古鏡と銀の櫛

前編

「またか」
押し殺した声からにじみでる、殺気にも似たはげしい苛立ちに、新野城の者たちは、文官武官、身分の高低問わず、みな、びくりと身をふるわせた。

趙雲は、めったなことでは感情を表に出さない。
怒りであろうと喜びであろうと、その冷たい矜持を崩すことはできなかった。
愛嬌とは無縁、かといって野暮ったさもない。
もともと人目をひく凛々しい風貌をしているから、いっそう鋭さが先に立って、隙がまるでなく、つねに近寄りがたさをかもし出している。

いつもは冷静であろうとするあまり、平板になりすぎるその顔に、めずらしくもはげしい苛立ちがあらわれたのを見て、まわりにいる新野城の人々も興味をそそられ、なにごとかと目を向けてみる。
だが、その怒気をおびた険しい顔を見ると、さっと目をそらし、顔を伏せるか、足早に立ち去ってしまう。
常日頃から、趙雲の周囲に、人はすくない。
己にきびしく、他者にもきびしいのが趙雲である。
かれと親しく語り合う者はすくなく、したがって、かれが素の表情でくつろいだ顔を見せているところを見たものもすくない。
孤高。
ひと言でこの男を表現するならば、それである。
主君の劉備に対する想いは、義兄弟である張飛や関羽にもまけない。
しかし趙雲は、それを仕草や言葉で示すのではなく、ひたすら黙って、行動であらわす。
めったなことで誤りはしない。
淡々と、あたりまえのように、もとめられた結果を出す。
その完璧な生き様ゆえに、冷たいとか、何を考えているかわからない、と陰口を叩かれることもある。
しかし趙雲自身は、この性分は変えようがなく、主君の役に立っている以上は、変える必要もない、と思っていた。

「おい」
怪訝そうに、唯一、声をかけてきたのは、張飛である。
顎を覆う虎髯に、きょろきょろとよくうごく表情豊かな大きな目をした大男だ。劉備の義弟である。
この、ざっくばらんで傍若無人のように見えるが、じつはなかなか気遣いのひとである張飛は、不安そうに、怒れる趙子龍の様子をこわごわと遠巻きに見ている周囲の代表を買ってでて、趙雲に声をかけたのであった。
「なにが、またか、だ」
張飛の声にも、趙雲は表情をやわらげず、むしろ、いっそう、顔をけわしくして、思った。
口にだしていたのか。
我を忘れる、ということは調練や戦のなかではたびたびだが、こうした日常においては、なかったことである。
それほどに、趙雲は苛立ちの原因に心を集中させていたのだった。
「二度目だ」
「あん?」
わけがわからず、張飛が聞き返してくる。
趙雲は、もともと口数が少ない。
口にすべき言葉を知らないのではない。
趙雲は、語るべきときにはかならず口をひらく。
だが、それは逆にいえば、語るべきときではないと口を開かない、ということでもある。
趙雲は控えめな男なのである。

張飛が、おおきな目をくるりと回転させ、この男は、いったい、何を言いたいのだろうと考えている顔を見せたので、はじめて趙雲は、わずかに表情をゆるませ、答えた。
「守護の対象を見失った」
「うん? ってぇことは、それは水野郎のことか」
水、というのは主君劉備が、『わたしがかの者を得たのは、魚が水を得たようなものだ』と発言したことを受けて、口の悪い張飛がつけたあだ名である。
劉備が魚、気に食わないあのヤロウは『水野郎』というわけである。
そのあだ名はなかなかぴったりな表現であったらしく、張飛のほか、『水野郎』を気に入らない者たちは、好んで使っている。
「これで二度目だ。完全に巻かれた」
苦々しく言葉を吐く趙雲に、いささか高めの嘲笑が重なった。
見ると、巨魁の張飛のかげに埋もれるようにして、劉封が立っていた。
先だって、劉備が長沙をおとずれた際、気に入られて養子にはいった少年だ。
劉備の実子は、生まれたばかりの阿斗という赤ん坊ただひとりであるから、養子であるこの少年こそが、現在の劉備の跡継ぎ、というわけである。
この当時は乳幼児の死亡率はきわめて高かったため、阿斗が生まれてもなお、劉封の地位は揺るがない。
劉封の顔立ちは、まださだまっていない、幼さののこるものである。
明瞭な物言いと聡明そうなまなざしが、劉備に気に入られたのだ。
武勇を好む性質で、張飛になついて、いつもいっしょに兵の調練などをしていた。

「さすがの趙子龍も、水を捕まえることはできないのですか。水は霧や氷など、さまざまに姿を変えますからなあ」 
「ちがいない。あの生白い顔の先生に、子龍がまかれたとはな」
反射的に、趙雲は張飛をきつくにらみつけた。
さすがの燕人張飛も、笑いをひっこめ、たじろぐ。
「おい、そうカッカするな。おれは水野郎じゃないんだぞ。
ったく、あいつはこの城の疫病神だな。あいつが来てからっていうもの、揉め事が耐えたことがねえ。
上も下もぴりぴりしやがってよぉ、今朝だって、古参の従卒どもが、つまんねぇことで危うく殺し合いをおっぱじめるところだったんだ。
原因はなんだったと思う? 荊州の酒と、予州の酒、どっちがうまいかで口論になったんだと」
どっちだろうが、気持ちよく酔わせてくれる酒がいちばんだ、と張飛はぶつぶつ言う。
しかし趙雲は、張飛の世間話には乗らず、剣呑な顔をしたまま、言った。
「諸葛孔明だ」
「あん?」
張飛はふたたび怪訝そうに聞き返した。
「水野郎ではない。ちゃんと諸葛孔明という名前がある。ちゃんと名前で呼んでやれ」
「はあ? んなこた、知ってるよ。なんだよ、兄貴みてぇな口をききやがって。
水野郎は、水野郎で十分だ。劉封、おまえもそう思うだろう」
「叔父上のおっしゃるとおり。父上の軍師熱にもこまったものです。
徐元直(徐庶)どのに愛想をつかされたのに懲りず、今度は襄陽きっての変わり者を軍師に据えるとは」

