孤月的陣
第四章 ナミダ 涙
⑦
もしこれが定められたものなのだとしたら、ずいぶんと回りくどいさだめではないか。
趙雲は、運命とやらに挑戦的な笑みを向けると、静かに弓を引き絞った。
黄忠にはげまされたから、というわけでもないが、ふしぎと外れる気がしなかった。
おまえは人殺しが巧すぎる。
上等だ。
趙雲は弓を引き絞り、城壁から黄忠をねらって弓を引く兵士のひとりに矢を射た。その弓兵は、さきほど城壁の上から、聞くに堪えがたい罵詈雑言をわめいていたうちの、とくに悪ふざけのすぎるひとりであった。
正門から聞こえてくる怒号にまぎれて、弓の飛ぶ音は響かない。茜色に染め上げられた樊城の空を矢は飛んで、鷹が獲物をねらうときの正確さでもって、弓兵の額を射抜いた。兵士が、黄忠に弓を射掛けたままの姿勢で、前に崩れ落ち、そうして音もなく城壁を落ちていく姿が赤い空に浮かび上がる。正門の黄忠の来襲に気を取られ、ほかの弓兵は、仲間の死に気づかない。
趙雲は容赦なく二射目をつがえた。
ぎり、と弓を引き、敵の姿を捉え、相手の次の動きを想像しながら、矢を放つ。
びゅっ、と風に乗り、矢が死を運ぶ。
ふたたび命中し、二人目が空中に飛び込むようにして落ちていった。
正門では、黄忠が兜を目深にかぶったすがたで、押し寄せる兵士たちを相手に、見事な槍さばきで大立ち回りをしていた。
ともかく動きが洗練されており、なにひとつ無駄がない。わずかな動きだけで、ひとり、またひとりと槍の餌食になっていく。
遠目から全体をながめれば、黄忠は、おのれを取り巻く空気ごと、まるで呪術をあやつっているかのように転がしているように見えた。前後左右からつぎつぎと襲い掛かる兵士たちは、黄忠の周囲で、まるで見えない壁にはじかれたように飛び跳ね、地面に倒れる。
あまりの凄まじさに、数では圧倒的優位をほこるはずの兵士たちが、徐々に距離を置き始めているのがわかった。
それでも戦い慣れているものは、黄忠を射止めんと矢を番えるのであるが、そこは趙雲が援護して、つぎつぎと射落とす。
ひさしぶりに冷徹に番える弓は、腹の底から笑いがこみあげてくるほどに、まったく外れることがなかった。憑き物が落ちたようだ。身体を縛るものがなにもない。その快楽に、趙雲は素直に酔った。
黄忠の読みどおり、播天流は、趙雲が真正面からやってくると予測して、ほぼすべての兵力をここに配置していた様子である。兵士たちは、城門から、あとからあとから現われて、つぎつぎと黄忠に挑みかかっていく。おどろくべきは黄忠の胆力、そして冷静さで、たとえ兵士がどんな得物を持っていようと、的確に攻撃をかえしていく。
なにより、倒すだけではない。返り血を浴びて視界が塞がれないように、そして手が血でぬめらないように、そこまでを考慮して動いているのがわかる。群がる兵士たちとは、戦闘の格があまりにちがいすぎた。
趙雲は弓で援護しながらも、その見事な戦いぶりに、背筋が震えるほどに感動をおぼえていた。
齢七十になるという老人が、これほどに凄まじい戦いを披露するとは。
そして、これほどの武将が、いままで世に知られずにいたとは。
あの老人が、昨日まで瓜売りをしていたと言っても、だれも信用できなかっただろう。
兵士たちにとっては、黄忠が単独なのがわざわいしていた。
あまりに兵士が密集しているために槍は使えず、せっかく駆けつけたのに手持ち無沙汰にしている者もいれば、手斧を振りかざしたはいいが、目指す黄忠にあっさりかわされて、味方の脳天を割ってしまう者もいる。さらに、黄忠が倒した兵士の死体に足を取られ、団子状態になって倒れてしまう兵士もおり、まさに修羅の名にふさわしい乱戦状態であった。
黄忠は、趙雲を東門へ行かせるための囮を買って出たのであるが、おどろくべきことに、大勢の兵士たちをたったひとりで相手にしながらも、徐々に徐々に、城内に向かって前進しつつあった。下手をすれば、単騎で樊城に侵入できるのではないか。
「みなうろたえるな! 敵は一人! たったひとりであるぞ! 常山真定の趙子龍を仕留め、名を挙げよ! 仕留めた者には、好きなだけ褒美をくれてやろう!」
城壁から、雷のような声がひびきわたり、赤い空を駆けていく。
趙雲は身体を震わせた。恐怖のためではない。
戦闘が、かえって雑念をすべて取り去ってくれたらしい。純然たる怒りが、ようやくこみ上げてきた。
真の英雄のもとへ連れて行ってやろうと、あの男は言った。
まだ幼かった。真の英雄というものが、いかなる者であるか、ぼんやりとした印象しか頭になかった。
薊で公孫瓚に会ったとき、その自信に満ち溢れた堂々たる姿と美貌に触れ、やはりあのひとの言ったことは間違いではなかったとよろこんだものである。とはいえ、その喜びは、すぐに失望に変わったのであるが。
成長するにしたがって、もしかしたら真の英雄などというものは、世に存在し得ないのではないかと思うようになっていた。劉備には、もちろん心服しているし、尊敬しているが、少年のときに憧れ、夢に描いていた英雄とは、わずかにズレがある。
暗闇を照らす光のような人物の到来を、趙雲はずっと願ってきた。だが趙雲は、劉備こそがそうではないか、きっとそうにちがいないと、どこかで納得していない自分に言い聞かせていた。劉備は明るい男ではあるが、その影響力は周囲にしか届かないものであり、時代を大きく動かしうる…もっと言うならば、全体を救済するような、太陽のような絶対的な光明とはちがうものである。
