ねずみの算数

ふと、視線に気づいて顔を上げると、それまでもくもくと筆を動かしていた孔明が、机の上でほお杖をついて、じいっ、とこちらを見ていた。
ぴたりと閉ざした雨戸の向こうから、かすかに虫の声が聞こえてくる。
新野城のひとびとは、みなほとんど寝静まり、起きている者も、気を使って物音を立てることがはばかられるほどだ。
たまに、遠くから、小さな物音が聞こえてくるのは、人がいなくなった空間で、自由をたのしむネズミのたぐいか、小用を足しに起き上がった、だれかの足音だろう。
淡い明かりに、にじむようにうかぶ孔明の姿を見返し、趙雲はみずからも手を止めた。
「なにを見ている」
「いや、飽きないのかな、と」
飽きたのは、おそらく自分のほうなのだろう。
やれやれ、と思いつつ、趙雲は、手にしていた剣を見下ろした。
片手には、刀身を磨くための、獣脂を塗った布を持ち、もう片方で、剣を押さええている。
趙雲は、胡坐をかいた姿勢で、剣を抱えるようにして、手入れをしていた。
「飽きないが?」
「わたしは武人ではないから、詳しくはわからないのだが、やはり、武器の手入れをすればするほど、なんというのだろうな、敵を倒すことが容易になるのかな」
殺す、という言葉を避けたな、となんとなく思いつつ、趙雲は答えた。
「武器はおのれの体の延長のようなものだ。ただし、血肉とちがって、すぐさま衰えが分かる、というものではないから、こまめな手入れが必要となる。それに、ちゃんと手入れをしている、という自信があれば、いざというときに焦らずにすむだろう」
なるほど、といいつつ、孔明は、ほお杖をついたまま、指先でとんとんと自分の唇と鼻を叩く。
「ところで、書類はいつ仕上がる」
急かされたと思ったのか、孔明は不機嫌そうに眉をしかめた。
「わたしに付き合うことはない、帰っていいのだぞ」
「一人で残して行くわけにはいかぬ」
「ふむ、ならば、別室で休んでおればよかろう。なにかあったら呼ぶ」
それもいいか、と一瞬思ったが、すぐに趙雲は、楽なほうに流れようとする、おのれを戒めた。

劉備の采配で、諸葛孔明の主騎となってから、はや数ヶ月が過ぎ、だんだんとこの青年の、よいところと悪いところがわかってきた。
この青年、行動力はあるものの、口ほどにもなく、とろい。本人は機敏なつもりらしい。

「一流の刺客ならば、貴殿にひと言もしゃべらせることなく、命を奪うことができるぞ」
「なれば、そこで眠ればよい」
「隣で仕事をしている人間がいるのに、俺ばかりが寝てはおられぬ」
「では、起きているのだな」
「そうだ。だからここにいる。そういうわけで、早く手を動かせ」
孔明は秀麗な顔を不機嫌にゆがませて、しぶしぶ、というふうに机に向かいなおした。

そも、たった一人で真夜中に書類を書くはめになったのは、曹操の南下対策として、食糧そのほかを、一気に仕入れようとした孔明の足元をみて、仕入れの商人が、
「明日までに、すべての発注書を書いていただけるならば、三割で売ってさしあげてもようがす」
と、言ったことにはじまる。
しかも、商人がそう言ってきたのは、陽もとっぷり落ちたころ。
文官たちのほとんどは帰宅してしまい、かれらを呼び戻す手間を考えれば、一人で一気に仕上げたほうが楽、という微妙な時間であった。
ところが、日ごろの疲れがわざわいしてか、孔明の集中力は途切れがちで、遅々として筆もすすまない。
それなりに学問を修めた趙雲は、簡単な事務ならば、教えを請わなくてもすぐにこなせる自信があったので、手伝おうかと申し出たのだが、誇り高い軍師は、
「よい、これは商人から、この私に対する挑戦ぞ。一騎打ちに助太刀は無用」
とかなんとか言って、断ってきた。