あまりにあからさまな物言いに、趙雲はわずかに眉をひそめた。
劉封は、まだ少年といってもよい年頃である。
言動がはっきりしているため、頭脳明晰で、将来の大器と評判である。
物怖じしない性格ゆえに、古参の兵士たちからも気に入られているのだが、おなじ叔父でも関羽には反発し、おなじように、趙雲にもあまりよい顔はみせない。
観察するに、どうも口うるさい人間や理屈っぽい人間を嫌い、避けているようであった。

「軍師なんてもんがなくったって、戦に勝って見せるってのによ。子龍だって、腹のなかじゃ、そう思っているんだろう」
張飛が水を向けてくる。
議論するつもりはなかったし、おのれが平常心をうしなっていることに、趙雲は気づいていたので、顔をしかめた張飛と劉封に背をむけ、手のかかる新入りを探しにいった。

諸葛孔明。

張飛や劉封に負けず劣らず、趙雲も、あの年若く聡明で高雅な、しかし人を見下した目をした顔を思い出すと、むかっ腹がたって仕様がない。
しかし劉備の、無邪気な子どものような満面の笑みを思い出し、なんとか苛立ちを鎮めてみる。
孔明の先任であった徐庶よりも、さらに毛色のちがう、そして若すぎる軍師に対して周囲の反発がつよいことにとまどっているのは、劉備もおなじである。
おのれまで、張飛たちのように、あからさまに不満を口にして、劉備の心労を増やしてはならない、と趙雲は考えている。
怒りの爆発をおさえているのは、いかにも華奢で世間知らずな青年軍師のためではない。
主人たる劉備のためだけだ。

そもそも、最初から躓いていた、と思う。

まともに顔を合わせたのは、劉備に引き合わされたときであった。
礼儀上の挨拶をひととおりかわし、目と目があった瞬間、趙雲は、直感で、目の前の青年に、畏怖に似た感情を抱いた。
つぎに、なんという目をしているのだろう、と思った。
不気味なほど澄んでいて、まるで容赦のない目をしていた。
ひと目で、只者ではないとわかる美麗な風貌。
くわえて、千里の彼方まで見通すようなまなざし。
よく響く、にごりのない声。
その存在感は、いままで出会っただれとも比べようのないほど圧倒的。
劉備ですらこれほどではなかった。
もし敵として対峙していたなら、趙雲はためらうことなく、その場で斬り伏していただろう。
劉備のためではなく、ただ、恐怖から。

劉備は、この年若く美麗な青年軍師をみなに紹介するのが、うれしくてたまらない様子であった。
劉備は孔明に、今後、この趙雲が孔明の主騎となることをつたえた。
そのときの、孔明の、とまどいの入り混じった迷惑そうな顔を、趙雲は生涯わすれないだろう。
しかし劉備は、それに気づかず、屈託なくつづける。
「噂を聞いたんだがな、曹操が、南下の準備のまえに、おれたちに刺客を差し向けてきているらしい。
子龍、おまえは聞いたことがあるだろう。刺客の名前は『古鏡』だと」
「なんと、官渡の戦いでは、内側から袁紹一族をほろぼすのに一役買った、というあの刺客でございますか。
たしか正体については一切が不明で、その存在の痕跡ものこさぬ、というほどの一流の刺客」
「情報が正しければな。しかしおれも大物になったもんじゃねぇか。袁紹をほろぼすのに使ったのと、おなじ手練れを差し向けられるようになったんだからな。
ま、それだけ今回の曹操の南下は本気ってことだろうけどよ」
と、劉備はまるで他人事のように、明るく呵呵大笑した。
たとえ死地にあっても、劉備の太陽のようなあかるさは変わらない。
このひとの肝の太さを、趙雲はなにより尊敬している。

「しかし、それがしが殿の主騎をはなれるとなると、だれが後任に就くのですか」
「そいつは心配いらねぇよ。おれはしばらく張飛や関羽と一緒にいるつもりだ。
あいつら、孔明が来てから、なにやらぶうたれてばっかりいるからなあ。あいつらの気を鎮めてやらなくちゃならねえしな。
このあいだ薬師に処方してもらった、気持ちが落ち着く薬湯でも飲ませてやるつもりだよ。
おまえには話したっけか、劉封が連れてきた薬師なんだが、こいつの処方する薬湯が、なかなか具合がいいんだよ。
それがな、張飛のやつ、ここんとこ胃がむかむかするって言うもんだから、薬湯をすすめてやったら、こんなもん、鼻をつままないと苦くて飲めねえ、だなんて、大の大人が子どもみたいに情けないことを言うんだよ」
あいつは仕様がねぇなあ、と劉備は張飛への愛情をこめてわらう。
ふと、劉備の目がとおくを見るような、なつかしいものに変わった。
「そういやあ、なつかしいな。袁紹のところに身を寄せているときに、情けをかけた女がいてな。
短い付き合いだったが、ありゃあ佳い女だった。いっしょに荊州へ連れて行こうとしたんだが、故郷は離れられねえっていって、とうとう首を縦に振ってくれなかったっけ。
おれは去り際、あの女に銀の櫛を送ったんだよ。おれが去っても、わすれねぇでくれ、ってな。いま思い出してもせつなくなっちまう」
「はあ」