自分の子供じみた夢を哂い、哂いながらも、どこかで希望を捨てられない自分を持て余すこともあった。
そうして、ようやく、無限の可能性を秘めた光輝を見つけた。
おまえから必ず取り返す。
趙雲は、城壁の中央に立つ、赤い空に浮かび上がる播天流の姿めがけて弓を引いた。
※ ※
播天流は震えていた。
兵士たちが、まるで敵わないことに対する怒りでもなく、倒された兵士たちへの同情のためでもない。
もはや戦神と呼んでもおかしくないほどに武芸をきわめた趙雲の姿に感動したのである。
どれほどに憎んでも、播天流にとって、趙雲はやはり最高傑作であり、理想の具現化、象徴であった。いや、それほどに入れ込んでいたからこそ、思うようにならなくなった趙雲を憎んだのだ。
播天流は、つぎつぎと兵士たちをなぎ倒していく趙雲の姿から目を離せずにいた。そして、自分が趙雲を殺さずに生かしてやろうと思っているのは、憎しみによるおぞましい企てからそう考えるのか、それとも結局のところ、その存在に捕らわれているのか、わからなくなっていた。
混乱すると同時に、激しい衝動が突き上げてくる。
あれは絶対に手に入らない。おまえのものにならない。
あれが生きている限り、おまえは苦しみつづけるだろう。
ならば、殺してしまえ。
「みなうろたえるな! 敵は一人! たったひとりであるぞ! 常山真定の趙子龍を仕留め、名を挙げよ! 仕留めた者には、好きなだけ褒美をくれてやろう!」
叫ぶ自分の声を、播天流は、どこか異空からひびく声のように聞いた。
なにかが。
それは天啓のように播天流の脳裏に浮かび、突然に闇に覆われたすべての視界を光で照らしたかのような錯覚を生み出した。
なにかがやってくる。
播天流は、直感に突き動かされるまま、わずかに身じろぎをした。その瞬間、まさにすれ違うようにして、なにかが飛び込んできた。たん、と単調な音を立て、その何かは播天流の頬をかすめ、背後の、孔明の身代わりとなった男の柱のひとつ突き刺さった。
播天流は、城壁から身を乗り出して、眼下に広がる闇に目を凝らした。
城門の前で派手に暴れる趙雲。ほかにだれもいない。
ちがう。
そのあまりに迷いのない切っ先に、播天流は我に返って、叫んだ。
「ちがう!」
周囲の兵士たちがおどろいて播天流を見たが、構わなかった。どこがどう違うか、と具体的に説明することはできなかったし、おそらくできたとしても、兵士たちには、なにもわからなかっただろう。
播天流はすばやく考えた。
あの男はどこへ行った。どこへ逃げた? またも己の前から逃げたあの男はどこへ?
城門で戦う男の意味はなんだ?
そこに至り、播天流はおのれの失敗に気がついた。
しまった。やつはもう城内に入り込んでいるかもしれぬ。
「各兵卒長に伝令! 趙子龍がすでに城内に侵入しているやもしれぬ! ただちに各城門に移動し、やつを捕らえるのだ!」
※ ※
趙雲は、弓を片手に身を低くして、東の門へと走っていた。
静けさに満ちていた樊城の様子が、一気に動き出すのが気配でわかった。見つからないように足音を殺し、光を避けて進みつつ、趙雲は、興奮と冷静のないまぜになった、異様な高揚感をおぼえていた。徐々に神経が研ぎ澄まされ、すべてのものが見えてくる。
自分が次に何をすればよいのか、敵はどのように動くのか、すべてがあらかじめ趙雲の前に明らかにされた筋書きのように、それほど明確に全体が見渡せる。
それは仙人じみた能力の所以ではなく、観察力にすぐれた趙雲だからこそのものであった。無意識に視界におさめたものが、極限状態になると集約され、それが自然と分析されて、脳内に整理されて提示されるのである。
事前に情報を集めていればいるほどに、趙雲の行動は尖鋭化する。
東門の篝火の前で、正門の兵士たちとは対照的に、暇そうにあくびをする兵士が立っていた。趙雲は篝火の明かりを避けて、音もなくそっと近づくと、背後から近づき、口を塞いで首筋を打った。倒れる音でほかの兵士が気づかないように、膝をつかってくずれる兵士の身体をささえ、地面にそっと横たえる。
だが、近くの兵士が気づいたようだ。屈んだ姿勢のまま、趙雲は兵士を待ち受けると、下から突き上げるような形で、やってきた男のみぞおちを打つ。薄い鎖帷子ごしに、男の身体に走った衝撃が伝わってくる。
そうして、二人を地面にならべると、さらに門へと近づいていった。
東門と正門の兵士たちの差はあまりにはげしかった。
門のすぐそばでは、幾人もの兵士が車座になって、賭博にはげんでいる。一方で生死をかけた戦いをくりひろげ、その一方では呑気に小銭をかけた争いをくりひろげている。
もはや統制云々以前の問題である。蔡瑁や『壷中』のやりように、あからさまに反対している将兵がいるのだ。そしてその行動を、蔡瑁も『壷中』も抑えきれていない。たった一人の男を阻止することさえ、まとまってできない状態なのだ。
ここまで腐りきっていたのかと唖然とするのと同時に、こんな軍隊で働かされる兵卒たちを、趙雲は哀れに思った。
兵士たちは武器も兜も傍らにおいて、熱心に賭博にはげんでいる。趙雲もよく知っている、賽をつかった単純なものだ。賽を転がし、出た目の数を当てるのである。上役の命令などまるで聞く気のない兵士たちの背後からそっと様子をのぞくと、彼らは目の前のちいさな二つのサイコロに夢中になって、ぎゃあぎゃあと餌を前にした鶏のように騒いでいる。
