孤月的陣
第四章 ナミダ  涙


小用を足すために夜中におきだして、表の厠から、寝起きで夜風になれぬ体を抱きしめるようにして部屋に戻ろうとした男は、ふと、近所の顔見知りが、真夜中にぽつねんと立ち尽くしているのをみかけた。
「おい、どうしたね」
声をかけると、男は、馴染みの声にふりかえり、物いわぬまま、指で上空を示す。
城の方角だ。
男は、顔見知りの示す方向を見て、異様な光景に、顔をしかめた。
夜の帳に包まれた町とはうらはらに、城だけは茜色にそまり、そこだけが夕刻から時間が動いていないようにさえ思えた。
城が燃えている。
夜風にまぎれて、はげしい剣戟の音、喚き声が聞こえてくる。しかし、激しく動きがあるのは城内だけで、城の周囲はいつもと同じように、しんと静けさにつつまれている。ほとんどの家では、城の異常に気づかず、寝静まっているようだ。
「なにがあったのだい、こりゃあ」
「わかるものか。俺はここに生まれたときから住んでいるが、こんなことは初めてだ」
城でなにかが起こっている。それは、無知な町人にさえはっきりとわかる。
男は、自分の部屋にはかえらず、そのまま、夜闇にまぎれるようにしてある場所へと向かった。
男は行商人で、定期的に町と町を移動しては、借家に長期間滞在し、商いをする、という生活をしていた。
どくん、どくんと鼓動がはげしい。耳のすぐそばに心臓があるのではないか、というほどだ。

夜道を進む男の足は、いつしか早足から、駆け足になっていた。
迂闊であった。
男は自分の鼓動が、報告が漏れたことにたいする叱責をおそれてのことか、いよいよ動きがあったと報告できることに対しての緊張感か、判断がつかなかった。

目指す一角は、ごくごくふつうの民家で、男は慣れた風に、木戸をくぐると、家の雨戸をとんとんと叩き、来訪をつげた。
ほどなく、音もなく雨戸が開いた。中から、隠士ふうの、温厚そうな、ぎょろりと大きな眼をし、横に長い顔に、無精ひげを生やした男が顔を出した。
男が開いた雨戸の隙間から、戸を叩く音で目をさました赤子の泣き声がする。
一瞬だけ、隠士の妻らしい女が、赤子をあやしながら過った。
赤子の声が遠ざかっていく。それをまったく無視して、隠士は厳しい顔でたずねた。
「如何した」
「城内にて、何事か発生した様子でございます。城内中を篝火で照らし、なにやら戦闘が行われている様子」
「まさか、内乱か? 劉表が死に、蔡瑁が動いたか?」
「わかりませぬ」
「うむ…劉表が長くはもたぬであろうことは読んでいたが、早かったな。うむ、急ぎ曹公にこのことをお伝えせねばならぬ。いよいよ時機が到来したと。おまえは、城内に潜入し、さらなる動きを探れ。できるな?」
「わかりました。しかし長、いよいよでございますな」
長、と呼ばれた隠士ふうの男は、うむ、と感慨深げにうなずいた。
男の知る長は、胸のうちに過るさまざまな感情を、すべて押し殺して、じっと耐えているような、静けさをたたえた男であったので、はじめてみる、感情をあらわにした様子におどろいた。男が知る限り、この長ほど冷徹な男はいなかった。
「今日、この日をどれだけ待ち焦がれたことであろう。七年間、やつが隙を見せるときを待っていたのだ。隙を狙って劉表にちかづいても、『壷中』に阻まれてしまう。逆に『壷中』を絡め取ろうとしても、彼らは、捕らえられたとしても、たいがいは、すぐに自害してしまう。自害させずに捕らえても、どんな拷問にも口を割らぬ。それゆえ、いままで、劉表の身辺を探ることは困難をきわめていた。曹公も劉表を攻めあぐねておったのだ。だが、奴は病に倒れ、もはや死人も同然。すべてが清算される。目障りな劉氏を打倒し、曹氏が天下を取るための好機がやってきたのだ。よいか、いまこそ樊城の実態を正確につかみ、われらは内部より樊城を揺さぶる。われらはわれらなりに、曹公をお助けし、ご恩返しをするのだ」
男は、長のことばに深々と頭を下げた。