そうしてどんどん時間が経ち…いまはどれくらいなのだろう。
孔明は、背中にのしかかるような疲れを払う呪文のように、
「三割、三割」
とつぶやきながら、まるで吹雪のさなかに登山をする人のように、けんめいに文字を綴っていく。
孔明への風当たりは、武人を中心につよいものであるが、文官たちの中にも、いまだに、孔明のやりように馴染めないものが複数いる。
一晩で、数人がかりでする仕事を、たった一人でこなしてみせたならば、彼らを心服させることができよう、という計算も、どこかにあるにちがいない。
まあ、よくやっているほうだ、と同情しつつ、趙雲は、弱い面を見せることも愛嬌だろうに、とも思う。
趙雲は、新野では兵舎の一角に部屋をもらい、そこで寝起きをしていたから、だれに気を遣うこともない。孔明が帰れとうるさく言わないのも、そのあたりの事情を飲み込んでいるからだろう。
たがいに独り身で、待つものもない身。虚しさもないわけではないが、いまはともかく仕事だ。

「書いたものをまとめるくらいなら、手伝いのうちに入らんだろう?」
「三割?」
なんだって、と言ったつもりらしい。
「だから、書き終わった書簡をだな、まとめるくらいならば、手伝うぞ、と言ったのだが」
孔明は、手にしていた筆を揺らしつつ、しばし考えた。この考えている時間も、いつもより長い気がする。
「頼むとしようか」
では、と腰を浮かしかけた趙雲であるが、孔明が、ふと動きを止めて、言う。
「待て。あなたが書類をまとめているあいだに、刺客が襲ってきたら、わたしはどうなる?」
「俺が書類を打ち捨てて、刺客と戦えばよい」
「刺客が複数できたとしたら、どうなる? あなたを止める係の者と、わたしを殺める者との複数できたら?」
「……」
「わるかった。単なる言葉あそびだ。人の生き死にを、斯様に揶揄して、語るものではないな」
といって、孔明は太いため息をついた。
「まだどこかに、襄陽でのんびり過ごしていたときの感覚が、残っているのだな。よくはないな、とは思っているのだがね、爪を噛む、などの悪い癖とおなじで、こうしてつかれたときに、ひょいと顔をだしてくるのだよ。こういうところが、みなの鼻につくのだろうな」
趙雲は、すっかり孔明に慣れてしまったので、ほかの武人たちが、いつまでもわあわあ言うように、どこがどう鼻に付くのか、さっぱりわからなくなっている。
「なにか持ってくるか。腹がすいていると、考え方も後ろ向きになるものだ」
「気遣い無用だ。腹が満たされれば、今度は眠くなるからな。どうしても今夜中に、発注書を書き上げなければならぬ」
「そんなに安いのか? 三割、といえば、そうたいした値引きには思えないのだが」
すると孔明は、柳眉を上げて、反論した。
「なにを言う。商人どもめ、こちらが物資をかき集めていると知って、定価の倍をふっかけてくるものもザラなのだ。定価で売ってくれるだけでも、万々歳なのだぞ」
「そこまで良心的な商人が、なぜこうも急かしてくるのだ?」
「むずかしい事情があるのだ。その商人、夏侯氏とつながりがある。なので、あまりこの地にとどまっていると、本拠地に戻ったときに、あらぬ疑いをかけられてしまう。それを恐れて、急いでこの土地を離れようとしているのだ」
「待て。矛盾しているではないか。夏侯氏につながる商人が、なぜ俺たちに品物を売る?」
「張飛の奥方は夏侯氏じゃないか。その繋がりだよ」
「ああ」

趙雲は、張飛の娘といってもおかしくないほど年若い、夏侯氏から盗むようにして奪った奥方を思い浮かべた。
張飛からすれば、可愛くてたまらないらしいのだが、傍から見た分には、気が強く、言葉も強すぎる女人である。趙雲の苦手とする性質の女人だ。