「くそっ、ついてねぇ! 今夜はいきなり夜警に借り出されるわ、賭けに負けるわで散々だぜ!」
「わるいな。おれはお陰でついているぜ。これで新野の賊とやらが、おれっちのところに丸腰で飛び込んできたら、めでたしめでたし、なんだがな」
「俺はどうもよくわからんのだが、新野の劉予州は味方じゃなかったのか?」
「味方じゃなくなったんだろ。だから急に全兵士に召集がかかったんだ」
「なにを信じていいのかわからねぇ世の中だねぇ」
「まったくだ」
最後のことばは、趙雲から発せられた。
闖入者にはっとして、兵士たちは腰を浮かしかけたが、武器を手放していた、ということと、長時間座り込んでいた、ということが仇となり、彼らがまともに立たないうちに、全員が趙雲によって殴り倒された。まさに一瞬の出来事であった。
さて。
趙雲は息を整えると、東門へと向かった。
どこか倦怠感のただよう門の前には、さきほどの兵卒たちとはちがい、武装もきちんと整えた兵士たちが命令どおりに侵入者を見張っていた。
そこへ、正門からやってきたとおぼしき兵士が飛び込んできた。
「伝令! 賊がすでに侵入の可能性あり! 総員、ただちに戦闘体制に入れ、とのこと!」
命令を聞いて、だらけた雰囲気を漂わせていた兵士たちの面差しが、反射的に引き締まる。もう一足早かったら、隙を狙うだけでよかったのだが。
仕方がない。
趙雲は、さきほど倒した兵卒の槍を奪うと、地を蹴り、門へと飛び込んでいった。兵士のひとりが、
「あっ」
と声をあげたが、遅い。まともに構えさせる隙も与えず、趙雲は得意の槍を縦横無尽に奮って、その場にいた兵卒たちを、つぎつぎと討ち果たしていった。
正門からやってきた兵士が叫ぶ。
「であえ、であえ! 賊はここにいるぞ!」
そうやって門の仲間に呼びかける背中めがけて、趙雲は手にしていた槍を投げた。槍は身体を突きぬけ、兵士は絶叫した姿勢のまま、崩れ落ちた。趙雲は、すぐ傍らに倒れる兵卒から、また槍を奪い、茜色に染まった空の下、ばたばたと駆けてくる兵卒に向かって穂先を定めた。
止まると、城壁の上から弓を射かけてくる兵卒に狙われるので、点在する茂みをうまく利用しつつ、前へと進んだ。
前方から、ひときわ立派な鎧装束の男が、部下を引き連れてやってくるのが見えた。
趙雲は、群がってくるほかの兵卒たちを槍で遠ざけ、提げていた剣を抜き放ち、男に呼ばわった。
「東門を守る将とお見受けしたが、如何に?」
「いかにも。貴殿が賊か」
まるで他人事のように尋ねてくる男は、四角い顔の、いささか小柄な男で、平時ならば好感が持てるだろう、人の良さそうな顔をしていた。趙雲が剣を構えているので、自分も剣を抜き放つ。
「わが名は趙子龍。黄漢升の輩(ともがら)なり」
そう名乗ると、男は、ほう、と相槌を打って、部下に下がっているように命令をすると、自ら剣を手に、突っ込んできた。
ぎん、と鋭い音がして、剣と剣のぶつかりあう音が響き、男の力が振動を通して伝わってくる。
「黄漢升の輩というは、まことか?」
と、組み合いつつ、男は小声ですばやく尋ねてきた。
「そうだ。弓を持っている。黄漢升の弓だ」
「見せろ」
男は、力に弾かれたようなそぶりで、ぱっと趙雲から離れた。趙雲は、すばやく、背負っていた弓を男に見せる。男は、わかった、というふうに大きく肯いた。そして、猛然と切り込んでくる。
「貴殿の命、それがしが預かった!」
そう叫びつつ、男は切っ先するどく斬り込んでくるが、どこか本気ではない。趙雲は、ほかの兵卒たちにそうと知られないようにするために、真剣な素振りをして男と打ち合う。男は徐々に徐々に、小屋と思しき建物の物陰に後退していく。剣を遊戯のようにかわしつつ、趙雲は男のあとにつづいていった。
そうして、小屋の陰に隠れると、男はほかの兵卒に悟られないように、すばやく言った。
「黄漢升とは、なつかしい名を聞いた。さきほど亮さまが単独でお戻りになられたが、そのことと関わりがあるのだな?」
趙雲はおどろき、尋ねた。
「貴殿も、諸葛玄の部下であったのか?」
小柄な男は、感慨深げに大きく肯いた。
「左様。諸葛さまが亡くなられたあと、我らはみな跡取りである亮さまの下に残ることを考えたのだ。しかしかえって『壷中』に目をつけられると判断し、逆に、われらが樊城に残り、『壷中』を見張ることにしたのだ」
「なんと」
趙雲は、あらためて孔明の運の強さに感嘆した。そうして、孔明の叔父が、死を超えてもなお、甥を守り続けている事実に、感動した。
「ゆっくり話をしている暇はない。すると、いま正門で戦っている、という男は、もしや?」
「そうだ。軍師はいづれに?」
「教えてやりたいところであるが、分からぬ。蔡瑁め、もともと秘密主義の男だが、『壷中』に関しては、それがもっとひどくなる。だが、城内の動きも妙に慌しい。何事か起こったのかも知れぬ。もし亮さまがいるとしたら、奥向きの劉州牧の居室の近辺であろう。なんとしても亮さまを助けて差し上げてくれ。われらの七年間の努力を無駄にしないでほしい」
趙雲が大きく頷くと、男は、にっ、と明るく笑って、剣を片手に小屋の物陰から飛び出した。
「賊は正門のほうへ逃げた! 総員、正門へ向かえ!」
そう叫ぶ男の背中を物陰より見送りつつ、趙雲は、闇に浮かぶ劉州牧の居城を見上げた。
※ ※
蔡瑁は、夫の劉表を介抱する、蔡夫人の白い手を見つめていた。
