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1
馬良がみつけたとき、孔明は川岸に立ち、じっ、と睨みつけるように、彼方の夕陽をみつめていた。
このひとは、赤壁に行ってから、様子がずいぶん変わった、と思う。
以前にはあった、気安さがなくなった。
たわいのない話をしているあいだでも、たまに表情が完全に失せる。
そうなったときの孔明には、もう言葉はかけられない。
こわい、とさえ思う。
いまもそうであった。
まるで彼方に親の仇でもいるような目をして、夕陽をきびしく見つめている。
孔明の背中は、何者をも拒絶していた。
近寄りがたく、声をかけることも憚られる。
声をかけるべきか、引き返すべきか、馬良が逡巡していると、孔明のほうが馬良に気づいたようだ。
怪訝そうに振り返り、それから、愁眉をほどく。
「どうしたのだね、仕事で、困ったことでもあるのかい?」
と、孔明はにっこりと笑った。
夕陽を受けて、橙色にさざめく水面は、それはそれはにぎやかで、神秘的で美しい。
薄(すすき)が風に揺れて、孔明の衣もたなびかせる。
この憂愁帯びた世界にあってもなお、孔明の存在感は圧倒的であった。
孔明の笑顔には、人を安堵させる力がある。
馬良は緊張を解いて、答えた。
「うちの実家がね、干し柿を持ってきたのだよ。たくさんあるから、君にも分けようかと思って」
「そうかい、柿はいいな。ありがとう」
孔明の顔を見ているうちに、さきほど感じていた恐ろしさはなくなった。
こわい、とさえ感じたことも、馬鹿馬鹿しくなってしまう。
「なぜ、こんなところに一人でいるのだい。危ないじゃないか」
とたん、馬良は、心臓を鷲掴みにされたようになった。
孔明の表情から、抜け落ちるようにして表情らしいものが失せたからである。
顔色が変わった、などという生易しいものではない。
表情らしい表情の一切が、消えてしまったのだ。
「亮くん?」
おずおずと声をかけると、孔明は、我に返ったようだ。
「ああ、すまないね。たしかに危ないのは自覚があるのだが、どうしても一人になりたいときがあるのだよ」
「弟の均くんが、また体を壊した、とか」
すると、孔明は愉快そうに声を立てて笑った。
「ちがう、均は近頃、ずいぶん調子がよくってね。あれに子供が出来たから、気が張っているのだろう。君のところの弟はどうだい」
「謖は、相変わらずだよ。やれ、頭が痛い、腹が痛い、熱がある、耳鳴りがすると、始終、どこか悪いと訴えては、母上をあわてさせている」
「君も一緒になってあわてているのだろう? 病気なると、いつもはきびしい君が優しくなるので、幼常は甘えているのだ」
「そうだろうか。いつまでも子供のままでは困るからね、謖にかまけてわたしがなかなか妻を構ってやらないので、兄たちも気を揉んでいるらしい。
妻の実家も良い顔をしないしね」
「ならば、今日は、早く帰って奥さんを安心させてやりたまえ」
「ところがあいにくと、今日は、妻は実家に帰っているのさ。もしよければ、今日は君と飲み明かそうと思ったのだよ」
孔明は、ほがらかな笑みを見せつつ、答える。
「それはよいな。ところで、なぜわたしに声をかけるのをためらっていたのだね。
ずいぶん迷っていたようだが、わたしはそれほどに近づきがたく見えたかな」
「気づいていたのか」
うろたえる馬良に、孔明はからかうような顔をして言った。
「もしかして、いつかのことをまだ気にしているのではないかい」
いつかのこと、といえば、ひとつしかない。
馬良は、孔明が軍師になったばかりの頃、誘われて、ともに劉備に仕えることを決めた。
しかし弟の馬謖や、親戚一同に猛反対され、親友か、それとも家族かでぐずぐずしているうちに曹操が南下してしまい、結局、約束を破ったかたちになってしまっていた。
図星をさされて、馬良があうあうと言葉を継げないでいると、孔明は声をたてて笑った。
「気にしているのか。前も言っただろう。もうわたしは気にしていないよ。いま、生きてこうして君と話が出来ているのだからね」
「すまない、ずいぶん酷い目に遭ったと聞いたよ。ぼくはなんの力にもなってやれなかった」
「酷い目ね。命があるだけでも儲けものじゃないかね。
一時は、明日は死ぬかもしれないと思いながら日々を過ごしていたよ。いまは平和だ」
そういって、孔明は伸びをしながら歩き出す。
その後ろにつづきつつ、馬良は、おのれのふがいなさを恥じていた。
襄陽時代では、さりげなく気遣って、孔明の息抜きをさせてやる役目は、馬良が果たしていた。
孔明も、馬良にはけして隠し事をしなかった。そうして築いてきた関係である。