「義理と人情のはざまで、商人も苦しんでいる、というわけだ。ほんとうは、今日中に出立する予定だったのを、なんとか説得して、明日の朝まで…いや、今日の朝まで、ということで伸ばしてもらったのだ。向こうとしても、一定の条件を満たさねば売らない、というふうにしておけば、あとで糾弾されたときに、諸葛亮に無理強いされた、というふうに体裁を整えられるだろう?」
「説得、な」
おそらくいつもの口八丁手八丁で、商人を繋ぎとめ、三割、という数字を引き出してきたのだろう。
「軍師、思うのだが、なればこそ、いまから文官どもを複数名呼び出して、仕事を手伝わせたほうがよいのではないか」
「……条件がもうひとつあるのだ」
いやな予感。
「わたしが一人で発注書を書き上げることができたなら、という条件なのだ」
「莫迦な。斯様なことを言い出したのはだれだ? 張飛か?」
本気で怒り出した趙雲から目をそらし、孔明はあいまいに言った。
「まあ、具体的な名を出すのは控えさせてもらおうか」
「図星か。たいがいのことは、目をつぶることができるが、嫌がらせを仕掛けてきたとなると、話は別だ。まったく、状況がわからず、人の足を引っ張ることしかできぬのか」
朝になって、顔をあわせたら、どうしてくれようと算段していると、孔明が、ふたたび手を止めて、じっと趙雲を見ている。
「なんだ」
「わたしに、あれこれと肩入れをしてくれるのは嬉しいのだが、あえて言う。揉め事は起こしてくれるな。武人同士、仲良くしてくれ。憎まれ役はわたし一人で十分だ。
それと、そんな条件を出したのは、張将軍ではないよ」
「では、だれだ」
「さっき名前を言った」
「ああ…」
夏侯氏は、いい意味でも悪い意味でも素直な女だ。
夫から孔明の悪口をきき、夫をくるしめる、ろくでもないやつだ、こらしめてやれ、と単純に考えたのだろう。
本人は、ちょっとしたイタズラでもしているくらいの気軽さなのかもしれない。
「お節介かもしれぬが」
「なんだね」
「そのことを、主公にはお伝えしてあるのか」
孔明は、肩をすくめて、笑みさえ見せた。
「貴方様のいたずらの過ぎる義妹を、少々おとなしくさせてください、とでも?
 主公はわたしのために、だいぶあちらを我慢させているのだ。いま、わたしが騒げば、あちらの不満も止まらなくなるだろう。わたしが我慢をすればよい話だ」
「納得できぬ」
「そこはあなたも我慢してほしい。それに、わたしはさほど辛くないよ。話を聞いてくれる人間がいるうちは、まだ辛くない」
ほんの一瞬、孔明の表情が曇った。
この軍師は、過去に、完全な孤立というものを味わったことがあるのだろう。
趙雲も、孔明と行動を共にすることで、武人仲間から、いささか距離を置かれている境遇なのだが、たしかに孔明がいる分、辛さは、さほど感じないでいる。

話が重たくなってきた。
孔明も居心地がわるそうに、話をつづけるべきか、それとも作業に戻るべきか迷っているようだ。
俺が仕事の邪魔をしてどうする。
ともかく、雰囲気を変えよう。
そうして趙雲は、たわいのない話題を探したが、そもそも世間話に興じる性格ではなく、身の回りの話題、といっても、仕事のことばかりだ。
私生活については、孔明は触れられるのをいやがるし、それは自分も同じである。
そうだ、と趙雲は手元の剣を見た。
「軍師、剣は持っているか?」
「護身用の短剣なら」
「では、これを貸す」
と、趙雲は、最前まで磨いていた剣を渡した。
孔明は、いきなりの申し出に、目をぱちくりさせつつ、それを受け取ると、慎重すぎるくらい慎重に、そおっと鞘から刀身を抜いた。
そうして、ほのかな明かりに凶暴に光る刃に、感嘆する。
ほんとうに、こいつは戦うということから遠いところで生きていた人間なのだな、と苦笑しつつ、趙雲は少々、意地悪く言った。
「使い方はわかるか?」
「わかるとも。叔父と徐兄から剣を習っている。見ていろ」
と、孔明は立ち上がると、剣の型をとりはじめた。
それを形容するのはむずかしい。
孔明が一生懸命なのはわかったので、趙雲は、笑わずにいたが、あえて形容するならば、字を習いたての子供が懸命に清書した文字を、名人が見たらこんなふうかな、というものである。
ずっと座っていたために、体がよく動かない、ということもあるだろうが、孔明の動きはぎくしゃくとして、つぎに何をしたらよいのか、わからないで、おっかなびっくりとしている新兵のようにも見えた。
「努力はみとめる」
「それはどうもありがとう。しばらく手に持っていなかったから、どう扱うのか忘れてしまったのだ」
ほんのすこし体を動かしただけで、息を切らせつつ、孔明は言い訳をした。
剣の腕云々よりも、まずは体力づくりをしたほうがよさそうだ。
「しかし子龍、いまあなたは得物をなにも持っていない。ここで、刺客に襲われたら大変だな」
「妙なことを言うな。本当に刺客があらわれたらどうする」

かたり。

なにかが天井で動いている気配がある。

ネズミか?