はじめて会ったときは、美しいだけがとりえの、楚々とした気弱な女だった。
劉表の毒にあてられたのか、それとも、もともと内側に眠っていたものを引き出してしまったのか、それはわからない。だが、劉琮が生まれてからの蔡夫人の変貌ぶりは目を見張るほどであった。
たしかに共謀者としては、心強い女に成長した。
だが、生涯の伴侶たりえるか、というと、また別の話だ。
蔡瑁は、蔡夫人には内密に、またあらしく若い女を囲っていた。
『壷中』の女で、まだ少女と言ってもいいくらいの幼い娘であるが、ほかの娘たちのように、ほかの男たちに差し出すには惜しい器量の持ち主であったので、自分のものにした。
『壷中』の娘たちは、はやくから房中術を仕込まれる。そうして、自分たちの若さと肉体を武器に、各国に侵入し、情報を引き出してくる。その肉体の素晴らしさに耽溺し、蔡瑁のように、『壷中』の女を妾にする豪族は多い。
少年たちの中でも、見目良い者は、やはり特殊な趣味をかかえる要人用に育てられる。不思議なもので、断袖の趣味を持つ者は権力者に多い。だから、彼らの利用価値は高いのだ。美貌と若さに加えて、少女たちにはない体力を持っているからだ。
彼らの教育は、蔡夫人が主立って行っている。
そうしてうまく教育し、自分が勤めたくない夫への勤めを、代わりに少年たちに行わせている。
図々しい女になったものだ、と蔡瑁は感心するが、自分とて、似たようなことを蔡夫人にしたことは、すっかり忘れている。
「琮はどうした」
劉表が目の前で眠っている、というのに、蔡瑁は劉琮を名で呼んだ。
あれは自分の子だ、と蔡瑁は信じている。蔡夫人がそう言ったからというのもあるが、劉琮は、あまりに劉表に似ていなかった。それに、蔡瑁は劉表が『息子』の劉琮に、どれだけのことをしてきたか、知っているので、その事実から目を逸らしたかった、というのもある。
「ここにおります、伯父上」
劉琮が、華奢な姿を見せる。その手には、盆があり、なめらかな輝きを見せる青い香炉が上に乗っている。
「表が騒がしいので、様子を見てくる。播天流のやつ、まさかとは思うが、たった一人の男も阻止できなかったかも知れぬからな」
「それでは、われらの警護はだれがするのですか?」
と、劉琮は、母親そっくりのきつい詰問調で尋ねてきた。
妙なところが似るものだ、と苦りつつ、蔡瑁は答える。
「ちゃんと兵卒を揃えてある。ただし、部屋から出るな。逃げた諸葛亮も見つかっておらぬのだ」
「諸葛亮が我らを襲ってきたら?」
「埒もない。あの青書生になにができる」
蔡瑁は、長身のわりには華奢な印象のつよい孔明の姿を思い浮かべていた。
徐庶という、前科持ちと親しかったくらいだから、やくざな生活を送っているのだろうと、最初のうち、蔡瑁は考えていた。
しかし、実際にふたりに会ってみて、考えを変えた。そうではない。あれほど生真面目なふたりはいないだろう、というくらいに弾けたところのない青年たちだった。ただし、生真面目である、ということは常に本気ということであり、まともに向かってこられると厄介な相手となる。
一方は曹操の元へ行ってしまったが、もう一方は、懸念どおり、いま面倒な敵となって、あろうことか樊城をネズミのように引っ掻き回しているのだ。
早いところ、始末してしまえばよかった。黄家のじじぃの言葉なんぞ、無視してしまえばよかった。
「琮! なにをしているのです!」
蔡夫人の金切り声に、蔡瑁は我に返った。
何事かと見ると、驚いたことに、劉琮が、手に長剣を持って、その切っ先を母親に向けているのだ。あわてて自らも剣を抜こうとした蔡瑁であるが、力が入らない。ぐらりと視界が揺れる。
そうして、気がついた。鼻腔をくすぐる甘い香り。
「やっぱり利くな。私は訓練で慣れているから、これくらいではなんともないが」
と、幼い容姿とは見合わぬ、大人びた口調で劉琮は言い、笑った。
その笑みを見たとき、蔡瑁は肝が冷えた。
狂人の笑みであった。血に狂った、化け物の笑み。
足が震え、不様に床に膝をつく。その目の前では、蔡夫人が、必死になって劉琮に訴えていた。
「なにをするのかえ? おやめ! その物騒なものは、しまっておしまい!」
「黙れ」
短くそう言うと、劉琮は、蔡夫人に向かって、静かに刃を突き立てた。
※ ※
「隠れて」
強ばった声で花安英がいい、孔明は素直に物陰に身をひそめた。
廊下を進む孔明と花安英の前に、兵士たちが数人、束になってこちらへ向かってくるのが見えた。
さきほどから城内が騒がしい。ばたばたと兵士たちは早足に駆け去っていく。
「さきほど、賊が劉州牧の部屋を守っていた連中を皆殺しにしたらしいぞ」
「おかしいではないか。賊が門を突破したらしいとしらせがあったのは、ついさっきだぞ」
「賊が二手に分かれているのだ」
「いや、三つだろう。正門で暴れているのと、そいつを囮にして城内に入り込んだのと、すでに城に入り込んでいるやつの三つだ。しかし、俺たちのほかに、城をうろついている若い連中は、いったい何者なのだ?」
兵卒長らしき、年配の男が、首だけを動かして兵卒を振り返る。
「詮索無用だ。われらは賊を捕らえることのみに集中すればよい」
はあ、と納得しかねる、というふうに兵卒は返事をかえした。
薄暗がりに隠れる孔明は、遠ざかりつつある足音に安堵しつつ、考える。
すでに城内にいる賊とは、ほかならぬ自分のことであるが、ほかに二手?