だが、もう孔明は馬良には本音を打ち明けない。
離れていたわずかな間に、孔明の中に、馬良のまったく知らない別な顔が出来上がってしまった。
馬良も馬良で、孔明に「気にしていない」と言われても、やはり気にしてしまう。
「なにか悩みでもあるのではないかい」
の、ひと言が、出てこないのだ。
やはり仕官を引き伸ばしにしていたことで、信頼を失ってしまったのか…
しょんぼりしながらも、あえてそれを隠しつつ、馬良は、孔明とともに自邸へと向かった。
孔明と馬良は、仕事から離れた四方山話に花を咲かせ、夜更けまで盛り上がった。
語りあうことといえば、襄陽での呑気な書生生活の思い出である。
あの頃はよかったね、という思い出話になるのであるが、数々ある思い出の、そのどれもがすべて過去のものとなり、ひとつとして元に戻すことの出来ない類いであることに、馬良は寂しさをおぼえた。
対する孔明のほうは、襄陽時代の思い出には、馬良ほどの感慨を持っていない様子で、それがまた、馬良の寂しさをつのらせた。
それにしても、と、灯火の向こう側にいる孔明を見て、馬良はつくづく思う。
孔明が劉備の軍師になってから、二年ほどしか経っていないというのに、孔明にはすでに三郡の監督としての威厳が備わりつつある。
大兵(おおつわもの)を前にしてもなお、さらにかれらを威圧させ、心服させることのできる器量、というのは滅多にない。
馬良は、孔明が軍に号令をかけるときの重々しい姿が好きであった。
そして、いまや天下の軍師となった孔明の機知であることが自慢である。
司馬徳操の私塾の仲間たちが見たら、どんなふうに言うだろう。
孔明はどちらかといえば、みなから煙たがられる存在であった。
見た目が華奢で、体力もほとんどないくせに、口は達者で妙に前向き、しかもえらそう、というので、特に豪族の子弟や、本の虫の先輩からは嫌われた。
喧嘩を売られれば律儀に買うので生傷も絶えず、良家の子息らしからぬ負けん気のつよさも、可愛げがない、とウケが悪かった。
しかし、嫌われる一方で、ひとたび好かれると、とことんまで愛されることになるのがこの人物の特性である。
ほかならぬ司馬徳操……水鏡先生も、小生意気な孔明にはあきらかに態度をかえて、きびしく接していたし(司馬徳操の愛情表現は、生徒にとことんきびしくすることなのである)、孔明の姉の夫…つまりは義兄にあたる龐山民も、「うちの義弟は…」、とずいぶん自慢をしていた。
徐庶などは目に見えてあきらかなほどに孔明を可愛がっていたし(孔明と徐庶が親しくなったとわかって以来、孔明に喧嘩を売る人間は、ぱたりといなくなったのだが)、劉琦も、孔明が、自分の命を狙う蔡一族とつらなる黄家の人間を娶っても、常に高く人物を評価していた。
馬良が、劉備に仕官して気付いたのであるが、ここでも孔明の魅力というのは爆発的な威力を見せており、劉備以下、主だった将は、孔明に心酔しきっている。
この陣中においては、このひとに悩みなどあるまい、と思うと馬良は妬ましさすらおぼえてくる。
干し柿を肴に酒をあおる孔明は、健康そのもの、顔の色つやもよい。
この若さでいまや天下にその名を知らぬもののないほどの英雄のひとりにまでなった。
いつか趙雲に言い捨てられたように、そもそもの器がちがうのだろうか…
酒をちびちびやりながら、そんなことを考えつつ、夜が更けた。
馬良がふと目を覚ますと、いつの間にか酔いつぶれていたらしい。
体に上衣がかけられており、長椅子に横たえられていた。
だが、一緒にいたはずの孔明がいない。
家令が気をきかせて、孔明を客室へ案内したのかな、と思っていたが、ふと、冷たい風に頬をなぶられた。
起き上がると、戸口が開いており、欄干に細長い、鶴のような影が立っているのが見えた。
孔明だ。
おどろいて声をかけようとし、川岸でもそうであったように馬良は言葉を失った。
孔明は、今度は月を睨みつけていた。
しかし、その様子はどこかおかしい。
青白い、透けるような肌をもつ孔明は、月を見つめたまま、掌を大きく広げ、まるで月から自分を隠すような仕草をして見せた。
つづいて、自分の髪に触れる。
孔明は、物思いに沈んでいるときに、無意識に髪をいじる。
やはりなにか悩みがあるのだろうか、と馬良が声をかけあぐねていると、髪をいじっていた孔明の手が、妙な具合に下ろされた。
思わず、馬良は声をあげた。
孔明の毛髪が、まるで田畑から作物をひっこぬくように、たやすく抜けてしまったからだ。
孔明は、自分の抜けた髪を、しげしげと、無感動にながめている。馬良は慄然とした。
いつものことなのか?