男が去ってしまうと、長は樊城のほうに目を向けた。その目線には、さまざまな感情が宿っている。
長はかつて、劉表のすぐそばにいた。『壷中』のひとりとして。
しかし運良く解放され、実家に帰された。
だが、『壷中』の中にあって味わった、筆舌に尽くしがたい苦しみを、片時も忘れることなどなかった。あの押し殺されるような日々により、子供らしい純粋さは磨り潰され、だれも信用しない、芯からつめたい青年に成長した。
実家に帰され、恐怖を味あわなくなってよくなっても、仮面をかぶって薄氷のうえを渡るような感覚は消えなかった。年相応の友もできたが、友達らしく振る舞うことしか、できないでいた。
変わったのは、世の中を広く知ってからである。
悲惨なのは自分ばかりではない。黄巾賊として中原を流浪し、いなごのように村々を襲っては、あてどもない日々を送る人々の悲哀。重税に苦しむひとびと。惨禍にあえぐ農民たち。
彼らをそのようにさせてしまったのは漢という国である。民を顧みず、豪奢な暮らしにあけくれ、不平不満を爆発させ蜂起した民に、皇帝は、今度は刃を向けてきた。
皇帝という存在を、長は本気で憎悪するようになっていた。
大本たる、国の中心が腐ったがために、回りまわって自分の悲惨な幼少時代があったのだ。
長は、しばらくやり場のない憎悪を抱えたまま、生霊のように大地を放浪する生活をつづけていた。そんな彼を拾い上げ、新しい世を築くという大義名分、いや、夢を与えてくれた男が、曹操という。
彼は曹操に心服しており、皇帝と、おなじ血を引く古い体制の象徴たる、劉氏の排除をのぞんでいた。曹操の覇道を阻む者は、つねに劉氏なのである。
そのひとり、十年の長きにわたり、荊州にて鉄壁の守りをほこっていた樊城、そして劉表が、いま凋落の兆しをみせている。
この機会を逃してはならない。
長は夜陰にまぎれて部下を手配し、急ぎ、曹操のもとへと早馬を飛ばした。
早馬は、城内の異変をおさめるために城門の兵士も集められたために、すっかり警備の手薄になった門を、堂々と突破して、北へと走り去った。
ほんものの落日が、いよいよ近づこうとしている。