昔を思い出し、ほろりとする劉備。
しかし、突如として、早馬のごとく、べつの想念が頭を駆け抜けていったらしく、ぱっと表情を変えて、趙雲をみる。
「おう、子龍、また縁談を断ったってか? いけねぇな、家族を持ってから、やっと男は一人前だぜ」
話がまずい方向に。
趙雲が生返事をすると、劉備は、なにがおもしろいのか、またも呵呵大笑すると、背中をバンバン叩いて、孔明に、
「孔明もそう思うだろう」
と話を振る。
ずっとしずかに脇にひかえていた孔明は、苦笑いを白羽扇でかくしつつ、
「そればかりは縁でございましょう」
と無難なところで返事をかえしてきた。
そして、それでは、あとは若いふたりで、などと、やり手婆さんのような言葉をのこし、劉備は去った。

「無邪気なお方だ」
その、いまにも浮き上がりそうな足取りの背中を見送って、孔明はあきれたようにつぶやいた。
言葉の響きに棘はない。
前任の徐庶は好ましい男ではあったが、主君の劉備にですら、どこか突き放したところがあった。
趙雲は、後任である孔明が、三度も迎えにいかねば腰をあげなかった、という気難しい男と聞いていたので、舞い上がっているのは劉備だけではないといいが、とひそかに心配をしていた。しかし杞憂であったようである。

が。

「趙子龍。わが君はああ仰ってくださったが、わたしの警護は、形だけでよい」
いきなり、劉備の姿がみえなくなったとたんに、孔明はくるりと振りむくと、言い放った。
冴えたまなざしで真っすぐこちらを見る。
冷たいのではないが、親しみやすさもない。
「なんだと?」
反射的に口から言葉が飛び出した。趙雲は、あわてて言葉を直す。
「そういうわけには参りませぬ。わが君のお言葉なれば」
とたん、孔明のまなざしが、はっきりと軽蔑の色を浮かべたものに変わった。
「気遣い無用と申しておる。わたしのお守りはわたしがする。あなたもお好きなように過ごされよ」
と、孔明はそのまま背を向けて、立ち去ろうとする。
趙雲は、その背中に手を伸ばした。

徐州の人間は大男が多い。
孔明も同様で、背丈は趙雲とほとんど変わらない。
すらりとした体躯に、禁欲的な雰囲気のある黒い袍で身を包み、小洒落た刺繍のほどこされた帯を締めている。
肩に手を掛けると、とたんにはげしく振り払われた。
「わたしに触れるな。慮外者め!」
これで相手が武人であれば、瞬間的に、趙雲は孔明を拳で殴り倒していただろう。
しかし相手は自分とおなじ背格好ながらも、細身の文人である。
あらんかぎりの忍耐力でもって、趙雲は拳を振り上げたい欲求をおさえた。
きつくにらみつけてくる孔明に、たずねる。
「それがしに、なにかご不満でも?」
「理由など聞いてどうする。わたしがいらぬ、と言っているのだ。
趙子龍、いままではどうであったか知らぬが、わたしの言葉はいかなるものでも守っていただこう」
「しかし主公のご命令ですぞ」
「主公のご命令ならば、なんでも聞くのか」
「そういうわけではござらん。もちろん、主公が筋のとおらぬことをお命じになれば、本意をうかがう。
しかしわが主公はけしてそのようなご命令はされぬし、第一、主公の身を守れとそれがしに命じられたのは、主公のお心遣いゆえ。
まさか軍師たる主公が、それがわからぬと申されるのか」

すると孔明は、むしろ艶やかなほど意地の悪い微笑を浮かべて、言い含めるようにゆっくりと言った。
「主公のご厚情はわたしもよーくわかっている。
主公からはわたしから直にご説明申し上げよう。あなたに迷惑をかけるようなことはしないつもりだ」
「だから?」
「だから、守護はいらぬ。わかったな」
堂々めぐりである。
趙雲は、気を取り直すべく、息をひとつ吐くと、ふたたび言葉をつむごうとした。
しかし、わずかな隙に、孔明は、すばやくいなくなっていた。
これが邂逅であった。

趙雲はおのれが情に厚い人間だとはおもっていない。
まして、お人よしという言葉からも縁遠いと思っている。
いくら主君の命令であっても、なんの実績もないくせに高慢で無礼な新入りことなど、てきとうに気にする程度に留めて、放っておけばよいのである。
しかし、趙雲には『古鏡』のことが気になっていた。
その者は『古鏡』と呼ばれていて、くわしい正体はまったくわからない。
曹操によって袁紹陣営に放たれた手だれで、『古鏡』の隠れた功績により、曹操は官渡の戦で大勝したという。
刺客のなかでは、かなりの大物、と言ってよい。
古鏡の使う手段はまったくわからないが、その者が入りこんだ陣営は、まるで内側から腐食していくように崩れていく、という。

劉備は、たしかに見かけだけならば龍と形容されるにふさわしい孔明に夢中である。
たとえその才能が見かけ倒しだったとしても、礼を尽くしてむかえた軍師を曹操の刺客によって失う、などということになったなら、劉備は精神的にしばらく立ち直れなくなってしまうだろう。
それがおそろしい。

『うん?』
ふと、欄干から外を眺めやっていた趙雲であるが、近くにある桑の大樹のなかに、なにやら黒いものが見え隠れしている。
鴉のたぐいではない。どこからか、干してあった黒い布が飛んできた、という様子でもない。
引っかかっている位置が高すぎる。
黒い布から一部、ちらりと見えている金色の刺繍。

趙雲は、ようやくその正体に気づき、あわてて大樹に寄った。
見上げると、なんとも珍妙なことに、諸葛孔明が、大樹の真ん中に引っかかっていた。
いつからそうしていたのであろうか。
目をひらいているものの、呆然として、なんとか木の枝に引っかかっている、というふうだ。
どこから落ちたのだろうとさらに空を見上げ、趙雲はぞっとした。
大樹は、城の天辺の見張り台の真下に立っている。あそこから落ちたのだ。