「亮くん、大事ないか?」
痛みはないか、という問いかけのつもりであったが、孔明は、ああ、と実に単調な調子で答える。
「また抜けた」
「また、だって? 亮くん、具合でも悪くしているのか」
「わたしは普通だよ」
「そんなふうに髪が抜けるなんて、尋常じゃない。まさか、毒でも盛られているのではなかろうね」
「毒…ではないよ」
と、孔明は、抜け落ちた自分の髪をじっと見詰めたまま言う。
その目はどこかうつろだ。
「もう老いが迫っているのかな」
「そんな若い癖して莫迦を言うな。毒でもないのなら、亮くん、きみは心を病んでいるのだ。疲れているのだよ。最近、ちゃんと休んでいるかい?」
「休むと、落ち着かないのだ。仕事をしているほうがいい」
「なにか、悩みでもあるのだろう?」
すると、孔明は、ようやく馬良のほうを見た。
「そう見えるのか?」
「いや…気鬱の病のせいで、頭の毛が抜けてしまった人を知っているのだ。もし君がそうだとしたら…」
「どうだろう、じつは、気鬱どころではなく、もう狂っているのではないだろうか」
馬良はぞくりと身を震わせた。
あきれるほどの自信家の孔明が、これほど弱弱しい言葉を吐いたのが信じられない。
この軍師の内面で、いったいなにが起こっているのか。
「きみはマトモだ。どこをどう見ても、以前と変わらない!」
と、孔明はじいっと馬良を見た。
なにもかも見抜かんとする、強い眼差しである。
馬良はうろたえた。
この友に、下手な嘘はまったく通じないことを忘れていた。
「あ、いや、変わった、とは思ったが、それは君が、軍師らしくなって、威厳があふれているというか、そういう、よい意味での変わった、だ。
陰口を叩かれる類いの変わった、ではない」
「それも嘘だな。きみ、わたしを怖がっているだろう?」
「……そりゃあ、その、きみがわたしの上役でもあるからだよ」
馬良がしどろもどろになりつつ答えると、孔明は、ふうっ、と大きなため息をつくと、手を額に当てた。
「悪かった。わかっているのだよ。こんなふうに答が出ないことを知っていながら、互いに追いつめあったところで、よいことなど一つもないのだ。
すまない、忘れてくれ。主公が申されたとおり、わたしは疲れているにちがいない」
「主公にまでそう言われているのなら、やはりゆっくり休むべきだよ。まわりにはわたしから言っておく。
だから、いまから休みたまえ。家令にきみの部屋を用意させている。時間など気にせず、ゆっくり寝ていてくれていい」
孔明は、ありがとう、と弱弱しい笑みを向けてくる。
馬良は、さらにうろたえた。
そうして、孔明がついに悩みを打ち明けてくれなかったことに、またもがっかりした。
翌日、馬良は、簡素な門構えの屋敷の前を、犬のようにぐるぐると回っていた。
人通りのすくない、閑静な一角に、その屋敷はある。
市場のにぎわいとも遠く離れ、子供たちの遊ぶ声にまじって、どこぞの趣味人がかき鳴らす琴の音、それに合わせて唄うように、ほおじろ鳥の、のんびりした鳴き声が聞こえてくる。
よいところに居を構えたな、と馬良は感心した。
いや、感心している場合ではないのだ。
孔明は、今朝早くに起き出すと
…馬良は、孔明がほとんど眠っていない、と睨んでいた…
身づくろいをして、出仕した。
馬良はそれを止めることができなかった。
休みたまえ、という忠告を、ほとんど無視して行ってしまった孔明の姿に、馬良は、もう自分だけでは孔明をどうにもできない、ということを悟ったのだった。
そうして、この屋敷へやってきたのである。
門を叩き、家人を呼んで、取次ぎを願う、そうして主を呼び、事情を話し…
やらなければならないことは判っているのに、馬良は迷っている。
馬良は聡明な男であるが、欠点は、押しが弱い、というところであった。
人の機微を観察することにかけては上手なのであるが、それを利用する、ということに向いていない。