                       ※                    ※

狭い部屋に、ネズミの子のように一箇所に集まって、不安そうな表情を双眸に浮かべ、口をぎゅっと固くむすぶ子供たちを見たとき、孔明は、なんとしても彼らを救おうと、あらためて決意した。
ざっと見たところ、二十数名の子供たちがいる。
上は二十歳くらいから、下は十歳くらいの子供まで。
どれも皆、豪奢な衣裳を身にまとい、高級の脂粉を顔にはたいて、化粧をほどこされていた。
本来の、子供らしい素朴な愛らしさ、みずみずしさは、化粧によって覆い隠され、みな同じような顔に見える。
いや、同じような顔にさせたのだろう。ひとつの規格、物として扱うために、分かりやすいように。
『壷中』を組織していた播天流は、子供たちをとことんまで物としか見なさなかったのだ。情をかけて己の判断力が低くなることを恐れたのもあるだろう。彼らの姿から感じ取れるのは、播天流と、蔡瑁や劉表たちが、異常な状況にすっかり慣れて、良心をすっかり鈍磨させていたのだ、ということだ。
ふと隣を見ると、趙雲が恐ろしげな顔をして、子供たちを見ていた。
何も言わないが、激しい怒りに捕らわれているのがわかる。子供たちを睨んでいるのではない。子供たちの背後にいる播天流を睨んでいるのだ。
「ここにいるのが、全員か?」
孔明が尋ねると、白の者は、濁った目を悲しげに伏せて、首を振った。
「他のものは、逃げても、播天流がおそろしいからと、播天流のもとへ戻ってしまいました。ほんとうはもっと仲間たちがいたのですが、わたしたちを裏切り者といって、斬りつけてくる者もおりまして、相討ちとなってしまい、残ったのはこれだけでございます」
「左様か…では、君らはわたしの言葉を信じてくれるのだな」
子供たちは、じっと視線を孔明に集中させている。一言一句、聞き漏らすまい、こまかな表情のうつろいも見逃すまい、もう騙されまい、真実を見極めてやろうと、意識を集中させているのだ。孔明は、彼らの心に応じるべく、明るい張りのある声でつづけた。
「みなも知っているとは思うが、わたしは劉左将軍の軍師、新野での采配のすべてを一任されている。わたしならば、君らを外圧から守ることができる。故郷へ帰りたいという者は、かならず故郷へ帰してやろう」
その言葉に、小部屋の子供たちはいっせいにざわめいた。
「親元へ帰してくださるというのですか」
孔明は深く肯いた。
「約束する。二度と君たちが裏の仕事をしなくて済むように、できる限りのことはする。元の仲間に戸籍を辿って追われないようにするために、特別に、あらたな戸籍を用意する。名前を変えることも許そう。あらたな土地へ逃げたいというのならば、支度金も用意する」
「われらの中には、家族のいない者のほうが多いのです」
これにも、孔明は明快に答えた。
「故郷がない、帰る場所がない、という者がいるならば、わたしの直属の兵士としてはたらいてもらう。そして、武器ではなく、鍬を持ってもらいたい。兵士の食糧のための畑を耕してもらいたいのだ。わたしは君たちが望まない仕事は決してさせない。逆に、戦士としてはたらきたい者がいるのならば、堂々と、武将として前線に立ってもらう。戦場で、堂々とおのれの名を叫び、軍功を挙げるといい。後ろ暗い仕事は、我が名と叔父の名誉にかけて、二度とさせない。約束しよう」
子供たちは、思いもかけない厚遇の条件に戸惑い、返事をしかねている。孔明は、そんな子供たちのひとりひとりの顔をまっすぐ見つめた。
現実的にいえば、金の要る話であった。
しかし、孔明は彼らのために、自分が叔父から譲り受けた金を、すべて使う覚悟でいた。最悪の場合、土地も財産もすべてうり払う覚悟もある。
「みな、よく聞け。われらが兄は、万が一のときにはこのお方を頼れと、わたしに言葉を託された。われらが兄の言葉にまちがいはない、と思う。わたしはこのお方に従う。おまえたちは、おまえたちの判断で、どうするか決めるがよい。いまから播天流の元に戻るものがいても、わたしは追わぬ」
と、白の者が、孔明の言葉を足すように、みなに告げた。
それまでじっと押し黙っていた子供たちは、白の者の言葉が合図だったように、いっせいにどうするかと相談をはじめた。小さな白い顔に、戸惑いと興奮がいりまじっている。
「きみの『兄』というのは、程子聞のことなのかね」
それほどまでに信頼してくれていたのか、と感慨深く思っていた孔明であったが、意外なことに、白の者は首を横に振った。
そうして、もはや何者も映さぬ白く濁った双眸をひた、と孔明に向けて、なぜか、同情の混じった悲しみの表情を向けてくる。不吉な予感にも似た落ち着かなさをおぼえ、孔明はうろたえた。
「孔明さま、貴方様は、まだ本当のことをご存知でない」
「本当のこと?」
白の者は肯くと、言った。
「『壷中』というのは、単に荊州を守る刺客を育てるための組織ではございませぬ。劉州牧は、自分の権威をたしかなものにするために、ある策を立てました。それは、豪族たちの子弟を人質として『壷中』に差し出させることです」