『なんと運のよい』
まともに落ちていたら、いまごろ地面に、脳天のつぶれた孔明の死体が転がっていただろう。
趙雲は、そっと樹上の孔明に声をかけた。
「軍師どの。諸葛孔明どの、ご無事か」
何度か声をかけると、孔明は気が付いた様子で、ちいさく声を漏らした。
「お怪我はないか」
「怪我?」
と、孔明はしばらくぼんやりしていたが、やがて朦朧としていた意識がもどってきて、おのれの身の回りで、がさがさと葉音がする理由を思い出したようであった。
そうして、まだどこか覚めきっていない眼で、樹の下の趙雲を見る。
「おや、趙子龍。お勤めご苦労」
「なにを暢気な。それより、そこから動けますかな」
うん? と孔明は周囲を見回し、それから、ふたたび地上の趙雲を見下ろした。
「わたしはついさっきまで、櫓にいたはずだが」
「考えるのはあとにしていただこう。もし動けぬのであれば、それがしがお助けに参ります」
と、樹に手をかけて登ろうとする趙雲に、樹にひっかかった体勢を、なんとか立て直そうともがきながら、がさがさとせわしない葉音をさせて、孔明は言った。
「その必要はない。子龍、もうすこし、そこから離れてくれぬか」
「まさか、飛び降りるおつもりか。足の骨を折りますぞ」
「いいから離れよ。おのれの身は、おのれが責任を持つ」

趙雲は、いままで真摯に孔明の身を案じていた自分が、ずいぶん莫迦に思えた。
責任をもつ、とはっきり言っているのだ。
勝手にすればいい、と趙雲は、憮然とした面持ちで、いわれるまま、樹から離れた。
孔明はというと、地面とおのれとの距離を目測しつつ、器用に足を移動させて、頑丈な枝のうえに足場をつくると、たっ、と短く掛け声をかけて、ひらりと優雅に地面に降り立った。

意外である。
文人というのは、たいがい、とろい。
でもって、年若く上位についた者の常として、こういった場では、おのが立場を嘆いて、おおさわぎするか、でなければ早くなんとかしろと怒鳴り散らすのがふつうである。
しかし孔明は、騒ぐどころか平然としていて、しかも自分で降りてきた。

思わず、趙雲は口にしていた。
「あんた、思った以上に元気だな」
すると、孔明は鼻で笑って、つぎに、睨むように、目を細めた。
「文人は、みな箸より重いものを持ったことがない、などと思っているのではないだろうな。
わたしは徐州より荊州に流浪してきた身だ。乱世のおそろしさは身をもって知っている。
農作業していただけではない。ちゃんと身を守る術も知っている。剣も使えるぞ」
「それは失礼した」
なんで謝らねばならないのだ? 
うろたえつつも素直に謝罪を口にする趙雲を、孔明は、ちらりと冷たい眼で見る。
これで普段であれば、さぞかし冷たく突き放したように見えるのだろうが、あちこちにぶざまに葉がくっついているので、まるで様にならない。

孔明は、葉を取ろうともせず、容赦なくつづける。
「しかし貴殿、思っていたより莫迦だな」
「莫迦?」
「そうだ。わたしを助けるために樹を登る、などと申していたが、こういうときは梯子を使うものだろう。
わたしを片腕で抱きかかえて地上に降りるつもりだったのか?」
「それはそうだが」
「やはりこの城の者になぞ、わたしの身辺警護は無理だ」
言いつつ、まわりにくっついた葉もそのままに、孔明は悠然と去ろうとする。
とたん、趙雲の堪忍袋が弾けた。
「待て、この青二才! このあいだから、こちらが黙っていれば、いい気になりおって!」
怒気を吐く趙雲を、孔明は、平然と振り返る。
「正直なところを申し上げたまでですが、なにか?」
急に言葉遣いがていねいになったところも、気分を逆撫でする。
「ふざけるな! そういうおのれは何だ。なにひとつ実績も上げぬまま、殺されかけたくせに。それを棚に上げて、なにを言うか!」
「なぜ殺されかけたと言い切る」
「櫓は、このあいだ補修工事をしたばかりで、壁が崩れたりするようなことはありえない。
それにあそこの壁は、おれの胸のあたりまでの高さがある。おのれの意志で落ちようとしないかぎり、あそこを飛び越えるのは無理だ。
見たところ、貴殿は、世の人すべてが死に絶えないかぎり、おのが命を絶とうとするような人間ではないと見た。
だから自殺もありえぬ。すると考えられるのは、だれかが貴殿を突き飛ばした、ということだ」
「なるほど、そこまで考えられる頭はあるわけだ。しかしひとつちがっているぞ、趙子龍。
わたしはたとえ世の中が死に絶えたとて、絶望はせぬ。
世の人すべてが死に絶えて、わたしだけになったとしても、わたしは、わたしからまた人の世が始まるように努力する。それが生き残った者の義務というものだ」
と、孔明は堂々と胸を張った。
趙雲は怒りをわすれて、呆れた。
たしかに、このふてぶてしさならば、実現してのけるかもしれない。

趙雲は、驚異的な忍耐強さでもって、息を吐いて気持ちをおちつかせると、孔明に尋ねた。
「櫓にはだれがいた? おのれを突き飛ばした者は見なかったのか」
「あいにくひとりであったし、他の者には気づかなかったな。考え事をしていたものでな。
そうだ、なにか、鈴のような小さな音を聞いた覚えがある」
「鈴?」
「一瞬であったので、もしかしたら聞き違いかもしれぬが。
もしかして、噂の『古鏡』かな。わたしも短い間にずいぶんと有名になったものだ」

妙なところを感心している場合ではない。
「そこまで知っているのならば、やはり警護の者はつけておいたほうがよかろう。おれが嫌なのであれば、だれかほかの腕の立つものを殿に推薦する」
すると、孔明は、はじめておどろいた顔をして、趙雲を真正面から見た。
そして言った。 
「なぜ?」
その独特の、心の奥底まで見通さん、としているような、つよいまなざしに、趙雲はうろたえる。
それは己の利益を嗅ぎ分けようとするいやしいものではなく、純粋に好奇心から起こるまなざしのようであった。
「なぜもなにもない。現に、おまえはこうして命を狙われている。
おまえになにかあれば、それはおまえだけの問題ではない。
徐庶どのにつづいて、おまえも曹操に奪われたとあれば、さすがに殿とて気落ちされるだろう」