性格が良すぎて、思いやりをかけすぎてしまい、良心の呵責に悩まされてしまうのだ。
まして、自らが主体になって行動する、ということは、ほとんどしたことがない。
襄陽時代には、孔明が主導権をがっちり握って、馬良は横から補佐をするだけであったし、家においても、弟の馬謖が口八丁手八丁なので、その言に従っているだけである。
だから、一人でなにかをしなくてはいけない、という状況が苦手だ。
馬良は、おのれを叱咤しつつ、昨夜の孔明の姿を思い出し、気を奮い立たせた。
あんな孔明は、孔明ではない。
以前のような、燦々と輝く陽のような孔明に戻ってもらいたい。
悩みがあるならば、それを解決できるように、脇からそっと手を差し伸べるのも友の役目ではないか。
馬良は、心ならずも、孔明を裏切ったことを、どうしても忘れることが出来なかった。
あの罪をつぐなうためにも、孔明を助けなければならない。
おのれの都合のよいときにだけ親しくし、都合が悪くなると、なんやかやと理由をつけて切り捨てる。
世にあまたあるニセの友情とは、われらの友情はちがうのだから。
よし。
馬良は、意を決し、ぐるぐる回っていた足を止め、門の前に立った。
門を叩こうとしたとたん、門が消えた。
ちょうど、内側から、だれかが門を開けたのである。
「ぎゃあ!」
思いもよらぬ相手が出たので、思わず馬良は悲鳴をあげる。
門をあけて、いきなり悲鳴を浴びせられたほうは、さすがにムッとして眉をしかめている。
「これは、従事どの。わが屋敷の前で、如何なされましたかな」
いきなり自分の家から出てきたとたんに、ぎゃあ、と言われたら、誰だってムッとする。
これがもし張飛や関羽だったら、無礼なやつ、の、ひと言で、バッサリだ。
馬良は気を取り直しつつ、屋敷の主…趙雲に礼を取った。
「これは大変失礼をいたしました。まさか趙将軍みずからがすぐお出ましになるとは思っておりませんでしたので、どうぞご無礼をお許しくださいませ」
「許すのは構いませぬが、お珍しいですな」
馬良は、頭の中で何度も考えた段取りが狂ってしまったので、うろたえていた。
正直なところ、馬良は趙雲が苦手である。
趙雲は、わかりにくい。
張飛や関羽らのほうが、感情をはっきり表に出してくれるぶん、応対の仕様がある。
だが、趙雲はそうではない。
孔明に聞いたのだが、常山真定の趙家といえば、なかなかの名家で、趙雲はかなりきびしく育てられており、本人もその気になれば、ありとあらゆる話題について、かなりの知識を披露できるらしい。
たしかに…と、馬良は孔明のことばを思い出す。
趙雲を前にすると、猪武者を相手にするときとは、次元のちがう緊張感をおぼえる。
言動や功績、その容姿から立ち居振る舞いに至るまで、まるで隙というものがない。
それでいて目立たないのは、趙雲の全体が、あまりに端正に過ぎるからである。
どこかに癖やほころびがあったほうが、衆目は集まる。
端正に過ぎる、ということは、きわめて非凡であるのだが、それがあたりまえに見えてしまうあたり、趙雲のすごさと、損がある。
それに、趙雲とは、新野城で、不本意な再会をしている。
弟の馬謖に誘われるまま、ふらふらと夜の街へ遊びに行ってしまい、そのとき、町を巡回していた趙雲に出くわしてしまったのだ。
趙雲は、孔明には黙っている、と約束をしてくれたが、馬良は、愚かなことを言ったものだと、過去の自分を責めている。
この潔癖で律儀な武人は、きっと自分を軽蔑しているにちがいない。
「軍師に、何事か?」
と、おそろしく勘の良いところで、趙雲はずばりと言った。
「よくおわかりになりますな」
「そうでなければ、貴殿が拙宅の門を叩くことはございますまい。何事です」
いつも寡黙で冷静、という印象があるのだが、趙雲は、めずらしく急いて馬良にたずねる。
作法の観点から見れば、客人を門の中に招きもせずに門前で話をする、などと無礼きわまりないのであるが、そんなことも気にしていられない様子だ。