正門で闖入者があり、播天流の兵士たちと衝突したらしい。
兵士たちの話からすれば、闖入者は二人で、ひとりが囮になり、もうひとりが別の門から侵入したらしい。詮索するまでもなく、それは趙子龍と斐仁、あるいは黄忠であろう
「あのばか」
物陰で兵士たちの話を耳にしつつ、孔明はつぶやいた。
あれほど新野へ帰れと言ったのに。たった三人で、この城内全員を相手にするつもりか。
孔明は、長剣の柄をぎゅっと掴んだ。
人を殺したことはない。しかし、やらねばならぬ。
ふと気づくと、花安英が傍らにたち、見下すような視線を送っていた。
「ここでじっとしていれば、あんたの助けが来るかもしれないね」
血に汚れた花安英の顔は、思わず目を背けたくなるほどにみにくく歪んでいる。かつて樊城の花として、その美貌と才智をもてはやされた、可憐な少年の面差しはどこにもなかった。
孔明は、自分に向けられる嫉妬の視線をまっすぐに受け止めた。
「そうかもしれない。しかし、わたしは助けられるために、ここにいるのではない」
「でも結局、あんたは誰かの助けがないと、どうにもならない人間のひとりなんだ」
「だれの助けもなく、やっていける人間なんぞ、この世にいるものか」
「すべてのものに例外はありますよ」
ここで答えのない、平行線をたどる一方の問答をして時間をつぶすつもりはない。
先へ進もうと促そうとした孔明であるが、はっと口を閉ざした。
行ってしまったとばかり思っていた兵士たちが、またこちらに戻ってきたようだ。ふたたび身を低くして物陰にかくれると、兵卒長の苛立った声が聞こえた。
「侵入者を捕らえろというだけではなく、消えた子供たちも捜せ、だと? 我らをなんだと思っているのだ!」
孔明がそっと覗くと、兵卒たちは、だれかを両脇から抱えるようにして、引きずるように歩いている。兵卒長は、部下たちにてきぱきと指示を下しながらも、あきらかに感情的になっていた。
彼らに捉えられていたのは、劉表の部屋で琴を弾いていた、白髪の者であった。白く濁った目をさまよわせ、兵卒たちに引きずられるようにして廊下を行く。
「隊長、なんだって劉琮公子のお遊び相手まで逃げ出しているんです?」
「俺が知るか! ともかく命令どおりにするのだ」
そこへ、ばたばたと兵士が駆け込んできた。
「伝令! 賊はすでに城内へ侵入した模様! 内門の警備兵が全滅!」
「全滅?」
鸚鵡返しした兵卒長のことばに合わせるように、兵士たちも顔を見合わせる。
「逃げたのではないのか? 全滅なのか?」
「全滅でございます! 城内を守る部将はすべて打ち倒された模様。外門に援護を要請しておりますが、外門でも叛乱が起こった様子」
「叛乱? だれがだ!」
「東門を守っていた部将たちが、こぞって賊に味方して、正門はいまや乱戦状態でございます。城内の兵卒をまとめる者がおりませぬ。混乱し、逃亡をはかる兵卒どもが掠奪をはじめた模様」
「なんということだ。城内に、ほかに人はおらぬのか?」
「わかりませぬ。蔡将軍は行方知れず、劉州牧は伏せっておられ、ほかの将軍方も姿をお見せになりませぬ」
逃げたか、と伝令の話を聞きつつ、孔明は、自分のことのように苛立った。
腐り始めていた樊城の内部が、いま激しく音を立てて崩れだしている。
蔡瑁の命令がないために兵士は動揺して暴走し、蔡瑁に与していた武将たちも、身の安全を考えて、隠れてしまっているのだ。
本来ならば、先頭に立って城内の混乱を収めねばならない立場にあろう者が、だ。
もちろん、この状況は、孔明には歓迎すべきことではあるが、しかしかつての樊城の様子を知っているだけに、孔明は怒りをおぼえる。
平時は威張り散らすだけ威張り散らしておいて、戦時はこれか。臆病者どもめ!