と、ふと趙雲は疑問をいだいた。
劉備ならば、命をねらわれる可能性はある。
しかし、まだなんの実績もあげていない孔明が命をねらわれたのは、なぜなのか。
曹操は、徐庶のときには、わざわざその母親を見つけ出し、そばに召しだし、人質にする、という手間をかけて幕下に組み入れた。
この差はなぜなのだろう。

ふと、孔明が、なにやら不思議なものを見るまなざしで、怪訝そうに小首をかしげて趙雲を見入っている。
言葉の意味がのみこめなかったのではあるまい。
なぜ趙雲が、己にそんな言葉をかけるのかが、理解できないようであった。
それならば、嫌味たっぷりに切り返してくればよいものを、孔明は、趙雲の表情や態度から、その真意を探ろうとしているようであった。
趙雲としては、なにも特別なことを口にしたとは思えないので、孔明がなぜ、己の言葉をふしぎがるのかが、わからない。
さきほどまで、軽蔑のこもった嫌味と皮肉ばかり口にしていたのに、この反応はなんなのだ。
趙雲は苛立ちまぎれにつづけた。
「よいか、これはおまえなんぞのためではない。主公のため、主公のためだぞ!」

とたん、大人しくなっていたものが、また元に戻った。 
「そう何度も主公、主公と繰り返さずとも聞こえておる。あなたそ、思った以上に短気だな。
徐兄は、趙子龍がいちばんマトモだと評していたのに」
「やかましい。おまえ以外のものはすべてマトモだ! おまえが来てから、すべてがガタガタだ。
くだらぬ諍いが山のように増えた。すこしは身を慎むがいい」

とはいえ、かなり八つ当たりではある。
城内で諍いが絶えなくなっているのは事実だが、荊州の酒と予州の酒を巡る喧嘩などに孔明がかかわっているはずもない。

案の定、孔明はむくれた。
「まるでいままでは平和だったような口ぶりだな。
ただ単に、わたしという存在になれていないから、すべてを悪くわたしに繋げているだけではないのか。これだから短慮者は嫌いだ」
「好かれていないとはっきりして、安心した」
「この城の者たちは、だれもかれも心が狭い」
と、孔明は言い捨てて、あちこちに葉をつけたまま、踵を返す。
そのあとを趙雲が付いていく。
しばらく進んで、孔明の足が、ぴたりと止まった。
「なぜ付いてくる」
「おれの代わりの者が指名されるまでは、おれはおまえを守らねばなるまい」
「無用だと申したはず。くどいぞ、趙子龍」
「何度も説明させるな。臥したる龍が聞いて呆れる。寝ぼけとるのではあるまいな。
おれがおまえを守るのは、ただ主公のためだ。
劉備の軍師が一度目は横取りされ、二度目は殺された、などと世の笑いものになるのだけは避けねばならぬ」
「あなたは、思った以上に弁が立つのだな」

孔明と趙雲は、はげしく視線を戦わせた。
もし目線というものが見えるものならば、おそらくそれは雷にも似た激しさであっただろう。

折れたのは、孔明のほうであった。
「よろしい、それでは主公のため、あなたの申し出は呑もう。ただし、わたしがひとりになりたいときは、ちゃんと言うから、一人にしてほしいのだ」
「なんだ、それは。おれが貴殿を信用しきれていない以上、そんな要求は呑めない」
『おまえ』から『貴殿』に呼び方をもどしたのだが、孔明はその気遣いに感謝するでもなく、柳眉をしかめた。
「あなたとはしばらく、戦わねばならぬようだ」
受けて立ってやろうではないか、と趙雲は、その冴えたまなざしをきっちり受け止めて、思った。





「よっ、水野郎は逃げてないようだな」
と、本人は小声のつもりで、しかし周囲にしっかり届く声を張り上げながら、張飛がそばに寄ってきた。
酒宴である。
張飛はいつものことながら、酒宴がはじまる前から出来上がっていた。
張飛は宴となると、最初は手伝うと言って、厨房のまわりをうろうろする。
だが、最初の簡単な荷物運びだけを終えてしまうと、あとは駄賃がわりと称して、酒をちびちびと盗み飲む。
そのため、だれよりも先に出来上がってしまうのだった。
そんな張飛をよそに、酒宴はいつもどおり行われた。

腕におぼえのある者が、楽器を手に、城下にやってきた旅芸人たちにまじって演奏を披露している。
仲間のかくし芸を揶揄したり、あるいは拍手喝さいしたりしながら、なごやかに宴はすすんでいた。
中には、舞姫たちと一緒になって踊りだす者もいる。

趙雲は、杯を口に運びつつ、肩にのしかかり、あれやこれやと話しかけてくる張飛に、てきとうに返事をしながら、ちらりと孔明のほうを見た。
孔明は、劉備のとなりで、宴の様子を泰然と見守っていた。
宴の中心にいるのは孔明なのであるが、しかし、まるでそこに存在していないかのように振舞っており、この賑やかな宴のなかにあっては、浮いた空気をかもし出している。
たまに、糜芳や孫乾が年長者らしく、孔明に話しかける。
とくに糜芳とは、おなじ徐州出身ということで、言葉も問題なく通じるので、比較的に話がつづいているようだ。

孔明は、昼間は、兵卒の調練に顔を出したり、城外の堰の補修工事を指導したり、あるいは村々をまわって生活ぶりをみて回ったりと、精力的に仕事をこなしている。
夢中になると寝食をわすれるようで、何度か趙雲が注意をして(例のごとく口論をしたあと)食事を摂る、というふうであった。