その勢いに気圧される形で、馬良は昨夜のことを語った。
趙雲は、じっ、と目の前に立っているのが、孔明そのひとであるかのようなきびしい眼差しを注いで黙っていたが、馬良の話が終わると、
「わかった」
とだけ言って、馬を自ら引き出して、飛び出そうとする。
あわてて馬良はそれを追って、趙雲にたずねた。
「お待ちを、どこへ行かれる!」
「軍師のところへ」
短く答えると、趙雲は馬の腹を蹴って、砂埃を巻き上げながら、走り出した。
馬良も、あわててそのあとを追った。
2
馬良が、はじめて外の世界とはっきり向き合ったのは、司馬徳操の私塾に入ったときであった。
それまで、襄陽きっての名家の一員として、なんの不自由もなく暮らしてきた。
父母の仲もよく、兄弟仲もわるくなかったので、家のなかは退屈なほどに平和であった。
さらに加えて、馬良の場合、元来おっとりした性格であったから、だれかと争う、ということがめったになかった。
仲の良い家族であるから、互いの気性を知り尽くしており、利害がぶつかった場合には、自然とどちらかが相手に譲った。
そんな環境で暮らしてきた馬良にとって、私塾の生徒たちの、丁々発止の議論の交わし合いには、すっかり呑まれてしまった。彼らは、自分の主張を相手に認めさせるためならば、示威行為も辞さず、根回しも絶やさず、ときには連合したり、あるいは裏切ったりと、さまざまな手を駆使して、しかも容赦なかった。
いきなりノンビリした世界から、生き馬の目を抜く…と言ってしまったら、本物の修羅場が泣くかもしれないが…世界に放り込まれた馬良は、愕然とした。
自分の身の処し方がわからなかったからである。
おとなしく、消極的な馬良は、なかなか友人もできず、議論の場に赴いても、いつもほとんど主張らしい主張ができない。
対策を練っているうちに、ガツリと殴られるような形でやり込められてしまう。
焦って努力をすればするほどに、その姿は滑稽にうつり、物笑いの種になった。
さすがに、このままではいけないと思うようになった。
友を得ようと、馬良なりに努力をしてみた。
慣れぬ努力は、いびつな形で実を結ぶ。
友だちの作り方すら知らなかった馬良は、ともかく必死であったから、だれの、どんな言葉にも、笑顔で「いいよ」と応えた。
そんな馬良の焦りと、人の良さに目をつけたのが、兄弟子たちであった。
はじめは、書を貸してくれないか、つぎにちょっと面倒があるのだが手伝いをしてくれないか、やがてどんどん図々しくなってきて、酒を持ってきてくれないか、金を持ってきてくれないか…
馬良は泥沼にはまり込んだ気配をおぼえたが、そこから脱け出す方法がわからない。
しかも成長期の途上にある馬良にとって、がっしりした体格の兄弟子たちは、とても大きく恐ろしげに見えた。
あるとき、兄弟子のひとりが、馬良に言った。
「おまえの家に、きれいな下働きの娘がいるだろう。あの娘を、ちょっと呼び出してくれないか」
その言葉の先がなにを意味するか、わからない馬良ではない。
兄弟子のいう娘、とは、家令の孫娘のことであった。馬一家が、じつの娘のように可愛がっている少女である。
馬良はぞっとして、そんなことはできない、と即答したが、その答えの報酬は、殴打であった。
馬良は、孤独から逃れたい一身から、唾棄に値する輩に、おのれの心を切り売りしていたことに気づき、後悔した。
後悔したのだけれども、殴打はつづき、ついに、娘を呼び出す約束をさせられてしまったのである。
約束を守らなかった場合に待ち受ける報復、約束を守ったら守ったで待ち受けるであろう、吐き気を催すほどの後悔。
おのれの愚かさを責めつつも、馬良はどちらを向いても抜け道がない状況に、おろおろするしかない。
兄たちに相談することも考えたが、娘を狙う兄弟子は、荊州でも名の知れた豪族に連なる一門で、さらにくわえて、よろしくない仲間とも付き合いがあった。