「くそっ! 今宵はなんだというのか! ともかく兵卒どもを鎮めねばならぬ。おまえとおまえは俺についてこい。ほかは、その子供をどこかへ閉じ込めておけ!」
兵卒長は青い顔をしてそう言うと、部下たちといっしょに駆け去っていった。
残された兵士は三人。
そして白の者である。
残された彼らは、互いの顔を見合わせる。
「聞いたか、みんな逃げているそうだぜ」
「賊、といったが怪しいものだ。内門の警備兵といったら、俺たちなんかとちがって、優秀な奴らばっかりあつめた部隊だったはずだ。賊は一人や二人なんかじゃなく、もっと大勢いるんじゃねぇか」
「町で聞いたのだが、曹操が樊城を伺って、明日にでも攻めてくるかもしれぬそうだ」
「もう曹操が?」
「わからぬぞ。なにせこの城の偉い連中と来たら、肝要な話は、ぜったいに俺たち下々には漏らさぬからな。将軍たちがみないなくなってしまった、ということは、もしかしたら、賊というのは嘘で、ほんとうは曹操軍で、俺たちに曹操軍を抑えさせ、自分たちは逃げ出したのかもしれぬ」
曹操軍の規模を知る孔明からすれば、兵卒たちの言葉は失笑ものであったが、兵役であつめられ、自分の故郷と樊城しか知らず、実戦に出たこともない彼らからすれば、そんな推量がでてきてもおかしくなかった。
曹操軍が押し寄せてきたなら、それこそ大津波が樊城をまるごと飲み込むくらいの規模になるだろう。この程度で済むはずがない。
「どうする?」
「ここに残って、死ぬのはいやだ。逃げよう」
「うむ、しかしほかの連中はうまいことやって、お宝を分捕って逃げているみたいじゃないか。俺たちだって、苦しい兵役に耐えたのだ。ご褒美をもらっても悪くなかろう」
と、兵卒たちの目線が、自然と、自分たちが連行している白髪の者の、身にまとう豪奢な衣裳に集中した。
「気味のわるいヤツだが、持っている物は豪華だな」
「身包みはがして、裸で捨てておけ」
と、ひとりが、乱暴に白髪の者の首環を引きちぎるようにして奪った。
しかし、白髪の者は、叫び声ひとつあげず、されるがままになっている。
「なんだ、こいつ。しゃべれないのか?」
「しゃべれないのなら、僥倖ではないか。目も見えぬようだし」
指輪を取ろうと腕を乱暴につかむ兵卒のとなりで、ひとりが、なにやら薄気味悪い笑みをうかべて、透明な表情を空にむける白髪の者の顔をじっくり眺めた。
「真っ白で気味悪いが、よく見ると、女みたいな顔をしておるぞ」
「よせ。女でないなら用はない。こいつの持っている物を売って、女を買うほうがいいだろう」
「ふん、なら、おまえらは、それだけ持って、さっさと行け。おれはこいつに用があるのだ。男の癖に、女の格好をしているとどういう目に遭うか、年長者として教えてやらねばならぬ」
兵士の言い分に、ほかの兵士は、やれやれと言いつつも苦笑いを浮かべている。そうして、男は白髪の者の手を乱暴に引き、手近な部屋へ連れ込もうとする。
孔明は立ち上がり、飛び出そうとした。
すかさず、花安英がその肩を掴む。
「お待ちなさい。あんたみたいな細腕が行ったところで、助けられやしない。返り討ちにあうのがせいぜいだ」
「しかし」
「あの者は、こういう目に遭うのになれています。捨てておきなさい。それより、風狗を止めなければ。あの者は命までは奪われないでしょうが、こうしているあいだにも、風狗は、ほかの弟たちを襲っているかもしれないんだ!」
こういう目に遭うのになれている。
孔明は、はげしく怒鳴りたくなる気持ちを必死におさえ、花安英に言った。
「ならば、おまえは風狗を追え。わたしは、あの者を助ける」
「あきれた人だな。いちいち目の前の人間を助けて、肝心なことはなにひとつしないで死ぬつもり?」
「あの者とて、きみの弟ではないのか?」
花安英は、秀麗な顔をしかめ、きつく唇をかみ締める。
彼らが悪いのではない。
彼らをこのように育てた人間が、悪いのだ。
孔明が立ち上がると、花安英は言った。
「では、あの者は軍師にお任せいたします。わたしは風狗を」
「じき、追いつく」
「あんまり期待してませんよ」
花安英は、憎まれ口をたたくと、やはり立ち上がり、樊城の奥のほうへと踵を向ける。そうして、ふと、立ち止まると、孔明に言った。
「武運を」
「ありがとう」
孔明は、白髪の者に気をとられている兵卒たちに、ゆっくり近づいていった。
手には長剣がある。もちろん彼らも武装している。
相手は三人。
彼らはまだ、孔明に気づいていない。
ふと、廊下に飾られる、大きな鼎が目に止まった。
祭祀用のものだろうか。凝った線状の模様が全体にちりばめられている。
孔明はずっしりと重い鼎を持ち上げた。
男に手を強くつかまれて、それまで、うつろで無表情であった白髪の者が、屠殺場にひきだされる家畜のように、急に抵抗をはじめた。
足を踏ん張らせ、男の腕から逃れようと身じろぎをする。
しかし、男はそれがおもしろいらしく、なお一層、力を込めて、白髪の者を引っ張ろうとするのだ。
その白濁の双眸が、ひどくうろたえ、悲しみに満ちているのが、篝火に浮かんではっきり見えた。
慣れることなど、あるものか。
孔明は、鼎を思い切り振り上げると、男の後ろ頭めがけて、それを振り下ろした。
ごん、と鈍い音と共に、男の頭に鼎が落ちて、男はそのまま、崩れ落ちた。
「何者だ!」
さすが、だらけているとはいえ、訓練を受けた兵卒だけあり、剣を抜くのは早かった。
孔明は頭で自分の行動の段取りを組み立てていたが、体が思うように動かない。自分に向かってくる刃を、ぎりぎりの早さで受け止める。
力比べとなったが、持てる限りの力で、これをなんとかしのいだ。