ぞくりと、首筋に冷たい刃を押し当てられたような感覚をおぼえ、趙雲は、おのれの楽観的にすぎる考えを跳ね除けた。
二度とこいつと、刺客の話なんかしない。
「軍師、剣を!」
ここで張飛なり、陳到なりならば、趙雲の声に即座に反応し、剣を投げてよこすのであるが、聡いとはいえ、文官の孔明には、趙雲の反応に体が追いついていかない。
うろたえていると、天井より黒い影が舞い降りてきた。
まっすぐと、孔明の首を狙っている。
ずっと観察し、趙雲がいなくなるか、あるいは武器から手を離すのを待っていたのだ。
「くそっ!」
悪態をつきつつ、趙雲は近くの文官の机から、硯を掴むと、刺客に投げつけた。
ごつり、とそれは刺客に当たり、刺客の切っ先がにぶる。
その隙に、趙雲は手を伸ばし、孔明を引き寄せるようにして、腕を掴んだ。
刺客の刃は、ぎりぎり孔明の身をかすめ、空を裂いた。
だが、そこでうろたえる刺客ではない。床に足をつけるやいなや、すぐさま体勢を整える。
孔明は、突然の襲撃にうろたえ、完全に強ばってしまっている。
さらに悪いことに、剣を離そうとしない。
仕方がない。
「軍師、逃げるなよ!」
そう叫ぶと、趙雲は、剣をかたく掴んだままの孔明の両手のうえから、更に補強するように己の手を重ね、襲い掛かる刃を、渾身の力で跳ねのけた。
刺客が力に圧倒され、背中から倒れる。
同時に、孔明の力がゆるんだ。
趙雲は、剣を孔明から取ると、刺客の手から刃を奪い、そうして、床に仰向けに倒れた刺客の首筋ぎりぎりに、刃をつきたてた。

「ここは戦場ではないからな。貴様の薄汚い血は、ここでは流させぬ」
頭巾で顔を隠した刺客が、低くうめいた。
頭巾を剥ぎ取ると、目つきの鋭い、それ以外には、これといって特徴のない風貌があらわれた。
さて、どうするか。
まだ暴れ足りない、といった顔をした刺客の四肢の骨すべてを折り、動きを封じてから牢へ閉じ込めるべきか? 
とはいえ、甘ったるいことは言いたくないが、その蛮行ともいうべき行為を、孔明の前でするのはためらわれた。
決裁をあおごうと振り返ると、孔明は、利き腕をさすって、痛みに顔をしかめている。
「どうした?」
「さっきので捻った」
「……すまん」
相手が、精神的には打たれ強いが、肉体的には打たれ弱い文官だ、ということを忘れていた。
「どれくらい痛む? 字はかけるのか?」
「たぶん」
といいつつ孔明は腕をまくる。
すでに腕は、ひねられた反動で腫れつつあった。
これでは文字を書くのは無理だ。
趙雲が顔を蒼くしているのを、見て、孔明は、決まり悪そうに、それでも笑みをうかべてみせる。
「謝るのはこちらのほうだ。すまないな、子龍。やはり剣くらい、使えるようにしておかねばいかんな」
むしろおまえが悪いと、責任転嫁されたほうが、趙雲は気が楽だったろう。