劉備はというと、しずかに杯をすすめる関羽に、薬湯の効能をとくとくと説明している。
たまに、脇にいる劉封が、口を挟んで、劉備のことばを補う。
劉封と劉備の背後に、影のように添っているのが、うわさの薬師らしく、目立たぬ、柔和な顔立ちの中年男であった。
劉備は、義兄弟と義理の息子、そしていちばんのお気に入りである軍師にかこまれ、至極ご満悦の様子である。
薬師に指示されたとかで、せっかくの宴席なのに、ほとんど酒に手をつけていないのだが、それでもいちばんはしゃいでいるのは、劉備であった。

趙雲は、いつでも孔明のところへ行けるように、すぐそばに席を取っていた。
孔明は、糜竺との会話を切り上げ、隣にいる劉備と歓談をしている。
しかし、劉備の体が孔明のほうにむくと、それまで愛想のよかった隣席の劉封の顔が、凍りついたようにつめたくなるのが遠目にもわかった。
孔明はそれに気づかぬフリをして、おだやかな笑みを浮かべている。
趙雲は、肩にかかる張飛の腕の力を意識しつつ、ほっとした。
あの調子ならば、張飛の銅鑼声も届かないだろう。

「ったく、兄貴はなんだってあんな高慢ちきな野郎を軍師にしたんだろうな。ええ、おまえもそう思うだろう?
徐元直どのは良かったよな、剣客だったって話だからな、おれたちと根っこは一緒だったんだよ。
たしかにあんまり仲良くできなかったけどよ、おれたちのことは、語り合わなくてもわかってる、ってふうだったもんな。
あの水野郎はいいとこの坊ちゃんで、苦労知らずで、箸より重いものを持ったことがねぇ類に決まってらあ」
「いや、そうでもないようだぞ」
あん? と、張飛が、酒臭い顔を近づけた。
「軍師は、意外に身軽だし、たしかに高慢ちきだが、仕事ぶりは徐元直どのにも劣らぬ」

それは、孔明に嫌がられながらも主騎をつとめて、実感したことであった。
趙雲は、間違っていないことだと確信できる事柄については、怖じることなく、相手の気分を害する可能性があろうと、率直に口にする性分である。
張飛は、趙雲の直言に、おおげさに目をむいた。
「おいおい、さっそく丸め込まれたのかよ。あいつはすました顔をしてるがな、知っているか、どうやら城下に女を囲っているという噂だぞ」
「女? だれから聞いたのだ」
「噂だよ。知らないのは、おまえと、兄貴ぐらいのものじゃねぇのか。どうも夜な夜な城下へ繰り出しているらしいぜ。
あの先生の女房というのは、たいそうな醜女なんだってよ。しかもド田舎に住んでいたので、ずうっと我慢していたのが、ひさしぶりに町に出てきて吹き出したんだろうさ。
証拠に女房は田舎の家に置いたきりだ。たしかに色男だからな、女には不自由ないんだろうよ」
そのあたりも気に食わないらしく、張飛は大きく鼻を鳴らした。
「腐れ儒子が。そんな野郎に命を預けるなんて、どうしたって出来やしねぇ。おまえもそう思うだろう?」

趙雲は、頷くことはできなかった。
孔明に対する反感が消えたわけではないが、納得ができなかったのだ。
孔明が外出するときは、ほとんど常に影のように添っているのだが、こそこそと女遊びをしているのであれば、かならず、どこかにその痕跡が見えるはずである。
それに、夜な夜な城下の妾のもとへ足繁く通う、などという行為は、あの軍師に似つかわしくない、と思うのは、ここ数日で思い入れができてしまったからだろうか。

ふと、趙雲の視線に呼応するかのように、孔明がこちらを見た。
こちらの声が聞こえたのかな、と思った趙雲であるが、そうではない。
いつもは倣岸不遜に見えるほどの不動のまなざしが、あきらかに動揺しているのがわかった。
趙雲は、張飛をやんわりとやりすごすと、目立たぬようにそっと席を立った。
趙雲は、その大柄で立派な容姿から、目立つ男であったが、劉備の主騎の経験が長かったので、影のように立ち振る舞うすべを心得ている。
さりげなく自然に孔明のそばに寄る。
すると、孔明は、袖で隠すようにして、膳にあった椀を見せた。
趙雲は、その中身を見て、低くうめいた。
羹の入っていたその椀には、不気味な文様をその身に浮かばせた、姿かたち、色合いからして身震いするほど、気味の悪い毒蛾が浮かんでいた。
「口にしていないか」
「だいじょうぶだ。わたしが手にしたときには、まだ生きていた。羽音がしなければ、飲んでいたかも知れぬがな」

だれが、と趙雲は、宴を見回した。
だれも、こちらの様子には気づいていない。
一方で、孔明は、趙雲のほうを見ずに、あくまで宴をたのしんでいる態度をくずさないようにしている。
こいつ、なかなかたいしたものだな、と趙雲は感心した。
孔明は、趙雲のほうに顔を向けないまま、宴席のほかの者たちには清雅な笑みを返しつつ、声だけは低く強ばらせて状況をつたえる、といったむずかしいことをやってのけた。
「今朝も、寝所にネズミの死体が投げ込まれていた。ここの城の者は陰湿にすぎるな」
百把一絡にされたのが気に食わない。
趙雲はむっとしつつ、孔明にならって、声を落として答える。
「たしかに貴殿に対してよく思っておらぬものはおおいが、この城に、陰湿ないやがらせをする者はおらぬぞ」
「なぜ断言できる。あなたとて、さきほどから張飛どのとずっとこちらを見ていたではないか」
「おれは仕事で、張飛どのは貴殿が気になって仕方がないのだ。声は聞こえなかった」
「そうか。そちらの声は筒抜けだったのだがな」
趙雲はことばに詰まった。
気まずい。