自死すら考えた。
流れのはげしい川べりに立って、深いところ目指して飛び込めば、すぐに河伯に引き込んでもらえるだろうか、などと考えていた。
「きみは、ほんとうの力というものを知らない」
不意に、声がした。
まさか自分に声がかかったわけでもあるまい。
兄弟子たちは、なにかを持ってきてほしいときにしか馬良を呼ばなかったので。
「あんな下らぬ連中におもねる労力があるのならば、わたしにおもねり給え。いまはなにも報酬がなくとも、将来、抱えきれないほどのおつりをあげるよ」
ぎょっとして馬良が振り返ると、背後に、同門の諸葛孔明が立っていた。
自分とほぼ同じ年の、しかし、あとから入ってきた徐州出身の少年である。
孔明の姿を見て、最初に馬良が思ったのは、
『迷惑な』
だった。
孔明という少年、評判はすこぶる悪い。
なにせ細くて力もそうない癖に、やたらと喧嘩早い。口より先に拳が出ている。さらに加えて、喧嘩に負けても、
「今日はこのくらいにしておいてやる」
とわけのわからぬ捨て台詞を吐く。
あいつはふざけている、と言う者もいれば、徐州からこっちに逃げてくる過程で、頭を強く打ったのだ、という者もいる。
しかも人を殺した前科を持っている、あの不気味な徐庶と仲が良い。
徐庶はなにが不気味かというと、ぜんぜん前科を思わせないほどに物腰が柔らかく、清潔感にあふれているからだ。
二人して、わけがわからない。あまり近づかないでほしい。
そっぽを向いた馬良に、孔明は言う。
「きみは、せっかくの貴重な人生を、愚図のごろつき以下に捧げてしまうわけかね。
ささやかな抵抗が、入水自殺というわけだ。止めはしないし、悲しみもしない。むしろ軽蔑するね」
「言いたい放題だな、おまえなんかに、ぼくの心がわかるものか!」
馬良が憤って答えると、孔明は声をたてて楽しそうに笑った。
「ほら、その意気だよ。わたしにそう言えたように、やつらにも同じふうに言ってやればよいのだ」
簡単に言うやつ、と馬良は苛立った。
もしも、孔明に言ったように、兄弟子たちにおなじ言葉をぶつけたら、彼らは馬良を小突くだろう。
だが、それを見越したのか、孔明は、一見すると、深窓のご令嬢のようなうりざね顔を意地悪くして、言う。
「わたしのような嫌われ者なら怖くないが、兄弟子たちは怖い、というのだね。
たしかにわたしは、はぐれ者だからな。やっつけたところで、徒党を組んで仕返しに来られる心配もない。
しかし、だ。
きみは、兄弟子たちを一つの山のように一くくりにして恐れていて、彼らが個々の人間だということを忘れている。
徒党を組んでいるからこそ彼らは恐ろしいのであって、一人一人はそうでもない。むしろ、夜道で出会った案山子のほうが、よっぽど仰天させられる存在だ」
「言葉でなら、なんとでもいえるさ。きみだって、喧嘩じゃ、いつも連中に負けているじゃないか」
「負けてやっているのさ。そうでなければ哀れだろう。頭じゃとうていわたしに太刀打ちできないのだから」
なにを言い出すか、と馬良は怒ったが、しかし孔明は涼しい顔である。
どうやら本気で、そう思っているらしかった。
「良くん、賭けをしようじゃないか。
この三日のうちに、わたしは兄弟子たちをこの塾から追放する。もし全員の追放に成功したら、きみはわたしに人生を捧げること。
もし成功しなかったら、そのときは、わたしが兄弟子たちに、きみのところの娘さんの代わりになるものを持っていく」
「代わりになるもの、って?」
「そうだな、妓楼を一晩、貸切りにできるくらいの金があれば、しばらく大人しいのじゃないかしらん。
もっとも、連中が遊んでいるあいだに、次の対策をたてるけれど。
どうだろう、きみにとっては、悪い話じゃないだろう?」
馬良は半信半疑であったが、なにもしないよりマシ、と思い、孔明の賭けに乗った。