趙雲は、ふたたび仰向けになっている刺客に振り向くと、手にしていた剣を振りかざした。

ざくり。

一瞬ののちに、ぱらぱらと、刃によって切られた刺客の髪の毛が、束になって崩れた。
刺客は、あまりのことに目を見張っている。おそらく、ひとおもいに、首を刎ねられたほうが、よほどましだと思ったにちがいない。
髪を切られることは、罪人の証しであり、死罪に次ぐ、重い罪、そして死罪にも増して、恥辱を味わう罰なのだ。
「殺せばよかろう!」
そう叫ぶ刺客に、趙雲は冷淡に言い返した。
「あとでな。しかし貴様には、まだ用がある」
「貴様らにしゃべる情報など、なにもないぞ!」
「俺が貴様に用があるのは、その口ではない。手だ」
「手?」
趙雲は、息を詰めて様子を見守っている、背後の孔明にたずねた。
「軍師、発注書はどこまで終わっている?」
「あとは、数字を書き入れればよいだけだ」
趙雲はふたたび刺客に向き直り、剣の切っ先を、その咽喉元に突きつけるようにして、言った。
「俺は貴様をかならず殺す。いや、もう死んだも同然の幽霊だ。軍師、条件には、幽霊に手伝ってもらってはいけない、というものはなかったろうな?」
「普通は、そんな条件はつけないよ」
「よし、貴様も、さきほどから俺たちの様子を探っていたのなら、事情はわかっているはずだ。貴様には、筆をもてなくなった軍師の代わりに、数字を書いてもらう!」
「そんな無体な!」
わめく刺客の咽喉を、趙雲は切っ先で軽くつついた。
それこそすぐに殺されるのであれば、刺客もこれほど不様にわめかなかっただろうが、髪を切られたあげくに妙な条件を突きつけられたので、すっかり冷静さをうしなっているのだ。
「やめてくれ! 本当に無理なのだ! 俺は、文字が書けぬ!」
「やかましい! 一や二ならば、線を横に引っ張るだけであろうが!」
「ええ! 数字って、そうなのか!」
と、刺客は、衝撃に目を見開いている。
背後では孔明が、
「この者は、どこから来たのだろうな?」
とあきれている。

庶民に文盲は多いし、彼らを莫迦にするつもりもない。
むしろ、中流より少々上の階級の出である孔明や、趙雲のような人間のほうが少ないのだ。
しかし数字は生活に密着した大切なものであり、学のない人間でも、簡単な数字の書き方、読み方くらいは、知っているものである。
同情を引くための芝居かもしれぬ。
ともかく、夜明けまでに発注書を仕上げねばならぬのだ。
芝居をしているのならば、騙されたフリをして、ともかく目的を果たす。
あとの処理は、あとで判断しよう。

趙雲はこころを決めると、刺客を起き上がらせ、刃で威嚇しながら、腕を痛めた孔明の変わりに、刺客に筆を持たせて、数字を書き入れさせた。
数字をかけない、といった刺客の言葉は、本当だったのか、それともとびきり芝居の上手い刺客なのか、筆の握り方もわからず、ぎこちなく、一や二を綴っていく。
さらにいちいち、
「これが一! ほお、これが四か!」
と驚くので、たまに小突いて、黙らせる必要すらあった。
そうして、夜明けぎりぎりに、発注書は仕上がった。
「よし! これで三割引きはわたしのものだ!」
と孔明は言いつつ、書簡をまとめる。
まだ刺客に仲間がいて、捕縛された仲間を取り戻そうとするといけないので、柱に縛って放置しておこうとした趙雲であるが、すると刺客がしくしくと泣き始めた。
「俺の一生はここでみなにいじめられ、縊られて終りか。
思えば、生れ落ちたときより、いじめられっぱなしの一生であった。
この仕事だって、本当は受けたくなかったのだ。でも、受けなければ、仲間たちにひどい目に遭わされる。
俺だってわかっているのさ。要領がわるいし、刺客にはまるで向いておらぬとな。努力はしたよ。人一倍の努力を。
だが、人には、向き不向きというものがあるということに、気づくのが遅すぎた。そう、俺は捨て駒にされたのさ」
「よく喋るやつだな。同情を引こうとしても無駄だ。貴様を殺すと最初に言ったはずだぞ」
「分かっているとも。刺客というものは、そういうものさ」
と、刺客は皮肉な笑みを浮かべてみせる。
趙雲はだんだんと苛立ってきた。こいつ、小芝居がうますぎる。
「子龍、すくなくとも、この者のお陰で書類は揃ったのだ。情状酌量の余地はあるぞ」
「寝不足で冷静さを欠いているようだな。こいつがおまえの命を狙ったことを忘れたのか?」
「忘れてはいないよ。でも、そんなに悪いばっかりの男でもなさそうな」
「甘い!」
つい語気が荒くなる。孔明は軽く眉をひそめて、いつもそうするように、小首をかしげた。
「寝不足なのは、あなたも同様だな。この者の処断は、ゆっくり休んでから決めることだ。それより、商人の常宿へいくぞ。そろそろ夜が明ける」
「うむ…こいつはどうする?」
はらはらと涙をながし、ときに大きく鼻をすする刺客に、趙雲はうんざりした目線を向ける。
それというのも、孔明が、すっかり慈愛をたたえた視線で刺客を見下ろしているからだ。