孔明は、説明できるのか、とでも言いたげな、挑発的な一瞥をくれた。
趙雲は、気まずいながらも、けして言い訳ばかりにならないよう、慎重にことばを選びつつ、答えた。
「張飛どのは、心に浮かぶことを、そのまま口にしてしまう、天真爛漫な性分なのだ。その代わり、腹芸はできない。
おれが殿の配下になったときにも、やはりおなじようにずいぶん騒がれたのだ。だがいつのまにか慣れて、いまでは身内同然の付き合いになっている。
時間はかかるかもしれないが、やがて貴殿もそうなる。いまが我慢の為所だぞ」
すると、はじめて孔明は趙雲のほうを見た。
その白皙の面貌には、もう険はなくなって、童子のように素直な表情になっている。
「あなたも同じように? それは本当に?」
孔明が唐突に見せた素直さに戸惑いつつ、趙雲は答えた。
「嘘だと思うのなら主公に聞けばよい。あのころは、主公は袁紹のところに身を寄せていて、主公のお立場は、いまよりずっと悪くて、危ういものであった。
たしかにいろいろ言われはしたが、俺に対してくだらぬ嫌がらせを仕掛けてくる者は、ひとりとしていなかったぞ」
「もしかして、励ましてくれているのか」

完璧に彫り上げた仮面のような顔に、わずかに朱が差している。
うれしいらしい。
つんけんしていたかと思えば、不意打ちのように素直な反応をかえしてくるやつだな、と思いつつ、照れ隠しに趙雲は憮然と答えた。

「どのようにでも取ればいい。それより、これはおれが捨ててくる。
貴殿は、もうなにも口にするな。口にしているフリをしていろ」
頼む、と短くこたえると、孔明は、はじめてその口元に、ぎこちない微笑を浮かべた。
そうして笑うと、齢二十八になるという青年は、少年のようにあどけなく見えた。





翌日、趙雲は、堰の工事の指導に出かけた孔明に付き添って城を出た。
孔明は見晴らしの良い高台に立つと、図面と堰の工事のすすみ具合を見比べている。
孔明の指導している堰は、難所として有名なところであった。
何度も工事が入っているのだが、水の勢いが集中してつよいため、固めた土も、すぐに元通りになってしまう。
そのため、巫女などを呼んで、河伯をなだめる祭祀をくりかえしていたのだが、孔明はそれをやめさせ、みずから工事の監督を買って出た。
孔明のこまかい指導のもと、工事は順調にすすみ、今日まで事故はおきていない。
城内では、嫉みもあるだろうが、『水野郎だから治水もうまい』などと評されている。
しかし治水がうまいということは、等しく行政手腕が高いということもである。

人夫が土を運び、堰を固めていく。
その様子を孔明は図面と几帳面に見比べつつ、何度も飽きずにながめていた。
趙雲は孔明が、ただ口だけなのではない青年なのだと見なすようになっていた。
孔明が着任したばかりのとき、工事現場は、河原に人夫があつまって、ただ石ころを転がして、配給される食事をもらって、夕方になると帰るだけ、というありさまであった。
孔明はまず、人夫頭をあつめ、それから、個々人に話を聞いた。
それから、人夫たちに『城から配給される米をネコババしている』と風評のあった監督官をとりしらべ、これを罷免した。
つぎに、この監督官の太鼓持ちになっていた者もすべて追放し、あらたに人夫頭を下から抜擢して、これに高い報酬をあたえた。
孔明の指示にしたがえば、よい思いができる、と知った人夫たちは、活気づき、作業効率はあがった。

当初、人夫たちは、あきらかに毛色のちがう青年に警戒心をいだいていたが、孔明が、学をひけらかすばかりで、威張りたがりの儒子とちがい、人の話をよく聞いてくれるうえに、対処も早いと知って、日を追うごとに、孔明にさまざまな話を持ってくるようになった。
人懐っこい者などは、聞かれてもいないのに、家族の自慢話などをして周囲の苦笑をさそっている。
孔明本人は、どんな話であろうと興味深く聞き、相談されれば、的確な答を返していた。
やがて、働いている者たちの目が生き生きとして、労働のよろこびに輝くようになった。
無駄話ばかりして、だらだらと作業をしていた者たちが、いまは自分たちの工事のことを気にかけて、そればかりか、工事を順調に進めるために、いろいろと工夫をして、逆に孔明に提案するようになったのである。
人夫たちはすっかり孔明に馴染み、食事の時間になると、わざわざ自分たちの食事を孔明のもとへ届けてくるほどだ。
孔明はというと、粗末な食事をうれしそうにわけてもらう。
とはいえ、半裸で汗まみれの人夫たちにまざって、瀟洒な容姿の青年が共に食事を口にする様子は、微笑ましいながらも、はげしく浮き上がっていた。

「子龍は食べないのか」
と、呆れてそれを見遣る趙雲に、孔明のほうからめずらしく声をかけてきた。
人夫たちに混じりながらも、かといって溶け込もうと無理をしている様子はない。
素朴な材料で作られた、量ばかりはたっぷりの食事をうまそうに食べながら、孔明は、趙雲の答を促すように、わずかに首をかしげてみせた。
この、己の真意を有無も言わさず引き出そうという仕草に弱い。
趙雲がうろたえて答えないのを見ると、孔明は人夫たちに声をかけた。
「青空の下での労働のあとの食事ほどうまいものはない。そなたたちもそう思わぬか」
水を向けられた周囲の人夫たちは、さようですとも、と明るい張りのある返事を孔明にかえす。

徐庶も行動力のある男で、やはりあちこちに顔を出したが、しかし常にひとりであった。
さして親しかったわけでもないが、その矜持をなつかしく思い出しつつ、趙雲は遅まきながら、答えた。
「あとでいただこう。ふたりして食事をしているあいだに、刺客がやってきたら対処に遅れるからな」
「なるほど、いろいろ気遣いがあるのだな。待っていてくれ、すぐに食べてしまおう」
いや、消化に悪かろうから、ゆっくりでいい、と趙雲がかえすと、孔明は、ぎこちなく、笑みらしきものを浮かべた。