「馬鹿な! いかに劉州牧がこの地の支配者であろうと、劉州牧に匹敵する財力をそなえた豪族たちが、そうやすやすと劉州牧の命令に従うなど、ありえぬぞ」
「劉州牧は、われらを使って豪族たちの秘密を嗅ぎ出し、それをネタに脅迫して、豪族たちを思うように操ったのです。だれしも後ろ暗いところはあるもの。『壷中』が秘密を嗅ぎ出すことができなかったのは、あなたの叔父君だけであったそうでございます」
「なんという…」
絶句した孔明に、白の者はさらにつづけた。
「わたくしは、本家の兄が亡くなり、かわって家督を継ぐことになった兄の代わりに『壷中』に連れてこられました。わたくしの言う『兄』とは、あなたさまもよくご存知の者でございます。わたくしはこのような姿に変わり果ててしまったので、分かりにくいかもしれませぬが、兄とは面差しが似ているとよく言われました。お分かりになりませぬか?」
心臓が、針を刺されたように痛んだ。
孔明は、光を失った双眸を持つ、白髪の子を見つめた。
少女のような面差しをした、異形の、しかし意志の強そうな顔つきをしている。
わずかに横に長い顔、大きめの瞳が、よけいに少女のような印象を強めているのだろう。これがもうすこし男臭くなり、髯を生やしたらどうなるか。この顔が、屈託のない明るい笑顔を浮かべたら、似ていないか。
「まさか」
咽喉がひりつく。
「君は、崔家の、崔州平の弟なのか?」
ちがう、という返事をどこかで期待していた孔明は、白の者が、こくりと肯いたのを見て、めまいをおぼえてよろめいた。
ふらつく体をがっしりと抑えるものがあり、みると、趙雲であった。
孔明は反射的に言っていた。
「ありがとう、大事無い」
「わたくしは『壷中』の命令を受け、許都に侵入し、曹操の身辺をさぐりました。しかしそこで捕らえらました。ですが『壷中』はわたしを見殺しにして、助けてはくれませんでした。命は助かったものの、光を失い、若さを失くした異形に成り果ててしまいました。兄はそのことを知るとはげしく怒り、『壷中』を滅ぼすのだといいました。
孔明さま、兄は、あなたさまが樊城の者にだまされて、『壷中』に組み込まれてしまうことを心配しておりました。そこでわざわざ嫌われ役を買って、まず偽書で徐元直さまの手紙をつくって怒らせ、さらに叔父上のことを持ち出して、あなたさまを本気で怒らせたのです。あなたさまにとって、叔父上のことはなにより辛い過去。それを忘れない限り、あなたさまはけして『壷中』の言いなりにはならぬであろうと」
「なぜ、きちんと相談してくれなかったのだ? もしもっと早くに教えてくれていたなら」
「教えていたなら、どうなさいましたか? あなたさまはおそらく、劉予州のもとを辞去し、単身で『壷中』をつぶすべく、樊城に乗り込んだのでは? 兄は、そうなることを、一番恐れていたのです。それに、兄は『壷中』を潰すため、いえ、劉表を滅ぼすために、曹操の前に膝を折りました。もはやあなたさまとは道が違ってしまったのです」
「わたしを寝返らせるために、曹操から高額の報酬をもらっているのではないのか?」
「そのような話はございませぬ。徐元直さまの手紙をもっともらしく書かせるために、偽書作りの男についた嘘でございます」
「どうして」
真実を教えてくれなかったのか。
孔明は、農道で崔州平をなぐりつけた、おのれの拳を見下ろした。
そこまでして、身を案じてくれる男が、どうして、曹操の元へ行ってしまったのか。
一方で、子供たちの話はまとまったようである。白の者は、子供たちの気配でわかるのか、肯くと、孔明に拱手した。
「我らの心はひとつにまとまりました。孔明さま、あなたさまを信じます。どうぞ我らをお救いください。『壷中』の者のみに許された間道をお教えいたします。そこを抜ければ、城外に出ることが可能です」
「しかしその道は、ほかの『壷中』も知っているのだろう?」
趙雲のことばに、白の者はうなずいた。
「ですが、抜け道は一本道ではございませぬ。道は迷路のように分かれておりまして、敵に侵入されたり、待ち伏せをされたりしないようにしてあるのです。間道の入り口は地下牢の真下、劉州牧の部屋、蔡将軍の部屋、西の門の井戸にございます」
「わかった。おまえたちは、先に間道を抜け、外に出たなら、一路、新野を目指せ」
「あなた方は如何なさるのです?」
「花安英を止め、風狗を捕らえる」
決然とした趙雲のことばに、子供たちは顔を見合わせる。その顔には、あきらかに恐怖と動揺がある。風狗は、仲間たちからも恐れられている存在らしい。白の者は、ざわめく子供たちを鎮め、言った。
「静まれ、おまえたち。いまの話を聞いたであろう。まずは、われらだけで間道を抜けるぞ。風狗はこの方々が捕らえてくださる。なれば、恐ろしさも半分だ。各自、得意の得物を持ち、いそぎ出立するぞ。目指すは新野だ」
「風狗か。いまだ正体の掴めぬ奴だが、軍師はすでに知っているのか」