主公もお人よしであるが、こいつは輪をかけてお人よしだ。
主公の場合は、裏切られてもよし、という覚悟があってこそのお人よしで、だからこそ人々に慕われるのだが、こいつの場合は、単に世間知らずゆえの、お人よしではないか。

「ここでは、たしかにさらし者になるばかりだ。わたしの私室に縛っておこう」
やはりというか、なんというか。
趙雲は嘆息しつつ、孔明の言うとおりに、刺客をぐるぐるに縛って、孔明の私室に放り投げておいた。
孔明が立ち去り際に、刺客の側にかがんで、なにかをつぶやいていたが、趙雲は、あえてそれを聞かないでおいた。
知らなければ、苛立つこともあるまい。

孔明は、商人との約束を果たし、商品を三割引で手に入れることに成功した。
商人たちは、発注書の字が読みにくい、と文句を言ったが、そこは、腫れ上がった利き腕が、彼らを説得した。
帰ってくると、孔明の私室に放り投げておいたはずの刺客は、縄を切って、姿を消していた。
小刀でみずから縄を切って、逃げ出したらしい。
しかし趙雲は、刺客を縛り上げたとき、ほかに武器となるようなものをもっていないか、くまなく調べたから、見落としをした、とは思えない。
やはり、と思いつつ、孔明を見ると、孔明も無言のうちに察したのか、
「幽霊だから、ドロンと消えた」
と、児戯めいたいいわけをした。
あとで刺客が倍返しをするために、戻ってきたらどうするつもりなのだろう。
趙雲が嘆息すると、孔明はなにがおもしろいのか、声をたてて、明るく笑った。
その子供のような笑顔を見ていたら、どうでもよくなってきた。
あとのことは、あとで考えよう。



数年後。
商人たちが、こぞって、おさめる品物がない、と返答を寄越したとき、趙雲は暗い気持ちに襲われつつも、なつかしい新野の一夜のことを思い出していた。

いまは丞相となった孔明は、成都で留守をあずかっている。
皇帝の親征、ということで最初は盛り上がっていた戦であったが、趙雲の予感どおり、本来の大義から大きく逸れ、冷徹な目線と戦略に欠ける戦は、大敗を喫し、味方の兵たちは、みな士気をうしなっている。
最悪の事態が脳裏をかすめた。
このまま、江東の兵どもが押してきて、西に向かって来たらどうなるか。
劇的な勝ち戦で、波に乗っている彼らにたいし、蜀側は、物資にすら事欠くありさまだ。

いや、実際のところ、物資はあるのだ。
しかし、張飛が物資をそろえられなかった部下を罰し、その部下に報復されて命を落としたことは、世間でもひろく伝わっていた。
だから、商人たちも、なにかの手違いで、似たような境遇になることを恐れて、係わり合いをおそれ、物資がない、と言っているのだ。

死んでまで、迷惑をかけてくれるやつだ。
罵倒すら、笑って言い合える、数少ない相手であった。
二度と会えないと思うと、悲しみと同時に、苦いものが胸を走る。
夢はついえ、滅亡を待つばかりなのか。
打てる手は、もうないのか。

成都から矢継ぎ早にやってくる使者に、みずから筆をとって、丞相府あてに手紙を送る。
東へ向かおうにも、物資が不足している。
これがもし、呉の知るところとなれば、連中は趙雲動かず、と見て、一気に押し寄せてくるだろう。

「将軍、商人が、ぜひ将軍にお目にかかりたいと」
筆を止めつつ、趙雲は部下に答えた。
「私ではなく、司馬のだれかに応対させよ」
「いいえ、それが、是非に将軍御大にお目にかかりたいと。もしお目通りがかなうのであれば、物資を用意する、と申しております」
趙雲は、筆を置いて、部下を振り向いた。