宴で毒蛾入り羹を捨ててやってから、孔明は、わずかに趙雲に打ち解けるようになった。
以前のように、ハリネズミのようにつんけんした態度はナリをひそめ、趙雲が気遣いをしめせば、きちんと礼を述べるまでに成長した(それまでは二言三言、嫌味を言うのが常であったから、たいそうな進歩であった)。
趙雲も趙雲で、櫓から突き落とされようと、寝所にネズミの死体を放り込まれようと、羹に毒蛾を入れられようと、おのれを敵視する者に無視されようと、あからさまにため息をつかれようと、わめかずうろたえず、泰然としている孔明の態度に、これは、ただの図太いだけの男ではないな、と思うようになっていた。
一度や二度ならば、ひどい鈍感と変わらないかもしれない。
しかし孔明は、おのれの命の危機を察している。
それでいて、騒がない。
つねにそのまなざしは不動である。
生い立ちはまったく違うが、その度胸のよさは、どこか劉備に似ている、とさえ趙雲は思うようになっていた。

ふと、工事現場が騒がしい。
がらんごろん、と雷鳴にも似た轟音がして、見ると、材木を乗せていた荷台の綱がゆるみ、材木が、そのそばで休んでいた人夫たちめがけて転がり落ちている。
平和だった河原は、途端に、大騒ぎとなった。
材木を乗せた荷台は5台ほどあったのだが、そのどれもが、いっせいに綱が切れたのだ。
避けきれずに、材木の下敷きになったもの、避けようとして、足をすべらせて河に落ちた者などで、大混乱である。

趙雲はすぐさま走り出した。
しかしおどろいたことに、孔明のほうがいち早く駆け出していた。
趙雲はそのあとにつづく格好となった。
現場は混乱しており、数人が河に呑まれて助けを求めているのだが、ほかの人夫たちは、安全な場所に逃げるのに精一杯で、だれも省みない。

「なにをしている!」
普段のおだやかさはかなぐり捨て、雷でも落ちたかという迫力で、孔明は人夫頭を怒鳴りつけている。
うろたえるばかりだった人夫頭たちは、その声に我にかえったのか、逃げ惑う人夫たちをまとめるべく、動き出した。

そして孔明は、岸辺のぎりぎりに立って、じっと河を見つめていたが、やがて、袍を脱ぎ捨てると、物も言わずに、水面に飛び込んだ。
無茶苦茶である。
収拾がつきかけていた現場は、孔明が水に飛び込んだ、というので、ふたたび騒ぎがおおきくなった。
孔明は泳ぎの達者なところを見せて、難所である水場をたくみに泳ぎわけ、おぼれている人夫たちのところへ向う。
それを受けて、人夫頭たちは、軍師をお助けするのだとみなに号令をかけて、小船を用意しはじめた。
趙雲は、その小船にみずから乗り、人夫たちを指導して、おぼれている者たちに近づいていった。

孔明は、おぼれている者を引き上げ、励ましている。
しかし、思っていたよりも河の流れははやく、油断するとすぐさま急流にまかれてしまいそうであった。
趙雲は、人夫たちを急き立てつつ、孔明と、孔明が助け上げた人夫を、なんとか引き上げた。
それから、ほかのおぼれた者たちを引き上げたが、数名は間に合わず、下流であわれな溺死体がみつかった。
 

木材を乗せた荷台の綱すべてが、いっせいに自然と切れる、などということはありえない。
とすれば、何者かが孔明の事業を妨害しようとしているのだ。
ここへ来て、趙雲は、城内に陰湿な妨害を仕掛けている者がいるのだと認めざるをえなくなった。
城内は、なぜか事故のことをすでにみな知っており、それみたことかと、誹謗中傷が飛び交っているありさまである。
趙雲は、孔明がみずから人夫たちを助けるべく、河に飛び込んだことなどを話したのだが、銅鑼の前でねずみが鳴いたようなもので、ほとんど人の耳目をあつめなかった。





趙雲は、まるで熱病にかかったように、孔明の中傷をおもしろおかしく広める仲間たちに、苛立ちをおぼえはじめていた。
劉備の陣営というのは、こんな陰湿な場所ではなかったはずだ。
みなで騒げば騒ぐほど、個々人の羞恥心はうしなわれる。
騒ぎを嫌うものは、沈黙しながらも、原因である孔明を憎む。
悪循環であった。

しかし理不尽である。
だれもかれも、まともに孔明を直視していない。
ああらしい、こうらしい、と妄想めいた虚言ばかりが先行しているのだ。
それとも、こうした昏い部分というのは、だれしも持っているものなのだが、それが諸葛孔明という存在をきっかけに、一気に噴出したものに過ぎないのか…この騒ぎのなかで、変わらず明朗なのは劉備だけである。

孔明は、趙雲よりもはやく、人夫を助けるために動いた。
そのことで、趙雲は孔明をだいぶ見直したのだが、当の本人はあっさりと、
「おぼれる者がいたら、助けるものだろう」
と答えるだけである。
下流に上がった溺死体も、孔明自らが立ち会って、その遺体の引き上げを指示したのだが、死者を出してしまったことが堪えたのか、孔明は、以来、まったく食事を口にしなくなってしまった。
趙雲は、事故は仕組まれたものであり、責任は孔明にないのだと励ましたが、効果はなかった。
それどころか、夜半になると、こっそりと城を抜け出し、城下へむかっているようだ。
趙雲はそれを知り、野暮な真似もしたくないのでだまって見過ごしていたが、裏切られたような気持ちをいだいたのも、事実であった。

後編へつづく

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(C) Hasamino nakama 2003