孔明は、趙雲の問いかけが、聞こえなかった。
聞こえないまま、崔州平のことを考えていた。
新野の郊外で会ったとき、徐庶のニセの手紙を見せたのはなぜなのだ。叔父のことを不自然ににおわせたのはなぜだ? 
曹操への帰陣を訴えるための稚拙な策などではなく、ただひたすら、孔明を怒らせるためではなかったのか。
糜竺の失踪
崔州平の裏切り
黄承元の手紙
全部がばらばらに目の前にあった。だが、それはすべて『壷中』という鍵で繋がるではないか。
糜竺も黄承元も、はじめから『壷中』のことを臭わせていた。
崔州平も、糜竺も、黄承元も、孔明を嘲り、罵ったのは、憎悪のためではなく、そもそも孔明に、『壷中』の存在を教えるのが目的ではなかったか。

「軍師、孔明どの!」
字を呼ばれ、孔明は我にかえった。そうして、趙雲のほうを見る。
「ああ、すまない。考えごとをしていた」
「そのようだな。いろいろゆっくり考えたいのはわかるが、時間がない。子供たちは間道に逃がし、それから花安英と風狗だ。花安英は蔡夫人のもとへ行ったのだろう? 部屋はわかるか」
趙雲の言葉を補うように、白の者が言う。
「わたしたちは、自力でなんとかいたします。それよりも、花安英を助け、風狗を止めてください。あの恐ろしい奴が、同じ地上で息をしていると思うだけで、わたしたちは生きた心地ができませぬ」
白の者の言葉に、子供たちはそうだ、そうだと、つぎつぎと肯いた。
「風狗は、蔡夫人の部屋に潜んでおります。あれの望みは、花安英の望みとは似て非なるもの。花安英は騙されているのです。花安英は、蔡夫人を殺したいほどには憎んではおりませぬ。あれは風狗に泣きつかれて、弟のために報復をせねばならないと、思いこんでいるのです。しかし風狗の狙いは、報復などではありませぬ。風狗は、ばかげた妄想に取り付かれているのです。花安英は風狗の本音をしりませぬ。哀れなのは花安英でございます。どうぞ、助けてやってくださいまし」
趙雲と孔明は顔を見合わせた。花安英のいままでの様子からは、後輩たちにこれほど慕われているとは、想像できなかったのである。
「風狗の狙いはなんなのだ?」
それは、と言葉をにごし、白の者と子供たちは顔を蒼くする。
「播天流が、風狗を操っているのか?」
「播天流は、風狗がもっとも従順で、あつかいやすい刺客だと思い込んでおります。しかし風狗は、おのれの血統に異常に拘る化け者です。自分の血統の正しさをしめすために、実の父親と母親を殺そうと考えているのです」
「実の父母を、おのれの血統の正しさを示すために、なぜ殺さねばならぬ」
と、憤りなかばに趙雲がつぶやく横で、孔明は、風狗の意図がわかった気がした。
「なるほど、風狗の正体はわかった。奴のことは任せるがよい。花安英もかならず助け出す。君らは間道を急げ。われらも後から行く」
「ご武運を」
と、白の者が言う。
孔明は、その光を宿さぬ双眸をまっすぐ見て、答えた。
「君らも、かならず生きよ。そして新野で会おう」
白の者はそれを聞くと、はじめて、笑顔を見せた。その顔は、悲しいくらいに親友によく似ていた。