商人どもめ、足元を見よる。
おそらく元値の数倍もする物資を、恩着せがましく売りつけて、今後の便宜を頼んでくるにちがいない。
忌々しいが、背に腹は変えられぬ。
趙雲は立ち上がると、商人が待っているという広間へ移動した。
広間では、髪に白いものの混じった、いささか太り気味の商人が、床に畏まっていた。
「面をあげよ。堅苦しいあいさつも前置きもいらぬ。物資を揃えられる、というのは本当か」
「真にございます」
と、商人は顔をあげる。
作り笑いでできたしわがくっきりと刻まれた、特徴のない中年男の顔であった。
しかし趙雲が奇妙に思うことには、その男の双眸は潤み、いまにも泣き伏しそうなものであったことだ。
「物資のすべてを揃えられるか」
「もちろんでございます。大量に仕入れてくださるとのことで、とくべつに、三割引で納品させていただきます」
「三割!」
思いもかけない申し出である。思わず趙雲は破顔し、周囲の部将たちと顔を見合わせた。
が、待て。話がうますぎる。信じてよいものか?
「質問をしたいのだが」
「なんなりと」
「おまえの申し出はありがたく思う。だが、ほかの商人たちが、我らと関わりあうのを恐れ、こぞって品物がない、といっているこの時節に、おまえはなぜ、三割引で、我らに物資を提供するというのか。理由を聞かせてはくれぬか」
「忘れておいでか。それも無理のないこと」
そうつぶやくと、商人は、はらはらと涙を流し、趙雲をまっすぐと見た。
「お久しゅうございます。わたくしは、かつて新野城にて、葛候と将軍様に命をすくわれた男でございます」

まさか。

趙雲は驚愕のあまり腰を浮かして、涙にくれる男を見下ろした。
「おまえ、あのときの?」
商人は、袖で涙を拭きつつ、こくりと肯いた。
「あの夜まで、わたくしは、薄汚いネズミでございました。
あの夜、思いもかけず、貴方様と葛候は、わたくしに数字を教えてくださり、しかも命まで助けてくださった。
あれからわたくしは、生れ変わったのでございます。裏の仕事から足を洗い、文字を習い、算術をおさめ、こうしてまっとうな商人として、身を立てることができるようになりました。
本来ならば、もっと早くにお礼のごあいさつをしなければならなかったのですが、以前のわたくしのことは、ほかのだれも知りませぬ。昔を知られるのがおそろしくて、ずっと黙っておりました。
しかし、此度の戦にて、将軍が困ってらっしゃると商人仲間から聞きまして、いまこそ恩返しせねばと、こうして駆けつけてきたのでございます」
「なんと…」
趙雲は、すっかり言葉を無くしていた。
ときに人の世は、どん底を味あわせてくれるが、こんなふうに、すばらしい贈り物をくれることもある。

いや、人の世、ではない。

「あいかわらず、よく喋るやつだな」
「よく言われます」
商人は、涙に暮れつつ、笑った。
「あのとき、葛候は、わたくしに小刀を渡してくださいまして、こうおっしゃいました。
『わたしは今宵、おまえに三つの贈り物をした。ひとつはこの刀、ふたつめは自由、みっつめは数字だ。
よいか、この三つのうち、世のなかでもっとも強いものは、数字なのだ。刀は折れれば用はなさぬし、自由はときに、かえって行く手を阻み、重荷となる。
おまえが今宵のことですっかり懲りて、人生をやり直したいと思うのなら、わたしが与えた、数字という最大の武器をつかって、自らの道を切り拓いていけ。そして、二度と闇に戻るな』と。
あのときの、あの言葉がなければ、わたくしは、ふたたび闇に戻り、どこかで野たれ死んでいたかもしれませぬ。
あの御方の言葉は、わたくしにとって、今日まで光のように、行く手を照らしてくださいました」

趙雲は、思わず、ここにはいない孔明の姿を捜し、そして、成都のほうを仰ぎ見た。
おまえは、ほんとうに凄いやつだ。
これで時局が変わる。
偶然でもなんでもない。
おまえの力が変えたのだ。

「そうか。では、三割引だな」
「はい、三割引で」
そうして、数年を隔てて再会した男たちは、まるで旧知のように、温かい笑みを交し合った。

かくて趙雲は軍をととのえ、永安にまで兵を進めたが、そのときには、すでに呉の軍勢は撤退をしたあとであった。
しかしもし、趙雲の軍に物資が不足しており、士気も上がらぬ状態であったなら、そして、それを呉につけこまれていたら、その後の歴史も、大きく変わっていたかもしれない。


自分的10000HIT作品です。ご読了ありがとうございました(^^ゞ
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