人生を捧げる、といわれたけれども、その時点では、なんら具体的な画は見えていなかった、というのもある。
そうして、三日間、孔明は、『なにか』をやった。
四日目、馬良の耳に入ってきたのは、兄弟子たちが、いっせいに私塾からいなくなった、という知らせであった。
孔明は、得々と馬良の前にあらわれて、
「ほら、賭けはわたしの勝ちだね」
と、高らかに言った。
あとで徐庶からこっそり教えてもらったことには、孔明は同年の友だちがほしかったのである。
しかし、きっかけが掴めなかったので、賭けの話なぞを持ち込んで、馬良を危機から救って見せたのだった。
孔明が、三日間でなにをしたかについては、徐庶も教えてくれなかったが、
「あいつの目は、俺たちの見ていないものまで見ているのさ」
という言葉だけを意味ありげに語ってくれた。
以来、賭けのとおり、馬良は孔明に人生を捧げることにした。
趙雲は、言葉どおりにまっすぐ、孔明のいる執務室へと向かっていく。
桂陽の太守の地位を、趙範に返してやり、いまは奥向きの取締りをしている趙雲であるが、臨烝においては顔見知りが多いらしく、まっすぐ、といっても途中途中で声をかけられ、なかなか前に進めないでいる。
何人目かと挨拶が終わったあと、趙雲はめずらしく、宙に向かって怒気を吐いた。
「どうして屋敷を出てからここまでの道のりでかかった時間より、役所に入ってから軍師の部屋までの時間のほうが、長いのだ」
「亮…いえ、軍師は執務中でしょう。それに軍師は仕事の虫。いかな貴方様でも、手を止めて、話を聞くとは思えませぬ。ですから、そう焦らずともよいのでは?」
馬良が落ち着かせるために声をかけると、趙雲は振り返らぬまま、返事をした。
「まだ大丈夫だろうと、タカをくくっていると、突然倒れるのが軍師です」
「よくご存知で」
「おれは軍師の主騎ですぞ。その任はいまだ解かれてはおりませぬ。しかし、奥向きに気をとられて、軍師の周辺を部下に任せていたのは誤りでございました」
趙雲が、付け足すように、小声で、
「あのたわけ者」
と、低くつぶやいたのを、馬良は聞き逃さない。むっとして、趙雲の背中に言う。
「将軍、軍師は、たわけではございませぬぞ。赤壁の戦からいまに至るまで、軍師は身を削るような思いをなさった。そのために、いささか判断力がおかしくなっているだけのこと。たとえ冗談でも、軍師を貶めるような言葉は止めていただきましょう!」
「貴殿は軍師を尊敬しておられるのですな」
「もちろんですとも!」
と、馬良は堂々と胸を張る。
ときおり、腸が煮えくり返るほどに腹を立たせてくれる存在ではあるが、それもまたご愛嬌として、痛快な思い出を残してくれるのが、孔明という人物である。
助けられてきたのは、襄陽で出会ったときばかりではない。
「あんた、ミョーなものを尊敬しているな」
と、趙雲は、馬良の前を、武人らしいきびきびした足取りで進みながら、ぽつりと言う。
馬良は、小走りにそれに追いつき、横に並んで、食ってかかる。
「ミョーなものですか。だいたい、趙将軍とて、軍師の身の上を案じ、ここまで飛んできたではありませぬか」
痛いところを突かれたらしく、端正な横顔に、めずらしく苦いものが走る。
「わたくしと貴殿は、いわば崇拝する相手を同じくする仲間のようなもの。多少の意見の食い違いは、この際、目をつぶりましょう。でも軍師を『ミョー』と評するのは如何なものか」
「…飛んできた、というのは誤りだ。おれは、これが普通なのだ」
「亮くんの崇拝者は、なぜだか本人と同様に、みんな意地っ張りになる。おかしなものですな。徐庶もそうでした」
「…」
「認めておしまいなさい。軍師を崇拝している、と。認めてしまえば、あとは楽になりますぞ」
「きっぱり断らせていただく」
あやしげな新興宗教の勧誘のような馬良に、趙雲は、言葉のとおり、きっぱり言うと、孔明の執務室の前に立った。