するともう一方の兵士が、すかさず向かってくる。
孔明は、剣の構えに迷いつつも、これもなんとか交わして、横から薙ぎ払うようにして、追い払った。
追い払った。
それだけである。
刃が兵士の身に届かない。
兵士たちはすぐに体勢を立て直して向かってくる。
いつもは存在すら失念しがちな袖が、異様に重く、邪魔に感じられる。
私塾の人間と喧嘩をしているときなどとは、様子がまったくちがった。
喧嘩はあくまで喧嘩であって、命を奪うのが目的ではない。
互いに暗黙の了解があり、目や心臓などの急所は避けるのが当然だ。
だが、真の戦闘においては、そんなものはない。
死んだほうの負け、生きたほうの勝ち。それだけだ。
兵卒のひとりは、剣を中段に構えると、肩で息をする孔明を見て、仲間と目配せをした。そうして、不吉な笑みを孔明に向けてくる。
この段になって、孔明は自分の行動を後悔したが、もう遅かった。
孔明に向かって、一斉に兵卒が向かってきた。双方向から刃。
孔明の頭はまったく動かなくなった。
ただ、本能だけで反応して、手にしていた長剣を闇雲に奮った。
ぎん、がん、と金属音がいくつかして、重い手ごたえがあった。
視界の隅で、兵卒たちが舌打ちをして、態勢を整えているのが見える。
なんとか一撃目は凌げたらしい。
気づくと壁に背をあずけるような体勢になっていて、後退することができない。
それどころか、手も足も、がたがたと震え、まるで役に立たないのだ。恐怖のためもあるが、鍛えていないのがたたって、もう体が耐えられなくなってきたのである。
孔明は心のうちで悪態をついた。
やっぱり、机の前にかじりついているだけでは駄目だ。
二人の兵卒は、またも同時に襲い掛かってくる様子だ。
ばかの一つ覚えだな、と悪態をつきつつ、それに為す術のない自分に苛立つ。
1人を運良く切り伏せられたとしても、もう1人はすぐに襲い掛かってくる。
人をひとり切り伏せるのに、どれだけの力が必要なのかもわからない。
鎖帷子をまとう兵士の胴に、刃を突きつけたところで、さほどの衝撃も与えられないだろう。
人間は、どこをどう攻撃したら、ちゃんと殺せるのだ。
自分でもあきれたことに、実際に敵と対峙するにあたって、無名の兵卒の命を奪うことすら、まともにできない。
兵法ならそこれそ竹簡に穴が開くほど何度も読み返したけれど、あれのいう『敵』は、ひとつの名前をなくした個々人の集団を指していた。
息がどんどん荒くなっていく。緊張と恐怖のためである。
不意に、長剣を突き立てられ、苦痛にゆがむ叔父の顔、崩れ落ちるすがたが脳裏に浮かんだ。
叔父と甥とで、おなじ運命を辿るのか。
そう哂ったのは誰であったか。
だれでもいい。そんなのは嫌だ。
せっかく命を賭して救われておきながら、このまま何も為さずに、死ぬなんて嫌だ。
『切羽詰ったら、足を狙え。戦いなれてないヤツなら、たいがいは足が無防備になる。足を動かなくさえしてしまえば、敵の動きを封じることができる』
突然に、孔明の脳裏に、なつかしい兄弟子の声が響いた。
自分に剣を教えてくれた男の声だ。
『そうしてその隙に逃げるのさ。だから、足だけは鍛えておけよ。俺はそうして生き残ってきたのさ』
足を。
孔明は、息を整え、ほんのすこしまぶたを閉じると、目を開き、目の前に立つ二人の男を見た。
怖じるな。先手を打て。
自分に言い聞かせると、孔明は姿勢を低くして、兵士たちに向かっていった。
彼らは徐庶が言ったとおり、たしかに足が無防備であった。
そして、まさか足を狙われるとは思っていなかったのだろう。孔明は、二本に並ぶ木を切りつけるようにして、それぞれの足を素早く切りつけた。
肉を断つ、なんともいえない重く鈍い感触がある。血しぶきが立つのがわかった。
だが、振り返らず、孔明はそのまま、兵士たちのあいだを抜けるようにして身をかわすと、立ち尽くしている白髪の者の手を取って、走り出そうとした。
しかし、足首がつよく引き戻される。
ぎょっとして見下ろすと、さきほど鼎をぶつけて気絶させた兵卒が、割れた額を抑えつつ、憤怒の形相で孔明の足首をしっかりつかみ、立ち上がろうとしていた。
蹴り上げて振り放そうとするが、男の力はつよい。そのあいだにも、足を切られた兵士たちが、うめきつつもふたたび剣を構え、孔明に向かってくるのが見えた。
そうして、兵士の一人が、孔明にむかって剣を振りかざした。
風を切る音がした。
同時に、だん、だん、と太鼓を軽く打ったような音が、ふたつ、つづけてあった。
孔明に剣をかざしていた男たちの額に、それぞれ一本ずつの矢が突き刺さっていた。
男たちは、目を見開いたまま、射抜かれた衝撃で、そのまま後ろに倒れていく。
額を割られた男は、孔明の足を掴んだまま、獣じみた咆哮をあげて立ち上がろうとするが、孔明が姿勢を崩すより早く、起き上がろうとするのを押さえつけるように、脳天から顎にかけて刃をふかぶかと突き立てられ、そのまま絶命した。
よろめく身体を支えてくれる姿に、孔明は言った。
「弓、うまいじゃないか」
「吹っ切れた」
ぶっきらぼうにそれだけいうと、趙雲は、男の頭部に足をかけて、つきたてた剣を抜く。
なんとも形容しがたい生々しい音がひびき、孔明は思わずぞっと身を震わせた。
ほんの一瞬であった。
どうやったら倒せるかと、懸命に悩んでいたのが馬鹿馬鹿しくなるほど、あっさりと、三人は死んでいた。
あらわれた趙雲の姿は、それはすさまじいものであった。
ここに至るまで、なにがあったのか。
そういえば、内門の警備兵が全滅、とか言っていなかったか。
血に汚れていないところを探すのがむずかしい。
