ。大変な根気を必要とする作業である。
「たしかに花嫁は名人のようだな。手を加えるといっても、あとは完成させるばかりの状態ではないか。夫人はきっと気に入るだろうな」
ちらり、と孔明は花嫁の母の後ろで、ものめずらしそうにしていた趙雲に目を走らせる。
「たぶん」
と、短く趙雲は答えた。
趙雲は、奥向きの全体のことは語っても、孫夫人個人に関しては、あまり話題にしたくないらしい。
孔明は、いったいいかなる策でもって村人たちを救うのであろうかと、期待をもって見つめていた馬良であるが、何を思ったか、孔明は上衣を脱ぐと、ぺたりと床に座り、
「では、この場をしばらく借りよう」
といって、たすき掛けをはじめた。
「亮くん、なにを始める気かい」
うろたえて尋ねる馬良に、孔明は不思議そうに言う。
「なにって、機織さ」
「きみが?」
「そうだよ」
「なぜ?」
あきれる馬良に、むしろ孔明は柳眉をしかめて、
「なぜって、それこそなぜだい? 五日の間に衣を完成させなければ、花嫁は、地主のドラ息子の下に行かねばならない。そうなるくらいなら死ぬと言っているのだよ。
そして、肝心の花嫁は怪我を負っていて機織ができない。ならば、だれかが代わりに機を織らなければならないじゃないか」

馬良は、孔明に策があり、と見たとき、これはきっと、証文の嘘を暴いて、役人たちを引き連れて、地主のところへ堂々と赴くのだろうと思った。
そうして、シラを切ったうえに、「者ども、この小役人どもを始末してしまえ!」と開き直った叫びに応じてわらわらと食客どもが襲ってくるのを趙雲が退治し、そこではじめて、我は諸葛孔明なるぞと地主に対して、その名を明らかにし、地主はすっかり恐れ入って、村人たちはおおよろこび…といった講談ふうの展開を想像したのだが。

主役になる人物は、こうしている間にも、細長い指先を器用に動かし、ちまちまと糸を操り、起用に途中で止まっている機織のつづきをはじめている。
その慣れた一連の動作を見て、花嫁の母は、「なかなかですわね」とつぶやく。
なんだ、この地味な展開は。
「なんだって君が?」
「他にいないだろう。良くん、機織を甘く見てはいけない。機織というのは、職人の感性を極限まで要求される非常に繊細な作業なのだ。いわば芸術といってもよい。
見たまえ、この鳳凰の高貴かつ神秘的な表情を。これほどの腕を持つ娘の作業の続きをするのだよ。生半可な職人に続きをまかせるのは、雪原の上を泥だらけの足で踏み荒らすようなものではないか。
この娘は天才なのだ。字すら満足に読めない娘が、天啓を得て作った物なのだよ。なんという素晴らしい奇跡だろう。
このひどく退屈で陰惨な農村社会にあって(ここで戸口に押しかけていた村人たちは、一様にムッとした顔をしたが、孔明はまるで頓着せずに、つづける)夜闇にきらめく星のような光明が存在する。だからわたしは世の中に絶望することができないのだ。
この作業の続きを為しえるためには、天才に対抗しうるだけの、極上の感性と知性が必要なのだ」
「それが君ってわけかい」
なにをあたりまえな、という顔をして、孔明は答える。
「他にいるかね」
いるんじゃなかろうか。臨烝あたりに。という言葉を、馬良は呑み込んだ。
「しかしいつの間に、機織なんて覚えたのだ」
すると孔明は目を細める。
「ほう、君のその顔から察するに、機織というのは女の仕事と思い込んでいるようだね。
しかし、一度ぜひやってみたまえ、こんなに熱中できる作業はほかにない。最初は、老眼が進んで、細かい作業がつらい、と言っていたばあやの手伝いのつもりで覚えたのだが、要領をおぼえると、止まらなくなってしまうのだよ。
崔州平には、そんなのは、いい嫁を貰ってしまえば、意味のない技術だ、暗記のひとつでもしたほうがよっぽどためになる、などと言っていたがね、そんなことはない。
現にいま、こうして人助けに役立っているのだからね」
「たしかにそうかもしれないが」
「こんなに楽しい作業を独り占めして申し訳ないくらいだ。君にも教えてあげたいところだが、いまはそんな余裕ではないようだ。
それとすまないが、そろそろ話しかけないでくれないか。この作業は特に集中を要する。ちょっと注意を逸らしただけで、全体がぶち壊しになってしまうからね。
いままでは完璧な仕上がりなのだ。天才と同じ質を保たせるには、それを上回る集中力で臨むべきなのだ」
孔明は、一気にまくしたてるようにして言うと、ぴたりと黙り、目の前の織機に真摯な顔を向ける。

置いてきぼりにされた馬良がぽかんとしていると、戸口のほうで馬のいななきがする。
見ると、趙雲が、自分の黒馬に乗っているところであった。
「どちらへ行かれますのか?」
まさか、孔明に呆れて帰ってしまうのか、と思った馬良であるが、そうではないらしい。趙雲はあたりまえのことを口にするように、言った。
「糸を仕入れてくる」
「へ?」
「糸が足らぬと言っていただろう。ちょっとひとっ走りして、糸を仕入れてくる。季常どの、俺が戻るまで、すまぬが、あれのお守りをたのむ」
趙雲に、あれ、と言われた孔明は、ふと織機から顔を上げ、機屋の中から声をかけてくる。
「子龍、糸の種類は花嫁から聞け」
「もう聞いた」
ではさらば、と言うなり、趙雲は、ぱっぱかと駆け出していき、馬良がお気をつけて、と言おうと我に返ったときには、もう見えなくなっていた。

薄暗い機屋に座り込み、眼をきらきらと輝かせて機織に夢中になる孔明と、キツネにつままれたような面持ちでそわそわと落ち着かないそぶりの村人のなかにぽつりと残され、馬良は、とりあえず、今夜の宿はどうしよう、と考えていた。

  つづく…