                                                          ※                  ※

「あなた、出立ですの?」
ようやく子供をあやしつけて、崔州平の妻は、戸口を開けたまま、まんじりともしない夫に声をかけた。崔州平の妻は荊州でも名の知れた豪族の娘である。崔州平と結婚するまでは、『壷中』のことなどなにも知らなかった。
ある日、思いつめた顔をした夫から、その悲惨な過去を聞いたとき、崔州平の妻は、ふしぎとすんなりと話を聞けるおのれにおどろいた。
というのも、彼女には、幼い弟がいた。しかし、いつのまにか養子に出されて、そのうち、死んだ、と聞かされた。のちに、弟を弔ってやりたいので墓を教えて欲しい、と両親に言ったところ、急にひどく怒られて、そんな者はいない、と怒鳴られた。
おそらく、弟も、口止めとして『壷中』に差し出され、そこで死んでしまったのだろう。
汚らわしいと思うならば、離縁してもよい、実家にもどってくれ、という夫に、彼女は首を振った。
あなたが自分と、弟の仇を討ちたいというのならば、わたしも弟の仇を討ちたい、ともに行かせてほしい、と。
「わたしたちは、これから曹公をお迎えにあがるのでしょう?」
「そうだ」
城の方向を見つめたまま、崔州平はいった。
「杏(きょう)、龍が動いたのだ。すさまじいとは思わぬか。七年間、だれも手出しできなかったものを、あいつが動かしたのだ」
「孔明さまのことですの?」
「中心に動いたのがあいつでなかったら、こうも鮮やかな結果はでなかったであろうよ」
「こうなると、新野の方々が心配ですわね。大丈夫でしょうか」
「彼女なら、俺よりうまくやるだろうさ。それより、杏、支度をしてほしいのだが」
「荷造りなら、できておりますわ」
妻、杏のことばに、崔州平は笑みをこぼして振り返った。
「おまえは、よくできた妻だ」
杏は、夫のことばに、うれしそうに微笑むと、夫に一振りの剣を差し出した。それを見て、崔州平の大きな目は、さらに見開かれる。
杏は、剣を捧げ持ったまま、夫に言った。
「あなたさまのお心はわかっております。どうぞ、お行きになってくださいまし。そして、どうぞ本懐を遂げてくださいませ」
沈黙があった。
崔州平は、言葉につまって、なにも言えなかったのだ。月光に淡く輝く剣を見下ろし、そうして妻の固い顔を見る。
「そなたは、どうするのだ」
「最初の手はずどおり、子供たちとともに、曹公の元に参ります。わたくしが、郎君に教えていただいた『壷中』の情報を語れば、曹公はわたくしたちをもてなしてくれるでしょう。恐れることはなにもございません。それよりも」
と、杏は顔を上げる。
「あなたさまの過去をこの剣で殺して、そうしてわたしたちの元へ帰ってきてください。そうして、新天地で、親子五人でやり直しましょう。わたくし、いつまでもあなたをお待ちしております」
崔州平は、剣に手を伸ばした。
その正体を知られたくないがために、襄陽では、徹底的に武器に触れなかった。孔明と徐庶が剣の練習をしている横で、刃がこわいと嘯いて、見ているだけだった。
久しぶりに手に取る剣は、待っていたかのように、崔州平の手に馴染んだ。
「そなたは、本当に俺には過ぎた妻だ」
そう言うと、崔州平は涙をこぼす妻を抱きしめた。


孤月的陣 『涙』 了
次回、最終章『太陽』 1につづきますm(__)m


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