おどろくべきは、孔明がいまだに息を整えるのに苦労しているというのに、趙雲はほとんど息を乱していないことだ。
小競り合いで敵にあたる趙雲の姿をみたことがあっても、戦場での姿を見たことがなかった孔明は、これが武将としての本来の姿なのだろうと思いつつも、見慣れぬ姿に戸惑っていた。
しかし、ふしぎと恐ろしさがないのは、自分を助けに来た者だと、わかっているからなのか。
「まずは礼を言おう。助かった、ありがとう」
と、孔明が言おうとするのを、趙雲は手で留めて、口の周囲の血をぬぐいつつ、に言った。
「俺がいま、いちばん言いたいことを教えてやろうか」
「なんだ?」
ひゅっと風を切り、趙雲の、剣を持たないほうの拳が、かるく頬に当たった。
「そういうことだ」
「悪かった。こんど、ちゃんと殴られる」
「そうしてくれ。そちらも、言いたいことは山ほどあろう。だが、いまはまず、樊城を出ることを最優先に考えよう。
俺のほうから状況をかいつまんで言うと、まず斐仁が新野に戻り、主公に援軍の要請をしに戻った。そして俺と黄漢升が樊城に戻ったのだが、俺を侵入させるために、黄漢升は俺のフリをして、正門にて、ひとりで戦っている。だが、以前の同僚という男がいて、そいつが助っ人に向かった。正門の兵士たちが城内になだれ込んでこないところを見ると、まだ保っているのだろう。
ただ、城内は混乱しているとはいっても、脱出口が見つからないのが現状だ。強行突破になるが、動けるな? 怪我はないか?」
「怪我はないよ。あなたのほうこそ、大丈夫か?」
「これはすべて返り血だ。ひどい顔色だな。なにをされた」
「なにも…そうだな、わたしのほうも状況を説明しよう」
孔明は、いままでのいきさつを趙雲に話して聞かせた。
趙雲は、ときおり瞑目し、じっと黙って孔明の話を聞いている。
「劉州牧が『壷中』の総元締めか。しかも梅毒とは、ずいぶんと浅ましい病に罹ったものだ」
潔癖な趙雲が、最初にもらしたのはその言葉であった。
「花安英に助けられたよ。彼がいなかったら、いまごろは、あの城門に飾られている男のようになっていたかもしれない。ともかく脱出するのもそうだが、まずは『壷中』の子供たちを助けなければ」
「みな、風狗とやらに殺されたのではないのか?」
「わたしが見た死んだ子供は、ほんの数人だ。もっと大勢の『壷中』がいる」
「自力で逃げたのなら、もうそれでよいではないか」
「彼らが自分たちの力だけで、ふたたび世間に馴染めるとは思えないのだ。いまのわたしの立場ならば、彼らを擁護し、すこしずつ世間に馴染ませてやることができる」
「子供たちを助けるまで、ここを出ないというのか」
「そうだ。それに花安英は、風狗を倒しに行った。これも止めねばならぬ」
「『壷中』の者たちとともに樊城から逃げ、かつ、花安英と風狗を止めねばならぬのか」
「そうだ」
孔明がつよく肯くと、趙雲はかるくため息をついて、肩の力を抜いた。
「俺はお前と言う人間にだいぶ慣れてきたと思う。止めても聞かないだろうな。ただ、ひとつだけ言わせてくれ。おまえが彼らのことを擁護しても、彼らは逆におまえと叔父君を恨んで、かえって仇為すようになるかもしれぬ。それどころか、ふたたび闇に舞い戻ってしまうかもしれぬ。それでもかまわぬのか」
「もとより、人を引き受ける、というのはそういうことではないのかね。意のままにならなくなったという程度で、わたしは人を恨みに思ったりしないさ。思う結果が出せなければ、そのときにまたどうすればよいか考えればいい。見るべきものさえしっかり見ていれば、それほど悲惨な結果にはならないと思うよ」
血まみれの姿で、趙雲はあきれて言った。
「この期に及んで、たいした楽観主義だな。性善説か?」
「いいや、単に自分を信じているだけだ」
趙雲は、しばらく孔明の顔をじっと見ていた。
なにを考えているのかわからず戸惑っている、というふうではなく、むしろこれから起こるであろうことを楽しんでいるように見える。
強面の無表情にめずらしく笑みが浮かんでいた。
が、ふと笑みをひっこめ、趙雲は踵をかえした。
「どこへ?」
「風狗の狙いがわからぬが、まずはそいつを捜さねばならぬだろう。仲間たちを殺して回っているようだからな。それと」
「それと?」
趙雲は背中を向けたまま言う。
「もしこれから先、うまくいかなくなっても、俺は、わずかばかりのことしかできぬかもしれぬが、まあ、一緒に泣いてやるくらいのことはできる」
孔明は、ようやく強ばり続けていた全身の力が、ゆるやかに抜けていくのを感じた。
「ありがとう、子龍」
言うと、趙雲は照れているのか、なにも言わずに、わかった、というふうに手を軽く挙げた。
「あの」
不意に声をかけられ、孔明はぎょっとして、白髪の者のほうを見た。
孔明があらわれてから、廊下の隅っこに隠れていた白髪の者は、孔明と趙雲の前にあらわれると、なにも移さない濁った目を、それでもしっかり二人に向けて、丁寧に作法どおりの拱手をした。
孔明は、白髪の者が心を失っているのだと思っていただけに、不意に発せられた言葉にただおどろく。
その気配を感じたのか、それまで表情らしい表情をまるで浮かべなかった白髪の者が、わずかに口はしに笑みを浮かべた。
そうして口を開く。その声は、少女のように高く、大人のように落ち着いていた。
「わたくしは樊城から脱出するための抜け道を存じております」
「まことか」
白髪の者のほうに向き直った趙雲に、その気配でわかったのか顔を向けた。
少年か年寄りか、正体のわからぬ白髪の者は言った。
「はい。ただ、お二方にお願いがございます」